絢の軌跡   作:ゆーゆ

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ノルドへの軌跡④

目蓋を開いた途端、記憶を失ったかのような錯覚に襲われた。

自分がどこにいるのかが分からない。

自分が何者で、今が何日なのかすら頭に浮かんでこない。

 

「早いな、アヤ」

 

低く透き通った声と共に、日の光が差し込んでくる。

影になっていて表情は窺えなかったが、それが誰かはすぐに察しが付いた。

 

「・・・・・・ガイウス?」

 

自然と、彼の名前が口から漏れた。

それと同時に、昨晩までの記憶が鮮明に蘇っていく。

 

(そっか・・・・・・いつの間にか眠ってたんだ)

 

右足の痛みが、それを現実だと物語っていた。

一方で心身ともに気力が充実している。2日振りに布団で寝れたおかげもあるのだろう。

 

「よく眠れたか?」

「それなりに」

「似合っているな。想像はしていたが」

「そう」

 

溜息を付きながら言うと同時に、腹が鳴った。

たっぷりと時間を掛けて、盛大に。

 

「・・・・・・別に」

「俺はまだ何も言っていない」

 

昨晩は結局、シーダが用意してくれたスープを口にしただけだった。

目が冴えていくにつれ、途方も無い空腹感が襲ってくる。

 

「朝餉の用意はできている。俺の実家に来てくれ」

 

そう言って差し出されたのは、彼の浅黒いごつごつとした右手。

 

「何、それ」

「何って・・・・・・歩けないだろう。しばらくは俺が君の右足だ」

 

頼んでいない、と言っても彼には通用しないだろう。

それよりもまずはこの空腹を何とかしたい。

今ぐらいは、素直になってもいいのかもしれない。

 

身を預けながらゲルを出ると、高原を照らす朝日が容赦なく降り注いだ。

ノルドの朝焼けを見るのは、これで2回目。

私はこの光景を、あと何度見ることになるのだろう。

 

(傷が癒えるまで、か)

 

そう一人ごちながら、私は彼の実家を目指した。

 

__________________________________

 

3人兄弟だと思い込んでいたウォーゼル家には、もう1人妹がいた。

リリと呼ばれる少女は、まだ3歳になったばかりだった。

駄々をこねてばかりの彼女に、シーダはひどく苦戦していた。

一方のガイウスやトーマは流石に手慣れていた。おそらくシーダで経験済みなのだろう。

 

身動きが取れない私は、トーマとシーダの話相手をして日々を過ごしていた。

話相手と言っても、私は身の上話をほとんどしていない。

トーマ達が訊いてくるのは、外の世界のことについてだった。

中でも『貴族』という存在に、2人は大いに関心を示していた。

帝国を流れる間に得た知識や経験を並べただけでも、彼らにはお伽話のような感覚なのだろう。

 

お返しとばかりに、2人はノルド高原に関する多くを私に教えてくれた。

おかげでこの集落のことは大方把握できていた。

彼らはこことは別の地で冬を越した後、春先を迎えるためにこの地に移動してきたばかりだった。

おかげで移住に付き合わずにすむのは嬉しい限りだ。こんな足では足手まといにも程がある。

 

集落を形成しているのは、30人にも満たない遊牧民。

家畜は羊と山羊に馬、鶏に牛までいた。羊の数だけでも人間の数倍はいる。

まさに自然と共に暮らす民族だ。耳触りだった鳴き声も、すぐに朝時計と化した。

 

一方の私は、1週間が経つ頃には歩き回れる程度に回復していた。

動けるようになるまで1ヶ月は掛かるというアムルの見立ては、見事に外れた。

無理も無かった。これは特異体質と言ってもいい。傷の治りが早いのは力の恩恵だ。

 

ちょうどその頃、集落に1人の帝国人が訪れた。

驚いたことに、それは私の客人だった。

 

「あ、アヤ!?アヤなのか!?」

「ザッツ、さん?」

 

