ストレイガールズ   作:嘉月なを

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諸事情でウマ柱を作れませんでした。ごめんなさい。
一段落したら、別に作ります。


#68-そして、再び歩きだす

『スタートしました』

 

 長丁場のレースにふさわしく、落ち着いた調子の静かな一言で、戦いの始まりはコールされた。

 

『まずまずそろったスタートです。さあどうするか、まずは誰が行くか。ハナを奪ったのはやはり逃げ宣言のグレイスチャスカ、ティアラ出身のグレイスチャスカが行きます。二番手にスキッドロード、三番手アクロマート、四番手にパレカイコ、今日はしっかりと抑えて前を窺う格好』

 

「ホープ……ホープ?」

 

 声を出さずにはいられなかった。いつも陣取っているはずの最後尾に、見慣れた白い短髪が現れない。

 

 どこにいるんだ。まさか、もう転倒して競走中止とか……。そんな最悪の想像を消し飛ばすアナウンスは、直後に聞こえてきた。

 

『その外にホープアンドプレイ、こちらはいつもよりも良い出足だ』

 

「嘘……!」

 

 あのホープが、先団の好位につけたカイのすぐ外側にポジションを構えている。

 

「と、飛ばしすぎなんじゃ」

「それは無い。ホープはあれくらいのスピードをすでに身につけてる。二千ならともかく、三二のペースであの位置にいるのは、変じゃないよ」

 

 口から出た不安は、トレーナーがきっぱりと否定してくれた。

 

 先頭を行くティアラ出身の先輩ウマ娘を追いかけながら、集団はゆっくりと一周目の坂を登っていく。

 

『同期の二人を見据えて後ろからサファリストーリー、中団に昨年の覇者テンポラレスコ、淀の彼女は強いぞ、さらにその後ろグランプリウマ娘グランドネスター、さらにレッドクエーサーと続き、ミノリノヒカリがいます。その外から歴戦の勇者プライムディギタス、さらにヘビーシュタルク、アルノシャープ、リオネルコメットと続いて、少し離れてクロノスコート、今日はあまり行きません。その後アイヨリアオシ、そして最後方ユーズユアローフ。こんな態勢で一周目のホームストレッチへ入って参りました」

 

 名前を聞くだけでも錚々(そうそう)たるメンツだ。有マ記念を勝ったことがあるグランドネスターとクロノスコートに加え、去年のこのレースを制したテンポラレスコ。GⅠウマ娘だけでも、カイを含めて四人。他も重賞で活躍しているウマ娘ばかりだ。通算成績ポイントで比べた順位なら、ホープはおそらく下から数えた方が早い。

 

 でも、そんなのは関係ない。あたしたちにできるのは、もう全てを信じて、祈ることだけだ。

 

『スタートからの半マイルは49秒3、ややスローな入りとなりました。さあ先頭は変わらずグレイスチャスカ、二番手以下はやや縦長になった今年の天皇賞、グレイスチャスカが逃げる。大歓声に包まれた十七人の優駿が、これより二週目のバックストレッチに向かって、例年ペースが緩む第一コーナーへ入ってまいります』

 

 スタンド前の直線、隊列がゴール板の前を通過していく。あたしたちの一番近くを通っているはずなのに、関係者用のボックスから見下ろすターフはあまりにも遠い。

 

「トレーナー、あたし……」

 

もどかしいよ。今すぐ下に降りていって、人の波を押しのけて、外ラチ沿いの最前列に潜り込みたい。

 

ねえ、いいでしょ。

 

その言葉を口にしようと、息を吸い込んだ。

 

その時だった。

 

「——いいから、そこで黙って見てろよ」

 

 声が、聞こえた。

 

「ホープ?」

 

 あたりを見回しても、もちろん見つかるはずもない。

 

 本当のアイツは、今ちょうど第一コーナーを回っていったところなんだから。

 

「ルピナスちゃん?」

 

 ボンが不思議そうな顔であたしを見ている。

 

 あたしは目をぱちぱちさせて、頭の中でホープに呼びかけた。

 

 ——ホープ、聞こえる?

