ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#63-フラッシュバック

 時刻は夜の十時を回った。

 

 門限の時間を迎えた美浦寮のラウンジで、あたしは溜まりに溜まっていた宿題を片付けていた。背後では、大型テレビに映し出された日曜夜のスポーツニュースが、今日のトゥインクル・シリーズの結果を伝えている。

 

『今年の皐月賞を制したのは、こちら。チーム〈シリウス〉のアドラスター選手。一六五センチの長身を活かしたダイナミックなフォームで、四月の中山を誰よりも〝速く〟駆け抜けまし——』

 

 そこから先は、わいわいと騒ぐ学生たちの声に邪魔されて、良く聞こえなかった。消灯時間が近いからあまりうるさくしないように、という寮長さんの言葉は全面的に無視されている。

 

 ティアラ路線と三冠路線、それぞれの一冠目が終わった。クラシックの戦いは、初夏の東京レース場までしばらくお預けになる。となれば、次はいよいよあのレースが開かれる時期だ。

 

 京都の三二〇〇メートル。トゥインクル・シリーズ最長の距離で争われるGⅠ、春の天皇賞。今日締め切られた第一回目の特別登録に、ホープはちゃんと出走登録の手続きを済ませた。正確には、トレーナーが申請したものを取り消そうとしなかっただけだけど。

 

 日経賞の顛末を考えれば、出たくないと言い出しかねないと思っていたから、この決定には少し安心した。あのスタミナお化けのホープが春天への出走を回避、なんてことになったら、もったいないどころの騒ぎじゃない。菊花賞をきっかけに増えたホープのファンも、春天での活躍を期待しているはずだ。

 

(本人は嫌がるだろうけど、ね)

 

 以前から、ホープは取材だけでなくファンサービスも苦手にしていた。街中で時折せびられるサインや握手には、一切応じない。父親の一件が持ち上がって以降、その傾向はますます強くなった。それもこれも、目立ちたくないと思う気持ちゆえのことだ。

 

 ただ、どんな態度でもありがたがる人はいるもので、むしろその塩対応ぶりを欲しがるマニアックな支持層が、ネットを中心に形成されている。彼らのおかげで、表立った活動を控えても、ホープに対する注目度は一定の水準から下がらなかった。

 

 トレーナーがどこに行くにも付き添いを欠かさなくなったおかげか、あれからホープの父親が接触を試みてきたという話は聞かない。とはいえ、根本的な解決が成されたわけじゃない。GⅠへの出走となれば、全国区のニュースや街頭ポスターに顔と名前が出回ってしまう。そうなれば、またぞろ厄介な事態になってもおかしくない。

 

 こんなことがいつまで続くのか。進みやしない宿題のノートを閉じて、あたしは机に突っ伏した。ホープじゃなくたって、いい加減うんざりしてしまう。いっそあたしの前に現れたなら、二度と表を歩けないくらいボコボコにしてやるのに。まずは一発顔面を蹴り上げて、それから……なんて、知らない顔を相手に過激な妄想をしていると、ラウンジの柱時計が消灯時間の鐘を響かせた。

 

 勉強目的ですと言えば居残りも許されるけど、やめた。これ以上粘っても、捗る気がしない。不満を垂らしながら追い立てられていく寮生たちの足音と一緒に、あたしも自分の部屋へ戻ることにした。

 

 音を立てないように、そっと扉を開ける。案の定、中はもう電気が消えていた。

 

 まったく、すぐ寝ちゃうんだから。いつだって、邪魔だと追い出されるのはあたし。別に遊び歩いている訳でもないのに、肩身が狭い思いをさせられるって、ちょっとばかし理不尽じゃないか。試験期間になったらこれが毎日続くんだものな。……と、そこまで考えた瞬間、ぞくりと嫌な鳥肌が立った。

 

 似ている。何がとは言いたくないけれど、今の状況は、ものすごく()()()に似ている。そんな気がしてならない。

 

「……ホープ?」

 

 怖くなったあたしは、小声で尋ねた。

 

 苦しそうな息をしていないか、うなされてはいないか、耳をそばだてる。

 

 換気扇の音に混じって聞こえてきたのは、規則正しいリズムで刻まれる穏やかな寝息だけだった。

 

