ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#60-自由になれる場所

 三月の第四週に開かれる日経賞は、暮れのグランプリと同じコース条件で行われる。違うのは、ターフを取り囲む木々の色。寒風に晒された茶色い枝の一群は、季節の移り変わりとともに薄桃色の衣を纏い始めている。

 

 春らしくて綺麗な眺め、なんてのんきなことを考えていられたのはほんの短い間のこと。それからいくらも経たないうちに、あたしたちはチームメイトのゲートインを固唾を呑んで見守っていた。

 

 楽屋に入るな、話しかけるなと言い渡されていたあたしたちは、黙って遠くから見つめることしかできない。ここ最近ずっと帯同している取材カメラも、地下バ道の手前で追い返されたらしい。

 

「ホープさん、大丈夫かな」

 

 テンダーが心配そうに言った。

 

「わかんない。でも、追い切りの動きは悪くなかった。取材が始まってからは、かえってレースのことに集中できてるみたいだったし……」

 

 知っている限りのことを、話して聞かせる。テンダーの心配を解くというよりも、あたし自身の不安を覆い隠すために。

 

 距離を置いていたはずの親族の影が忍び寄ってきてから、初めての公式戦。今週のメインレースなだけあって、当然地上波でも中継されている。となれば、どうしたって嫌な考えがちらついてしまう。

 

 見ているはずだ。ホープにとって最悪の相手が、この国のどこかで。

 

 いつも冷静なアイツだって、こんな状態で平常心ではいられないはず。それでも、内寄りの三番枠におさまった小柄な芦毛は、普段と何も変わらない様子に見えた。

 

「にしても、やっぱりちょっと寂しいですね。九人立てって」

「あはは、確かに。ひとケタってのは少ないなって思うよね」

 

 素朴な感想をこぼすショコラの言葉は、あたしの頭から不愉快な想像を引きはがしてくれる。

 

「しょうがないよ。菊花賞で一、二着取ったうえに、シニア級相手にも結果出した二人が出てきてんだもん」

 

 パレカイコは有馬記念でレイアフォーミュラの二着。ホープはステイヤーズSで優勝。長距離ではすっかり強豪の一角となった二人に勝負を挑もうというのは、なかなかタフな話だ。少人数立てになるのも致し方なしだろう。

 

「まずは菊のリベンジといこう、ね」

 

 気を取り直して、ゲートの中にいる友達へ向かって小さくそう呼びかけた直後、おなじみの軋むような金属音が鳴り響いた。

 

『スタートしました』

 

 レースは、事前に予想された通りの展開で進んだ。パレカイコが番手で進み、ホープは最後方から。人数が少ないせいか、皆どことなく落ち着いた雰囲気で、ゆったりと一周目の正面スタンド前を通過していく。

 

 残り一〇〇〇メートルを切ったあたりから、ホープがじわじわと進出を開始する。跳びの大きなストライドで、前方の一団を捉えにかかる。八〇〇の標識を通過したところで、パレカイコも先頭に立つ。菊の舞台でぶつかり合った二人が、春の中山でもロングスパート勝負。客席は一気に沸き立った。

 

「あれ?」

 

 そんな熱狂のスタンドに立っていた観衆の中で、後方からまくってくる二番人気の手ごたえに違和感を持った人は、どれくらいいただろう。

 

「こんなもん?」

 

 あたしは思わず、首をひねった。

 

 先頭を行くパレカイコが、ぐんぐん後続を引き離して最終直線へと入ってくる。一方でホープもようやく二番手に立ったけれど、前との差は一向に縮まらない。むしろ開いている。おかしい。バ群に飲み込まれはしないけれど、まるで脚がぴたりと止まったみたいに、そこから伸びてこない。

 

 距離が短すぎるせいだろうか。それとも、一完歩の距離が長いホープには、小回りの中山のコーナーでエンジンを掛けきるのは難しいんだろうか。二位集団の先頭に甘んじたまま、パレカイコの独走を許す光景は、少なくとも、あたしの目には異様に映った。

 

『強い強い! パレカイコ、これはもう決まったか! 二着にホープアンドプレイ追いすがるが、差は縮まらない! 春の盾に向かって視界良好、パレカイコ圧勝でゴールイン! 桜色の中山に、漆黒の極楽鳥が舞いました!』

