私たちは病気だ。決して癒えることのない、不治の病に侵されている。
そんな考えがふと脳裏をよぎったところで、私は苦笑しながらかぶりを振った。
いくら私がスタジオ大黒天の美女制作・柊雪だったとしても、この言い方はちょっと格好つけ過ぎだ。ざっくばらんに言ってしまえば、私たちは頭からネジが一本抜け落ちた阿呆なのだ。
映画が撮りたい。
疼くように、焦がれるように、祈りにも似て、その欲求は度し難い阿呆を生かす原動力になっている。
芸高に入学してすぐ、私もその熱に当てられた。以来在学時から、墨字さんに着いて大黒天に入社した
『私は、映画監督です!!』
そう啖呵を切ったあの日から、私の人生は正しく映画を中心に動き始めた。
映画を撮りたい。
どれだけ時間が経とうとも、この欲求だけは決して色褪せること無く、胸の奥から肋骨をじりじりと焦がしている。
そして私は今日も今日とて、けたたましく鳴る電話と際限なく届くメールの処理を行っている。
映画は、まだ撮れない。
けいちゃんへの出演オファーにすべて断りを入れて、すっかりマネージャー業が板についてきた我が身を自嘲する。
「ま、今は我慢のときだってわかってますけどねー」
ぐちぐちとぼやきながらキーボードを叩く。
元々大黒天は墨字さんが彼の頭の中だけにある傑作を世に出すために作った事務所だ。今の業界に墨字さんが主演を任せられる逸材がいないため、けいちゃんのスキルアップが事務所の方針になっている。
情けは人の為ならず。けいちゃんが実力を付けることは、回り回って私の利益になるということ。
頭では理解しているが、それでもやっぱり、映画が撮りたい。切実に。
「ただいまー!」
「まー!」
どたばたと階段を駆け上がる音が聞こえたかと思ったら、元気な声が事務所に響く。
開け放たれたスタジオ大黒天の玄関ドアからは、ランドセルを背負ったルイ君とレイちゃんが顔を覗かせている。
幼くても、姉に似て顔がいいなー、なんてことを取り留めもなく考えながら、私は「おかえり」とふたりに声をかけた。
「ランドセル置いたら手洗うんだよ」
はーい! と返事がふたつ重なって、ふたりは応接用のソファの近くにランドセルを置くと、給湯室へ入っていった。
その背中を目で追いながら、胸の内のほろ苦さを含んだ吐息が、苦笑交じりに吐き出される。
「ただいまにおかえりかぁ……。よくはないよなぁ……」
よくないよね? と自問自答を繰り返す。
まかり間違っても、ルイ君とレイちゃんがスタジオ大黒天のことを家のように認識していないか不安になる。けいちゃんが忙しくなればなるほど、家を空ける期間が長くなり、私がふたりを預かる時間が増えていく。
夜凪家との付き合いも長くなり、いまさら子守なんて面倒くさいとは思わないけれど、スタジオでご飯を食べ、スタジオから小学校に通い、スタジオに帰ってきて、スタジオで寝るという生活は子供に良い影響を与えているとは思えない。
ここはきみたちの帰るべき家じゃないんだよ。
無神経に一言でまとめてしまえばそれだけの話。私も相当な日数、事務所で寝食しているけれど、それでも職場は職場。帰れないから致し方なく、という割り切りはできている。
社会人でも会社で生活してたら相当ヤバいのに、子供が保護者の職場を自宅のように感じてるなんて児相案件に発展してもおかしくないんじゃないのか。
とは言え指摘するにもオブラートの包み方がわからなくて、結局私はずるずると問題を先延ばしにしてしまっている。
そもそも私は問題だと感じているけれど、ぜんぶ私の独り相撲で、ふたりとも適当なあいさつが思いつかないからとりあえず言っているだけかもしれないし。
「あー、映画撮りてぇ……」
嘘だ。嘘じゃないけど嘘。いまのはただの現実逃避。
