ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
───かつての夫の死を聞いてある女が手向けた花。
竜王によるリュケイオン襲撃から31日目。
アリストテレス卿の葬儀二日目。
式の開催まであと4時間。
ルファスにも一人になりたい時はある。
カルキノスや母、アリエスと共にいる時は心が満たされて暖かい気持ちになれるが、今の彼女はあえて孤独に自分を見つめなおしたいと思ったのだ。
何なら精神を落ち着けて無駄な方向に意識が逸れないようにするため出来るだけ静かで、何の動きもない場所なら最高だ。
暗黒色の世界を見上げながらルファスはずっと物思いに耽っていた。
手ごろな岩に腰かけて吐息を漏らそうとするが出ない。
何なら息を吸う事も出来ないが今の彼女にとっては呼吸など必要なものではないのだ。
宇宙にはマナが満ちている。
ならばマナを支配し愛された彼女であれば問題なく生存できた。
最初の数分はさすがのルファスも暗黒の世界に戸惑ったものだが、それも適応を終えれば苦もなくなる。
マイナス270度であろうと、太陽から吹き付ける有害な光線であろうと、何なら超高速で飛んでくるデブリも今の彼女には何の脅威にならない。
誰にも邪魔されず考え事が出来る場所───それは月であった。
遠くに見える蒼い美しい星はミズガルズ。
こうして見れば綺麗だがあの地では永遠に悲劇が繰り返され続けている。
透徹した瞳でルファスはミズガルズを見つめ、考えていた。
プランに比べれば頭が悪いと判ってはいるがそれでも彼女は全力だった。
レベル1000という強大な力だけを手に入れたルファスは一度立ち止まっている。
かつてはあれだけ望んでいた自由を手に入れた彼女はこれからどうするべきか判らなくなってしまったのだ。
今のルファスは何をしてもいいし、殆どの者は彼女を止める事は出来ない。
だがしかしその結果は無慈悲に追いついてくる事を身を以て知ったルファスは───自由が恐ろしいと思ってしまった。
ほんのちょっと前までならプランという相談者がいた。
彼ならきっと強制することはなくとも今の自分に何が必要なのかを判断し助言してくれただろう。
師は何だって教えてくれた。
【エクスゲート】のみならず天法の知識や医学、剣の扱い方やカルキノスの秘密のレシピなど。
しかしそんな親に保護された子供の様な生き方はもうできない。
彼は、彼らは死んでしまったのだから。
自業自得で大切な人達を失ったルファスが己の生き方を模索するのは当然と言えた。
今まで見てきた尊敬できる大人たち。
プランやピオスにカルキノス、モリアにロードス。
まだまだ大勢出てくるその人たちを自分を彼女は比べてみた。
彼らにあって自分にないものを探して……見つけた。
「足りない」
震動する空気がない宇宙では声は声にならない。
本当にくぐもって微かに聞こえる程度の声量であったがそこには途方もない熱がこもっていた。
「私には全てが足りていない」
知識も経験も技術も人脈も───そして力も。
全く、全然、話にならないくらいに。
結局彼女は
15の夜にそれ以上に尊いモノがあると知り、17の朝に全てを奪われた彼女は心だけでは駄目だと判ってしまった。
想いだけでは、願いだけではミズガルズを生きてはいけない。
自分が死ぬのはまだいい。
しかし己の愚かさのツケを他人に払わせてしまった。
その上で誰もがいうのだ。
“仕方なかった”と。
何と甘い言葉なのだろうか。
これを受け入れれば全て解決だ。
本当は叫びたかった。
かつて実父がプランに吐いたのと同じ言葉を。
何処までも逃げようと血という繋がりはルファスを追いかけて来る。
少しでも気を抜けば彼女は第二のジスモアになりかけてしまうのだ。
『仕方ないだろう』
『動けなかったんだ』
『アレはどうしようもない事だった。私だって頑張ったんだ』
だって仕方ないじゃないか。
だってどうしようもないじゃないか。
ミズガルズに生きる多くの人々が患う病である“諦観”に彼女もまた襲われていた。
いま、ルファスを襲っているのはジスモアの心をへし折り愛する妻と愛する筈だった娘を捨てさせた囁きだ。
甘い誘惑であった。
愛する人を失い傷ついた患部にこれを張り付ければ痛みはなくなる。
そしてやがては麻痺してこれを繰り返す事に何も感じなくなっていくだろう。
世界に蔓延る理不尽を見て見ぬフリをして、自分には関係ない、運がなかった、仕方ないと言い訳をして生きて行くのはどれだけ楽だろうか。
きっとそれは魂が腐り続ける地獄で、その行く末をルファスは実父に見た。
「違う」
「仕方ないわけない」
断言する。
そんな言葉で、そんなもので片づけていい筈がない。
あの人たちほど女神の教えを守って生きていた人たちをルファスは知らない。
自分の願いが届かないのは当たり前だ。
散々に恨み節を吐いたあげく、関わりたくないとさえ思っていたのだから。
都合が悪い時だけ頼ろうとして断られるのは当たり前だ。
だが……あの人たちは?
