絢の軌跡   作:ゆーゆ

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決意の先に見る夢

天然の大鏡に映し出された、茜色の夏の夕焼け。

霧に囲まれていた昼とは違い、今では取り巻きの山脈も1枚の鏡に収められていた。

7年前にも目にした光景だ。これが湖だなんて、今でも信じられない。

どんな言葉を並べたところで、これに見合う表現なんて見つかりやしない。

 

クロイツェン州に広がる大穀倉地帯。

バリアハートの光り輝く石灰棚。

ルナリア自然公園の大森林。

この国にはたくさんの美しい物がある。心を動かされるのは、これで何度目だろう。

この光景も精々目に焼き付けよう。生徒会のカメラ同様、既に容量は一杯一杯だ。

 

「この分だと、明日には快晴になるかもしれないな」

「うん・・・・・・ねぇラウラ。レグラムっていい街だね」

「ふむ。今更だな」

 

よく覚えている。あの日のこの時間帯に、私はど真ん中で釣り糸をぶら下げていた。

別に釣りが趣味だったわけではない。多分、ロイドを真似ていただけなのだろう。

ぼんやりと夕陽を眺めながら、小船に揺られる穏やかな一時。幸せな時間だった。

うん、やっぱりもう一度来るべきだ。ガイウスも連れて。

 

「依頼も一通り片付けたし、そろそろ協会支部に戻ろうか」

「そうだね。トヴァル先輩も待ってると思うし」

「「先輩?」」

「・・・・・・気にしないで。何でもないから」

 

皆の声が重なった。当然の反応か。

私が遊撃士としての道を目指していることは、既に皆へ打ち明けている。

とはいえ、トヴァルさんを先輩呼ばわりするには余りに気が早い。

私は誤魔化すようにガイウスの背後に影を潜め、協会支部の建物へ向かう皆の背中を追った。

 

「トヴァルさん、ただいま戻りっ・・・・・・」

 

先頭に立っていたリィンが言いながら扉を開けると、その声と足が止まった。

そのせいで前を歩いていたガイウスの背中に、顔が当たってしまった。

何だ。どうして皆立ち止まっている。

 

「父上・・・・・・!?」

「えっ」

 

リィンとガイウスの間に身体を滑り込ませると、それは目の前にいた。

レグラムの領主、アルゼイド子爵家現当主。アルゼイド流の筆頭伝承者。

『光の剣匠』の名で呼ばれる、帝国最高の剣士と名高い彼。

ヴィクター・S・アルゼイド。その人だった。

 

「久しぶりだ、我が娘よ。どうやら人回り大きくなって帰ってきたようだな?」

「お、幼子扱いはやめて下さい・・・・・・その、父上。ただいま戻りました」

 

子爵閣下の腕に抱かれたラウラは、照れを浮かべながらも再会の喜びを噛み締めていた。

こうして級友の肉親に会うのは何度目だろう。この瞬間はいつも顔が緩んで仕方ない。

私達が知らない素顔を、目の当たりにすることができる。2ヶ月前は、自分がそうだった。

何しろ今回はあのラウラだ。普段とは異なるその表情と声が、彼女を身近に感じさせた。

 

「ふむ、そして彼らが・・・・・・」

「はい。《Ⅶ組》の級友にして、共に切磋琢磨する仲間です」

 

子爵閣下は私達の前に立ち、改めて名を名乗り始めた。

 

「レグラムの領主、ヴィクター・S・アルゼイドだ。そなた達のことは、娘からの手紙で・・・・・・?」

 

と思いきや、今度は子爵閣下の声が止まった。

視線の先には、私。どう考えても私の顔にその目が向いていた。

 

唐突に、彼がラウラのお父さんであることを再認識させられた。

何の汚れも曇りも無い、真っ直ぐな翡翠色の眼。

呆けたような表情も相まって、まるで少年のような純粋さすら感じられた。

 

「っ!?」

 

そんな事を考えていると、眼前に子爵閣下の顔が迫っていた。

気付いた時には、息が当たりそうな程に近くまで。

 

