ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
女神アロヴィナスが最初に作り出したとされる魔法。
世界の調停者である龍のプロトタイプでもある彼は文句なしにミズガルズ最古の存在だ。
女神から世界の管理者としての役目を期待されていたが
それを放棄し深海にて建国、その後は酒池肉林のやりたい放題の生活を送っていた。
今回の話は少しばかりヘイト色が強めとなりますのでご注意ください。
ぼき、ぼり……ガリガリ……。
硬いナニカがかみ砕かれる音が深海に木霊する。
その度に声として成立しない程の絶叫が響き渡るが誰も動かない。
「やめろ!! やめろぉォォォオ!!!」
『え? なんだって? ぼく低俗だからお兄ちゃんのいってることよくわかんなーい♪』
男──トリトンはもはや悲鳴しか上げられない。
辛うじて龍としての姿は維持しているが、文字通り寸刻みにされた上に身体の各所に巨大な釘を撃ち込まれた今の彼の姿はまるで標本の様だった。
丁寧に、丹念に【チャンピオン】のスキルなどで打撃を撃ち込まれ続けた肉体は良い感じに下ごしらえが終ったと言えよう。
臓器が零れ落ち、筋肉がそがれる。
それでも【峰うち】というスキルが発動している限りトリトンは終わる事はない。
ただただ、死ぬほどの痛みとそれさえ超える屈辱を味わい続けるだけだ。
魚のたたき、または活け造り。
彼の今の状態はソレであった。
竜王軍とアトランティス軍の面々が見守る中に始まったラードゥンとトリトンの一騎打ち。
その結末はやはりというべきか当たり前の結果で終わっていた。
“竜王”が微かに力を解放すればもはやトリトンには成すすべがなかった。
トリトンとの戦いにおいて彼が解放した力はレベルにして1300。
たった300しか変わらないじゃないかと思うかもしれないが、彼の身体を構築する全ての竜もまた限界を超えた結果がこれだ。
101本の頭は全てがベネトナシュと同じ動きをする上に【エクスゲート】さえ用いた戦法を使う事ができる。
一方的ななぶり殺しショーをアトランティスにいた誰もが見る事になった。
トリトンの配下はともかく、彼への報復に燃えていた竜王の僕たちでさえ恐怖を覚える程に一方的な。
全力のブレスを撃ち込もうが、巨体による圧殺を試みようが、ラードゥンはびくともしない。
それどころかトリトンの長大な総身を純粋な握力で何度も千切り、その肉を口に運ぶ始末である。
戦闘開始から数秒もすればラードゥンに取ってトリトンは敵ではなく、ただの餌と認識されたのだ。
結果として文字通り彼は“つまみ食い”されることになった。
もはや龍さえ超えた力を有するラードゥンに龍の劣化存在が勝てる道理など最初からなかったのである。
身体の3割ちかくを削り取られ、息も絶え絶えになった所に拘束の釘を撃ち込まれて今に至る。
(ありえない!! ありえないッ!! どうなっているのだ!!??)