おかしいな。私はただの制作なのに、人の命を預かる仕事をしてないか……? くっそヒゲめ。特別手当出せよな。
一向に増える気配を見せない預金通帳の桁数を思い出して、私は乱暴にキーボードを叩いた。タンッと小気味よくエンターキーを鳴らし、後ろに倒れるように背筋を反らす。ぱきぽきと肩や背中の関節が音を立てた。
私は椅子から立ち上がる。休憩だ休憩。ルイ君とレイちゃんと入れ違うように給湯室に入って、熱々のコーヒーを淹れる。湯気とともにコーヒーの匂いが狭い給湯室に広がった。
美人制作・柊雪には今日もコーヒーの香りが似合うなぁ。
淹れたてのコーヒーの温度を舌先で慎重に確かめながら、私は給湯室を出る。
ルイ君とレイちゃんは応接用の脚の低い机を使って、宿題を解いているようだった。感心感心と思いつつ、私の足はふたりの元へ向かう。
ふたりは座卓の前に座布団を敷いて、向かい合いながら問題集に取り組んでいる。私は机の空いているスペースにコップを置いて、レイちゃんの後ろにある来客用の二人掛けソファに座り込んだ。身体が沈むような柔らかさは無く、安物だなぁとつくづく思う。けれど朝からクライアントとのやり取りで疲れが溜まっている身では、すぐに身体の軸がブレて、私はソファに寝転がった。
重力に逆らえない。自分の腕を枕にして、鉛筆が紙の上を滑る音を聞く。そうしていると、鉛筆を置いたレイちゃんが振り返ってくる。無垢な、つぶらな瞳と視線が交わる。
「雪ちゃん、お仕事しないの?」
「どうしようかなー。もう疲れたよー。レイちゃんこそ、宿題は終わったの?」
のそのそとソファから降りて、肩越しにレイちゃんの手元にあるプリントを覗き込む。プリントの設問はすべて埋まっていた。
「レイちゃんえらい! かしこい!」
ひし、とレイちゃんを抱きしめて、頭を撫でながら褒めそやす。
「もぅ、やめてよ雪ちゃん」
されるがままのレイちゃんは恥ずかしそうに唇を尖らせる。たぶんけいちゃんが同じことをしたら、「レイもうお姉さんだからこういうのしないで!」と、手を振り払ってしまうだろう。
それはそれで背伸びしようとしていてかわいいと思う。だけどいまのように、褒められるのは嬉しいけど過度なスキンシップを振り払えず、恥ずかしがっている姿も頬ずりしたくなるくらいに可愛らしいと思う。さすがにそこまですると本気で嫌がられそうなのでしないけど。
「ルイもできてるし!」
そうしてレイちゃんをかまっていると、レイちゃんへの対抗心からか、ルイ君が声を上げた。
対面に置かれた、ルイ君のプリントに目を向ける。レイちゃんと同じように、すべての設問を解き終えていた。
「ルイ君もえらい!」
私は座卓の上に身を乗り出して、ルイ君の頭を撫でようと手を伸ばす。けれどルイ君は私の手が近づくのを見ると、カチンと身を強張らせ、頬を朱色に染めながら、ついと視線を逸らした。
「ルイ、テレビ見る!」
立ち上がったルイ君は、テレビのリモコンを求めて足早に私の手が届く範囲から逃げてしまった。苦笑しながら、私は行き場を失った手を引っ込める。家族以外の女の人との接触は、ルイ君にはまだはやいみたい。
レイちゃんとは真逆の反応だ。けいちゃんが私と同じことをしたなら、ルイ君は抵抗なく受け入れると思う。
けいちゃんや黒山さんを含めてみんなで出かけるときも、レイちゃんやけいちゃんとは手をつないでも、私とは頑なに手をつないでくれないんだよなぁ。三人で行動するときは、私、レイちゃん、ルイ君の順で並ぶのがもうすっかり定位置になっている。
それはそれでかわいいけれど、むずかしいなぁ、おとこのこってやつは。
放置していたコップを取る。熱さを確かめる必要のなくなったコーヒーを、ごくごくと胃に流し込んだ。
「それで雪ちゃんは?」
「ん?」
「お仕事戻るの?」
「んー」
