ティアラレースの一冠目、桜花賞の開催が一週間後に迫った。あたしたちのチームからは、フィリーズレビューの勝者としてショコラが参戦する。去年レイアクレセントが持ち帰ったタイトルを、一年後輩の彼女が再びプルートにもたらすことができるのか。各メディアからは、そこが一つの注目ポイントとして挙げられていた。あたしとホープのための番組を作っているはずのスタッフまで、ここ数日はショコラの桜花賞が気になって仕方ない様子だった。
「実際勝ったら、ルピナスさん的にどう思います?」
「どうって何がですか」
「ルピナスさんにとっては、ショコラレイン選手って後輩なわけじゃないですか、やっぱり」
「あ、嫉妬するとかそういう話?」
あたしは嘘をつかなかった。
「まあやっぱり、悔しいですよ。いや悔しいっていうか、羨ましいのが正しいかな」
もちろん、おめでとうと言いたい気持ちだってある。でも、ショコラが本当に桜花賞を勝ったなら、その時はきっと、手放しの祝福とは違うものが心のどこかに生まれてくるだろうと思う。
「だって、もうあたしには絶対勝てないタイトルなんですよ? 桜花賞って」
「一生に一度しかチャンスがないですからね」
共感してくれてるんだかテキトーなのか、いまいちよく分からない相槌。テレビマンの世界には、似たようなものって無いんだろうか。
「ルピナスさんも帯同するんですよね?」
当然、そのつもりだ。自分の予定が被っているわけでもないのに、後輩のGⅠ出走に同行しないなんてありえない。
それに、今回の遠征にはどうしてもついて行きたい理由が他にもあった。
「明後日にはもう移動しますから、ついでに大阪杯も見られるなって」
桜花賞は学園から離れた関西の阪神レース場で行われる。少しでも環境変化の影響を少なくするため、早めに現地入りするチームは多い。今年はあたしたちも、一週前追い切りを終えたら次の日には仁川に向かう予定だ。
「今年の大阪杯は、メンバーが豪華ですねえ。特にルピナスさんと同世代の方なんか、全員GⅠウマ娘じゃないですか」
「そうなんですよねー」
まさにそれが、あたしが遠征参加を希望した理由の一つだった。
皐月、ダービー、そして年末の有マを制したレイアフォーミュラに、樫の女王トーヨーメリッサ、そして、一年ぶりのレースとなるジュニア女王のモモイロビヨリ。世代でも一線級のウマ娘たちが、春の中距離王決定戦に名乗りを上げた。現地に行くのはショコラのサポートが一番の目的ではあるけれど、せっかくなら、大阪杯もしっかり見ておきたい。
特に気になるのは、モモイロビヨリの復帰だ。
(本当に、大丈夫なのかな)
去年の夏にメリッサから聞いていた限りでは、レース中に発症した心房細動の方はすぐに問題ない状態にまで快復していたはず。それなのにここまで丸一年間、モモイロビヨリは一切レースに出走しなかった。家族から現役続行を反対されたらしいとか何だとか、断片的な話は聞いていたけど、結局細かい事情は分からずじまい。もしかしたら、他にも怪我や病を抱えていたのかもしれない。そもそもモモイロビヨリの性格からして、誰にも打ち明けていない秘密はたくさんありそうだ。
はっきりしているのは、そんな彼女が、一年ぶりにターフへ帰ってくるということだけ。
(大阪杯も、桜花賞も、無事に終わればいいけど)
あたしは、すっきりした気持ちで結果を見届けられるレースに飢えていた。
阪神レース場近くの宿泊所に掲げられたウェルカムボードには、あたしたちチーム〈プルート〉の名前の横に、もう一つ別のチームの名前が書かれていた。
「ルピナス、待ってたよ」
チーム〈デネブ〉。歴史あるチームのエース格となったメリッサが、ロビーであたしを出迎えてくれた。口調こそ爽やかだったけれど、この間のロッカールームで会った時よりも一段と濃い目元のグリッターが、チカチカと威圧するように光っている。
「どうも。そっちは昨日?」
「いや、今日昼前に来たとこだよ。もう阪神も三回目だしな。あんましダラダラいるとテンション抜けちまうからさ……って」
その時、トレーナーたちと一緒に受付の前に並んでいたショコラが、小走りであたしの横にやって来た。
「お久しぶりです、メリッサさん」
そう言ってぺこりと頭を下げるショコラを見た途端、メリッサの表情が変わった。
「うわっ、カワイイ〜。いややっぱずっと思ってたけどさ、あんたホント、超カワじゃんねぇ」
「ありがとうございます。桜花賞、頑張って勝ちに行きますから、メリッサさんも応援しててくださいね」
「するよ~するする。今回うちのチーム出てねーしな」
ホクホク顔でショコラの頬を撫でるメリッサの姿は、去年の秋にキザッたらしく口説こうとしていた姿とはまた違っていた。完全に、遠くからやって来た孫を可愛がるおばあちゃんだ。
ただ、口調は変わっても、行きつく話はやっぱり変わらないようだった。
「そンで、あの話はどうよ? ティアラ、このまま最後まで走ってみねーか?」