 あたしは首筋の汗を拭い、自分の尻尾を撫でつけて、ベッドの中にもぐりこんだ。頭のてっぺんまで布団をかぶって、何度も何度も自分に言い聞かせる。

 

 そうだよ、違う。今のホープはもう、あの頃とは違うんだ。だから、来年のホープだって、今とはきっと違っているはず。すぐには変われなくたって、いつか変わっていくはずなんだ。いつか。いつの日か。

 

 もう四月も半ばを過ぎたというのに、その夜は妙に冷え込んで、布団の端からはみ出したつま先が寒く感じるほどだった。

 

 

 ホープの一週前追い切りは、目を見張る結果となった。

 

「すごい! すごい! これなら、行ける! 行けるよ!」

 

 速報値のタイムを指さして、ボンは声を上ずらせてそう繰り返していた。

 

 ウッドチップコースの六ハロンで82・2秒、五ハロンで65・9秒、ラスト一ハロンを11・5秒。特に後半は目安のタイムを大きく上回る、ステイヤーとしてはかなりの猛時計だ。

 

「ホントにすごい! ウッドでこれだけ走れるなら、長距離どころかもう中距離GⅠだって狙えちゃうよ!」

 

 これだけのラップを叩き出しても、ホープは相変わらず息一つ乱さない。元来持っていた圧倒的なスタミナはそのままに、課題だったスピードが十分に備わってきた。

 

「まあ、よし。後は、これを本番で出せるかどうか、だね」

 

 すでに勝ったみたいに興奮しているボンに対して、トレーナーは落ち着きを保っていた。

 

 それもそのはず、トレーニングの場に限って言えば、今回のホープと同じ程度の数字をマークする子はたくさんいるからだ。トップレベルのウマ娘たちの中では、六ハロン80秒代が出ることだって珍しくない。それでも、そのうち本当にGⅠウマ娘になれるのは、ごく一部だけ。追い切りで良いタイムを計測したところで、実際のレースで発揮できなければ意味がない。

 

「でも、あたしよりは当てになるんじゃない?」

 

 自分で言ってて情けないけど、すぐに気が散ったり余計なことを考えたりするあたしと比べれば、絶対にホープの方が練習通りの力を出せるはずだ。

 

 トレーナーは何か苦い思い出を振り払おうとするかのように、ひたすら何度も「もう一本!」とホープに呼びかけ続けていた。

 

 その日のトレーニング後、いつものようにホープをトレーナー室に残してあたしたちが校舎を出たところで、嬉しい想定外が待っていた。

 

「みんな!」

「あれ、ボン?」

 

 チームスタッフ用のジャージから学園の制服姿に戻ったボンが、エントランスの前で待っていたのだった。

 

「私も、一緒に帰ろっかなって」

「ホント?」

「うん。トレーナーさんが、今日は特別にもう帰って良いって言ってくれたから」

 

 ボンは嬉しそうに頷いて、あたしたちの列に加わった。

 

「クラウンさん、ここのところずっと忙しかったもんね」

 

 テンダーの言う通り、今年に入ってからボンはますます助手としての活動が多くなっていた。あたしたちがトレーニングを終えてからも、トレーナーとの話し合いや勉強会に時間を取られて、なかなか寮に帰れないことが多かった。こうしてみんなと連れ立って帰り道を歩くのも、久しぶりのことだ。

 

「まあ、いろいろあったもんね」

「え? ルピナスちゃん何かあった?」

 

 しまった。ついうっかり、秘密に触れそうなセリフを口走ってしまった。もちろんボンはすぐさま切り込んでくる。もともとカンが鋭い上に、助手になってからはさらに反応が素早くなった気がする。トレーナーの教育の賜物だろうか。

 

 それは置いておくとして、今はこの場を何とか切り抜けなきゃいけない。

 

「いや、えっと、あたしじゃなくて、ほらあの、日経賞のこととか」

「ああ……うん。そっか。そうだよね」

 

 しどろもどろになりながら捻りだした答えを、ボンはそれ以上詮索することなく素直に受け入れてくれた。

 

「やっぱりあれは、そういうことだったんですか?」

 

