ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
種族:第八人類/悪性新生物
またの名をカルキノス。
その基本スキル構成は、プランの友であったカルキノスの能力体系を基盤としている。
ただし通常の生命や戦闘存在に当てはめられるレベルや各種ステータスは
そもそもこの存在には成立しない。
仮に無理やり“レベル”という尺度だけを与えるならば、その値は「1」である。
遺伝情報は限りなくディーナと同一。
いわばこれは、最も新しい神の端末であり同時に彼女の双子の妹であり
クローンとも呼べる存在である。
当然ながら、ディーナが扱えるスキルはすべて行使可能であり
彼女が保持する各種権限もまた有している。
本来は、竜王ラードゥンを打倒するために設計された兵器にすぎなかった。
だが開発の途中で、プランが「これは行ける」と判断したことで話は変わった。
以後、各種調整と改良、拡張、再設計やディーナの血の入手などが重なりこうなった。
青の髪が宙にほどけ、重力に縛られぬ光の糸のように揺れる。
彫刻のように整った輪郭、冷ややかな均整の相貌。
だが、その瞳孔は三つ、四つと無秩序に増え、各々が勝手に異なる方向を見ていた。
白目と黒目は反転し、焦点は定まらない。
何も見ていない。何も見ようとしていない。
コレは全てに無関心だった。
さらに、その顔の半分は鳥の骸を模した黒い仮面──【バルドル】に覆われていた。
骸。終りを告げる死の象徴。何よりアリストテレスの象徴。
女神さえも道具でしかないというかの一族の傲慢そのものだ。
「……」
ルファスの眉がわずかに動く。
美と異形が同居するその貌は、ただの怪物ではない。
あまりに精緻な線を持ちながら、同時に不出来なキメラ染みた不協和音を孕んでいた。
メリディアナがかつて手にしたディーナの血。
神の因子を基に組み上げられた女神の模造品。
愛と美の神をおぞましきキメラへと落とし込む不敬の極みだ。
一切の循環を拒み、マナをよどませ、あらゆる存在に浸食と転写を繰り返す。
これは世界そのものの病巣だった。
アリストテレスの世界への拒絶と否定が形になってしまった存在でもある。
孵化した繭の奥から響くのは、無数の蒼い瞳のざわめき。
低い唸り声のようであり、ざわつく潮騒のようであり、しかし意味を持たぬノイズが確かに意志として押し寄せる。
それは幾年経とうと消えずに潜んでいたアリストテレスの女神と世界に対する嫌悪の感情が、現実へと溢れ出した姿であった。
アリストテレスは、女神とその世界を心の底から気持ち悪いと思っていた。
美しいとか、尊いとか、そういう評価の土台へ乗せることすら拒絶していた。
存在していること自体が不快で、視界に入るだけで修正したくなる。
ならば、直せばいい。
直せないなら消せばいい。
歪んだパズルはリセットするべきだ。
そして嫌いだから消す。
それだけの単純さ。
その単純さが、どれだけ世界を壊せるか。
今、目の前の存在が証明している。
女神再現体が、すっと指を空へ翳す。
その動きは静かだった。
静かなのに宇宙全体が軋んだ。
一瞬遅れてルファスは理解する。
今の所作はただの合図ではない。
世界へ命令を送るための、発声器官にも似た動きだ。
“一致団結”
意思は何よりも早く何よりも的確に宙の端まで一瞬で到達した。
声ですらなかった。
言葉という形を取る前に、命令だけが宙の果てまで到達する。
意思は光より早く、熱より早く、あらゆる媒質を置き去りにして宇宙の端々へ走った。
その刹那。
星々の輝きが一斉に濁流へ変わった。
煌めいていた恒星が、まず色を失う。
次いで、中心から黒い病斑が広がる。
まるで熟れすぎた果実が内部から腐り落ちるように恒星の光が死んでいく。
淀み歪んだ蒼い光に代わる。
燃えているのに暗い。
明るいのに濁っている。