「な、なな何ですか?」

「ふむ」

 

右手を顎に添えながら、考え込むような素振りを見せる子爵閣下。

近い。どういうつもりかは分からないが、近過ぎる。

それに―――格好いい。サラ教官がいかにも好みそうな、魅力溢れる男性だ。

渋くて素敵なオジサマ。まるで理解できなかったその表現が、両の足で目の前に立っていた。

 

「アヤ」

「へ?」

 

思わず見惚れていると、今度はガイウスが私の隣に立った。

目を細めながら、何かを勘ぐる様な目つきで私の表情を窺ってくる。

 

「・・・・・・コホン。何でもないよ?」

「俺は何も言っていない」

 

いや、誤解だからね。別に私は何にも思ってないから。本当に。

・・・・・・まあ、ちょっとだけは。だってあれは反則だ。誰だってああなるに決まってる。

 

「彼は?」

「えっと、私の義理の弟―――」

「彼氏だよ!」

「恋人です」

「夫です」

 

好き好きに言葉を並べる級友達。もう好きに呼べばいい。

というか、今はそれどころではない。まだ名も名乗っていないというのに。

 

「父上、どうなさったのですか?」

「似ている・・・・・・それに、その刀剣。もしやそなたは―――」

 

ああ、そうだったか。その行動の意味が漸く理解できた。

20年以上前の記憶だというのに、よくもまあ一目で思い当たったものだ。

 

「アヤ・ウォーゼルと申します。ラン・シャンファは、私の母です。子爵閣下」

 

お母さんを知る、数少ない人間との出会い。今日で2人目だった。

 

______________________________

 

午後19時。アルゼイド子爵邸、中央食堂の間。

私達は子爵閣下に招かれ、歓談を交えつつ夕食の席を共にすることとなった。

こういった改まった場での食事は苦手だったのだが、今回はさほど緊張感は無かった。

おそらくは先月、皇族の面々に招かれた晩餐会を経験したからだろう。

あれに比べれば、子爵家の当主との同席などかわいいものだ。

それに今回は、お母さんという共通の話題もある。

 

おかげ様で、しっかりと食事を味わうこともできていた。

絶品の一言に尽きる。脂がのった猪肉など頬が落ちてしまいそうな程だ。

ラウラはいつもこんな食事をとっていたのだろうか。何て羨ましい。

 

そんな中で、食が進まない男子が1人。ユーシスだった。

どうやらクロイツェン州を治めるアルバレア家の人間として、思うところがあったようだ。

結局はそれも子爵閣下の一声で、この場に相応しくない無粋な話題となった。

器が大きいとは、正に彼のような人間を言うのだろう。

ラウラ曰く人間の域を超えているそうだが、人柄はどこまでも人間らしかった。

 

「昼間にクラウスと仕合ったようだな。それも、勝利を収めたとか」

「ご学友共々、若々しき獅子のごとき気合でした。先が楽しみで御座いますな」

「そうか。私としては、帝都の女学院に行って欲しかったところだが。良き友にも巡り会えたようだし、これも女神の導きであろう」

「はい・・・・・・私も、そう思います」

 

ラウラは頷きながら、私達を見渡した。

この親にしてこの子あり。そんな表現がぴったりの親子のように思えた。

次第に話題は『良き友』である私達に移っていき、自然と私のお母さんに焦点が当てられた。

 

「やはりそなたには、ラン殿の面影がある」

「クラウスさんも同じことを言っていました。私は母親似のようです」

「こうしてこの地で出会えたのも、女神の導きであろうな」

 

お母さんが他界した事実は、既に私が知らせていた。

惜しい人を亡くした。その言葉だけで、お母さんも浮かばれるに違いない。

・・・・・・アルデヒド男爵。心の中でそう呟いただけで、笑いがこみ上げてくる。

今後は思い出さないようにしよう。何かの拍子で口走ってしまいそうな気がする。

 

「よく覚えている。遊撃士としての信念が込められた、心地よい剣であった・・・・・・リィン、といったか」

「はい」

「人の想いは、その剣に宿る。どうやらそなたの剣には、『畏れ』があるようだな」

 

