ストレイガールズ   作:嘉月なを

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#07-2000メートル

 土曜日のトレセン学園には、ちょっとしたお祭りの雰囲気が漂っている。特に、チームに所属していない者も含めて、すべての生徒がフリーになる午後の時間。翌日はその週のメインレースが行われる日曜日ということもあって、学園の誰もが少しそわそわしだす頃だ。

 その日、練習グラウンドのスタンドには、大勢の生徒が詰めかけていた。

 

「いま、どれくらい来てる?」

 

 ロッカールームの中、あたしは震える声でクラウンセボンに尋ねた。

 

「えーとね、二、三百人くらいかなあ」

 

 その答えを聞くと、心臓がきゅっとするような感覚を覚えた。そんな大勢の前で走ったことなんて、ここに入学してからは一度もない。入学する前だって、街のレース大会でお遊び程度に走った程度。あんなのと、今日のこれとは緊張感がまるで違う。だって相手は、アイツなんだから。

 

「おまえ、緊張してるのか」

 

 レイアフォーミュラの刺すような声が、ロッカールームの中に響いた。

 

「う、うるさいな。だれだって、アンタと走るとなったら緊張するでしょうが」

 

 あたしは精一杯の虚勢を張った。これがけん制だということは分かっている。レースというものは、それも含めて勝負だ。走る前から負けてはいけない。

 するとレイアフォーミュラは、ふふんと鼻で笑った。

 

「大した自信だな」

「自信?」

「そうだ。自信が無いなら、緊張なんかしないだろう」

 

 そう言って、世代最強のウマ娘は、ベンチに腰かけているもうひとりの出走者の前に立った。

 

「今日は楽しみにしているぞ」

「あ、そう」

 

 ホープアンドプレイは、いつものようにそっけなく答えた。その様子に、レイアフォーミュラは眉をぴくりと動かして、一瞬、不満げな表情を見せる。けれどすぐに、もとの余裕を(たた)えた顔に戻り「では、先に待っているぞ」と言って、ロッカールームを出て行った。

 

「ルピナスちゃん、ホープちゃん、頑張ってね」

 

 クラウンセボンはそう言って、ぐっと(こぶし)を握りしめた。なんだかとても妙な気分だ。ここにいるチームプルートのメンバーは誰一人、今日の模擬レースでレイアフォーミュラに勝てるなんて思っていない。それなのに、なぜかあたしの胸はドキドキしている。彼女が言っていた通り、自信が無いなら緊張なんてしないはずなのに。

 

「ルピナスちゃん?」

「ボン、昨日のこと、覚えてる?」

 

 それは、昨日のチームミーティングの時のこと。あたしはトレーナーにレースを辞退したいと申し出た。そのわけは、戦う相手が強すぎるということもあったけれど、それ以上に2000メートルという距離がネックだったからだ。

 芝2000メートル。本格化前のあたしにとっては、長すぎる距離だ。模擬レースの話が決まってから、練習で何度もトライしたけれど、何度やっても、1600メートルを超えたところで限界が来る。これじゃあ勝ち負け以前に、レースを成立させることもできない。それで、辞退の話を持ち出したのだった。

 その申し出に、トレーナーはこんなふうに答えた。

 

「大丈夫。本番ではなんとかなるから。明日は、相手の後ろについて行きなさい。抜きにかかるのは最後の直線。それまでは我慢すること。考えるのはそれだけでいい。逆に、それ以外は考えないように。そうすれば、ちゃんと勝負できるはずだよ」

 

 つまり、差しのレースをしろということだ。だけど、それはもともとあたしの得意な戦法であって、なにも特別なことではない。練習と本番で何が変わるのか、あたしにはさっぱりだった。そもそも、本番のレースでは1600までしか経験が無い。それなのに、練習で走り切れなかったものが、レースになればちゃんと勝負できるなんて、どういう理屈なんだろう。

 

「ビギナーズラックでも狙えってことかな」

「多分、そういうことじゃないよ。上手く言えないけど、私もトレーナーさんの言うことは、当たってるような気がする」

 