目元に涙を浮かべながら私の懐に飛び込んできた彼を、私は放り投げた。

あんな別れ方をしてしまった以上申し訳無いという気持ちはあったが、気安く触らないでほしい。

 

「痛ててて・・・・・・はは、本当にアヤなんだな。よかった、よかったよ」

 

ザッツはあの日から、私を探して高原を導力車で走り回っていたそうだ。

軍用の設備を私物化するのはどうかと思ったが、私が言っていいことではないだろう。

 

「その、ごめん。私は、大丈夫だから」

「いいって。ナハハ、お前さんが無事でいてくれるんなら言うことは無いさ」

 

彼曰く、この集落は監視塔とも日常的に交流があるそうだ。

私がここにいることも、人づてで耳にしたと言っていた。

 

「それと、書類も俺が破棄してやったよ。好きなだけゆっくりしていけばいい。ここの住民はみんないい奴ばかりだ」

「・・・・・・そうする」

 

それからもザッツは度々集落を訪れては、私の様子を窺いに来た。

仕事をしろという思いもあったが、不思議と悪い気はしなかった。

 

そうして2週間が経つ頃には、私の足は元通りに全快していた。

時を同じくして―――集落では、新しい生命が誕生しようとしていた。

 

_______________________________________

 

「・・・・・・苦しそう」

「出産の時は大抵あんな感じだ。心配ない」

 

時刻は夜の11時。普段なら皆寝静まっている時間帯だ。

私とガイウスは、草原に横たわりながら身をもがく雌馬の姿を、遠目で見守っていた。

既に破水は終えている。陣痛が進むにつれ、呻り声も増してきている気がする。

 

「馬の出産を見るのは初めてと言っていたな」

「動物の出産自体初めてだと思う」

「そうか。ルッカは強い馬だ。見たところ順調のようだな」

 

あれが順調とは到底思えない。率直に言って、見ていられない。

苦しそうに唸り声を上げながら身を揺らす姿は、痛々しいことこの上なかった。

思わず顔を背けそうになるが、それでは見守り役の意味が無い。

 

「君も寒いだろう」

「・・・・・・ん」

 

ガイウスが身に纏っていたマント広げて私を覆う。

私達は身を寄り添いながら、1枚の布に身体を包んでいた。

こうしているだけで、彼の体温と息遣いが伝わってくる。

 

「足の具合はどうだ」

「しつこい。もう痛みも無い」

「そうか。ならいいんだ」

 

ガイウスが言うように、私の右足はほとんど完治している。全力で走っても痛みは無い。

既に彼は、私の右足ではない。それが意味するところは、1つしか無かった。

 

(どうして・・・・・・みんな、何も言わないんだろう)

 

元々傷が癒えるまでという約束だった。

完治した以上、私がここに居座る理由は既に無い。

だというのに、どういうわけか誰もそのことについて触れようともしない。

自分から切り出せということだろうか。

 

「どうかしたのか?」

 

気付いた時には、右の人差し指へ髪をぐるぐる巻きにしていた。

考え事をする際の癖を、既に彼は知っている。

 

「何でもない」

「そうか。見てくれ、そろそろだ」

「え?・・・・・・あっ」

 

口を両手で塞ぎながら、その瞬間を見守る。

いつの間にか、仔馬のものと思われる前肢が見え始めていた。

次第に頭部が、続いて肩がゆっくりと現れていく。

紛れもない新しい生命が、目の前で生まれようとしていた。

 

全身が母体から離れて間もなく、仔馬は荒々しく呼吸を始めた。

大量の汗を浮かべたルッカも、力強く立ち上がると懸命に仔馬を舐め続けていた。

 

「仔馬、立てないみたいだけど」

「すぐに自分で立つさ。見守るしかない」

 

ガイウスが言うように、程なくして仔馬はよろよろと前足を地面に踏ん張り始めた。

だがそれも束の間、足を滑らせた仔馬は再び横たわってしまった。

何度も何度も、立ち上がろうとしては失敗を繰り返す。

1時間近くが経過した後も、仔馬の足取りは同じだった。

 

