あたしの風邪が治ったのは、それから二日後のことだった。
名残惜しそうに唇を尖らせるトレーナー助手を追い出して、白い綿毛のような髪のルームメイトが、三日ぶりに寮の部屋へ帰ってきた。
「お帰り」
ずっと言いたかったその言葉を、そこでようやく伝えることができた。
「ごめん」
「違うでしょ」
そんな言葉が聞きたいんじゃない。
「……ただいま」
「よろしい」
少し痩せたように見える。正味痩せたあたしが言えた話じゃないんだけど。
「聞いたよ。全部、話したんだって?」
「ああ」
「どうしてそうしたのか、聞いてもいい?」
嫌な顔をするかと思ったけど、ホープは乾いた声で笑った。
「キミは全然変わらないな」
アンタは随分変わったよね。
二年前は、怖い顔して睨みつけてきただけだったのに。
「そう? 結構成長してるって、言われてるんだけどな」
「社交辞令だろ」
なんだ、アンタもそういうとこは変わらないじゃん。
「ね、教えてよ」
思っていたよりもずっと、ホープは落ち着いているようだった。だったらなおさら、知りたい。これまで頑なに守ってきた秘密を、どうして打ち明ける気になったのか。ボンはあたしへのけじめのつもりじゃないかと言っていたけど、そんなタイミングは他にもたくさんあったじゃないか、と個人的には思う。ロッカールームでパニックを起こした時だって、父親の影が忍び寄ってきた時だって、頼りないあたしだけじゃなく、もっといろんな仲間に助けを求めたってよかった。そのすべてで口を閉ざしてきたホープが、なぜ今。
「ボクはね」
ホープは、穏やかに答えた。
「ボクは、自分に罰を与えたんだ」
「罰?」
予想もしない強い言葉に、思わず口が開いてしまった。「罰を与える」だなんて、マンガやゲームでしか聞いたことがない言い回しだ。おまけに、そんなセリフを爽やかな顔で言うもんだから、逆に怖い。
「ボクは許されないことをしたから」
あたしの腕を掴んで凄んだことを言っているんだろうか。それとも、何も言わずに学園から逃げ出してしまったこと? どっちにしても、あたしの中では終わった話だ。雨の中で再会した時に、そう伝えたはずなのに。
「そ、そんなに思いつめないでよ。状況考えれば、あんな気分になったっておかしくないじゃん。別に誰も、アンタを責めたりしてないでしょ?」
言われてもいないことや過ぎたことを引きずるなんて、ホープらしくない。
ホープはあたしの手を取ると、あの時握りしめてきた手首をいたわるように撫でた。
「違うんだ」
「何が違う……あっふ、ちょっと、くすぐったい」
手当てに慣れてないとみえる手つきはぎこちない。尻尾を振って笑いながら身を屈めると、ホープはそっと手を離してくれた。
「……みんなにはまだ、話していないことがある」
「それって、アンタの言う〝罰〟と関係あるの?」
むずむずして仕方ない手首を掻いて、あたしは尋ねた。
「関係どころか、そのものだよ」
「いったい何なの」
あたしが見落としていることだろうか。それとも、まだホープが見せてくれていない、裏に隠した何かだろうか。……ひょっとして、やっぱり別の人格とか?
「多分、キミの考えてることは全部外れだよ」
「だったら早く言ってよ」
どっちかと言えば、こういう嫌味の方を罰してほしいんだけどな。
ホープは愉快そうに肩を震わせると、あたしの横をすり抜けて窓際に近づき、カーテンの端を持ち上げて外を眺めた。
「誰しも、反面教師っているもんだろ。あんなヤツにはなりたくないとか、あんな失敗はしたくないとか」
「何の話?」
なぞかけみたいな言い方はやめてよ。あたし、そういうのもう食傷気味だから。
「ボクにとっての反面教師は、ボクを、こんな風に育てた人間だった」
「あ、うん」
そりゃあ、そうだよね。当たり前、だよね。
考えなくたって分かる話だ。自分を愛情深く扱ってくれなかった大人みたいには、絶対になるまい。あたしが同じ立場だったら、きっと同じことを思ったはず。
「だけど、結局無駄な悪あがきだった」
「え?」
「ボクは自分で、あの人間の娘だってことを証明してしまったんだ」
「……それって」
あの日の出来事が、走馬灯のように蘇る。
あたしの手首を捕まえて、ギラギラに光った黒い瞳で、ホープはあたしを見下ろしていた。まるで別人の顔つきと声色で、腕力なら決して負けていないはずのあたしを、恐怖の力でいともたやすく抑えつけて。
「キミにも、ボクが何を言いたいのか、分かったかい」
「……違うよ」
嘘はつきたくなかった。だけど、分かったと答えるのも嫌だった。
だから、分かってしまったことそのものを否定した。
「違わないんだ」
