ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
16歳の朝は何の面白みもない晴れであった。
まだ少しばかり薄暗く星が瞬いている空ではあるが地平から太陽の光が零れておりもう少しすれば夜は明ける。
起き上がれば何時もの様にベッドの周りに黒い羽根が散乱しており、生まれ変わった翼は一段と艶を増している。
己の中に意識を向けてステータスを確認すればそのレベルは【900】と出た。
予想通りである。
だいたいこの位になるなと思っていた。
そして新たに得たクラスは【レンジャー】であった。
【ストライダー】を経由せずとも【瞬歩】を手に入れられる事や【峰うち】を始めとした便利なスキルが揃っているがやはり目玉は【観察眼】だろう。
コレがあるとないとでは大きく違ってくる。
プランの様に世界を回す法則を直視は出来ないが、それでもマナや天力を更に詳細に見れるようになるのは彼女の目的に大きく役立ってくれる。
「……」
拳を握りしめる。
100レベル上がったのが実感できるほどに身体には活力が満ちている。
かつてのベネトナシュと同じ領域に彼女は上り詰めていた。
レベル900。
もはや人類では彼女を止める事は出来ない。
竜の群れでさえ【威圧】を用いれば戦う事さえなく無力化できるだろう。
拳を振るえば山を割る。
駆け出せばあっという間にミズガルズの果てまで行ける。
翼を用いればそれこそ月か、もっと向こう側まで飛べるかもしれない。
もう誰も彼女を見下さない。
もう誰も彼女を馬鹿にしない。
誰もが認める領域のそのさらに先へと彼女は至り、それでも足りないと進み続けることだろう。
今となってはたったそれだけだ。
大切な人を治す事も出来ず、過去に戻って過ちを取り消す事も出来ない。
ただ気に入らない相手を殴る事しか出来ないつまらない能力だ。
「…………はは」
何と弱弱しく虚しい力か。
小さな白い手を見てルファスは苦笑した。
あれだけ求めていた力を得たというのに、それだけでは決して解決できない問題が目の前には幾らでもある。
それどころかまだまだ上には上がいるという事も彼女は知っている。
竜王に吸血姫、勇者ときて更にはアリストテレス。
強くなればなるほど頭上にはまだ多くが存在していると見えてしまう。
翼が項垂れるように萎れる。
まだまだ、全然足りない。
自分には足りないものが多すぎる。
知識に技術に────心の強さだってそうだ。
ルファスは周囲を見る。
隣のベッドでは母が寝ていた。
更には自分のベッドの直ぐ近くにはアリエスが丸くなっている。
耳を凝らせばスピーと間抜けな安心しきった寝息が聞こえた。
少女の顔に微笑みが浮かぶ。
外套を纏い、大切な仲間たちを起こさない様にそっと足音を消して部屋を出る。
特に行きたい所も何もなかったが身体に滾る活力を少しでも消費したかった。
恐ろしい程に目が冴えており新たな領域に上り詰めた肉体はその性能を発揮する瞬間を今か今かと待ち望んでいた。
屋敷の出口を潜ると同時にルファスは軽く跳ねた。
彼女としては“軽く”力を込めた程度のジャンプであったが
レベル900が行うソレは少女の身体を一瞬で高度数キロの域にまで運んだ。
瞬間的にリュケイオンとその周辺の地形がどんどん小さくなっていく。
翼が広がり浮力を生成すれば彼女はピタッとある一点で固定されたかのように制止した。
昇る太陽と沈む月。
両方を同時に見ればその美しさに息がもれた。
滞空しながらぐっと背伸びをする。
動かした拍子に古い羽根がポロポロと抜け落ちていく。
すると欠けた部分を埋めるように強く新しい羽根が入れ替わりだす。
天翼族の基準からすればやや細いながらもしなやかで強靭な黒翼は自由を謳歌するように大きく広がって震えた。
深呼吸すれば生まれ変わった身体に新鮮な空気が入り込み、意識をしゃっきりとさせてくれた。
雲の上というのもあり気温はマイナスであるが仮死状態に比べればこの程度涼しいと言えた。
