カーテン越しにも伝わる窓からの熱気で、眼が覚めた。
七月に入ってからというもの、名ばかりの梅雨はあっという間に過ぎ去り、連日35度を上回る猛暑日が続いている。セミも鳴かないほどの暑さに、あたしもちょっとバテ気味だった。
こんな日はトレーニングなんかやめにして、海にでも出て水遊び、といきたいところ。学園主催の合宿に参加していたら、きっとそう言ってゴネたはず。だけど、目覚めたばかりのあたしが今見上げているのは、あの古びた合宿所の天井ではなく、まして二年前の高地合宿で行ったログハウスの木目でもなかった。
「おはよう、ルピナス」
白い壁紙とシーリングライトだけの視界に、にゅっと首が生えて来る。母さんと同じ色の黒髪。だけど母さんよりもずっと若い、ここ三年間、親の顔より見た顔だった。
「よく眠れた?」
「ホープは?」
「もう起きてる。朝ごはんも済んだよ」
トレーナーはそう言うと、早くおいでと仕草で合図してリビングへと戻っていった。
ゆっくり体を起こし、あたりを見回すと確かに、ホープが寝ていたはずの布団がもう部屋の隅できちんと畳まれている。あたしときたら、本来トレーナーが寝床にしていたはずのベッドを占拠して一番遅くまで寝こけていたらしい。
「今何時?」
「8時だよ。顔、洗っておいで」
ぼさぼさの髪を撫でつけながらリビングへ行くと、トレーナーが笑いながら洗面所の方を指さした。ちょうどキッチンカウンター前の食卓の上に、温め直したらしいおかずの皿を並べているところだった。今日も熱中症に注意せよとしきりに言っているテレビの前では、体操着姿のホープがソファにもたれかかって、何やらトレーナーのタブレットをいじっている。
「おはよう」
「おそよう」
返ってきた挨拶に混じった嫌味は聞かなかったことにして、あたしは寝汗でべたついた顔をさっぱりさせにかかった。
あたしとホープがトレーナーの寮室へ転がり込んで、今日で一週間になる。他のチームメイトがみんな夏合宿へ向かう中、あたしたち二人だけ学園に残って不参加となった形だ。
ただ、一応付け加えておくと、単に学園に残るだけじゃなくて、トレーナーの寮で生活することになったのは、あたしのワガママのせいだ。
はじめトレーナーは、あたしたちに美浦寮から極力出るなと言い渡した。夏休み期間中は寮のスタッフも数が減るし、学園関係者による周辺の監視も薄くなる。学期中なら寮と学園の往復くらいであればガードが効いていたけれど、夏休みに入るとそうもいかなくなる。
「だから、窮屈だろうけどなるべく寮を出ないでね。運動不足にならないように、私が出来る限り毎日学園の方に送り迎えするから」
トレーナーのその言葉を聞いたあたしは、とっさに「嫌だ」と思った。もちろん退屈そうだとか面倒くさいとか、そんな気持ちが無かったわけじゃない。でも、それよりも、その時のトレーナーの申し訳なさそうな顔が、気に入らなかった。
「え、だったら学園に住まわしてよ。そんなめんどくさいことしないで」
気づけばそう口走っていた。
「そうだ。いっそさ、トレーナーの寮に寝泊まりさせてよ。たしか前……正月頃だったかな、ホープがそうしようとしたことがあったでしょ? あれ、やってよ。ホープだけじゃなくて、あたしも。二人一緒に」
思い付きから勢いまかせに言ったことだけど、悪くない提案だったと思っている。驚いたとばかりに目を丸くしたトレーナーの表情は、最初のそれよりもずぅっと好きな顔だったから。
そんなわけで始まった夏休みの共同生活。一人暮らし用に作られた1LDKの部屋は、高校生二人と大人一人が暮らすには少し狭い。それでも、見慣れすぎた美浦寮のワンルームに居続けるよりは気分も変わるし、これはこれで良い。
「これ……!」
顔を洗って、寝癖を直して、遅めの朝食にありついたあたしは、手始めにと一啜りした味噌汁の味に驚いた。
「あたしんちのと超似てる」
昨日までは美味しいけれど似ても似つかなかったその味が、今日は実家の味とそっくり同じになっていた。
「ほんと? 良かった」
「どうしたのこれ。母さんに聞いたりした?」
「当たり。今年の夏は帰省が難しそうですってお伝えしたら、だったらせめて家の味だけでもってね。他のメニューもいろいろ教わっちゃった」
使い終わった小鍋を洗いながら、トレーナーは得意げに口の端をきゅっと持ち上げた。