「ふふ、気が早いですよ。まずはここで、結果を出してからです」
ティアラ皆勤しないかお化けと化したメリッサの言葉を、ショコラは持ち前の利発さで巧みにかわしていた。
するとそこへ、トレーナーからお呼びがかかった。
「ショコラ、こっち来て! 部屋入る前に、施設見に行くよ」
「はーい!」
三日後に本番を迎えるメリッサとは違って、ショコラは出走まで十日も猶予がある。最終追い切りもこちらでやることになっているので。その下見は欠かせない。
「あたしも行った方が良い?」
「ルピナスは……ま、いいかな。誰かと一緒にいるなら」
トレーナーはメリッサの方に目配せしてそう言った。
「任せな! アタシがついてるから、変なのに手出しゃさせないよ」
「それじゃ、失礼します。ルピナス先輩、メリッサさんとどんなお話をされてたのか、後で教えてくださいね!」
「私にも教えてよね!」
最後にボンが付け加えて、トレーナーたちは荷物を受付に預けると、あたしを残して宿を出て行った。
「……随分ショコラに甘々だったじゃん。ああいう子、好きなの?」
二人きりになったのを確認したあたしは、にやけながらメリッサの腰をつついた。照れ隠しになんて言い出すかな、と思っていたけれど、意外にもメリッサは恥ずかしがる様子もなくさらりと答えた。
「いやー、さっきも言ったけど、夏合宿の時から目は付けてたんよ。でも、一番のきっかけは去年のJFでさ」
「JF?」
「あそこで勝負服お披露目だったじゃん。アレ、マジセンス良くなかった? なんつーかあの感じ、趣味だわ。だからさ、割と本気で推しなんよ、いま」
ああ、なるほどと思った。たしかにショコラの勝負服は、レザーやチェーンをたくさん使った、いかにもメリッサが好きそうなデザインだった。衣装がお気に入りだと、自然とそれを着ている本人まで好きになるものだ。
ただ、あれだけショコラを猫かわいがりした裏には、また別の思いが隠されているようだった。
「あとちょっとの間だけだかんね。あの子のこと百パー応援できんの」
声のトーンが下がったメリッサの言葉に、背すじが伸びる。
実際、他人事じゃない。ショコラは間違いなく、あたしの得意なマイルでも実力を発揮するだろうし、クラシックの学年限定戦が終われば、ただの可愛い後輩じゃなくて、戦う相手にもなる。
「ま、それはそれとして、フツーに可愛いから、好きだよ。うちの妹にもあれくらい可愛げがあったらいいのにって思うくらい」
「へ? 妹?」
「ああ、そうそう。うち妹二人いるんよ」
突然の情報に、あたしはろくなリアクションも取れなかった。
「どっちもクソ生意気でさ。アタシが帰るとガキのくせにパロミノ買ってだのカメリアの服くれだの、マジうるせーの」
メリッサに妹がいる。しかも二人。となると、もしかして妹もこんな感じのパンクな出で立ちなんだろうか。頭の中で、縮小コピーしたメリッサを横に二人並べてみる。あまりの強すぎる絵面に変な汗が出てくるのを感じた。
「ルピナス、あんた何か変な想像してるだろ」
「い、いや別に」
どうせ顔でバレてるんだろうけど、はいその通りですなんて言えない。メリッサはこちらの目をじっと覗き込んで、ぷっと吹き出すと、いつものさっぱりとした口調に戻って言った。
「来なよ。モモが待ってる」
そのまま踵を返すメリッサの後を、急いで追いかけた。あたしが宿に一人残ったのは、姉妹談義をするためじゃなく、このためだったんだから。
宿泊所の地下に併設されたジムに、目当ての相手はいた。
「こんにちは、ルピナスさん」
ちょうどトレーニングが終わったところらしく、首筋の汗を拭いながら、モモイロビヨリはあたしを出迎えてくれた。
「なんか、懐かしい感じするね」
一年前、桜花賞の前夜祭で見たのと同じ顔がそこにはあった。去年の秋に坂路で見かけた時とは随分違って、心身ともに充実しているように見える。モモイロビヨリはクスクスと笑い声を漏らし、忘れようにも忘れられないあの語り口で答えた。
「ひどいなあ。私、もう過去のウマ娘になっちゃったの?」
本当に帰って来たんだなあ、と実感する。真に受けるだけ損だから、こんなセリフにはもう動揺しない。むしろ、ちょっと嬉しいくらいだった。
「勝つ自信、あるの?」
彼女相手には、言葉を選ぶなんて無意味。だからストレートに尋ねる。モモイロビヨリは予想通り、ふわふわとした口調でとぼけた返事をよこしてきた。
「どうかなあ。フォーミュラさんがいるから、ちょっと難しいかも」
「そこはアタシがいるから、じゃねーのかよ」
「そうだった。メリーちゃんはフォーミュラさんに勝つんだもんね」
相変わらず、手玉に取られている様子のメリッサを見るのは面白い。不満げに口を尖らせてはいるものの、どことなく、あたしと二人で喋っている時よりも、モモイロビヨリの隣にいる時の方が楽しそうに見える。学園に来る前のクラブ時代からの仲だと言うし、当然なのだろうけど。
(……あれ?)