炎であるはずのものが、死んだ炎の残滓へ変わっていく。
そして宇宙そのものに流れていた莫大なマナの循環が止まった。
文字通りの天の川は枯渇した。
人間でいえば全身を巡る血液が一斉に停滞したようなものだった。
いや、それよりも悪い。
血が止まるだけなら、まだ死に向かうだけだ。
だがこれはその節理すら許されない。
巡ることを前提にしていた女神の世界の全てが巡らないままそこに強制的に停止させられた。
流れない水は腐るがごとくマナは汚染されていく。
淀む。腐る。腫れる。
転写されたマナ・キャンサーが、そこから爆発的に増殖していく。
濁った空間は震え、渦を巻く。
まず、銀河の群れが引き寄せられる。
星系ごと。まるで見えない糸に引っ張られるように軽々と。
数億光年を隔てた天体群が、ただ一つの意思へ従って縮退を始める。
果てしなく遠くにあるはずのものが、距離という理屈を無視して滑ってくる。
視界の奥で銀河が歪み、その端が引き延ばされ、細い糸のように流れ始める。
【アセルス・アウストラリス】
オリジナルたるカルキノスの「敵対魔法を全て自らに引き寄せる」という単純極まりないスキル。
単純である故に実に解釈の余地が多い素晴らしいスキルだ。
アリストテレスはいつもそこに狂った解釈を押し付けてくる。
つまりこうだ。
「世界は女神の魔法」という認識を持ったマナ・キャンサーにとって宇宙全域は“敵の魔法”となる。
女神の敵である故にこの存在から見れば世界の全てはそう映っていた。
敵である以上は引き寄せてよい。
それだけの狂気じみた論理。
結果、数千億、数兆の銀河が――すべて動き出す。
宇宙の骨組みそのものが、一本ずつ剥がされていく。
銀河はただ位置を変えるのではない。
数万、数十万光年単位で広がっていた恒星系の群れ、その全質量、その運動量、その重力場。
その内部で流動していた莫大なマナの潮流ごと、ひとつの方向へと引きずり込まれる。
まず、名もなき複数の銀河団が崩れた。
通常、数百から数千の銀河が互いの重力に縛られ、数千万年から数億年という時間をかけてようやく形を変えるその集合体がたった一つの意思に従って収束を開始する。
数百万光年規模の構造が、秒よりも短い単位で変形していくのだ。
天文学という学問が積み上げてきた“変化には時間がかかる”という大前提がそこでまとめて踏み潰された。
ある星雲は引き裂かれた。
恒星を生むために数万光年の広がりを保っていたガスと塵の海が
乱雑に千切れ、圧縮され、一本の濁流のように細く束ねられていく。
とある銀河の腕を構成していた数千億の恒星は、まるで砂鉄が磁石に吸い寄せられるみたいに進路を変えた。
今までの軌道を捨てて落下を始める。
恒星一つの質量は、太陽を基準にしても約二×十の三十乗キログラム。
その一つ一つが、本来なら数十億年かけて燃え尽きるはずのエネルギーを抱えたまま、銀河単位で引きずられる。
数千億個の恒星を含む銀河が一つ。
それが数千、数万ではない。
数千億、数兆の銀河が、同時に動員される。
もはや質量という単語が意味を失う領域だった。
宇宙全体の可視物質、暗黒物質、暗黒エネルギー、その全比率すら前提としていた均衡が崩れ
観測可能宇宙の構造そのものが、一つの魔法的解釈のもとで再編されていく。
光の川が、一本の管へ吸われるように収束していく。
銀河と銀河のあいだを満たしていたはずの虚空が縮み、数億光年の隔たりが、たった一つのスキルで折り畳まれる。
よく言うではないか。
強い意志の前に距離など意味がないと。
それを実現しているだけだ。
ルファスが愛し、あの日見上げた美しい夜空はプランの作品である兵器によって無惨に冒涜され凌辱されている。
しかしこれはほんの始まりでしかない。
次に【テグミン】
本来は、防御力を高めるだけの平凡な能力だった。
傷つきにくくする。壊れにくくする。耐久を底上げする。
