ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
何とか3部も終わらせる目途が出来た……。
しかして実際問題、状況は最悪だった。
どうあっても、どこからどう見ても詰んでいる。
女神はルファスを排除しようと因果を回し、それに付随してアリストテレス兵器群は宇宙中に起爆装置を仕込んでいる。
「詰んでいる。其方の言いたいことは判る」
ルファス・マファールの言葉は淡々としていた。しかしその背に立つ覇気は少しも衰えてはいない。
朱の瞳は遥か先を見据え、地の果て、空の果て、宇宙の果てで起きている破滅の因果を思索していた。
女神アロヴィナスは確かに因果を動かした。
その目には、もはやルファスすら“淘汰される異物”として映っている。
それは女神の意志であり、それ即ち世界そのものの排他機構としての動作だ。
女神に比べればルファスでさえまだ砂の様な存在だ。
覇王さえも女神の前ではただの駒でしかない。
今はまだ。
女神アロヴィナスがそう望む。
それだけで世界はそうあるように捻じ曲がる。
彼女は全能さえ超えた力を持つ。
一方で、アリストテレス兵器群。
その“代表”である魔女メリディアナは、因果の流れすら見通しながら、宇宙の無数の星々に起爆装置を仕込んだ。
世界全体を一つの生物と見立てて、癌を方々にばら撒いた。
どちらが厄介か。
そんなのは決まっている。
アリストテレスだ。
何故ならばアリストテレスの計画の先に未来はないのだから。
メリディアナという世界に絶望した老婆がくみ上げた破滅への階段は精巧かつ強靭。
如何にルファスが強かろうと今から宇宙に飛び出して行って何光年先にあるのか、そもそも幾つ仕込んだのかも判らない癌を駆除など出来はしない。
覇王は究極の個体である。しかし全能ではない。
ルファスと同じことが出来るの誰もいない。
その当たり前の陥穽を何処までも魔女はついていた。
「っ……まだ終わりじゃありません。ルファス様が仰ったのです。まだ終わってないと」
「そうだ。終わっていない。終わらせなどもしない」
愛する世界の終わりなど彼女は認めないしさせない。
しかしルファスは現実的な考えもできた。
女神を弾劾するのと今目前に迫る世界の終焉を阻止する。
この二つを同時に遂行するのはかなり難しい……いや、無理だと。
しかし、と彼女は前置きをした。
ディーナは参謀。
彼女の頭脳を動かすにはまずは方針を伝える必要がある。
「余の望みは女神を弾劾すること。そしてアリストテレス兵器群を止めること」
どちらもやらねばならない事だ。
だがその両方は、現状の戦力と時間の制約を踏まえるならば。
「だが……同時に行うのは不可能だ」
ルファスは己の限界を認めた。
同時に相手取るのは出来ないと。
二つともルファスをして中途半端な力では勝てない存在だ。
「故に選ばなくてはならない。どちらと相対するか」
アロヴィナスかアリストテレスか。
ルファスはどちらと戦うか選ばなくてはいけない。
言葉は静かだったが、ディーナは胸の奥が軋むのを感じた。
彼女は知っている。
ルファス・マファールという存在が、自らの“限界”を口にすることが、どれほど重い意味を持つかを。
覇王は瞑目する。
浮かぶのは一人の男の後ろ姿。
今まではずっと追いかけていた。
違う違うと教えを捨てようと何処までも影は追いついてくる。
何処まで進んでもプランは佇み、次の行き先を示した看板を手に立っていた。
彼女はプラン・アリストテレスからは逃げられない。
しかしそれでも……本当はよかった。
何故なら彼の技術は間違いなく人々の助けになっていたのだから。
ルファスには出来ない方法でプランの遺志/遺産は人々を守り、その生活を豊かにしてくれていた。