 

 どよめきに近い歓声と拍手が一斉にターフへ降り注ぐ。誰もがパレカイコの強さにため息を漏らしながら、驚きと少しばかりの恐怖の入り混じった称賛の言葉を口にしている。

 

「ルピナス先輩……」

 

 ショコラの力ない声が、あたしの耳を叩く。異変を感じ取ったのは自分だけじゃないと確信させる一言だった。

 

 結果としては二着。それ自体は、さして驚くことでもない。パレカイコは本当に強いウマ娘だし、距離の点からいっても、三〇〇〇メートル未満ではまだまだホープの方が不利。リベンジ、とは言ったけれど、冷静に考えればホープが勝つ可能性は小さかった。それなのに、割り切れない何かが引っかかる。

 

(ちょっと、負けすぎじゃない?)

 

掲示板には、着差の欄に6と表示されている。六バ身差。しかも、あたしの見間違いでなければ、パレカイコは最後、完全に流していた。ゴールの瞬間まで緩めずに走っていたら、八バ身や九バ身以上の差がついていてもおかしくない。菊花賞であれだけギリギリの戦いを演じた二人が、ここまで明暗が分かれるなんてこと、あるだろうか。

 

(……違う。そんなことは重要じゃない)

 

 間違った結論に行きかけたあたしは、最終直線の光景を記憶の中でもう一度リプレイする。パレカイコが四コーナーを回ってきて、それからホープが後続集団の先頭で入ってきて……。その時点での二人の差は四バ身程度だった。見ていた角度のせいで多少のズレはあるだろうけど、少なくとも六バ身とまでは離れていなかったはずだ。

 

 そしてそこから、パレカイコだけが伸びる。ホープは伸びない。パレカイコは最後の一〇〇メートルくらいを思いっきり流して……つまり、直線の三分の一は力を抜いて走っていた。

 

 それなのに。……そう、それなのに、むしろ差は開いた。今思い返してみれば、三番手以下との差の方が、むしろ詰まっていた。

 

 ホープにとっては短すぎるくらいの、たった二五〇〇メートルで。かかったわけでも、前が壁になったわけでもないのに。

 

「まさか」

 

 あまりにも嫌な発想が頭をよぎった。慌ててまだターフの上にいるホープに目を移す。どっちがマシかなんて考えたくもないけれど、もう一つ別の可能性を確かめなくちゃと思ったから。

 

 あたしの目が捉えた芦毛のウマ娘は、もう一回同じレースをしても平気だといわんばかりに、実に軽い足取りで駈歩を続けていた。

 

「先輩」

 

 ショコラの声は、もう震えていた。

 

「私、すっごく、すっごく嫌な予感がします」

 

 結論に至ったのは、あたしより早かったんだろう。優秀なこの子なら理屈なんかなくたって、本能で感じ取ったはずだ。

 

「もしこれが本当なら、絶対……絶対、ダメです。私たちは、応援してくれる人たちがいるから……だから……」

 

 核心を突く言葉を懸命に避けながら、ショコラは何とか逃げ道を探しているようだった。だけど、もうあたしにも、優しい嘘を言ってあげられる余裕はなかった。

 

 ——分かっていたはずでしょ。

 

 あたしの冷静な判断力が、そう告げている。

 

 ——なんで、ホープの身体の心配よりも、そっちを先に思いついたの。

 

 明白だった。

 

 あたしは、見ていた。

 

 最後の直線に入ってきたホープの目が、ちっとも前を見据えていなかったのを。

 

  ○

 

 地下バ道にホープを迎えに行った後の出来事は、忘れようにも忘れられない。

 

「来なさい」

 

 トレーナーの低い声が、短く、けれどあたしたち全員を貫く鋭さで響いた。

 

 楽屋へと足早に引き上げていくトレーナーの後ろを、芦毛の少女は表情一つ変えずについていく。自分が何をしたのか、なぜこれほど指導者が殺気立っているのか、分かっている者の態度だった。

 

「トレーナーさん、みんなは」

「外で待たせて」

 