 

「ああ、聞こえるよ。うるさくてしょうがないキミの声がね」

 

 世界が滲んだ。

 

 大きくて鮮やかな緑色は、溶けた視界の中で景色を次々に飲み込んでいく。やがてあたしの周りからは、歓声も、声援も、風の音さえも溶けて消えてゆく。

 

 そうして気づけば、あたしはたった一人で、緑の海の中に浮かんでいた。

 

 ——ホープ、どこにいるの? 勝手にどこかへ行かないでって、あたし言ったでしょ?

 

 姿の見えなくなった友に、声を()らして叫んだ。

 

 もう二度と、失いたくない。悲しみの土に埋もれたまま消えてゆく姿を、黙って見ていることしかできないなんて、あたしにはとても耐えられない。

 

「うるさいな。ホントに、どうしようもなく、うるさいよ」

 

 ——ホープ!

 

 ホープは、そこにいた。涙をこらえながら、あたしの前で、耳を垂らして立っていた。

 

「キミのせいだ。ナギサのせいだ。みんなのせいだ」

 

『先頭はグレイスチャスカ、二番手にスキッドロード、三番手にパレカイコ、やや前との差を詰めたか、注目のホープアンドプレイは内から早め先団に食い下がる格好。折り合いはどうか。連覇を目指すテンポラレスコここにいて、グランドネスターが中団やや後ろ、クロノスコートは後方三番手。先頭は早くも向こう正面、爽やかな緑萌ゆる春の京都の風を切り裂いて、バックストレッチへと回りました』

 

 

 ホープは息を切らして、苦しそうに唸った。

 

「ボクは何も考えずに、何の望みも抱かずに、ただ走っていたかっただけなのに。キミの言葉が、頭の中からちっとも消えてくれないんだ」

 

 ——あたしも同じだよ、ホープ。アンタの声が、アンタの言葉が、頭から離れないの。

 

 ホープの息遣いは、ますます荒くなった。

 

「やめろ。キミにボクの痛みなんか、分かりゃしないんだ。ナギサだって……みんな、同情心に酔ってるだけだ。ボクは所詮、キミたちの傷を慰めるための、道具に過ぎないんだ」

 

 ——そうかもしれない。絶対に違うって言い切る自信なんて無い。あたしは結局、アンタをどこかで憐れんでる。それは、そう。

 

「そうだろ。やっぱりボクは——」

 

——だけど、それだけじゃないよ。前にも似たようなこと言ったよね。あたし、悔しいの! 切ないの! アンタがアンタの人生を生きられないなんて、あたしが、あたしの人生を生きられないって言われてるみたいで、許せないの! それって、そんなにいけないこと?

 

「ああうるさい! 憎ませてくれよ、恨ませてくれよ! どうしてキミは、そうやってボクを、ボクを!」

 

 呻きながら、ホープはバリバリと頭を掻きむしり始めた。止めなきゃ、と手を伸ばそうとしたけれど、あたしの身体はまるで全身に鉛がぶら下がっているみたいに重くて、一歩もそこから動けそうになかった。

 

 ——ホープ、やめて!

 

『さあ先頭を行くグレイスチャスカ、ティアラ出身ウマ娘として、半世紀以上の空白となった春の盾の歴史にその名を刻まんとひた走ります。後ろからはパレカイコ、パレカイコ早くも二番手。その外ぴったりとマークするようにホープアンドプレイ、早々とホープアンドプレイ三番手、体格、性格、そして脚質まで対照的な二人が、今日は意外な展開、同じような位置取りで、二週目の淀の坂を駆けあがります。テンポラレスコはどうだ、今ちょっと上がっていったか。隊列がじわじわっと縮まってまいりました』

 

 そこら中に散らばったホープの髪が、海の中を漂って、キラキラと光っている。

 

 引き裂かんばかりの勢いで自分の頭に爪を立てていたホープの動きが、ぴたりと止まった。

 

 ——ホープ?