 そう言って、クラウンセボンはあたしの背中をさすった。

 

「私、ルピナスちゃんといつも一緒に走ってきたじゃない? だから、なんとなくわかるんだ。ルピナスちゃんは、きっと中距離だって走れるって」

 

 なぜだろう、クラウンセボンの言葉を聞いていると、本当にそうなんじゃないかという気がしてきてしまう。こんなのはただの感想であって、何の根拠もないはずなのに。困るなあ、その気になっちゃうじゃないか。

 

「行くよ」

 

 ホープアンドプレイが、ぼそりとつぶやくように言って、立ち上がった。あたしもその後に続く。

 

「じゃ、じゃあ、行ってくる」

 

 とにかく、やってみるしかないんだ。

 

 コースに出ると、わっとスタンドから声が上がる。応援に行く、と言っていたパレカイコの姿も見える。他にも、チームカペラの面々をはじめとして、すでにデビュー済みの先輩たちや、同期のウマ娘たちの姿もたくさん目に入って来た。ああ、これからみんなの前で、あのレイアフォーミュラと勝負するんだ。そう思うと、緊張を通りこして怖くなってきた。

 その一方で、ホープアンドプレイは全く動揺している素振りを見せず、怖いくらいに落ち着きはらっていた。戦う相手の実力をまだちゃんと知らないおかげなのかもしれないけれど。

 

「……ホープはすごいね。あたしと違って、全然ビビってないみたい」

「そりゃね。こんなの、負けたからって死ぬような話じゃないんだから」

 

 死ぬような経験をしたことがあるかのような物言い。あたしは笑えなかった。この子なら、本当にありそうなんだもの。

 対戦相手はすでにスタート地点にスタンバイしていた。

 

「遅いぞ」

「ごめん、待たせちゃった」

 

 スターターはあたしたちのトレーナー、ゴール判定は、レイアフォーミュラのトレーナーがやってくれるようだ。

 

「決めたとおりに、やんなさい」

 

 トレーナーはそれだけ言って、すぐにスタートコールを始めた。

 

「位置について」

 

 心の準備なんてする時間はなかった。でも、これ以上緊張に浸っているより、その方がかえって良かった。あたしと、ホープアンドプレイ、そしてレイアフォーミュラ。三人が一列に、ターフの上へ並んだ。

 

「用意」

 

 ピッ、という笛の音。それを合図に、あたしは右足を力いっぱい踏み込んで、走り出した。他のふたりも、一斉にスタートを切る。

 ハナを切ったのは、当然レイアフォーミュラ……と思いきや、最初に半バ身ほど前に出たのは、あたしの方だった。おかしい。思ったより、レイアフォーミュラは競りかけてこない。まずいな。これだと、後ろについて行くという作戦が遂行できない。だけど、前へ行かせるためにこれ以上ペースを落としたら、とんでもないスローペースになってしまう。どうしよう。あたしは迷った。超スローペースなんて、差し戦法のあたしには嬉しくない。

 

「ルピナス!」

 

 ビクッとしてあたしは後ろを振り返った。ホープアンドプレイだ。いつもぼそぼそ小さな声で喋る彼女から、聞いたことが無いほどの大声が飛んできた。その声は、あたしたちから4バ身後方に離れていても、ちゃんと届いた。その後の言葉は、あたしにもわかるくらいはっきりと、その顔に書いてある。

 

(決めたとおり、やるんだろ)

 

 そうだ。ここまで来てあたしは何をやってるんだ。迷う必要なんかないじゃないか。スローペースがどうとか、そんなことはどうでもいい。とにかく、前に行かせるんだ。それでトレーナーの言ったとおりにならなかったら、後で好きなだけ蹴っ飛ばしてやればいいんだから。

 あたしは加速するのをやめて、半ば無理やりレイアフォーミュラを前へ行かせる。さすがの彼女も、これ以上ペースを落とすわけにいかないとみて、おとなしく前へ出てくれた。ここまでで、最初の400メートル。なんとか、第一コーナーに入るまでに相手の後ろへ入ることができた。