話の矛先が、リィンへと向いた。

余りに唐突な方向転換に、誰も子爵閣下の意図を汲み取ることができなかった。

 

剣仙ユン・カーファイ。

リィンが振るう八葉一刀流の開祖であり、彼に剣を指南した張本人。

武の道を歩む者なら、誰でも一度は耳にするであろう偉大な人物だ。

子爵閣下はユン老師と面識があり、何度か剣を交えたことがあると語った。

勝敗を決したことは無いそうだ。私達には想像も付かない領域の話なのだろう。

 

「アヤ。そなたは剣術をどう捉えている。話してみるがよい」

「え・・・・・・」

 

今度はこちらか。どうも話について行けていない気がする。

いずれにせよ、黙っているわけにはいかない。

 

「私は・・・・・・剣は元々、魔獣を斬り人を斬るための道具です」

 

16歳。それまでそんな剣を毛嫌いし、無手組として武の世界に身を置いていたお母さん。

全てのキッカケは、遊撃士としての道を歩み始めた事だった。

支える籠手の正義を貫くためには、確かな力が要る。その思いで、剣を握った。

 

流派にはそれぞれの信念が宿っている。剣術も例外ではない。

それが他者を殺傷するための術を、高潔な道へと昇華させる。

お母さんは遊撃士としての意志、自身が信じる正義をその剣に宿していた。

だからお母さんは、我流という道を選んだ。それが、シャンファ流の全て。

お母さんの剣を継いだ時から―――私の道は、決まっていたのかもしれない。

 

「最近になって、漸くお母さんの剣が理解できました。少なくとも、その想いはここに」

 

私は胸元の遊撃士手帳に手を伸ばしながら言った。

子爵閣下は満足気に頷きながら、再び視線をリィンに向けた。

 

「八葉一刀流。東方剣術の集大成と言うべき流派であろう・・・・・・リィン、そなたは何かを畏れるあまり、足踏みしているように見える。それがそなたとアヤの違いだ」

「・・・っ・・・・・・」

 

それは誰もが薄々感づいてはいたこと。

差ではない、違いだ。私とリィンは、同程度の時を剣に捧げている。

その剣に陰りがあるのは、抱えているものの違いに過ぎない。

 

それに私は―――その畏れの正体を、知っている。

間違ってはいないはずだ。彼が足踏みをする理由、抱えている力を。

 

「・・・・・・参りました。ですが、これで覚悟も固まりました」

「ほう」

 

初めて目の当たりにする、確かな信念が込められたリィンの眼差し。

綺麗な眼だ。これが本来の、彼の素顔なのだろう。

 

「どうか自分と―――手合せをしていただけないでしょうか」

 

_______________________________

 

アルゼイド家に伝わる宝剣、ガランシャール。

槍の聖女が率いた、鉄騎隊。その副長が振るったとされる、光の剣匠に相応しい代物だった。

 

「・・・・・・嘘」

 

子爵閣下が剣を取った瞬間、喉に刃を突き付けられているかのような錯覚に陥った。

間合い。彼ほどの達人なら、それは立ち入ることを許されない絶対的な領域。

今私達は、その中にいる。10アージュは離れた場にいながら、瞬時にして悟った。

届くのか、この距離で。到底理解が及ばない世界だった。

 

「リィン・・・・・・!」

 

ラウラにも、この立ち合いがどれ程無謀なものかは当然分かっている。

同時に、リィンの想いも理解はしているのだろう。硬く握られた拳は、その表れだ。

 

「ラウラ」

「アヤ・・・・・・」

 

私だって同じだ。達人と真剣を交える以上、万が一の事態をも覚悟しなければならない。

そうまでして確かめたい何かが、リィンにはある。

 

「リィンは、本気なんだな。俺にもそれぐらいは分かる」

「私達には、見届けることしかできないんですね・・・・・・」

「ガーちゃん、ボクらも応援するよ!」

「やれやれ・・・・・・世話の焼ける男だ」

 