ルファスは瞼を閉じる。
そろそろだな、と考えていた。
前も同じだった。きっと来る。
ふわりと、周囲の空気が微かに揺れたのを感知したと同時にルファスは勢いよく振り返った。
パターンを読むのは彼だけの特技ではないのだ。
「おはよう」
「…………」
そこでは正に声をかけようとしていたプランが固まっていた。
すかさずルファスは彼に近づき悪戯が成功したのを喜びながら笑いかけた。
「レベル900だ。中々のものだろう?」
クルっと全身を見せつけるように一回転。
覇気を滾らせた翼がマナを纏いながら雄々しく展開され空を支配する様に広がった。
どうだ、凄いだろうと全身でルファスは己を堂々と見せつけていた。
「勿論。本当に強くなったね」
昇る太陽を背に輝くルファスを見てプランはしみじみと答える。
6年前、泥と絶望の底に塗れていた少女がここまで大きくなったのを見ると……微かに満足感さえ覚えてしまった。
だがしかし直ぐにその感情を彼はもみ消した。
自分は手助けしただけだ。
多少早くなったかもしれないがルファスならばきっと一人であってもここまで上り詰められた筈だと。
────義手が微かに発光する。
ルファスの血液/マナを身体に取り込んだ時からプランとルファスの間には奇妙としか言いようがない繋がりが出来ていた。
プランでさえ気付けていないライン。
いや、気が付かない様にされていると言った方が正しいか。
歴代のアリストテレス達があえて偽装した結果、コレの存在をプランは見落としていた。
彼はルファスが関わる事については無意識に目を閉じる癖があった。
だがルファスは知っている。
故に彼女はその繋がりから微かに彼の感情を読み取る事が出来た。
言語化するのは難しいが、だいたい何を考えているか判る程度には。
沈む月を背後にした男に彼女は微笑みかけた。
急にではあるが行きたい所が出来た。
どうあっても自分から距離を取ろうとするのならばルファスにだって考えがある。
彼女は決して彼を逃がす気などない。
彼がしわくちゃの老人になって息を引き取るその瞬間まで隣にいると決めたのだから。
「少し付き合って欲しい。行きたい所があるんだ」
パンっと合掌し【エクスゲート】を開く。
座標は知っていた。
知ってはいたが、自分が足を運ぶ事はないと思っていた。
本当は今だって近づきたくはない。
しかし、これから先の長い生涯において逃げ続ける事は出来ないと彼女は思っていた。
回廊が何処に接続されたか悟ったプランが微かに驚愕する。
それだけは決してあり得ないと思っていたが、この世にはあり得ない事などあり得ないのだ。
微かに漏れるのは木々の青臭い香と、土の匂い。
ルファスはこの土の味を知っている。
文字通り死にかける程に口内を満たしたのだから。
「まだ一人じゃ行きたくないから……一緒に来て」
霊峰ヴァナヘイム。
苦痛と憎悪の記憶しかない故郷にルファスは門を開いたのだ。
ヴァナヘイムの麓の森は相変わらずであった。
天を衝く程の霊峰の裾野には鬱蒼と生い茂った森が広がり、天翼族への来訪者を振るい落とす役目を担っている。
ユーダリルで作られたブーツで湿気を含んだ土を踏みしめながらルファスは重い足取りで歩を進めていた。
どうやっても視界に入ってくる巨大な山を見る度に胸中に苦々しいモノを感じつつもルファスは立ち止まる事だけはしなかった。
一人だったなら直ぐにでも【エクスゲート】を開いて帰ってしまっていただろうが、今の彼女は一人ではない。
もしも仮に天翼族が現れて心ない言葉を投げかけてきても絶対に守ってくれる人がいるという安心感が彼女にこの忌むべき地での活動を可能とさせていた。
「いつまでも逃げ続ける訳にはいかないと思ったんだ。
これから先の人生で、いつか絶対にここに来なくちゃいけない時が来る」
「だから、今のうちにちょっとだけでも慣れておきたいんだ」
すぐ後ろをついてきてくれるプランにルファスは語り掛ける。
