ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#65-名前を呼んで

 気が付くと、あたしは校舎裏のゴミ捨て場の前で息を切らしていた。

 

「おい」

 

 ホープの声が聞こえる。

 

「離せよ」

 

 握っていた手が、ブンと音を立てて振りほどかれる。

 

「……なんで、あんなとこに、いたの」

「キミの友達に聞けよ」

「友達に聞いてるつもりだけど?」

 

 ホープはため息をついた。

 

「正門の前で、あの子が守衛と話してたんだよ。泣きそうな顔しながらさ。……あの世話焼きが、そんなのを見かけて放っておくと思うか」

 

 質問しておきながら、ホープの話は半分くらいしか頭に入ってこなかった。

 

 あの子は何をしに来たんだろう。一体どこまで、ホープたちは聞いてしまったんだろう。事情も何も聞かず一目散に逃げてきたものだから、そのあたりのことが全然把握できていない。

 

 ちらりと横目で様子を窺うと、ホープはしかめっ面であたしを見つめていた。いつもの単に不機嫌そうなものじゃなく、不審の色が混じった顔で。

 

 その口元が、ゆっくりと開く。目が合わないように視線を逸らしたけれど、それで見逃してもらえるはずもなかった。

 

「あの子、何なんだ」

「あれは——」

 

 正直に言えるわけがない。

 

「キミに、迷惑をかけたって言ってた」

「そ、そう! そうなの! ほら、昨日アンタも教室で聞いてたでしょ。あたし、変な子から手紙もらったーって。実はそれがあの子だったんだよね。ちょっと、テンションがやばい子でさ、正直めちゃめちゃ怖くてー……」

 

 これ幸いと並べた嘘とまでは言えないセリフに、ホープはますます怪訝な顔になった。

 

「それだけで、何であんなビビってんだよ」

「だって、あれマジで怖かったんだよ。手紙の内容も……いろいろ、ヤバかったし」

 

 ホープはわざとらしくあたりをキョロキョロ見回した。

 

「そんなヤバい奴の前に、キミは親友を置き去りにしたってわけだ」

「ち、ちが……」

「違わないだろ」

 

 ホープの尋問は、トレーナーのそれよりも手厳しい。どんな言い訳も通用しないぞと言われているような気がしてくる。口先で勝負しようだなんてどだい無理な話だとはわかっていたけれど、ここまで容赦なく来られるとは思っていなかった。

 

「キミ、何か隠してるな」

 

 ——ほら、全部吐けよ。

 

 言われていないはずの言葉まで、勝手に聞こえてくる。

 

「ボクに関係ないことならどうでもいい。でも……」

 

 鈍い痛みが走る。

 

 ホープの小さな手が、さっきまでとは反対にあたしの手首を掴んでくる。ものすごい力だった。

 

「どうも、そうじゃないみたいだ」

「ちょっと、離して!」

 

 真っ黒な底なしの瞳が、あたしの心の中まで覗き込んでくる。

 

 怖い。まるで飢えた獣のような恐ろしい目つきに、あたしは震えあがってしまった。自分よりも二回り以上身体が小さな相手なのに、あまりの恐怖で動けない。

 

「ほ……ホープ、やめて。やめてよ。ねえ、離して」

 

 情けない声で、そう繰り返すだけ。そんな願いが聞き入れられるわけもないのに。

 

 ホープはそのまま、恐怖でへたり込んだあたしの耳元にそっと顔を近づけてくる。

 

 ——何をするつもりだろう。もう怖いことはしないでよ。

 

 心の準備をする余裕なんて無かった。すっかり怯えたあたしは、目の前の恐ろしいウマ娘がこれ以上怒りださないようにと考えるだけで精いっぱいだったから。

 

 そんなあたしの耳に、男の人みたいに低い声で、ぶっきらぼうな問いが投げつけられた。

 

「〝お姉ちゃん〟って、誰のことだ」

 

 血の気が引いた。いや、それどころじゃない。全身の血が逆流する音が聞こえてくるほどだった。

 