 前に誰かが走っている状況は、たしかに走りやすい。相手に合わせればいいだけだから、余計なことを考えなくて済む。目の前でひらひらと揺れるレイアフォーミュラの尻尾を目印に、あたしはひたすらその後姿を追った。

 

 向こう正面に入って、レイアフォーミュラは少しスピードを上げたようだった。引き離しにかかっているのかもしれない。あたしはとにかくついて行くだけだ。離れすぎないように、前に出てしまわないように。こうしてみると、後ろから煽ってるみたいでおもしろい。それに、風の抵抗が小さくなって、とても楽に体が動く。

 第三コーナーを回って、気づけばそろそろ1600メートルを超えるところ。不思議と、脚にはまだ手ごたえがあった。いつもなら、このあたりでガクンと重くなるところなのに。はじめての感覚。はじめて、マイルを超えた。トレーナーの言ったとおりだった。なぜだかわからないけれど、あたしはマイルの壁を超えられるんだ。そう思うと、震えがくるような快感が走った。

 

 第四コーナーから、最後の直線へ。もう行くしかない。トレーナーも、ラストの直線では抜きにかかっていいと言っていたんだから。それに、スパートをかける脚はまだある。

 カーブを曲がりきったところで、あたしは踏み込みに使う足を右足から左足に乗り換えて、一気に加速をかけた。そのせいで少し外側へヨレてしまったけれど、構わない。全身の力を振り絞ってスピードを上げる。と、あたしの身体がスッとレイアフォーミュラの前へ出た。あまりにもあっさりすぎて、一瞬面食らった。前にはだれもいない。残りだいたい300メートル。まだ脚は動く。これなら、もしかして。本当に、まさか。

 

 けれど、現実はそう甘くはなかった。レイアフォーミュラもまた、直線で加速する。ここへきて、前半の超スローペースが効いているらしい。引き離したいのに、引き離せない。あたしの末脚に、しっかりとついてきた。あたしの方から先に仕掛けたのに、意表をつかれた様子もなく、遅れずぴったりと合わせてくる。それならと、あたしはさらにスピードを上げにかかる。

 その時、スタンドから大歓声が聞こえてきた。

 

「行ける! 行ける!」

 

 いままでちっとも気づかなかった、大声援。みんな声を()らして、腕を振って、あたしに走れと叫んでいる。その中には、パレカイコやオリンピアコスの姿もあった。その瞬間、あたしは自分がいまやろうとしていることに気づいた。

 世代最強と言われるレイアフォーミュラ。彼女にレースで先着した同期はひとりもいない。パレカイコも、オリンピアコスも、他の実力者と言われる同期たちでさえ、彼女にはまだ勝てていない。同期の中にそれだけの強者がいるということは、誇らしいことではあるけれど、同時に屈辱的なことでもある。誰かがこの牙城を打ち崩してほしい。そんな思いを、多かれ少なかれみんな心に抱いている。その最初のウマ娘に、あたしが、なるかもしれない。

 そう思った、次の瞬間だった。

 

(脚が、重い……!)

 

 味わいたくなかった、あの感覚。それは突然、急激にやってきた。脚が、全身が、まるで鉛の塊のように、動かない。たちまちあたしの体勢は右へ右へと傾いていく。コントロールができない。こうなると、蹴り足を乗り換えても手遅れだった。加速力を失ったあたしは、あっという間にレイアフォーミュラに差し返される。あと少し、あと少しなのに。

 差し返されてからは悲惨だった。ぐんぐん引き離され、2バ身、3バ身……。やっぱり、無理だ。届かない。絶対に届かない。着差以上に、実力の差は歴然としていた。あたしは、遠くなっていく背中と動かない両足に気を取られ、その脇を駆け抜けていった小さな白い影には、最後まで気づかなかった。

 

「おつかれ」

 

 ターフの上に倒れ込んだあたしに、トレーナーが水を差しだした。

 

「……持たなかったじゃん」

 

