その日、チーム〈プルート〉には「スポーツ×hUMAn」とは別番組の取材班がやってきていた。
練習場のスタンドに腰かけているあたしの耳に、若いアナウンサーの声が聞こえてくる。
「さて、今年に入ってからますます快進撃が止まらない大注目のチーム〈プルート〉ですが、プルートのチーフでいらっしゃいます河沼ナギサトレーナーに今日はお話を伺いたいと思います!」
トレーニングコースの外側で、トレーナーは一人、マイクを向けられていた。まもなく始まる春のGⅠシーズンに向けて、学園内ではレース中継や特集番組で放送されるインタビューの収録があちこちで進められている。その中で我らがチーム〈プルート〉は、注目度の高さではカペラやシリウスにも引けを取らないくらいの位置にいた。
(まあ、それも当然だよね)
別に意外なことでもない。なぜって、あたしたちのレース成績はここ最近、特に年明け以降、客観的に見ればとんでもなく好調だったからだ。
テンダーの日経新春杯から始まった今年のプルートは、あたしの中山ウマ娘ステークス、そしてショコラのフィリーズレビューと、ここまで出走した重賞すべてで勝利を上げている。強い一人が単独で勝ち続けるんじゃなくて、別々の三人がそれぞれに勝って作り上げた連勝記録の価値は大きい。あたしたち選手だけでなく、指導するトレーナーの評価もおのずと上がることになる。
「今年の桜花賞にもプルートのメンバーが出走するとあって、期待する声も聞かれますが、感触はいかがですか?」
「ええ、ショコラレインに関しては、そうですね、なんとか……。本質的にはまだ距離の問題がありますけど、去年のJFの時よりは明らかに、阪神千六っていう条件もクリアできる状態に持っていけるかなと思っています」
風の音に混じって聞こえてくるトレーナーの受け答えに、あたしはただ頷いていた。
(ショコラなら、きっと、勝てるよね)
……あたしとは、違うから。そんな言葉を、無意識に付け加えてしまう。
ショコラのフィリーズレビューは、目の覚めるような完ぺきな走りでの勝利だった。スキが無く、指示通り、想定通りの強い勝ち方。何十回同じメンバーでやり直しても負けることはないだろうと思えるくらい、見事なレースだった。
一方であたしの方は、結果としては勝ったものの、その内容はひどい有様だった。
あんな無茶なまくりで前に出られたのは、千六ほど忙しいレースじゃなかったから。あんなガス欠を起こしても逃げ切れたのは、二千ほど長くなかったから。マイルや中距離でのGⅠタイトルを目指すあたしにとって、こんなどっちつかずで中途半端な勝ち方、手放しで喜べという方が無理だ。ボンもトレーナーも、口にこそ出さなかったけど、祝勝会では祝福の言葉と一緒に絵に描いたみたいな結果オーライの苦笑いをくれた。
ただ一人ショコラだけが、無邪気にはしゃいでいた。
『先輩が前日に勝ってくれたんで、私も絶対続きたいって思ってたんですよ! 一緒の週に勝てて、本当に嬉しいです!』
あの子のことだからきっと本当に嬉しかっただけで、何の他意も無いんだろうなとは思う。でも、その時のあたしは妙な恥ずかしさときまり悪さで、あんまり良い雰囲気の返事をしてあげられなかった気がする。気がするっていうのは、正直なところ自分が何て答えたのか、よく覚えていないから。
「……はあ」
グループLANEの履歴には、表彰式で満面の笑みを浮かべているのショコラの写真がドンと存在感を放っている。送信時刻は、レース当日の16時50分。撮影会やインタビューが終わってからウイニングライブが始まるまでのほんのわずかな時間に送ってきてくれたものだ。
後輩の成長や活躍は嬉しい。でも、それ以上に言いようのない焦りが胸の中をむずむずさせる。
(早いよ、ほんと)
去年勝ったファンタジーステークスと距離は同じだし、着差もそう変わらない。スタッツだけを見れば、もともと強い天才少女が順当に才能を発揮しただけ、と感じるかもしれない。でも、ずっと間近で見てきたあたしにはわかる。すでにショコラは、以前とは全然違うレベルにいる。鉄ゲタ蹄鉄の効果か、それとも急速に進んだ本格化の影響か、どっちにしても、今のあの子は短距離だけじゃなくもっと長い距離にも対応できるようになっているはずだ。
「やっぱ、そんな簡単じゃないね。クレセント」
迷っていたあたしの背中を押してくれたはずのチームメイトの名を、そっと呼んだ。