黒い翼はピクピクと一種の感覚器の様に震えており、絶えずプランの存在を認識し続けている。
今のルファスにとってプランの存在は一種の命綱のようなものであった。
どれだけレベルが高まろうと心の芯に刻まれた傷は中々に消えない。
実際それを証明する様に身体が全力で拒否を示している。
胃がムカムカする。変異を遂げて安定したはずの肉体が微かに軋んでいるような気さえも。
「辛いと思ったら我慢してはいけないよ。
こういうのは無理にやるべき事じゃないんだから」
「ありがとう。……さすがに上の都市部には行きたくないな」
恨めしい視線をヴァナヘイム上部にある都市に向けつつ、ルファスはシュッシュッとシャドーを行った。
試しにコレに【シャインブロウ】あたりを乗せてあそこに叩き込んだらどうなるか? と彼女は思ってしまい、思うだけにとどめた。
まぁ、きっと粉々になるというつまらない結果だけが見えた。
「私達が出会った時を覚えてる?」
歩を進めながらルファスは歌うように口ずさむ。
彼女の視線は6年前、ここを這っていた自分を追っていた。
憎悪と絶望、苦痛に塗れながらもただ死の瞬間を待っていただけの自分を。
「……この道だったね。ルファスは必死に生きようと足掻いていた」
プランはとっくに気が付いている。
忘れるわけがない。
あの時から全てが変わり始めたのだから。
何百年も昔を懐かしむ様な、それでいて僅かに哀れむような声でルファスは語る。
「あぁ……“絶対に死ぬものか、どんな手を使ってでも舞い戻って復讐してやる”と思ってた」
「それもあっただろうけど、やっぱり一番はお母さんを治さなきゃ、だったと思うよ」
プランのフォローにルファスは苦笑した。
そう言ってくれるのは嬉しいが、現実はもっと汚れている。
何せその後の“子隠し”との会話でルファスは母を弱い女とみなして捨てようとさえしたのに。
「私はそこまで高潔じゃないさ。自分がされた事への憤りしかなかった」
「普通の事だと思う。ルファスがされた事は決して許されちゃいけない事だ」
誰がどう見てもヴァナヘイムは異常な地だ。
そう断言してもらえてルファスは微かに心が軽くなっていくのを感じた。
ジスモアに何度も何度も何度も「お前が悪い」と刷り込まれた結果
ルファスの心の何処かに「本当は自分が悪いんじゃないか」という棘が刺さっていたのが消えていくようだった。
故に少女はヴァナヘイムを見上げてから思いっきり舌を「べー」と出して鼻で笑ってやった。
ずっとそこで立ち止まってろ。
私は先に進んでいってやる。
少女の父親への想いは今やそれだけであった。
次に少女はプランを見てから同じく舌をベーっと出してやった。
翼が笑うように小刻みに震える。
「貴方が何を考えているかなんて判ってる。
大方、自分が居なくてもーとかそんなことを考えてたのだろう?」
「…………さて?」
恐ろしい程に的確に心を読まれたプランは視線をさ迷わせつつとぼける事にした。
余りに判りやすい仕草にルファスはクスクスと笑い出す。
この男性は意外と感情豊かなのだ。
気品を感じさせる仕草も併せて母親そっくりの笑い顔であった。
「“さて” ……あの小屋は何処にあるかな?」
プランの仕草を真似しながらルファスはぐるっと周囲を見渡す。
レベル900の超感覚と【レンジャー】の保持する【マッピング】というスキルがかみ合った結果、彼女は街一つ分程度の構造ならば瞬時に把握することが出来た。
「あっちか!」
距離にしてだいたい3キロ程度の場所に小さくてみすぼらしい山小屋がある事をルファスは突き止める。
間違いない、あそこだと彼女の本能が囁いた。
翼を二回ほど大きく羽ばたかせて浮き上がる。
チラリとプランに一瞬だけ視線を向ける。
彼は色々と悟ったらしく【観察眼】で準備を始めていた。
カチ、カチ、カチと世界の法則が軋む奇妙な音がなる。
そしてルファスの顔に浮かぶのは期待に胸を躍らせる子供の様な笑顔。
新たに生まれ変わった力が何処まで彼に通じるか楽しみで仕方ない。
