春のシニア級GⅠ、ヴィクトリアマイルと、安田記念。開催場所は、どちらも府中の東京レース場だ。
あたしの強みは、小回りでも苦にしないコーナリングの能力と、持続時間は短いけど素早く繰り出せる末脚の加速力。今回は東京が舞台のヴィクトリアマイルに挑むにあたって、この二つの強みをどう活かすか。そこが勝利のカギになる、はずなんだけど……。
「正直、今までで一番厳しいレースになると思う」
「うん、知ってた」
本番二日前、ミーティングを始めて最初にトレーナーが口にしたのは、東京マイルの攻略は難しい、という何とも当たり前な結論だった。
ヴィクトリアマイルも安田記念も、国内のマイル戦では屈指の高速レースだ。スタート直後から速いペースで流れ、そのままペースをほとんど落とさずにゴールまで突っ込んでいく。
これだけ聞けば、去年あたしが好走した桜花賞と似ている。だけど、違うのはそのレベルだ。
あの時の通過タイムは、八〇〇メートル46秒2。これだって、後方で追走したあたしでさえ付いていくのが大変なペースだった。ところが、これが東京マイルのGⅠになると、45秒台になるのも珍しくない。さすがにここまで速いと、脚を十分に溜められない。それでいて前が止まりにくいというのではお手上げだ。まったく、バトルマンガのパワーインフレじゃないんだから、と呆れてしまう。
ついでに言えば、自慢のコーナリングも、大回りコースの東京ではアドバンテージにはならない。
「今年だけでも中山開催になったりしないかなあ」
東京レース場には正直、いい思い出が無い。NHKマイルカップでは大敗したし、あたし自身のこと以外でも、クレセントがダービーや天皇賞で苦しんだのを目の当たりにしてきた。その点、あたしがこれまで勝利した二つの重賞は、どちらも中山開催だった。小回りコースは大歓迎だし、気分的にも東京よりは中山の方が自信を持てる。
トレーナーはそんなあたしのくだらない考えを笑って受け流して、言った。
「でも本来、ルピナスの切れ味勝負なレーススタイルは東京向きのはずなんだよ。どちらかと言えば、中山の方が長く良い脚を使える方が有利なレース場なんだから」
「じゃあ、今回のヴィクトリアマイル、勝てると思うの?」
「あれ、私ルピナスが勝てないなんて言ったっけ?」
「さっきそういう意味のこと言ったじゃん!」
こういう時、トレーナーはずるい。さっき今までで一番厳しいとか言っておいて、急に手のひらを返すんだから。
「それは相性よりも、能力の伸びしろの問題だと私は思ってる。府中は単純に求められる能力がかなり高い舞台なの。向き不向き以上に、純粋な能力で勝負が決まりやすいレース場だからね」
そう言ってトレーナーは、ホワイトボードに貼り付けたコース図の上に、出走者に見立てた丸い磁石をいくつもくっつけて、両手であれこれ動かし始めた。
「考えてみて。展開が速めに流れやすいなら当然、後方勢に分があるはずなの。桜花賞もそうだったでしょ? でもって、桜花賞の阪神レース場よりも府中の最後の直線は長いんだよ? 多少前が止まらなかったからって、良い切れ味さえ持っていればちゃんと捕まえられる。こうやって、この辺で加速して、坂を登り切ったところでちょうど差し切る感じ。……ね、見たことあるでしょう?」
「そんな脚、今のあたしじゃ多分残せないよ」
「
トレーナーは、未だにあたしの本格化は終わっていないと見ているようだった。
「ルピナス、ヒト生まれのウマ娘は成長が遅いって言われているのは知ってるでしょう? あなたはまだ十五歳。全然、これからのウマ娘だよ。今回は自分の能力の現在地を測るレースだと思って、気負わずに行きなさい」
「……分かったよ」
要は、チャレンジャーとして胸を借りるつもりで行けってことだ。
正直、悔しい。口では散々弱気なことを言ったけど、本当のところ、トレーナーには嘘でもいいから「勝てる」と言ってほしかった。思わせぶりなことを言うわりに、結局一度も「勝てる」とは明言してくれなかった。