彼女が怪我から帰ってくるまでの間、しばらくはあたしがチームのエースだなんて意気込んでいた。そうしなきゃと思ったわけじゃなく、そうしたいと思ったから。だのに、現実は散々格好をつけておきながら、自分が一つ勝ちを拾うだけで青息吐息だ。しかも、原因は毎度おなじみの集中力の無さ。余計なことを気にして、気負いすぎて、しなくていいことや考えなくていいことに手を出して。同じようなことを何度繰り返すつもりなんだか、自分でもあきれてしまう。成長著しい後輩に比べて、情けないったらない。レースに勝ったのに、こんな惨めな気持ちになったのは初めてのことだった。
こんなんじゃ、チームの成績を引っ張るようなエースの背中には程遠い。
改めて、クレセントの偉大さを感じた気がする。彼女だって、家族との関係だの、路線変更への批判だの、怪我のリスクだの、あたしとはまた違ったたくさんの雑音にずっと囲まれ続けてきた。それでも、いざレースに向かう時になれば、あたしみたいにキョロキョロよそ見をしたり、不安に駆られて縮こまったりする姿なんて、一度も見せたことはなかった。
「——というわけで、チームとしては桜花賞二連覇を目指すことになると思うのですが、ファンの皆様も気になっていると思います、昨年の勝者レイアクレセントさんの現状はお聞かせ願えるでしょうか。復帰時期や回復具合など、お話しできる範囲で構いませんので」
「そうですね、思っていたより順調には来ていると思いますよ。ただまあ、才能あるウマ娘ですので、その分本気で走れば負荷も大きくかかりますし、あまり急がせたくないなと思っています。本人も、以前より強くなってから復帰したいと言っていますからね。時期は、お楽しみということで」
取材の話がそこまで聞こえたところで、パシャ、とシャッター音が近くで鳴った。不意を突かれたあたしがギョッとして目を向けると、すっかり見知った顔になったあたし付きのカメラマンとディレクターが、すぐそばに立っていた。よく見れば、その後ろにボンもいる。
「今日はビデオじゃなくて、写真ですか」
「はい。あ、こっち見なくていいですよ。意識しないで、自然にしててください」
気づいちゃったら、意識するなってのも難しい。頬のあたりが妙にひくひくする。
「今日はちょっと、テンション低めですね」
ディレクターが話しかけてくる。そんなことないですよと答えることもできたけど、あたしは何にも言わなかった。自然にしていろとリクエストしたのは相手の方だから。
「中山ウマ娘ステークス、素晴らしかったじゃないですか。初めての一八〇〇メートルだったのに、結構力の差を見せつけるというか」
元気づけるつもりで言ってくれた言葉が、今は痛い。
「Dさんには、そう見えました?」
「……あ、ご自身では、あんまり?」
視線の先にピントの合わないトレーナーの姿をとらえながら、少しパサついた尻尾の毛先を指で撫でつける。
「すごい贅沢なこと言ってるってのは、わかってるんですけどね」
生涯かけて一勝も挙げられないままターフを去っていく子たちがたくさんいるこの世界で、重賞を勝っていながら満足できないだなんて、冷静に考えればめちゃくちゃな話だ。母さんからも、勝利報告の電話をしたときに同じようなことを言っていた。
「でもあれは、あたしにとってはほとんど負けみたいなものだったから」
勝てばなんでもいいでしょと思いたい気持ちもある。一方で、将来のことを考えたら不安しか残らないレースだったのも事実。
「ねえ、ボン?」
急に話を振られたボンは、ディレクターの「そうなんですか?」という問いに、やっぱり困ったように笑っていた。
「理想はまだまだこんなもんじゃない、って感じですかね」
これ、ものすごくストイックな奴に見えてる? まあ、それもそれでアリか。
「弱いんです、あたし。目指してるとこに比べたら、全然」
きっと部外者には、GⅠ勝利に向けてもっと体を鍛えなきゃ、みたいなセリフにしか聞こえない。もちろんそれも必要だけど、今のあたしに必要なのは、もっと違う、根本的な話のような気がする。他人に理解できるように説明するのは難しい。ほんとのところ、あたしは自分自身でもよくわかっていないんだと思う。
その時だった。
「誰が弱いですって?」
柔らかく、それでいて厚みのある声が突然背後から降ってきた。
「カイ!?」
「アロハ! ルピナスちゃんにボンちゃん。Dさんも」
ディレクターたちはいきなり現れた菊花賞ウマ娘の姿を見上げて、興奮気味に会釈をしている。
「ど、どうしてカイが」
「寂しかったわよ。最近全然おしゃべりしてくれないんだもの」
パレカイコはそう言って前髪を掻き上げた。
言われてみればそうかもしれない。あの菊花賞以来、あたしたちは同じ時間を一緒に過ごすことはほとんど無かった。
