ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#64-送られたモノ

 二人きりになったプルートの部室で、あたしはひたすら机の天板に刻まれた傷を見つめていた。

 

「ルピナス」

 

 トレーナーは許してくれる気配すら無い。かれこれ三十分は経っただろうか。

 

「ずっと、そのままでいるつもり?」

 

 何も答えられない。時が過ぎるのを待つしかない。

 どうか、何も気付かれませんように。その可能性に、行き着かれませんように。

 頭の中で念仏のように唱えながら、トレーナーとの根比べは続いた。

 

 予想していた通り、トレーナーは昼休みが終わるなりすぐにあたしを呼び出した。

 最初の一言は、穏やかなものだった。

 

「聞いたよ。ファンの子から手紙渡されたんだって? チェックするから、出してごらん」

 

 どことなく嬉しそうにすら聞こえる声色だった。

 

「ごめん、失くしちゃった」

「え? またまた、問題なければちゃんと返してあげるから」

 

 あたしの返事も、はじめは冗談だと思っているようだった。無理もない。あたしたちがファンレターのチェックを嫌がるなんて、今まで一度も無かったのだから。そもそも、トレーナーの目を通さない物がこちらの手元に届くこと自体、初めてだけど。

 

「そうじゃなくて、失くしちゃったんだってば。だからもう無いよ」

「……本気で言ってるの?」

 

 トレーナーの顔色は少しずつ変わっていった。

 

「どうしたの。何か、見せたくない理由でもあるの?」

「別に、何も」

「だったら」

「だから言ってるじゃん。失くしたって。どっか行っちゃったの。もういいでしょ。それより今日の——」

「ルピナス」

 

 我ながら下手くそな言い訳にうんざりする。こんなの、何かあったと自白しているのと変わらない。

 

 トレーナーはスマホを取り出すと、どこかへ電話をかけた。

 

「——うん、私。ごめんね、待たせて。……で、ちょっとお願いがあるんだけど。……そう、ホープのこと。今日はそのままボンが見ていて。……うん。ごめんね。ちょっと、ルピナスのことで。……そう。それ。じゃあ、お願いね。……もちろん。知らせない方が良いから。ああそれと、分かってると思うけど、学園からは絶対に出ないで。外周も無し。うん、よろしく」

 

 助手への指示をひと通り済ませたところで、トレーナー室の扉をガラリと開いた。

 

「来なさい」

 

 見覚えのある、あの顔で。

 

 

 そして今、あたしは部室という名の取調室に閉じ込められている。

 

 ドアの隙間から漏れ聞こえてくる学生たちのはしゃぎ声は、室内の空気とはあまりにも違っていて、逆に笑えてくる。

 

 ロッカーの中を隅々まで(あらた)めたトレーナーは、目当てのモノがどこにも無いと分かると、前髪をぐしゃぐしゃと搔きむしって、あたしの向かいのパイプ椅子に腰を下ろした。

 

「捨てたの?」

「さあ」

「ルピナス」

 

 名前を呼ばないでほしい。ただでさえ、罪悪感で今にも吐きそうなんだから。

 

「もう見せなくてもいい。だから、これだけは答えて」

 

 ドキリ、と胸が鳴った。思ったとおり、そう来るよね。

 

「質問によるよ」

 

 声が震える。トレーナーの顔が見られない。飾り気のないトレーナーの手のひらが、貧乏ゆすりみたいに細かく上下している。

 

 何だよ。そっちだって、ドキドキなんじゃないか。だったらもう、忘れちゃおうよ。聞かないでよ。聞かれちゃったらあたし、知らん顔のまんまじゃいられない。あたしはホープみたいに、他のみんなみたいに、仮面を被るの、上手じゃないんだから。

 

「手紙は、あなたに宛てたものだったの? ……それとも」

「————!!」

 

 喉の奥から、変な声が出た。もう声とも言えない、音。

 

 もう分かった。トレーナーがあらかた見当をつけてしまったのだということは、よく分かった。だから、これ以上言わないでほしい。その先は聞きたくない。聞かれたくない。

 

「ホープ、なんだね」

「……違う」

「ルピナス」

「違うってば!」

 

 バカみたい。言えば言うほど、とはまさにこのことだ。

 

「もうやだ! あたし、帰る!」

 

