絢の軌跡   作:ゆーゆ

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第6章
アヤと絢


9月6日、月曜日。

アリサの薦めで、日記を書いてみることにした。

初めての経験だから、何を書けばいいのかさっぱり分からない。

そもそも人は何のために日記を書くのかな。どこの国にも存在する、共通の文化のはずだけど。

アリサ曰く、続けることに意味がある。計画性や忍耐力の向上に繋がるそうだ。

参考までに日記を見せてほしいとお願いしたけど、全力で断られた。まあ当たり前か。

とりあえず、その日の出来事や思ったことを、ずらずらと並べていくことにする。

 

意識が戻ってから、今日で4日目。

ある程度は身体を動かせるようになり、こうしてペンを握ることができるまでに回復した。

担当の医師は脅威の回復力だと言っていた。私自身、随分と治りが早いとは感じている。

初めはランのおかげかと思ったけど、そうではないそうだ。何度聞いても否定するばかり。

以前ランが言っていた「彼女」は、一体誰のことなのだろう。

正直に言えば、心当たりは無くも無い。今度、思い切って聞いてみようと思う。

 

回復したと言っても、完治にはまだまだ時間が掛かりそうだ。

ここまで書くのに、実は1時間以上費やしている。正直、キツイ。

感覚的には、あと2~3週間。もしかしたら1ヶ月以上掛かるかもしれない。

・・・・・・気が遠くなる。それに、寝たきりの生活は思っていた以上に辛い。

 

やることが無い。暇過ぎて、時間を持て余してしまう。これが想像以上に堪える。

以前この部屋に泊まった時は、エリゼちゃんという話相手がいてくれた。

看護士さんがたまに話相手になってくれるけど、それも僅かな時間だ。

個室は気楽だし贅沢だと思うけど、やっぱり寂しい。もう2日間、知り合いと会話をしていない。

こうして日記を書いているのも、時間を有意義に使いたいからだったりする。

 

↑まで書いたところで、窓際で羽を休めるランに気付いた。

話相手はいたか。私が目を覚ましてから、ランはほとんどの時間をこの病室で過ごしている。

たまに外に出ることはあるけど、気付けば肩か頭の上にいる。それか胸の中。

看護士さん達にバレたら、即刻追い出されるに違いない。

ランは感が鋭いようで、人の気配に気付くやいなや、すぐに私の服の中に隠れてくれる。

 

まだまだ書きたいことがあるのに、もう腕が限界だと悲鳴を上げ始めた。

書き始めてしまえばペンが進むし、意外に面白い。明日からも続けよう。

 

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9月7日、火曜日。

私がクロスベル生まれである旨を伝えると、看護士さんに「大変ねえ」と言われた。

何のことかと思えば・・・・・・私が知らぬ間に、クロスベルは大変な事態になっていた。

私自身、通商会議の内容までに気が向いていなかった。そんな余裕すら無かったし。

気を遣われていたのだろうか。誰も詳細を教えてくれなかったから、全然気付かなかった。

 

自分の目で確かめるために、看護士さんにお願いして、今月分の新聞を持って来てもらった。

関連する記事には、全部目を通した。大体の事は、それで把握できた。

 

「主権国家として独立する」というディーター市長の提唱に、多くの市民が共感している。

一方で、帝国や共和国の意向を考慮し、慎重に協議すべきという声も少なくない。

政治経済、金融に安全保障。独立するには、多くの諸問題を解決する必要がある。

私にだって、それぐらいのことは理解できる。トマス教官の私見を聞いてみたいところだ。

それに、ロイド達も。今頃彼らは何をしているのだろう。また手紙を書いておこう。

いずれにせよ、クロスベルは過去に例を見ない局面に入っているはずだ。

私はもうクロスベル市民じゃないし、見守ることしかできない。

 