だがもう違う。
恐らくプランにさえ現状は予測出来てはいない筈だ。
何故ならば、兵器群の今の行動は仮にルファスが覇王にならず彼らの庇護対象として生きていたとしてもルファスの身に危険が生じるからだ。
ルファスは断言できる。
仮にこの道を選ばず母や仲間たちと共にリュケイオンで生きていたとしても、己はアリストテレスの提案を跳ねのけると。
ミズガルズを捨てるなど冗談ではない。
「余が相対するのはアリストテレス兵器群だ。
奴らを止めねば、星々は死ぬ。人々は死ぬ。世界が、宇宙が滅ぶ」
そしてアリストテレスの名は最悪の災いとして全宇宙に伝わるだろう。
あらゆる世界を滅ぼす化け物としてアリストテレスは語られる。
いや、そもそも未来が消え去ってしまうことにより誰もいなくなることさえあり得た。
どちらにせよプラン・アリストテレスは史上最悪の虐殺兵器を作った人物として記録される。
あらゆる宇宙における恥さらしとなる。
ルファスは拳を握る。
その手に力がこもると、周囲の空気すら震えた。
そんなこと、絶対にさせない。
「……ならば、まずはそちらだ」
「ミズガルズを護る。それが、余の責務であり、約束であり、願いでもある」
その言葉には、まるで神託のような重みがあった。
覇王の宣言は、世界の運命すらねじ伏せる力を秘めている――そう信じられるだけの確かな“気”が、そこにはあった。
だがその一方で、現実は重く冷たかった。
宇宙のどこにあるとも知れぬ無数の爆弾。
それを設置し、今まさに点火しようとしているのが、あの女――メリディアナでありアリストテレス兵器群だ。
あの老魔女の、慇懃な口調が、脳裏に蘇る。
“どうぞご自由に。私めも自由に致しました”
そして。
───勝利宣言さ。
ディーナの胸中で、その一言が鮮やかに刺さる。
(…………?)
何かが引っ掛かりディーナの思考は微かに止まる。
そもそも先の宣告は必要あったのか。
あれほど緻密に、容赦なく世界を終わらせようとしている女が、どうしてあんな言葉を残す?
効率の権化たるアリストテレス兵器群にこれ以上ないほどに深く接続/同化した彼女がやる行動としては余りに非効率だ。
宣告などせず、黙って起爆すれば、それで終わったはずなのだ。
ルファスであっても、反応が一歩遅れればどうしようもない。
むしろ、宣言があったからこそ、今こうして間に合っている。
小さな違和感だった。だが無視できない“引っかかり”だった。
あの言葉は必要だっただろうか?
魔女とまで呼ばれた女がわざわざルファスを煽るためだけに命の危機を冒してマファール塔までやってくるか?
これではまるで、“時間を与えてやった”かのような。
「気づいたか」
ルファスはディーナの思考を読んだかの様にふっと笑う。
彼女の吸い込まれるような深紅の瞳は遠くを見つめて細められた。
彼女には見えているのだろうか、この宙の彼方にばら撒かれた災厄が。
「これはな、あ奴からの挑戦状だ。止めて見せろと奴は言っている」
挑戦状。
確かにそれは戦術上、愚かな行為だった。
だが、“敢えてそうした”のだとすれば。
「何故そんなことを……?」
メリディアナ。
その名前を繰り返すだけでディーナは苦味を口内に感じてしまう。
全身を殴打された時の痛みは今でも時々幻肢痛の様にぶり返すことがある。
あれほど面と向かって自分の存在を否定されたことなど彼女にはなく、あの憤怒に満ちた声を想起するだけで胸が痛んだ。
自分と女神様、その両者に苛烈なまでの憎悪を抱いている女が一体なぜ。
「さてな。余の考えすぎやもしれん。
だが少なくとも奴は余に何かを期待している……かもな」
それはアリストテレスの計画の支持か。