見守るしかない。今私達にできることは、それだけだ。

私はラウラの手を取りながら、しっかりと前を見据えた。

既に剣は抜かれている。もうどちらも、引き下がれない。

 

「八葉一刀流初伝、リィン・シュバルツァー。参ります・・・・・・!」

「アルゼイド流筆頭伝承者、ヴィクター・S・アルゼイド。参る」

 

麒麟功。リィンの気功術と裂帛の気合が相まって、その力を肌で感じた。

するとクラウスさんの号令を合図にして、八葉一刀流『二の型』の剣筋を目の当たりにした。

直後―――リィンの身体は、遥か後方に吹き飛ばされていた。

 

(え?)

 

何も見えなかった。子爵閣下は何ら変わった様子も無く、ただ仁王立ちしているだけだ。

目の前にいながら、剣戟と呼ぶには余りにも物々しい音だけが、遅れて耳に入ってきた。

―――これ程の、ものなのか。先程までの覚悟など、有って無いようなものだ。

 

それからは同じ事の繰り返しだった。

立ち上がっては膝をつき、技を放っては大剣に阻まれ。

リィンは子爵閣下を斬り伏せる覚悟で剣を振るっているはずだ。

その剣は届くことなく、彼の身体には裂傷が増えていくばかりだった。

彼の身体から赤い滴が流れ出る度に、私の手を握るラウラの右手が泣いていた。

 

「何をしている。未だ勝負は付いていない。疾く立ち上がるがよい」

 

子爵閣下の言葉に応えるように、リィンは再びその腰を上げた。

もう限界が近いことは目に見えていた。体力的にも、堪えればいい痛みの範疇を超えている。

 

「そなたの力―――それが限界でないことは分かっている。この期に及んで畏れるならば、強引に引きずり出すまでのこと」

 

やはり気付いていたか。

彼がどうやってそれに思い至ったかは知る由が無い。

ただ、ここからが彼の望んだもののはずだ。

 

「みんな。見逃さないで」

「・・・・・・アヤ?」

 

どういうわけか、既に腰元のARCUSは光を放っていた。

旧校舎での一件と同じだ。既にリィンからは、たくさんの感情が私の中に流れ込んできている。

古傷が温度を持って火照るように、胸が疼いていた。

 

「絶対に目を背けないで。きっとリィンも、その覚悟で立っているから」

 

頭上に掲げたガランシャールが振り落とされた瞬間、それは現れた。

頭髪を銀色に染め上げ、赤黒い血液のような気を身に纏う、リィンのような何か。

 

「オオオォォォォッッ!!!」

 

高潔さなど微塵も無い、ただ鋭いだけの斬撃が子爵閣下を襲った。

その剣筋は目に止まることなく、先程と同様に音だけが2人のやり取りを知らせてくる。

人間の領域を、間違いなく超えていた。

 

子爵閣下はそれを全て紙一重で捌くと、2人の間に距離が生まれた。

それで漸く、言葉を失っていた皆にも、眼前の光景が理解できたようだ。

 

「こ、これが・・・・・・リィンが、恐れていた・・・・・・」

「そうだ。その力はそなたの奥底に眠るもの。それを認めぬ限り、そなたは足踏みをするだけだ」

 

完全には意識を失ってはいないのだろう。

リィンの想いの欠片が、確かな感情となって沸き上がってくる。

―――大丈夫。私達が、最後まで見届ける。

 

「滅びよ・・・・・・っ!」

 

リィンが握る太刀の刀身に、赤黒い何かが帯びていく。

次の技が最後だ。きっとその先に、彼は確かな何かを掴むはずだ。

私には、そう願うことしかできなかった。

 

________________________________

 

今夜私は、きっと夢を見る。

そんな場違いな事を考えながら、私は皆に囲まれるリィンを見下ろしていた。

 

「・・・・・・やっと分かった気がする。リィンが子爵閣下に、手合せを願った理由が」

「阿呆が。こんなものを抱えていたのか」

 