 

 小さな芦毛の少女の腕は、抑えつけてくる何者かに抗おうとするかのように、ぴくぴくと痙攣している。

 

「やめ、ろ……。やめてよ」

 

 懇願しながら、少女は泣いていた。

 

「ボクに、望ませないで。願わせないでよ。……どこまで行ったって、ボクはボクの痛みから逃げられないのに! 壊れたものは、二度と元には戻らないのに!」

 

 その時ふいに、長い間分からないままだった問いの答えが、あたしの頭に降りてきた。

 

 それはこれまでずっと、こんなものは答えになっていない、無意味なものだと切り捨ててきたものだった。

 

 だけど、もうこれしかない。

 

 何の解決にもならなくたって構わない。そもそも、解決できないものを解決しようとしていたことが間違いだったのかもしれない。

 

 だから、言った。

 

 ——それでもいいじゃない! 逃げられなくたって、壊れたままだって、あたしたちはそれでも、一緒に走っていける! そうでしょ? だってあたしたち、出会ってからずっとそうしてきたんだから!

 

 あたしは、目の前の少女を抱きしめたかった。

 

「あああああ! クソッ! クソッ! クソォオ!!」

 

 少女の慟哭が、寂しい獣の(いなな)きのように、高い空へと放り上げられた。

 

 そして、世界に音が戻った。

 

 大歓声の中で、レースはすでに、二週目の坂に差し掛かっている。ずっと前目につけていたホープの身体が、一完歩ごとに前へと進出を開始していた。

 

『先頭は変わらずグレイスチャスカ、その後ろから、パレカイコが行く、その外からホープアンドプレイが、猛然と上がってまいりました。後方からクロノスコート今ようやく後方五、六番手のあたり。テンポラレスコ、グランドネスターも上がってきた!』

 

 

 ——うわぁぁぁぁあああああ!!!!!

 

 ホープの悲鳴にも似た叫びが、あたしの耳にこだましている。

 

「ホープ」

 

 その名を呼んだのは、あたしじゃない。

 

 チームのみんなが身を乗り出して声援を送る一方、トレーナーは腕を組んだまま、静かに声を震わせていた。

 

「行きなさい。……早く。はやくっ……!」

 

 

『さあここで先頭はホープアンドプレイ、小柄な身体を弾ませて、内パレカイコと競り合いつつ、早くも残り六〇〇の標識を通過した! 淀の急坂(きゅうはん)を、白昼の流星のごとく駆け下りて最後の直線へと入ってまいりました! ぐーっと大きく膨らんで、ホープアンドプレイが先頭! ホープアンドプレイ先頭だ!』

 

 そこから先は、スローモーションの世界だった。

 

 ひと際小さなウマ娘の白い尾が、緑色の空に飛行機雲を残していくように、平らな淀の直線に線を引いていく。

 

 一完歩、二完歩、三完歩。

 

 その一歩ごとに、聞こえた。

 

 ——勝ちたい。勝ちたい! 勝ちたい!!!!

 

 待ちに待った瞬間が、近づいてきている。

 

 場内には、怒号に近い熱狂が渦巻いていた。

 

「トレーナーさん!」

 

 ボンが叫んだ。

 

「トレーナー!」

 

 あたしも一緒になって、叫んだ。

 

 トレーナーの返事は、周りの音にかき消されて、聞こえやしなかった。

 

『内からパレカイコが迫る! 逃げるホープアンドプレイ! 間もなく残り二〇〇メートル、しかし差は縮まらない! 外から飛んできたのはテンポラレスコだが、先頭はホープアンドプレイ!』

 

 最後の瞬間、虹色に輝く紙吹雪の中で、トレーナーは微笑みながら、頬を伝う雫とともに、固く結んだ自身の腕へと声をこぼした。

 

「本当に、手のかかる子」

 

『ついに、ついに、止まっていた時計の針が動き出しました! 今から実に五十六年前、ハーモニーライトのエリザベス女王杯を最後に途絶えたヒト生まれウマ娘栄光の歴史が、奇しくも同じ、ここ京都レース場にて再び刻まれました! 同じ血の宿命を受けたまだ見ぬ若人たちへ、そして美しき黒髪の同胞へ、かけがえのない希望を届ける確かな一歩となることでしょう』

 

 割れんばかりの歓声は、たった今産声を上げて生まれた新しい命の音に似ていた。

 

 




第5章完。
次話から第6章です。
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