彼が目を覚ますと其処は真っ白な部屋――ただし、真っ黒と言われれば真っ黒のような気がするし、赤一変色と言われれば赤い部屋に思える―――だった。
『やれやれ、やっと起きたか』
「おいっ! 何処だよ、此処っ!? お前誰だよっ!?」
彼は真っ当な人生を送って来た者ではない。普通に日本に生まれ、普通の家庭で普通に愛情を注がれて生きてきたのだが、彼自身の意思で堕落し道を踏み外して生きてきた。この日も近所のスーパーでゲーム感覚で万引きをした後、小学生から脅し取った金で漫画喫茶に入ったのだが、何時の間にか今の場所に居た。
『言葉使いが汚いな。まぁ所詮はロクな人間ではないし、気にする事ではないか。もっとも人の子など元よりゴミではあるが』
其処に居たのは高圧的な男――もしくは低姿勢の老爺、または礼儀正しい少女――だった。来ている服も身長も、誰かが何かと言えば誰しもがそうだと思う、そんな不思議な相手だ。
「……」
目の前の相手が人間ではないのは男でも理解出来る。だが、何者なのかは分からない。もしや神かと思ったが、わざわざ神が自分に会いに来る理由は分からないが、兎に角気に入らなかった。元々人を人とは思わず、神を神とは思わない外道。目の前の相手が誰か分からないが、腹が立つ相手だから顔面に一撃入れてやろうとポケットに忍ばせていたメリケンサックに手を伸ばし、其処で足下の地面が一瞬で消え去る。
『さてと、少し口論した神が居るのだが、其奴が管理する世界を壊して来てくれ。力はくれてやる』
一方的な物言いで相手の意見など求めない。皮肉にも男が今まで他人に行って来た行為と同じであり、それでも自業自得や因果応報という言葉は浮かばない。浮かぶくらいなら男は今までのような人生は送っていないだろう。
『ああ、言い忘れていたが……貴様の人格は塗り潰させて貰う。訓練した兵士でさえ戦場では精神をやられるんだ。サービスだよ、サービス』
「あがっ!? あがぁああああああああああああああああっ!?」
自分の中に何かが入ってくる感覚、自分が消え去っていく感覚。浮かれていた気分は一気に恐怖に塗り潰され、やがてその恐怖を感じる心さえ消え去る。
『じゃあ、早く行け。伝え忘れていた侘びとして、その内何かしらのプレゼントをくれてやろう。管理する神は少し用事があって干渉して来ないから安心しろ。まあ、実際はどうなるかは分からんがな。幸運を祈るよ。おっと、私が祈られる側か』
その声は彼だった者への嘲笑、または同情、若しくは愛情、それか無関心、其のどれか、もしくは全てが込められていた。
「やれやれ、とんだお方に目を付けられたものだ。俺も……いや、僕も運が無い。天罰と言うべきか因果応報と言うべきか。まあ、人間の善悪に興味は無いって感じでもあったが……」
深い深い穴に落ち、気が遠くなるほどの時を、常人ならば既に発狂するだけの落下時間を味わった男は気が付けば見知らぬ山の中に立っており、何事も無かったかのように周囲を見回しながら呟く。
彼が神だと仮定した相手によって弄くられた人格は既に以前の彼とは全くの別物で、記憶を持つだけの別人だ。ならばわざわざ彼を選んで弄くって送り込まずに一から都合の良い存在を創造して送り込んでも同じ気がした男だが、自分の今の状況の方が簡単なのか、それとも偶々そんな気分だったのかのどちらかだろうと考えた。
「僕の予想では後者なんだが……うん、どうでも良いか。僕が何をすべきか、何が可能なのかは分かっている。先ずは……」
男は一人で納得すると手元に伸びた枝から葉っぱを一枚引きちぎる。形も色も彼が知っている物とは別物で、何やら妙な感覚を覚える。
「ああ、これが魔力という奴か。では……鏡に変われ」
頭の中に入り込んでいた知らない筈の知識によればこの世界は全ての命ある物に大小の差があるが魔力と呼ばれる力が籠もっており、男の与えられた力は魔力を持つ存在を全く別の物に変えるらしい。
「成る程成る程。声の時点で不思議に思ったんだが、顔もそうなのか。うんうん、別に良いけれどね」