絶句。
恐怖。
それもあるが何より、驚愕がトリトンを満たしていた。
生誕より何万年かそれ以上の年月を絶対者として過ごしてきた彼にとってこのような格上の存在など母である女神を除けば皆無だった。
己こそ至高、それ以外は下等という単純にして決して塗り替えられない思考で動いていたトリトンからすればこれは未知でしかない。
こいつは一体、何なのだ? という未知への畏怖を彼は覚えていた。
仮面の様な顔にある眼窩はただ青い光を浮かべている。
無機質な顔とはうって変わって生々しい悪意と嗜虐心がそこには宿っていた。
「ぐっ、ギアアアアアアア!!」
千切られる。
トリトンの身体の一部が引きちぎられた。
血しぶきが舞い、神の子は余りの痛苦に悶えた。
口の端から泡を吐いて狂ったように竜王から逃れようとするが身体中に何本も釘が突き刺さっているせいで逃げられない。
無理に動こうとすれば彼の身体は半ばから真っ二つになるだろう。
『ずっとまえからきめてたんだ』
鼻歌を口ずさみながらラードゥンは言う。
深海を真っ赤な血で染め上げながらニコニコと彼は笑っていた。
どうしてこんなことが出来るのだ? とトリトンは心から理解できなかった。
百歩譲って負けは認めてもいい。
だがしかし、ここまで甚振られる所以は彼には全くないと少なくとも思っている。
「殺すならばさっさと殺せばよかろう!!?? 俺様が何をしたと──」
『スープはこれにしようってさ』
ラードゥンは餌の言葉に取り合う気もないようだった。
自分より遥かに巨大な龍となったトリトンの腹部に手を突っ込み、臓器を無遠慮にかき混ぜる。
ナニカを探しているようだったが、そんなことをされた海の王はミズガルズを揺らす程の悲鳴を上げた。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアア!!! やめろォオオオオオオオオオオ!!!」
ブチブチと筋を断絶させながらラードゥンが引き抜いたのは太い血管だった。
全長数十キロにも及ぶ龍としての彼の血管は相応に太い。
ゴボゴボと燃料が漏れるように血液がそこから絶え間なく噴き出ている。
普通ならば死んでしまう程のダメージだがそこは慈悲ある竜王ラードゥン。
常に竜たちが【峰うち】を連続で発動させているため決してトリトンのHPが0になることはない。
出血多量になろうが、手足をもがれようが、何なら寸刻みやひき肉になろうともHPが尽きない限り死なないのはミズガルズのルールである。
『いっただきま~~す!!』
ジュルルルルルとラードゥンは血管に口を付け、ストローでジュースでも飲むようにトリトンの血液を飲む。
まるで極上の酒でも楽しむようにうっとりと目を細める。
彼の身体中に張り付いた竜たちがケタケタと上機嫌な笑いを零した。
『んんんんん~~~♪ うますぎるっっ!!』
ミズガルズ最古の生命体/魔法の血液。
龍の試作品としてのトリトンの性能にはがっかりとしか言いようがなかったが、この血は濃厚で、ラードゥンを大いに満足させる味だった。
ミョルニルで起きた想定外によってイラついていた心が癒される程に彼の血はラードゥンの好みに合うものだ。
「ころしてやる……殺してやるぅぅ……!!」
特にこの屈辱と苦痛に歪んだ顔がたまらない。
“竜王”の悪意に満ちた脳髄はそれを見るだけで幸福物質が通常の何百倍も分泌してしまう。
己の中にあるナニカが吸い取られていくような不気味な感覚に遂にトリトンはプライドを捨てた。
死んでもこんな醜い怪物に使うものかと決めていた奥の手を彼は解禁せざるを得ないと判断したのだ。
「クソッ!! クソガアアアアアアアアアアアア!!
よ、よくも、この俺様にっ!! よくもぉおおおおおおおおお!!!」
自分でも何と言っているか判らない程の激昂と憤怒に任せて彼は生涯最大の屈辱を受け入れた。
これをこんな醜悪な存在に使うという事は彼にとっては死よりも重い意味がある。
だがしかし、もはやそんなこと考えられない程に彼の頭は憎悪に満ちていたのだ。
『