カルキノスの十八番であり単純故に使い勝手のいい能力だ。
しかし防御力を高めるだけの平凡な能力を、アリストテレスは歪めた。
防御とは密度だ。
壊れにくいとは、詰まっているということだ。
ならば、防御力を高めるとは、密度を増すことと同義である、と。
ゆえに、宇宙全域が圧縮される。
真空は硬質な壁となり、時空そのものが金属のように締め上げられていく。
大規模なブラックホールの特異点を遥かに超える密度が、銀河単位で強制的に作られていった。
開始から数秒。
数万の銀河が「材料」としてミズガルズ星系の空に降り注いだ。
銀河一つに含まれる恒星は数千億。
それらが丸ごと癌に蝕まれ、燃え盛る恒星は光を失う。
そして内部から腫瘍のように膨張した蒼く濁った黒色のマナを溢れさせた。
そして収束。
圧縮された銀河群は拳ほどの大きさにまで凝縮された。
次の瞬間には女神の再現体の頭上に落ちてくる。
星団ごと。銀河ごと。
世界の総体そのものを質量弾に変換する、理不尽を超えた暴挙だった。
音はない。
宇宙は音を許さない。
ただ、空が割れ、光の奔流が千々に乱れる。
女神の模倣体はそれを眺めていた。
無数の眼は珍しく唖然とした顔を晒し硬直したルファスを見ていない。
見守るというには少し違う。
全く楽しそうではない。
観測する、というには関心がない。
ただ、指先の届く場所に落ちてきた玩具を、退屈しのぎに弄ぶ子どものようだ。
何の感慨も見せずに白い指がゆっくりと動く。
ひとつ摘まむ。
ひとつ押し潰す。
ひとつを潰したその指先で、また別の銀河をなぞる。
そのたびに数千億の恒星が潰れ、歴史が圧縮され、光にもならず沈んでいく。
そして女神の模倣体の頭上へ次が、そのまた次が落ちてくる。
小さな塊のようなそれは全てが何処かの銀河をはじめとした星々だった。
花弁でも摘むみたいに、ほんの軽く。
白く細い指が、圧縮された銀河の塊へ触れる。
たったそれだけで、数千億の恒星を内包した質量塊が、やわらかい泥みたいに形を崩した。
こね。
指先が押す。
蒼黒い光が内側でぐにゃりと歪む。
そしてもっと澱む。
女神再現体が直接触れることで更に多量の癌が転写されて発生しているのだ。
こね、こね。
親指と人差し指のあいだで、銀河の塊が伸びる。
伸ばされた内部で、押し込められていた恒星群がさらに潰れ、潰れた光が濁ったマナへ変わり、どろりとした青黒い粘りを帯びていく。
女神の模倣体は、無表情だった。
そこに怒りはない。
歓喜もない。
自分がいま何をしているのかを誇るような色も、ましてや罪悪感の影もない。
ただ作業している。
必要だからやっているだけだ。
粘土を丸めるように。
砂場で泥団子を整えるように。
形が気に入らないから少し押し、少し潰し、少し伸ばす。
その程度の軽さで、彼女は銀河を弄んでいた。
こね、こね、こね。
指が沈むたび、銀河の渦が潰れる。
星系が砕ける。
光年単位の距離が、指の腹の下で紙みたいに折り畳まれる。
それでも、彼女の顔は少しも変わらない。
蒼い髪だけがふわりと揺れ、複数の瞳孔がそれぞれ勝手な方向を向いたまま、ひとつとしてその手元を“見て”いない。
見なくてもできる。
そんなふうに、当たり前の動作としてこね続ける。
こね。
またひとつ、別の銀河塊が落ちてくる。
彼女はそれを受け止める。
受け止めるというより、前の塊へ押しつける。
こね、こね。
二つの銀河が、境目もわからなくなるまで混ざっていく。
恒星と恒星が擦れ合い、惑星の軌道も、積み重なった時間も、全部まとめてどろどろに潰れていく。
小さく小さく星々が練りこまれる。
そうやって彼女は種火を作り上げるのだ。
瞬く間にミズガルズの宙域において女神の手によってビッグクランチの種が編みこまれていく。
現行宇宙を完全に圧縮したのちインフレーションを起こし、マナ・キャンサーは極点の全域に飛び散る気だった。