レベル500の時は完全に翻弄された。
だがしかし、今のレベルは900。
彼のレベルは変わらず221。
4倍以上の差があるのだ。
負けるわけがない。
彼女は自分に言い聞かせた。
……前振りともいう。
「行くぞ!!」
ドンッと森の木々を揺らす程のスタートダッシュをルファスは決めるのだった。
「………………」
ルファスは全ての表情を消して佇んでいた。
一瞬で全ての景色を置き去りにし小屋まで到達した彼女であったが……そこにプランはいなかった。
彼女の予想では自分がどれほど素早く移動しようと彼ならば先回りしてくると考えていたのだ。
いや、実際はそれを期待していた。
6年前彼がヴァナヘイムとリュケイオン間を往復したように、今回もそれをやってくると。
しかし実際はこれだ。ルファスは勝利した。圧倒的な大差をつけて。
彼女はプランが【瞬歩】を連続で使用しながら小屋までやってくるのを見ていた。
確かにとても速くスキル行使にも無駄がない。
だがしかし所詮はレベル221の速度であり、今のルファスからすれば遅すぎた。
記録は23秒。
余りに遅すぎる数字だった。
本当は知っていた。
自分が飛び出した少し後、彼が咳き込んでいたのが聞こえたのだから。
それに交じって何かを吐いていた事も。
きっと血だ。
もしかしたらアンタレスが活性化して溶解した内蔵の一部かもしれない。
こひゅ、という肺を痛めた弱弱しい呼吸音が聞こえた。
満足に彼は息をすることさえ難しくなりつつあるのだろう。
少しずつ彼の身体は弱くなってきている。
その現実をルファスは突きつけられていた。
残り3年というのはあくまでも最大値であって、絶対ではない。
「やぁ。ちょっと遅れたかな?」
「あぁ。私の勝ちだな」
ひょっこりと現れた彼の顔は先と全く変わらない。
だからルファスも内心を表情には出さなかった。
幼少時代に培った忍耐力がこんな所で役に立つとは皮肉な話である。
ルファスは内心の動揺を冷静に処理しながら小屋に意識を向けた。
今は少しでも早く彼を休ませてあげたかった。
トン、と入り口に繋がる階段に足をかければギシと軋んだ。
断じて自分が重いわけではないと翼が抗議する様に浮力を発生させる。
「改めてみると、本当にオンボロだな」
「自分が初めてヴァナヘイムを訪れた時にはもうあったからね。
元々は天翼族が麓で使用するために作った休憩所なのかもしれない」
天翼族の若い子らが麓を訪れる事は時折ある。
大人の階段を上り始めて飛行能力が発達しだしてくると思う存分に飛びまわりたくなるのは天翼族の誰もが通る道だ。
気が済むまで飛びまわった後、こういった小さな小屋で一休みしてからヴァナヘイムに戻るのだろう。
もしくは近場の村の誰かが森で狩りをする時に使用するために建てた可能性もあった。
コレだけ広大な森だ。相応の動植物が繁栄しており狩場としては申し分ないだろう。
……夜のヴァナヘイムで狩をすることはお勧めできないが。
ミズガルズには魔物でも魔神族でもない怪物が存在する。
扉を開ける。
中はあの時のままだった。
まるで時が止まったように。
ルファスを保護して直ぐに“子隠し”の騒動があったことからさすがのプランもここまでは気が回らなかったのだろう。
破壊されたベッド。
代わりに作られた翼を通すための孔が開いているハンモック。
床に散乱するぼろ布はかつてルファスが纏っていた衣服かもしれない。
全てが6年前のまま止まっている。
ルファスは怒りに満ちた瞳で誰もいないハンモックを睨みつけた。
助けられておきながら感謝もせず自分勝手な憤怒をばら撒く屑を射殺す様に。
お前のせいだ、お前が愚かだからこんなことになったのだと。
ここから憎悪に狂った少女の間違いが始まったのだ。
最初からリュケイオンの人たちの想いを受け入れていれば、もっと違った未来があったはずだ。
足が固まる。だがそれも一瞬。
彼女はルファス・マファールだ。
臆する事はあるかもしれないが、それでも一歩を進みだせる強さがあった。