どうしようかな。今日中の仕事はもう無いんだよなぁ。けいちゃん絡みの仕事も一段落ついたし。あるにはあるけど、残りは期日が曖昧な社内の雑事だし、もう夕方だし、いまから新しい作業に手を付けるのもなぁ。面倒くさいんだよなぁ。
なんてぐだぐだ考えているということは、身体は定時を求めてるんだ。
「まあ、今日はもういいでしょ。働いた働いた。明日やろう」
私はぐでっと身体を倒して、ソファの座面にしなだれかかった。レイちゃんのじとっとした視線が、私の顔を撫でている。
「……しょうがないなぁ、雪ちゃんは。ちょっと待ってて」
呆れたように声を出すと、レイちゃんは給湯室へと消えていく。電子レンジの駆動音が三十秒ほど鳴り響くと、レイちゃんは丸めたタオルを手に戻ってきた。
「はい雪ちゃん。休むならちゃんと横になったら?」
「わっ! ちょっとレイちゃん」
レイちゃんは私の隣の座布団に座り直すと、私の頭を掴んで自分の方に引き寄せようとする。バランスを崩した拍子に床に身体をぶつけないよう気をつけながら、私はレイちゃんにいざなわれるまま座布団の上に寝そべった。
頭が柔らかな感触に包まれる。仰向けに寝転がった私の視界には、レイちゃんの顔しか映らない。私はいま、レイちゃんに膝枕をされている。驚いて言葉も告げず、レイちゃんの顔を凝視する。少しだけ得意げな、優しい瞳。これからどんどん美しくなることを約束された表情が、労るように私を見下ろしている。
視線を遮るように、私の目はホットタオルで覆われた。じんわりとした熱が眼の筋肉に伝わってくる。
「あぁ~、レイちゃん、これめっちゃ気持ちいいよぅ~」
思いやりが身に染みる。身近にいる周りの人間が成長とともに取りこぼしてきたとしか思えないものに甘えていると、レイちゃんが「そう言えば」と口を開いた。
「最近おねーちゃんの様子がおかしいんだよね」
「また?」
「うん。また。なんかね、新しいクラスメイトの人を放課後ずっと付け回してるみたい」
けいちゃんそんなことやってんの……?
正直ドン引きだし、頭痛の種だけれど、何をしたいのかはわかってしまった。
けいちゃんも着実にスキルアップはしてるってことなんだろうな。
「人を見る目の解像度が上がったんだろうね」
「雪ちゃん?」
「まあ、けいちゃんなりの稽古なんでしょ。ちょっと前まではさ、なんでいまその仕草したの? ってわからないことは逐一相手に聞いて回ってたでしょ。けいちゃん物怖じしないし。でもいまは、理由なんていちいち本人に聞かなくても、芝居を通してその人のことを理解できるようになってるんじゃないかな」
役を演じる練習として、まずは身近な人を演じてるんでしょ、と私はレイちゃんに言った。
けいちゃんの周りにはカメレオン俳優と呼ばれている他人の模倣が抜群に上手い阿良也さんが居るし、その辺りの影響だと思う。
「だからって、そんなことしていいの? おねーちゃんが男だったらアウトじゃないの?」
「あー、アウトだね。ていうかけいちゃんでもアウトだね。まあ、流石に相手を不快にさせるレベルではけいちゃんだってやらないでしょ」
「毎日同級生の下校を家まで見守ってても?」
「んー……ストーカー被害として訴えられないことを祈ろう! 無いと思うけど、レイちゃんはけいちゃんの真似しちゃダメだよ」
「しないよ」
レイちゃんは呆れたような、嫌そうな顔で私の言葉に反応した。それはそうだろうな、と私も思い直して、つい苦笑を漏らしてしまう。
「けいちゃんからは料理とかもっと生活に直結することを学ぼうか」
「雪ちゃんは料理できるの?」
「できるよー。一応一人暮らししてるし、簡単なやつならね」
「へぇー。最近だと何作ったの?」
んー、何作ったんだろ。そもそも家に帰ったのって何日前だ……? いや、私がわざわざ作る料理なんて数パターンしかないんだし、最近食べた気がするものは……。