 助手の問いを遮る勢いで答え、トレーナーは無言で楽屋の中を指さした。指示に従ってホープが中へ入ると、あたしたちの反応も待たずに扉はピシャリと閉じられた。

 

「ちょっと、ロビーの方で待ってよっか」

 

 残念ながら、ボンの提案に頷くメンバーは一人もいなかった。

 

「うわぶっ、ダメだよ、みんな!」

 

 阻止しようとするトレーナー助手を押しのけて、あたしたちは全員、扉の向こうの音に耳をそばだてた。

 

 最初に聞こえてきたのは、トレーナーの深呼吸だった。二度、三度と繰り返すたびに、かえって苦しそうになっていくそれは、やがて感情を押し殺したうめき声に変わった。

 

「ホープ。はじめにひとつ聞かせて。……脚が痛むの?」

「全然」

 

 一欠片もためらいの無い即答だった。

 

 ますます大きくなった苦悶の声からは、次第に隠し切れない怒りの匂いが滲み出していく。

 

「あなた、自分がしたことの重大さを理解してる?」

「着順は落とさなかったよ」

「そういう問題じゃないの!」

 

 ぐしゃり、と音がした。同時に、トレーナーの声が聞こえてくる位置が、ホープの声のそれよりもぐっと低いところになった。

 

「お願い。もう二度と、あんなことしないで」

「……いざとなったら、制裁を食らうのはボクだよ」

「だから、そういう問題じゃないの! どうしてわからないの!」

 

 ヒステリックな叫び声と入れ替わりに、すすり泣きが扉の隙間からあふれ出してきた。

 

 想像もしていなかった状況に、その時のあたしたちは全員、混乱していたと思う。姿が見えないせいで、本当にこれがあのトレーナーの声だなんて信じられない気持ちだった。

 

「何言ってんだよ。今日のレースは、頑張ったって勝てなかった。ナギサだってバカじゃないんだから、それくらい分かるだろ」

「だとしても、手を抜いていい理由なんかにはならないの!」

「分からないな。何をそんなに怒ってるんだか。無理したって勝てないなら、次に向けて少しでも力を温存する。当然の戦略じゃないか」

 

 嘘だ、と思った。あの走りは、次に向けた戦略的なものなんかじゃない。ただ勝ちを放棄しただけの無気力レースだ。それはもう、ここにいる全員が察している。

 

 一体どうしてそんなことをしたのか。秘密を知らない他のみんなには謎でしかないだろうけど、あたしには、何となく見当がついた。

 

 そしてトレーナーも、あたしと全く同じ推理を働かせているようだった。

 

「……目立たない方がいい、と思ったの?」

 

 ホープは何も言わなかった。トレーナーの声がまた一段階大きくなる。

 

「それじゃあなたは、ちち——」

 

 ビクン、と手が震えた。冷静さを失ったトレーナーから、他のみんなに聞かれてはいけないはずの言葉が飛び出しかけて、自然とあたしの動悸が激しくなる。どうしたのかと聞かれたら、上手くごまかしきれなかったかもしれない。

 

「あ、あれ?」

「急に静かになりましたね……?」

 

 幸いにして、テンダーもショコラも中の様子に夢中になっていたおかげで、あたしが一人冷や汗をかいていたことについては何も言われなかった。

 

 しばらくして、トレーナーはもう一度仕切り直した。

 

「……あなたは、自分の人生を縛り付けてくるもののために、あなた自身を傷つける道を選んだって言うのね」

「そんなこと言ってないだろ」

「そういうことになるの!」

 

 テンダーとショコラは、互いによく分からないといった感じで目を合わせていた。

 

 しゃくりあげながら息を吐きだすトレーナーの声は、今にも崩れそうな歪んだ調子で、相変わらずいつもよりも低い位置から聞こえてくる。

 

「ホープ、あなたにとって、一番自由になれる場所はどこ?」

 

 何言ってんだ、と眉根を寄せるホープの顔が目に浮かぶようだった。トレーナーは答えを待たずに、鼻を一度かんでから、力を込めて言った。

 

「ターフの上でしょう!」

 

 それは気持ちいいくらいの、明快な答えだった。

 