指を振る。
【錬成】と【サイコスルー】の合わせ技で部屋に散乱していた物品を一まとめにしたあと、別の形へと作り直す。
出来るだけ柔らかくしたベッドと木製の椅子だ。
ルファスは椅子を動かし、プランに座る様に促した。
「座って。具合がよくないのは判ってる」
「いや、自分は……」
大丈夫と続けようとしたが、直ぐにそれは口内で噛み消された。
真っ赤な瞳でじっと訴えかけてくる少女を前にするとどうしてか彼は上手く誤魔化しが出来なくなる。
もうだいぶ前から発生している自分の不具合を彼は苦々しく思いながら根負けし、腰を下ろした。
「“一致団結”を私に使って」
プランの正面に仁王立ちしたルファスが言う。
形式上では提案であるが、実際は命令か強制に近い口調で。
腕を組み翼を広げればプランの視界は埋め尽くされた。
プランは言葉こそ発しないが難色を示す。
既にバレているとはいえ、己の弱みを見せる事に躊躇いを感じてしまう。
ルファスには決してそういった醜いものを見せたくないのだ。
そんな変な所で頑固さを発揮する男に女は顔を近づかせ、一言一句言い聞かせるように告げる。
真っ赤な瞳は太陽の様に輝いていた。
「私を通して【錬成】を使え。嫌とは言わせないぞ」
「…………」
数秒の沈黙。
きっと途方もない思案を重ねた末にプランは【一致団結】をルファスに向けて接続。
途端にルファスのステータスは恐ろしい勢いで跳ね上がり始める。
その全てを総動員して【観察眼】がたった一人に注がれた。
瞳の中に蒼が混じる。
ルファスが発動させた【一致団結】を通してプランは自分の腹部を見て、思ったよりも酷い有様にため息を吐きたくなった。
同時に少女の心にも小さくない衝撃が走った。
消化器官系がおかしくなり始めている。
【アンタレス】のせいでぐちゃぐちゃに溶け堕ちてから固まっていたソレは少しずつ機能を失いつつある。
むしろ未だに機能を維持している現状が奇跡と言えた。
その他の臓器も順調に衰退を始めていた。
プランの内部の年齢は既に老人のソレに等しい。
腎臓と肝臓は体内の毒素を浄化する能力を喪失しつつあった。
まだまだ酷い状態報告は続く。
【アンタレス】による過負荷によってガン細胞が増え始めている。
普通ならば滞りなく行われる体内の免疫による駆除が追いついていないのだ。
最悪な事にガンの転移も幾つか見られる。
……肺にも一部転移していた。
なまじ医学の知識を得てしまっていたルファスはコレが何を意味するか理解してしまう。
もう普通の方法では彼は助けられない。
そしてその奥ではどす黒い呪詛が未だに蠢いている。
15歳の夜のまま時間が止まった自分がそこにはいた。
翼が怯えるように縮む。
改めて彼女は自分がやってしまったことの意味を目の当たりにし、唇を噛み切るほどに苦渋の表情を浮かべた。
彼が促すままにルファスは指を伸ばす。
腹部に人差し指を当てて【錬成】を発動。
複雑怪奇に入り混じった臓器のパズルに彼女は指をかけた。
ジジジジという青い光を発しながら黙々と体内を弄りまわしていく。
絡み合った臓器を解す。
時間稼ぎにしかならないだろうがプチプチと幾つかの目についたガン化した部位を潰す。
溶け堕ちていた部位を修繕し、全体的なバランスを整える。
これらはあくまでも応急処置であって、根本的な解決にはならない。
ほんの数分の作業であったが極限まで集中していたルファスにとっては丸一日にも等しい体感時間であった。
───彼女の頭の中で何かがカチっと切り替わる。
「…………」
どう声をかければいいかわからずプランはただ微笑んだ。
せっかくの16歳の朝だというのにこんなことになってしまうなんて悪いと思っていた。
それに対してルファスは深呼吸した。
彼女はルファス・マファールだ。
嘆きもあるが……それ以上に現実的な思考が頭を満たしていた。
酷いのは判った。知っていた。
ではどうする?
ここでただの少女の様に嘆くだけか?