そして、エレボニア帝国。この国でも、不穏さは増す一方。

こうして部屋に籠っているせいで、外の様子を窺い知ることはできない。

それでも、帝都中が緊張感に包まれていることだけは肌で感じる。何というか、皆表情が暗い。

この医療棟で耳にする会話も、その内容は物騒なものばかり。

新聞を読む限り、帝国解放戦線が列車砲の発射を目論んでいた事実は公表されている。

先月の皇族誘拐事件。そして、今回の騒動。誰もが他人事とは思えない領域に入っている。

あいつらは、まだ諦めていないはずだ。次に動くとしたら、何を仕出かすつもりだろう。

 

夕方にラウラとフィー、ガイウスが来てくれた。

1時間程度雑談に耽った他愛も無い時間が、私にとっては涙が出る程に嬉しかった。

元々ガイウスは毎日足を運ぶつもりだったそうだけど、それは私が断っておいた。

そんなことをしたら、彼がクラブ活動に費やす時間が無くなってしまう。

交通費だって馬鹿にならない。実習のように、列車賃が支給されるわけでもない。

今日は私が頼んでおいた『空の軌跡』一式を持って来てくれていた。

漸く続きを読むことができる。折角の機会だし、一気に最後まで読んでしまおう。

 

フィーは園芸部で育てていた植物が、遂に花を咲かせたと笑っていた。

余程嬉しかったのかな。今までで一番の笑顔かも。すごく可愛かった。

ラウラは釣りの腕が上達したと言っていた。聞き間違えたかと思ったけど、釣りだった。

魚料理を練習するために、素材は自分で釣っているらしい。そこまでするか、普通。

まあそれもリィンのためと思えば、ほほ笑ましい限りだ。今度私も食べさせてもらおう。

 

去り際に、また来ると言ってくれた。その言葉だけで心が弾む。

明後日からしばらく天気が崩れるようだ。ずっと晴れていてくれればいいのに。

 

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9月8日、水曜日。

無理をしないようにと釘を刺された上で、やっと出歩ける許可が下りた。

と言っても、当然医学院の敷地内限定。今無理をすれば、回復が遅れるだけなのだから仕方ない。

疲労骨折の一歩手前まで全身を酷使した身だし、精々労わってあげよう。

 

晴れているうちに外の空気を満喫しようと、午前中は敷地内をふら付いた。

ものの数分で息が上がり、休憩をとる。その繰り返しだった。

完治したとしても、元の身体へ仕上げるまで相当に苦労しそうだ。

こんな調子では、今月の実技テストや特別実習には参加できないかもしれない。

そもそも、特別実習は今後も実施されるのだろうか。

サラ教官が先月に言っていたように、実習が秘める危険性が、最悪の形で現実になってしまった。

私を引き合いに出されたら、心苦し過ぎる。この身体は、私自身の問題なのに。

 

今日はマキアスとエマが来てくれた。

と思いきや、1週間分のノートと教科書を山積みにされた。

何の冗談かと思ったら、マキアスは真顔で「来週も持ってくる」と言い出した。

まあ、事実気にはなっていた。ここで療養している間にも、授業は毎日進んでいく。

聞けば、2人は協力して、授業内容を分かりやすくまとめてくれていたようだ。

頭が痛いけど、素直に従おう。復帰してから苦労するよりも、今しておいた方がいいに違いない。

 

士官学院では、各クラスが来月の学院祭に向けて、出し物の準備を始めている時期だそうだ。

私達《Ⅶ組》も何をするか、それを考えておいてほしいとエマからお願いされた。

内容は例年千差万別で、大体のものには許可が下りると聞いていた。

何がいいだろう。私としては飲食店が面白そうだと思うけど。食べれるし。

 

帰り際に、私はエマを呼び止めた。

疑念は全て投げ掛けた。治りが異常に早いと感じていること。

そもそもローエングリン城で、私の身体は一度、壊れかけていたこと。

一しきり話し終えた後、エマは苦笑しながら、「今は、まだ」と一言だけ。

それだけで十分だった。やっぱり、彼女のおかげだった。

今思えば、私はエマについて何も知らない。出身すら聞いたことがない。

いつかきっと、話してくれるその日まで。私の胸の中にしまっておこうと思う。

エマは私の大切な友人。それは何があろうと、変わりはしない。

 

