ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#62-誰も言えないことだから

 コンコンコン、と硬いリノリウムの床を叩く音が楽屋に響いていた。鏡の前に腰かけたショコラは、膝を細かく上下させながら、浅い呼吸を繰り返している。

 

「落ち着かないよね」

「あ、ごめんなさい」

 

 黙って見ているのもしんどくなったあたしがそっと話しかけると、ショコラは首を少し縮めて、忙しなく動いていた脚を両手で抑えつけた。

 

「大丈夫。呼びかけに反応するだけ、去年のルピナスより平常心保ってるよ」

 

 勝負服の帽子にピンバッジを付け終えて、ショコラの頭へ丁寧にかぶせてやりながら、トレーナーはそう言った。

 

「はは、確かに」

 

 あたしも頷いた。平常心どころか、一年前のあたしはバ場入りまでの行動をほとんど覚えてない。それに比べれば、ショコラはずっとしっかりしている。走りの完成度だって、未だに不安定なあたしよりもよほど仕上がっている。

 

 あれから、今日で丸一年。

 

 そうか。一年経ったんだ。当たり前なことを、今更噛み締める。

 

 去年の同じころ、あたしは勝負服を着ていて、ショコラはまだ、制服を着ていた。それどころか、あたしたちと同じ楽屋に立ち入ることもなかった。

 

 三百日あまりの月日が廻る間に、あたしたちを取り巻く景色は随分と変わった。変わらないのはターフの匂いとスタンドの歓声だけ。誰が加わっても、誰がいなくなっても、芝生は青いままだし、客席の拍手は勝者に注がれ続ける。とても残酷で、だからこそ戦う価値がある。ここは、そういう場所だ。

 

「ショコラ」

 

 今日の主役が、ビューラーいらずの綺麗なまつ毛を震わせている。あたしは先輩としてではなく、一人のチームメイトとして、彼女に何か言いたかった。

 

「自分の為に、走ってね」

 

 視界の隅で、白いウサギの長い耳が、パタンと動くのが見えた。

 

「さ、本バ場入場の時間だよ。ショコちゃん、行こう?」

 

 その言葉に一度深呼吸で答えてから、右手にボン、左手にトレーナーの手を握り、ショコラレインは勢いよく立ち上がった。

 

 

 関係者のボックス席に行くと、その入り口で例の番組スタッフが残りのチームメイトたちと一緒に待ち構えていた。

 

「ど、どうだった?」

「大丈夫。あたしよりずっと頼もしいよ」

 

 ちょっと大げさに力を込めてサムズアップを返してやると、テンダーは感心したようにため息をついた。

 

「すごいなあ。やっぱり、GⅠに出られるような子は、違うんだ……」

「何言ってんの。アンタだって出ようと思えば出られるでしょ?」

「わわ、そんな、私じゃまだそんな資格無いよ……!」

 

 相変わらず自己評価が低いテンダーだけど、すでに重賞ウマ娘になっているのに、GⅠに出る資格がないだなんて言われたら困る。本当なら、先週の大阪杯に出たって全然おかしくなかったんだから。

 

 同じことは、あたし付きのディレクターも感じたらしい。

 

「見たかったですね、テンダーさんの大阪杯」

「ほら、Dさんもこう言ってるじゃん」

「先週のバ場条件だったら、結構逃げも活きたんじゃないですか?」

「え」

 

 取材班とはいえ、ドキュメンタリー専門のスタッフということもあって、レースに関しては素人同然のはずだったのに、突然いっぱしのレース雑誌記者みたいなことを言い出すものだから、驚いてしまった。

 

「なんかすごい詳しくなってますね」

「ルピナスさんたちの取材を続けてる中で、僕たちも結構勉強したんですよ」

 

 ディレクターの言葉に、カメラマンもレンズと一緒に頷いた。彼らはかれこれ一か月間、あたしたちの番組を作る為に学園に通い詰めている。大レースの前後にしか見に来ないやる気の無いスポーツ記者よりも、よほど熱心だ。そう考えれば、当然かもしれない。

 

 そこへ、もう一人の大阪杯に出られるはずだったウマ娘が割り込んできた。

 

「では、テンダーさんもしっかり自信がつくぐらい鍛え上げて、今年の秋の天皇賞には出ていただきましょうね。私も、そこへ向かうつもりですから」

 