 ホープにとってだけじゃない。あたしにとっても、レースで走るコースの上は、一番自由な場所だ。あそこでは、自分が出せる限りの力を、好きなように発揮できる。もちろん、駆け引きや位置取り争いのせいで、何でも思い通りになるわけじゃない。だけど、少なくとも自分がどうしたいか、どうなりたいかを表明するのに、誰にも気兼ねしなくていい場所だ。

 

「ゲートが開いたら、あなたはもう誰にも止められない。止める権利も、手段も、誰にも無いから」

 

 視界の端で、ボンが小さく頷くのが見えた。

 

「今日あなたがしたことは、そんな大切な場所を、自分で壊してしまう行為なの」

 

 ホープからの反論は聞こえてこなかった。

 

「あのー……?」

「ひぁっ!」

 

 後ろから近寄ってきた声に、あたしたちは悲鳴を上げて飛び上がった。見れば、密着取材中の例の番組カメラマンと、ディレクターだった。バ場入り前に追い払われたおかげで今日の撮れ高に不満があるらしい二人は、いつもよりも幾分前のめりになっていた。

 

「そろそろ、入らせてもらっていいですかね?」

「あー、えーと、そうですね! 今、レース後の反省会で取り込んでて……!」

 

 わざと大きな声で答える。扉の向こうにいるトレーナーにも聞こえるように。

 

「え、じゃあなおさらお願いしますよ。すみません、途中からでもいいんで……」

 

 そう言って押し入ろうとするテレビマンと揉み合いになっているうちに、楽屋の扉が内側から開いた。

 

「取材ですか」

 

 トレーナーはやけにさっぱりした顔で、にこやかに応対していた。

 

「ごめんなさい、汗でお見苦しいところを……この子のステージもあるので、一旦、メイクを直す時間だけいただけますか?」

「ええ、構いませんよ。もしよければ、ホープさんのステージメイク中の画もいただきたいなあ、なんて」

 

 ホープは黙って、こっちをちらとも見ずにドレッサーの前に腰かけていた。

 

  ○

 

「んほー、つめたぁー!」

 

 熱くなったおでこに濡れタオルを当て、軽く目をつむる。火照った身体が、冷たいシャワーを浴びたみたいにすうっと冷えていく感じがして、気持ちいい。

 

 日経賞のあれこれから一夜明けて、気怠い月曜日を何とか乗り切ったあたしは、一人ロッカールームのベンチに寝そべっていた。

 

 早く着替えて出ろ、と自分に言い聞かせたいところなのだけれど、今日はもう少しクールダウンの時間が欲しい。身体の方じゃなく、頭の方の。授業中も、放課後のトレーニング中も、昨日の扉越しに聞いた音が頭の中に何度も蘇ってきて仕方がない。

 

 大の大人が、なんて言ったら失礼かもしれないけど、大人なはずのトレーナーが教え子の前で涙を流して声を荒げる様子は、なかなかに衝撃的だった。

 

 ただ、気持ちは理解できる気がする。あたしだって、一番ショックだったのはトレーナーの取り乱し具合よりも、ホープのわざと負けに行くような走りを見せられたことだ。出走権狙いと割り切っていたはずの去年の神戸新聞杯の時だって、昨日みたいなことはしなかった。フォーミュラに千切られていても、届かないのが明らかでも、最後までホープは手を抜かずに走り切っていた。

 

 だからこそ、あんな姿は見たくなかった。

 

 あの口ぶりだと、阪神大賞典をキャンセルして、わざわざパレカイコのいる日経賞に出走予定を変更したのも、負けるためだ。

 

 それもこれも、あまり派手に目立つと面倒な相手——つまり父親に——目を付けられるのが、嫌だから。みんなが聞き耳を立てていたせいで、ホープもトレーナーもハッキリとは明言しなかったけれど、つまるところ、そういう理由に違いない。というより、それ以外ありえない。能天気に「そうなの?」なんて聞けるほど無神経じゃないから、確かめる術はないけれど。

 

 どうしたらいいんだろうな。

 

 昨日からずっと、答えの出せない問いの周りをぐるぐるしてしまう。

 

 トレーナーの思いはとてもよく分かる。分かるし、ここ最近のあたしも、似たようなことを考えてホープを見つめていたんだと思う。

 