夜にランから「無理をするな」と言われた。

無理なんかしていない。そう答えると、「身体のことではない」と返された。

お見通しみたいだ。最近、肩が重い。肩がこるなんて感覚、これが初めてだ。

 

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9月9日、木曜日。

今日は予報通り、生憎の天気だった。

私は1人部屋で自習をしながら、休憩を兼ねて空の軌跡を読み耽る。そんな1日だった。

天気は週末まで回復しないそうだ。しばらくは、今日のような生活になるかもしれない。

 

こんな雨の中、今日はエリオットとミリアムが来てくれた。

最近は入れ替わりで誰かが訪ねてくれる。素直に嬉しいけど、少し申し訳ない。

2人が来たのは、扉を開けっぱなしで「空を見上げて」を口ずさんでいた時だった。

誰かに歌声を聴かれるなんて、いつ以来だろう。結構恥ずかしかった。

一方のエリオットは、目を輝かせながら「もう一度歌ってよ」と何度も懇願してきた。

彼によれば、私の歌声はエリオットのお母さんに似ているのだそうだ。

改めてそんなお願いをされても、歌えるはずがない。恥ずかしいにも程がある。

 

ミリアムは相変わらずだった。今は1人部屋を満喫しているらしい。

病室でアガートラムを呼ぼうとした時は冷や汗ものだったけど。

快活に笑うその笑顔に、十分すぎる程に元気を分けてもらえた。

 

と思いきや、突然ミリアムから「元気ないね」と言われた。エリオットは目を丸くしていた。

私も驚いた。純粋な彼女のことだから、素直にそう感じたのかもしれない。

適当に誤魔化しておいたけど、ラン同様、見透かされていたのかな。

 

短いけど、今日はこれぐらいにしておこう。

少し、気になることがある。今日は徹夜をしてでも、その『真意』を確かめたい。

幸いにも、私にはたっぷりと時間がある。

 

___________________________________

 

「ふぅ」

 

パタン。

手にしていた一冊の本を閉じ、目頭を押さえながら溜息を1つ。

壁の時計に目をやると、午前11時を指していた。

 

『一睡もしていないようだな』

 

胸元から聞こえた声で、今更ながらその事実を受け止めた。

身体は疲れていない。だというのに、目眩がする程に頭が働かない。

眠気はさほど感じないものの、独特の疲労感が重く圧し掛かってくる。

朝食をとった時の記憶すら曖昧だった。ずっと私は、物語の中に身を投じていた。

 

「うん・・・・・・とりあえずさ、そこで喋らないでよ。何かすごくいやらしいから」

『何を言っている』

「いやいや。分かるでしょ、普通」

『ふむ。ここは居心地がよいので気に入って―――ぬああ!?』

 

胸元に居座るランの頭を、2本の指でグリグリと締め上げる。

意識しなければ、無意識に小鳥と同じ行動を取る。

そう言っておきながら、こいつめ。やっぱり自分の意思でここにいたようだ。

雌雄は無い、それは理解できるが、私からすれば完全にオスなのだ。多少の恥じらいはある。

 

「うーん。まあいっか。隠れ場所にはもってこいだし」

『ぐっ・・・・・・頭が割れるかと思ったぞ』

 

本をベッドの傍らにあるテーブルに置き、身体を寝かす。

空の軌跡。その全てを、徹夜で読み耽ってしまった。

第2部の『Second Chapter』まで、合計6冊。まさに超大作だった。

儚くも確かな未来に向かって、2人の主人公が歩み始めた場面で物語は終えた。

カーネリア以上に感情移入してしまった。何度涙を流したことか。

 

「ふわぁ・・・・・・」

『感心せんな。睡眠不足は身体に響く―――』

 

大きな欠伸をしていると、突然ランが言葉を止めた。

誰か来たみたいだ。人の気配を察知すると、いつもランはその存在を器用に消し始める。

やがて扉をノックする音が耳に入った。やはり誰かが訪ねてきたようだ。

 

「はい、開いてます」

「失礼するよ」

「・・・・・・へっ?」

 