 あたしは机を蹴り上げる勢いで立ち上がった。ドアに駆け寄り、かけられた鍵に手を伸ばそうとした。

 

 けれどもすんでのところで、トレーナーが両手を広げて立ちはだかった。

 

「どいて!」

「ルピナス、落ち着いて」

「どいてよ! どかないと……」

 

 あたしはこぶしを振り上げた。もちろん、本当に叩く気なんてなかった。トレーナーが少しでも目を閉じたり、身を庇う素振りを見せたりしてくれたら、その隙に部室を飛び出すつもりだった。

 

 けれどもトレーナーは、まっすぐあたしを見つめたまま、一歩も動こうとしなかった。

 

「どいてよ……ねえ、トレーナー」

 

 一度上げた手を下ろせず、そのままの姿勢であたしは懇願した。

 

「本気だよ。どかないと、あたし……」

 

 あたしの覇気が弱すぎるせいか、トレーナーはピクリとも反応しない。だんだん肩が痛くなってくる。腕を高く掲げ続けるのがこんなに大変だなんて、知らなかった。

 

「ルピナス、落ち着いて。何があっても私は、あなたを責めたりしないから」

 

 視界の中のトレーナーが、ぐにゃりと歪んだ。

 

「大丈夫。どうしてもと言うなら、ホープには伝えないから」

 

 瞳が痛む。壊れた蛇口のように、涙があふれだす。立っていられないほどの眩暈がして、あたしはその場にへたりこんでしまった。

 

 トレーナーは床に膝をつくと、あたしの身体を抱き寄せた。

 

「ごめんね。私が一人で背負うべきものを、あなたに背負わせてしまって」

 

 あたしは何も言っていない。だけどトレーナーの言葉は、あたしが意図せず抱え込んでしまった重荷の意味を見抜いているようだった。

 

 淡々と、落ち着き払った声色で、トレーナーはあたしの耳の後ろを撫でた。その手は冷たかったけれど、熱されて煮えかけのあたしの頭には、ちょうどよかった。

 

「でも、だからこそ、私にだけは教えてほしい。……そうでないと、あの子を守れないかもしれないから。私もう、そんな後悔は二度としたくないの」

 

 左の太もものあたりが疼いた。

 

「お願い、ルピナス」

 

 ……嫌だ。嫌だ。嫌だ! あたしの本能は、そう叫んでいる。

 

 だって、もう、天皇賞本番まではあと十日しかない。こんな時に、トレーナーの心を、ひいてはホープの心を揺さぶりたくはない。せめてレースが終わるまでは、あたし一人が飲み込んでいればいい。手紙の問題は後からどうとでもなる。でも春の天皇賞は、一年にたった一回、この時期にしかない。だから、嫌だ。何と言われても、少なくとも今は、打ち明けたくない。

 

 ……だったらどうして、捨ててしまわなかったの。

 

 スカートのポケットの中で、クシャクシャに丸められたそれは、まだ息を潜めている。

 

 なぜそうしたのかは自分でも分からない。誰かに拾われて、読まれるのが怖かったから? 違う。それなら燃やしてしまえばいいだけだ。別に、材質的に特別な処理をしなきゃいけない代物じゃない。中身はどうあれ、結局はただの紙。ただのゴミなんだから。

 

 けれどもそのゴミは、手のひらサイズ以下に握り潰されても、捨ててしまうには重すぎた。叶うことなら、誰かに引き取ってもらいたい。心のどこかで、そう思っていたのかもしれない。

 

 あたしは汗でベタベタになった手をポケットの中に滑り込ませた。そして、中からその重くて重くてどうしようもない紙屑の塊を取り出した。

 

「これ、ね」

 

 トレーナーはほんの一瞬、息を詰まらせた。モノが無事受け渡されると、あたしたちは互いに支え合いながら立ち上がり、元の位置に座りなおした。

 

「ありがとう」

 

 そう言うと、トレーナーはちびた消しゴムみたいになったそれを、破れないように慎重に開いていった。読んで良いかと聞かれなかったことに、あたしはホッとしていた。今更とはいえ、もしそう尋ねられたら、やっぱり嫌だと叫んでしまっていたかもしれないから。

 

 やがて、細かい皺だらけになりながらも、便箋は元の平たい形を取り戻した。

 

「…………」

 

 紙に記された文字に目を落としたトレーナーは、何にも言わなかった。動揺したり、息を呑んだりする様子もなかった。

 