存在したものは全て癌化し、増殖し、歪み、やがて女神の模造体へと転写される。
黒く淀む蒼光の核。アリストテレスの構造体にした種火。
それは小さな一点に見えながらも、既に数億銀河の死を孕んでいる。
炸裂したら全て終わる。事は宇宙一つの話では終わらない、始まるのだ。
これはルファスへの攻撃ではない。
ただの準備だ。
女神を極点ごと消し去るための前段階に過ぎない。
宇宙全域の縮退と癌化の宣告。
あらゆる生命、文明、銀河の歴史すら「素材」として取り込むための最初の段階にすぎなかった。
同じように宇宙の至るところで異様な変質が起きていた。
次々と銀河がその公転軌道から離れ、それに寄生したマナ・キャンサーによって圧縮されながら彼女に向けて落ちていく。
マナ・キャンサーが翳した指先から放たれた命令は、一瞬にして全宇宙に伝播する。
その号令は光速を超越し、マナを媒体に即時到達する。
サジタリウスの【アルナスル】や【任意コード実行】による転移に【エクスゲート】まで織り交ぜた超長距離への0時間到達理論である。
更に更に更に。
直径十五万光年を超える大銀河が、ひとつ、ふたつ、みっつ……次々と捕縛された。
更に一秒。
凝縮された銀河の数、三万八千。
それぞれが二千四百億を超える恒星を抱え込んでおり、その総質量は10^42キログラム。
凝縮は止まらない。
銀河群は稲妻を纏う暗黒弾と化し、僅か数千キロにまで初期圧縮される。
そのままアリストテレスの構造体に更に更に潰されて練りこまれた。
赤色巨星も、超大質量ブラックホールも、銀河全体の恒星間物質も――全てが「材料」へと手直しされていく。
その瞬間、宇宙に漂う気配が変わった。
真空のはずの空間に引力の風が吹き荒れる。
それは万物を引きずり込み、星も、光も、時間でさえも絡め取る重力の嵐だった。
十二星天においてカルキノスの立ち位置は防御は最高峰だが自分からは攻撃を出来ない存在と思われていた。
もしもマナ・キャンサーの扱うソレがカルキノスと同じ名前だと知ったら誰もが狂乱してあり得ないと叫ぶことだろう。
それほどまでにこの解釈は異常で容赦がなくて、彼の他者を守る力への侮辱であった。
「全ての敵対者の魔法を引き寄せる」オリジナルたるカルキノスのスキル。
【アセルス・アウストラリス】を組み込んだがゆえに、この収束は宇宙全域を対象とする。
出来る出来ないではない、やるのだ。
結果、いまだ膨張を続けていた宇宙は急速にその勢いを削がれた。
赤方偏移は逆流を始め、星々は互いに遠ざかるのではなく、恐るべき速度で引き寄せ合っていく。
一つ二つ、百、千、万、億の星々が重力でぶつかり合い、混ざり合い、癌化したマナに変換されて落ち続ける。
それはまさに世界の終わりの幕開け。
だが同時に女神アロヴィナスも反応していた。
余りに視野が大きすぎる彼女であってもさすがに宇宙を一つ丸ごと弄繰り回されれば判る。
極点で一人の女が目を見開いていた。
もはや彼女の脚本はズタズタ。
自分が力を貸してやった英雄たちが覇王を打ち倒す、そのはずだったのに。
何が起きているのですか?
どうしてこんなことに……!!
あり得ない、あり得ない───!!!
やめてください!!
宇宙を広げるルール。
虚空を満たす拡張の意思。
アロヴィナスはその根源的な力を介して、収束を押し返そうとした。
圧縮と膨張。
二つの宇宙原理が衝突する。
星々が震え、時空はひび割れ、銀河の群れは波のように軋んだ。
それは宇宙が二つに裂かれるほどの激突。
圧縮は止まらない。
数十万の銀河を凝縮した暗黒弾は、なおも次々と数を増していく。
圧縮された質量は10^42キログラムを超え、エネルギー量に換算すれば10^69ジュール。
それはミズガルズ星系を灰にするどころか、銀河団を丸ごと蒸発させる規模に匹敵していた。
やめなさい!! やめるのです!!
やめて!
やめてッ!!
やめろォォ────!!!