既にリィンは、戻ってくれていた。

先程までの邪悪な気合いは鳴りを潜め、普段通りの彼が目の前にいた。

身体中に刻まれた傷はどれも浅い。あれぐらいなら、オーバルアーツで塞がるだろう。

何はともあれ無事でよかった。漸く見守る側にも、生きた心地がしてきた。

 

「リィン、無事か!?」

「あ、ああ・・・・・・大丈夫だ。すまない」

 

リィンはラウラの肩を借りながら、力無く立ち上がった。

その様相とは裏腹に、目はしっかりと眼前の子爵閣下を見据えていた。

 

「・・・・・・どうやら分かったようだな」

 

力は所詮、力。

使いこなせなければ意味は無く、ただ空しいだけのもの。

だが在るものを否定するのもまた、欺瞞でしかない。

子爵閣下の言葉を1つ1つを確かめるように頷きながら、リィンは小さな笑みを浮かべた。

 

「ですが、これで一層迷ってしまうような気がします」

「それでよい。迷ってこそ人・・・・・・立ち止まるより、遥かにいいだろう?」

 

私達には、リィンに眠る力の大きさしか知り得ない。

彼が何故それを抱えるに至ったか。過去に何があったのか。

それを知るのは、まだ先の事になるだろう。

 

「リィン、傷の手当が先だ。歩けるか?」

「すまない、ラウラ・・・・・・はは。みんなにも、心配を掛けてしまったみたいだな」

 

私達は、それを受け止めて見せる。

過去を知ることは重要ではない。ただ、彼が歩を進めるには力添えが必要のはずだ。

事実、私がそうだった。もう何度救われたか分からない。

焦る必要はない。手を取り合って前に進めればいい。今までのように、これからも。

 

「ふむ。リィン、いつまでそうしている」

「え?」

「加減はしたつもりだ。1人で歩けるであろう」

「・・・・・・あ。す、すみません。俺は別に」

 

睨むような目つきで子爵閣下が言うと、リィンはラウラに預けていた身体を慌てて起こし始めた。

・・・・・・いや、そこは温かな目で見守るところだろうに。

リィンも無理をしていたようで、すぐにその膝は折れ、再びラウラに寄り添う形になった。

 

「・・・っ・・・む、無理をするな。リィン、行くぞ」

「あ、ああ」

 

逃げるようにして、リィンはラウラと練武場を後にした。

ほほ笑ましい光景の中で、約1名。不機嫌なオーラを遠慮なくまき散らしていた。

中々に親馬鹿なのかもしれない。一人娘だし、無理も無いか。

 

「アヤ。待つがよい」

「え?」

 

2人に続こうとすると、その張本人に呼び止められた。

何だろう。2人の進展具合を聞かれても、話すわけにはいかない。

そんな私の胸中とは裏腹に、子爵閣下は真剣な面持ちで口を開いた。

 

「私の目が正しいのであれば―――アヤ。そなたに眠るその『力』。迂闊には呼び起こさぬことだ」

 

言葉が出なかった。

この人の目に、この世界はどう映っているのだろう。

リィンの件といい、理合いに達した人間は皆そうなのだろうか。

 

「分かっています。でも・・・・・・いざとなれば、躊躇いません」

 

ブルブランが言ったことは正しい。

引き出したのは、1度だけ。あの時は、自身の命を守るためだった。

今は違う。私の事などどうだっていい。愛する人間を守るためなら、私は躊躇わない。

お母さんがそうしたように、私は私の信じる正義を貫くまでだ。

 

_______________________________

 

案の定、私は夢を見ていた。

自覚があった。今私は夢を見ている。この光景は、きっと現実ではない。

それを夢だと認識する。誰だって身に覚えのある経験だろう。

ここまでハッキリとした夢は、実に4ヶ月振りだ。初めての特別実習を終えた、あの日。

ガイウスの部屋で熟睡したあの時も、私は兄様と呼ばれていた。

 

目の前に広がるのは、目も眩むような雪景色。

そしてそれを真紅に染め上げる、血。これは私の血だ。

夢なのに痛みすらはっきりと感じる。これはどうにもならない。

 