 うつむき加減になったトレーナー助手の横顔を、ショコラが心配そうに覗き込む。ボンは小さく「本当のところはどうなのかわからないけど」と前置きして、スクールバッグの紐を握る手に力を込めた。

 

「少なくとも、私たちにはそう見えた」

 

 今日の追い切りでの様子を見ていても分かるように、ホープの無気力レースはトレーナーたちの間に重たいものを残している。幸い見逃されたのか、裁決委員からの制裁が課されることは無かったけれど、だから良かったで済ませていい話でもない。

 

 すると、クレセントが首を傾げた。

 

「……日経賞が、どうかされたのですか?」

「ちょっと、ホープちゃんの調整がね。ちょっと失敗しちゃって」

 

クレセントの問いをボンはさらりとかわした。

 

「そんなことでしたか」

 

 あの日中山にいなかったクレセントは、二着という数字の上での結果しか見ていない。勝負に対して怖いぐらいの情熱を燃やしている彼女が、ホープのしでかしたことを知ったら、きっとただじゃ済まない。知らぬはお嬢ばかりなり。知らぬが仏だ。みんなもそれを察したのか、慌てて口に蓋をしたようだった。

 

「大丈夫ですよ。一番大事なのは春天なのですから。菊のリベンジは、そこで果たせればいいんです。ルピナスさんも、そう思いますでしょう?」

 

 いや、それが問題なんだよな。心の声が漏れないように下唇を噛んで、足元の石ころを蹴飛ばした。

 

 重賞とはいえ、日経賞はGⅡだ。ホープの走りっぷりに異常を感じ取るファンがいたとしても、本人が言っていたようにGⅠのための温存策と言い訳できる。疑わしいと言われたって、それで押し通せばいい。でも、次はGⅠ、それも歴史と伝統のある天皇賞だ。日本中の人々が注目する、長距離レースの最高峰。そこで同じことを繰り返してしまったら、もう言い逃れはできない。

 

「うん。あたしも、信じてるよ。大丈夫だって」

 

 正確には「信じてる」よりも「信じたい」の方が正しい。もしも変な気を起こせば、下手に活躍するよりも注目を集めることになるのだから。あのホープがその程度の理屈が分からないはずもない。きっと、ちゃんと走ってくれる。最後まで、全力で。

 

(そうしたら、どうなっちゃうんだろう)

 

 条件だけで考えれば、春天は菊花賞よりもさらにホープにとって有利になる。カイの他にも実績のあるステイヤーがたくさん出てくるという話だけど、それでも今のホープなら、本気を出せば十分勝利が狙える。いや、狙えてしまう。どんなに望んでいなかったとしても。だとしたら、ホープは——。

 

 そこへ、クレセントの笑い声が聞こえてきた。

 

「変なルピナスさん」

「な、な、何が!」

「そんなに動揺しないでくださいな」

「別にしてないし!」

 

 ムキになっていると、周りも一緒になって笑い出した。

 

「何だよ。何が変なの」

 

 ひとしきり笑った後、クレセントはゴホンと一つ咳払いをした。

 

「いえ、その。毎回出走する当人より顔を真っ赤にして『勝て~勝て~』と念を送っているルピナスさんが、今回は随分と冷めていらっしゃるので」

 

「冷めてるんじゃないよ。勝ってほしいのは変わらないし。ただ……心配してるだけだよ」

 

 懸命に言い返したけれど、どこか図星を突かれた気がして、あたしは視線を逸らしてしまった。

 

 勝ってほしい、と思っているのは本当のことだ。この一年間、GⅠというタイトルはずっとあたしたちが伸ばした手よりもほんの少し高いところにいる。まるで嘲笑うかのように見下ろしてくるそいつに、ホープの小さな手が真っ先に届くのだとしたら、こんな痛快なことは無い。チームとしてはもちろん、あたしにとっては、それ以上の意味がある。

 

 だけど、それが却ってホープを苦しめるのなら、勝てない方が良いのかもしれない……そんな思いも同時に抱いてしまった。勝利を目指すための場所にいるあたしが、同じチームの仲間について、それとは真逆のことを考えるなんて、あっちゃいけないことなのに。

