5月23日、14時過ぎ。
想像はしていたが、やはりキルシェの利用客は士官学院の生徒が大半を占めているようだ。
裏方が主とはいえ、少しずつ仕事の幅は広がってきている。指導役のドリーさんのおかげだ。
困っていることがあるとすれば、知り合いへの接し方ぐらいか。お客さんとしてもてなせばいいのか、友人として気さくに応じればいいのか、戸惑う時がある。
とはいえ、フレッドさんは「細かいこたぁいいんだよ」と言ってくれている。悩む必要もないだろう。
カウンター席に座る目の前の彼にも、自然に接すればいい。
「お待たせ。焙煎コーヒー」
「ああ、ありがとう」
マキアスは淹れたてのコーヒーを一口啜ると、再び手元の本へと視線を落とした。
《Ⅶ組》男子の中でも1人で行動することが多い彼は、先月の実習以来その傾向が強まってきている気がする。
時と場所を選ばない彼の頑なな態度には、度々やきもきさせられることがある。
だが普段は責任感が強く面倒見もいい、頼れる副委員長だ。多分、それが彼の本質なんだろう。
それに先月の特別実習、私は様々な現実を突き付けられた。彼の姿勢を一方的に否定するには、私は余りにも無知すぎる。
「それ、チェスの本?」
あれこれ悩んでも仕方ない。私は切り替える様にして、マキアスの手元を見ながら言った。
「ああ、これか。毎月買っている月刊誌でね。僕の愛読書だ」
そう語る彼の右手は、前後左右に忙しく動かされている。頭の中で敵のキングを追い詰めている最中のようだ。
「詳しいルールは知らないけど、相手のキングを取っちゃえば勝ちなんでしょ?」
「か、簡単に言うんだな・・・・・・いいか、チェスは戦術の上に重ねられた戦術が生み出す戦略が―――」
たっぷり15分の時間を掛けて語られた彼のチェス論は、私の頭では到底理解できないものだった。
というか、これでも私は仕事中だ。手を止めないようにしながら相槌を打つだけでも一苦労なのだが。
とりあえず、マキアスが相当なチェス愛好家だということだけは確認できた。
「ま、まぁ私も調子がいい時は先の先ぐらいまでは読めるよ。剣ならね」
「どうして剣の話になる・・・・・・まぁいい。それにしても、随分余裕そうだな」
「え?」
「昨日サラ教官が言っていただろう。来月には中間試験があるんだぞ」
「いらっしゃいませー」
「誰も来ていないじゃないか!」
中間試験。不吉な意味を持つ4文字熟語のように思えてくる。
帝国史や政治経済、軍事学。実践技術に関しては少し自信があるものの、暗記が伴う科目はそれだけで抵抗感がある。
見て読んで書けば自然と頭に入りますよ、とはエマの言葉だったか。私の場合、自然に頭から抜けていってしまうのだが。
「試験まではまだ時間がある。今のうちから試験範囲の復習を心掛けておきたまえ」
「肝に銘じておきます、副委員長」
やはり彼は、何だかんだで面倒見がいい。
彼の忠告通り、今のうちから準備を怠らないようにしよう。
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「いらっしゃい―――」
―――ませ。ドアチャイムの音色に反応して口からこぼれた言葉を飲み込み、気配を消す。
「・・・・・・何やってんだ?」
突然カウンターの陰にしゃがみ込んだ私に、厨房にいたフレッドさんが怪訝そうな視線を送ってくる。
とりあえず、今は居ないことにしてほしいのだが。
「コンマ1秒で気配を殺すとは、はにかみ屋な子猫ちゃんだね」
「・・・・・・いらっしゃいませ」
アンゼリカ・ログナー先輩。四大名門の1つ、ノルティア州を治めるログナー侯爵家の皇女である。
彼女もまた、私の中の貴族という概念を十二分に引っ掻き回してくれた。
初めて声を掛けられてのは、つい昨日のことだ。
突然首筋に鼻を当てられ、匂いを嗅がれた。驚きの余り思わず放った掌打は、見事に受け流された。
色々な意味で衝撃的な出会いだった。
「どうだい、これから帝都辺りまでタンデムでひとっ走り」
「仕事中です」
「つれないな、昨日はあんなに愛を深め合った仲だというのに」
彼女の言葉に、周囲の男性客から視線が注がれるのを感じる。
私の背後ではフレッドさんが「ま、マジかよ」と目が点になっていた。いい加減にしてほしい。
「ああもう。とりあえず何か注文して下さい。あとあそこにいる先輩方にもそう言って下さい」
「・・・・・・ああ、クロウか」
端のテーブル席には、子供達とカードゲームに夢中になる男子生徒の姿があった。
「変な先輩に50ミラを騙し取られた」とリィンがぼやいていたことがあったが、その先輩とやらと特徴が一致している。
「あれと一緒にされるのもなんだ、アイスコーヒーをもらおうか」
「はい。フレッドさん、お願いします」
「・・・・・・あ、ああ。アイスを1つな」