はたまたその阻止か。
もしくは全く違う第三の、ルファスがその圧倒的な力で全てを平らげる様か。
どれかとまでは判らない。
しかし何かを願われている。
いや、挑発か。
やってみせろ。
そう言っているのだ。
少なくともルファスはそう考えていた。
彼女は今までの経験から推察した彼女について、己の意見をディーナに説いていく。
「あの者は既に自らを人の枠に置いておらん。希望も、痛みも、捨てたと」
彼女はもうアリストテレスに全てを捧げている。
己の命の安否にさえ興味もなく、ただひたすら兵器群の勢力拡大にまい進してきた。
答えながらルファスは考えを纏めていく。
自分で思っているよりもずっと聡明な彼女は今まで彼女について得た情報を整理していく。
あちらがルファスを調べた様に、彼女だって向こうを調べた。
自分の最大の障害について情報を集める。
そんな当たり前のことをルファスは行っていたのだ。
ルファスはゆっくりと目を閉じた。
思考の奥底で、メリディアナという存在の空白を探っているようだった。
「だがな……人を捨てた者が、あそこまで正確に人の心を砕く術を身に付けられるものか?」
強くなりすぎたルファスは弱者の気持ちを忘れつつある。
それに比例してメリディアナは決してソレを捨てはしなかった。
ここでも二人の女は対照的だった。
ルファスはその輝きと発する重力で人々を惹き付ける。
彼女には粗も多いが、それを覆うほどの華があった。
対してメリディアナは華はなく、ただの凡人でしかない彼女にはカリスマなどもない。
ただの凡人だからこそ世界の9割以上を占める凡人たちの気持ちが判るのだ。
メリディアナのやり方は常に大衆を味方につけるものだった。
ゾディアックに築かれた例の魔神族を用いた娯楽施設をはじめとして、彼女は何時も人は何をすれば自分たちに賛同するか知りつくしていた。
彼女がいなければ兵器群はここまで人心を味方につけた大勢力を築くことはなかっただろう。
メリディアナは、ただの破壊者ではない。
壊すだけの存在ならば、ただ暴れれば済む。
彼女は常に冷静で露悪的で、そして献身的だった。
破壊を合理化し、絶望を分析し、“人間”というものの在り方に極端な冷笑を向けてきた。
その癖、どこか人を捨てきれていない。
でなければ先の様な挑発とも激励ともとれる行為を行いはしないだろうに。
全てはルファスの想像、妄想でしかない。
メリディアナが実際に何を望んでいるとは限らない。
本心など誰にもわからない。
だがルファスは一つだけ確かなことを知っている。
ゾディアックをはじめとした各国にある国営の孤児院や魔神族被害者の社会復帰を助ける施設。
そこに匿名で莫大な献金を行っている人物がいることを。
未来を否定した人間としては余りにも矛盾した行為。
されどそれが人なのだ。
矛盾し一貫性のないことをもする。
それゆえに人と人が判り合うのは本当に難しいことなのだ。
だからルファスは堂々と口にする。
彼女はかつての師の様に言葉を巧みに扱い情報を加工するなど出来ない。
彼女が口にする言葉は全てが本気。
やるといったらやる。
それがルファス・マファールが人から信頼を勝ち取る手段だった。
「奴らを止め、ミズガルズの明日を守って見せよう」
そしてプランたちの名前と名誉を汚させはしない。
あの人たちに虐殺者などという汚名をかぶせることは許さない。
決意を口にする主を前にディーナは一瞬だけ見惚れてしまった。
そして……。
「では我が参謀よ。その為の考えを巡らせてもらおうか」
「え?」
まさかの丸投げに姿勢を崩しかけた。
あ、そこで私が出てくるんですねと内心で思いながらも気を取り直して頭をフル回転していく。