 あたしはそう返すのがやっとだった。あたしの脚が元気に動いたのは1800メートルちょい。確かに、いままでよりはずっと長く持った。それでも、結局2000メートルまでは届かなかった。それが現実だった。

 

「そうだね。でも、()()()()()()()()。あなたはやっぱり、マイルの先にだって行ける子だよ」

 

 その言い方、ずるい。あたし、マイルの壁を超える快感、味わっちゃったんだぞ。そのうえで「あなたはマイルの先に行ける」だなんて、そんなこと言われたら、もう戻れないじゃないか。

 

「3着でも、十分強さを見せたレースだった。だから、ちっとも気を落とすことなんてない。いいね?」

 

 うん、と言いかけて、あたしは勢いよく身体を起こした。

 3着? あたしは、レイアフォーミュラに差し返されて、2着だったはず。そうじゃないのだとしたら……。

 

「ホープが?」

「ああ、そうだ」

 

 振り返ると、レイアフォーミュラが立っていた。まだ肩で息をしている。これほど消耗した彼女を見たのは、初めてのことだった。

 

「勝ったのは私だ。こんなところで、負けるわけにはいかんからな。だが」

 

 そこで一度言葉を切り、彼女はその視線をあたしの横へ動かした。気づけばそこには、いつものように涼しい顔で立っているホープアンドプレイの姿があった。もう全身が萎えてへとへとなあたしとは対照的に、その息遣いはレースをする前とほとんど変わらない。これで、あたしとレイアフォーミュラの間に割って入ったなんて。本当に、底知れないやつだと改めて思わされる。

 レイアフォーミュラも、同じように感じたようだった。

 

「噂に聞いた通り、恐ろしいほどのスタミナだ。もう少し距離があったら、私は捕らえられていたかもしれん」

「ホープの着差は1バ身差だったよ」

 

 トレーナーが教えてくれた結果に、あたしはおどろいた。そんなに僅差だったんだ。自分がヘロヘロだったせいもあって、ホープアンドプレイのことは全然見えていなかった。それどころか、抜かれたことにも気づいていなかった。あたしの方はというと、そこからさらに3バ身離されての入線だったらしい。うーん、完敗。

 

「今後の勝負が、ますます楽しみになった」

 

 ホープアンドプレイへそう言い放つと、レイアフォーミュラは自分のトレーナーを引き連れて、颯爽とコースを去っていった。

 それと入れ替わるように、スタンドから大勢のウマ娘たちが、コース上のあたしたちめがけてなだれ込んでくる。その先頭には、よく見知った顔があった。

 

「ルピナスちゃん! ホープちゃん! すごかったよ二人とも!」

「ボン……」

 

 あたしたちは逃げる間もなく、クラウンセボン以下同期の仲間たちに囲まれてしまった。

 

「本当にもう少しだったわね、ホープアンドプレイさん!」

「ルピナスの仕掛けもすごかったよ! 一瞬、このまま行っちゃうかもって思った」

「ほんと、私ルピナスがこんなに走れるなんて知らなかった。あとちょっと強くなれば、勝つのだって夢じゃないよ」

 

 みんなのはしゃぐ気持ちは分からなくもない。ラストの直線、たとえ一瞬でもあたしがあのレイアフォーミュラから先頭を奪ったのだから。負けたとはいえ、それは望外の結果だった。ホープアンドプレイに至っては、1バ身差まで詰め寄った。「もう少し」「あとちょっと強くなれば」そんな風に言いたくもなるだろう、と思った。

 けれど、あたしとホープアンドプレイは互いに、言葉を交わさずともわかっていた。その()()の壁は、とてつもなく高い。きっとこれは、レイアフォーミュラと真っ向勝負をしたウマ娘にしかわからない感覚。その証拠に、パレカイコやオリンピアコスは、一歩離れたところからあたしたちを見つめている。きっと、いまのあたしと同じような、複雑な気持ちになっているに違いない。

 もみくちゃにされながら、あたしたちは称賛のシャワーを浴び続けた。こんなの、慣れてない。しかも、結果としては負けたのに。見れば、ホープアンドプレイも、困ったような顔をしている。こういう状況に不慣れなのは、同じみたいだ。数少ない共通点が見つかったような気がして、あたしはようやく、気持ちが楽になった。

