ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
幾つもの奇怪なパーツやチューブを接続された巨大な鍋がグツグツと音を立てて煮込まれている。
ウルズの水や竜王の血、それ以外にも多種多様な薬草などを完全に計算されて放り込まれたソレを炙るのは不死鳥の炎である。
最初の魔物の火は全体に完璧な割合で熱を通す事も、逆に一部の成分だけを加熱することも出来る正に魔法の炎だ。
薪もなにもくべられていないというのに火は決して衰える事はなく燃え続けている。
試しに手を翳してみても何の熱も感じないという奇妙な現象を体験できることだろう。
カリカリカリと鍋の温度や素材の状態などを記録するゴーレムが目にも止まらぬ速度で書類を書き上げ続けている。
経過は順調。何の問題もなし。
このままいけば予定通りあと2時間ほどで新薬の第一号は完成を迎える。
完成するのはエリクサー第一号。
試験薬である故にいきなりプランに用いたりはせず、有志を募って治験を行う予定の薬だ。
だがしかし、もしもその効能がロードスとアリストテレスの設計通りに作用すればそれこそ失った手足を取り戻すことさえ可能だろう。
薄暗い部屋───ロードスの提供した実験室の窓から沈みゆく夕日を見つめつつルファスは表現に困る感情を抱いていた。
あと少しでプランを治せる。
いきなりは無理であっても、それでもとてつもない前進は出来る。
もうどうすればいいか悩んでいた時間は終わったのだ。
それはたまらなく嬉しい事だ。
飛び上がって声にならない叫びを上げたくなるほどに。
その後はあの竜王を何とかしなくてはいけないが。
だが……彼女は前提として欲張りだ。
一つを叶えると更に欲が出てしまいそうになるのがルファスだ。
幾ら抑えようとこれは魔物としてのサガのようなものである。
(…………………)
ルファスはもう気が付いている。
プランがミズガルズを嫌っている事を。
アリストテレスの嫌悪も影響しているかもしれないが、それでも彼は本心から世界を嫌悪している。
世界は醜くも美しいと彼女の視野を広げてくれた人は、その実誰よりも世界を疎んでいるのだ。
空っぽだとかつてガザドはプランをそう評した。
それはルファスも同意するところだ。
理由は判る。
アリストテレスの使命を果たしたとしても未来を作れないという行き詰まりに彼は陥り、であるのならば己の命に価値はないと見切りをつけてしまうというのは。
人というよりもゴーレムに近い考え方だが、それは今更の話だ。
一応の筋は通っている。
決して人間のモノとは思えない理屈だが、アリストテレスとして考えれば道理は通ってしまっている。
彼は人は嫌いではないが信じてもいないのだ。
プランの頭脳は既に答えを出している。
仮に女神をどうにかしたとして、それで全ての人類が手を取り合えるか? と。
勿論そんなことを考えるまでもない。
絶対に不可能だ。
故に女神の打倒は無意味である。
より良い未来を望んで既存の支配者を打倒したとしても自分ではその先を保障できないと彼は結論づけている。
つまるところノーガードと同じ状況だ。
革命は成すよりもその後の方が何倍も面倒だ。
だがしかしそんな事はルファスには関係ない。
女神だの世界だの、神の座だのそんな事は。
彼を助けると決めた。それは肉体もそうだが、何より彼の心もだ。
何処かで死を望んでいるプランの心をどうにかして生きる事に向き合わせてやりたいというのが今の願いだ。
こんなミズガルズでもそこそこ悪くない所もある、それを教えてくれたのだからそっちに逃げるなど許さない。
私を拾った上にこういう風にしたのだ。
彼には老いて死ぬまで責任を取ってもらう。
────。
苦々しいモノを口内に感じながらルファスは思考を切り替えた。
(まずは一つずつ、だ。……先ばかり見ていたら躓いてしまう)
先走り過ぎだと自戒する。
まだ身体も治っておらず、竜王の脅威も迫る中で無駄な皮算用をしている場合じゃない。