 あたしはというと、紙が広げられた後はただ目を閉じて、トレーナーの検分が終わるのを待っていた。

 

 長い、長い時間だった。

 

「読んだよ」

 

 その一言が告げられて、ようやくあたしは恐る恐る目を開けることができた。

 

 チカチカする視界の中、トレーナーの顔はこの短時間で幾分老け込んだように見える。

 

「なるほどね」

 

 必死に平静を保とうとしているのが分かる。頬の内側を噛んで、指先をトントンと机に打ちつけている。そうして何度もヨレヨレの紙きれに目を落としていたトレーナーは、やがて疲れ切った声を絞り出した。

 

「もう、逃げ回るわけにも、いかないのかもね」

「それって……」

 

 その言葉が意味するところを知っているあたしは、急いで首を横に振った。

 

「ダメだよ! こんなの絶対、罠に決まってるもん」

「ルピナス、こういうのは、そんなに単純な話じゃないの」

 

 諭すような口調でトレーナーは言った。たしかにそうかもしれないけど、だとしても、この手紙がホープにとって良い報せになるとはとても思えない。

 

「だって、おかしいじゃん」

 

 あり得ない。

 

 

 ホープに、妹がいるだなんて。

 

 

 手紙は、こんな一文から始まっていた。

 

『ルピナストレジャーさまへ この子はわたしの実のむすめホープアンドプレイの実のいもうとです』

 

 この子、というのは、あの時あたしに封筒を押し付けてきた少女のことだろう。差出人は、あれがホープの妹だと主張している。

 

 到底信じられない話だった。まずもって荒唐無稽すぎるし、手紙自体の筆跡もひどいものだったから。

 

 たどたどしい日本語に、曲がった文字。ホープの親だというのなら、どんなに若く見積もったって三十代のはず。手紙には、そんな大人が書いたとは思えない文章が、とりとめもなく羅列されていた。

 

 曰く、自分はホープの母親である。

 

 曰く、レース雑誌で調べてあなた(あたしのこと)がホープの同室だと知った。本人に会えそうもないから、あなたに手紙を渡すことにした。

 

 曰く、自分は学園のそばに近寄れないから、娘を使った。

 

 曰く、すでに夫とは離婚して、ホープの親権は自分が持っている。

 

 曰く、元夫が何を言ってきても、決して彼に親権を渡さないでほしい。

 

 そして最後の一行は、便箋の端に詰め込むように潰れた細かい字で書かれていた。

 

『しょう来のことを相だんしたいので 過去のことははんせいしたので 私は何もしませんから 一どトレーナーさんに会いたいですおねがいします いんの先生にもれんらくします』

 

 あたしはくらくらする頭を抑えて、尋ねた。

 

「ねえ、こんな話、信じるの?」

 

 父親がホープを訪ねてきてから半年も経たないうちに、今度は母親からの手紙。しかも、すでに別れているだの、親権の取り合いみたいな話だの。

 

 本当に母親が手紙を送って来たと考えるより、父親が手段を選ばずに近寄ろうとしてきたと考える方がまだ理解できる。ホープ本人じゃなくトレーナーを呼び出そうとしているのだって、邪魔者を排除するためだと思えば、スジが通る。

 

 分かってるよ。信じるわけないでしょう? ——当然、そう答えてくれると期待していた。

 

 けれどもトレーナーは、なかなか思ったとおりの返事をくれなかった。金縛りにあったみたいに一点を見つめて、瞬きだけをくり返し、一生懸命に何かを考えている様子だった。

 

 あたしは直感した。トレーナーはきっと、まだあたしの知らないことを知っている。そしてそのせいで、手紙の内容は嘘だと切り捨てられなくなっている。

 

「……ほんとに、ほんとなの?」

 

 怖かった。もしもこれが真実なら、あたしの頭では耐えきれそうにない。父親の件だけでもどうしたらいいか分からない状態だったのに、戦わなきゃいけない相手が二人に増えるだなんて。

 

 トレーナーはためらいがちに口を開いた。

 

「わからない。でも、あの子の代わりに私が会えばいいって言うのなら、あるいは——」

「何言ってんの!」

 

 思わず遮ってしまった。

 

 考えたくないけれど、もしもこれでトレーナーの身に何かあったら、一番苦しむのは他でもないホープだ。

 