「お……おね……?」

「あの子が言ってたぞ。オマエに迷惑をかけたのは〝お姉ちゃん〟に会いたかったからだって」

 

 あたしはますます怖くなった。ホープの口調がだんだん変わってきたからだ。無愛想なだけじゃない。敵意をむき出しにして、上から殴りつけてくるような喋り方だった。

 

「何とか言えよ。オマエが知ってるヤツなんだろ。誰なんだよ。〝お姉ちゃん〟って」

 

 言えない正解よりも、あたしの頭の中は別の言葉で埋め尽くされていた。

 

 誰なの。アンタこそ、いったい誰なの。

 

 目の前にいるのが、本物のホープだなんて思いたくなかった。あたしの知っているホープアンドプレイは、あたしを「オマエ」なんて呼んだりしない。姿かたちこそそっくりだれど、態度はまるで別人だ。

 

「おい!」

 

 ホープに似た誰かは、黙りこくっているあたしを急き立てる。

 

「……ッ! しら、知らないよ」

「オレをバカにすんなよ」

 

 そいつはもう片方の開いている手であたしの顎を掴むと、ぐいと無理やり上を向かせた。ひたいに青筋を立てた芦毛のウマ娘が、あたしを血走った目で見降ろしている。顔を背けようにも、抑えられていて逃げられない。

 

「オレか、オマエか、どちらかだろうがよ。……あのガキ、ヒトの子じゃねえか」

 

 鼻と鼻とがぶつかりそうな距離で、芦毛のウマ娘のゼイゼイと喉を鳴らした荒い呼吸が叩きつけられる。

 

「——!」

 

 その音にも、短いふわふわの髪から漂う匂いにも、全部覚えがあった。信じたくない現実が、突きつけられる。よく似た別人であってくれたなら、どんなにか良かっただろう。

 

「それともなんだ、ショコラの姉みたいなことになってるヤツが、他にいるってのか。オマエの知り合いに?」

 

 あたしの絶望をよそに、ホープはほんのわずかに残った逃げ道までも丹念に潰していく。

 

 涙がぼろぼろこぼれて、止まらなかった。自分でも一体なんの涙か分からない。恐怖なのか、悔しさなのか、それとも悲しみなのか。何もかもが分からなくなったあたしは、ホープにされるがままの格好で、ひたすら泣いた。

 

「ごめんなさい……ごめん、ごめんなさい……」

 

 何度も、何度も同じ言葉を繰り返して。

 

「ルピナスちゃん! ホープちゃん!」

 

 ボンの叫び声が聞こえた。咳き込む彼女の息遣いからは、行き先も告げずに逃げ去ったあたしをあちこち探して走り回った様子が窺える。

 

「ホープちゃん! ホープちゃん! ダメ! ルピナスちゃんを離して!」

 

 こんな恐ろしい状況にもかかわらず、ボンはあたしたちの間にためらいなく割って入ってきた。どこにこんな力があったのかと思うほどの勢いで、あたしたちはすぐにボンの手によって引きはがされた。

 

「ルピナスちゃん大丈夫?」

 

 地面に倒れ込んだあたしは、上手く答えられなかった。声を出そうとすると、それを邪魔するように涙が出てきてしまう。

 

「ホープちゃん、何があったの? どうしてこんなことに——」

「ち、違う……ボク、ボクは……」

 

 ホープの声が、遠く聞こえた。さっきの別人みたいな調子とは違って、あたしの知ってるホープの声だった。

 

 それでも、様子はまだおかしい。

 

「ごめん……ごめんなさい。こんな、こんなはずじゃ……」

 

 謝っていたのはあたしの方だったのに、今度はなぜかホープが謝罪の文句を唱え始めた。

 

 ボンもすぐに異変を感じ取ったようで、努めて優しい声色で話しかけている。

 

「ホープちゃん、落ち着いて。大丈夫、私、怒ってないよ」

「ボク、ルピナスを……ボクは……違う! 違うッ!」

「ダメ! やめて! ホープちゃん、怪我しちゃうよ!」

 