トレーナーとあたしでは、見ているものが違う。トレーナーは大人で、あたしよりもずっと客観的で、ずっと冷静だ。応援はしたいけど、無責任なことを言って勘違いさせない方がいい。おそらくはそういう判断なんだろう。そしてその判断は多分、正しい。変に自分に期待して裏切られると、ショックはかえって大きくなるから。
だけどさ、あたしは今、勝ちたいんだよね。
胸の中でそう言い返して、あたしは出走登録者の一覧表を眺めた。
今年のヴィクトリアマイルは、例年よりもレベルが低めだと言われている。十八人の登録者のうち、六人がGⅠ初出走。残りの十二人の中でも、有力ウマ娘に挙げられているのはみんなあたしと同学年の子たちだ。同じマイルGⅠでも、強そうな先輩に囲まれていた去年のマイルCSの時とはまるで違う。なら、あたしにだってチャンスはあるはずなんだ。
頭では分かってる。今はまだ、慌てる時期じゃない。トレーナーが言うように、きっとあたしはもっと成長できる。ここで焦ったって、良いことなんか無い。だからあえて口にはしない。もうそれほど子供じゃないから。
だけどそれでも、一言でいいから希望が欲しかった。まだそこまで大人じゃないから。
あたしの願いが届いたのか、それともいつもみたいに考えていることが尻尾や表情に出ていたのか、それは分からない。ともかく、いつの間にかトレーナーはホワイトボードとにらめっこしながら、ブツブツと独り言を唱え始めていた。
「……いや、でもこのメンツならドスローからの直線ヨーイドンになる可能性はあるよね。半マイル46秒後半くらいになってくれたら、ルピナスも好位でレース出来るし、そしたらワンチャン……いや、ツーチャンくらいはあるか……」
「トレーナー、何言ってんの?」
希望が欲しかったのは確かだけど、さすがに希望的観測すぎる。でも、悪くない。
「ルピナス、これやっぱり、行ける気がしてきたよ」
いつか、じゃなくて、今勝ちたい。そう思ってしまうのは、あたしだけじゃないんだ。それが確かめられただけで、嬉しくなった。
「うん、知ってる」
あたしって、やっぱり単純だ。
〇
当日の会場入りは、想像以上に大変だった。
メディアの記者たちが関係者通用門の近くに群がっていたおかげで、警備員が駆けつけてくれるまではまともに前に進むこともできなかったからだ。
「やっぱり正解だったね。前夜祭欠席したの」
楽屋にたどり着くなり、ボンは疲れた声でそう言った。
あたしは結局、GⅠ開催記念の前夜祭には出席しなかった。もちろん、直前に開かれたレース前会見にも。そのあたりの対応を全部トレーナー一人に任せきるのは気が引けたけど、今はそうも言っていられない。そして、結果的にはそれで良かった。
「あの人たち、レースのことなんかちっとも興味ないんだから」
ボンが言うように、門の入り口で待ち構えていた記者が投げかけてきたのは、今日のヴィクトリアマイルとは関係ない、ホープについての質問だけだった。それも、天皇賞の感想を欲しがるわけでもなく、週刊誌の記事の話ばかり。普段スポーツよりも芸能スキャンダルばかり追いかけているような彼らは、こういう場所での作法を知らない。あんな風に通路を塞いでいては、きっと他の出走者や関係者にも迷惑が掛かっただろう。
「さあルピナス、やることはもう分かってるね」
フィッティングコーナーのカーテンを勢いよく開けながら、トレーナーは妙に明るい口調で言った。
「うん。一に折り合い、二に折り合い、だね」
「そういうこと」
結局、それしかない。はじめから分かっていたことだけど、小細工なんかしようもないんだから、とにかく折り合いを付けて、最後の末脚勝負に余力を残せるよう祈るだけ。単純明快だ。
枠番は、六枠11番。内枠が有利と言われる舞台だけど、下手に包まれて窮屈になるくらいなら、外目くらいがちょうどいい。もっと外でも良かったくらいだ。
「ペースの目安は、15番のワンファートン。多分今日のメンバーの中で今一番調子が安定していて、その分計算もしやすいから」
ワンファートン。去年の秋華賞で彗星のごとく現れ、大本命のメリッサからティアラのラスト一冠をかっさらっていった、赤髪のウマ娘だ。あたしにとっては今回が初対戦になる。