 あたしは、ホープの過去をよく知らない。だけど、ホープにとってトレーナーが、とても大切な人なんだってことは分かる。あたしの知る限り、ホープが自分から話しかけたり、近寄っていったりする大人なんて、トレーナー以外には施設のサカイさんしかいない。それはきっと、二人がホープの生きるための道を——もっと言うなら、命を——守ってくれた人だからだ。

 

「アンタはね、ホープの、特別な人なんだよ! ……カッコつけてる場合じゃ、ないんだよ」

 

 すると、トレーナーはすぐさま答えた。今度はさっきと違って、少しもためらう様子がなかった。

 

「だったら、なおさら私が行くべきだよ。格好の問題じゃないの。さっきも言ったけど、もう二度と後悔はしたくないから」

「じゃあ、あたしもついてく!」

 

 放っておけるわけがない。いざとなったら、相手をぶっ飛ばしてでもトレーナーを無事連れ帰らなきゃ。

 

 トレーナーは驚きよりも怒りに近い態度で声を荒げた。

 

「あなたこそ何言ってるの。大事な時期なのに、何かあったらどうするの!」

「あたし、トレーナーより強いもん! 忘れてんの? あたし、ウマ娘なんだよ!」

「そういう問題じゃありません。私はヒトでも大人。あなたはウマ娘でも、子供なの」

「アンタだってまだ——!」

 

 その時、トレーナーのスマホがけたたましい着信音を鳴らした。いつの間にか立ち上がっていたあたしたちは、互いに顔を見合わせて乱暴に腰を下ろした。

 

 出なよ、と目で合図すると、トレーナーはスマホを取り上げた。その画面に指を下ろす瞬間、険しい表情を保っていた顔がわずかに揺れた。発信元の相手の名にたじろいだのが分かった。

 

「……はい。ナギサです。お世話になっております。……ええ。…………」

 

 沈黙はしばらく続いた。相手の話に耳を傾け、時折こくこくと頷きをくり返す。それから一つ、大きな息を吐き出した。

 

「今、あります。ここに。……見ました」

 

 ゾク、と寒気が走った。トレーナーの視線が、机の上に放り出された怪文書に向いている。

 

 電話の相手は誰だろう。どうして、手紙のことを知っているんだろう。

 

 考えを巡らせて、すぐにある言葉が思い出された。

 

 それは、最後に書かれていた、あの一節。

 

『——()()()()生にもれんらくします』

 

 いん? いんって、何だ。

 

 員、印、院、陰……思いつく字はたくさんある。その中で〝先生〟に繋がる一番それらしいものなら、院……()()()()

 

 院といえば、病院、大学院、寺院、それから……。

 

 あたしが答えにたどり着いたのと、トレーナーの電話の相手への返事は、ほぼ同時だった。

 

「……では、事実、なんですね? サカイさんの方にも、お電話があったんですね」

 

 子供を保護する施設の、古い呼び名だ。あれは施設の先生——サカイさんに連絡する、という意味。

 

 モモイロビヨリのそれをあっさり抜き去って、この世で一番正解したくないクイズになった。

 

 そして、立て続けにとどめの一言が聞こえてきた。

 

「はあ、お母さま、ですか……」

 

 息を整える暇もなく、急ピッチで裏付けが進んでいく。

 

 手紙のとおり連絡が行き、その人物は、ホープの母親を自称している。

 

 じゃあ、あの女の子は、本当にホープの……?

 

 こんなことになるのなら、顔をもっとよく見ておくんだった。大した根拠にはならないだろうけど、似ても似つかない顔だったら、もっと確信をもって嘘だと思えたのに。

 

 ……顔。そうだ。まだ、そうと決まったわけじゃない。

 

『……サカイさんの方にも、お電話があったんですね』

 

 トレーナーはそう言っていた。サカイさんに電話をかけたのは、もちろん手紙の差出人だろう。だけど、それが本当にホープの母親なのか、実際に会って確かめたわけじゃない。それなら、誰かが名を騙っただけの可能性だってある。やっぱり怪しい。

 

「ええ。では明日。とりあえず午前九時に、そちらへ伺います。……大丈夫です。いろいろありまして、こちらも早い方が良いですし、その時間であれば、子供たちは授業中ですから。十三時までに戻れれば、問題ありません」