声だけで、それが誰かは察せられた。

一瞬勘違いかと思ったが、聞き間違えるはずがなかった。

 

「やあ。元気そうだね」

「で、でで―――殿下!?」

 

オリヴァルト・ライゼ・アルノール皇子。

開かれた扉の先に立っていたのは、皇子殿下その人だった。

慌てて身体を起こすと、殿下は「そのままで構わない」と首を振りながら笑った。

そんなことを言われても。流石に寝たままは気が引けたので、半身だけは起こすことにした。

 

「突然すまない。驚かせてしまったかな」

「い、いえ。その、どうしてこちらへ?」

 

声が裏返りそうになるのを堪え、何とか会話を試みる。

まさかとは思ったが、殿下は本当に私の身を案じ、わざわざ訪ねてくれたそうだ。

畏れ多いことこの上ない。一国の皇子が、私を訪ねてくれるだなんて。

後にも先にも、これが初めてのはずだ。

 

「君は紛れもない、命の恩人だからね。どうしても直接お礼を言いたかったのだよ」

「そんな。私1人の力ではありませんでしたから」

「ハッハッハ、謙遜はいい。その身を犠牲にしてまで、列車砲を奪還してくれた。士官学院の理事長として、私は君を誇りに思うよ」

 

今は余計なことを考えず、療養に専念するといい。

そういい言いながら、殿下は病室に置いてある丸椅子へと腰を下ろした。

 

順調に回復しつつある旨を話すと、話題は通商会議へと移っていった。

殿下によれば、クロスベルでは独立の是非を問う、住民投票が実施される予定だそうだ。

日時は約1ヶ月後。それも相まって、クロスベルは今静かな熱気に包まれているのだという。

 

住民投票はあくまで賛成か反対かを問う一般投票。

たとえ100%賛成に票が集まったとしても、それに法的な拘束力は無い。

いずれにせよ、州としての意向に大きく影響することは確かなはずだ。

 

「殿下は・・・・・・どうお考えですか。独立の可能性も含めて」

「ふむ。では逆に訊こう。クロスベルが主権国家として独立するには、何が必要だと思う?」

 

質問で返されてしまった。これはどう答えるべきだろう。

少し悩んだが、国を成す要素は決まっているし、授業でも学んだ。クロスベルも例外ではないはずだ。

 

「一般論で言えば、国民と領地、主権ですよね」

「正解だ。争点となるのは、最後の『主権』。通商会議の後半も、その不定さと脆弱さが槍玉に挙がった。帝国と共和国、2大国から徹底的にね」

「・・・・・・すみません、勉強不足で。色々な記事を読みましたけど、よく理解できませんでした」

 

殿下は小さく笑った後、無理もない、と続けた。

事実、クロスベルの歴史と取り巻く環境は、単純ではない。

 

大陸全土に存在する自治州。それらは全て、アルテリア法国が自治権を認め、宗主国としている。

帝国と共和国という2大国を宗主国にもつ時点で、クロスベルとは大きな違いがある。

新聞には、自治州法の貧弱性を論じる記事も多く見受けられた。

もうこの時点で、私はお手上げだった。問題が山積みなのは分かる。

ただ私には、どれが最大の壁なのかが分からなかった。

 

「簡単さ。法的な拘束力を始めとした議論は、この際大した問題ではない。主権という言葉は、場合によってその意味合いが異なるからね」

「なら、一番の争点はどこにあるんですか?」

 

防衛力。殿下はその3文字で表現した。

5月に発覚した、州議会議長の大スキャンダル。市民に銃を向けた警備隊。

そしてテロリスト集団の襲撃に見舞われた、通商会議。

 

テロリストについては、帝国と共和国、両国の随行団により制圧したとされていた。

少々気になる部分ではあったが、要するにそういうことなのだろう。

警備隊や警察の力だけでは、防衛力として不十分ということだ。

 

だがそれは歴史がそうさせているだけだ。

自治州として成立するより以前から、クロスベルは他国の支配下に置かれていた。

度々支配国が変わるような地に、自衛のための防衛力など、存在が許されるはずもない。

一方で、現実は変わらない。何を言おうが、帝国や共和国とでは比較にならない。

安全保障の不備を問うには、確かに十分すぎる程の材料が揃っているように思える。

 