 

「最後のコーナーを回ったところで、ルピナスちゃんが蹴り足を乗り換えたでしょ。あれがすごくキレイでね」

 

 お祭り騒ぎから解放されたあと、トレーナー室へ引き上げたあたしたちに、クラウンセボンはひとり熱弁をふるっていた。彼女の中では、まだ祭りは終わっていないみたいで、あたしたちは苦笑いしながら、あそこが良かった、あれがすごかったと語るクラウンセボンの姿を見つめていた。

 

「ルピナスちゃんは本当に乗り換え上手だよね」

「ボンは褒め上手だねえ。その調子でホープのことも褒めてやんなよ。あたしより先着したんだから」

「ホープちゃんはとにかく、最後の追い込みがすごかった。本当にもう少しでフォーミュラさんに追いつくところだったんだよ」

 

 けれども、ホープアンドプレイはやれやれといった様子でため息をついた。

 

「あれはボクがすごいんじゃなくて、前が止まっただけ。ナギサに聞いてごらんよ。そんなにボク自身は速くなかったと思うけど」

 

 そこへ、丁度レースの分析を終えたトレーナーが、席を立ってあたしたちの輪に入って来た。

 

「そうだね。ほら、見てごらん」

 

 そう言って、トレーナーは一枚の紙をホワイトボードに貼った。そこには、あたしたちの今回のレースでのラップタイムが記録されていた。それを見ると、確かに、ホープアンドプレイのスピードはそれほど上がっていない。彼女自身が言った通り、あたしとレイアフォーミュラの脚色が鈍ったせいで追い上げたという感じだった。

 

「だけど、やっぱりすごいよ。だって、ホープちゃんのタイム、スタートから一度も落ちてないもん。こんなの、私初めて見たよ」

 

 クラウンセボンの言うとおりだった。速くなったり遅くなったりを繰り返しながら進んでいったあたしやレイアフォーミュラのラップとは違い、ホープアンドプレイのラップには、ひたすら少しずつ加速していった様子が記録されている。普通の追い込み戦法とは明らかに違う、不思議な走り方だ。

 

「なにこれ。アンタ、どういう作戦なの」

「作戦なんかないよ。ボクははじめから最後まで一生懸命走るだけ」

 

 するとそこへ、トレーナーが口を開いた。

 

「ねえみんな、今日のこのレースから何が学べると思う?」

 

 その質問の意図がわからず、あたしは首をかしげた。このレースから学べることなんて、ホープアンドプレイがやっぱりとんでもないスタミナの持ち主だってことくらいしか思いつかない。スタートからゴールまで、一度も息を入れずに走り続けるなんて、どうかしている。

 

「――レースは、展開の影響を受けるってことですか?」

 

 おずおずと答えたのは、クラウンセボンだった。トレーナーはその答えに満足したようにうなずいた。

 

「そのとおり。いい? まず、ルピナスはレイアフォーミュラを先に行かせようとしたね。だけど、最初はうまくいかなかった。レイアフォーミュラの方も、ルピナスを先に行かせようとしていたから。でも、なぜ相手はこんなことをしたのかな?」

 

 あたしにもそれくらいは想像がつく。2000メートルという、本格化前のあたしたちにとっては長距離レースともいえる長丁場で、脚を溜めておきたかったからだ。そう答えると、トレーナーはまたうなずいて、先を続けた。

 

「結局、この争いはルピナスが勝った。これのおかげで、レイアフォーミュラも最後に脚が止まったってわけ。後ろにぴったり付かれたまま先頭を走るときのペース配分ってのは、誰にとっても難しいの。楽逃げはできなかったはずだよ。ずっと後ろを気にしながら走らなきゃいけないからね。かといって、大逃げしてしまったら脚が持たない。そうやって、相手は少しずつ消耗していった」

 

