#69-アテナイの学堂
事件は、天皇賞当日の夜に起きた。
ある週刊誌のWEBページに公開された、一つのネット記事。たった三ページのその記事が、とんでもない災難となってあたしたちに襲い掛かったのだった。
『お騒がせチーム〈プルート〉に新たな疑惑発生? あの〝ヒト生まれ〟の父親が語った衝撃の「連れ去り」事件とは』
タイトルだけで、誰がこんなことを仕組んだのか、簡単に想像がついた。ホープが天皇賞で勝利した瞬間に公開したあたり、意図的に仕掛けられたのは間違いない。
内容も酷い。〝自称〟ホープの父親の激白、という
かつて自分は娘を施設に預けることにしたが、それは貧しさから仕方なくそうしただけで、ずっと心配していた。それがいつの間にか全寮制のトレセン学園に連れ去られ、勝手にデビューさせられていた。娘に会わせてくれと頼んでも拒否される。調べるとトレーナーは、過去にドーピング事件を起こしたチーム〈プルート〉の関係者だった。これはトレーナーや施設長が結託して、娘を使って金儲けをしようとしているに違いない。何とかしてほしい……。要は、何から何までめちゃくちゃな記事ってわけだ。
翌日、本来なら学園に戻るはずの予定を急遽キャンセルして、あたしたちはもう一日遠征先の旅館に滞在することになった。
朝一であたしたちの部屋にやって来たトレーナーは、神妙な面持ちで言った。
「みんな今日一日、部屋から出ないこと。いいね?」
最初に声を上げたのは、ボンだった。
「トレーナーさん、私もついていった方が——」
「ダメ。ボンは私の代わりに、みんなについていてあげて」
その表情から、何を言っても無駄だとみんなすぐに理解した。
「分かりました」
あたしはというと、その時はもうすっかり気が動転していて、何にも言葉が出てこなかった。たしか、去り際にトレーナーはあたしにも何か言いつけていった気がするけど、今となっては思い出せない。本当に、それくらい頭が真っ白だった。
この時、仲間たちの中で一番冷静を保っていたのは、クレセントだった。
「あの様子、おそらくトレーナーさんはこの記事が出ることをご存知だったのでしょう。そうですよね、ホープさん?」
「ああ、そうだね」
「そ、そうなの!?」
あっさりと認めるホープに、テンダーは声を震わせた。
「ならば、いつでも戦える準備をなさっていたはずです。私たちのトレーナーさんは、そのようなところで手抜かりをする方ではありませんから。だから、心配いりませんよ。ねえ、ルピナスさん」
最後の方は叱りつけるような口調で、クレセントはあたしの肩を叩いた。
「う、うん。そう。そうだよね」
「きっと、今日中に記者会見を開くつもりでしょう。こういう対応は遅くなればなるほど、相手方を勢いづかせます。できる限り、早く対処しなくては」
クレセントの言うとおりだ。きっとトレーナーのことだから、何か考えがあるに違いない。きちんと対策も用意していたはずだ。そのはずだし、そうであってほしい。
視界の端に、天皇賞の盾が見えた。部屋の壁に立てかけられたそれは、こうしてみると、ただの分厚い木の塊だ。盾、なんて仰々しいものの形をしているのに、あたしたちのことをちっとも守ってくれやしない。
「ルピナスちゃん」
「ルピナス先輩」
ボンとショコラが、あたしの両脇からそっと声をかけてくれた。
「ダメだよ、自分で勝手に追い詰められちゃ。トレーナーさんを信じよう?」
親友のその一言の方が、何の役にも立たない盾よりもよほど心強かった。
「それにしても、なんて卑劣な方。こんなもので世間を欺けるとでも思っているのでしょうか。わずかでも人の心があるのなら……すみません、口が過ぎましたか」
「いや、良いんだ」
声量こそ抑えていたものの、怒りを帯びたクレセントの言葉に、ホープは笑って首を横に振った。
「ありがとう、クレセント。ボクの代わりに、言いたいことを言ってくれて」
「な、何ですか。ホープさんらしくもない。お礼を言われるようなことなど、別に私は」
きっと、クレセントも無理をしていたんだと思う。つい感情があふれ出してしまったのがよほど恥ずかしかったのか、それからしばらくは顔を真っ赤にしていた。
それから数時間後、クレセントの予想通り、緊急の記者会見が開かれることになった。
パシャパシャと大量のフラッシュが炊かれる会場に、トレーナーは颯爽と現れた。いつだったかのGⅠ前夜祭で着ていたパンツスタイルのスーツに身を包み、普段ポニーテールにしている髪を下ろした姿で、会見場の中央に腰かけた。