「違う、違うよ!」
嫌だ。そんなこと言わないでほしい。アンタは、アンタを傷つけた人間と同じじゃない。同じなわけがない。
必死に訴えかけるあたしに対して、ホープは優しく諭す先生みたいに言った。
「いいんだ、ルピナス。キミはそう言ってくれると思った。でも違わないんだ。ボクにはもう、それがよく分かった」
「分かってない! 自分のことなんて分かるわけないよ! あたし、自分のことでも時々ワケ分かんなくなるもん。そういうもんだよ!」
「キミはそういうの苦手だもんな」
何楽しそうに笑ってんだ。勝手に納得すんな。
「必死に違う自分でいようとしたんだ。ずっと。ずっと。ボクは
「違うってば!」
たまらなくなって、あたしはホープに縋りついた。細い身体が、キュッと縮こまるのが分かった。
「クレセントが言ってた! アンタの過去なんて関係ない、これからどんな選択をするかが大事なんだって」
「アイツはボクに興味が無いだけだろ」
「うっさい。何だっていいの!」
いちいち冷笑を挟まれると調子が狂う。とにかく、重要なのはそんな話じゃない。
「アンタは、自分で選んだじゃない! 自分で努力して、違う生き方をしようとしたんじゃない! それだけで全然違うよ! 同じなんかじゃないよ!」
また余計な茶々を入れられたら困る。そう思って、あたしはさらに畳みかけようとした。
そのほんの短い息継ぎの合間に差し込まれたものは、予想された皮肉や自嘲のどれとも違っていた。
「すごいな、キミは」
「っ……何が!」
「今のそれ、ナギサの言った言葉、そのまんまだ」
ホープは笑っていた。笑っているのに、泣いていた。
「だからこそ、ボクはボクを罰しなくちゃいけなかったんだ」
「じゃあ、じゃあ、それで終わりじゃん!」
考えるよりも先に、口が動いた。
「アンタの罰はもう、これで終わり。これからのアンタは、また新しいアンタになればいいじゃない。そうでしょ? ほら、違うじゃん!」
うまく繋がってるようで、微妙に繋がっていない気もする。よく分からない。
「新しいボク、ね」
ホープの口角が、少し上がったように見えた。
「そうだよ。うん。そうなんだよ。だからさ、同じだなんて言わないで。もう、自分で自分を傷つけないで」
あたしたちは学んできた。人は成長する。ウマ娘だって、そうだ。いつか老いていくその時まで、あたしたちは変わっていくんだ。
たとえホープの中に幼い頃に植え付けられた種が残っていたとしても、その種が芽を出すことがあったとしても、だったら近くに別の新しい花や木を植えればいい。やがていつか、新しく育った草木に覆い隠されて、古い種なんて見えなくなってしまう。
「……そうだね。そうなると、いい」
まるで安らかに眠っているような顔で頷いていたホープは、次の瞬間、まっすぐな声で宣言した。
「だから、出るよ。春天」
〇
京都レース場の地下バ道で、あたしはトレーナーと二人、戦場に向かうホープの背中を見つめていた。
「本気なの」
トレーナーの横顔に、あたしは短く問いかけた。
「本気だよ」
視線を動かすことなく、トレーナーも短く答えた。
「責任、取れんの」
あたしの声は、語尾の小さな揺らぎとともに反響する。
「そのために、選んだ道だよ」
トレーナーの声は、澄んだ音叉の音みたいに、まっすぐだった。
「もしも、だよ。もしも負けたら、その時は?」
「あの子は勝つよ」
「そんなの——」
「どっちにしても、私が何とかする」
何だよ、それ。何とかするって、どうするつもり? トレーナーがその気でも、ホープが納得しなかったら、どうしようもないのに。
「いい、ルピナス」
そこではじめてトレーナーは、あたしの方に向き直った。
「あの子はこれから、人生を懸けて走るの。自分の人生を、自分の脚で、自分の力で選び取るために」
「う、うん」
トレーナーの袖に、皺が深く入るのが見える。
「あの子の母親になろうとしている私が、あの子を信じてやらなくて、どうするの」
衝撃的な報せは、最終追い切りの翌日に、チーム〈プルート〉一同の前で告げられた。
「私とホープは、春天の終了後に、親子の関係になるための準備を始めます」
しん、と静まり返ったトレーナー室の中で、みんな互いの顔を見合わせていた。全員、聞き間違いじゃないかと自分の耳を疑っていたんだと思う。
沈黙を最初に破ったのは、ボンだった。
「それは、ホープちゃんが、トレーナーさんの養子になるってことですか」
「そういうことになるね」
答えたのはホープだった。それでどうやら本気らしいと悟ったあたしたちに、トレーナーは事の経緯を話してくれた。