更にもう一つ、目下の予定として大事な作業も追加されたばかりではないか。
フラスコを手に取る。
試作品は透き通った赤色をしていた。
まるでルビーを溶かしたような色彩である。
鑑賞用としても用いられる程に試作型エリクサーは美しい。
後は効果がどのようになっているかを実践で試していくだけだ。
幸いなことにこの国にはコレの効能を最大限に引き出せるであろう者たちが大勢いる。
そう、混翼たちだ。
基本的に五体満足の者らは既に訓練に取り掛かったり、基礎的な任務に就いたりなどしているがそうではない者たちもいるのだ。
ヴァナヘイムの天翼族に暴力を受けたまま適切な処置も受けられずにあの病み村で過ごした結果、手足を失った人は少なくはない。
もちろんプランはそういった者達も残らず引き取っており、今はリハビリなどを行わせている。
“こんな自分たちでもいいのか?”と彼はそんな人たちに問われた時、こう答えたらしい。
【手足が足りないから能力が劣る?】
【とんでもない話です。代替機能というものが人にはあります】
【失った部位を埋めるように独自の発達をした貴方達は決して無視できる人材ではないのですよ】
そうやって彼はまた己の信者を増やしたのだった。
そういった者らに治験をし、情報を収集しようとロードスは提案したのである。
当然の話として志願制ではあるが。
酷い話だ。
言葉を濁らせていたのを見るに、もしかしたら遊び感覚で四肢を切断された者もいるかもしれない。
魔物でもそこまではしないだろうが、天翼族はやるのだ。
「本当にあいつらは……」
また一つヴァナヘイムとは関わりたくない理由が出来たと吐き捨てる。
ルファスはこれ以上ないくらいに顔を歪めた。
ぐっと拳を握りしめて自分の幸福に心から感謝する。
手足を失う、それがどれほどの苦難と絶望の始まりなのか彼女には想像もつかなかった。
トン、トンと扉がノックされる。
不快な思いを綺麗に胸中から拭い去ってルファスは振り返った。
部屋の外にいるのは誰かなどもう判っている。
「進捗はどうだい?」
プランが微笑みながら入ってくる。
彼の背後にはもう一人、天翼族がいた。
先にルファスに恋愛話を振ってきた隻腕の少女だ。
ここでそう来るかとルファスは正直なところ思った。
だが確かに彼女ならば申し分ないだろう。
「大丈夫だ」
ほら、とフラスコを見せればプランは【観察眼】で走査してから頷く。
とりあえず設計通りに出来たのは間違いない。
後は実際にこれを使ってどうなるかだが……。
理屈上では問題ない。
正常に作用すればこの娘の負った全身の火傷痕と左腕は治る筈だ。
「あっ、あのっ!」
「本当にっ、私なんかが役に立てるのでしょうか……?」
少女が小さく身震いしながら視線をあちらこちらにさ迷わせつつ発言する。
両親は至って普通の翼だったのだが娘はこうであったから捨てられたのが彼女の半生だ。
故に彼女は己に対する自己評価がとてつもなく低い。
親にさえ肯定されたことのない自分が誰かの役に立つのだろうかと思ってしまう程に。
「私、どうなってもいいんです……。
今回の治験で死んじゃっても、それがお二人の役に立てるのなら全然、命なんて惜しくは」
「ちょっと失礼するぞ」
ガバッと翼を広げてルファスは少女に飛びかかった。
瞬間移動にも匹敵する速さで己の命を卑下する娘に詰め寄り黒翼で囲む。
とんでもない勘違いをしているのもあるが、このままではよくないと思ったのだ。
プランにも「しっかり説明したのか?」と非難するような視線を一瞬だけ送ったが彼は頭を横に振った。
もう何回も説明はしているが、どうやってもこの献身というにはあまりにも自暴自棄な思考は消えなかったのだと繋がりを通して感情が流れ込んでくる。
大前提としてポーションの力は元々存在する生命力を増幅させるものだ。
1を100にする力であり0を1にすることではない。
協力してくれるのは本当に助かるが、こういった思考のズレは正しておかなくてはいけない。