「しょうがないじゃん。あたしたち、本格的にレース忙しくなっちゃったんだから」
「そうかもね」
あたしがマイルCSから戻ってきたと思ったら、パレカイコの方は年末の有マ記念に向けて特訓に出かけ、それが終わった途端に冬休みに入ってしまった。春になってもそれぞれの特訓のタイミングが重なって、すれ違うことばかり。チームに所属する前はボンと同じくらい一緒にいることも多かった友達なのに、妙にこのところ疎遠になっていた。
「ルピナスちゃん、おめでとう。重賞二勝目」
「それを言いに来たの?」
そう尋ねながら彼女のルームメイトでもあるボンの方をちらりと見ると、ボンは意味ありげに肩をすくめて見せた。手回しが良いのは、師匠譲りかもしれない。
「半分はそれだけど、もう一個、別のお話があって。座っても、いいかしら?」
「いいけど」
返事を聞いたパレカイコは嬉しそうに肩を揺すって、あたしのすぐ横に腰を下ろした。あまりに近すぎて、太い褐色の二の腕がこっちの頬にめり込むくらいだったけど、当の本人はまるで気づいていない様子で、クスクス笑い声を漏らしながら話しはじめた。
「ホープちゃんは、元気?」
「あえ?」
まさかそこを聞かれるとは思っていなかったあたしは、頓狂な声で反応してしまった。
「びっくりしたのよ。ホープちゃん、次走は日経賞だって発表したでしょう? ワタシ、てっきりホープちゃんは阪神大賞典から始動するものだと思ってたから」
「ああ……」
実際、ホープの次走はそうなるはずだった。春の天皇賞を目指すホープにとって、弾みをつけるための前哨戦としては、二五〇〇メートルの日経賞よりも三〇〇〇メートルで競われる阪神大賞典の方が向いている。ついこの間まで、あたしたちもそのつもりで遠征の準備をしていたくらいだ。
「あたしも、驚いたんだけどさ」
あたしとショコラのレースが終わった週明けのミーティングで、トレーナーは突然、予定を変更してホープの次走は大賞典翌週の日経賞になると宣言したのだった。
「一応聞くけど、怪我が見つかったとかじゃ、ないわよね?」
「無い無い! 全然! ……え、無いよね、ボン?」
ボンは黙って首を横に振っていた。……まあ、仮にあったとしても、別のチームの選手にそんな情報流せるわけないんだけど。
「でもなんでカイがそんなこと心配するの。まさか、アンタもホープに惚れてんの?」
「ワタシ、好きよ? ホープちゃん」
「え、マジ?」
「だって白くて小っちゃくてウサギちゃんみたいじゃない」
こういう奴だった。冗談で言ったことの返事にムキになったあたしがバカみたい。
「だから、嬉しいの」
「何が」
自分の単純さにうんざりしていたあたしは、ぶっきらぼうに言い返した。別に、本気で聞いたわけでもない。相槌よろしく、ポンと投げつけるだけのつもりで言っただけ。
だから、打ち返された思いもよらない言葉に、面食らってしまった。
「ほら、ワタシも、日経賞から始動するじゃない?」
きょとんとするあたしに、パレカイコは不思議そうな顔で言った。
「先週のホームルームで、ワタシたちの今期の初戦について発表したでしょ? フォーミュラは大阪杯、ワタシは日経賞って。ルピナスちゃんも、いたはずよ?」
「……そうだっけ」
「ヒドいわ。聞いてなかったの?」
ドン、と肩を当てられて、ベンチから転げ落ちる。ワタワタしながら這い上がったあたしの目に入ったのは、愛嬌のあるどんぐり眼の奥で静かな闘志を燃やしたパレカイコの顔だった。
「ワタシ、思ったのよ。もしかしてホープちゃんは、ワタシと勝負するために、日経賞に出るなんて言ったんじゃないかって」
表情こそ真剣だったけれど、あたしにはその顔が、心なしか嬉しそうにも見えた。
「訳あって調整が遅れたとかじゃなくて、わざわざ選んだのなら、ね」
「……多分、わざわざ選んだんだと思う、よ」
確証なんて無い。でも、去年の神戸新聞杯の時も、ホープはホープなりに考えがあって、一発勝負の賭けに出た。ならきっと、今回の変更だって、何か思惑があるはず。その辺の戦略に関しては、あたしなんかよりもずっと冷静に判断できるだろうから。
「ありがとう。それが聞きたかったのよ」
「なんでよ。そんなの、ボンに聞いた方が……」
当たり前だけど、ホープのローテーションや体調については、トレーナーが一番詳しい。その次は、助手のボンだ。いくらルームメイトだからって、あたしに聞く意味なんて無いはずなのに。
「ルピナスちゃんの口から聞きたかったのよ」
どうやら、謎のこだわりらしい。
「じゃあ、ワタシ行くわ。追い切りの準備しなきゃ」
「あ、うん」