そもそもの話として、先日の手紙を送って来たホープの母親は、すでにホープの父親である夫と別れて、現在は別の男の人と一緒になっているらしい。あの時手紙を渡す役に使われた女の子は、その男の人との間に生まれた子なのだという。つまり、ホープとは父親の違う妹、ということになる。
別れた時に、ホープの財産や生活の面倒を見るための親権は母親の方が取った。とは言っても、もともと娘の養育を疎ましく思っていた両親の親権争いは、ほとんど押し付け合いのような形だったらしい。当然、母親はホープがこうしてトゥインクル・シリーズで活躍するまでは施設に任せきりのほぼ放置。面会の希望が出されたこともなく、親権を持っている親としての役割を果たしていたとはとても言えない状態だった。
そこを狙って、今になって親権を取り返そうとしたのが、父親の方だった。すでに十五歳になったホープの場合、親権者(親権の持ち主のこと)変更の手続きは子供の意思が尊重される。本人さえ望めば、自分が親としてホープの財産を管理できるようになると考えたらしい。実際はそう上手くいくとも思えないけれど。
これに慌てたのが母親とその新しい夫だった。何としても元夫であるホープの実父の要求を阻止しなければならないと考え、まずはホープに連絡を取ろうとした。けれどもその時点でトレーナーによるガードが堅くなっていることを知り、自分自身で会いに行くことはできないと判断。困った挙句とった手段が、父親違いの妹に手紙を持たせるというものだった。
あの事件の日にホープの実母に面会したトレーナーは、その時の印象をこう語っていた。
「悪い人ではなさそうだった。でもね、自分の意思があまりはっきりしない人でもあった。感情に流されやすくて、他人の言ったことにもすぐ影響を受けてしまう感じ。今回の行動も、どこまで自分で考えて決めたことなのか、正直言って分からない」
そして、サカイさんやホープに加え、弁護士とも話し合ったトレーナーは、決断した。
自分がホープの新しい親になって、ホープの親権をとる。
ホープの財産と身の安全を守る仕事を、部外者としてではなく、親の責任として行えるようにする。
これまでの経緯と現状を説明すれば、認められる可能性は十分にあるという。
実の両親がかつて押し付け合い、今度は奪い合おうとしている親の権利と義務を、トレーナーが代わりに背負う。思いもよらない手段のそれは、一発逆転の切り札のように思えた。
ただ、そう簡単な話じゃないともトレーナーは言った。
「親権が無くなっても、ホープの生みの親が、法律上の親子であることは変わらない。そして、親子は互いに支え合う義務があると定められているの。もしも彼らがホープに何か助けを求めたら、無理のない範囲では応えてあげないといけない。私がホープの親権を取っても、彼らの都合で勝手にホープのお金や自由を制限する権利が無くなるだけ。……こう考えると、実質的にはほとんど無意味な、本当に小さな一歩でしかないかもしれない。それでも、これがホープの自由な心の支えになるのなら……」
トレーナーのすぐ横に座って話を聞いていたホープは、一通りの説明が終わると、にっこりと微笑んで席を立った。
何か言ってやりたいのに何も言えないでいるあたしたちの前で、大きく伸びをして、勝負服用のクローゼットから、自身の鉄紺の勝負服を取り出した。
「一つ言っとく」
何のことかと頭に疑問符を浮かべていたあたしたちに、ホープはさらに衝撃的なことを口にしたのだった。
「今の話は全部、ボクが今度の春天で勝ったら、の話だよ」
「バッ……何言ってんの!?」
こんな大事な決定を、それとはまったく関係ないレースの勝ち負けで決めるなんて。 クレセントも、あり得ないと言いたげに首を振っていた。
「もしも負けたら、どうなさるおつもりなんです」
「その時は、ボクにナギサの子供になる権利はなかったってことで、今まで通り、ボクはあの人たちの子供だ。これからも郵便配達を続けてくれるなら、例の妹とやらと仲良くやるのも、悪くないかもな」
ホープの口調はすっかりいつもの調子だったけど、いつもと違ったのは周りの反応だった。
「いけません! ご自身の人生を試すような真似は!」
「そ、そうだよ! ま、負けちゃったって、トレーナーさんなら、ホープさんのこと、き、きっと大事にしてくれるよ」
「ルピナス先輩! 先輩は、これでいいんですか? ホープ先輩も、あの妹さんも、いつまでもあんなことを続けさせられたら……!」
口々に思い直すよう迫る仲間たちに、ホープは嬉しそうな顔で言った。
「みんな、ごめん。でも、これは譲れない」
あたしたちは全員、何も言い返せなかった。