女神は極点で叫んだ。
これをこのまま放置してはいけないと彼女は悟り、自分の出来る最大限の干渉をミズガルズに行う。
女神の世界は抗った。
全て計算通りに。何ともわかりやすく。
膨張こそが宇宙の法。その力が増した。
あらゆる銀河を引き離し、時空を広げ続けるその力は、神の敷いたルールそのものだ。
マナ・キャンサーの収束命令が広がると同時に、女神の律は逆流する奔流を叩き返す。
宇宙の片隅で汚染を逃れた星々が遠ざかり続ける。
光は赤く引き延ばされ、真空の暗闇に新たな泡宇宙が芽吹いていく。
膨張と収縮――二つの世界原理が互いにせめぎ合い、均衡を作り出していた。
その均衡は一見すれば拮抗に見える。
だが、違う。
マナ・キャンサーの圧縮は、重力のように密度が増せば増すほど力が増大する性質があった。
最初は小さな歪みにすぎなかった圧縮が、銀河を数千、数万と呑み込むごとに加速度的に増していく。
それは単なる足し算ではなく指数的な増殖だった。
一つの圧縮された銀河が次の銀河を飲み込み威力が増す。
軌道にあるすべての物質や粒子やマナを絡めとりながらミズガルズに向けて落ちていく。
女神の膨張律は必死にそれを押し返そうとする。
時空の織り目を繕い、歪んだ宇宙を修正し、崩壊を先送りにする。
しかし、膨張はあくまで「広がる」力であり「収束」という一点集中の暴力には相性が悪かった。
圧縮の力が一度拮抗した瞬間、宇宙は震撼する。
銀河群は波打つように震え、恒星はその表層を剥がされては闇に吸い込まれていく。
中性子星も、ブラックホールすらも、重力と引力の底へと絡め取られていく。
何より物質とマナに宿る癌が自分の意思で結合を続けているのだ。
自然の成り行きではなくはっきりとした悪意による勢いは女神のソレを上回る。
収束の中心にある女神が練り上げた中央合流地点である「種火」は、ますます小さく濃密になっていく。
一定以上の質量を織り込んでしまえば後は自重で更に更にと勝手に潰れていく。
重力とは便利なものだ、しかし決して暗黒天体程度にはさせない。
肉眼で見えぬほどの極小へと潰れ続ける。
ディーナの持つ時空操作の力を用いて重力崩壊を防いでいるのだ。
それでもなお女神の律は抗い続けていた。
圧縮されるほどに強くなる収束。
それを分かっていながら、なお膨張の意思は世界を広げようとする。
いや、いやぁぁ!!
誰か! だれか!!!
誰か何とかして!!
まさに宇宙規模の綱引き。
誰もが息を呑む中、均衡はゆっくりと、しかし確実に、マナ・キャンサーへと傾き始めていた。
圧縮は止まらない。
膨張も止まらない。
二つの律が互いを削り合い、宇宙は悲鳴を上げていた。
光はねじれ、波長は千切れ、銀河同士が引き裂かれながらも無理やり押し潰される。
見上げれば蒼い天蓋は不気味に脈打ち、星々の位置は次々とずれ、幾何学模様のように配置を変えていく。
世界そのものがひしゃげ、息を吸うだけで魂が擦り切れていく。
その渦中にあって、冷徹な事実が叩きつけられた。
兵器群の無機質な声が宇宙全域に響き渡る。
≪臨界予測、残り時間……六百秒≫
≪収束優位、膨張律との均衡崩壊を確認≫
≪カウント開始≫
その内容は簡潔にして残酷だった。
あと10分。
もしその間にマナ・キャンサーを討ち果たせなければ、全宇宙は完全に「無」に帰る。
ただの崩壊ではない。
極点に座す女神を葬るためにこのおぞましい癌化したマナはあらゆる世界に飛び散り、そこで増殖を繰り返すことになる。
全多次元宇宙を舞台にした播種性転移だ。
種をまくようにソレは女神の身体ともいえる極点を汚染していくだろう。
その始まりが今正にここで起きている。
ミズガルズの空に走る蒼光は、もはや星の輝きではなかった。
それは死の時計針。
一秒ごとに暗黒の引力は増し、星雲は潰れ、恒星は白色の火花となって崩れ落ちる。
「……六百秒、か」
ルファスは呟いた。