それはトリトン……否、神の子たるエロスが龍としての形態とは別に所持するもう一つの固有スキル。
女神が直々に手を加えて作り上げた原初の魔法であり、最初の龍ともいえる概念生命体であるからこそ可能な能力。
その効能は他者に憑依し、その思考を乗っ取るということだ。
彼や竜王は知らぬことであるが、かつてヘルヘイムにおいて魔王がプランに対して行ったことを更に研ぎ澄ましたようなものである。
敵を問答無用で操るという最強の力であるが、トリトンにとって己の肉体こそ最も美しい芸術であり、他者の中に入るなどあり得ない故に今まで行使されたことはない力だった。
「殺してやる! 殺してやるっ!! 殺してやるぞッ!!!」
繰り返すが産まれて初めての能力の行使をよりにもよってこんな醜悪な怪物に使う事になるなど、彼にとっては死さえ生ぬるい屈辱である。
だがしかし、己を敵としてどころか餌としてしか見てこない天地開闢以来初の不敬者を誅する為にトリトンは決断した。
『ん?』
「ハハハハハハハ!!! これで終わりだっ!!」
嬲られているトリトンの身体が光に包まれるとソレは純粋なるマナへと変換され、ラードゥンが反応するまでもなく彼の中に飛び込んだ。
そして。
『縺励?』
「ぁ?」
彼は、首を絞められていた。
ラードゥンの中に微かに存在するナニカがトリトンに想像を絶する程の敵意を向けている。
顔も何も見えない。辛うじて「人」とだけ認識できる残骸がこの世の全てともいえる程の殺意を以てトリトンの首を絞めていた。
トリトンのソレなど児戯でしかない程の憎悪が世界最古の魔法を歪ませる。
「何をっ、このっおれさまにぃ……」
抵抗しようと腕を掴むがビクともしなかった。
レベル1000で、今まで誰にも力負けなどした事のなかったトリトンが、完全に腕力で負けている。
否、この精神世界では意志の強さが力に変換される故に、それほどまでにこのナニカの敵意が強すぎるのだ。
『縺励? 繧?k縺輔↑縺??? 縺ス繧九¥縺吶b縲?縺翫∪縺医b』
『あぁ~~、そのひとね!』
『すごいでしょ? ぼくがうまれた時からずっといっしょにいるんだけどさ』
ケタケタとラードゥンの笑い声が響く。
眼前にいるナニカの正体を彼は知っているらしく、その憎悪を嘲笑いつつも愛おしんでいる。
「っっ!! ぐっぬぅぅうぅっ!! はなせぇ……っっ!!」
トリトンは手足をばたつかせる。
だが全くビクともしない。
竜王の声を辛うじて聴いているが、少しでも気を緩めたら目の前のソレに首をへし折られそうだった。
『かわいそうなひと! ぜ~~んぶ無駄だったってしっちゃったらさ、そうなったんだ』
『女神さまってほんとうにすごいよね! こんな方法もあるんだってぼくにおしえてくれる!!』
心からの信仰と敬意をもって彼は女神こそがこの世で最も多くの人に絶望を与える最高の魔物だと断言した。
既に袂を断ち、その意を無視したエロスであったがそれでも母への侮蔑でしかない竜王の言葉に窒息しそうになりながらも全力で抗議の声を上げた。
「母を……侮辱するかっ……!」
『じじつを言ってるだけなんだけど? それに、ぼくほど女神さまをあいしてる存在はいないよ』
ソレを最後に竜王の声が消える。
ただし気配は残っており、視線はじっと哀れな犠牲者に向けられている。
どうやら彼はトリトンが絞殺されるのをニヤニヤ笑いながら見ているようだった。
首の骨が軋みを上げる。
今の彼は極めて純粋なマナである故に肉体など存在しないのだが、叩きつけられる敵意が物理的な破壊力さえ持ってエロスという存在そのものを軋ませているのだ。
(マズイっ……このまま、では……!!)
視界が滲みだす。
離せと言って手を掴んでいるのに全く動かない。
たった一人の、それも中途半端な意思だけがこびりついた残留思念が放つ圧によってエロスという男の魂は押しつぶされかかっていた。
ありえない事であるがあり得てしまっている。
強い意思こそが奇跡を産むという言葉がよく語られるが、それならば凄まじい憎悪/絶望はどれほどの変革を世界にもたらすのだろうか。
「化け物、化け物!」
「違う、俺様はお前の敵じゃない!