「この子の前へ楽に出られるならスロー。付いていけるくらいならミドル。離されそうならハイペース。スローなら、いい気になって脚を使いすぎないように好位で抑えて。ミドルならそのまま追走、ハイペースなら、怖くても思い切って最後方まで下げなさい。いずれにしても、位置取り判断は最初のコーナーに入るまで。そこから先はラストの直線まで動かないこと」
それぞれの展開になった時の対処法を、頭に入れておく。これを完璧にこなしたからといって、勝てる見込みがあるわけじゃない。あくまで最後まで脚を残すための、最低限の準備だ。
「もう一つ、出遅れだけは絶対ダメだよ。後ろから行くにしたって、五分で出てから下がるのと、遅れて慌てて追いかけるのとじゃ、脚の消耗が全然違うからね」
「はいはい、分かってる」
前走で出遅れたこともあってか、トレーナーはここ最近やけにスタートに口うるさくなった。あんまり言われるとかえって意識してしまうから、できればあんまり触れないでほしい……というのは、選手側の勝手なわがままだろうか。
まあ、マイルでの出遅れは致命傷になり得るから、心配する気持ちも分かるけど。
と、そこで着替え終わったあたしは、あることを思い出して、改めて出走表を見直した。
今回の出走者には、あたしが盛大に出遅れをカマした、あのチューリップ賞で一緒だったメンバーがそろっている。スマイルエヴリン、イリスアゲート、そして——モモイロビヨリ。
復帰初戦の大阪杯では敗れたものの、追い切りの映像を見る限り、今はかなり状態を上げてきている。本人はピークアウトしたなんて言っていたけど、あたしにとってはまだ、格上の相手だ。
一年ぶりに、本気の彼女と戦える。今度こそ、アクシデント無しの勝負をしたい。そしてできれば、いや、絶対に、勝ちたい。
「じゃあ、行こっか」
ボンの声がする。気付けば、あたしの首には勝負服のスカーフが巻かれていた。どうやら他のことを考えているうちに着けてくれたみたいだ。
「オッケー。じゃあ、行ってきます」
パドックステージの袖は、ちょっとした同窓会の様相を呈していた。
今回のヴィクトリアマイルにはあたしを含めて、シニア一年目の子が七人出走している。そのうちの五人が、桜花賞で一緒に走った仲間だ。
「みんな久しぶり! よかった、元気そうで」
輪の中心にいたのは、もちろんアイツだった。
「こっちのセリフよ。レース中に具合悪くなったなんて聞いて、心配してたんだから」
「私たちの世代にはやっぱりモモちゃんがいなきゃね」
「ホント? うれしい!」
同期たちに囲まれたモモイロビヨリは、いつもと同じあの一見純朴そうな笑顔で愛想を振りまいていた。
「ほら、ルピナスも何か言ってやんなよ」
取り巻きの一人に引き出され、あたしは彼女の目の前に立った。
「おかえり」
「うん、ただいま」
モモイロビヨリはにっこりと目を細めた。チューリップ賞でも、桜花賞でも見たあの笑顔。遠く離れたスタンドから見つめていた大阪杯の時よりも、こうして目の前で勝負服を着て向き合うと、本当に帰って来たんだと実感する。
けれど、そんな感傷に浸れる時間はそう長く続かなかった。
「でも、今回の主役は——ねえ? トンちゃん、こっちおいでよ!」
あたしの身体を横へ押しのけて、モモイロビヨリは聞き覚えの無い名を呼んだ。話したい相手は自分のところへ呼びつける、お馴染みのナチュラルお嬢様仕草だった。
「トンちゃんって、ウチのこと?」
怪訝な顔で現れたのは、今日のあたしのターゲット、ワンファートンだった。
「そう! トンちゃん。かわいいでしょ?」
「なんやアンタか。勝手なあだ名付けよって。そんな豚みたいな名ぁはウチ好かん」
燃えるような赤髪をプリプリ振って、ワンファートンはモモイロビヨリを睨みつけた。でも、こんなことで怯むジュニア女王様じゃない。
「うわあ懐かしい! その感じ、トンちゃん大阪でしょ? うちのお客様にも大阪の方はよく来てたから、大阪の関西弁にはすっごく馴染みあるの」
「何やコイツ。そういうアンタはどこの生まれや」
「私、京都。京都の室町」