 一方、あたしの方はただ前を行くレイアフォーミュラに合わせればよかっただけだから、精神的な負担という意味でも、風よけという意味でもとても楽だった。聞いてみればなるほどという話だ。たったこれだけで、あたしは1600メートルの壁を超えられたんだと思うと、展開の影響力は絶大だということがわかる。

 

「最後は先にバテちゃったけど、展開の面では仕掛けの時点でルピナスの勝ち。相手の方も、最後の最後はフラフラだったからね」

 

 となると、本当にあたしにも勝つチャンスがあったかもしれないんだ。あたしに、あともう少しの体力さえあれば。

 

「あれだけバテてもホープに追いつかせなかったのは、レイアフォーミュラの意地だね。本当にもうちょっとで届くところだったから。多分、今頃反省会中じゃないかな」

「じゃあ、ルピナスちゃんにはもうちょっとスタミナが、ホープちゃんにはもうちょっとスピードがあれば、フォーミュラさんにだって作戦次第で勝てるってことですか?」

 

 クラウンセボンが尋ねると、トレーナーはまた「そのとおり」と言って人差し指を立てた。

 

「まあ、その『ちょっと』ってのが、なかなか埋まらないものなんだけどねえ」

 

 そう言って、トレーナーはあははと笑って見せた。その重さは、さっきあたしたちが痛感したことと、きっと同じだ。あたしたちが成長する分、向こうだって成長する。足りない能力を補うということは、料理に塩や砂糖を加えるのとはわけが違う。

 それでも、展開と作戦でこれだけ戦えるというのは、あたしたちにとって大きな学びになった。

 

「こういう駆け引きはね、距離が長くなればなるほど、重要になってくるの。マイルや短距離だったら、こんな展開を絡めた作戦を使っても、単純な力の差でちぎられていたかもしれない」

 

 なるほどね。さすがは「長距離の河沼」の娘ってところか。あたしは妙に感心していた。展開だとか仕掛けのタイミングだとかの話は、教官にも、それこそ入学前には母さんからも聞かされていた。でも、こうして実践と合わせて教えてもらうと、そのわかりやすさは全然違う。このトレーナー、やっぱり実力はあるんだ。

 

「ねえ、それじゃこれからのあたしたちの練習メニューは――」

 

 と、そこへコンコンとノックの音が聞こえてきて、あたしは言いかけた言葉を打ち切った。チームメンバーの間に、ピリッとした緊張感が走る。このトレーナー室に用事のある人物なんて限られている。あたしたちは扉の向こうにいる何者かの姿を想像しあった。今日の対戦相手か、それとも、そのトレーナーか。あるいは、忘れかけているけど、メンバー数がまだ足りてないこのチームプルートに対しての、警告かなにかか。

 けれど、トレーナーだけはなぜか、この来訪がわかっていたかのような態度で悠然と構えている。あたしがそれを不審に思っていると、外から今度は声が聞こえてきた。

 

「すみません、どなたか、いらっしゃいませんか」

 

 聞こえてきたのは、大人の声では無かった。それであたしたちは、とりあえずほっと胸をなで下ろした。チームがどうこうといった面倒な話じゃあなさそうだ。

 

「どうぞ」

 

 トレーナーの呼びかけに、来訪者は「失礼いたします」という言葉とともに扉を開け、姿を現した。

 

「お忙しい中、お邪魔いたします」

 

 現れたのは、長い鹿毛の髪に、白い流星が美しく入った、穏やかな雰囲気のウマ娘だった。

 

「あ、アンタ隣のクラスの!」

 

 クラスメイトでもないのに、あたしはその子を知っていた。もちろん、クラウンセボンも。なぜって、この子は有名人だからだ。それも、とびきりの。

 

「レイア、クレセント……」

 

 それは、あのレイアフォーミュラと同じレイア家のウマ娘、レイアクレセントだった。彼女も、なかなかの実力者だという噂だ。でも、そんなことよりも今気になるのは、どうしてこの子がここへやって来たのか、だった。あたしはトレーナーの顔を見た。その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。

 その笑みを見たあたしの中には、なにか面白いことになるんじゃないか、という予感めいたものが湧き出していた。

 

 


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