「なんだろう……何て言ったらいいのかな……一人暮らしの雑料理って説明に困る……」
先程まで楽しげだったレイちゃんの雰囲気が、胡乱なものに変わっていく様を肌で感じる。
「ホントにできるんだけどね、単に具材炒めるだけなんだけど……。料理……。レイちゃん的には料理ってどこからが料理なの? 冷やっこは料理に入る?」
「お豆腐を切って終わりって意味じゃないなら入ると思うよ」
どうしよう。実は私が今まで作っていたものは料理ではないのかもしれない。
冷たくなってきたホットタオルだったものを顔から取って座卓に置く。湿り気を帯びたタオルはあとで乾かしておかないと。
忘れないよう頭の中でメモをしながら視線を頭上へ戻すと、レイちゃんが何かを言い淀むように考えあぐねていた。やがて意を決したようにレイちゃんが口を開く。
「おねーちゃん最近もっと忙しいみたいだし、料理なら雪ちゃんが教えてよ」
「料理? 興味あるの?」
「うーん。雪ちゃんが教えてくれるなら、それなりに」
静かに、私は考え込んだ。世間一般で子供に包丁やコンロの火を使わせるのは、一体何歳からなのだろう。
レイちゃんへの回答よりも先に、私の頭に浮かんだのはそんな疑問だった。
けいちゃんがひとりで台所に立ったのは、中学生になってからと言っていただろうか。最早懐かしささえ感じてしまう夜凪景の初仕事。仕事から帰ってくる父親に初めてシチューを作った少女の芝居。あのCMの中でけいちゃんが演じた少女だって、直前まで母親に料理を教わっていただろうし、けいちゃん自身も母親と台所に並んで立った回数は少なくはないのだろう。
私は。
私が子供のときは。
そう思い出そうとして、己の経験が何一つ活かせないことを思い知った。母親と一緒に料理をする。幼少期にはそんな機会もあったのかもしれないが、すぐに思い起こせる記憶の中に家庭的な色彩は見当たらない。
母は再婚相手を見つけるのに忙しく、私は自室にこもって映画ばかり観ていたから。
私は誰かに料理を習いたいと思った経験がない。レイちゃんを見て、いま気づいた。
しんしんと肺腑に溜まるこの感情はなんだろう。
きっと子供時代の私が取りこぼしてきたもの。黒山さんに、高校生にして年不相応な真っ白さとまで言わしめた、当時の私が画面の向こう側から集めきれなかったものの断片。
かつての欠落を埋めるピースが目の前にある。私が出会えなかった私が、そこにいる。
―――瞑目する。
いま私は、自分の裡に無い感情をレイちゃんから吸収しようとした。散々大人ぶって子供の心配をしておきながら、都合が良くなった途端、子供を仕事に利用するのか。
我ながら、なんて度し難いんだろう。
「雪ちゃん?」
「ううん。まあ考えみれば、家庭科の授業で包丁とか触るはずだし、そこまで気にすることもないか」
いいよ。と、私はレイちゃんのお願いを快諾した。
「じゃあちょっと待ってね。今日は夜凪家に泊まってくってけいちゃんに伝えるから」
「雪ちゃんお泊りするの?」
「ダメ? 事務所の給湯室じゃコンロ一口だし。まな板とか置くスペースないし。余った食材冷蔵庫に入れたところで次に使う機会が無さそうだし。それこそ茹でてソースあっためるだけのパスタくらいしか作れないんだよね。レイちゃんたちの家の方が都合いいと思うんだけど」
「ううん! レイはいいよ! ルイもいいでしょ? 雪ちゃんお泊りしに来るんだって」
レイちゃんが少し声を張り上げると、すぐに「いいよー」とルイくんから返事があった。
「よし! そうと決まれば早速動こうか」
立ち上がった私はふたりを連れて移動を始める。今日はこれで終わりだから、スタジオ下の銭湯に入ってから、食材の買い出しに向かう。