余りに壮絶な光景と所業に彼女であってもほんの数秒ほど固まってしまっていた。
たった数秒でこの宇宙は余命10分になってしまったが、ルファスは諦めない。
だが声音には怒りも嘆きもなかった。
ただ、絶対に成し遂げるという揺るぎない確信だけがあった。
母。リュケイオン。
ゾディアックに十二星天。
いや、このミズガルズという世界そのものの命運はここで決することになる。
ルファスが敗れれば全て終わり。
逆にあと10分でマナ・キャンサーを倒せば明日はやってくる。
たとえその中に自分が居なくともだ。
すべてを守るために。
そして女神の座さえも呑み込もうとする、この癌化した模倣体を必ず討ち滅ぼすために。
彼女の象徴たる黒翼が広がる。
世界そのものに宣言するかのように力強く一対の翼は戦慄いた。
一方、地上におけるゾディアックと兵器群の戦いは十二星が奮戦しているのもあってアリストテレスは圧されていた。
上空を自由自在に飛び回るユグドラシル級に攻撃が集中し、徐々に欠損が広がっていく。
翼の生えた巨大な木魚という奇妙な姿をした人工木龍ユグドラシル級の身体にまとわりついた【メサルティム】は容赦なくこの世で最も尊い木種を焼き尽くす。
黒煙を吹き出しながら悶えつつ飛翔を続ける個体の顔面にタウルスがサジタリウスとの連携によって【アルナスル】で転移し、その顔面に拳を叩き込む。
衝撃が一瞬で頭頂部から尻尾の端まで伝わり、木龍の巨大な身体は連鎖的にはじけ飛んだ。
轟音と共に一機のユグドラシル級が落ちてくれば、ゾディアックの兵たちは歓喜の声を上げた。
墜落した個体に途端に群がるのはポルクスのアルゴナウタイたちだ。
己たちの天敵だと認識している故に、隙を見せた瞬間を逃さず再起不能になるまで念入りに無数のスキルと魔法を叩きんで粉砕しておく。
戦況はわずかながらも確かに優勢。
その錯覚が兵士たちの胸に芽生えた。
兵器群の作り上げたおぞましい存在の数々。
その中の一つであるユグドラシル級を退けられるかもしれないという希望。
しかし――それは甘美な幻想にすぎなかった。
軋む音がした。
乾いた木が裂ける音ではない。
天地そのものが重みに耐えかねて鳴くような、嫌な響きだった。
アリエスはすぐに異変を察知した。
彼ほど戦場で敵味方を観察するものはいない。
故に彼が一番初めに気が付いた。
「……まずい、集まってる」
彼の小さな呟きは、どこまでも冷たい確信を帯びていた。
上空で、いまだ残っていたユグドラシル級たちの巨体が絡み合っていく。
幹と幹が結び、枝と枝が抱き合い、翼と翼が溶け合い、ひとつの塊となる。
それは単なる合体ではなかった。
形を変える。
意志を持つように変質していく。
徐々に浮かび上がるのは「人の姿」だった。
それは祈りの姿を捧げていた。
両の脚。
背の柱。
そして光輪の如く背負う無数に生え広がる両腕。
天を突き、空を覆う、超巨大な木像。
合掌する手はまるで祈るようだ。
その顔は表情を持たず、ただ木目と割れ目だけが走る仮面のような相貌。
そして背後に蠢くのは、数え切れぬほどの腕。
千、万、いや十万。
大樹を支えていた枝が、全て「腕」に変わっていく。
夜空が埋め尽くされる。
星は隠れ、月は翳り、大地に落ちるのは光ではなく木の影。
戦場全体を覆い尽くす木像。
救済の神を模したそれは、しかし慈悲の顔を持たない。
ただ機械のような精度で「殲滅」を実行するための姿だった。
虹色羊の弱者としての本能が最大級の警報を鳴らした。
彼は叫んだ。
「皆!! 大きいのがくるよ!!!」
その次に動いたのは身を以てアリストテレスの無慈悲さを知るアイゴケロスだった。
彼は無言でこの戦いの要であるパルテノスを庇う位置に陣取り全力で【デネブ・アルゲティ】を行使し黒い炎で自分とパルテノスをすっぽりと覆う。
魔王は呻きを漏らす。彼には新しい切り札がある。ルファスにさえ見せていない切り札が。
いまだ未完成で制御に難がある故に主に見せるに値しないと考えていた。