そんな思いで二人を交互に見ていたあたしは、ふと、何か違和感を覚えて目をこすった。
(なんだ、これ)
具体的に何が変とは言えない。でも、向かい合って並ぶ二人の姿が、記憶の中の形と微妙に重ならない。
「ルピナスだったら、どうする?」
「えっ」
「だから、ルピナスだったら、誰の応援ライブチケット買うんだって話」
「えーと、まあ、フォーミュラ、かな……?」
「結局それかよ! ったく、正直者で助かるよ、ほんとに」
上の空だったせいで変にたどたどしい返事になってしまったけれど、メリッサの方は特に気にした様子もなかった。呆れ顔で肩をすくめると、彼女はモモイロビヨリの方に向き直り、一歩下がって促すようにあたしの方へ手を差し出した。
「で、モモ。あんた、話があったんだろ。ルピナスに」
モモイロビヨリの丸い瞳が、きらりと光った。それを見たあたしの頭の中に、三日前の出来事がたちまち蘇ってくる。
大阪杯でモモイロビヨリが復帰すると聞かされたその場で、あたしはメリッサに、レース前に一度三人で会いたいとリクエストした。元気になった姿を確かめたかったし、あたし自身が元気をもらいたかったからだ。後輩が一人気を吐いている一方で、身近な同級生の仲間たちは、思い通りにならない現状にもがき続けている。せめて少しでも明るい気持ちになれる材料に触れておきたい。やり場のないもどかしさを抱えていたあたしは、ついそんなお願いを口にしたのだった。
ところが、メリッサの答えは予想もしていないものだった。
『実は、モモからも同じこと言われてんだよ』
あたしが頼むまでもなく、モモイロビヨリの方もあたしに会いたがっているというのだから、驚いた。曰く、話したいことがあるとのこと。どんな内容なのかはメリッサも聞かされていないらしく、あたしは今日まで、ハッピーなものから最悪なものまで、いろいろと無駄な想像を巡らせてきたのだった。
「ねえ、メリーちゃん」
一体何を話すつもりだろうと身構えるあたしをじっと見つめたまま、モモイロビヨリは鈴を鳴らすような声で言った。
「なんだか、すっごく暑くない?」
「はあ?」
いきなり訳の分からない話を切り出したモモイロビヨリに、メリッサは目を見開いた。
「この近くのショッピングモールの二階に、ノーブランドの雑貨屋さんがあるんだよね。あそこのりんごソーダ、甘酸っぱくて、スッキリしてて、すっごく好きなんだぁ。メリーちゃん、知ってるよね?」
間延びした語尾で、モモイロビヨリは物欲しそうに喋っている。
「なんだそれ。買ってこいってことか?」
「そうは言ってないけど。なんか、暑くなっちゃって」
「買ってこいって言ってんだな」
遠まわしすぎる要求にやれやれとため息をついて、メリッサはもう一度手を差し出した。今度はあたしの方にじゃなく、モモイロビヨリの方に。
「なあに? この手」
「買ってきてやるから、先立つもんよこしな」
「メリーちゃんって優しいよね」
ケラケラと笑い声をあげて、けれども一歩もその場を動かずにモモイロビヨリは片目をつむってみせた。
「あとで、私のトレーナーさんに頼んだらいいよ」
どうやら自分では一円も出すつもりがないらしい。観念したメリッサは、結局お金が乗せられなかった手のひらを振りながら、気だるげな足取りでジムを出て行った。
「戻ってくるまでに、終わらせとけよ」
去り際に一言、それだけ言い残して。
モモイロビヨリは心の底から愉快そうに口元へ手を当てて笑っていた。
「ね? メリーちゃんって優しいでしょ? 私が言いたいこと、ぜーんぶ分かってくれるの」
あたしはそこで初めて、モモイロビヨリがなぜいきなり無茶苦茶な要求を始めたのか、それをメリッサはどうして受け入れたのか、理解できた。
「なんていうか、その……」
「うふふ、ルピナスさんはとっても素直だよね」
苦手だ。相変わらず、モモイロビヨリの話はどこまで本気なのか分からない。こんな謎解きゲームみたいな会話をさせられるんじゃ、メリッサも大変だろうなと思った。いつもの調子を取り戻したようだと考えれば、ある意味ホッとする話かもしれないけど。
「あたしに話って、何?」