「手伝わなくていいの?」

「それでは意味が無い。あの調子なら、きっと立てる」

 

馬は頭のいい生き物だとガイウスは言っていた。

なら、あの仔馬は今何を考えている。

生まれてから、まだ半刻しか経過していないというのに。

何故あんな風に頑張れるのだろう。本能なのだろうか。

意志とは関係無くこの地に生を受け、どうして。

 

「・・・・・・頑張って」

 

無意識の内に呟いていた。

時が経つのを忘れ、食い入る様に見守り続けた。

 

(あ―――)

 

やがて仔馬は、しっかりと自身の足でその身を支え始めた。

思わず駆け出したくなる程におぼつかない足取りだが、確かに立っている。

目の前で生まれた新しい生命は、懸命に生きようとしていた。

 

「もう安心だ。アヤ、父さんを呼んでくる」

「・・・・・・」

「アヤ?」

「もう少し、見ていたい」

 

いつの間にか握っていた彼の手を離さずに、問いかける。

腰を上げかけていたガイウスは、小さく溜息を付きながら、再び私の隣に座った。

 

今この場で、という意味ではない。敢えて曖昧な言葉を選んだつもりだった。

だというのに、彼は私の胸中を察していた。

 

「あの仔馬の名前は、アヤが付けてくれ」

「私が?」

「ああ。父さんに頼まれていたが、君に任せる。明日から一緒に、あの仔を育てよう」

 

そうして私は、人生で初となる名付け親を経験した。

同時に、私の滞在期間の延長が決まった。

 

______________________________________

 

仔馬には『イルファ』と名付けた。

昔お父さんが読み聞かせてくれた絵本に、同じ名前の女の子がいたのを覚えている。

彼女が誕生したあの夜から、私の集落での生活は豹変した。

 

家畜の世話に農作業、狩りや炊事。

元々体を動かさないと落ち着かない性分だった私は、文字通り集落で働き始めた。

体力が有り余っていた分、四六時中体を動かしても疲れが溜まることも無かった。

 

特に狩りでは本領を発揮できた。弓矢が使えなくとも、私には剣があった。

投擲術で大抵の小動物は捕らえられたし、私にとっては日常の一部と化していたことだ。

男勝りな力のおかげで、農作業にも大いに貢献できた。

ラカンは「長男が2人になった気分だ」と言っていた。

 

苦戦しているのは、家畜の世話。特に馬だ。

未だに感情が読み取れない。もう何度イルファに尻っ跳ねを食らったか分からない。

この時期に人間に慣れておかないと後々面倒になるそうで、毎日が格闘だ。

人の子育てと変わらないとガイウスは言っていたが、本当に母親になった気分だ。

 

「ぶるるっ!」

「わわっ」

「あはは。アヤねーちゃん、大丈夫だよ。お腹減ってるって言ってるだけだから」

 

トーマとシーダは、私を『アヤねーちゃん』『アヤおねーちゃん』と呼び始めた。

トーマはガイウスと共に、様々なことを教えてくれた。

驚いたことに、ここでは5歳から乗馬を身に付ける習慣があるそうだ。

トーマは幼いながらも、馬の扱いは既に一人前の領域に入っていた。

 

シーダはリリの世話に手を焼いていた。

昔お母さんが『あんたのイヤイヤ期はひどかった』と言っていたことを覚えている。

反抗期のことをそう呼ぶのだろうか。

 

「ほらリリ、お口を開けて」

「イヤ!」

「食べなきゃダメだよ。お腹減ってるんでしょ?」

「イヤ!」

「リリ、あーんしてっ!」

「イヤー!」

 

少なくともリリは、イヤイヤ期の真っ只中にいるようだ。

どうやら私は、相当な苦労をお母さんに掛けていたらしい。

申し訳ない気持ちで胸が一杯になる。思わず長巻から目を逸らしてしまった。

 