「京都! へえ、なるほどな、分かるわ。その物言いやらなんやら、いかにも京都の女って感じや」
「え、すごい、分かるんだ。これでも私七つの頃から東京に出てきてるから、言葉とか、もうすっかり関東に染まっちゃったと思ってたんだけど。やっぱり同じ関西出身、相通ずるものがあるのかな」
「何が言いたいねん。用が無いならほっといてんか。ウチ、今忙しいねん」
あたしはあっけにとられていた。出身地の話じゃない。ワンファートンの話す言葉が、びっくりするくらい強烈な関西弁だったからだ。もちろん、大阪出身なのは事前のプロフィールチェックで分かっていたけど、インタビューや会見の様子は新聞やネット記事の文字でしか確かめていなかったから、こんな絵に描いたような関西弁の使い手とは思わなかった。ちょっと小柄なところといい、昔の映像で見たタマモクロスさんみたいだ。
「モモ、よした方がいいよ。そいつ、アタシと同じでキレたら怖いからさ」
「イリスちゃんと同じなら、平気だよ。私、もっと怖いメリーちゃんと大の親友だもの。あ、メリーちゃんっていうのはね、トーヨーメリッサちゃんのこと。トンちゃん知ってるでしょ?」
横で見ていたイリスアゲートの忠告は、お決まりの営業スマイルで却下されてしまった。いないところで勝手に怖いことにされているメリッサが不憫だけど、そんなことはこの際どうでもいい。
「ああ、アイツはええ奴やったで」
「トンちゃんはメリーちゃんに勝ったんでしょう?」
「で、それが何や」
「だからね、今日はトンちゃんがみんなの目標になるなあって、そう言いたかったの」
この期に及んで遠まわしな言い方に終始するモモイロビヨリ。あたしはもう、こんなのには慣れっこだけど、ワンファートンはイライラが収まらない様子だった。
「要はケンカ売っとるんか」
「まさか。お手柔らかによろしくって、レース前の挨拶じゃない。私先生から教わってるの。レース前と後には、きちんと戦う相手にご挨拶しなさいって。レースも、商売も一緒。大阪出身のトンちゃんなら、分かるでしょ?」
みるみるうちにワンファートンの耳が絞られていく。正直、これはモモイロビヨリが悪い。あたしにもケンカを売っているようにしか聞こえないもの。
関わり合いにならないに限る。衣装を直すふりをして姿見の前に避難しよう。そう思って、視線を外した瞬間だった。
「それとね、トンちゃんにご紹介したかったの。このルピナスちゃんをね!」
「ふぇ!?」
ドッキリにしてはあまりに質が悪い。こんなタイミングで紹介されても、巻き込み事故を食らうだけだ。そう思ってつい振り返ると、こちらを見上げてくるワンファートンと目が合った。ギラリと光る鋭い目つきに、身体がビクリと反応する。
「アホ。誰でも知っとるわ。人間のお母はんから生まれたいう、アレやろ。たしか今、マスコミがえらい騒いどる芦毛のアイツと、同じチームの」
「あ、あのことだけど!」
そこでつい、声が出た。
怖くないと言えば嘘になる。ワンファートンはただでさえ気性が荒そうなうえに、モモイロビヨリがいろいろけしかけたせいで、明らかに不機嫌だ。そんな相手の話を遮って言い返すなんて、逆上されるかもしれない。それでも、この話題については黙ってはいられなかった。
「あれ別に、ホントに、あたしたち何にもやましいことないから!」
ワンファートンだけじゃない。ここにいる全員に聞かせたかった。あたし自身の口から、あたし自身の言葉で。
一度口を開いたら、あとはもう勢いだった。ひょっとしたら、ヘンな不意打ちを食らったせいで、あたしを無意識に縛り付けていた
「ホープはね、ずっと、ずっとつらい思いをしてきたの。あたし一番近くで見てたから、よく知ってる。あたしたちのトレーナーは、いつだってホープの味方だった。酷いことも悪いことも、何にもしてないから!」
「お、おう、そやったんか」
「もう、うんざり! みんな一生懸命やってるだけだよ! 血統だとか、家のことだとか、親の過去だとか……あたしたちが一度でも、文句言った? みんなに迷惑かけた? 自分に降りかかったものは、自分たちでなんとかしようとしてるだけ! だけどあたしたちのチームは人数も少ないし、他に手伝ってくれる人もいない! だからあれこれ工夫して、みんなで協力して、支え合ってるの! それがそんなにいけないこと? そんなに怪しく見える?」