知らなかった、そう、お前の様な存在がいるなんて知らなかったんだ!!」
余りに無様な命乞いを彼は口に出していた。
今まで聞いてきたそれらを繋ぎ合わせ、彼もまた弱者として強者の情けを誘う様な哀れな口調で言葉を紡ぐ。
「うぅぅあ゛ぁぁ゛ぁぁぁあああ゛!!」
子供の様な悲鳴をトリトンは上げた。
もはやなりふり構わず、無我夢中でスキルを解除。
這うように彼は竜王の精神世界から逃げ出すのだった。
「はぁっ……はぁぁぁっ………!!」
『おかえり~~♪』
力をほぼ使い果たし、四つん這いで荒い息を吐くトリトンをラードゥンは勝利者として見下ろしながら言う。
今の彼には本当に何も出来やしない。
息をするだけで精いっぱいで、少しでも気を抜くと全身がマナとして霧散しそうだった。
生きた魔法である彼が霧散する。
それ即ち死と同義である。
彼は今、死ぬかどうかの瀬戸際に立っていた。
(死ぬ……? 俺様が? そんな事)
あり得るわけがないと己に言い聞かせようとするが……出来ない。
普段ならば何もせずとも無限に湧いてくる筈の自信が全く出てこないのだ。
今までの生涯において負けた事や失敗したことなど何もなかったエロスである、いざそうなった時どうすればいいかなど判る筈もない。
彼の心には“折れ目”がついてしまっていた。
認めたくなくとも、エロスの心はもう負けを認めている。
身体が震え、小さく身を守る様に彼は縮こまった。
「ぐぅぅうぅぅぅぅ……!!」
呻く。
パキ、パキと響く音はまるで彼の心に断裂が入っていくのを表現するようだった。
そんな無様な光景をラードゥンは笑いながら、そして彼の配下は無表情で見つめていた。
トリトンの配下たちでさえ何も言わず、誰も助けに行こうとしない。
あれだけ多く居た妻たちや、我が子らでさえ愛する家族の為に竜王の前に飛び出したりする者は誰もいなかった。
「何故……」
『んん?』
トリトンの呟きにラードゥンは顔を傾げた。
続きを促す様に黙っていると、世界最古の魔法にして龍の試作品にして、かつては女神に世界の運営さえ委ねられようとした男の本心がもれだす。
「何故、俺様がこんな目にあうのだ……!!」
『えぇぇ……』
今更そこなんだ、と心から呆れたような声を竜王は上げた。
チャンスは何度も上げた筈だ。
「ぼくにしたがえば無問題! うみのそこの“悪い子”とたたかうから邪魔しないでね」ってちゃんと彼は伝えていたのだから。
「俺様ほど大勢を幸福にした者はいない!!
「俺様はいつだって正しいことをしてきた!! だというのに、どうしてこんな目に合わなければならない!?」
端正だった顔を歪めて彼は叫ぶ。
ラードゥンからすれば実に面白い見世物でしかなかったが、どうやら彼の部下……特に妻や娘を奪われた者からしたらトリトンの言い分は火に油の様だった。
「ふざけるな!!」
「何が幸せだ!!」
「妻を返せ!!」
「飽きたらすぐに捨てる癖に何を言ってるんだ!!」
遠巻きからラードゥンの悪趣味極まりない活け造りを見ていた者たちが遂に我慢の限界を迎えて叫び声を上げる。
生きたまま貪られるという余りに無体な所行に微かに湧いていた憐憫さえ今の彼の言葉のお蔭で吹っ飛んでしまっていた。
あのまま死ねばよかったのに、もっと苦しめ、等と言う罵倒が至る所から吹き荒れる。
その鬼気迫る様子にトリトンは本当に訳が分からず目を見開き「ポカン」とした顔をしていた。
竜王はそんな彼らの心を何かに利用できないものかと顎に手をやって何事かを考えている。
ニヤニヤ、にやにやと悪意がどんどん強まっていくのをハイドラスだけが悟り、身震いした。
ああいう顔をしている時の主はとてつもなく悪辣だと彼は良く知っているのだ。
ただ一人、トリトンだけが神たる己の所業に意を唱える愚か者達に対して怒りを露わに怒号を上げる。
竜王から見ても中々にいい線を行っていると思う程に傲慢な主張を彼は欠片も疑わず下賤なる者たちに対して吐き連ね出した。
「うるさい!! お前たちの様な凡俗な輩に何がわかる!?」