『兄様っ・・・・・・ち、血が』

 

この夢は初めてだ。でも、彼女は初めてではない。

歳は違えど、何度か見てきた夢の中にいた。

夢だけじゃない。私は彼女を知っている。

 

『グオオオォォォォッッ!!!』

 

耳をつんざくような魔獣の咆哮。あれにやられたのか。

抗う術は無い。手には小型の鉈があったが、これではどうにもならないだろう。

私―――いや。彼も今は、年端もいかない少年だ。

 

薄々分かってはいた。度々こうして、夜に現れる彼女。彼である私。

私には知り得ない、私のものではない記憶の数々。

多分、彼と戦術リンクで深く繋がったからだ。これもARCUSの影響なのだろうか。

だとすれば考え物だ。いくら便利な代物でも、こんな繋がりを見せるなんて聞いていない。

 

一層胸が疼いたと思いきや、次第に視界は鮮血に染まっていった。

自分の血ではない。それはズタズタに斬り刻まれた、魔獣のそれだった。

 

_________________________________

 

8月29日。午前0時半。

日付が変わり、特別実習2日目を迎えた頃。

 

「・・・・・・リィン」

 

ラウラは暗闇の中で、想い人の名を口にした。

余りにも受け入れがたい、リィンに宿る力の一端。

彼が抱えるものの大きさに触れたことで、ラウラは眠れない夜を過ごしていた。

 

あれは一体何だったのか。何故あんなものをその身に宿しているのか。

知る由は無いが、彼の力になりたい。そう願うことしか彼女にはできなかった。

いずれにせよ、きっとリィンは父との立ち合いの先に、何かを掴んだはずだ。

それだけがリィンにとって、またラウラにとっても救いではあった。

 

バタン。

 

寝返りを打ったラウラの耳に、何かの物音が入ってきた。

直後に聞こえてきた、水が流れる音。そして―――嗚咽。

 

(・・・・・・誰だ?)

 

誰かが泣いている。こんな夜中に、一体誰が。

その正体を確かめるために、ラウラはベッドから身を起こし、外の様子を窺った。

音と声は洗面所から聞こえてくる。足音を潜めながら、ラウラは静かに歩を進めた。

 

開きっ放しの扉の先には、蛇口の下に頭を潜り込ませ、流れ出る水を浴びる人影。

思わず息を飲んだ。あれは―――

 

「―――リィン?」

「・・・・・・ラウラ」

 

頭部から滴り落ちる水を気にも止めず、リィンは力無くラウラの名を呼んだ。

すると崩れ落ちるように、すがり付くようにその顔をラウラの右肩に埋めた。

 

「っ・・・・・・り、リィン?こ、こんな時分にどうしたのだ?」

「分からない・・・・・・分からないんだ。あれは、一体誰なんだ?」

 

始めは彼が抱える、もう1人の彼のことを言っているものとばかり思っていた。

そうでないことは、すぐに察した。明らかに様子がおかしい。

 

小刻みに震える身体を優しく抱きながら、ラウラは断片的に漏れ出す言葉に耳を傾けた。

彼女。それは女性だった。夢の中に現れた、自分ではない誰か。

その誰かが殺された。殺されたのに、立っている。血と肉の海の中で。

まるで理解ができなかった。凄惨なその光景も、所詮夢だろう。

理解に及ばない悪夢を見ることは、誰にだってある。何を怯える必要があるというのだ。

 

「リィン」

 

不意に背後から、声が聞こえた。

途端にビクンと、リィンの身体が震えた。

 

「アヤ・・・・・・そなたまで起こしてしまったか」

「ううん。多分、リィンと同じだと思う」

 

その言葉に、リィンは信じられないものを見たかのような表情を浮かべた。

それでラウラも漸く、この場にいる2人だけの世界に触れた。

リィンはゆっくりと顔を上げ、恐る恐るアヤの言葉に耳を傾けた。

 

「ねぇリィン。それ、私だよ」


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