「ありがとう。先ずは貴女の協力と決意に深い感謝を」
真っ赤な瞳でルファスは娘を見据える。
口にした感謝も心からのものであった。
幾らプランが彼らの信頼を勝ち取っているとはいえ、自分たちが今やってることは人体実験だと彼女は自覚している。
取り繕うのはやめようか。
治験と言えば聞こえはいいが、実際は本命であるプランの為のテストなのだ。
しかも動物実験さえ吹っ飛ばしてのいきなりの行為だ、とんでもないエゴが籠っていると非難されるのが当然だろう。
その上でルファスは堂々と宣言するのだ。
「しかし勘違いしないでほしい。私は貴女の命を使い潰すつもりなんてない」
「今回は新種のポーションの治験となる。
既に師から話は聞いていると思うが、もう一度しっかり説明をしたい」
その上でダメだったら別の方法を考えるとルファスは続けた。
ここらへんには余りいないが、魔物を痛めつけてから飲ませるなど手は多々ある。
しかし魔物と人では身体の構造が違う故に彼女が飲んだ時ほどのデータはとれないだろう。
「だけど、私にはそれぐらいしか……。
アリストテレス様から受けた恩にどう報いればいいかなんて……」
「そのことでしたら自分から頼みがあります」
ここでプランが声を上げた。
彼はルファスに講義をする時の様な口調で朗々と己の要求を上げていく。
こういった場合は無理に「恩返しなどしなくていい」と言うと話が拗れると彼は知っている。
協力したいというのならば仕事を振ればいいのだ。
そうすればこの娘も自己肯定を得られ、自分たちも貴重なデータが手に入る。
「今回の新薬は使用者の心境によって効果が変動する可能性があります」
本当はポーション全般少なからずがそうなのだがそこらへんは今はどうでもいいことだ。
大事なのはこの少女の心境なのだから。
「なのでこの“エリクサー”を飲む時は……。
これを飲んで怪我や腕が治ったら何をしたいか、未来の夢を思いながら口にしてほしいのです」
「みらい、ですか」
えぇ、とプランは頷く。
「恩返しをしたいと仰るのでしたら、まずは貴女が他者。
この場合は自分に力を貸せるほどの立派な存在になる必要があります」
「貴女たちの人生は新しく始まったばかり。
いまは自分を高めることに集中しましょう」
身を削った奉仕では折角ヴァナヘイムから引き取った意味がないとプランは断言する。
彼/人類が欲しいのは確固たる戦力だ。
こういった話は好きではないが、多大な時間と金を彼女たち混翼たちには注ぎ込んでいる。
で、あるのならば相応の結果が必要だ。
急かすつもりは決してないが。
「貴女たちの寿命は千年を超える。
それほどの時間を何かに打ち込めば、誰もが見上げる存在に必ず至れる」
「さすがに自分は千年を生きる事は不可能です。
なので、そうですね。
とりあえず10年後、貴女は胸を張って“これが得意だ”と思える自分の武器を磨いて下さい」
「そして貴女が私の言葉を聞いてくれるのでしたら、とりあえず命を捧げる事を禁止しましょう」
生き続けて自分を磨け。
そしていつかその力で自分の役に立て。
丁寧な言葉で濁しているが要はそういう事だ。
死んでしまったらそれら全てが水の泡だ。
それではあまりに採算が合わない。
故にプランは少女が己の為に命を使う事を禁止した。
(……いーつか同じことを言ってやる)
その言葉を聞いたルファスが横目でプランをジトっと見る。
一言一句全てを彼に送り付けてやりたくなったが堪えた。
とりあえず心の中の「いつか言いたい事リスト」に彼の「命を捧げるのは禁止」をメモしておいた。
現実的で、あまりに冷たい合理的な話ではあるが少女は目をぱちぱちさせるだけだ。
余りに埒外な世界の言語に脳が理解するのに時間を必要としている。
翼がパタパタと高速で上下し風を頭に送って冷却しながら彼女は考え続けていた。
アリストテレスさまは何といっているの……?
えっと、私達にはお金と時間がかかっている……?
お金、お金……?