フレッドさんはぎこちない様子で、コーヒーを淹れ始める。
早めに誤解を解いておいた方がいいかもしれない。このままではフレッドさんを介して迷惑な噂が広がりかねない。
「・・・・・・ふむ、それにしても」
アンゼリカ先輩はカウンター席に腰を下ろしながら、私―――というより、私の中の何かを覗き込むような、そんな視線を送ってくる。
「昨日も感じてはいたが―――君は随分と厄介なものを抱えているようだね」
思わず身構えてしまう。先程のような飄々とした態度から一変して、彼女の目は真剣そのものだ。
私が抱えるもの。当然、心当たりはある。
「あの、何のことを言ってるんですか?」
「ふふ、隠さなくてもいい。こういうことさ―――」
次の瞬間、アンゼリカ先輩の両の目が大きく見開いた。
彼女の体から発せられたものが、私の中へと叩き込まれる。驚きの余り、思わず背を壁に預けてしまった。
―――何ていう気当たりだ。
「・・・・・・お、驚かさないで下さい。急に何ですか」
「うんうん、君の普通ではない表情はそそられるね。思った通りだ」
「あ、あのですね」
アンゼリカ先輩は満足気に頷きながら、踵を返し出入り口へ向かって歩き出した。
「私にも多少の心得があるってことさ。相談事があれば、いつでも来るといい。力になれるかもしれないよ」
彼女はそう言ってキルシェを後にした。
突然の展開に声も出ない。昨日のやり取りから考えて只者でないと感じてはいたが、これは想像以上だ。
「アヤちゃん、交代の時間よ」
その声にはっとする。いつの間にか、ウェイトレス姿のドリーさんがカウンターに立っていた。
もうそんな時間か。彼女の言う通り、今日の私の出番はここまでのようだ。
「それで、このアイスコーヒーはどちらまで?」
「え?・・・・・・あっ」
カウンターの上には、今し方フレッドさんが淹れてくれたアイスコーヒーが置かれていた。
「・・・・・・えーと。私のです」
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店内の時計に目をやると、午後の3時を指している。
私はフレッドさんが焼いてくれたピザを頬張りながら、これからの予定を考えていた。
今日もリィンは生徒会の依頼とやらに時間を取られているはずだ。その手伝いをしてもいいかと思っていたが、彼が今どこで何をしているのかが分からない。
「あれ、アヤ?」
ドアチャイムが鳴るのと同時に、慣れ親しんだ明るい声が聞こえた。
声の主は、同じ馬術部のポーラ。その隣には、驚いたことにランベルト先輩の姿があった。珍しいこともあったものだ。
「もうアルバイトは終わりなの?折角アヤのウェイトレス姿を見に来たのに」
「アルバイトじゃないってば・・・・・・でも珍しいね。ランベルト先輩まで」
「先輩が奢ってくれるっていうからさ」
「はっはっは!全く記憶に無いが、おそらく気のせいだろう。遠慮は要らないよ」
何やら気になる発言もあったが、多分先輩の言うように気のせいなのだろう。
ポーラによれば、今日も2人は部活動に励んでいたそうだ。部員が少ない分、積極的に参加できないことに2人には少し申し訳なく感じる。
ちなみに、ユーシスも今日は顔を見せていないらしい。
「彼も悪い人間ではないさ。私はそう思うよ・・・・・・ふむ、ノルドの伝統料理『カバブ』はあるかね?」
「できればメニューにあるものの中から選んで下さい・・・・・・まぁ、それには同意です」
私とランベルト先輩のやり取りを聞いたポーラは、不機嫌そうな様子で勢いよくアイスコーヒーを啜っていた。
「知らないわよあんなやつ。馬に蹴られちゃえばいいのに」
「うーん・・・・・・ってポーラ、それ私のコーヒーなんだけど」
私が言うのと同時に、周囲にベルのような機械音が鳴り響いた。
それは私の腰元―――ARCUSから発せられていた。
自然と周囲の視線が私へと注がれる。今日はやけに悪目立ちする日のようだ。
一旦店外に出て通信ボタンを押すと、ARCUSから聞こえてきたのはリィンの声だった。
(そっか。私達にはこれがあったか)
私用で使うことは控えるように言われていたが、生徒会の依頼絡みなら問題無いだろう。
リィンによれば、これから旧校舎探索に向かうところのようだ。
一月前の旧校舎探索。ガイウスとエリオットとからも、事の詳細は聞かされていた。
「じゃあ今から向かうよ。10分後には着けると思う」
『ああ。助かるよアヤ』
私は通信を切ると、急いで店内に戻り2人が待つテーブルへと向かう。
「ごめん、ちょっと急用が入ったから、私もう行くね」
「え、じゃあこれ貰っちゃってもいい?」
ポーラが指す『これ』に目を向ける。
「あはは、そんなわけないでしょ」
私は大皿に残った3切れのピザを綺麗に重ね、たっぷりと味わいながらキルシェを後にした。