「どうしてホープは、あんなことを言ったんだろ」
スタンドに到着して、ターフを見下ろしながら、あたしはそう呟いた。
あれから寮の部屋で何度も問いただしたけど、結局ホープは意図を教えてはくれなかった。
前日会見の映像を見ている時も、前夜祭の帰りを待つ間も、そして今も、その疑問がずっと頭の中から離れないでいる。
トレーナーはターフビジョンに映った出走者たちの映像を見つめながら、ふっとため息をついた。
「本当にね。どう考えても不合理で、他人から見れば、自分で自分の首を絞める約束でしかないように感じるよね」
「その言い方、トレーナーにはなんでか分かってるの?」
「私もそうだし、あなたも、それからうちのチームの全員、誰もがみんな、何となく同じ気持ちを持っているんじゃないかって、私は思うよ」
よく分からなかった。分かったのは、これ以上聞いても答えは教えてもらえそうにないなってことだけ。
ふと横を見れば、チームの仲間たちがそろって、緑の芝の中で豆粒ほどの大きさに光る白い髪に向かって、祈るような目線を送っていた。
『初夏の香りを運ぶ薫風のなか、淀に集いし十七人の優駿が、今間もなく春の盾をかけて激突します。天皇賞、春。出走者のご紹介をいたしましょう——』
作戦も、相手関係も、どうでもいい。とにかく一着でゴールインしてほしい。あたしのためじゃなく、ヒト生まれのウマ娘のためでもなく、チームの成績のためでもなく、ホープ自身のために。新しい未来を、新しいホープが切り開くために。これまで彼女のレースにかけてきた願いとは全く違う祈りが、チーム〈プルート〉のボックスを満たしていた。
「いよいよですね。みんな、今日は一段と気合が入っていますね」
カメラを従えたディレクターが、あたしの横から話しかけてくる。
「はい。今日は、特別な日なので」
「ですよね。僕も気合入りますよ。取材始まって最初のGⅠですからね」
ああ、そういえば、そうだったっけ。そんなこと、すっかり忘れていた。
「勝つしか、ないです」
「そうですよね。いやあ、僕も勝ってほしいなあ。テレビの人間としては贔屓目で見ちゃいけないとは思うんですけど、やっぱ思い入れがね、出ちゃうもんで」
「あはは、そういうもんですか」
全然ズレた会話のはずなのに、不思議と噛み合っている。それが妙に面白い。
ホープが盾を手に入れたら、勝利者インタビューとは別の場で、彼らにも全てを話して聞かせることになっている。ホープがこれまで戦ってきたものと、これから向き合っていくものについて、下卑た勘繰りの先手を打つために。
『シニア一年目の同期とともに連対率百パーセントを継続中。菊の舞台でのリベンジなるか。五十六年ぶりのヒト生まれGⅠ制覇を目指し、陣営の祈りを胸に挑みます。三枠5番、ホープアンドプレイ。チーム〈プルート〉所属。』
歓声が一段と大きくなった。いよいよ、勝負の時が来る。
●
今日は世界が広く見える。
ほんの半年前に見ていた景色とは、ずいぶん変わったものだ。
たった二〇〇メートル、スタート地点が後ろに下がっただけなのに。
でも、どこか似ているのかもしれない。
ボクはあの場所から逃げ出して、何キロも、何万キロも走ってきたつもりでいて、現実は少しも進んでいないどころか、むしろ後退し続けていた。
向かうべきだと信じていた行き先は、遠くかすんで見えなくなっていた。
行き先の見えなくなった世界は、広い。
広いくせに、どこへも行けない気持ちにさせてくる。
あれからボクはずっと考えていた。
ボクという生き物の、その行き先について。
ボクはどこかで、自分にはどうせ選べやしないと思っていた。
いや、未だに思っている。
ボクは何の力も持たないただの子供なのだから。
これまで何度も、痛いほどに思い知らされてきた。
彼女の願いを叶えることが、ボク自身の望んだことであったならば、どれほどいいだろう。
大人たちはいつだって、望むものと望まされたものの区別を曖昧にさせ、子供たちは、己が望んだものの価値すら知らないままに、本当に自分が選んだものかも分からない食事を味わっていく。
目の前に現れた果実が、楽園を統べる神が赦しを与えたもうたものか、蛇が唆した善と悪とを分かつものか、今ここに至ってなおボクには知る由もないのだ。
神は賽子を振らない。レースに絶対は無い。
ならばこの賭けは、すべてボクの脚で決められた、最初で最後の選択になるだろう。
歓声も、声援も、何も聞こえない。
解は凡て、ボクの脚が教えてくれる。誰のものでもなく、ボクのものですらない解を。
それでも願いを口にして構わないのなら…………。
どうか、——————。