 グシャグシャという何かを引っ掻き回すような音とともに、ボンが悲鳴を上げる。あたしは地面に突っ伏したまま、目を閉じて動かないでいた。別にどこか身体が痛んでいたわけじゃない。何が起きているのか、目にする勇気がなかっただけだ。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい!」

「待って! ホープちゃん!」

 

 足音が遠ざかっていく。よろよろとおぼつかないテンポだったそれは、次第にスピードを上げながら、フェードアウトするように消えていった。

 

 それからゾッとするほどの静寂がやってきた。声はおろか、息遣いさえ聞こえてこない。まるで世界にあたし以外、誰もいなくなってしまったみたいに。

 

 恐る恐る瞼を開いてみると、ついさっきまでいたはずの二人の姿はどこにもなかった。伏せていた身体を起こして、あたりを見回してみると、地面にキラキラ光る何かが落ちているのに気付いた。

 

「これ……」

 

 拾い上げると、それは透き通った銀白色の糸だった。

 

「ホープ?」

 

 姿が見えなくなった友の名を呼んだその時、風が吹いた。細く短い銀の糸はあたしの指先からほどけて逃れ、ふわりと宙に舞った。慌ててもう一度掴もうと手を伸ばしてみたけれど、糸はたちまち空気の中に溶けて、すぐに見えなくなってしまった。

 

「ホープ!」

 

 何が起きたのかを悟ったあたしは、急いでその場から駆け出して、学園のメインストリートに飛び出した。校舎の方、正門の方、女神様の噴水の近く。目を皿にしてあらゆるところを探した。

 

 いない。本当に、いない。

 

 もしやと思って部室棟の方へ行ってみたけれど、そこにもホープの姿はなかった。

 

 代わりにいたのは、部室の前で困り果てているクレセント以下、チーム〈プルート〉の仲間たちだった。

 

「ルピナスさん! いいところに。鍵をお持ちではありませんか? ご覧の通り閉まったままで入れなくて——」

 

 はじめ、クレセントは鍵を開けるべきトレーナー助手が遅れていることにあきれた様子だった。けれども汗ぐっしょりになったあたしの顔を見ると、すぐに表情を変えた。

 

「——どうなさったんです? まさか、クラウンさんに何か?」

 

「え、ルピナスさん、一緒じゃないの?」

 

「先輩、さっきからLANEにもお返事がないんです!」

 

 テンダーとショコラも心配そうな顔をしている。

 

 でも、その時のあたしには、彼女たちの言葉一つ一つに相手をしている余裕はなかった。

 

「ごめん!」

「あ、ちょっと、ルピナスさん!」

 

 クレセントの声を置き去りにして、あたしはもう一度正門前へ戻った。

 

 するとそこへ、目を真っ赤にしたボンがふらふらと寮の方角から歩いてくるのが見えた。

 

「ボン!」

「ルピナスちゃん!」

 

 あたしの姿を目にするなり、ボンはこちらへ駆け寄ると、わっと声を上げて泣き出してしまった。

 

「ごめん、ごめんね、ルピナスちゃん。私、ホープちゃんを……」

「ボン、いいから。大丈夫だから。……で、ホープはどうしたの。寮に帰っちゃった?」

 

 泣きわめくボンをなだめつつ、あたしは冷静を装ってそう尋ねた。

 

 とても嫌な予感がする。日経賞の時とは比べ物にならないほど恐ろしい予感が。

 

 あたしは知っている。こういう予感は、大体的中してしまう。ウマ娘の勘ってやつだろうか。

 

「ボン?」

 

 それでも、確かめたかった。

 

 あたしの問いに、ボンは首をふるふると横に振りながら、涙に濡れた声で答えた。

 

「どこにも、いないの」

「寮にも?」

 

 今度は頷く。

 

「駅の方に、走って行くのを見たって、そこのコンビニの、人が」

 

 そこから先は言葉にならなかった。

 

 

  〇

 

 

 汗がにじんだ顔を袖でこすって、あたしは懸命に息を整えていた。

 

 バッグの中では、ずっとスマホがバイブレーションを続けている。

 

 おそらく、あまり時間はない。そう遠くないうちに、トレーナーはあたしを探してここへたどり着くだろう。

 