ずっとずっとアロヴィナスの教えを守り、他者の為に生きてきた人たちは?
この世で最も美しい存在の一つだ。
だというのに女神はそれを救おうとしない。
勇者だけじゃない、あんな風に報われない人たちがミズガルズには数えきれないほどにいる。
そしてそんな不満が爆発しない様に勇者という一時的な処置が繰り返される。
ミズガルズは死に満ちている。
そんな螺旋を作り上げた女神はただ宙の彼方で微笑んでいるだけ。
誰もが絶望と諦観に塗れている。
しかし今のルファスにはそれを弱さだとは思えなかった。
だって、こんなに辛いのだから。
死に勝る絶望と苦痛は確かに存在する。
この世界は残酷だ。
この世界は理不尽だ。
この世界はおかしい。
この世界は苦しみばかりだ。
しかし大切な人と出会えたのもこの世界だ。
醜いだけでは決してない。
辛い世の中を必死に頑張って生きている人たちをルファスは知っている。
そしてそんな世界の犠牲になった気高い人たちのことも。
始まりのアリストテレスを激怒させた悪しき習慣はこのままでは永遠に続く事だろう。
ではどうする?
月の自転が進む。
ルファスの居た暗黒の領域に大気による遮断のない太陽光が照射され気温が一気に300度以上まで上がっていく。
ジリジリと肌が焼かれる痛みを感じながらルファスははっきりと口にする。
「強くなりたい」
レベル1000。
ミズガルズにおいてこれ以上は強くなれないルファスはそう口にした。
“上”を見る。目障りな壁が自分に限界を課している事を彼女は認識する。
少し力を入れるくらいでは決して壊せない概念的なルール。
かつてプランはベネトナシュを0から作り直し、親族の愛を以て最初から撤去するというやり方でこれを超えさせた。
しかしルファスは違った。
傍から見れば何もない暗黒の宙に手を伸ばす。
瞳が昏く輝けばそこにある壁が見え、ルファスの指はそれに触れた。
そも彼女はマナに触れられるのだ。
そしてプランを経由してこの世界を回す法則を幾度も見てきた。
であるのならばそれらを応用すれば法に触れる事も出来る。
理屈など知らない。
道理など知らない。
己がどうするか、何に触れるかは自分で決める。
“出来ると思う事が大切なんだ”
“大丈夫。ルファスは今まで頑張ってきた”
師の教えを思い返しながら実行する。
当然ながら女神の法則は頑強だ。
少し押したくらいではビクともしない。
きっとただレベル1000になっただけのルファスでは絶対に壊せないだろう。
これを砕くのに必要なのはレベルだのステータスだのスキルだのではないのだから。
プランが抑えようとしていたルファスの才能。
女神の法を踏みつぶし、誰よりも果ての果てまで飛翔する才覚。
しかし出来る事とやりたい事は必ずしも同じではないのだ。
ルファスという少女は殺し殺されの世界は向いていないとプランは判断していた。
誰よりも強くなれるかもしれないが、その強さはきっと幸福には結び付かないと。
だがもうプランはいない。
誰も彼女を抑えられない。
そんなことをして何を守れるのさ。
いまさら遅いよ。みーんな死んじゃったんだから!
まーた亡くすだけ! ルファスには何もできない!!