 

 そうしている間にも、トレーナーはてきぱきと例の相手と会う段取りをつけていっているようだった。手帳に何やらぐしゃぐしゃと線を引き、その上から別の文字を書き込んでいる。

 

「では、よろしくお願いいたします。……はい。失礼いたします」

 

 ペコペコお辞儀を繰り返して通話を切ったトレーナーに、あたしはすぐさま話しかけた。

 

「ねえ」

「ダメ」

「まだ何も言ってないよ!」

「何と言われても、ダメ」

 

 取り付く島もない。

 

「あなたもあんまり長いことやきもきするの、嫌でしょう。すぐに片を付けて、結果を報告するから」

 

 電話がかかってくる前までの雰囲気と違って、不気味なほど落ち着いているように見えた。

 

「そんな顔しないの。大丈夫、サカイさんにも立ち会ってもらうし」

「サカイさんって、去年入院してた病人でしょ! 当てにしないでよ!」

 

 口にしてしまってから、我ながら失礼な物言いだったと後悔した。怒られるかもと身構えたけれど、トレーナーは全く気にする様子もなくあたしの肩をポンポンと叩いた。

 

「施設には、他のスタッフさんも大勢いるの。いざという時は警察も呼んでくれる。だから心配しないで」

 

 あたしたちは互いに顔を向かい合わせているのに、どうしてか、目が合わない。瞳の向きはこちらを向いているはずなのに、トレーナーの視線は、あたしを突き抜けた遠いところを見ているみたいだった。

 

 寂しい。

 

 焦りよりも、不満よりも、真っ先に浮かんだ感情は、それだった。どこか身に覚えのあるその目は、あたしをもどかしくて切ない気持ちにさせる。

 

 それからあたしもずいぶん抵抗したけれど、結局最後までトレーナーの決心を変えることはできなかった。

 

 

 その日の消灯後、あたしはベッドの中で、ひそかにスマホの地図アプリを開いていた。

 

 去年のお正月、サカイさんの入院先に行った時のことを思い出したからだ。

 

 見舞いに来ていたホープはたしか、あの病院のすぐ近くの施設でお世話になっていると言っていた。病院の名前は忘れてしまったけど、場所なら大体覚えている。

 

 ……見つけた。

 

 付近のエリアで子供の保護施設を調べると、候補は一つしかなかった。間違いない。ここが、明日トレーナーが行くことになった施設だ。そして、ホープの家代わりだった場所、でもある。

 

 学園の最寄駅から、電車と徒歩で約一時間。トレーナーはああ行っていたけど、どうしても心配が勝つ。連れて行ってくれないのなら、どうにか理由を付けて授業をフケて、自力で……。

 

 その時、向かいのベッドの上に横たわるホープの寝顔が目に入った。起きているときは決して見せない、ほんの子供みたいなあどけない安らかな表情だった。

 

 あたしは我に返って、暗がりの中で光るスマホの画面を消した。

 

 バカなことを考えちゃダメだ。

 

 どんな理由があるにせよ、あたしがそんなことをして、ホープが喜ぶはずもない。バレないようにすればいい、とも思ったけど、どうせ上手くいかないだろう。体調不良でもないのに授業を無断欠席なんて、一体何をしてたんだと追及されるに決まってる。ただでさえ手紙の秘密を抱えているあたしが、ごまかしきれるはずもない。

 

 待つしかないのか。

 

 なんて、無力なんだろう。

 

『私はヒトでも大人。あなたはウマ娘でも、子供なの』

 

 トレーナーの言葉が、頭の中でリフレインする。

 

『アンタだって、まだ——』

 

 その先に続くはずだった、あたしの言いぶんと一緒に。

 

「子供じゃん。あたしたちと、同じ」

 

 独りよがりなシンパシーは、意識が眠りに落ちていくまでずっと、好き放題に暴れまわっていた。

 

 

 〇

 

 

「ルピナスちゃん、どうしたの?」

「おわ」

 

 窓の外を眺めていたあたしの前に急に手のひらが現れて、ビクッと身体が震えた。

 

「もう授業、終わったよ? お昼、行かない?」

「……あ、うん」

 

 口から出るのは生返事ばかり。うんと答えたくせに、あたしはその場から動けずにいた。

 

「あ、ホープちゃん、待って!」

 