「それらを踏まえた上で、オズボーン宰相とロックスミス大統領の提案だ。不用意な発言は控えたのだが、客観的に見れば理に適っている」

「で、でも。東西の門に、他国の軍事介入を認めるだなんて」

 

想像するに容易い。一度決壊すれば、後はなし崩しだ。

東西の門に他国の軍備を認めた時点で、最早主権どころの話ではなくなる。

警備隊は縮小し、遂には追放されるかもしれない。ロイド達警察だってそうだ。

軍備拡張を名目に、10%というとんでもない税率が、さらに引き上げられる可能性だってある。

認めるわけにはいかない。大陸各国も、そんな勝手を許すとは到底思えない。

 

「だからこその独立宣言であり、且つ争点はそこに集約される。史上稀にみる論争になるだろうね。君も考えてみるといい」

「はい・・・・・・漸く、ある程度は理解ができました。ありがとうございます」

 

全てを理解するには、当分時間が掛かりそうだ。

それに、当事者の声を聞いておきたい。早いところロイドに手紙を書いておこう。

 

「ん?」

 

不意に、殿下の視線が傍らのテーブルの上へと向いた。

空の軌跡、最終巻。私がついさっきまで呼んでいた物語が、そこにはあった。

 

「ほう。もしかして、もう全部読み終えたのかい?」

「あ、はい。つい昨晩に」

 

正確に言えば、ついさっきだ。それは伏せておこう。

 

どうしよう。この流れで突然切り出してしまって、いいものだろうか。

予想外の訪問ではある。ただ、これ以上無いタイミングでもある。

こればっかりは、私も直接、殿下の口から答えてほしいとは思っていた。

 

「・・・・・・殿下。1つお伺いしたいことがあります」

 

この作品をオリヴァルト殿下が、私に贈ってくれた理由。

それは遊撃士協会にあるものとばかり思っていた。

こうして読み終えた今だからこそ理解できる。殿下の真意は、そこじゃない。

 

「何だい?」

「この本・・・・・・この物語、とても素敵です。でもそれ以上に、気になるんです」

 

断定はできない。ただ、そうとしか思えない。

人名はともかく、地名は実在するものだろう。そして、数々の事件や出来事も。

百日戦役。リベールの異変。紛れもない事実が、そこやかしこに見受けられた。

私はその多くの詳細を知らない。どこまでが事実なのか、その線引きができない。

もしかしたら―――境目は、無いのかもしれない。

 

「全部―――事実なんじゃないかって。そう思えるんです」

「・・・・・・その根拠は?」

「いくつかあります。一番は・・・・・・というか、そうでないと、色々と説明がつかないというか」

 

身喰らう蛇。

決して表沙汰にはなり得ない存在。存在してはいけないキーワード。

怪盗紳士。道化師。そして―――『痩せ狼』。私は、それらを知っていた。

 

初めてその文字を目にした時、目を疑った。

同時に、いつの間にか私は物語の中にいた。

1文字1文字が、私に語りかけてきた。これは全部、現実だと。

蛇の暗躍。アーティファクト。浮遊都市。聖獣。

受け入れるには、途方も無く遠い世界。同時に存在する、私が知り過ぎている現実。

私だけでは受け止められない。判断が、つかない。

 

「殿下。答えて下さい」

 

促すように私が言うと、殿下は腰を上げ、窓際へと歩を進めた。

僅かに開いていた窓を閉めると、両手を後ろ手に組みながら、殿下は口を開いた。

 

「最近、東方の文化に興味があってね。君は『漢字』を知っているかい?」

「漢字・・・・・・はい。存在ぐらいは」

 

遥か昔から東方に伝わる、独特の文字文化の事だ。

その文字の1つ1つに、意味がある。詳細は知らないが、確かそんなところだ。

 

殿下は胸ポケットから一冊の手帳を取り出すと、そこへペンを走らせ始めた。

すると殿下は、その一枚を手帳から切り取り、それを私の前に差し出した。

 