 ——社会福祉法人、×××児童園。

 

 門前に掲げられた控えめなプレートには、たしかにそう書いてある。

 

 ここが、ホープの。

 

 あたしはぐっと唾を飲み込んだ。

 

 場所に間違いがないことは、もうはっきりしていた。部外者の立ち入りを禁ずる看板に、施設の園長の名として「堺」の文字が書かれている。サカイさんのことだ。

 

「ええと、す——」

 

 すみません、と声を出そうとして、とっさに口を押えた。

 

 他に当てもなく訪ねてみたものの、よく考えてみれば、ホープがここへ来ている保証なんてどこにもない。普通に考えたら、こんな分かりやすいところじゃなくて、もっと別のところへ行っている可能性の方がずっと高い。

 

 どうしよう。やっぱりおとなしくあのまま、トレーナーの帰りを待っていた方がよかっただろうか。

 

 ……バカ。今更何言ってんの。

 

 行かないでと泣いていたボンを振り払ってまで出て来たのに、これで何の成果もなくのこのこ引き返すんじゃ、無駄に迷惑をかけただけだ。

 

 一旦かけた迷惑なら、徹底的にかけてやる。そんでもって、絶対にホープを連れ帰るんだ。たとえここに来てなくたって、手掛かりくらいは掴めるかもしれない。

 

「すみませ——」

「おや」

 

 ちょうどその時、入ってすぐ横の建物から、人が出てきた。見覚えのある人だった。

 

「あなたは……!」

 

 驚いて目を丸くしている老人に、あたしは固く閉じられた鉄の門によじ登る勢いで叫んだ。

 

「サカイさん! あたしです! ルピナスです! ホープの、同室の!」

「本当にいらっしゃるとは……お一人ですか?」

「はい、あたし一人です」

 

 どうやら、すでにトレーナーから、あたしがここへ来るかもしれないとの報せを受けていたようだった。なら、事情も知っているはずだ。

 

「サカイさん、ホープ、見てませんか? ここに、来ていませんか?」

 

 離れるようにと手で促しながら、サカイさんは内側から門の掛け金を外してくれた。

 

「午前中、ナギサさんがこちらにお越しになっていましたよ」

「それは知ってます。そうじゃなくて、ホープです! 来てないんですか?」

 

 質問に答える前に、サカイさんはあたしを園の中へ招き入れ、もう一度重い門をガシャンと閉じた。

 

「そろそろ、子供たちが学校から帰ってきます。まずはお茶でも」

 

 そんなこと聞いてない。耳が遠いわけでもないだろうに。

 

 わざと話を逸らされてるな。そう思ったあたしは、声を少し荒げた。

 

「ねえ、サカイさん! ホープがいなくなっちゃったの! アイツがここにいるのかいないのか、ハッキリ言ってよ! いないんなら、他を探すから!」

「落ち着いてください、ルピナスさん。あまり大声を出されますと、心臓が悪いもので」

「アンタの心臓より、アイツの……!」

 

 カッとなっていたせいで、つい、口が過ぎてしまった。

 

「……すみません。ひどいこと言って」

 

 サカイさんは怒るでもなしに、そのままさっき出てきたところの扉を開き、あたしを手招きしてくれた。

 

「とりあえず、お入りなさい」

 

 優しい表情で、悪意なんて微塵も感じない。けれどあたしは、そこから一歩も動こうとはしなかった。何となく、このままサカイさんの言うことに安易に従ってはいけない気がしたからだ。それどころか、今すぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。

 

 何か、変だ。

 

「ホープがいるのかどうか、それだけ教えてください」

 

 建物に入ってはいけない。入ったが最後、出られなくなる。ウマ娘の勘が、再び働いた。

 

 あたしの頑なな態度に、サカイさんはしばらくじっとこちらを見つめていたけれど、やがて観念したように首を一度がくんと下げた。

 

 そして、低く沈んだ声で、言った。

 

「……残念ながら、あの子は戻ってきてはいません」

 