ガタンと大きな音を立ててベンチから立ち上がったパレカイコは、妙にすっきりとした表情をしていた。
結局、何しに来たんだろう。あたしとおしゃべりしたかっただけなのか、それとも取材の様子に割り込みたかったのか。何となくどちらでもないような気がするけど、はっきりこれだというものが掴めない。解消されない疑問を抱えたまま、ウェーブのかかった長い黒鹿毛が揺れる大きな背中に向かって、あたしは一言だけ送ることにした。
「頑張って」
言った後で、チームメイトのライバルに向かって言うセリフじゃないなと思った。向こうも同じ事を思ったようで、あたしに背を向けたまま、吹き出すのをこらえるかのように肩が上下するのが見えた。
肩の動きが止まった後、パレカイコは思い出したようにぽつりと呟いた。
「そうだわ」
そうしてこちらにくるりと振り返った。いつもみたいな、大きな顔をくしゃくしゃにした愛嬌のある笑顔……ではなく、硬く、こわばった顔で。
「カイ?」
あれ、と思ったのと、パレカイコが口を開いたのは同時だった。
「ホープに伝えておいて頂戴」
それは今まで彼女の口から聞いたことがないくらい、低く、突き放すような口調だった。
「あなたたちはもう、ふわふわのウサギちゃんじゃないのよって」
ハワイの血を引くカリフォルニア生まれのウマ娘はそう言って、眉を一度ピクリと動かすと、ぽかんとしているあたしや、ドキュメンタリー班のスタッフたちを残して、のしのし足音を鳴らして去っていった。
「……どういう意味だと思います?」
あたしの問いには、ディレクターも首をかしげるばかりだった。カメラマンに至っては、別のことを考えてそわそわしているのがわかる。さっきから時々聞こえていたシャッター音と、あたし一人残った今聞こえてくる音が、なぜだか違って聞こえるから。
「大きいですね、彼女」
ディレクターがこぼした言葉を聞いたあたしは、何も言わずにジャージの上着の前を開いたのだった。
〇
「なんだ、いたの」
寮の部屋へ戻ると、珍しくルームメイトが既にいて、机に向かってノートに何やら筆を走らせていた。
「いちゃ悪いか」
「別に」
プルートの方針では、一週前の追い切りはややキツめに仕上げることになっている。真っ白な髪に目立つ土埃が、今日のトレーニングの激しさを物語っていた。
「お風呂は?」
「行きたきゃ先に行けよ」
じゃあお先に、と普段なら言うところだった。でも、今日は何だか不思議と身体が萎えて、そんな気になれない。制服のリボンを解きながら、どさりとベッドに腰かける。
「ねえ、ホープ」
返事は無い。でも、構わない。
「何で、日経賞にすることにしたのか、聞いてもいい?」
やっぱり返事は無かった。それが答えか。
「カイも出るんだってね。あたし、全然聞いてなかった」
「……キミはそういうヤツだよな」
やっと何か言ってくれたと思ったら、どっかの国語の教科書に載ってそうなイヤーなセリフ。
「取材はどう? レースが近いから、結構色んな事聞かれるでしょ。レース番組の方も、ドキュメンタリーの方も」
「知らないよ。ナギサに任せてるから」
声色にイラつきが混じってきた。これはそろそろ本気でウザったいと思いはじめてる頃合いだ。キレられる前に伝言は伝えておかないと、話ができなくなってしまう。
「あのさ、カイが言ってた言葉なんだけど、アンタに伝えてって」
右の耳がピクリと動いた。
「『あなたたちはもう、ふわふわのウサギちゃんじゃないのよ』だって」
もう一度、今度は両耳が動いた。
「意味分かんないよね。あたしも、全然——」
「嫌な奴だな」
鋭い一刺しだった。
え、と顔を上げたあたしとは対照的に、ホープはこっちをチラとも見ずに、おんなじ姿勢のまま背中であたしの言葉に向き合っている。
「嫌な奴って、カイが?」
「他にいるかよ」
今度、返事に詰まるのはあたしの方だった。
パレカイコは小さなころから——アイツに小さなころがあったってのも不思議だけど——ずっとエリートで、あのレイアフォーミュラ相手にクラシックタイトルまで獲って、何もかもが順風満帆にさえ見えるくらい、あたしたちとは対極にいるウマ娘だ。だけど、うらやましいと思ったことはあっても、嫌な奴だなんて思ったことは一度だってない。いつだって優しくて、楽しそうで、明るくて、どこからどう見たって、良い奴だ。
あたしの沈黙に向かって、ホープはノートのページをペラリとめくって、投げつけるように言った。
「ウサギってのはね、何かと楽なんだよ」
「何それ、分かるように言ってよ」
ホープはもうそれ以上、何も教えてはくれなかった。