断じて違う。
そんなのはルファスの在り方ではない。
嫌だからと言って逃げ続けて失うなどそれこそ絶対に嫌だ。
「もう一度……もう一度みせて」
数年とはいえ常人の何十倍、何百倍も優れた頭脳を総動員して蓄えた知識をフル回転しつつルファスは言った。
【錬成】で紙とペンを作り出す様はまるで研究者のようだった。
再び発動される【一致団結】と【観察眼】は彼女の視界を別世界へと切り替える。
人の体内を概念的に写し取る様は素晴らしいが、まだ足りないと彼女は感じていた。
数値ではない。
もっと具体的な“画”を彼女は欲した。
出来れば全方位から人の体内を写し取った絵のような……。
「もっとこう……断面とか、内部構造が具体的に見えるように出来ないかな」
「…………」
ルファスの研究者の様な発言にプランが動く。
何処までも彼はルファスの要求に対しては真摯だった。
アリストテレスとしての知識に放射線/電波/磁場を利用した透過理論があることを引っ張り出す。
発想こそあったがミズガルズにおいては設備を作れないという理由で理論だけに留められていた検査方法だ。
あれに必要なのは人の全身をすっぽりと覆う“筒”だ。
それらから各種要素を緻密な計算の上で照射する必要がある。
更にはそれで得た情報を処理するための演算装置も。
ミズガルズではどうあっても作れない設備であった。
────閃く。
あった。
人の身体を包むだけの大きさがあり、多大なマナを含んでいて、問題なく電波や磁場を生成できるだろうパーツが。
それでいてルファスの脳ならば全く問題ないはずだ。
そして身体を突き抜けていくのは天力や魔力ではない事からアンタレスや呪が活性化する可能性も低い。
故に十分にやる価値はあるとアリストテレス達は判断した。
「ルファス……翼を借りても?」
「!」
その一言でプランの考えを悟ったルファスは満面の笑みを浮かべて「勿論」と頷くのだった。
彼女の生涯において、初めて黒翼が誰かの命を救う鍵になった瞬間であった。
何枚もの紙に精巧に書き写された人の断面図。
医学の知識がない者が見ても何が何だかわからないか、グロテスクな絵画にしか見えないソレは手書きで作られた人間の解体図だ。
何枚も何枚も、指が消える程の速さでルファスはそれをかきあげ続けていた。
ルファスが願えば彼女の肉体は常にそれに答えてくれる。
彼を完全に包むほどの翼が欲しいと願えば変化は直ぐに訪れた。
ミシ、ギシと骨/筋肉が瞬間的に変異を繰り返し、一回りほど彼女の翼は巨大なものへと変貌を遂げたのだ。
“竜王”は己の身体を自由自在に作り替えて101本もの頭を手に入れるに至った。
それに比べれば何とも些細な変化である。
後は簡単だった。
仮定とはいえ理論は完成しており必要な機材もある。
次にやる事は実行だけだ。
まるで巨人の手を握り合わせたようにプランを翼で囲みこみ【一致団結】で身体を動かしてもらう。
【錬成】を用いて翼が纏うマナを微弱な放射線/電波/磁力へと変換させ【サイコスルー】でベクトルを操作し両翼の間で循環させる。
平時では目に見えない程に微量な“波”がプランの肉体を通過していくが、アリストテレスとルファスの力を統合した瞳はそれさえも観測可能だ。
ルファスの腕が勝手に動く。
レベル900の凄まじさは何も天地を揺らす身体能力だけではない。
人外の肉体を制御するために相応に進化した頭脳はとある世界における超性能の全自動演算装置さえ置き去りにする性能を持っている。
そしてそんな頭脳を完全に使いこなせる意思がそこに宿れば、後は拍子抜けする程に簡単だった。
北星奈々子の故郷、地球に存在する最先端の医療技術──『磁気共鳴画像』及び『コンピュータ断層撮影』を併せた医術がここにはある。
ピタッと指を止める。
これ以上は体内のアンタレスを刺激するかもしれないと判断したアリストテレスがルファスを停止させたのだ。
都合23枚の白黒の断面図。
人の骨や内臓などを精密に模写されたソレは現在のミズガルズには存在しない最先端医学の結晶だった。
何の設備もない山小屋の中で行われたこの行為はともすれば後のミズガルズを変えるかもしれない。
ルファスは己の腕が書き上げた画図に目を通していく。