お金、エルとはミズガルズの共通通貨だ。
それくらいはさすがの彼女も知っている。
コレの数字が大きくなればなるほど、それは価値あるモノだと皆が認めているということくらいは。
つまり、アリストテレス様は自分たちに価値を見出してくれていると理解した彼女は動きを完全に停止させた。
次いでブンブンブンと頭を高速で上下させる。
ルファスをして後ずさりそうな速度だった。
ゆっくりと先ずは一口。
警戒がそこにはあった。
アリストテレスのことは信頼しているが、かつて母に薬と偽られて毒を彼女は呷った事があるから。
未来の事はまだ判らないが、自分には価値があると少女はまずは受け入れた。
両親にさえ虐待されていた身ではあるが、それでもまだ誰かが必要としてくれるのだと。
全身にこびり付いていた火傷痕が見る見る消えていく。
父に煮えたぎった油を浴びせられてついた傷が、一生残ると言われていた傷が。
細胞がかつてない程に活性化し元来天翼族として持っていた強力な生命力が想起した結果だ。
【観察眼】を発動させたプランとルファスはじっとその様を診ている。
ルファスの腕が物凄い速度で動き回りレポートの作成を開始。
彼女の身体に起きている変化を一欠けらも見逃さず記録し続ける。
まずエリクサーの宿す“力”は表層から効力を発揮した。
体表についていた傷を負傷と判断した復元能力はそれらを治し始める。
常に身から感じていた引きつった感覚と、肌の奥底で滾る火傷の熱が失せていくのを実感した少女は目を見開く。
慌てて身体を見回すが明らかに火傷の痕が薄れていた。
更に一口。
今度は恐れはなかった。
味はしない。
本当にただの水を飲んでいる様な飲み心地だ。
徐々にエリクサーは身体の内側に浸透し、細胞と適合を開始。
身体に馴染み始めたと言っていいだろう。
遺伝的/概念的/精神的な疾患を片っ端から検索し、それらをあるべき姿に戻す。
例えば手足の喪失。
例えば内側に抱え込んだ本人も気づかない病気。
例えば本来成長する筈だった部位の補填。
増幅され続ける生命力はそれらを全て抱合し修復を開始し始めた。
ここでふとルファスは疑問を抱く。
エリクサーの効能は今の所は身体をあるべき状態に戻すものだ。
と、言う事は生まれつき手足のないものや疾患を患った者、またはアレルギーを持っている者にはどのような反応を示すのだろうか、と。
そういった人たちにはその状態が“あるべき状態”なのだから。
「あぁぁぁぁ……あああああアアアアア!!」
身体の内側を駆け巡る圧倒的な生命力の奔流に娘は悲鳴にも似た歓喜を上げる。
何百年も生きてきて初めて満たされた感覚が彼女を埋め尽くしているのだ。
何処か水気がなくパサパサしていた羽根が必要な生命力を補充されて艶を取り戻す。
骨格レベルで翼が成長を始め、ゴキゴキと音がした。
2秒もすればそこには先よりも二回りほど大きくなった翼があった。
外見的な変化に眼を奪われがちだが、これは本来ならばここまで成長する筈だった肉体の設計図を“力”が読み取り、そこまで肉体を調整したに過ぎない。
如何にエリクサーが規格外の品とはいえ、仮に栄養豊富な食事などをしっかり採った者ではこうはならないだろう。
「うそ……ほんとうに、これが……?」
何時もの様に翼を動かせば、大きくなったソレは前よりもずっとずっと軽くて動かしやすい。
今なら音の壁を超えて飛べそうだった。
「かっこいいじゃないか。いい翼だ」
ルファスは微笑みながら評する。
自分のことの様に人の幸福を彼女は祝う。
今まで栄養と何より生きる気力が足りなかったから身体が思うように成長できなかったんだなと冷静に分析をした。
更に変化は続く。
肌艶は明らかに先よりも良くなり始め、唇はピンク色へと変わる。
髪の毛も艶を帯び始め、女性としての美しさを娘は得ていく。
体内を駆け巡る“力”が乱反射しながら片っ端から身体を治し続けていくのをルファスとプランは観測し続ける。
恐ろしい速度で書き上げられるレポート用紙の数は既に100枚を超えるが、まだ勢いは止まらない。
そして“力”が最も重大な損傷を負った個所である左腕に収束を開始。
遂に始まったなとルファスは意識を集中させる。
すると戦闘時の様に世界の流れはゆっくりとなり、一秒が数日にも数カ月にも感じられる極限状態へと変わった。
ここからが本番だ。
右と左という違いはあれどこの状態はプランと同じだ。
どういう風にエリクサーがこれを治すか記録する為に彼女は脳をフル回転させ、光が進むのを見る事が出来る程に時間を遅延させた。
(全て記録する……何一つ見逃さないッ……!!)