「もー。アヤおねーちゃん、どうしよう」

「え。わ、私?」

 

バトンタッチをするように、お椀に入ったお粥を手渡される。

こんな幼い子の面倒を見たことなんて一度も無いというのに。

 

「え、と・・・・・・リリ?ほら」

「むー」

 

どういうわけか、リリは私の前ではある程度素直になってくれた。

もしかしたら、彼女は姉の気を引きたかっただけなのかもしれない。

それからというもの、リリの面倒はシーダと二人三脚で見るようになった。

本来なら母親の役目なのだろうが、ここではそういった習慣があるのだろう。

 

毎日が同じ繰り返しのようでいて、新しい発見と体験に満ちた日々。

1日がとても長く感じられる一方で、気付いた時には夕陽が高原を照らす毎日。

今が何月何日で、何曜日なのかすらハッキリしない。

どうでもいいことだった。時が経つのを忘れ、私は目の前の今日の先、明日を思っていた。

 

_____________________________________

 

鼻歌を歌いながら、小さい身体を毛布ごしにトントンと指で叩く。

三度曲の冒頭に戻ったところで、リリは静かな寝息を立て始めていた。

 

「寝かしつけるのが上手くなったな」

「もう慣れた」

 

暖炉に座るガイウスの隣に腰を下ろしながら、結っていた髪を解く。

もう何度目になるか分からない、静寂に包まれた夜。

もう5月の下旬だ。私がここに来てから、2ヶ月近くが経過していた。

 

「お前はよくその歌を口ずさんでいるな。帝国の子守唄なのか?」

 

ラカンが盃を傾けながら訊いてくる。

 

「星の在り処、という歌です」

 

歌詞は知らないし、正確に言えば子守唄でもない。

フレーズだけが、頭の中にこびり付いている。

 

眠れない夜に、お母さんに代わって私を寝かしつけてくれたお父さん。

ここに来てからというもの、小さい頃の記憶が頭を過ぎることが多くなった。

過去に蓋をしていたせいなのかもしれない。私にも、リリのような頃があったというのに。

 

「布団を換えておいたわ。そろそろ夜も暖かい季節になってきたわね」

「どうも」

 

いつしか私は、ウォーゼル家のゲルで夜を過ごすようになった。

トーマとシーダも、既にベッドの中で夢の中だ。

7人家族が同じ部屋で眠るなんて、帝国ではかなり珍しいだろう。

ここではそれが当たり前だ。

 

(・・・・・・馬鹿じゃないの。6人じゃん)

 

自分で独白しておいて、鼻で笑ってしまった。

私は何を言っている。冗談も程々にしろ。

 

「アヤ。明日の午後に、少し付き合ってほしい」

「午後?何するの?」

「秘密だ」

 

ガイウスが含みのある表情で笑いかけてくる。

今度は何だ。彼は時折、こうして思わせぶるな態度を見せることがある。

 

「ふふ、ねぇアヤ。私達も、明日話したいことがあるの」

「私に、ですか?」

「ああ。お前にとっては大事な話だ」

「私達にとってもですよ、あなた」

 

ガイウスに続いて、夫婦揃って含み笑いを向けてきた。

親子共々、どうやら明日は何かを企んでいるようだ。

悪い気はしなかった。彼らのそんな態度が、悪い方向に転んだことなど無かった。

 

______________________________________

 

翌日の午後。

私は北部の高原で馬に身を揺られながら、歯を食いしばっていた。

1人で乗馬などできるはずもなく、私の前方にはガイウスの身体があった。

 

「速い。もっと速度を落として」

「何だって?」

「聞こえてるんでしょ。速いって言ってるの」

 

ここでの生活には馴染めても、馬の背には全く慣れていない。

身体が後方に置いて行かれるかのような、ふわりと宙に浮かぶ感覚。

目を開けていることさえままならない。

だというのに、馬の脚は一向に速度を落とす気配は無かった。

 