 

 ちょうどその時、すぐそばの交差点で信号待ちをしていた車が、パアッとクラクションを鳴らした。

 

「ねえ、みんな!」

 

 同じタイミングで、ボンがぴょんとあたしたちの前に躍り出て、こちらへ振り返った。

 

「せっかくだから、駅前のカフェに寄ってかない? あそこでやってたイチゴのフェア、今週いっぱいで終わっちゃうって」

 

 もう夕飯の時間が近い。普段のあたしなら、胃袋の容量を考えて渋い顔をするところ。でも今日は、先のことを考える気分じゃない。

 

「……行くか!」

 

 一番食の細いあたしがノーでないなら、他のみんなの結論は決まり切っている。

 

 夕陽色に染まった駅前通りを、あたしたちはそれぞれの歩幅で駆けていった。

 

 

 その夜、ホープの帰りは遅かった。

 

「おかえり」

「……ああ」

「助かったー、ちょうどいいとこ帰ってきてくれて。ねえ、そこの机の上に置いてあるシートとクリーム、取ってくんない?」

 

 お腹が膨れてベッドから起き上がれないでいるあたしを怪訝な顔で睨むと、ホープはあたしが指さしたものを鷲掴みにして投げつけてきた。

 

「うわイタっ。もっと優しく投げてよ」

 

 運悪く、クリームが入ったチューブの硬いキャップが鼻に命中した。顔を抑えて呻き声を上げるあたしの横で、ホープは無造作に制服を脱ぎ捨てていた。

 

「珍しいじゃないか。キミがそんなになるまでモノを食べ……」

 

 そう言いながら、備え付けのハンガーラックに手を伸ばしたところで、ホープはゆっくりとこちらへ振り返った。

 

「キミ、そのまま寝るの」

「いやあたしだって着替えたいんだけどさ、もうちょっと、お腹、縮むまで待って」

「好きにすれば。時間になったら電気消すけど」

「はいはい、わかってまーす」

 

 こんなことは慣れっこだ。今更目くじらを立てることじゃない。

 

 投げつけて()()()()クレンジングシートで顔と両腕をふき取ると、熱っぽくなっていたところがスッキリしてようやく一息付けた。

 

「そういえばホープ、アンタお風呂は?」

 

 もうすぐ門限の時間だ。大浴場も閉まってしまう。あたしはともかく、ホープは今日ハードに追い込んだのだから、部屋のシャワーブースだけで済ませずに、湯船に浸かっておいた方がいい。

 

 けれども、すでにホープは寝間着姿に着替え終わっていた。

 

「学園で済ませた」

 

 よく見れば、尻尾がまだ少し湿り気を帯びている。帰りが遅くなった理由の一つらしい。寮への送り迎えだけじゃなく、追い切り後のケアまで、トレーナーが付きっきりで面倒を見たんだろうか。

 

「大変だったね」

「ナギサの話か」

「アンタも! 両方の話!」

「あっそ」

 

 嫌な感じのドライな口ぶり。塩味マニアの人は喜ぶらしいけど、あたしはやっぱり、こんな風に突き放されるのは嬉しくない。今みたいな状態になる前だってシニカルな物言いは多かった。だけど、同じ部屋にいるのに寂しくなるような態度をとられることは、ここ最近めっきり無くなっていたのに。

 

 やりきれない思いとともに出来かけのニキビにクリームを塗っていると、ホープはバッグから教科書とノートを取り出し、机の上に広げ始めた。

 

「……ホープ」

 

 ペンを走らせる音だけが聞こえてくる。

 

「答えたくなかったら、無視していいけど、さ」

 

 規則的なリズムで、ペン先は数式を並べている。

 

「春天、勝つの?」

 

 音が止んだ。

 

「勝ってくれるの?」

「……何バカなこと——」

「あたし、ホープが勝つと思う」

 

 ペンの音が再び鳴り始めた。

 

「多人数立てなら、何があるかわからないよ」

「わからないって……」

 

 一体どうするつもりなんだろう。前が開かなかったことにして、わざと壁に突っ込んでみる? スタート直後に転んでみる? ……ダメだ。どれも不自然だし、故意じゃないと認められたって、応援チケットを握りしめたファンたちは納得しないだろう。ホープはもう、それで仕方ないと許されるようなウマ娘じゃなくなっている。