「俺様は神の子!! 女神アロヴィナスの正統なる実子!!」
「神が思うがままに振舞って何が悪い!?」
如何に命の危機に陥ろうと決して許しを請わないのはさすがというべきか。
こんな状況であってもトリトンは一言も詫びなどしない。
文字通り死んでも彼は誰かに頭を下げる事や、ましてや己が悪かった等というつもりはないのだ。
ふーん、とそんな彼を見て竜王は思考を回す。
幼稚ではあるが誰よりも悪意に満ちた彼はこのまま殺した所でトリトンにとってはただの苦痛で終わってしまうな、と悟った。
折角ミズガルズ最古の存在という玩具が手に入ったのだ、もっともっと遊びつくさなくては勿体ないと彼は判断した。
彼が見たいのは究極の絶望なのだ。
それを捧げればきっと女神さまも喜んでくれると彼は信じている。
特にこのトリトン───いや、この際だからエロスと呼ぼう───はかつてアロヴィナス神の言葉に逆らったという。
女神の言葉に従わない。
それは許されない事だ。
とってもお優しい女神さまは罰を与えなかったそうだが、それは良くない事だ。
『いきなりですが! “たすうけつ”を行いたいとおもいます!!』
エロスの髪を掴んで無遠慮に持ち上げ、衆目の前に晒す。
手足にさえ力が入らない彼はまるで人形の様にぶらぶらと揺れるだけだ。
「なにを……」
突拍子もない竜王の行動と言葉にエロスは血の泡を吹きながら困惑を隠しきれずにいた。
ラードゥンの行動は全く以て意味不明でしかない。
最悪の力をもった気分屋とでもいうべきか、行動に一貫性がなく、その場その場の思い付きで生きていると思う程に。
『あー、見てのとおり勝ったのはぼくです!!』
『すごいでしょ!』
わーわー、きゃーきゃーという歓声が響く。
半分は憎きエロスに報復を果たしてくれた彼への心からの祝辞で、もう片方は竜王への恐れから彼を讃える。
曲がりなりにも世界最古の存在であるエロスをあそこまで一方的に叩きのめした竜王に怯える者が現れるのは当たり前だった。
だがしかし何の問題もない。
竜王はそういった恐怖も好きなのだ。
うん、うんと何度もラードゥンは頷く。
残忍で悪意に満ち満ちて、他者を苦しめることが大好きな彼であるが、このように讃えられるのも好きなのだ。
そうそう、これだよ、これ、と彼は何度もにやけながら己に対する歓声を気持ちよく受け止めた。
『アトランティスはきょうでおしまいです! それでね、コレをどうしようか考えてるんだ』
惨めなエロスをグイッと突き出す。
四方八方から視線が突き刺さるが哀れみや同情は一切なかった。
むしろ「早く殺せ」という殺意がありありと見て取れるほどだ。
『みんながどうするか決めていいよ』
『トリトンおにいちゃんのお嫁さんたちも、だいすきな人を助けたいよね?』
『その1! ころしちゃう!! その2! くるしめる!! その3! 助けてあげる!!』
好きなのをどうぞ、とラードゥンは笑いながら言った。
判り切った答えしか返ってこないと理解しつつラードゥンは声を発する。
竜王の視線の先には父や、本来の恋人たちに連れ添われたトリトンの妻たちが何人もいた。
ひぃ、ふぅ、みぃどころの話ではない。
文字通り数十人、ここにはいない面々を含めれば彼のハーレムは四桁かそれ以上に及ぶのだ。
そんな女たちがじっと己の夫の変り果てた姿を見つめていた。
ただ一人、エロスの顔には希望が宿った。
彼は己が心から愛されていると信じている。
あれだけ愛してやったのだから、きっと皆は自分をたすけて──。
「苦しめて下さい」
「……は?」
悩むそぶりさえ見せずに発せられた言葉にエロスは本当に訳が判らないモノを見たかの様に唖然とした。
発言したのは彼の896人目の妻だ。
ちなみにエロスは妻たちの名前は憶えていないし、子供が出来ても認知したことなどない。
エロスはレベル1000である。
対して彼の妻たちはどんなに高レベルであっても20を超える事はない。
レベル1000と20の間に子供が出来るか? という話に対しての答えは一つだ。