「ハイヤー!」

「ちょ、やめ―――」

 

ガイウスの声と共に、流れ行く風景は速度を増した。

私は目を閉じながら、彼の腰にしがみ付くことしかできなかった。

 

気付いた時には、私達は高原の北部の先。皆が『守護者』と呼ぶ遺跡の周辺にいた。

両の足で地面を踏みしめた後、私はガイウスの鳩尾に拳打を叩き込んだ。

 

「・・・っ・・・・・・す、少しは加減をしてくれないか」

「黙って。今度やったら斬るから」

 

言葉の8割方は本気だ。まるで生きた心地がしなかった。

私が馬に乗れる日なんて、今後来るのだろうか。

シーダでさえそれなりに乗りこなせるというのに。

 

「それで、ここは何?」

 

よろよろと身体を起こしたガイウスは、呼吸を整えながらゆっくりと歩き始めた。

その背中を追うようにして、後に続く。

 

「以前、話してくれただろう。君が見たという写真だ」

「・・・・・・ルーレの」

 

言われてみれば、確かに話したことがある気がする。

ザッツと一緒に入ったダイニングバーで目にした、あの写真のことを言っているのだろう。

程無くして、彼はその足を止めた。

 

「ずっと考えていた。多分、合っているはずだ」

「合ってるって、何の・・・こ・・・・・・」

 

ガイウスが立ち止ったのは、周辺を見渡すことができる崖の先端。

彼の先には、ノルド高原の全てが広がっていた。

すぐに合点がいった。この光景は―――あの写真そのものだ。

 

「・・・・・・わざわざ、これを見せるために?」

「ああ。その、期待外れだったか?」

 

ガイウスの不安げな声に、返すことができなかった。

おそらく時間帯までも計算に入れていたのだろう。

ゆっくりと沈んでいく夕陽が、高原を黄金色に照らし上げるその瞬間だ。

 

これが、全てのキッカケだった。

もしあの時、あの写真の存在に気付いていなかったら。ザッツと出会っていなかったら。

私は今頃、何をしていたのだろう。

 

「あと20分程度は見ていられる。日が落ちる前には集落に戻らないとな」

「・・・・・・ん。もう十分」

 

そう言って、心の中でシャッター音を切った。

目を閉じれば、鮮明に目蓋の裏に浮かび上がってくる。これで十分だ。

ウォーゼル夫妻も私に話があると言っていた。あまり待たせるのも気が引ける。

 

「みんな待ってるから。帰ろう、ガイウス」

 

振り返りながら、背後に立っていたガイウスに声を掛ける。

するとどういうわけか、彼は私から視線を逸らしてしまった。

 

「・・・・・・何?」

「いや。その・・・・・・何だ。何でもない」

 

彼が「何でもない」と言う時に限って、何かある。もう分かり切っている。

心無しか、顔が赤い。夕陽のせいでそう見えるのだろうか。

翡翠色の瞳が、私の姿を捉えないようにぐるぐると回っていた。

 

「何でもないと言っているだろう。さあ、乗ってくれ」

 

誤魔化すようにして、彼が馬の引き手綱に手を掛ける。

 

そこで初めて―――彼以外の、視線に気付いた。

私を見詰める視線。胸の奥底を抉られるかのような、生々しい目。

ぞっとするような悪寒が背筋を走った。

 

「どうした?」

「少し、待ってて。花を摘んでくるから」

「・・・・・・ああ、分かった」

 

そう言って私は、崖とは反対方向に歩を進めた。

ガイウスは気付いていない。気配に敏感な彼が、微塵も気にしていない。

それだけで、その存在が普通では無いと分かる。

 

「誰?」

 

ガイウスの目が届かない、岩肌に囲まれた窪地。

間違いなくいる。気配もあるし、視線も感じる。

 

「・・・・・・誰なの。出てきて」

 

なのに、その出所が分からない。こんな感覚は初めてだ。

長巻の柄に手を伸ばした瞬間、周囲が紫色の光に包まれた。

思わず目を瞬いた。いつの間にか―――視線の正体が、目の前に立っていた。

 