そんなこと考えてる場合じゃないのに、カッコいいと思った。六人で見るには少し小さいテレビ画面の中で、トレーナーはちっとも揺らいでいないように見えた。
「——それでは、始めさせていただきます。まず本件記事の内容につきましては、そのほとんどが事実無根、あるいは歪曲された内容であることをお伝えしたいと……」
ひと通りの挨拶を済ませて、いよいよ会見が始まってからも、それは変わらなかった。いつの間に用意したのか、隣の席に弁護士まで座らせて、毅然とした態度で事実関係の説明を丁寧に並べていった。
あたしが驚いたのは、ホープの生まれ育った環境や、これまでの経緯について、ほぼ全てを包み隠さず公開したことだった。
「ボクがそうしろって言った。遅かれ早かれ、こうなるとは思ってたんだ」
ホープはすました顔でそう言っていたけど、あたしはかえって心配になった。あまりにも衝撃的すぎて、嘘っぽいと思われやしないだろうか。
ウマ娘として生まれたことを喜ぶどころか疎まれた挙句、施設に保護されるような辛い仕打ちを親から受けて今日まで放り出され、かと思えば、レースで活躍しだした途端にその親が身柄の引き渡しを求めてきた……だなんて。普通に考えて、あまりにも常軌を逸している。
当然、記者からの質問は厳しかった。
証拠はあるのか、本人の意思はどうなっているのか、法的には問題がないのか……なかには、過去のドーピング問題を引き合いに出して、質問というよりも挑発するような態度の記者もいた。その一つ一つに、トレーナーは根気よく答えていった。施設長のサカイさんからの証言や、ホープ本人の意思については付き添いの弁護士も一緒になって答えてくれた。
一時間以上にも及ぶ長い会見の最中、トレーナーは何度もこう繰り返していた。
「私が重視しているのは、ホープ選手の身の安全と、財産、権利の保全です。それ以外にはありません」
その日のうちに、ニュースサイトはこの話題で一色に染まった。
会見が終わった時点での世間の反応は、正直、五分五分といったところだった。もともと新しくなったチーム〈プルート〉を応援してくれていた人たちは、トレーナーの言い分を信じてくれたみたいだけど、それほど思い入れがない人や普段レースを観ない人たちからの疑いの目はどうしても晴れない。おかげでチームの公式ウマスタアカウントは、応援と非難のリプライで荒れに荒れた。
「ただいま。どう? まあまあ良かったでしょ?」
帰って来たトレーナーは開口一番、そう言っておどけてみせた。
「明日、帰るよ。URAの人たちが付き添いを用意してくれたから。VIP待遇だね」
カラ元気なのは明らかだった。ボンも同じことを思ったみたいで、何か言いたそうに口を開きかけた。けれどその口は、言葉を発する前にトレーナーの細い指でそっと抑えられてしまった。
「ほら、みんなお腹空いたでしょう。ご飯、旅館の人が用意してくれてるって。行こう」
あたしたちに反論は許されていなかった。
トレーナーはVIP待遇なんて言っていたけど、翌日の移動はある意味で確かにVIPみたいな光景になった。新幹線の乗り降りや駅を出てから車に向かうまでのちょっとした時間にも、カメラやマイクを構えたマスコミが大量に押し寄せる。テンダーなんかはかわいそうなくらい怯えてしまっていたけど、手配してもらった黒服のスタッフさんたちがSPみたいに壁を作ってくれたおかげで、何とか無事学園に帰ってくることができた。
一度学園の門をくぐってしまえば、あたしたちの安全はある程度保障されている。今回の報道で警備体制が強化されたのか、無許可で侵入する厄介な記者の姿も見あたらなかった。
あとはほとぼりが冷めるまで待てば、穏やかな日常に戻れる。授業に復帰した初日のあたしは、そんな風に考えていた。それが甘い考えだと思い知らされるまで、それほど時間はかからなかったけれど。
「……ねえ、やっぱり……」
「だからさ、なんかヤバいと思ってたんだよね、あそこのトレーナー」
「ホープちゃんかわいそう……」
「いや分かんないよ、全員グルかもしんないし」
昼休みにどこからともなく聞こえてきた声に、すっとお腹の中が冷たくなった。
「だ——」
「誰!? 今酷いこと言ったの!」
あたしの反応よりも速かったのは、ボンだった。
「ねえ、誰!? コソコソ喋ってないで、出てきなよ!」