そういえば、おかずの皿に添えられたほうれん草の炒め物も、どこか懐かしい味がする。やれカリウムだ鉄分だと、口癖のように言っていた母さんの姿が思い出される。
「上手いじゃん、料理」
「知らなかった? 私、結構何でもできるんだよ。歌以外は」
トレーナーがこんなに嬉しそうにしているのを見るのは、なんだか久しぶりな気がした。
「さて、今日も暇だなー……」
トレーナー寮は警備が強固な学園の敷地内にある。おかげで共同生活が始まって以来、好きな時にその辺を出歩けるようになった。美浦寮に籠っていた頃は、ちょっと外の空気を吸いに行くだけでもトレーナーの護送車を呼ばなきゃいけなかった。それと比べれば、今は随分面倒から解放されている。
とはいえ、退屈まで解消されたわけじゃない。
「またプールでも行ってくれば」
タブレットのカバーをパタンと閉じて、ホープが興味なさげに言った。
「飽きたわ。そればっかだもん」
その辺を出歩けるとはいっても、もちろんそれは学園キャンパス内までの話。安全面を考えると遊園地や海みたいな行楽地はもちろん、街に出ることもできない。かといって、開き直って激しいトレーニングに打ち込むわけにもいかない。合宿に参加しなかったのは、厳しいローテーションで疲弊した身体を休めるためでもあるのだから。こうなると、できることといえば、敷地内の林を散歩したり、ジムやプールで軽く汗を流したりするくらいだ。
「ねえ、やっぱり一緒に行っちゃだめ?」
玄関脇に用意されたリュックサックを見ながら、思わず尋ねた。トレーナーは今日、プルートのみんなの様子を見に合宿所へ出かけることになっている。昼前に出発して、帰って来るのは夜中になるらしい。
「ごめんね。連れて行ってあげたいけど、今は我慢して」
脱衣所から、トレーナーの声が返ってくる。答えは予想通りだったけど、同時に聞こえて来た何か硬いものが化粧台にカチャカチャ当たる物音で、もやもやとした寂しさが膨らんでゆく。
「トレーナーが行っていいならさ、あたしたちも大丈夫なんじゃない? マスコミに狙われてんのはトレーナーも同じなんだし」
「そうかもね。だからとりあえず私一人で行ってみて、騒ぎにならないか確かめてくる。問題無いようなら、後半からでも合流できないか、ガクと相談してくるよ」
「ふーん」
ああきっとダメなんだろうなと思いながら、それ以上何か言ってトレーナーを困らせるのは止めた。もどかしい思いをしているのは、きっとみんな同じだから。
「そんなに暇なら宿題でもやったら」
「はーい、うるさいでーす」
誰かさんのごもっともな発言を聞き流して、ソファに寝転んだ。大人しくしてろって言うのなら、徹底して怠けてやる。
わざとらしくあくびを一つして、あたしは食後の一眠りへとしゃれこんだ。実家にいたら、こんなの絶対許されないだろうな、なんて思いながら。
それから大体六時間後、あたしはうだるような暑さの中、通い飽きたはずのプール棟へ向かって歩いていた。怠けてやるぞと息巻いたくせに、結局こうなるあたり、あたしって案外ワーカホリックなのかもしれない。
だけど今日は、昨日までと違って同行者がいる。
「あ、ちょっと待って、ホープ」
「何してんだよ」
あたしの呼びかけに、先を行くホープがイライラした調子でこちらへ振り返った。
「だって溶けそうなんだもん……わっとと、やばやば」
さっき自販機で買ったばかりのアイスバーが、みるみるうちに崩れていく。慌てて舌で舐めとるも、追いつかない。しまいにはぽたぽたと地面に白い染みが落ち始めた。手のひらも溶けたアイスでべたべただ。
「向こうに着いてから買えばよかっただろ」
「あっちの全部売り切れだし」
休暇中ということもあって、補充の人もなかなかやって来ないのか、学園内のアイス自販機はどこも品切ればかりだ。特にトレーニングコースやプールのそばに設置されたものは、夏休みに入ってすぐにスッカラカンになっていた。ここ数日、在庫が残っている所は無いかと探し歩いて、やっと見つけたのが灯台下暗しと言おうか、トレーナー寮の裏にあった一台。まあそこも、17種類の味のうち、二つしか残っていなかったんだけど。
「水分補給は大事だよ、ホープも帰りに買ってったら?」
「ボクはいい。補給なら水と塩で十分」
「修行僧か」
「よく言うよ。普段はそっちの方が修行僧みたいに食べないくせして」