 ボンの背後で、ホープが一人教室から出ようとしている。

 

「部室、行くんでしょ? 今日はトレーナーさん、まだお出かけしてると思うから、私がついてくよ。ちょっと待ってて」

 

 師匠から言い渡された仕事を懸命にこなそうとする助手に対して、あたしのルームメイトはじれったいと言わんばかりに舌打ちで答えた。

 

「ね、ルピナスちゃん、行こう?」

「うーん……」

 

 トレーナーからの連絡はまだ無い。

 

 こんな状況で、部室に行く気にはなれなかった。ホープやボン、他の仲間たちと、どんな顔をして過ごせばいいのか分からない。

 

「昨日、トレーナーさんと何かあった?」

「別に」

 

 こういう時、鋭いボンは困る。

 

「ごめん、先行ってて。トレーニングの時間までには行くから」

 

 内心ドキリとしたのを覆い隠すように、あたしは早口でそう答えた。

 

 ボンは不思議そうに首を傾げて、それから「あっ」と口元を抑えた。

 

「もしかして——」

 

 やばい。

 

 ボンは、あの手紙の存在を知っている。あたしが「トレーナーにチェックさせる」と言ったあと、中身がどんなものだったのかの報告をしていないことも。

 

 いいから行きなよ。早くしないとホープがイライラしてるよ。……そう言ってとりあえずこの場から名探偵を追い払おうとした。

 

 けれどもその言葉を口にする前に、ボンは「ま、いっか」と呟いて、あたしの机の前から離れてくれた。

 

「じゃあ、待ってるからね? 早く来てね?」

「おん」

「ホープちゃん、行こうか」

 

 そうして、急ぎ気味の足音が二人分、教室から出て行った。

 

 静かになった席で、あたしはシャーペンの芯を出したりひっこめたりしながら、ぼんやりと教室に掲げられた時計の針を見つめていた。

 

 そろそろ十二時半になる。十三時には戻るつもりだと言っていたんだから、いい加減会合を終えていなきゃいけない頃だ。

 

 LANEの通知を何度も何度も確かめる。

 

 まだかな。遅いな。あんまり遅いなら、こっちから通話、かけちゃおうかな。

 

 ジリジリして、不安で、けれども頭の奥の方が冷たくなったような不快感が続く。これが恋人の返信待ちなら、少しは感じ方も違うんだろうか。

 

「あ」

 

 ポキ、とシャーペンの芯が折れた。

 

 待ちに待った通知音が鳴り響いたからだ。

 

 チーム〈プルート〉のグループチャットに、トレーナーのアイコンが新しいメッセージと共に表示された。

 

『みんなごめん! 今から戻るので、三十分くらい遅れます。それまではボンの指示に従ってください!』

 

 すぐに既読が二つ付いた。それから時間差で、三つ、四つと増えていく。

 

 やがて各々に返した了解のリプが並び始める。ここだけ見れば、何の変哲もない業務連絡の体だった。

 

 ——ああ、良かった。

 

 結果どうなったのかはまだ分からないけど、とりあえず、トレーナーが無事帰ってくる。それだけで、あたしの心は大分軽くなった。

 

「行こ」

 

 一人、声に出して立ち上がる。やっと今日という日が始まった気分だった。

 

 校舎を出て、部室棟が並ぶグラウンド脇の広場へ向かう。急いだからと言って、トレーナーに会えるのが早くなるわけじゃないけれど、逸る気持ちがあたしの足をどんどん加速させた。

 

 途中、学園のメインストリートに出たところで、意外なものが見えた。

 

「あれ」

 

 正門入り口のところに、ホープとボンが立っていた。まだ制服姿のまま、スクールバッグを持っている。部室に行ったはずなのに、こんなところで何をしているんだろう。

 

「ちょっとー、ボン何してんの。早く……」

 

 ボンが鍵を開けてくれなきゃ、みんな部室に入れないのに。そう思って何気なく呼び掛けたところで、あたしは息を呑んだ。二人の格好より何倍も恐ろしいものを見てしまったからだった。

 

「あっ、ルピナスちゃん! あの、その……」

 

 ボンが慌てふためいた様子でこちらに振り返る。ホープの表情は、その影になってよく見えない。

 

「えっと、えっと、この子、どうしよう……」

 

 二人のシルエットの隙間から、水色のランドセルが覗いていた。

 

 

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