「雪ちゃんって何歳くらいから料理するようになったの?」
「んー? 一人暮らし初めてからだから、高校卒業したくらいかな? いまでもそこまでしてる方じゃないんだけどね。レイちゃんは何が食べたいの?」
「雪ちゃんがいつも作ってるやつがいい」
「あ? あー……」
スーパーで食材を選んでいる最中や、道中にレイちゃんからふと思い出したように雑談を振られる。話題は主に、私の話。
なんとなく、私自身のことについて、レイちゃんからよく質問されるようになった気がする。
最近昔のことを思い出すのは、レイちゃんから色々聞かれるからかもしれない。
いつからだろうと考えて、羅刹女の打ち上げが終わってからだと思い至った。
◇
舞台羅刹女の打ち上げ。またの名を地雷原。キリキリと胃を痛めそうな人間関係が交錯する中ではお酒に逃げることもできず、私は早く終われ早く終われと修行僧のように念じながら、場の空気が致命的なことにならないよう空回りだろうが間を取り持つことに必死だった。
特に私から見て左側に座っている演出連中。特大の爆弾を起爆させないかとはらはらしながら意識を割いていると、私の右隣に座るすっかりグラマーに成り果てた女―――朝野市子が機嫌良さげに肩を組んできた。
「ゆ~きっ。雪もさっさとごはん食べな~」
密着しないとわからないような薄く吹き付けられた香水の香りが、ふわりと私の鼻腔を通り抜ける。
顔を向けると、左目の下で縦に並ぶ二つのほくろに視線が吸われた。次いで、肉感的な厚みのある唇に。彼女と目を合わせる頃には、私の腕にぶつかって形を変える豊かで柔らかな双丘へと意識が向く。そのくせ嫌味なまでに腰は細くくびれているときた。
久しぶりに会ったけど、かわいいとか綺麗とかじゃなくて、本当にエロくなったなこいつ。お酒のせいで上気した頬を締まりなく緩められれば、自分にだけ気を許してくれているのかと女の私でも勘違いしてしまいそうになる。
「ほらかんぱーい!」
「はいはい。乾杯乾杯」
ちりん、とグラスが硬質な音を立てる。
一瞬でも見蕩れてしまったなんてことを気取られないよう、返事はとてもおざなりに。
それはそれで、対面に座るレイちゃんたちが目を丸くして驚いていた。
「ゆ、雪ちゃんが俳優さんを雑に扱ってる!?」
「あー、いいのいいの。市子は高校の同級生だから。このくらいでちょうどいいの」
近くに座っていてレイちゃんへの返事が聞こえたのであろうけいちゃんや武光くんが「えっ!?」と驚いた顔を向けてくるが、依然として市子が鬱陶しいまでに絡んでくるのでリアクションは返さなかった。
「なに、もう酔ってんの?」
「酔ってませ~ん。酔ってる人間がこんな気配りできると思うか~?」
そう言って、市子は焼かれている肉やチョレギサラダを取り皿によそってくれる。
「ありがと。でも酔ってる人間はみんな酔ってないって言うんだよ」
「雪弱かったっけ?」
「普通……じゃない?」
「じゃあペース上げなよ。相変わらず周りに振り回されてばっかみたいだけど、それだと酒も美味しく呑めないよ」
「こんな空気でも美味しくお酒を呑めるなんて、いちごちゃんは変わっちゃったねぇ」
「でっしょ~。私、まだ成長期なの」
市子は馴れ馴れしく私の肩に手を置いて、しなだれかかってくる。
食べづらいことこの上ないが、振り払うほどのことでもないので市子の好きなようにさせてやる。
「ホントにねぇ。自分主演の映画を撮るために映画を学んでた自己愛の塊だった女が、覇気のない演技してるなぁなんて思ってたら、いきなり別人みたいに化けるんだもん」
くくっ、と市子が喉奥で笑う。座席に座り直した市子の横顔を見ると、かつての出来事を懐かしむかのようにどこか遠い目をしていた。
再び視線が交わると、市子はにやにやと口元を緩める。
「どうしたの雪? 惚れちゃった?」