返事は無かった。だけど、あたしたちはウマ娘だ。まして聞きなれたクラスメイトの声なら、囁き声だって誰のものかなんて、おおよその見当はつく。事実、ボンも教室の一角に集まった連中をじっと睨みつけたままだった。
「私たちのトレーナーさんより、あんなくだらない記事の内容を信じてるの? なんとか言ったらどうなの!? ねえ——」
その時、ガンと大きな音が鳴り響いた。
「静粛に!」
見れば、委員長のオリことオリンピアコスが、どこから持ち込んだのか、腕くらいもある大きな木槌で教卓を叩いていた。
「嘆かわしい。実に、嘆かわしいことです!」
またうるさい演説が始まるのか、と誰もがため息を漏らしかけた瞬間、オリはもう一度木槌を教卓に振り下ろした。
「聞きなさい」
いつもの上ずったハイテンションな声とは違う、真剣な口調だった。あまりの豹変ぶりに、教卓が真っ二つに割れたことを指摘する者は、誰もいなかった。
「ここに集った二十名……いえ、すでに去ったものを含めれば四十余名、我々はかつて誓い合ったはずです。ともに学び、ともに競い、ともに高め合おうと。時に助け合い、支え合い、チームを超えて、我がクラスこそが、このトレセン学園におけるアテナイの学堂たらんと!」
……それを誓ったのはオリ一人なんだけどな、というのはこの際言わないでおいた。というより、言える空気じゃなかった。
「昔、ある哲学者は言いました。『友がなければ誰も生きることを選びはしない。たとえ、他のあらゆるものを手にしていても』。我々競走ウマ娘にとって、生きることはすなわち、走ること。その道は険しく、常に勝者と敗者に分かたれる、残酷な道です。にもかかわらず、我々がここで生きることを選べるのは、ひとえに友があるからに他ならないでしょう」
表情や声色は違っても、相変わらずオリの演説は長い。それでも、今日は誰も途中退出しようとはしなかった。
「過去の影は、長く尾を引くものです。疑念にかられるのも、理解できます。しかし、そんな時だからこそ、我らが今成すべきは、友を信じ、友の信じたものを信ずることではありませんか。……違いますか、ワーテルゾーイさん」
ボンが睨みつけたところに固まっていたグループの一人に向かって、オリはピシャリと言い放った。
「違いますか、ジガンテスクさん」
オリはさらにもう一人、同じグループの子に呼びかけた。
「わ、私は別に、もしもホープちゃんが、その、利用されてるんなら、良くないって……」
「ならば、もう心配いりませんね? クラウンセボンさんのお答えが全てでしょう。我々は、彼女の目がいかに澄んでいるか、すでに知っているはずです」
そうして、オリはなぜかあたしの方をじっと見つめてきた。
「……え、何、あたし?」
ボンの話をしていたはずなのに、どういうつもりなのか、いまいち分からなかった。
「そんな彼女が信じたトレーナーなのです。これ以上の議論は、無用でしょう」
「あ、うん。そう。そうだよ、ホント、みんなあんな記事、本気にしないでよね。あたしたち、大丈夫だから。何にも酷いことされてないから」
ちょうどそこへ、購買に買い出しへ行っていたカイが勢いよく飛び込んできた。
「ハイちゅうもーく! ついにゲットしたわ! スペシャルにんじんタコスMEGA! 二個あるから、欲しい子はワタシとジャンケンして……って、あら?」
シンと静まり返った教室の異様な雰囲気を感じ取ったのか、カイは両手に掲げたバカでかいタコスの包みをそっと下げた。
「みんな、どうしたの……って」
そして、あるものに気付いてカイは眉を吊り上げた。
「まぁ! オリったら先生の机壊しちゃって! だからこんなおもちゃを振り回したら危ないって言ったのよ、ワタシは!」
「ぱ、パレカイコさん、誤解ですよ! これはですね……」
「言い訳はたくさん! まったく、没収よ、没収!」
「あああ、返してください~!」
さしもの委員長様も、フィジカルエリートのカイに迫られては逆らえない。彼女の大事な木槌はあっさりと取り上げられる羽目になった。ちょっと気の毒な気もするけれど、次壊されるのはあたしの机かもしれないと考えたら、カイの判断は正しかったんだと思う。
「ボンちゃん、ごめんね。本当にそんなつもりじゃなかったの」
「……二度と言わないで。あんなこと」
チーム〈カペラ〉の二人が木槌を巡ってじゃれついている間に、教室はようやく昼休みの風景を取り戻したようだった。
「ルピナス」
「ん? どしたの、ホープ」