いや、参謀とはそもそもそういうものだったのだと考え直す。
(ここで私の出番なんですね)
(───やってやろうじゃないですか)
内心で突っ込みを入れながらも、ディーナはすぐさま思考を切り替える。
そう参謀とは元より、そういう役割なのだ。
どれほど強大な王であろうとも、全てを見通し手配できるわけではない。
王には王の視点があり、参謀には参謀の仕事がある。
決して頭が悪いわけではないが、ルファスはちょっとばかり……力押しに任せすぎる節がある。
ルファス・マファールは最強の力を持つが全能ではない。
彼女には欠点や粗も多く、隙だってある。
だからこそディーナは奮起するのだ。
(ルファス様は戦う者。なら、私はその背を護る者。貴女の影となり道を作りましょう)
アリストテレスにも女神にも負けてたまるかと彼女は奮起する。
自分の役割を、ディーナはしっかりと自覚していた。
だからこそ冷静だった。
彼女は既に用意し纏めていた情報を列挙しどうすればいいか考えていく。
敵は二つ。女神とアリストテレス兵器群。
この怪物たちに絡めとられたアリオト達も敵で、ルファスの配下にも離反者は出始めている。
そして主は兵器群に対して重点的に対処すると宣言した。
あれらを放置しておけば本当に世界を終わらせるからだ。
少なくともアロヴィナス神はミズガルズを滅ぼしはしないが、あれらはやる。
で、あれば彼女のやる事はどうやってソレを成すかの道筋を整えるかだ。
考えて、答えは直ぐに出る。
もはやこれまで。
此処まで崩壊した盤面は一度放棄するしかない。
「ルファス様……正直に言って、今の状況は本当に絶望的です」
淡々という。
悲壮感も何もなくただ事実を列挙していく。
「兵器群もそうですが、女神様も貴女を排除したがっている」
「いや、最悪の場合あの方は貴女を次の駒にしようとさえ思っているのです」
女神アロヴィナスは既に魔神王オルムに飽きた。
自分の脚本は最高だと疑わない彼女であるが、さすがに何万年間も同じ役者を見るのはつまらないと思ってきたのだろう。
それに今回のオルムの失態も重なる。
勇者ではない存在に敗北し、挙句には囚われて魔神族を強制停止させられた。
これには女神も愛想がつきるというものだ。
飽きた。
つまらない。
そろそろ違う人を見たい。
たったそれだけの感慨で女神は月龍を切り捨てるのだ。
彼女は愛着はあれど飽きやすく、新しい物好きだ。
それでいて無自覚な神の傲慢さと嗜虐に満ちているのがアロヴィナスという神だ。
「共倒れを狙うのは女神さまの十八番です。故に貴女は勝利した上で負けなくてはいけない」
「一度表舞台から消えてください。全ては再出発のために」
高みから見下ろすだけの本体が最後の最後で出しゃばってきて総取りする。
それだけは最も避けなくてはいけない事態だった。
ルファスは今この場で完全に勝ってはいけない。
兵器群の計画を何とか阻止できたとしても、はい、次は女神を倒しますと連戦は出来ないのだ。
厄介な兵器群が消えたとなれば嬉々として女神は漁夫の利を狙いだすだろう。
我が本体ながら何と浅ましいとディーナは思った。
人の心を弄び、世界を盤面か何かの様にとらえ、挙句には他者の勝利を横から攫おうとしている。
これを不快だと思うのは当たり前の話だろう。
「致し方ないな」
ルファスは一も二もなく頷いた。
ディーナの言う事は最もだ。
もはや舞台/盤面はぐちゃぐちゃだ、ここからこの状況を整理するのは不可能だ。
アリストテレスによる誘惑と女神の思考誘導が絡み合い、もはや誰が正気なのかさえ判らない。
だがしかし、その前にルファスにはもう一つやることがあった。
ミズガルズを統べる者として彼女は問わなくてはいけないことがあった。
……誰に何を?