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(つ、疲れた・・・・・・)
サラ教官から渡されたレポート用紙をきっちり最後の行まで埋め、私はベッドへ崩れるように身を預けた。
話には聞いていたが、まさかあそこまで奇想天外な事態になっているとは想像もしていなかった。
それは先月の探索に参加したガイウス達も同様だったようだ。
旧校舎の地下は前回を上回る規模で『改変』されていたらしく、徘徊する魔獣は手強さを増し、ダンジョン区画はより複雑に入り組んでいた。あの特別オリエンテーリングも真っ青の難易度だ。
結局、探索を終えた頃にはすっかり日が暮れてしまっていた。
次回の探索時は時間に余裕をもって挑もう。そう決めた私達を待っていたのが、今回の探索に関する報告書である。
必要性は理解できるが、サラ教官も容赦がない。
「アヤさん、いますか?」
コンコンとドアをノックする音が響く。声でそれがエマだと分かる。
「なにー?」
私はベッドに横たわったまま返す。立ち上がる気力が沸いてこない。
「お風呂が空きましたよ」
「・・・・・・入らなきゃ駄目?」
「うふふ、言っている意味が解りませんよ、アヤさん」
エマの言うように、流石にその選択肢は無いだろう。ノルドでも水浴びは欠かさなかった。
手早く支度を済ませドアを開けると、そこにはエマの姿があった。
「あれ、待っててくれたの?」
「少し様子が気になったので・・・・・・話は聞きました。大分お疲れのようですね」
「まぁね・・・・・・立ち仕事の後に相当歩き回ったから。足が変な疲れ方しちゃってるみたい」
今思えば、今日は1日中立ちっ放しだ。両足が悲鳴を上げるのも無理はない。
「ふふ、アヤさんは働き者ですね。それなら、入浴の後で私の部屋に来てもらえますか?」
「え゛」
「・・・・・・あの、変な勘違いをしないで下さい」
彼女が言うには、筋肉疲労によく効く塗り薬を持っているそうだ。
田舎から持ってきた特製のものだそうで、彼女もよく使用しているらしい。
「・・・・・・ごめん。多分、昼間に会った変質者のせいだね」
「はぁ・・・・・・?」
私は逃げるように部屋を後にし、入浴を済ませた後、約束通りエマの部屋を訪れた。
余りに早い私の来訪に、彼女は案の定「も、もう入ってきたんですか?」と驚きの色を浮かべていた。
私から言わせれば、30以上入浴に費やすエマの方が異常に思える。アリサに至っては1時間は風呂場から出てこない。
「じゃあ、そこの椅子に座って下さい。今用意します」
「塗り薬でしょ?渡してくれれば自分でやるよ」
「・・・・・・えーと、その、塗り方にコツがあるんですよ、これ」
心なしか動揺しているような気がする。
・・・・・・変に意識してしまうのは、全部アンゼリカ先輩のせいだ。どうしてくれる。
心を落ち着かせて、エマに両足を任せる。彼女がふくらはぎに塗り薬とやらを塗り始めると、辺りに心地よい香りが広がった。
「柑橘系、かな?いい匂いだね」
「はい。数種類の薬草やハーブを調合したものなんです」
「ふーん」
ハーブの効果だろうか、薬を塗った肌がヒンヤリとしてくるのが分かる。これは確かに気持ちがいい。
天井を見上げながら身を預けていると、不意に彼女の手が止まった。
(え?)
「どうかしましたか?」
「・・・・・・あ、ううん。何でもない」
一瞬、彼女の両手がぼんやりと光ったかのような思えたが、気のせいだろうか。
目の錯覚だとしたら、大分疲れが溜まっているのかもしれない。
「ふふ、もう終わりましたよ。具合はどうですか?」
「ありがと。よいしょっと」
ゆっくりと両足を床に下ろし、立ち上がる。
驚いたことに、少しも疲労感が残っていない。そればかりか、体がやけに軽い。今日1日の疲れが吹き飛んだかのような感覚だ。
「嘘・・・・・・すごい。これ、全部その薬の効果?そんなに即効性があるの?」
「あ、あはは。塗り方がよかったのかもしれないですね」
そこにどれだけの違いがあるのかは分からないが、これは想像以上だ。
私はエマにお礼を言い、彼女の部屋を後にした。今日はすぐに就寝しようと思っていたが、もう少し頑張れそうだ。
自室に戻り、今日1日を振り返る。思えば、今日はたくさんの人と話をしたような気がする。
日を追うごとに、少しずつ私の世界が広がっていく。今までにない感覚だ。
壁に掛けられたカレンダーに目をやる。来週の今頃は、2回目の特別自習の最中だ。
いや、その前に実技テストがあったか。サラ教官のことだ、また得体の知れない相手と対峙させられるのだろう。
望むところだ。きっといい風が吹いてくれるに違いない。不思議とそう思えてくる。
「・・・・・・よしっと」
私は小さく気合を入れ直し、学習机に教科書を広げるのであった。