やっぱり何度見ても気分が悪くなるほどに酷い状態だ。
帝国やプランの屋敷で人間の解体新書を見た事はあるがあれらとは全くかけ離れてしまっている。
だがしかし、これは彼女にとって希望であった。
今までは漠然と救いたい、ポーションを作りたい、天法を修めたいと思ってこそいたが中々先に進んだ実感はなかった。
そんな中、目の前にこうしてカルテルの原本が完成している。
たった23枚の断面図。
これらは言わば壊れたプランの設計図であり、修正箇所を洗い出す為に必要な仕様書でもある。
何処がダメなのか。
どうダメなのか。
どうすれば治せるか。
その為に何が必要なのか。
それらを討議するために必須なモノがようやく彼女の手に入った。
やっと一歩を踏み出せた。
そう考えるとルファスの顔には笑みが浮かんでしまう。
「あの……そろそろ」
「あ」
これからが勝負所だ、と仄かに闘志を燃やしだすルファスだったが、くぐもって聞こえたプランの声に現実に引き戻される。
どうやら思案に没頭しすぎて彼を翼の中に閉じ込めたまま忘れ去っていたようだった。
直ぐに翼を開こうとするが……とてつもなく重い。
やだやだ、と抗議するように羽根が震えている。
間違いなく自分の肉体の一部だというのに抵抗感さえあった。
動け、と意思を送り込んでもまるで拒絶されているようだ。
身体は正直だった。
もう少しくらい、こうしていてもいいかなと思ってしまう部分が何処かにあるのかもしれない。
とてつもなく重く動かしづらい。寒い朝、暖かいベッドから出る時と同じくらいには拒絶が強い。
ふんっと気合を入れなおせば翼は渋々と言った様子で開かれる。
所々に羽根を付着させたプランは言葉にしづらい萎んだ様な顔でルファスを見ていた。
少女は23枚の書類を纏めるとプランに見せつけるように翳す。
「さぁ、ここから色々と忙しくなるぞ“先生”?」
日が昇る。
窓から入ってきた陽光がルファスを照らし出し、金糸がキラキラと輝きを放った。
真っ赤な瞳はプルートの溶鉱炉の如く輝いており、野望と称していい程に強い未来への願いが燃え盛っている。
「私は皆で未来に行くって決めたんだ。その為に力を貸してもらうぞ!」
プランを助けて竜王を倒す。
そしてナナコも故郷に帰す。
最後は皆で平和に暮らして大団円。
全部手に入れる。
彼女は欲張りなのだ。
ルファスは諦めることなどしない。
そしてアリストテレスの願いは知っているが、知った事じゃなかった。
プランが嫌だと言ってるのだから諦めろと切り捨てている。
女神など知った事じゃない。
この世界は絶望と悲しみに満ちているが、それを全部救えると思う程に彼女は傲慢ではない。
そしてプランは既にルファスを助けると約束してしまっている。
どうあっても反故には出来ない契約と差し支えない約束を。
彼はもう、彼女から逃げられない。
「判った。とりあえずは……」
ぐぅという音が鳴る。
きょとんとした顔をすればルファスは周囲をきょろきょろと見渡している。
まさか自分がそんなベタなことをするわけがないと認めようとしない。
「……」
再度お腹が鳴る。
思えば昨日の夕方あたりから碌に食事もとっていなかったことをルファスは思い出した。
「…………」
翼がシュンと一回りほど小さくなり、平時と同じサイズへと戻る。
そのまま彼女は自分の身を守る様に翼に包まってしまった。
見れば彼女はプルプルと小さく震えていた。
折角いい所だったのに、うまく決められなかったのは想像以上にダメージが大きかったらしい。
「まずはリュケイオンに帰ろうか。カルキノスに言って何か作ってもらおう」
彼ならば誰よりもルファスの誕生日を喜びながら軽めといいつつ巨大な肉を焼き始めそうであった。
それともう一つ。言わなくてはならない事がプランにはあった。
「ルファス。誕生日おめでとう」
「……!」
差し出された右手をしっかりと握りしめてルファスは頷く。
大仰な言葉で装飾を飾り立ててはいるが結局は彼女の願いは一つに収束される。
この世で最も欲しいものに手を伸ばしたい。それだけだ。
彼女は強くて欲張りで、本人が思っているよりも遥かに独占欲が強い女性なのだ。
こうして最後の1年が始まる。
来週も何とか更新できそうですが、再来週の更新は難しいかもしれません。