───全ての命に対してだ。
「民たちよ。余は問う」
覇王の声がミズガルズに響く。
覇王とアリストテレスの衝突が決定的になり、人々がいつそれが起きるのかと怯えていた時に彼女の声は響いた。
雷鳴にも彼女の声が重く広く大地を揺らす。
もはや退避することもできぬほどに、世界は危機に陥っている。
逃げたい者も、諦めたい者も、皆が立ち尽くし、次に降りかかる運命を待つしかなかった。
アリストテレスとルファス。
この二つの怪物の間で揺れ動く天秤、それが今のミズガルズであった。
それはただの声ではなかった。
神託のような響きを持ち、雷鳴のように世界を揺さぶる。
彼女が声に力を込めればそれは竜王がそうしたように万人の心をダイレクトに揺らすことが出来た。
「アリストテレスは述べた。
この世界には、耐え難き苦しみが満ちていると」
ルファスもそれは否定できない。
彼女の今があるのは運が良かったからに尽きる。
そして彼女の未来を創るために命をかけてくれた人たちがいたからだ。
あくまで静かに、しかし否定もせず認める。
世界は理不尽に満ちているのは本当だ。
自分自身もその犠牲者であったのだから。
「だが……本当にそれだけだったか?」
人々の胸にどこか懐かしく、痛みと温もりの混ざった声が届く。
幼い頃は世界に絶望し、己さえも呪っていた覇王ルファス。
力だけを信奉し、それに縋り付いていた馬鹿な子供。
そんな彼女の憎悪を否定せず、それでいて確固たる己の信念を基に放たれた言葉。
今、その言葉が世界全てに向けて返される。
瞼の裏に一人の男を思い浮かべる。
劇的な別れも何もなく、きっとあの夜に何故か死んでしまった司祭を。
誰もがそのことを口に出さなかったがルファスは気づいていた。
しかしピオスは死んだが、彼の言葉はルファスの中で生きていた。
ハッキリ言ってピオスはプランやベネトナシュ、ルファスといった規格外の存在と比べればモブもいいところだ。
歴史の書物に名前も出ず、あれから260年もたった今ではその名を知るものなど彼女を除けば当時のリュケイオンに住んでいた者達くらいだ。
だが、彼女は忘れない。
この世には間違いなく尊敬に値する真の意味での司祭がいたことを。
「其方達はこのミズガルズに、何の救いも、美しいモノも……。
心を込めて“好きだ”と思えるモノは存在しないと言えるか?」
無数の瞳が、一斉に彼女に向けられる。
世界に苦しみが満ちているのは事実だった。
女神は助けてくれず、時に無慈悲にすら思えた。
薄々誰もが気づいていた。
この世界に救いはなく、ミズガルズの本質は一部のお気に入りだけが栄光を得られる舞台だと。
ルファスの言葉は綺麗ごとだった。
圧倒的な力を持つ覇王が満ち足りた環境の中から世界にはマシな部分もあると語っているだけと取られても仕方ない言論だった。
しかし誰も異を唱えられなかった。
ルファスの放つ圧力に屈したからではない。
彼女の声の中にはどうしようもない実感が込められていたからだ。
ゾディアックの、特に竜王との戦いにおいて彼女がはなった言葉を聞いていた者らは目を伏せる。
ルファス・マファールは最強だ。
しかし彼女はもしかしたら産まれた時からそうではなかったのかもしれない。
「確かにこの世界には苦難が満ちている」
蠍。
魔神族。
魔物。
竜。
そして女神。
あらゆる要素が人々に理不尽を押し付けてくる、それがミズガルズ。
どれほど努力し、希望を繋いできても、次々に襲いかかる“絶望”の連鎖。
それがミズガルズという世界の現実だった。
───それを乗り越えようとかつての彼女の父は夢を抱き追い続けた。
その娘である彼女が皮肉にも実父ジスモアの夢を叶えようとするとは運命とは皮肉が効いている。
「だというのに女神は何も助けてはくれないと叫ぶ其方らの思いは正しい」
彼女はアリストテレスの語る絶望を否定しない。
女神が手を差し伸べてくれたことなど、一度もなかった。
彼女の手を取ってくれたのは善き人々だった。
そして何事にも限度というものがある。
いつ竜王の様な怪物が人々に不幸をばら撒くか判らない世界で神様助けてくれと思う事を誰が責められる?