余計なことは考えないようにして、ストレートに尋ねた。良い話だろうが悪い話だろうが、真正面から受け止めるつもりで。
すると、モモイロビヨリの声色が変わった。
「私の身体、どう思う?」
自分の耳がキンと冷える音が聞こえた。
「ど、どうって」
「前の私と同じに見える?」
あたしが感じていたのは、驚きでも不快感でもなく、恐怖に近いものだった。
モモイロビヨリは、勘付いている。あたしが彼女の立ち姿に対して、ぼんやりとした違和感を抱いたことに。
「うん。そうだよ。分かっちゃった。ルピナスさんが、分かっちゃったんだなってこと」
まだ口に出していない言葉に答えられたあたしは、口をぱくぱくさせながら胸元を抑えた。
「メリーちゃんはまだ気付いてないの。……ずっと、そばにいてくれたせいかな」
優しいでしょ、と言って笑うモモイロビヨリの顔は、ゾッとするほど美しくて、綺麗だった。
「心臓はもう何ともない。ちょっと傷めてたところも、この際だからってぜーんぶ治した。休んでいる間に減った身体も、トレーニングで戻した。むしろ、前より大きくしたくらい」
どうしてあたしにこんな話を聞かせるんだろう。あたしに、何ができるって言うんだろう。
「でも、一年って長いんだね」
謎解きなんていらなかった。目の前にいるすっかり大人びたウマ娘の姿と、その口ぶりから、言いたいことは嫌というほど伝わってくる。
だけどモモイロビヨリは、素直なあたしにきちんと答えを教えてくれた。
「もう私、ピークは過ぎちゃったみたい」
「そんな!」
いくらなんでも、早すぎる。まだシニア級の一年目だというのに。高等部に上がったばかりで、十六歳になったばかりで、もうピークアウトだなんて。そう言って懸命に否定しようとする頭に対して、あたしの目は残酷だった。一年かけて離脱前以上に鍛え上げられたはずの彼女の身体からは、以前のような迫力を見出せない。大した観察眼も持っていないあたしの見間違いであればいいのに。今回ばかりは、親切な種明かしが恨めしい。
「でもね、ルピナスさん。だからこそ、明後日のレースでは私を見ていてほしいの」
「え?」
つい目を逸らしてしまったあたしの耳を叩いたのは、モモイロビヨリから初めて聞こえてきた、まっすぐで、一点の曇りも陰りも無い声だった。
「お願い。明後日は、フォーミュラさんでも、メリーちゃんでもなくて、私を見ていて。私の走りを見ていて」
今まで見たこともない真剣な、けれど勝負師の本性を見せた凄みとも違う純粋な表情で、モモイロビヨリは言った。少なくとも、あたしにはそう見えた。
ふと目を落とせば、彼女の切りそろえられた尻尾の毛が逆立っている。ひどく緊張して、落ち着かない様子なのが分かる。あんまりそっちを見てやるのは気の毒な気がして、あたしはすぐにモモイロビヨリの顔へ視線を戻した。
「アンタはあたしに、何を見せてくれるの」
小さくて可愛らしい鼻が、ひくっと動くのが見えた。
「……そうだね。ご参考、かな」
「うん?」
全然予想の中に無かった言葉で、よく意味が分からなかった。
「これから先、きっと私とおんなじ気持ちになる人が、ルピナスさんのそばにいるはずだから」
「それって……あっ」
モモイロビヨリはしーっと口の端から息を吹き出して、人差し指を唇に当てた。
「本当はね、希望になれたらいいな、って思うんだけど……それはちょっと、厳しいかもしれないから」
「だから、ご参考?」
「そう」
くしゃっとほころばせた顔には、あの頃のあどけない愛らしさがまだ残っている。それが嬉しかった。彼女にもう少しだけ、時間が残されていることの証に思えたから。
「はぁ~、やだやだ。恥ずかしいな。もう二度と、この話はしないからね」
「うん。あ、でもメリッサには」
「ヒト生まれの子って、友達思いで、口が堅い子が多いんだって。知ってる?」
メリッサが戻ってくるまでの間、モモイロビヨリはもう元の仮面を外すことはなかった。
有名雑貨店のりんごソーダは、評判通りのスッキリとした喉越しで、あたしは一息で一本を飲み切ってしまった。あとで知ったことだけど、メリッサによるおつかい分の清算はきっちりうちのトレーナーにまで行ったらしい。