 クレセントはそう言って微笑み、テンダーの腕に手を回した。

 

「テンダーさんの逃げ脚が発揮されれば、秋はきっと面白いレースになりますよ」

 

 最後はきっちり勝たせていただくつもりですけど、と付け加えるクレセントの横顔は、光の加減のせいか、やけに白っぽく見える。

 

(秋はきっと、か)

 

 何となく引っ掛かるものを感じた。この前置きに、どんな意味を込めているんだろう。

 

 あたしは眼下のターフを見下ろした。シックな大人っぽい色合いだったゴール板前の装飾も、今は華やかなピンク色に様変わりしている。

 

(確かに、面白い結末……じゃ、なかったけどさ)

 

 大阪杯は、予報外れの小雨の中で出走時刻を迎えた。

 

 荒れた天気は波乱を呼ぶ。それぞれに期待や不安を抱きながら見守ったレースは、嫌味かと思うほど順当な決着となった。三着にメリッサ、二着に去年の大阪杯チャンピオンで一年先輩のパルコプラート、そして一着がフォーミュラ。新しい勝負服での復帰戦となったモモイロビヨリは七着に終わった。

 

 ご参考、と言っていただけあって、モモイロビヨリは負けた後もショックを受けた様子は見せなかった。さばさばとした態度でコメントを出し、一点の曇りもない笑顔でウイニングライブのバックダンサーを務めていた。今までゼロ番以外に立ったことが無い彼女には、楽な仕事ではなかっただろうに。

 

(でも、だったら)

 

 万全なクレセントが出ていたら、勝てただろうか。テンダーがハナを切れば、展開は変わっただろうか。それどころか、まんまと逃げおおせたりして……クレセントの言う「面白いレース」になっただろうか。

 

 無意味だ。あたしは頭を振って無駄な妄想を振り払った。現実として、結局は二人とも出走していないのだから。出なかった者の可能性よりも、無事に走り切った者が実際に成し遂げたことの方が、同じ世界に身を置いているあたしたちにとっては重要だ。

 

「ほら、バ場入り始まるよ」

 

 トレーナーの声に、ぺちんと頭を叩かれた気分だった。しっかり見ろ、今日は桜花賞なんだぞと言われているような気がした。

 

「ショコラ」

 

 地下バ道からゆっくりと緑色の芝の上に現れた深紅の帽子が、くるりとこちらを見上げたのが見えた。人気はトップとほとんど同率の二番人気。チームで今GⅠ制覇に最も近いウマ娘は、きちんと周りが見えているようだった。

 

「頑張ってー! ショコちゃーん!」

 

 ボンがボックスから身を乗り出して声援を送っている。あたしも、精一杯大きく伸びをして手を振った。

 

 ショコラはしばらくこちらを見つめたあと、胸の前でこぶしを握り締め、向こう正面で待ち構えるスターティングゲートに向かって駈歩で去っていった。

 

「勝ってほしいな。ショコラ」

 

 つい、本音がこぼれた。

 

 あたしが勝てなかったものを勝たれるのは、どうしたって複雑な気持ちになる。以前尋ねられたことへの答えは、今も変わっていない。

 

 だけど、それでも今日は、ショコラに勝ってほしかった。

 

「……あたし、ひどい先輩だな」

 

 自分の為に走れ、と言ったのはあたしだ。

 

 この半年間いろいろと沈みがちだったチームに、ショコラはずっとポジティブな話題を届けようと必死になってくれていた。デビュー直後からいくつも大舞台を経験していて、本当は心細かったはずなのに。

 

 今日くらいは自分の為に走ってほしい。自分が手に入れたいものを、自分の好きなやり方で掴む為に。嘘偽りなく、心の底からそう思っていた。

 

 だというのに、今あたしはショコラに勝利を期待している。あたし自身の鬱屈した気持ちを晴らしてもらう為に。あたしたちが前を向く力を与えてもらえるように。

 

「ルピナス」

 

 肩に、大きくて暖かい手が乗せられたのが分かった。

 

「あの子は、あなたに憧れて、このチームへやって来たんだよ」

 

 ちょうど一年前のことが思い返される。好き勝手に無茶なローテを進んで、三冠路線に行きたいと言っていたチームメイトを無理やり引き止めて。それなのに、いよいよ初めてのGⅠ出走だというところで、足がすくんでしまった。誰かの為に走ろうとする思いの重さに、押しつぶされそうになっていたから。