 どうせ自由になり切れないのなら、せめてレースの世界では、ターフの上でだけは、アイツらしく思いっきり走っていてほしい。あたし自身がそうありたいと願っているし、ホープには、いつまでも拭えないしがらみを持つ者同士として、あたしの隣で一緒に走っていてほしかったから。

 

 絡みついてくるものに負けて閉じこもっているだけなんて、あまりにも悔しすぎる。惨めすぎる。だからあたしはトレセン学園(ここ)に来た。ここでは、怖いのも、一番の敵も、思い描いた通りになれない自分の弱さだけだ。ホープだって、同じ覚悟でレースの世界に飛び込んだはず。だのにどうして、自ら道を閉ざしてしまうようなことをするんだろう。

 

 ……分かってる。ホープのしがらみとあたしのそれは、もちろん全然違う。ホープに言わせれば、あたしのしがらみなんて、きっと大したものじゃない。同じ家族のことと言っても、周りに認めてもらえなかっただけのあたしと、家族から自分自身を認めてもらえなかったホープとでは、根本的に痛みの質が違う。

 

 結局、これもお節介でしかないのか。

 

 それでも、やっぱり昨日のあれはどう考えても間違ってる。トレーナーの言った通り、ホープ自身が傷つく結果になるだけだ。

 

(消えて無くなっちゃえばいいのに)

 

 大切な仲間を自傷行為に走らせた名前も知らない元凶に向かって、あたしはそっと心の中で恨み節を唱えた。

 

 ちょうどその瞬間、ガチャンと音がしてロッカールームの扉が開き、誰かが入ってきた。口に出していたわけじゃないけれど、悪い言葉を発したところを見られたような気がして、あたしは急いで身体を起こし、何でもない風を装った。

 

「あれぇ、何だルピナス。あんたこんなとこで寝てたのか」

 

 ずり落ちてきた濡れタオルに視界を遮られていたけど、顔を見るまでもなく、声の主が誰かはすぐに分かった。

 

「メリッサ」

「よう。久しぶり。こないだの中山、ひどかったなぁ」

 

 挨拶からの一言に、あたしは一瞬、返答に詰まってしまった。

 

「え……と……」

「ウチの先輩も、大分悔しがってたぞ。『あんなヤケクソ(まく)りに負けたなんて、許せなーい!』っつって」

 

 それでホッと胸をなでおろした。

 

 あたしの中山ウマ娘ステークスのことを言ってるんだ。

 

「ま、まあね……あたしも、あれはミスったなって思ってたから」

「はは、それ聞いたらもっとキレるから、黙っとくわ」

 

 メリッサは脱ぎ捨てた体操着をポイポイとバッグに放り込んで、代わりに銀色の小さな何かを取り出した。

 

「何、それ」

 

 地図アプリでよく見るピンみたいな形をしたものだった。

 

「ああこれ? そっか。あんたには見せたことなかったっけ」

 

 少し照れくさそうにしながら、メリッサはおもむろにそ金属ピンを取り上げると、べっと舌を出して見せた。

 

「え……?」

 

 予想外のことに、正直ギョッとしてしまった。

 

トレーニングとか(ホエーイングほか)レースの時(ヘーフのほき)は、あぶねー(はうねー)から外さないと(はうはないほ)……いけないからさ」

 

 メリッサの綺麗なピンク色の舌には、その真ん中に小さな穴が開いていた。メリッサは器用な手つきでピンを穴に通すと、ニッと歯を見せて笑った。

 

「あんたも、興味ある?」

「な、無いよ! 怖いもん」

「まーいろいろ面倒だけどなー」

 

 別に禁止されているわけでもないのに、見てはいけないものを見てしまったような気がして、つい顔を背けてしまった。

 

「で、ついでだからあんたに伝えとくけど」

 

 すっかり着替えを終えたメリッサは、今日も強い香水の匂いを漂わせながら、まるで天気の話でもするみたいに言った。

 

「モモが帰ってくるよ」

「えっ」

 

 反射的に振り返ったあたしの顔を見たメリッサは、ふっと笑い声を漏らした。

 

「今週末。大阪杯だ」

 

 ぺろりと出した舌に、銀色のピアスが光っていた。

 

 

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