「・・・・・・何ですか、これ?」

 

絢。紙には、そう書かれていた。

漢字、だろうか。とても文字とは思えない程に複雑だ。

文字を指でなぞっていると、突然殿下の口から思いも寄らぬ名前が飛び出してきた。

 

「クロスベルで、特務支援課の面々と会ったよ。君はロイド捜査官とも知り合いのようだね」

「ああ、ロイドは幼なじみみたいな・・・・・・って、ええ!?」

 

思わず声を上げてしまった。不敬極まりない。

ロイド達が通商会議の警備に関わっていたのは知っていたが、これは驚いた。

どういうことだろう。一国の皇子と一介の警察官の間に、接点など生まれようがないと思うのだが。

 

「帝国と共和国、クロスベル。激動の時代の先に何が待ち構えているのか、それは私にも見えてこない・・・・・・だが、今回の一件で改めて考えた。鍵となるのは、君達のような繋がりだ」

「繋がり、ですか」

「皇族の誘拐を始めとした数々の事件。貴族派と革新派の対立。そして、宰相の首を狙うテロリストの存在。ロイド捜査官らは、それすら聞き及んでいなかった。おかしいと思わないかい?」

「それは・・・・・・はい。私も以前、感じたことはあります」

 

手紙でのやり取り。それに、ミリアムが貸してくれた通信機を介した会話。

この国の実情を、ロイドは知らなかった。唯々驚くばかりだと言っていた。

 

それが意味するところは1つだ。おそらく間違ってはいない。

情報の規制。それも、かなり強い力が働いているように思える。

流石に個人の手紙までには、それは行き届いていないのだろう。

 

殿下は語った。情報局を始めとした諜報機関が、高度な情報操作を行っていること。

それは共和国も同様で、民族問題が内戦寸前のところまで深刻化している事実。

私達が日常的に目にし、耳にする報道は、その大部分が国境を越えていない。

俄には信じ難いが、殿下の口から語られたとなれば話は別。全部、事実のはずだ。

 

私とロイドの繋がり。殿下が言いたいのは、その繋がりのことだろうか。

それ以上の意味合いを兼ねているようにも思える。

・・・・・・頭が痛くなってきた。クロスベル問題以上に、分からない。

それに、まだ答えを聞いていない。空の軌跡は、事実を基に書かれたのだろうか。

 

「うーん・・・・・・あっ。それで、これは何なんですか?」

 

言いながら、私は手渡されていた一枚の紙を掲げた。

絢。今の話が、この文字にどう繋がるのかが分からない。

殿下は一体、何を言おうとしているのだろう。

 

「それは『アヤ』と読む。君の名前だね」

「アヤ・・・・・・これが」

「その文字が持つ意味を、一度調べたことがある。たくさんの色糸が張り巡らされた様を、そう表現するらしい・・・・・・君には、文字通り『絢』になってほしいのだよ」

「え?」

「フフッ、これは私個人の勝手な期待さ。聞き流してくれて構わない」

 

殿下は再び窓を開けながら言った。

 

「裏で暗躍する存在を知り、この国で支える籠手の紋章を掲げ、糸を結び合う。君には、その糸の本数を存分に増やしてほしい。近々、私からも動いてみるつもりだ」

 

殿下はそう言うと、扉に向かって歩を進め始めた。

何だ。まるで理解できない。殿下は私に、何を期待している。

 

「で、殿下」

「何かな」

「その、上手く言えないですけど・・・・・・私は、そんな立派な人間じゃありません」

 

言いながら、何かが肩に重く圧し掛かる感覚に苛まれた。

まただ。どうしてこうも肩が凝るのだろう。

 

「さっきも言ったが、これは私個人の想いに過ぎない。その物語を贈ったのも、私の勝手だ。それをどう受け止めるかは、君の自由だよ」

 

その後も殿下は一言二言私に投げ掛けた後、病室を後にした。

彼の真意を汲み取れないまま、私は頭の中で『絢』が持つ意味を何度も考えた。

答えは出なかった。代わりに、肩の痛みに悩まされるばかりだった。

 