“出来るには出来るが、殆どがどこかしらに異常を持つ”である。
マナに馴染み切って変異を遂げた肉体と、それほど遂げていない存在ではもはや遺伝子構造からして違うのだからこれは仕方がないといえた。
ある程度レベルが拮抗していなければ子供は殆ど出来ず、出来たとしても余り宜しくない結果になる、とアリストテレスは突き止めていた。
故に魔物は生物に対して繁殖能力が劣る。
魔物同士であってもある程度レベルが近くないと子を作れないのだから。
もちろん治療法もあるにはある。
然るべき知識と技術を持った存在が胎児の時より経過観察と“調整”を行えば安定させることも可能だろう。
だがしかしエロスがそんな面倒な事をするわけがない。
更に言うとエロスの正体は意思を持つ魔法だ。
魔神族の同類と言っていい。
そして魔神族にはそういった機能はなく、エロスにも本来はなかったのだろう。
しかし悠久の年月を遂げる中、エロスという魔法も変異したのかもしれない。
快楽という娯楽を楽しむために、生物の生殖という行為を模倣した結果、彼は子を作れるようになったのだろうか。
だがしかし彼は女を抱く事は好きでも、子供を育てることなどやりたくもない。
気持ちよくはなりたい。
だがしかし子育てはしたくない。
そんな意思が彼の生殖能力を中途半端にしてしまった結果が恵まれない子供の量産という結果に行き着いたのかもしれない。
そして何かしらの欠陥──例えば手足が欠けている、もしくは多い等を見たエロスに容赦はない。
かつてジスモアは己の種から生まれたルファスを最初は愛そうと努力したが、彼はそれさえしない。
ただ一言「捨てろ」という言葉と共に幾多の実子を彼は深海に放り込んでいた。
そして妻にも飽きると適当に金や貴重品を渡して宮殿の外に放り出す等と言う事を繰り返しているのだ。
声を発した女……896番目は夫と引き剥がされるのを相当に嫌がっていたが、無理やりにモノにしたのをエロスは覚えている。
余りに嫌がるものだから【イリュージョン】の魔法で夫の姿に化けてからしたこともあった。
それから彼女は従順になり、気づけば飽きて数年間はご無沙汰であった。
そろそろいらないな、と思い始めていたのも事実だった。
「私の夫を貴方は深海に追放しました」
「……何の話だ? 何を言っている?」
恩知らずの言葉にエロスは頭を傾げた。
全く訳が判らない。
そんな話がいま、何の意味がある?
「判らないのですか? 貴方は彼を殺したのですよ」
「……?」
何度か896番目の夫だった男が宮殿に殴り込みに入ってきたことがある。
そんな無礼者をエロスは叩きのめし、手足をへし折り、男性の象徴を潰してから深海に追放した過去があった。
勿論896番目の夫だった男は死んだだろう。
しかしこれは彼にとって当然のことであり、責められるわけが判らない。
はぁ、というため息を女は吐いた。
見れば彼女の周りにいる妻たちも皆、夫に向けているとは思えない程にその視線は冷たい。
「もういいです。ラードゥン様、私は彼が苦しむことを望みます」
『おっけぇ~~い♪ みんなも、それでいいかな?』
「待て待て待て待て!」
とんとん拍子で話を進めていく竜王と妻たち、かつての部下たちを前にエロスは声を上げるが誰も聞こうとさえしない。
どうして、どうして、どうして俺様を無視するのだ、と叫ぶがもはや会話しようとする者さえ皆無だった。
「俺様は偉いのに……」
竜王の巨大な手が迫り、視界が闇に包まれそうになる瞬間に彼は泣きそうな声音で呟き……。
奇跡が起きた。
エロスを掴もうとした腕が止まる。
『…………』
纏う空気を変えたラードゥンがピタッと制止し、視線をあらぬ方角に向けて固まる。
先にエロスと戦う時に見せていた余裕に満ちた態度ではなく、本当の意味での脅威を認識したような気配だった。
突如として動きを止めた竜王の様子にハイドラスを始めとした彼の部下たちが困惑し……次いで彼との繋がりから同じモノを認識してしまう。
それは狂った笛の音だった。