それをいつ切るか考えながら、魔王はユグドラシル級の行うであろう暴虐に備えた。
次に反応したのはサジタリウスだ。
彼は冷や汗を流しながら、最初から決められていた撤退位置に向けて【アルナスル】を撃ち込み、それによって転移して大きく距離をとる。
遠距離からの狙撃と補佐を担当する彼は接近されたり危害が及びそうになった場合に備えてこの手の避難箇所を幾つも用意していた。
「来るッッ!!!」
アリエスの喉がつぶれんばかりの叫びにハッとした様子で十二星、あのレオンさえ無意識で身構えた。
そして天を覆う木像が、幾千幾万の腕を振り下ろした。
余りの拳速に、誰もが残影も認識できないほどの拳たち。
【流星拳】
ルファスが使う【流星脚】の対となるスキルが発動した。
拳が降る。
拳が降る。
拳が降る。
一つ一つの拳が山を抉り、大地を沈める。
都市を覆う規模の衝撃が、矢継ぎ早に、連続して、戦場全域へと振り下ろされた。
戦場にいた者たちは、誰一人としてその全てを見切れなかった。
一撃で山脈が反転し、地平が崩落し、空気そのものが圧縮されて衝撃波となる。
地上を覆う英雄たちの陣形は、まるで紙細工のように引き裂かれていった。
ゾディアック軍。
ルファスの旗の下に集った最高峰の英雄たち。
彼らの一人ひとりが、かつてならば国家を救うほどの存在。
彼女と共に竜王軍との戦いに参戦していた古強者たち。
そしてポルクスが呼び出して使役する過去の英傑ら。
だが今、この戦場では彼らですらただの塵と化していた。
百戦錬磨の騎士、超常の術師。
神話級の猛者たちでさえ、この嵐の前では防戦一方となる。
全てルファスが果実を配布し、レベル1000へと引き上げられた者らだった。
彼らはレベルだけに甘えずしっかりと鍛錬と経験を積んだ強者といえるものらだったのだが……そんなものに意味はない。
努力も、工夫も、意思も、願いも。
全てを平等に木像の千手は耕す。
大盾を掲げた守護者がいた。
彼の防御障壁は七重にも及び、幾多の大魔法やスキルを退けてきたはずだった。
だが木像の腕は、その全てを瞬時に粉砕し、英雄を地に叩き潰す。
剣を振り上げ、天空を斬ろうとした誇り高き剣士がいた。
その刃は確かに枝の一本を断ち切ったが、次の瞬間に十を超える拳に押し潰され、地面ごと消えた。
咆哮を上げて立ち向かった獣人の戦士がいた。
肉体を極限にまで高めた猛攻は、確かに木の肌を抉った。
だがその攻撃が届いたのは一瞬。
次の瞬間、数百の拳が彼の身体を叩き潰し、大地へと押し込めた。
戦場はもはや大地ですらない。
拳が落ちるたびに大地は陥没し、岩盤は砕け、地下水脈が破裂して黒い水柱を吹き上げる。
戦域全土が泥と瓦礫に変わり、英雄たちは立つ場所すら失う。
数百の拳が同時に降り注ぎ、数十の英雄が同時に絶命する。
鎧ごと肉体が潰れ、武器は粉砕され、輝かしき名もまた土に還る。
勇猛果敢に戦いに挑んだ者の血肉は、ユグドラシル級の体躯へと吸収され、木像をさらに強靱に育てていった。
それは「救済」を名乗る無慈悲な収穫だった。
だが――十二星天はまだ屈していなかった。
アリエスの両腕に燃え上がる虹炎。
【メサルティム】と呼ばれるその力は、赤でも青でもなく七色の光を放ち、拳の奔流を弾く。
そのまま最低限の動作で拳と拳の間にある隙間に身を潜らせて回避し続ける。
「全部を防ごうとしちゃだめだ!! しっかり見て避けるんだ!!!!」
「これは無差別に攻撃しているだけ!!! やることは何時もと変わらないよ!!!」
しっかりと見て、自分に当たりそうな攻撃だけを回避する。
下手に守ってばかりだと次から次へと飛んでくる後続に押しつぶされるだけ。
大声でこの凄まじい拳の豪雨に対する最適解を叫んで仲間に伝える。
声は少年のように澄み、だが意思は鋼のように硬い。
振り下ろされた十数の拳が虹炎に焼かれ、樹木のような腕がねじ切れて炭化する。