 どうせそうだろうと思った。もしいるのなら、すぐにそう言ったはずだ。

 

「でも、ナギサさんが来るまで、ルピナスさんはここに——」

 

 そういうことか。

 

「じゃあ、失礼しました」

 

 最後まで聞く必要なんかない。あたしは閉じた門をさっさとよじ登って乗り越え、外に出た。

 

「ルピナスさん、待ちなさい!」

 

 サカイさんが慌てた様子で叫ぶ。きっとトレーナーに引き留めておくように言われていたんだろう。しばらくしたらトレーナーが迎えにやってきて、あたしはいくつかのお小言をもらったあと、美浦寮に戻される。そういう算段になっていたはずだ。

 

 大人たちの考えは、いつだって正しい。捜索は大人に任せるべきだし、あたしは学園に戻って普段通りの生活に戻るのが、あるべき形だと思う。別にあたしは、そんないつだって正しい大人たちのことが嫌いなわけじゃない。できることなら、困らせたくない。

 

 だけど、今は良い子じゃいられない。

 

「行ってきます」

「ルピナスさん!」

 

 そんなに叫んだら心臓に悪いぞ、と思いながら、あたしは逃げ出した。

 

 途中、背後から別の若い男の人の声で「海の方! あの子は海が好きだったから!」という声が聞こえた。それは他のどんなものよりも、あたしの罪悪感をくすぐる言葉だった。

 

 

  〇

 

 

 冷たい風が、海に向かって吹き抜けている。まもなく五月を迎えるとはとても思えない寒さに、あたしは身震いした。

 

 トレセン学園を出た時は晴れ間が広がっていたのに、今や空には厚い雲が立ち込めていた。そろそろ夕陽が沈むころだけど、ロマンチックな夕焼けは見られそうもない。

 

 施設の最寄駅からさらに電車を走らせ、大井を経て平和島へ。このあたりで海が見られる場所と言えば、その周辺だ。

 

 平日の公園広場には、数人の人がまばらにいるだけだった。

 

 海が好きだった。ただその一言だけを頼りにしてここへやって来たけれど、ホープの姿は見渡す限りどこにも無い。

 

 当たり前だろ。バカじゃないの。

 

 ホープがいたら、絶対に笑われていただろう。

 

 ただやみくもに探し回って、薄すぎる根拠でこんなところまで足を延ばして、結局見つかりませんでした、だなんて。

 

 笑われたっていい。あたしのそばに戻ってきてくれるなら、ずっと笑われていたって構わない。

 

「あっつ」

 

 そこへ耳に冷たいものが当たって、あたしは手のひらを上に向けた。気のせいか、と思ったけれど、二発目の感触はすぐさまやってきた。

 

「雨だ」

 

 泣き面に蜂とはこのことだ。傘なんて持ってきていない。ターフにいたって嫌いな雨。何もここで降らなくたっていいのに。

 

 悪いことは重なるもので、蜂の追いうちはこの程度で収まらなかった。

 

 ぐうう、とお腹が鳴った。そういえば、お昼から何も食べていない。いつもは食べたいと思ってもすぐに音を上げる根性なしの胃袋が、こんな時ばかり張り切ってくる。忌々しいったらない。

 

 寒さと雨と空腹とが、あたしの脚を重くする。

 

「出てきてよ」

 

 やがて心細くなったあたしは、ひとりでに呟いていた。

 

「お願い、帰ってきて」

 

 誰もいないところへ向かって、ぼんやりと呼びかける。はたから見たら、完全におかしくなったやつだ。

 

 雨は次第に強まって、いくらも経たないうちに、まるで今しがた海から上がってきたばかりみたいに全身ぐっしょりと濡れてしまった。一歩進むたびに、水を吸った靴下とローファーが擦れて嫌な音を立てる。

 

「ホープ」

 

 すっかり途方に暮れたあたしは、公園のベンチに座り込み、そこから立ち上がれなくなってしまった。

 

 雨に打たれながら、考えた。

 