ルファスの心に巣食う亡霊が失敗を囁く。
残骸は月の影の中からじっとルファスを見つめて嘲っていた。
絶対に光の中に入れない彼女は影にルファスを引きずり込むことしか出来ない。
ルファスは影───アン・ブーリン、子隠しを見た。
死してなおミズガルズに残り続ける残骸を新しい魔物は冷たさと哀れみを混ぜ込んだ瞳で見やる。
何よりも黒い翼が広がり影と同化しながら残骸を包んでいく。
───あぁ、そう。せいぜい頑張ってね。
翼に包まれ、マナごと食われながら亡霊は笑う。
彼女は消えるわけではない。
ただルファスという超々高密度マナ圧縮存在の奥底に沈み込むだけだ。
さながら数億年前の地層に埋められるようなものだ。
ルファスがルファスである限り、彼女が己という存在を放棄しない限りは表に出てくることは出来なくなる。
つまりもう二度と彼女はこの世に出てくる事はない。
しかしだ。
それでもアン・ブーリンは諦めない。
今回は駄目だったがミズガルズは絶望に満ちた世界だ。
必ずやルファスは折れると信じている。
誰も女神の法を変える事なんて出来ない。
誰もこの世界から悲しみを消す事なんて出来ない。
絶望だけが永遠に生産されるのだ。
何をしても無駄だ。
ルファスの無意味な願いを嘲笑いながらアン・ブーリンは奥底へ沈み消えた。
黙とうをささげるようにルファスは瞑目し数秒後に瞼を開く。
真っ赤な瞳の中にはプランと共に在りし日の少女としての淡さはなく、この世界の理不尽を弾劾する反逆者としての意思が宿りつつある。
宙を見上げる。
銀河の星々のずっと向こう側に居るであろう存在を彼女は見上げた。
「女神アロヴィナス」
それは愛と美を司る創造神。
この世界を作り上げた偉大なる神。
そんな存在にルファスは問いたい事が出来た。
強くなって。
もっともっと今より賢くなって。
そしていつかそこへと至ってみせる。
私が救われないのは構わない。
私の願いが届かないのは当たり前だ。
だって都合の悪い時だけ祈ったのだから。
だけど──どうして貴女の教えを守り暮らす人たちを救わない?
どうして勇者などという善良な人たちを騙す?
既にルファスは察していた、ナナコがどうなったか。
だって竜王がいなくなり役目もなくなった筈だというのに誰もナナコを帰す話をしていないのだから。
そもそも竜王がリュケイオンに来た時点で───。
つまりまた繰り返したのだ。
ミズガルズはまた異世界の為に戦ってくれる高潔な人を騙して使い捨てた。
どうしてこの世界の苦しみを是正しようとしない?
どうして世界を舞台としてしか見られない?
ピシ……パキ……パキ。
指先で世界にヒビが入っていく。
たった一人の少女が抱いた感情は女神の宙の運行さえ乱す程に純粋で重い。
世界への怒り、理不尽への憤怒、そして己の愚かしさへの絶望。
その全てがアロヴィナスの世界を狂わせるほどの熱量をもっていた。
答えろ。アロヴィナス。
答えなどない。
神はちっぽけな存在の問いになど答えない。
だからルファスは決めた。
「何も言わないのならば、私がそちらに行く」
指先に触れる何かが軋み続け───割れた。
その日、女神の世界を否定する悪魔が産まれた。
ヴァナヘイムの王子メラクはかつてない程に気分が悪かった。
プラン・アリストテレス卿の葬儀も三日目を迎え、多忙の為にジスモア・エノク卿が帰還するのと入れ替わりにリュケイオン入りした彼である。
もともとリュケイオンの周辺のマナの濃度が高いと聞いていたのもあり覚悟はしていた。
しかしマナはそれほどでもなかった。
確かにちょっとばかり眉を顰めはしたがそれでも思っていたほどではない。
問題は彼の取り巻き達だった。
「生意気な劣等種が死んだのは喜ばしい限りですね!」
10年以上もの付き合いになる友人(向こうにとっては)が最高の笑顔で同意を求めてくる。
周りに人が誰もいないことを確認してからメラクは曖昧に笑ってとりあえず頷いておいた。
内心は非常に気持ちが悪かったがここで同意らしい態度を取っておかないと後々面倒な事になると彼は知っているのだ。
気晴らしにこの友人がヴァナヘイムの裏路地で混翼の者を嬲っていた事をメラクは知っている。
指を切り落とし、それをトロフィーか何かの様に掲げて見せびらかしてきた時は吐きそうになった。
「人間の分際で図に乗るからこうなるんだ。天罰だ」
「あいつも狩りの獲物にしてやりたかったんですがね」
違う取り巻きが同じような事を言う。