 

『——今日だけ。今日だけは、自分の為に走ってごらん』

 

 あたしがさっき受け売りしたあの時のトレーナーの言葉が、蘇る。

 

 やっぱり、そうじゃなくちゃ、ダメだよね。

 

 発走のファンファーレを聞きながら、あたしはもう一度、ショコラに向かって唱え直した。

 

「自分の為に、走るんだよ。ショコラ」

 

 勝つのは、あたしたちの為じゃない。自分の為に、勝つんだ。

 

 正面スタンドにいるあたしたちには、ゲートの開く音は聞こえない。

 

 レースは、不気味なくらいスムーズに、するりと始まった。

 

 偶数の六番枠から飛び出したショコラは、持ち前のスピードを活かして三、四番手の位置につけた。

 

 大歓声が響くスタンドの中で、あたしたちのボックスはしんと静まり返っていた。声援を送るでもなく、拍手をするでもなく、みんな固唾を呑んで、ショコラの生涯一度の晴れ舞台を見守っていた。

 

「大丈夫、大丈夫……」

 

 ただ一人、ボンの小さく囁くような声だけが、隣からわずかに聞こえてくる。

 

 息もできないうちに、隊列は満開の桜に彩られたコーナーを回ってくる。ショコラは相変わらず好位につけている。去年のクレセントと同じような位置取り。前を遮る者はいない。最後の直線に入ったところで、視界は開けている。

 

 ドッ、ドッ、ドッ、と足元から突き上げるような振動を感じた。

 

 客の声、にしてはやけに低く、鋭いテンポで何度も繰り返しあたしの身体を揺さぶってくる。ランナーたちの足音か、とも思ったけど、そんなのを感じられるほどボックス席はコースの近くじゃない。

 

 音の正体は、もっと近くにあった。

 

 残り四〇〇……三〇〇……。ゴールまでの距離が短くなるにつれ、音は激しく、速く、あたしの胸を叩いてくる。

 

 そうだ、これはあたしの心臓の音だ。

 

 願いを乗せた背中の後ろから迫る影を感じながら、あたしは最後まで、黙ってレースの行方を見守っていた。

 

  〇

 

 新幹線が名古屋を過ぎたころ、ショコラはあたしの肩にもたれかかって、静かに寝息を立てはじめた。ちょうど向かいの席で三個目の駅弁を開けようとしていたボンは、蓋にかけていた手を止めて、荷物棚のリュックサックをまさぐった。そして、引っ張り出したブランケットを、ショコラの膝の上にそっとかけてやった。

 

「ルピナスちゃん、肩、平気?」

「うん、大丈夫」

「疲れたよね。今回の遠征は」

 

 ボンの視線は、ショコラの寝顔に向いていた。少し赤みが出て腫れぼったい瞼の周りに、昨晩の涙の跡が残っている。

 

「ボンはどうだった?」

 

 一週間半もの長い遠征は、環境変化に適応するのには便利だけれど、その分気が休まらない時間が長くなるということでもある。一番疲れたのはレースで頑張ったショコラ本人だとしても、彼女をレースに送り出す使命を背負っていたトレーナーやボンだって同じくらいに疲労がたまっているはずだ。

 

「私は……そうだね。疲れは大したことないけど……」

 

 ボンはショコラの口元にかかった髪の毛を除けてやりつつ、しみじみとした口調で言った。

 

「クラシックを勝つのって、ほんとに、ほんとに難しいんだなって」

 

 結果から言えば、ショコラは大外から一気に飛んできた後方勢に差され、最終的には先頭から三バ身離された五着。同じ条件だった阪神JFの時よりも成績を落とす格好になった。

 

「強かったね。勝った子は」

 

 ボンは悔しそうな顔をしながら頷いた。

 

「マラケシュローズちゃんね。結局〈カペラ〉の子だった」

 

 去年三冠路線をフォーミュラとカイの二人で全制覇したチーム〈カペラ〉。今年は一転、ティアラ路線に強豪を大勢送り込んできている。

 

「何が違うんだろうな」

 

 そう言って、ボンは物憂げに窓の外へ目をやっていた。

 