 

「出るなら、勝ってよ。勝ちに行ってよ」

 

 ペンの音はもう止まらなかった。

 

「アンタは、一人じゃないよ」

 

 その日はもう、電気が消されるまでホープは一言もしゃべらなかった。

 

 

 翌朝、目を覚ますとホープはすでにいなかった。ふと見れば、机の上に一組分の替えの蹄鉄が残されている。

 

 ズキン、と頭に痛みが走った。やっぱり、似ている。

時刻は午前六時。言いつけを破っていないのなら、こんな朝からトレーナーは寮まで呼び出されたんだ。本当に、大変な仕事だ。

 

 朝の身支度を済ませ、朝食をとって寮棟を出た。

 

 昨日五人で歩いたせいか、同じ道を反対に進んでいるだけなのに、一人でいると妙に心細い。ざわざわとした正体の分からない胸騒ぎが襲ってくる。知らず知らずのうちに、あたしはどんどん早足になっていった。

 

「あっ、あの!」

「え?」

 

 もう少しで正門前、というところで、聞き覚えの無い声に呼び止められた。

 

「えーと、る、ルピナス、さん、ですよね?」

 

 見れば、それは水色のランドセルを背負った人間の女の子だった。片手に白い封筒を握っている。

 

「そうだけど……どうしたの? って、うわ」

 

 こちらが話しかけているうちに女の子はトコトコと駆け寄ってきて、勢いよく手に持っていた封筒をあたしの胸元に押し当ててきた。

 

「ちょ、ちょっと、何々? こわいな」

 

 女の子は何にも言わない。

 

「えちょ、これ、何、どうしたらいいの、ちょっと」

 

 戸惑うあたしに、なおも女の子は封筒を押し付けてくる。

 

「わ、何あれ、ファン? 朝からスゴ。がっこ行く途中かな?」

「あれルピナスじゃん。やっぱヒトの子からの支持アツいよねえ」

 

 周りのトレセン生たちのヒソヒソ声が聞こえてくる。ちくしょう、見てないで助けてってのに。

 

「受け取ってやんなよ、ルピナスぅ!」

 

 とうとう冷やかしまで飛んできた。

 

 正直、ファンレターなら嬉しくないこともないんだけど、こんな感じの突撃なんて初めてで、どう対応していいか分からない。というか、こういうの禁止じゃなかったっけ?

 

 女の子は緊張しているのか、ブルブル震えながら今にも泣きだしそうな顔をしている。

 

「えーと、お、お手紙? かな? あたしのこと、応援してくれてるの?」

 

 仕方なく、押し当てられた封筒をそっと手に取った。

 

 その途端、女の子は一目散に逃げ出した。

 

「ええ!? ちょっと、待ってよ!」

 

 急すぎる展開に頭がついていかない。相手は人間、捕まえようと思えば簡単にできただろうけど、怖がらせたら今度こそ泣かれそうだと思うと、できなかった。結局あたしはバカみたいにその場に立ち尽くして、女の子の後ろ姿を見送るだけだった。

 

「なん……だかな、あれ」

 

 呼び止められた最初の会話以外、女の子とはろくにコミュニケーションが取れなかった。残ったのは、押し付けられて皺が寄った白い封筒だけ。厚み的に、ちょっとした手紙が入っているだけだと思うけど、何とも訳の分からない渡され方だった。どっかで聞いた限界オタクって、ああいうのを言うんだろうか。

 

 教室に向かうと、ボンが入り口で待ち構えていた。

 

「おはよ」

「おはようルピナスちゃん!」

「ホープ、来てる?」

「う、うん。さっき朝練が終わったとこ、だけど……」

 

 事務的な報告をしながら、ボンはどこかそわそわした表情をしていた。

 

「なに、どしたの」

「ルピナスちゃん、ファンの子に絡まれたんだって?」

「はい!?」

 

 さすがトレセン学園、噂が回るのも早い。

 

「誰から聞いたの」

「カイちゃんから」

 

 教室の中を覗くと、カイが口笛を吹きながらハートサインを送ってきた。全く、どこから見ていたんだか。

 

 席に着いた後も、ボンは前のめりになって詳しい話を聞きたがった。

 

「女の子からだって?」

「そうだけど、何かちょっと変な子だったよ」

「お手紙もらったんでしょ? 見せて?」

「うん。これなんだけど——」

 

 あたしはボンに言われるがまま、鞄にしまっていた封筒を取り出そうとした。

 

(あれ?)