瞬きさえ惜しい。
腕だけが超速で動き回る。
一枚書き上げる度にプランが合いの手を入れるように新しい用紙を補充してくれる。
最初に疼いたのは骨だった。
父親にへし折られ、泥水の中に放り込まれ膿んでしまったコレを切断した瞬間を娘は忘れた事などない。
当然ヴァナヘイムのスラムには麻酔などといった上質なものがあるはずもなく、熱した刃で無理やり切り落とした時の痛みは今でも思い返せる。
あの時と同じ“熱”を少女は感じた。
左腕を落とした時は絶望しかなかった。
これから一生、自分はこのままなのだという絶望しか。
だがしかし、今のこれは似ているが性質は真逆だった……。
「っ!!」
奥歯を噛み締める。
痛みはなかったが、とにかく熱い。
細胞が尋常じゃない速度で増殖を開始した結果、熱量が発生してるのだ。
恐ろしい程に活性化した細胞は熱を発する。
かの竜王の肉体から常に炎が噴き出ているのはそのせいだ。
真っ赤な煙を噴き上げながら腕が徐々に伸びていく。
急速に復元を開始する骨が切断面から飛び出して伸びていく。
それらを追いかけるように真っ赤なツタ───血管や神経、筋肉繊維などが伸びて骨格を覆う。
最後の仕上げとして美しい白肌が全てを丁寧に包んでいく。
そんな様をルファスは全て記録し、プランは全てを分析している。
二の腕が瞬く間に真っ白な皮膚に覆い尽くされ、手首、掌、更には五本の指が形成されては筋肉や神経、皮膚に覆われるを繰り返す。
時間にして15秒。
時間を圧縮したルファスにとっては数カ月にも感じられるほど経過すれば、少女の腕は生えていた。
「─────」
絶句。
信じられないモノを見る目で己の左腕を彼女は見ている。
真っ白な肌にピンク色の爪、細くてしなやかな指は女性としての柔らかさも備えている。
指を折っていく。
何の問題もない。
実はついさっきまでコレがなかった事こそが夢だったのではないかと思う程に何の違和感もない。
「成功ですね。念のため1週間ほど経過観察をしましょう」
5秒ほど待った後、プランは微笑みながら口を開く。
このままでは2,3時間は腕を動かしたりしていそうだったからこれは仕方がない。
「は、い……」
夢うつつといった顔で頷く。
ルファスはゆっくりと復元された左腕に指をつぅっと走らせる。
本当ならば一声かけてからする筈なのだが、意外と彼女も今は余裕がない。
ルファスは今、胸中で荒れ狂う狂喜を表に出さない様に全力を尽くしているのだ。
もしもここにいるのがプランだけだったなら、全力で叫んで後先考えずに彼に抱き着いていたかもしれない。
本来ならばそんなこと絶対にしないが、それほどまでに彼女は喜んでいる。
腕が戻った。
腕を治せた!
やった!! ここまで遂に来たんだ!!
プランの右腕は魂レベルで義手と接続されているから勝手は変わってくるだろうが、それでもこれは途方もない進歩である。
今まで色々な国を渡り歩いてきた全てがここに結実したのだと思うと笑いと涙が同時に出てきそうになるが、何とか、全力で、必死で堪える。
しかし瞳が真っ赤に輝きを放ち、最上位の魔物としての圧が微かに滲み出てしまったのは愛嬌というべきか。
「!!」
「失礼。感覚はどうだ?」
指でツゥッと皮膚をなぞり上げる。
薄く笑ったルファスの表情はとても艶やかで、ともすれば美男子にも見える程に圧倒的な存在感がある。
蛇に睨まれたカエルの様に娘は固まると同時にぽーっとした顔でルファスを見つめ続けている。
圧倒的な存在というのはほんのちょっとした振る舞いで多くを魅了することがある。
ラードゥンが悪意で人を狂気に引きずり込む様に、ベネトナシュがその孤高の在り方で吸血鬼たちを魅了する様に。
混翼という天翼族の中でも間違いなく頂点に位置するであろう存在が言わば己の眷属ともいえる下位存在を愛でればどうなるか?