一本取られた。確かにホープは間食をしないだけで、食べる量は一般的なウマ娘とさほど変わらない。
「……何ニヤついてんだよ」
「別に?」
指についたアイスの汁を舐めながら、あたしは足を少しだけ速めた。
初めて食べたブルーベリーチーズケーキ味のアイスは、案外悪くない味だった。
「じゃ、先に準備運動して待ってるから——」
猛暑にめげず無事プールの更衣室へたどり着くと、あたしは汗でぐっしょり濡れたTシャツを捲り上げながらそう言った。
授業やトレーニングで着替えが必要になる時、ホープはいつも、トイレや別室で済ませてくる。他人の前では、絶対に服を脱いだりなんかしない。とにかく他人に裸を見せたがらないからだ。何せプールどころか、大浴場でもあたしは一緒になったことが無い。二年間同じ寮で生活していながら、ただの一度もだ。もちろん、トレーナー寮での生活でも、それは変わらない。そもそも水着自体だって、学校指定のものじゃなく、半袖のラッシュガードみたいなのを使っている。
二人きりでプールへ来たのは今日が初めて。だけど、それで何が変わるわけでもないだろうと思っていた。
「——って、えっ」
そう、いつもと同じ、何も変わらないと思っていた。
背後で衣擦れの音がして、思わず振り返ったあたしの目に最初に飛び込んできたのは、芦毛の髪よりも白い肌の色。二の腕から先の日焼けした肌との境目がくっきり分かるくらいだった。
そして不意に、あたしの頭の中で、荒々しく走る車が、一面の雪の上に二本の轍を残していく光景が浮かんだ。雪に刻まれたその線は、なぜだか随分と赤く見えた。
「ご、ごめ……」
何に対して謝ったのか、自分でもよく分からない。とにかく見てはいけないものを見てしまった気がして、さっと目を伏せた。そんなあたしのことなんて気にも留めない様子で、ホープは手際よく水着に着替えると、ただ一言「お先に」とだけ言い残して去っていった。
胸がドキドキしている。見間違いじゃなかった、と思う。ゴーッと鳴り響く換気扇の音が、いつも以上にうるさく聞こえる。
——なぜ?
どうして、ずっとひた隠しにしてきたはずのそれを、今になって見せたんだろう。気付かれないとでも思ったんだろうか。……そんなはずはない。あんな大きくて長い痕、視界の端にちらっと映っただけでもビックリするくらい目立つ。
——絶対、明らかに、見られてしまう覚悟でいたはずなんだ。
思えば、夏休みになってから今まで、誘ったってプールになんか来なかったのに、今日に限って付いてきた。きっと部屋を出た時から、ううん、それよりももっと前から、こうすると決めて来たに違いない。あたしが動揺すると分かっていて、その場で気の利いたことなんて何も言えないのが分かっていて、見せた。ホープは意味の無い行動をしない。そこにはきっと、何か理由があるはず。だけど、あたしの頭じゃちっとも読み解けない。
どうするのが、正しい反応だったんだろう。気付かないフリをするべきだった? それとも気の毒がるセリフを投げかけたら良かった? ……ありえない。多分ホープは、どちらも望んでいない。
震える頬を叩いてプールに出ると、ホープは何食わぬ顔で悠々とコースを泳いでいた。他に誰も泳いでいない、貸し切り状態のプールのど真ん中で。
あたしは無性に腹が立って、そのすぐ隣で泳いでやった。わざと大きく波しぶきを立てて、邪魔するように。ホープは文句を言うでもなく、不機嫌そうにするでもなく、むしろ楽しそうに笑っていた。それがまた悔しくて、最後にはもう、両腕ですくった水を顔面めがけて思い切りかけてやった。さすがに咳き込んだ様子を見て満足していると、そのすぐ後に同じことをし返された。同じように咳き込むあたしを見て、ホープはやっぱり笑っていた。
「疲れた」
「休めって言われてたのにな」
一時間あまりもそうやってじゃれついた後、あたしたちはプール棟のロビーのベンチに座り込んでいた。……いや、座っているのはホープだけ。あたしはすっかりくたびれて、行儀が悪いと分かっていながら、靴を脱いで寝転がっていた。
「アンタ、あたしを試したの?」
「試した?」
「あたしがどんな反応するかって」
身体が疲れたことで、頭と口のブレーキも緩む。あたしのぶっきらぼうな問いかけに、ホープはクスクス笑って言った。