からかっている口振りに応じるのは業腹だが、魅力的になったのは事実だ。外見も中身も、なにより役者として、記憶の中で笑う高校生の朝野市子よりずっと素敵な人になった。
酒の席とは言え、こればっかりはおざなりな反応をできなかった。
「うーん、―――ちょっと悔しい、かな。嘘。かなり悔しい」
「悔しい? なんで?」
「けいちゃんにあてられて、ひとりで勝手に殻破っちゃったでしょ」
たぶん私は拗ねているのだと思う。子供のように何も取り繕わない表情をしているのが自覚できてしまう。そんな顔を市子に見られたくなくて、私は彼女の肩に顔をうずめた。
小さく、市子にだけ聞こえるような声量で、呟く。
「―――そこに私も関わりたかった」
返答は愉快極まりない笑い声。よしよしと子供をあやすように、頭に手が載せられる。
「まだ約束は有効だからね。待ってるよ、映画監督さん」
「撮るよ、絶対。約束通り、朝野市子の主演映画」
原初の熱を感じた。若かりし頃、胸に抱いた灯火が。教室のプロジェクターで初めて映画を上映したときの感動が。私たちの中でまだ燃え続けている。そう確信できた。
「っていうか、雪だってまったくの無関係ってわけでもないんだけどね」
「なにが?」
「碌でもない仕事なんてザラに回ってくるのがこの業界の常だけど、今回ばかりは私もブチギレてさ。倫理的にアウトなのは当然なんだけど、何があそこまで私の逆鱗に触れたのかあとで冷静になって考えたら、どっかの誰かさんが初めて撮った映画で母娘関係を修復したせいだと思うんだよね」
「――――――」
「あのときは何に感動したのか言葉にできなかったけどさ。真正面から自分と向き合って映画を撮ることで、映画に救われる人が居る。そんな人を目の当たりにしたから感動したんだって、いまになって思うのよ」
私たちの仕事は、誰かの救いになり得るんだ。そう教えてくれたのが雪だった、と市子は言った。
「だから心のどっかで、あの日の映画から感じた監督の切実さに泥を塗られた気持ちになったんだろうなって。雪から教わったことと正反対のことを目の前でやられたら、そりゃ覚悟だって決まるでしょ」
「うぅ、ありがとう市子ぉ~。もっとお肉食べなぁ~」
おどけるように、私は彼女の取り皿へ焼けたばかりの肉と酒のつまみになるものをよそっていく。
素面でなくてよかった。お酒が回ってきたから。肉を焼く鉄板の熱に当てられたから。いま赤く染まった頬の言い訳をいくらでもできてしまうから。
そうでなければ、嬉しさと恥ずかしさで市子の顔を見ていられなかったに違いない。彼女が己の原点を見つめ直す瞬間を見損ねていたかもしれないのだ。
だからこそひとつだけ惜しく思う。
どうして私は、いまカメラを持っていないのだろう。真剣な眼差しをした朝野市子の横顔を、ファインダーを通さずに見ていることが悔やまれた。
次は絶対撮り損ねない。必ず、その表情を銀幕の上に飾ってやる。秘した誓いを糧にすべく、私は残り少なくなったグラスを一息に空ける。
「市子、次なに飲む?」
「じゃあカシスオレンジ」
どこでもやってるお決まりのようなやり取りに、高校生の頃を思い出した。いい画を撮るために学校や近所中を走り回って、自動販売機の前でジュースを奢ったり奢られたりしていたっけ。相変わらず可愛らしい飲み物ばかり頼む市子には自然と頬が緩んでしまう。
他愛もない思い出が積み重なって、そこに新しい思い出が混ざっていく。
劇的なことは無いけれど、指先まで染み入るような楽しさだった。とてもあたたかく、心地よい。
「ねぇ、この近くにパフェのおいしい店があるんだよ~。この後行こうよ~」
「やだよ。こんな酔っぱらい連れて」
「え~。酔ってないから~。じゃあ今度。次オフの日一緒に行こう~」
「いいよ。次の休み誘ってよね」