そうやってできた隙間に仲間を迎え入れ、この暴虐が終わるのを待つ。
しかしユグドラシル級には確たる知性がある。
その様な安全位置など許すはずもない。
悪辣なのはあえて暫くそこを攻撃せず、安全だと判断した者らが集まってきたら猛攻を加え始めたことだろう。
堕ちる無数の拳。
ルファス・マファールのソレを再現するべく振るわれるソレは正しく空から落ちてくる鉄槌だ。
「おぉぉおおオォオオオオ!!!」
タウルスは血を吐きながら巨腕で拳を迎撃する。
ドン、という重低音と衝撃が数十キロに拡散。
負けたのは───砕けたのはユグドラシル級の方であった。
パァンと連鎖的に破壊が突き進み、腕が一つ根元からはじけ飛んだ。
十万ある内の一つが消える。
割合だけ見れば小石一つにもならない。
もちろん彼もただでは済まない。
皮膚は裂け、骨は悲鳴を上げる。
それでも一歩も退かず、ただ仲間を守るために踏みとどまる。
パルテノスの補助を受けた彼は全身全霊で拳をはじき返し続ける。
一つ、二つ、三つ、十、二十と腕を壊すたびに彼の身体も同じように壊れ続ける。
しかし彼はそれでも決して退かない。
何故なら、宙のかなたで彼の戦友───ルファスがもっと邪悪で強大な存在に立ち向かっているからだ。
カストールとポルクスもまた、戦場の中心で踏みしめていた。
だが彼女たちの状況は他と比べて頭抜けて残酷だった。
召喚された英霊たちは次々に砕かれ、踏み潰され、無へと還っていく。
そのたびにポルクスの胸は痛み、心臓を針で刺されるような苦しみが走る。
彼女を守るためにひっきりなしに英霊たちは死と蘇生を繰り替えす。
呼ぶ。
死ぬ。
拳の直撃を受けて四散した手足が宙を舞う光景をポルクスは見た。
呼ぶ。
死ぬ。
グチャァと嫌な音と共にポルクスの眼前で英霊が地面と平行になるまで圧縮された。
呼ぶ。
また死ぬ。
ポルクスを守るために何人もの英霊が人の盾となっていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんな、さ、い……!!」
しかしアルゴナウタイの召喚は絶対にやめない。
いま自分が死んでアルゴナウタイが消え去れば待つのは兵器群の物量に押しつぶされる未来だけだ。
過去例を見ない程に全力で英霊の軍団を運用している現時点で不利なのだ、そんなことになれば仲間は確実に皆殺しにされる。
だから彼女は身を削る思いでスキルを行使し続ける。
たった一瞬だけ時間を稼ぐために、自分の命を繋げるために。
自分の為に他者に死を強制し続ける。
何、いつものことだ。
ちょっとばかり消費の速度が速まっただけ。
そういう風に壊れられればどれだけよかったことだろうか。
カストールに守る様に抱きしめられながらポルクスは嗚咽を漏らし続ける。
奥歯にひびが入り、身体を構築する天力が軋むが……それでもだ。
「忌々しきアリストテレスぅ……!」
そして、魔王アイゴケロスは憎悪と憤怒と微かな畏怖と敬意の混ざった声でアリストテレスの作品を見上げてうめき声をあげていた。
全くなんとおぞましい。何と無慈悲で残忍で凶悪なのだ。
魔王たる彼から見ても実に素晴らしい。
だがその評価はこれが敵であるという前提の前に全てが反転する。
「とうの昔に死した者が我らの覇道を妨げるでないわ!!」
彼が守護する戦場の要であるパルテノスは度重なる大規模な天力の同時かつ連続行使で少しずつ弱り始めていた。
既に開けた【エリクサー】の数はタウルスさえ超える程であり、もう間もなくかの薬品は底をつく。
そうなれば周囲を覆っていた天力と魔力による【エクスゲート】妨害用の結界は解除され、始まるのは弾道ゴーレムの飽和爆撃による処理だ。
いや、その前に天法による加護がなくなった十二星天が兵器群に踏みつぶされて終わるだけかもしれない。
彼はその前に決断をしなくてはならない。
『しっかり稼働すればずっとルファス達を守ってくれる頼もしい奴らさ』
byプラン・アリストテレス。