 勝ったマラケシュローズは、決して去年のクレセントみたいな絶対的な強者という感じでもなかった。阪神JFではショコラの後塵を拝した四着だったし、前哨戦のチューリップ賞で勝ったことを別にすれば、他に重賞で目立った活躍もしていなかった。そんな彼女が桜の女王の冠を手にしたのに対し、準備も対策も実践もこれ以上はないほど積んできたショコラは敗れた。

 

 これでチーム〈プルート〉は、クレセントの桜花賞以来、丸一年GⅠでの勝利が無いという結果になった。

 

 あたしがNHKマイルCで八着、マイルCSで四着。クレセントはダービーで三着、秋天で五着。ホープが菊花賞で二着。そして、ショコラが阪神JFで三着、桜花賞で五着。

 

 こうして並べると、あたし以外はみんなあと一歩のところで勝利を阻まれている。この七つのレースのうち、チーム〈カペラ〉のウマ娘が勝ったレースは三つ。要は、挑戦したタイトルの半分近くをカペラに持っていかれているわけだ。

 

 それどころか、今のところうちのチームでGⅠを勝っているのは、クレセントだけ。彼女は元々、カペラから移籍してきたウマ娘だ。ということは実質……なんて言い出したらもっと怖いことになるので、これ以上は考えないことにする。

 

 何が違うんだろう、というボンの疑問は、ある意味自然なものだった。

 

 トレーナーは日々最新のトレーニング方法を研究しているし、雑誌の専門家たちも、もちろんボンも、あたしたちのポテンシャルはトップ層にも負けていないとコメントしてくれている。追い切りのタイムでも、それは証明されている。それなのに、どうして結果はこうも違うのか。一体何がこの違いを生むのか。

 

 思い当たるのは、至極単純な話だった。

 

「何が違うのかなんて——」

 

 ——そりゃもう、血統が違うんでしょ。

 

 喉まで出かかったその言葉を、すんでのところで飲み込んだ。

 

 わざわざ言わなくたって、カペラ所属メンバーの家柄を見てみれば、答えは明らかだ。あたしたちのクラスだけでも、フォーミュラにカイ、そしてオリンピアコス。全員、母親がトゥインクル・シリーズや海外のレースで活躍した元競走ウマ娘だ。しかも、どの母親もみんな判を押したように、選手としてはクラシックが開幕する頃にピークを迎え、適性は芝のマイルから中距離まで。新聞に載っていた情報が正しければ、マラケシュローズにも、血縁にオークスウマ娘がいるとか。

 

 カペラは間違いなく、クラシックレースで勝つために、単に足が速いだけの子じゃなくて、優秀な血統背景の子を集めている。優れた血統に、最高の育成システム。その二つがそろっているからこそ、ここまでの圧倒的な成績につながっている。

 

 一方のあたしたちの方は、血統ではまるで勝負にならない面子だ。

 

 チーム内で自分の家柄の話になることはほとんど無いけれど、クレセントを除けば、クラシックで活躍した家族を持つメンバーは一人もいない。それでもGⅠで入着を繰り返しているのだから、客観的に見れば大成功の部類と言える。逆に言えば、これ以上の結果はそう簡単には望めないということでもある。

 

「……ボンでも分かんないなら、あたしにだって、分かんないよ」

 

 ボンに分からないはずはない。こんなに偏った、露骨な結果が出ているのに、勉強熱心な彼女が見落とすなんて、ありえない。

 

 大阪杯、桜花賞と立て続けに現実を見せつけられたこの遠征で、改めて思い知った。いや、本当はもっとずっと前から知っていたはずなのに、見ないようにしてきたものから逃げられなくなった、と言う方が正しいかもしれない。

 

 あたしたちの能力には、どんなに否定しようとも、生まれついた才能による違いが大きく影響してくる。そしてその才能は、血統が一番モノを言う。例外はもちろんあるけれど、血統と環境を両方備えた相手と戦うには、並大抵の頑張りではどうにもならない。誰よりも完璧に走ったあたしが、オーバーペース気味で苦しかったはずのクレセントに敵わなかった去年の桜花賞が分かりやすい例だ。今回のショコラだって、あれだけ距離を延ばすための訓練を積んできたのに、それでもまだスプリンターとしての枠を抜け出しきれず、勝ったのは血が覚醒したカペラのお嬢様。