答えは「魅了される」だ。
全身の細胞とそれに宿るマナというレベルで娘はルファスという存在を焼き付けていた。
プランだけが困った顔をしてそれを見つめている。
彼女に悪意はなく、それどころか研究者として協力者の状態を第一に考えているルファスには迂闊に突っ込みを入れられないのだ。
やっていることは間違いなく正しい。
ただし、少しズレているというのがプランの寸評だ。
端的に言えば「お前が言うな」という話である。
「全て私に任せておけ。貴女はリラックスしていてくれ」
「大丈夫……そんなに緊張しなくていい」
ぷにぷにと弾力ある肌を指でつついたり、軽く揉み込んだりしてルファスは再生した腕の調子を確かめ続ける。
彼女が何か動作するたびにプルプルと震えている少女の事は気にも留めていない。
バサバサ荒れ狂う翼さえも見えていないようだった。
プラン云々を抜きにしても非常に興味深い話であった。
本来ならば不可能だった四肢の復活をやり遂げてしまったのだから。
今の彼女は最大の成功を経験したことで浮かれており、以前プランから言われた「己の力の大きさを自覚して振舞え」という教えを忘れてしまっている。
こんな時、同年代の友である奈々子でもいれば容赦なく突っ込みを入れてくれるのだろうが、生憎彼女は旅の最中だ。
しかし勘違いしてはいけない。
ルファスは心からこの天翼族の娘に感謝しているのだ。
彼女の献身があったからこそ貴重という言葉では表せない程に重要なデータを蒐集できた。
故に何か異変などがないか隈なくチェックしようとするのは当然であった。
それがどの様に受け取られるかはともかくとして。
「よしっ、特に問題はないみたいだ。完全な左腕であると私と師が保障しよう」
「……ぇ」
全ての要素を確認し終えたルファスが少女を解放すれば何処か名残惜しそうな声を娘は漏らした。
泥酔したような思考のない顔で己たちの主であるルファスを見つめている。
思わず左腕を伸ばし……そこに在ると改めて確認。
じわじわと腕を取り戻したという実感が満ちていく。
すると。
「…………──ぁ」
ポロポロと涙が零れてくる。
もう二度と両腕が揃う日など来ないと思っていたのに、奇跡が起きたのだと。
そんな少女を見てルファスはしっかりと抱きしめた。
背中に手を回し優しく叩いてやる。
きっとこの娘はされたことがないだろうから。
しかしルファスは少女の親に悪感情を抱く事はない。
ヴァナヘイムは狂っているのだ。
ジスモアでさえ歪められた地で無責任に戦えとは言えない。
「貴女の気持ちは判る。私も運が良かっただけなんだ」
良い出会いがあったからこそ自分は此処にいるとルファスは思っている。
プラン達と出会うというとんでもない奇跡を掴むことが出来た事だけは女神に感謝してもよかった。
「腕は治ったが、心の傷は自分で思っているより深い」
「受けた仕打ちを忘れる事はきっと出来ないだろう。悪夢を見る日もある筈だ」
ヴァナヘイムの天翼族に殺されかけたこともあるルファスだからこそ言える言葉だった。
その上でリュケイオンで過ごした日々から導きだされた万能の言葉を彼女は少女に贈った。
「
ただの少女はにっこりと笑う。
レベルだとか、黒い翼だとか、そんな些事は全て後回しにした笑顔だった。
ヴァナヘイムの話も今となってはただの過去でしかない。
あいつらは嫌いではあるが、復讐なんて全く想いもしない。
そんなことをするくらいならば、明日の献立を何にするか悩んだ方がずっと生産的なのだから。
母がいる。
アリエスがいる。
カルキノスにピオスだって。
今は会えないけど同年代の友達だって出来た。
メグレズというエルフの仲間もいる。
自分を受け入れてくれるリュケイオンの皆たちがいる。
そしてプランがいる。
もう何もいらないと思う程に少女は満たされていた。
彼の命を延ばそうと思う事以外は。
ルファス・マファール。
彼女の人生は今が絶頂期だった。
カチっと、世界の何かが音を立てて起動したことに気付けたものはいない。
女神の法は絶対なのだ。
ルファス。
無意識に理想の指導者ムーブを行う天然。
それはそうと母の懸念通り欲が出てきた。
女神の法。
ミズガルズは問題なく運営されております。