「もういいだろ。カフェ、行こうよ。お腹空いたよ」
はじめからおしまいまで変わらなかったのは、当事者なはずのコイツともう一人、オリの演説中もずっと机に突っ伏して寝ていたフォーミュラだけだった。
○
嵐のような一週間が過ぎた。
正確に言えば、嵐は今も吹き荒れている。トレーナーはずっとあたしたちの代わりに取材や法的な手続きの対応に追われているし、テレビやネットでの報道も収束する気配は無い。
コトが起きて以来、母さんからは毎晩LANEの連絡が届く。しっかり、気を強く持て、自分のレースに集中しろ……鬱陶しいくらいに励ましてくれる。多分、心配でたまらないのをこうやって言い換えてるだけなんだろうけど。
「ホープ?」
消灯時間をとうに過ぎた寮の部屋で、あたしはそっと呼びかけた。返ってきたのは、穏やかな規則正しい寝息だけ。
「ったく、図太いんだから」
嵐、というのは言い得て妙だ。その一番中心にいるはずの少女が、こんな風に他人事みたいに眠りこけていられるんだから。すぐ近くにいるあたしの方が、気が立ってなかなか寝付けない毎日を送っているってのに。
気が立っているのは、あたしだけじゃない。
オリが木槌を取り上げられた日だって、怒ったのはボンだった。おまけにあの日の放課後、部室にやってきたクレセントの髪は掻きむしられたようにボサボサだった。どうやら向こうのクラスでもボンと同じような流れで揉め事になったらしい。口喧嘩で収まらずに手が出てるあたり、怒ると怖いお嬢様ってところだ。
みんな、それぞれに巻き添えを食らっている。かといってホープが悪いわけでもないから、イラ立ちのやり場がないのだけれど。
「アンタは、ちっとも気にしないの?」
あたしの問いかけに答えるように、壁の方を向いていたホープが寝がえりを打った。まるで子供みたいな寝顔からは、普段見ている冷めた態度の影は感じられない。
気付いてるんだろうか。あたしたちが今こうして二人一緒の部屋にいられるのは、ものすごい奇跡の上に成り立ってるんだってことを。
ホープのことだ。きっといつものように皮肉っぽい口調で言うに違いない。「奇跡なんかじゃないよ。これはボクが実力で勝ち取ったものだからね」って。
実際、天皇賞でのホープは本当にすごかった。かつてない最高の出だしから、好位でライバルと競り合い、最後にいち早く抜け出して押し切る——これまでの後方待機一辺倒とは違う、圧倒的に強い王道の勝ち方だった。
いやいやいや、そういうことじゃないんだってば。
頭の中で勝手に想像したホープの言葉に、頭の中で言い返す。
アンタ、あたしの前からいなくなろうとしてたじゃない。放っておいたら、黙って消えちゃうところだったじゃない。
未だに納得していない。訳の分からない理屈で学園から去ろうとしたことも、大した理由も言わずに自分の将来をレースの勝敗に懸けようとしたことも。うまいこと見つかって、うまいことレースに間に合って、何とか勝てたから良かったものの、もしもどれか一つでも思い通りになっていなかったら。考えるだけで恐ろしい。
『生まれて初めて、勝てて嬉しいって思います。負けたら、ボクはもうそこでおしまいだと思っていたので』
勝利者インタビューで開口一番、ホープが口にしたこの言葉が、まだ頭にこびりついている。当時はあたしたち以外、誰もその本当の意味に気づかなかった。ホープにしては珍しく感情的になっているなと流されただけだった。
何が、おしまいだと〝思っていた〟だか。まだ何にも片付いてないのに。
おしまいどころか、まだ終わらせない、これで終わりだなんて許さないとでも言わんばかりに、ひっきりなしの注目と注文があたしたちを縛り付け始めている。最悪の結末を避けられたと思ったら、新しい最悪が追いかけてきた感じだ。
あたしたちはホッとする間も与えてもらえず、ちっとも落ち着きやしない。だのに、どうしてホープはこんなに、呑気にしていられるんだろう。
ふと思った。もしかしたら、あたしが想像していたよりも、ホープはずっと、ずーっと、子供だったのかもしれない。
今なら何となく、分かる気がする。あたしたちが幼い頃に与えてもらったはずのものを、ホープはきっと一度も与えられないまま、ここまで来てしまった。だから、トレーナーやあたしたちが間違いなく味方でいてくれるっていう今の状況に、満足していられるのかもしれない。
バカ。こんなので勝手に一人で満足すんな。
アンタにも、最後まで付き合ってもらうから。あたしだって、まだ子供なんだから。