 

 だけど、すんでのところで、はたと手が止まった。

 

「やっぱ、ダメだよ。こういうのは一回トレーナーを通してからって約束でしょ」

 

 もともと評判が悪かったチーム〈プルート〉では、ファンからの贈り物や手紙は全部、一度トレーナーのチェックを受けることになっている。今まで直接突撃してきて手渡しなんてことは無かったけど、決め事に従うなら、これも一旦はトレーナーに預けなくちゃいけない。

 

「えー? でもほら、私もトレーナー助手だし」

「バカ。ダメだっつーの」

 

 おでこに一発デコピンをくれてやると、ボンも残念、と舌を出して引き下がり、一時間目の準備をするためにロッカーの方へ去っていった。

 

 ホッと一息ついて、あたしはあたりをキョロキョロ見渡してから、さっきの手紙を、そっと取り出した。

 

 宛先も何も書かれていない無地の白い封筒に入ったそれは、一見、何の変哲も無いファンレターみたいに見える。

 

 だけど、それを見ているあたしの胸は早鐘を打っていた。

 

 理由は分からない。根拠も何も無い。だけど、どうしてかあたしには、この手紙が酷く悍ましいものに思えてならなかった。

 

 さっきボンの申し出を断ったのも、トレーナーとの約束を思い出したからじゃない。彼女の前に差し出すのが、急に怖くなったからだ。

 

「ねえ、ルピナスちゃん」

「あ、あたし、ちょっと」

 

 教科書の類を揃えたボンが、笑顔で話しかけてくる。

 

 あたしは返事もそこそこに、椅子から弾かれたように立ち上がると、教室を飛び出した。ボンの驚く声が背後から聞こえたけれど、あたしは振り返りもせずにそのままトイレの個室へ駆け込んだ。

 

 個室の中で、握りしめた封筒に目を落とした。

 

 どうしよう。今からでも授業をぶっちぎって、トレーナー室に持っていこうか。あたしの理性は、そうしろと告げている。

 

 だのにあたしの瞳は、封筒の口に吸い寄せられていた。

 

「はあ、はあ、はあ」

 

 呼吸が荒くなる。心臓の音が大きく跳ねる。

 

 正しくないのは分かっている。止めた方がいい。何ならトレーナーのところへなんか持って行かず、このままビリビリに引き裂いて、捨ててしまった方がいい。

 

(ダメ、ダメ、ダメ……!)

 

  〇

 

 気付けばあたしは、安っぽく糊付けされた封に、爪を立てていた。

 

 中には一枚の便箋が、二つ折りにされて入っていた。おそるおそる、開いてみる。

 

 一目見て、汚い字で書かれたその手紙の、一行目に書かれていた言葉が目に入った。

 

「………………!!!」

 

 その瞬間、うすぼんやりとして形が分からなかった恐ろしさが、一瞬にしてくっきりとした輪郭をとって現れた。

 

 あたしは声にならない悲鳴を上げると、手紙をぐしゃぐしゃに丸めて、手のひらの中で握り潰した。

 

 やっぱり、こうして正解だった。

 

 これは誰にも見せられない。ボンはもちろん、トレーナーにも。

 

 きっとトレーナーはあたしを問いただすだろう。もう手紙の噂はそこまで届いたに違いないから。そうなったとき、あたしは手紙の中身を黙っていられるだろうか。いやそもそも、あたしが口を噤めば噤むほど、かえってトレーナーには感付かれてしまうだろう。

 

 たとえそうなったとしても、アイツには、アイツにだけは、死んでも隠し通さなきゃいけない。何を聞かれても、しらを切りとおさなくてはいけない。

 

「ホープ……!」

 

 ホームルーム開始の鐘が、聞こえた。

 

 

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