 今頃、トレーナーたちはどうしているだろう。サカイさんは、あたしを引き留めておけなかったことを怒られているだろうか。ボンは、もしかしたら責任を感じて、あたしと同じようにそこら中を探し歩いているかもしれない。他のみんなは多分、言うことを聞いて寮で待っているはずだ。これ以上トレーナーの心配のタネを増やしちゃいけないって、よくわかっているだろうから。

 

 あたしだって、わかってる。わかってるつもりでいる。だけど、どうしても待っていられなかった。最後に見たホープの姿が、あんな別人みたいにおかしくなった姿だなんて、絶対に嫌だったから。一刻も早く、元の通りに戻ったホープの顔を、確かめたかったから。

 

 ——本当に、あれはいったい誰だったんだろう。ホープの中にいる、別の人格? たしかテレビか何かで、そういうのを見たことがある。マンガみたいな話だけど、過去につらい体験をした人は、心の中に別の人格を宿す場合があるって話。あの時あたしの前に現れたのは、そういう類のものだったのかもしれない。でも、だとしたら、今のホープはどっちなんだろう。どっちの人格が、どこで何をしているんだろう。

 

 雨が冷たい。寒い。身体が震えているのがわかる。だけど、どこへ行けばいいんだろう。このまま帰るのも嫌だ。だけど、もう行く当てなんて無い。

……違う。そもそも最初から、探す当てなんて無かった。ただじっとしているのに耐えられなくて、飛び出しただけ。

 

「ホープ……」

 

 あたしはもうほとんど壊れたレコードだった。

 

 

「バカか、キミは」

 

 幻聴だ、と思った。

 

人恋しくなったあたしが、頭の中で作り出したホープの幻聴に違いない。あたしはうつむいたまま、顔も上げずにいた。

 

「おい、死んでんのか」

 

 しつこい幻聴だった。

 

 恋しいと思ってはいたけれど、ここまで聞こえてくると、かえって寂しさが増してしまう。耳を塞いで、目を瞑ろうとした。

 

 次の瞬間、閉じかけた視界の端から、あたしのグズグズになった靴の足先に、もう一つ別の靴が現れた。

 

「えっ」

 

 頓狂な声とともに顔を上げると、白い髪と黒い瞳がこちらを覗き込んでいるのが見えた。

 

「生きてるじゃないか」

 

 前髪から水を滴らせながら、芦毛の少女はぶっきらぼうにそう言った。

 

「ホープ!」

 

 その身体に、抱き着いた。たしかに触れる。聞こえる。間違いない。本物のホープアンドプレイがそこにいた。

 

「どこ行ってたの! ほんとに、ほんとに、もう会えないかと思って、いなくなっちゃうんじゃないかって思って……!」

 

 とりとめのないセリフが、涙と一緒にあとからあとから湧き出してくる。ホープはその場に突っ立ったまま、あたしに好きなようにさせていた。

 

「バカ! バカ! バカ! もうこんなこと、絶対にやめて! 勝手にどっか行ったりしないで!」

 

 しばらくそうしていると、腕の中のホープの身体が、わなわなと震えはじめたのが分かった。

 

「ねえ、帰ろう? このままじゃ、風邪ひいちゃうよ」

 

 そう言って見上げたホープの顔は、あたしと同じ色の水に濡れていた。

 

「キミは、ほん、とに、バカだな」

 

「ホープ?」

 

 熱い雨が、あたしの頬にぽたぽた落ちた。

 

「ボクは、キミを、傷、付けた。……傷、付けちゃ、いけない、キミを。それなの、に」

 

 遠くで、車のブレーキ音が鳴った。

 

「ルピナスは、ボクを、ボクを、許して、くれる、の?」

 

 あたしはもう一度、ホープの身体を抱いた。

 

「アンタは、あたしを迎えに来てくれた。そうでしょ?」

 

 そう尋ねたとたん、わっと声を上げてホープが泣き出した。

 

「今日起きたことは、それで終わりだよ」

 

 雨音と泣き声の隙間から、こちらへ走ってくる数人の足音が聞こえてくる。

 

 あたしとホープ二人のバッグの中で、ブーンと震えるバイブレーションが、仲間たちを呼んでいた。

 

 

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