メラクはまたもや曖昧に笑って頷いておいた。
この友人の趣味を彼は知っており、それを非常に気持ち悪いとは思っていたが決して口にはしない。
メラクは知っている。
この友が定期的に“狩り”と称してヴァナヘイムのスラムに潜り目についた混翼を殺害していたことを。
10人かそこらの混翼の者らを集めてはあえて逃げ回らせ、じっくりと追い詰めた後に甚振り殺すことを楽しんでいたのをメラクは知っている。
アリストテレスの手によってスラムが解体され誰もいなくなったことによりゲームが出来なくなったと嘆いていたのも。
何回かそのゲームに誘われたこともあるが全て断ってはいた。
向こうは「さすがメラク様。クズに割く時間はないのですね」と勝手に感動していたのが唯一の救いだった。
「しかしまぁ、劣等種がうじゃうじゃと」
三人目の取り巻きが吐き気を堪えるように口元を手で覆って周りを見渡す。
人間種の街なのだから人が住んでいるのは当たり前だが、この者にとっては天翼族の同胞以外は全てが虫けらに見えているのだろう。
「特にロードス。汚らわしい耳長まで来るとは」
嫌悪に満ちた顔で吐き捨てる。
エルフという種を理由なく彼らは嫌悪していた。
他の猿と違って明確に天翼族の脅威となりうるからだ。
「更にはおぞましい魔物もどきの吸血鬼共まで。さすがは劣等種の街、動物園と変わらない」
ミョルニルから来訪したロイに対しての寸評である。
もはや人類とさえ認識できない怪物は彼らからすれば魔物の同類だ。
もしも彼らに力があれば今この瞬間にもリュケイオンを吹き飛ばして晴れやかな気持ちになりたがることだろう。
しかしまぁ、と三人はクスクス笑う。
彼らの父はジスモアの派閥に属しており……つまり何があったか知っている。
もうしばらくしたら竜王が帰還し世界全てを灰に返す事も。
まだメラク様には伝えるなと命じられているから何も言わないが、取り巻き達は心からメラクにそれを伝える日が来ることを楽しみにしていた。
きっと自分たちの王子は喜んでくれるだろう。
不敬にもマルクトで自分たちに媚びへつらわなかったあの人間の最期の滑稽な姿のことを聞かされたら。
“勇者の最期は本当に無様でしたよ!”
“手足を切り落とした時には泣きわめいていて傑作だった!!”
“犬でもいたら番わせてやったのに”
“あぁ、面白そうだねそれ!”
ラードゥンの悪意に当てられたのか、それとも元々そういう気質だったのかは不明ではある。
しかし彼らの父は勇者奈々子をラードゥンが殺した時その場にいたのだ。
もちろん助ける為ではなく、嵌める為に。
何なら彼の手伝いをして悲嘆にくれる彼女を散々に罵倒し暴力を振いもした。
あのラードゥンでさえ「いい線いってるね!」と気に入る程の仕打ちであったが天翼族からすればこれは当たり前の事だった。
彼らは同胞以外は基本的に同じ生物としてさえ見ていない。
そんな彼らの次の話題は先ほどメラクを出迎えたルファスという黒翼の少女についてであった。
彼らは口々にこう言っていた。
「劣悪種を見たせいで気分が悪い」
「生きているだけで目障りだ」
「何とかして殺してやろうよ!」
「そういえばあいつの母親も居たな」
「じゃあ、まずはそっちから……」
嘘か本気かは判らないが彼らは本当に楽しそうにアウラの殺害計画について話し始める。
冗談/雑談の延長線上にある話ではあるがそこに籠る熱意は本気であった。
母親を殺されたらルファスがどんな顔を見せるか楽しそうに語り合う。
自分たちにはラードゥンの保護がある、だから気に入らない奴をどれだけ殺そうと何の問題もない。
そもそも黒い翼とソレを産んだアバズレは苦しんで当然なんだから誰も非難などしないだろうという常識が彼らを突き動かしていた。
ちなみに今の天翼族の中ではかつてジスモアの妻だったアウラは不貞を犯した身ということになっている。
どこぞの馬の骨に身体を許したせいでルファスという醜悪な存在が産まれたのだと。
なるほど、それならばルファスの存在は女神がアウラに与えた罰なのだと皆が納得できるカバーストーリーだ。
そしてそういう風にしておけばエノクの面子は保たれる。
悪いのは夫を裏切った女。
ルファスは不貞のせいで産まれた不義の子。
それが今のヴァナヘイムにおけるアウラとルファスの立ち位置だ。
誰でもそういった下世話な話は好物だ。
ヴァナヘイムという閉鎖された土地ではその傾向は顕著になる。
故にプランはあの夜以降は殆どヴァナヘイムを訪れなかった。
僕がおかしいのか?