宴もたけなわになった頃、タガが外れてしまった市子に抱きつかれながらまた会う約束を取り付ける。
正直この打ち上げの空気は最悪だったけど、彼女とまた高校生みたいにはしゃげたことは最高だった。
◇
「どやっ!」
夜凪家の食卓に、私が作った料理が並ぶ。
スーパーで買った豚バラとカット野菜とフライパンで炒めて、塩と胡椒で味付けし、最後に軽くポン酢ぶっかけて完成した一人暮らしに優しい社会人料理。
それがちゃぶ台の上にドンと大皿で鎮座して、できたてほやほやを表すように料理からは湯気が立ち上っている。
調理にかかった時間は十分程度。初めて立つ人の家のキッチンで行ったとは思えない手際の良さに我ながら惚れ惚れしてしまう。
そもそも私が夜凪家に来た理由はレイちゃんに料理を教えるためだったけれど、普段私がしている料理なんて効率化を極めたもので分担するほどの作業量がない。手順は簡単極まりないから、レイちゃんならすぐ同じものが作れるようになるだろう。
当初の主旨とはややズレたかもしれないが、私としては会心の出来だった。
「一皿だけ?」
「女優になる前のおねーちゃんもよく作ってたよね。もやし炒め」
けれどちびっ子たちにはあまり受けが良くなかった。
「レイちゃんは私がどんな料理してるのか知りたいって言ったよね。残念だけど、大人になるってこういうことなの」
「ごめん雪ちゃん。言ってることがぜんぜんわかんない」
「一人暮らしをしている社会人が最も重視することは、味でも見た目でもなくて、どれだけ簡単に調理できるかと、どうすれば後片付けの手間を減らせるかってことなんだよ」
我が意を得たとばかりに、私は私の言葉に頷いた。眼前に座るふたりはまったく信じていない様子だけど、この理屈を理解するには小学生には早すぎたかな。
冷める前に食べようか。私がそう促して、三人で大皿をつつく。味付けはひどくシンプルで、不味くなる要素が無いと言える。ルイ君もレイちゃんも味自体に不満は無いようだった。けれどレイちゃんは不服そうな表情をしたまま料理を口に運んでいる。
「どんどん手を抜いていくと最終的には毎日コンビニに落ち着くから、たまにやるだけ私は頑張ってる方なんだよ」
なんだかレイちゃんの期待を裏切ってしまったようで、いつになく弁解の言葉が私の口から躍り出た。
「一人暮らしの社会人にしては、でしょ? じゃあ雪ちゃんが実家で暮らしてた頃は何食べてたの? 家庭料理ってやつ」
「あー、実家に居たころかぁー……」
難しい質問が来たな、と今度は私が渋面を作った。まあ取り繕ったところでしょうがないし、正直に答えるか。
「…………菓子パン、かな」
「料理じゃなくなってるよ!?」
「うちはおふくろの味みたいなものは無かったからなぁ」
「雪ちゃんの親も料理しなかったの?」
「親も、じゃないよ。私はこうやって料理してるからね。たまにだけど。―――で、私の親か。私が学生のころは母親と二人暮らしだったんだけど……まあ、うん、良くも悪くも私を育てることに必死で、家のことにまで手が回ってなかったなぁ」
「ふーん。そのころの雪ちゃんはおねーちゃんみたいに自分で料理は作らなかったの?」
「作らなかったねぇ。ほら、映画観るのに忙しかったから」
えぇ……、と結構本気の困惑がレイちゃんの口からこぼれ出た。
たしかけいちゃんにも、現実から目を逸らして映画に没頭していた時期があったんだっけ。人生に映画しかない人間が映画屋として生計を立てる。ある意味、私とけいちゃんは似た人種なのかもしれない。
そんなけいちゃんを間近で見ていたレイちゃんからすれば、私の若かりし頃をイメージするのは簡単だろう。
「めちゃくちゃ今更なことに気づいたんだけどいいかな?」
「どうしたの雪ちゃん?」