 

「ねえ……ホントに分かんないの?」

 

 嘘をつかせているみたいで、もやもやする。同じ結論に行きついているのに、目を背け続けるなんて、それって結局、問題を先送りしているだけだ。学園に入学した時からずっと、あたしが立ち止まりそうになるたびに手を引いて、前に進ませてくれたボンらしくない。

 

 やっぱり、ダメだ。ボンが言えないなら、あたしが言わなきゃ。

 

「ボン、あたしね——」

「ルピナスちゃん」

 

 意を決したあたしの口火を、ボンはすぐさま消し止めようとしてきた。でも、許さない。あたしは首を横に振って、親友の手を握った。

 

「ボン、心配しないで。あたし、大丈夫だから」

 

 親友のうるんだ瞳が「言わないで」と訴えている。あたしは何度も大丈夫だよと繰り返して、一度飲み込んだ本当の答えを口にした。

 

「やっぱり、レースは血統なんだよ」

「そんなこと——」

「聞いて」

 

 ボンをなだめつつ、あたしは続けて言った。

 

「あたしたちウマ娘は、血統が一番。アンタが信じてる三女神さまの伝説自体が、そもそもそういう話でしょ」

 

 手のひらの中で、親友の手がピクリと反応する。

 

「覚悟がいるんだよ。今まで以上に、もっとシビアな覚悟が。……結果を求めるならね。ショコラの場合、大きなタイトルが欲しいなら、しばらくは短距離に専念するべきなんだと思う。だって、ショコラはどう見たって基本はスプリンターだもん。ボンだって、そう思うでしょ?」

 

 あたしの後を追いたい、マイル戦線を目指したいと公言していたショコラにとっては、残酷すぎる現実だ。もしもこの話を起きて聞いていたとしたら、どんな反応をするだろう。

 

「で、あたしは……多分、もっともっと強くなれる。だけど、すぐには無理。本格化が遅れたように、実力が完成するまでには、他の子よりも時間がかかる。それもしょうがない。あたしは、ヒト生まれだから」

 

 ボンの表情が歪んだ。一生懸命、あたしの言葉を否定しようとしている顔だ。

 

「ボン、そんな顔、しないで」

 

 向かないものは向かない。できないことはできない。なら、向いているものから、できる範囲のことから、少しずつ進めていく。そうやって、割り切っていくしかないんだ。

 

 そう思った瞬間、頭の中に先日聞かされたばかりのあの言葉が浮かんだ。

 

『……ご参考、かな』

 

 彼女が意図していたものとは違うだろうけど、彼女の復帰は本当に、とても大事なご参考になった。考えてみれば、クレセントのレース間隔を空けたことだって、ホープのデビューを遅らせたことだって、テンダーの逃げ戦法だって、同じように自分の特性や状態に合わせてそれぞれに割り切った結果だったはず。今までだって、やってきたことだ。

 

「あたしたちって、はじめから王道とは程遠いでしょ。今更、だよ」

 

 これは諦めじゃない。どう気持ちを収めたとしても、やっぱり勝ちたい。強くなりたい。才能に違いがあるのだとしても、どうにかして覆したい。最終的には、そこへ行きつくんだから。

 

「変な話だけど、多分それが一番『自分の為に走る』ってことなんじゃないかな」

 

 レース結果としてはトロフィーを持ち帰ることはできなかったけれど、あたしが乗り越えなきゃいけないものを再確認できたという意味では、収穫はあった。そう思いたい。

 

 ふと、あることを思い出したあたしは、起こさないようにそっとショコラの身体を元の位置にどかしてから、立ち上がって、後ろの列の席を覗き込む。

 

 そこでは、トレーナーが今朝発売のスポーツ新聞を広げていた。

 

「聞いてた?」

 

 トレーナーはふっと視線を上げると、あたしの顔をちらと見て、言った。

 

「ここから先、どう割り切るかは、私も一緒に考えるからね」

 

 言葉の最後に、トレーナーはほんの一瞬だけ、隣に座っている小さな芦毛の少女を目で指した。とりあえず、言いたかったことは全部伝わっているらしい。あたしは満足して、自分の席に腰を下ろした。

 

「とにかく、良かったよ。みんな、無事にゴールしてくれて」

 

 今は、それで十分だ。

 

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