「―――遥々ノルドへ足を運んだ甲斐があったようだ。まさか君の方からアプローチがあるとはね。光栄だよ」

 

そこにいたのは、間違いなく人間だった。

純白の衣と、白鳥を形取った仮面。薄紫色の長髪。

そして何より、この感覚。人の形をした、人外の存在。

私は―――この感覚を知っている。

 

「お初にお目に掛かる。《見喰らう蛇》が執行者No.Ⅹ・・・・・・君の前では名を名乗ることすらおこがましい」

「見喰らう、蛇?」

「4年前のあの日、君と狼の前に現れた《道化師》と同族のようなものだよ。ユイ・シャンファ君?」

 

言葉が出ない。私はこんな男を知らない。何故私の名を知っている。

かろうじて、男が発した言葉の意味は断片的に理解できる。

狼は、あいつだ。道化師も、おそらくあのピエロのような少年だ。

 

「誰・・・・・・誰なの。どうして知ってるの」

「4年前から知っているさ。君が歩んだ軌跡は全て見てきた・・・・・・そう、文字通り全てを見た。君が背負う過去も、闇も、葛藤も―――」

 

―――全部知っている、と男は言った。

 

身体の震えが止まらない。

私の4年間は、私だけのものだ。そのはずだ。

 

「狼の気紛れで運命を狂わされた幼き少女の行方を、ずっと見守ってきたのだよ。私は君に敬意と感謝の意を表明しよう。よくぞ今まで心を壊さず、道を踏み外さず健気に懸命に気高く・・・・・・生き延びてくれた」

「・・・・・・やめて」

 

男が一歩ずつ、私に歩み寄る。

 

「『力』を与えられただけで発狂物だ。人を斬り伏せただけで心が崩壊しても不思議ではない。死の淵から拾われた12歳の少女が耐えうるには、少々酷な物語であろうに」

「来ないで」

 

一歩ずつ、着実に距離が縮まっていく。

 

「そんな少女が足を運んだのが鉄路の果て、蒼穹の大地・・・・・・想像しただけでも心が躍る。彼女が一体その先に何を見るのか。生か死か希望か絶望か。一体何をっ!?」

「来ないでっ!!」

「そう、その顔だよ!!」

 

小刻みに震える身体に鞭を打つように、腹の底から叫び声を上げた。

歩を止めた男は驚いた様子も見せず、私の顔を覗き込みながら続けた。

 

「光と闇、夢と現実の狭間で揺れ動くその表情・・・・・・想像を遥かに超える美しさだ。4年間君を見守り続けた甲斐があったというものだ。興奮冷めやらぬ思いだよ」

「来な・・・・・・いで」

 

擦れた声を漏らすと、男は両腕を上げながら数歩後ずさった。

 

「おっと、原石に傷を付ける気は毛頭無い・・・・・・そう、君はまだ原石だ。分かっているのだろう?夢物語には終焉があることを」

「・・・・・・夢?」

「フッ、全ては君次第だよ、ユイ―――いや、アヤ・シャンファ嬢」

 

そう言って男は純白のマントを羽ばたかせたかと思いきや、再び目の前が光に包まれた。

気付いた時には―――男の姿は、岩肌の頂上に移動していた。

 

「夢から覚めたその時が、物語の終焉であり開幕でもある。その先にある君という物語に・・・・・・さらなる『美』を期待しているよ」

 

そう言って踵を返そうとした男は、どういうわけかピタリとその身を止め、再び私を見下ろしながら口を開いた。

 

「・・・・・・失念していた。狼から君へ、言伝を預かっている」

「言、伝?」

「品性下劣な言葉を口にしたくはないが、致し方あるまい―――」

 

彼が口にした言伝とやらを、私は聞いた。一言も聞き逃さず、耳にした。

 

それが最後だった。

私は―――夢から、覚めた。


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