「もしかしてなんだけど、私は人に料理を教えるにはダメな人間なんじゃないかな……?」
「いまさらすぎるよ雪ちゃん」
呆れたようにレイちゃんが声を出す。
「でも雪ちゃんがいいの。この料理だって、不味くはないわけだし」
「うん。おいしいよ」
ルイ君とレイちゃんのフォローが骨身に染みる。
その言葉にすっかり気を良くした私は、反射的にふたりが喜ぶであろうことを口走った。
「今日はけいちゃんが居ないので、十一時まで夜ふかしすることを許します!」
「「わーい!」」
そして箸が進み、空になった食器を下げる。
片付けを終えると、みんなで歯を磨き、寝間着に着替える。私の寝間着は去年買ったフード付きの着ぐるみパジャマ。もこもこしていて季節的に少し暑いが、レイちゃんが「かわいい! かわいい!」と連呼してくれるので、満更でもなく私はパジャマに袖を通した。
三人でお揃いのパジャマを着て、布団の上に横になる。私が着ているパジャマのモチーフは猫。レイちゃんはねずみ。ルイ君はキツネ。並びはいつも通り、私、レイちゃん、ルイ君の順。
娯楽に乏しい夜凪家では、寝るまでの時間で結局映画を観ることになった。みんなで横になったまま、国民的知名度を誇るアニメ映画を鑑賞する。
しかし夜ふかしを許可したとはいえ、日頃の生活習慣には敵わないのか、ルイ君は映画よりも夢の世界へ旅立ったよう。レイちゃんもうつらうつらとしており、もうじき眠りにつくだろう。
私はゆっくりと物音を立てないように再生中のVHSを止め、室内灯の明かりを消した。
「雪ちゃん」
「ああ、ごめん。起こしちゃった?」
「レイ、寝てないもん」
微笑ましい強がりに思わず口元が綻んでしまう。
「でもレイちゃんも眠いでしょ? 今日はもう寝よっか」
「ううん。レイ、雪ちゃんとお話する」
「いいよー。なに話す?」
今にも寝落ちしそうなトーンのまま、それでも懸命に言葉を探すレイちゃんがいじらしくて愛おしい。
自然と、手がレイちゃんの頭に伸びた。柔らかな髪を梳くように、レイちゃんの頭を撫でつける。
「じゃあ、あの人。おねーちゃんと同じ舞台の沙悟浄役の」
「ああ。市子のこと?」
「うん。あの人と一緒にいるときみたいに、もっとレイに甘えてくれてもいいんだよ。雪ちゃんに甘えられるの楽しいし」
はた、とレイちゃんの髪を梳いていた手を止める。
甘える? 私が? レイちゃんに? そんなまさかと思ったけれど、思い返せばレイちゃんにはかなり隙だらけなところを見せていた。昼間のホットタオルとか。甘えていると言っても弁明できないかもしれない。
けれど市子のようにか。
それは案外、いいかもしれない。
「そうだレイちゃん!」
名案を思いついた私は意気揚々とレイちゃんに話しかけるが、彼女すでに夢路を辿り始めたところだった。
家族でもなければ特別な資格を持っているわけでもない人間が子供を預かって面倒を見る。それが健全な形なのかずっと自信が無かったけれど、深く考えなくていいんだ。開き直れ、私。
事務所に所属した俳優の弟妹の面倒を見るなんてまどろっこしい関係性は今日で終わり。
他人形に一線引いて、妙なところで複雑に考えてるから、不必要な心配事が湧き上がってくるんだ。
心のどこかに息づいていた不安の種が萎んでいく。
寝るには全然早い時間帯だけど、私も目蓋を下ろして睡魔が忍び寄るのを待つ。夢見なんて普段は気にしないけど、今日ばかりはいい夢を見れそうだった。
そして翌朝。目覚めたレイちゃんに私は告げる。
「レイちゃん。私たち、友だちになろう」
所属タレントの身内だから気にかけるんじゃない。私が彼女たちのことを好きだから気にかけるんだ。好きだから一緒にごはんを食べて、一緒に遊ぶ。きっと、それだけのことでいい。
「ねぇレイちゃん。私たち」
もっと親しい関係になろうよ、と私は誘った。