鏡に映っている顔をのぞき込む男だったが、どんな表情をしているのかを認識するも、どんな顔なのかは塗りつぶされているみたいに分からない。声も同様で、何を話しているのかは分かっても、自分の声がどんな物なのか分からない。
自己の大部分を認識出来ないという状況の中、男は心の底から興味なさそうにして鏡を放り捨てると真っ直ぐに歩き始める。元の彼よりも遙かに強い力で投げられた鏡は遠くに飛び、見知らぬ男を警戒して巣穴に急ぐ野ウサギの頭上の枝にぶつかって割れる。飛び散った鋭利な破片は巣穴の入り口と両親にのみ降り注ぐも命を奪うには至らない。
ただ、逃げ込む巣穴の前に鋭利な破片が先端を上に向けて待ちかまえ、足を怪我して満足に動けない両親の流した血の香りに誘われて狐がやって来るだけだ。腹を空かせた獣の前に逃げる事も叶わぬ獲物が大勢。この後に待ちかまえるのは弱肉強食の掟であった。
「さて、次は魔法が使えるみたいだから何か的になる物は……うん、あれにしようか」
荒れ道を難なく歩き続けた男が見るのは山の中の小さな村。今現在炎に包まれ、ワイバーンやオーガ等のモンスターに襲われている所。それを見ている男の耳には逃げ惑う人々の悲鳴が届き、同時にモンスターに指示を出す存在の声もだ。
「うん、丁度良い的をこんなにも早く発見出来るなんて日頃の行いが良かったみたいだね」
焼き払われ崩れる建物、響きわたる人々の悲鳴。そんな惨状が起きている村の中心にその女の姿があった。深紅の鎧を身にまとった凛々しい顔の女騎士。身の丈程の大剣を背負い、龍の尾と翼を持つ人外。
「探せ! 将来魔王様を脅かす存在となる勇者を決して逃がすな!」
彼女の名はアリエッティ・クルトヴァイン・ベルセルク。魔王率いる魔族の騎士であり、魔王に対抗する力を手に入れるという勇者誕生の予言を受けて生まれた村を滅ぼしに来たのだ。既に抜け穴は塞ぎ、崩れ落ちた建物も地下室が存在しないか調べている最中。
「……神様。どうかこの子をお守りください」
事実、勇者になる赤子は母の手に抱かれ倉庫に隠された地下室に匿われていた。だが、運命は過酷だ。地下室へと続く隠し戸を破ろうとするモンスターの鳴き声が母の耳に届く。彼女は奇跡を信じて神に祈り目を閉じる。
次の瞬間、彼女が居る地下室を含めた村全体が炎に包まれた。
「……はは、はははは、はははははははははっ! いやいや、神から貰った力は凄いな!」
敵と定めた村を逃げまどう住民もモンスターもアリエッティも全て燃やし尽くした男は心の底から込み上げる歓喜に身を震わせて爆笑する。目の前の光景は彼にとってどんな喜劇よりも面白い見せ物だ。
「……おや? 妙な光が」
だが、炎を消して全てが燃え尽きた村の跡を見た彼の目に留まったのは淡い緑の光。興味を惹かれて光へと向かえば光は地下室の赤ん坊から発せられ、それを抱く母親も意識を失っているが生きてはいる。
「……ふむ。成る程ね。勇者とは実にファンタジーな」
魔法によって赤ん坊の使命を知った男は何やら考え、悪魔すら嫌悪する程に醜く濁った瞳を爛々と輝かせ、慈愛の心を持つ女神でさえ忌み嫌うであろう邪悪な笑みを浮かべる。
「ほら、良い子だね。君は僕が育ててあげよう。立派な勇者として人々に希望を与えてくれたまえ」
男は赤ん坊を抱き、魔法であやす。洗脳のたぐいを使えば赤ん坊を泣きやませるのは彼にとって簡単で、お腹が減ったらしいのを感じ取った彼の手にはほ乳瓶と人肌に温められたミルクがある。
「沢山飲んで大きくなるんだ。”おふくろの味”って奴だ。味わって飲むんだよ」
男と赤ん坊以外は誰一人生き残っていない村の跡地に楽しそうな男の鼻歌が響く。死者さえも耳を塞ぎたくなる程におぞましいメロディーだった。
「聞いてくれ。僕はね、世界の破壊を望まれた。つまりは悪性の存在だ。だから悪を成そう。悲しい過去も、強い信念も、叶えたい夢も、それが正義だと信じるまやかしも僕には不要だ。悪故に、悪を成す。それが一番じゃないかな? 君には色々と手伝って貰うけれど、今は大きくなりなさい。僕が悪を成す為に、君の使命を利用してあげるからさ」