ひとしきり言い尽くして我に返ると、その場にいたみんながポカンとした顔であたしを見ていた。
ヤバい。完全に引かれた。
「だから、もう、変なこと言わないで。あたしたちだって、同じウマ娘なんだから」
初めて気づいた。事件が起きてから今まで、あたしはトレーナーたちに守られてきた。インタビューにも、会見にも、パーティーにも参加しないで良いと言われ、ドキュメンタリーの撮影班も、事件の話題には触らないでいてくれた。だけどその分、言いたいことを伝えられる場所も、機会もろくに無かった。それがあたしにとって、思わぬストレスになっていたらしい。
「ご、ごめん、急に騒いで」
レース本番直前になっておかしな空気にしてしまった。もしもここにボンがいたら、何か助け舟を出してくれたかもしれない。あるいはこの間みたいに、あたしの代わりに怒ってくれたかもしれない。
自分の行いをさっそく後悔し始めたあたしの前で、赤髪のウマ娘はおもむろに口を開いた。
「堪忍してな。そういうつもりやなかったんやけどな、アンタの立場からしたら、そう思って当然やわ。もう言わん」
さっきまでの調子とは違って、優しい声色だった。
「アンタ、ええ奴やな。メリッサが言うとった通りや」
「メリッサが?」
「ああ。ちぃっとばかし気ぃ弱いけど、いざとなったら根性みせる、友達思いのヤツやって。お母はんが、ええ育て方しはったんやな。そこの京都の女と
そうして、相変わらずニコニコしているモモイロビヨリをちらりと見た。
「そんなぁ。私のお母さんだってよく〝良い性格だね〟って言われてたよ?」
「物は言いようやな」
ワンファートンはもう、怒ってはいないようだった。
「ほな、ウチホンマに忙しいから。後はゲートの前で」
それだけ言うと、あたしたち同期生の輪から離れて、何事かブツブツ呟きながら衣装の裾を握ったり、ポーズを取ったり、ストレッチをしたりと言葉通り忙しく動きはじめた。ルーティーンにしては変わっているけれど、後はそっとしておいてあげようと思った。
さておき、必要なところに苦言は呈しておかないと。
「ちょっとモモ、煽りすぎ」
ブレーキ役のメリッサがいないせいか、今日の場外戦はすごかった。
「ええ? 私何かまずいこと言った?」
「そりゃあ——」
明らかにとぼけているモモイロビヨリだったけど、たしかに何か具体的に悪いことを口にしたかというと、それは無い。深読みしたワンファートンが勝手にイライラしただけ、と言われればそれまでだ。
「アンタ、ほんっとズルいわ」
こうやって、戦う相手のメンタルを揺さぶり、性格や性質を測ったうえで、主導権を握ろうとしている。あたしには理解できない術だけど、きっとモモイロビヨリはすでに何かを掴んだはずだ。それが証拠に、もう顔からはさっきまでの笑みが消えている。
なんだかな、と思っていると、彼女の丸みを帯びたその唇がふっと緩んだ。
「知りたい?」
「え」
まるであたしの思考を読んだみたいな問いに、ギョッとした。
あたしの答えを聞かないうちに、モモイロビヨリは低く冷たい声で教えてくれた。
「トンちゃんは、メリーちゃんに似てる。基本的に、真っ向勝負のレースをする子だね」
「へえ」
「でもね、メリーちゃんより厄介」
「厄介?」
「お国柄の違いかな。トンちゃんは、自分でリードしたがる子。メリーちゃんとは違う。正しいはずの鍵で開かない扉は、自分の力でこじ開けちゃう。扱いにくい子」
「まあ、確かに気は強そうだけど」
どういう意味だろう。「自分の力で」ってのは、トレーナーが言っていたように、レースのペースメーカー的存在になるってことだろうか。だとしたら、あたしの方針にも間違いは無いわけだから、嬉しい。ただ「扱いにくい」っていうのはよく分からない。単に口論で負けなそうってこと? それは、そうかもしれない。
「やっぱり、メリーちゃんの方が、好きやわ」
最後に付け加えられた一言に、ゾクリと寒気が走った。