メラクは一瞬でも油断すれば顔を顰めそうになってしまいながらも自問自答していた。
取り巻きが何を考えているかは読めないが、ある程度は把握できる彼は余りの気色わるい話題に吐き気さえ覚えている。
「…………」
窓の外を見る。
そこに映る太陽の位置からメラクはそろそろだと思い至り立ち上がった。
今回の葬儀に関して彼は父王から命令を受けていた。
次の天翼族の王として各国の王の会談に参加しろと。
特に討議などはしなくていい、とりあえず顔と名前だけは売って来いと彼は指示されていた。
何せ今のリュケイオンには人類の主要な王が殆ど集合している、こんな機会は滅多にない。
「メラク様?」
和気藹々とおぞましい話題について語り合っていた取り巻きの一人が立ち上がったメラクに声をかける。
天翼族の王子はそんな彼にいつも通り曖昧な笑みを向けて言う。
「父上から託された任があるんだ。皆はここでゆっくりしていて」
メラクの言葉に三人が深々と頭を下げ答える。
そこにある敬意と忠誠は何処までも本物だ。
だからこそ質が悪いのだが。
メラクはいつも通りの笑顔のままひらひらと手を振りながら部屋を後にし、廊下を抜けて屋敷の外に出て後ろ手で扉をしめてからほっと息を吐く。
誰にも見られていない事を確認してから改めて彼は脱力した。
正直言って頭が痛かった。
狂っていると一言で切り捨てられればどれだけ良かったことか。
しかし彼は天翼族の王族として将来はああいった者達を支配する身。
自信は余りない上にその前に『試練』もあるが……。
やめよう。
頭を振り彼は父からの命令を遂行する事だけを考えた。
彼は何も知らない。
天翼族が人類共同体と勇者に対し重大な裏切りを働いた事を。
そして彼の父がジスモアと自分を天秤に乗せて己を選んだことも。
ヴァナヘイムへの報復は既に決定事項。
その時どちらをケジメとして差し出すか選択を迫られた彼の父はジスモアを切り捨てる事にしたのだ。
ルファスもメラクも誰も知らぬことではあるが、ジスモア・エノクはあれだけ尽くした天翼族に切り捨てられたのである。
彼と彼の妻、そしてその産まれる筈だった子までも。
「……?」
ふと、何かの気配を感じて視線をそちらに向ければ彼は上空を征く人物……ヴァナヘイムとマルクトで幾度か見た顔を見つける。
輝くような金糸の髪。
深紅の瞳。
そしてこの世の何よりも黒い翼。
マルクトの時より明らかに増した力は非戦闘員のメラクでさえ本能的に悟ってしまう程に巨大だ。
先の取り巻き達はやはり正気ではない。
あんなものの逆鱗を踏むなど冗談ではない。
そして忘れる筈もない。
あの娘はルファス・マファールだ。
どうやら彼女は何かを空輸しているらしくメラクには気が付いてもいないようだった。
此方には欠片も意識を向けていないのに身体が硬くなる。
ともすれば彼女は視線だけでメラクを殺せるかもしれない。
彼女が運ぶ何本ものワイヤーでぐるぐる巻きにされたソレは切り出した原石か。
確か此度の一件で帰らぬものとなった人たちを記録する石碑を作る話があったとメラクは思い出した。
トン単位の物資を運んでいるとは思えない速度で見る見るルファスの姿は小さくなっていく。
結局彼女は最後までメラクの存在にさえ気づく事はなかった。
そんな彼女の姿を見てメラクは決意した。
先に自分の部下たちが言っていたアウラ婦人への計画はもしも本当に画策するのであれば何としても阻止しなくてはと。
キリキリと腹部が痛み始めるがメラクは決意したのだった。
メラク。
知らない間に己の命を天秤に乗せられていた人。
何度も言うが天翼族として彼がおかしいのだ。
下手に行動すれば王子とはいえ只では済まない環境なのを忘れてはいけない。
ジスモア。
結局彼もまた切り捨てられる側でしかなかった。
取り巻きたち。
この少し後に後ろ盾であるジスモア諸共に死ぬ未来しかない。
仮にラードゥンが勝っていても竜王は梯子を外すつもりだったので碌な事にはならないだろう。
そして来週の更新は仕事が入ってしまったのでお休みします。