精一杯の自己弁護を吐き出して、耳の先まで布団をかぶった。
報道の過熱ぶりが続いていても、あたしたちは次のレースに向けたトレーニングに向かわなきゃならない。それが競走ウマ娘というものだ。特にあたしには、次の大勝負が間近に迫っているんだから。
「お疲れ様です。いかがですか、調子は」
水曜日、坂路に向かうあたしにそう呼び掛けてきたのは、春先からずっとあたしたちに密着取材を続けているスポーツ×hUMAnのディレクターだった。
「悪くないですよ。最近は、ボンやトレーナーが取材ブロックしてくれてるんで」
「いやぁ、すごいことになっちゃいましたねえ。あ、さっき部室の方に、ちょっとしたものですけどホープさんの天皇賞祝い、お届けしましたので是非」
「ああ……って、どうしたんですか、その顔」
思わずお礼も忘れて尋ねた。丸三か月以上の付き合いになって、すっかりお馴染みになったはずの彼の顔が、見たこともないほど腫れていたからだ。
「いや、これちょっとね、お恥ずかしい話で」
聞けば、他局のテレビマンとトラブルになったようだった。
「今、ルピナスさんも言いましたけど、お二方の取材はブロックされてるじゃないですか。いや、賢明な判断だとは思いますけどね。でもほら、僕らはありがたいことに特別の許可をいただいているでしょう。だからね、いろいろと向こうにも不満が溜まっているようで」
どうやら、他局の取材班から番組取材に同行させろと要求されたらしい。拒否した結果、実力行使に出られてしまったんだとか。
「同業者にすっかり嫌われちゃいましたよ。僕らばっかり何様だって。あと、受信料がどうとか」
「あー、うちはちゃんと払ってると思いますよ。ウマゴラスイッチとかよく見てましたし」
「ありがたいですけど、それ僕らとは部署違うんですよねえ」
彼と雑談を交わしながらストレッチを済ませるのも、すっかり馴染みの風景になった。業界人はお気に召さないようだけど、こんな風に何か月も熱心に取材をしてくれている相手と、ここ数日で急に押しかけるようになった連中となら、どっちを優先するか。考えなくたってわかる話だ。
「次は、ルピナスさんの番ですよ。今週の日曜ですよね?」
「分かってますって。変なプレッシャー、やめてくださいよ」
そう、あたしに迫っている次の大勝負というのは他でもない、今週末のヴィクトリアマイルだ。取材に忙殺されて一週前追い切りは満足にこなせなかったけれど、不幸中の幸い、今回の舞台はすぐそばの東京レース場だ。遠征の準備が必要なかったおかげで、何とか調整を間に合わせられそうな目算が付いていた。
「じゃあ、行ってきます」
「頑張ってきてください。今回は迷惑かけないように撮影しますから」
「あはは、よろしくお願いします」
別れ際の言葉に、顔がニヤけるのが分かった。そういえば、そんなこともあったなと思い出す。
上からの指示なのか、それとも本人の気遣いなのか分からない。でも、週刊誌のあれこれをほじくり返されなかっただけで、少し気持ちは軽くなった。
「ルピナス、こっちこっち」
坂路に着くと、トレーナーが手招きしてきた。こういう時は大抵、併走相手を用意している。急いで駆け寄ると、果たしてそこに、あたしのよく知るウマ娘の姿があった。
「先輩!」
つい先日、今後は夏のサマースプリントシリーズへ向かうと発表したばかりのショコラだった。
「先にショコラを先行させるから、坂の頂上までに捉えることを意識して。ショコラはラスト2ハロンで仕掛け、ルピナスは最後までウマなりでね」
トレーナーの注文は、なかなかにキツい。スプリンターのショコラを先行させたら、捕まえるのは容易じゃない。しかもそれを、息が残るようなウマなり強度でこなせというのだから。
「先輩、忖度はしませんからね」
「自信無くさせないでよ?」
半分冗談、半分本気だ。ここで千切られでもしたら、メンタルに関わる。
「じゃあ、準備できたら始めよう。オッケー?」
はい、と答えてショコラはすぐに腿を上下させた。すでに準備万端、いつでも行けますという感じだ。
「よろしい、行くよルピナス。用意……」
その言葉にあたしも慌てて構えをとった。
本番のスタート前のように、ほんの一瞬、辺りが静まり返る。遠くの方でカメラのシャッターを切る音がかすかに聞こえてくるくらいだ。
久しぶりに、カッコいいとこ、見せなくちゃね。
「始め!」
踏み出す脚に、力が入った。