「だが、女神に甘えるべきではない。」
その瞬間、言葉の温度が変わる。
祈りや依存を拒絶し、立ち上がれと呼びかける。
いつだって覇王はそう振る舞ってきた。
人々よ、逃げるな。
都合のいい管理者に全てを委ねるな。
それはずっと彼女が訴えてきた言葉だ。
「余たちが目指すべきは、助けを待つことではない。
自らの力で立ち上がり女神さえ安心させるほどの強さを得ることだと、余は考える」
ルファスは己の過去と、ピオスの言葉、そして今の世界に生きる全ての人々の姿を重ね合わせていた。
かつては無力で、誰かの救いと優しさに甘えて暴れる事しか出来なかった。
だが、それでも、幾度も何度も、手を差し伸べてくれた人がいた。
母、仲間、そして──プラン。
彼女は語る。
「誰かの加護にすがって生きるのではない。其方らの人生は其方だけのものだ」
自分の人生を生きろ。
誰に強制されるものでもない、自分だけの人生を。
その為に必要なミズガルズという世界は自分が守ってみせると王は己の責務を明かした。
「この世界がどれほど苦しくても、どうか諦めないで欲しい」
それは彼女の最後の願いだった。
ルファスは決意を決めている。
もう間もなく彼女は表舞台から消えうせるのだ。
全ての理不尽から人々を守る。
全ての人たちに平和と平穏を齎す。
その為のルファス・マファール。その為のゾディアックだった。
己の建国した国と統一した世界を捨て去る。
王として覇王はアリストテレスに負けたのだ。
世界に苦しみが満ちているのは事実だった。
無数の瞳がルファスを見つめるその裏で、同じようにメリディアナにもまた、暗い共感の光が集まっていた。
彼女の声は、ルファスの演説の直後に、ゆっくりと、しかし確かな震えと重みを帯びて降り注いだ。
「あたしは、知っておりますとも」
老婆のようなかすれ声は、どこか冷たい夜風を思わせる。
その声に、いつしか人々の心が引き寄せられていく。
「ミズガルズの大地にどれだけの涙が流されてきたか。
どれほどの命が、理不尽に奪われてきたか。
……それを、誰もが知っているのでございましょう?」
彼女は語る。
老いた指先で、かつて自らも泣き、叫び、祈り、そして絶望しきった記憶をなぞるように。
「蠍、魔神族、竜、魔物……
この世界が“苦しみ”で満ちているのは紛れもない現実でございます。」
「誰もが何度も何度も救いを求めました。
それでも、女神は何も答えなかったのです」
その言葉に、人々の中に沈んでいた痛みが、じわじわと浮かび上がる。
数えきれないほど愛する人を失った者。
何も悪いことなどしていないのに、突然家族や友を喪った者。
努力が実を結ぶこともなく、ただ理不尽に苦しみを与えられてきた人生。
彼女の言葉が、胸の奥に巣くっていた「報われなかった感情」を呼び覚ます。
「たしかに、美しいものはあるでしょう。
けれど……ほんの僅かな幸せを得るために、我々はどれほど多くのものを失わねばならなかったのか?」
明らかに採算が取れていない。
1の幸せの為に1万の絶望が積み重なっている。
語りは淡々としている。
だが、その言葉には底知れぬ重みと哀しみがこもっていた。
「我が子を失った母親が、幸福の価値など語れましょうか?」
チリチリと焼け付くような声を絞り出す。
「打ち捨てられ死んだ幼子に、未来が見えたことなど一度でもありましたか?」
ヴァナヘイムの麓、ソドムのゴミ捨て場。
あらゆる所で多くの命はごみの様に扱われてきた。
「私め共はうんざりしておるのです。
苦しみのない世界を求めて、何が悪いのでしょうか?」
その問いかけを否定することは誰にもできなかった。
そして最後に魔女は己の胸中だけでその先の言葉をつづけた。
───これだけの絶望を強いたものに必ずや我々は報復してやりましょうぞ。
夫と息子夫婦と孫。
そして恩人たちを殺された人間の根底にあるのはそれだった。