それは怨嗟に満ちた地獄からの呼声だった。
竜という超越種でさえ怖気が走り、精神の安定を失う外法の存在の帳である。
ガラスの割れるような音と共に何かにヒビが入っていく。
世界を運営する女神の法が部分的にと言えど跳ね除けられ、犯されているのだ。
どのような魔物であれ女神の法から逃れる事など出来ないというのに、それが壊れるという異常が起き始めている。
時間の進みが歪む。
空間の連続性が破れ、ここではない何処かと繋がりだす。
誰も彼もが不可視の重圧に押しつぶされるように膝を付いた。
真なる竜であるハイドラスや、弱りきっているとはいえ神の子たるエロスでさえ。
唯一竜王だけが平然と直立しているが、先ほどまであれだけうるさかった彼は今や言葉一つ発さない。
「これは……!」
ハイドラスは震える腕を抑え込みつつ主たるラードゥンに視線を向けた。
彼は101本ある頭を四方八方に伸ばし、何かを──恐らくこの圧の主──を探しているようだった。
レベル500以下のモノ、つまり彼の軍の大半が狂乱し逃げ惑う。
アトランティスから我さきにとトリトンの軍の残党や、一応の復讐を遂げた事で精神に隙が出来てしまった竜王の配下たちが泳ぎ去っていく。
ハイドラスや【アイガイオン】はさすがというべきか持ちこたえたが、それでも動揺は残っている。
右に左に、上に下に。
後ろに前、全方位をきょろきょろと見ていた竜王の頭たちが一斉に同じ方向を見た。
アトランティスの近場に存在する超巨大な海溝を。
事前に調べた情報によればあの海溝は深さ2万メートルを優に超えるミズガルズ最深の地のはずだ。
光も通さぬ深淵よりナニカが蠢きながら近づいてくる。
影のようなそれは何千もの魔物の群れであり、それらの顔をラードゥンは良く知っていた。
『ヤギさんだぁっー!!』
指さし、ゲタゲタ笑う。
負け犬ならぬ雑魚ヤギさんが今更何しにきたの、と。
かつてヘルヘイムから竜王の支配領土へと侵攻し、返り討ちにあった魔王アイゴケロス。
幾らヘルヘイムの魔物を集めた所で竜王とその軍には敵わぬと見た彼は新しい軍団を邪神と共謀して作り上げ、ラードゥンへと復讐を挑んでいた。
【この時を待ちわびたぞ……! 竜王!!】
数百か数千か。
深海より這いあがる魔物の群れ、否、軍団はその全てがアイゴケロスの分身である。
有象無象の軍勢を揃えるより、増えた己で構築された軍団こそが最強、それが彼の出した結論だった。
どれもこれもが等しくレベル900から1000という埒外極まりないソレは魔王の本気の殺意の権化であり、これでもまだ序の口だ。
もはやその目にかつての様な油断は無い。
竜王は格上であり、更には忌々しいアリストテレスという怪物さえも認識した彼は今や自分は挑戦する側であるという事実を受け入れている。
本来ならばこれほどのまでの分身作成など不可能だが、狂った笛の音がそれを可能としてくれた。
この世で唯一の同胞にして世界を二分しても良いと考えるほどの魔である邪神の権能が部分的に女神の法を歪め、魔王の力を増幅させてくれたのだ。
アトランティスを中心とした周囲一帯の空間が歪み、全く異なる法則を内包した異界へと作り替えられていく。
徐々にではあるが、確実に世界を浸食されている。
この異界であれば魔王/邪神/竜王の本気の衝突にも耐えられるだろう。
『ハイドラスくん。ちょっと行ってくるね! みんなは先にかえってていいよ』
「畏まりました」
楽しんでくると宣うラードゥンは変わらない。
魅力的なおもちゃを与えられた子供の様にはしゃいでさえいた。
ポイっとゴミの様に捨てたエロスが何処かに消えた事も。
折角支配領土に組み込んだ筈のアトランティスが丸ごと崩落を始めている事も。
何ならこの日の為に用意しておいた己の軍団が邪神と魔王の気配に当てられて総崩れになっている事さえ気にしていない。
『ははははははははハハハハハ!!!』
『あーそーぼー!!』
【その傲慢、叩き壊してやるわ!!】
魔王と竜王の第二ラウンド、世界を揺るがす戦いが海の底で始まろうとしていた。