________________________________

 

午後18時半。医療棟の屋上。

私はランを連れて、屋上の柵にもたれ掛かりながら、帝都の街並みを見下ろしていた。

雨は止んだが、空模様はまだどんよりしている。また降ってくるかもしれない。

最近は日が短くなってきた。それにこの時間帯になると、部屋着1枚では少し肌寒く感じる。

いつの間にか、夏は終わっていた。《Ⅶ組》の皆も、知らぬ間に衣替えしていたか。

 

「広いなぁ」

 

延々と続く、緋色の街並み。先が見えない。

その広さが、今はあまり心地よく感じられない。

 

『随分と感傷的に見えるな』

「そうかな・・・・・・あはは。ラン、最近口数が多いね。話相手は他を探せとか言ってたくせに」

『・・・・・・』

 

胸元の声が止んだ。今更黙ってもどうにもならないだろうに。

気を遣われているのだろう。付き合いは短いが、それぐらいは察せられる。

 

「ありがとう、ラン。独りだったら、私今頃泣いてたかも」

『・・・・・・同じようなものではないか』

 

それもそうか。反論の余地が無い。

私は振り返りながら柵に背を預け、腰を下ろした。

膝を抱えて蹲ると、ランが小さな呻き声を上げた。

ごめんごめんと謝りながら、私は力無く囁きかけた。

 

「正直、さ。重いんだよね、最近」

『重い?』

「うん、重い。肩が凝るぐらいに」

 

いつの間にか、私は色々なものを背負ってきた気がする。

殿下の特科クラスへの想い。お母さんの剣と意志。遊撃士への道。

帝国解放戦線との戦い。身喰らう蛇。それを打ち明けた、サラ教官の想い。

そして、絢。殿下が私の名へ込めた、得体の知れない期待。

 

捨てることは簡単だ。捨てる気は更々無いし、今後もそれはあり得ない。

全部背負う決意はある。その意志は本物だと、胸を張って言える。ただ―――

 

『―――怖い、か』

「ん・・・・・・流石にね。変かな」

『そうは思わん。感情があってこその人間だろう』

 

怖い。怖かった。この感情に嘘は付けない。

その対象には勿論、私が直面した危機も含まれている。

一歩間違えれば、間違いなく死が訪れていた。運が良かっただけなのだ。

死が怖い。それすらも、恐怖の1つに過ぎない。

たらればを語ればキリが無い。大切な物を、何度脅かされればいいのだろう。

こうしている間にも、この帝都が襲われる可能性だってある。

 

「何でかな。ずっとそうだったのに・・・・・・最近は、すごく怖い。以前よりも、怖いんだ」

 

実習の度に、常に何かが、私を含めた誰かが危険に晒される。

ずっと歯を食いしばって、懸命に耐えてきた。屈することはなかった。

たとえ生き埋めになったとしても、涙を堪えて立ち上がってきたのに。

 

日増しにそれは膨れ上がっていく。

怖くて、怖くて。足が竦み、涙が滲んでくる。

その恐怖感が肩に重く圧し掛かり、全てを背負う決意すらが鈍りそうになる。

どうしてなのだろう。何故今更になって、こうも私の心を揺さぶってくる。

私はこんなに、弱い人間だっただろうか。

 

「ラン・・・・・・何か言って」

 

すがるような思いで、私は胸元に語りかけた。

返事は無い。待てども待てども、ランは沈黙を守ったままだった。

何か言ってほしいのに。今は独りに―――

 

「こんなところにいたのかい。探したよ」

「え・・・・・・」

 

唐突に、前方から声が聞こえた。

俯いていた顔を上げると、そこには1人の女性がいた。

 

「先輩っ・・・・・・」

「こんばんは、こんな時間に―――おっと。やけに積極的だね」

 

私は無我夢中で、アンゼリカ先輩に抱きついた。

今だけは、独りになりたくない。誰かに寄り添っていたい。

アンゼリカ先輩は戸惑いつつも、優しく私の頭に手を撫で始めた。

その温もりが、とても心地よく感じられた。


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