「別に。ただもういいかなって思っただけだよ」
「もういいかなって……急に何なの。どういう流れよ」
「説明しろって言うのか」
「当たり前でしょ。こっちはリアクションに困ったわ」
「疲れてるから、また今度な」
「嘘こけ」
暴れていたのはほとんどあたし。それにこのくらいの運動で、ホープが疲れるわけがない。
「……悪かったよ」
「っ! そうじゃなくて!」
謝ってほしいわけじゃない。またそうやって心を閉ざされても困る。あたしは身体を起こして、ホープの顔をまっすぐ見つめた。
「あたしはどうしたらよかったの? ただ驚けばよかったの? 同情すればよかったの?じゃなきゃ、アンタを傷つけた奴らに怒ってみせればよかった? それとも……」
本当に言いたいことが出てきそうになった瞬間、緩んでいたブレーキがグッと復活した。
「それとも、何だよ」
「……言えないよ、そんなの」
あたしは再び身体をベンチへ投げ出した。同時に、ホープがベンチから立ち上がる音が聞こえた。寝転がるあたしの横へしゃがんで、目を合わせてくる。
——なんだよ、その顔。
ホープは不気味なくらい穏やかな顔をしていた。何の事情も知らない人が見たら、なんて可愛い少女だろうと思うような優しい笑みを浮かべていた。
「疲れたってのは、嘘じゃないんだ」
口調も柔らかで、別人みたいだった。
「疲れるんだよ。嘘をつくのも、隠すのも、疑うのも」
「……だから?」
あたしは何だか恥ずかしくなって、視線を外したくって、姿勢を仰向けに変えた。蛍光灯の明かりに目を細めながら、キシつく髪を指でつまんだ。
「だから、だよ」
ホープの声が聞こえる。低いけれど、今まで聞いたことがないくらい力が抜けて、澄んだ声だった。
今なら、許される気がする。だから、言った。
「……喜んで、いいの? あたしを、信じてくれたって」
あたしたち二人を包む塩素の匂いは、一人の隠し事を、二人の秘密に変えてくれた。
「そう、だな」
「よかった」
だけど一点、注文は付けさせてもらいたい。
「ドッキリみたいな不意打ちはやめて。ビビっちゃうから」
「善処するけど、約束はできない。こう見えて、ボクも結構、余裕無いんだ」
こりゃ、この先も油断ならないらしい。
午後四時を過ぎても、気温は一向に下がる気配を見せない。一旦屋内に入ってしまうと、ほんの数分、
「……『追い切り』」
「また『り』? えーと『栗東』はもう言ったし……あっ『リステッド競走』!」
「『ウマなり』」
「『り』攻めやめてくれる?」
容赦のない攻撃に苦しむあたしを見て、ホープは愉快そうに笑っていた。さっきロビーで見せた屈託のないものとは違って、いつも通りの捻くれたイヤらしい笑み。負けてなるものかとあたしは必死に頭を回した。
「……そうだ! 『寮長』! ほらどう? また『う』だけど」
けれどもやっとのことで思いついた回答に、返事が無かった。
「ホープ?」
見ると、凍り付いた表情で視線を遠くへやっている。
「何かあった? ……あ」
ホープの見つめている方に目を凝らしてみると、学園メインストリートのあたりに人影が見えた。
「誰だろう」
顔は良く見えないけれど、見た感じ、大人の男の人が三人と、女の子が一人。女の子の方は、あたしたちと同じウマ娘のようだった。でも、学園の制服もジャージも着ていない。丈の短いトップスに、スキニージーンズ。完全に私服だ。休暇中のトレセン生か、学外の子か。どっちにしても、大人を三人も引き連れて現れたあたり、何か訳アリっぽいけど。
「隠れよっか」
警備の人が身分確認はしたんだろうし、マスコミ関係じゃないとは思うけど、面倒ごとは避けるに限る。あたしの提案に、ホープもこくんと頷いて、さっき出て来たロビーの方へ引っ込もうとした、その時だった。
「アーッ!」
私服姿のウマ娘の子が、何やら叫んでこちらに走り寄って来るのが見えた。
「%×*@!? ×#×$○+★@&&!!」
ものすごい早口でワケの分からない言葉を発しながら、ものすごい速さで近づいてくる。
「ヤッバぁ! ホープ、逃げよ……って!」
振り返ると、もうそこにホープの姿は無かった。あたりを見回すと、ちょうどプール棟の裏手に白い尻尾が消えていくところが見えた。
「う、裏切り者―っ!!」
慌てて後を追いかけた。背後から聞こえる興奮した叫び声と、妙に力強い足音に追い立てられながら。