ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
きっとこれくらいは出来る筈。
色々と修正していたら更新が遅くなってしまった……。
滾りに滾った膨大な魔力は今にも暴発しそうだが、それをパルテノスの天法が縛り付け制御を与える。
魔王は遂に稼働を開始した己の新たな力を軽く振るう。
人型の山羊としか評せない今の彼の身長は3メートルほど。
過去に見せていた全力の形態に比べればあまりに矮小な体躯。
しかし内包する力は隔絶している。
レベル2100。
ちょうどルファスの半分。
それが今のアイゴケロスの力だ。
覇王の影にして彼女という希望を信仰するアイゴケロスはこの形態の名を【アルシャラ】と名付けていた。
巨大化形態──【アルシャト】を経てルファスという希望を見出し手に入れた新境地という意味だ。
彼は大きく息を吸い込んだ。
胸腔を焦がす膨大なマナは、暴風のように暴れ狂い
いまにも四肢を内側から爆ぜさせようと蠢いている。
だが、それを許さない様に乙女の天力はマナを強く縛り付けている。
(思えば遠い所に来たものだ)
地の底から始まった生命はヘルヘイムの王に至り、アリストテレスに踏みにじられ、竜王に挫折を味合わされ、果てにここに至った。
偉大なる覇王の道を敷く先ぶれ、それが今の彼だ。
圧倒的な力を手にしてもなお、アイゴケロスは冷静だった。
暴発しようとする奔流を掌で押さえ込む。
制御の網で縛りつけるように深く、深く呼吸を刻む。
肺に収めた息は、ただの空気ではない。
それは数度の敗北と、二度の屈辱と、覇王への信仰を練り上げた祈りそのものだった。
胸の奥を満たすのは二つの軸。
一つは――覇王ルファス・マファールへの信仰。
その背中を追い、彼女を讃え、彼女の歩む覇道を一歩でも近づくための憧憬。
もう一つは――忌まわしきアリストテレスへの敵意。
自らを「父」と名乗り、あまつさえ神の座を願う不浄の存在。
いまもなお、あの怪物が生んだ兵器群が覇王と彼の歩む道を阻んでいる。
断じて許せなかった。
アリストテレスの在り方もそうだが、心のどこかで一度は奴らに屈した自分がいることを。
信仰と怨嗟。
その両極を軸として、魔王は二枚目の壁を踏み破った。
「小さくなった……?」
ゾディアック軍の中の誰かが今のアイゴケロスを見て呟く。
基本的に魔王は戦闘時に力を解放するごとに巨大化していくというのはゾディアックにおける常識であった。
しかしあの姿は全くの逆だ。
かつて山脈を思わせる巨体を誇っていた魔王は、ただ三メートルの細身に圧縮されている。
だがその身に凝縮された力は、かつての「巨」の定義を嘲笑う。
圧縮と研ぎ澄まし。
それこそが敗北を経て辿り着いた新たな強さ――【アルシャラ】だ。
翼がひるがえる。
月のマナを高濃度に凝縮した暗黒の羽が、虚空を切り裂き噴出する。
正しくその後ろ姿は覇王ルファス・マファールを想起させる。
空気を裂く音はない。
ただ視界が、世界が、全て置き去りにされる。
アイゴケロスは飛んだ。
鬱陶しく蠢く木像――ユグドラシル級。
まずはあの樹木の怪物を屠ると、ただ一つに決めて。
景色が消える。
星も大地も、血煙すらも、瞬きの間に背後へと流れていく。
あまりの速度に、誰も彼を視認できない。
視界の奥に、亡霊の声が蘇る。
――“我々を父と呼んでもいいのだよ?”
アリストテレス卿。
あの薄気味悪い声。
虚ろな笑みと中身。
死んでなお世界に牙を立て続ける異物。
魔王の牙を折り、嘲弄し続けた最悪の人でなし。
奴らの悲願である女神世界の否定はいま、宙一面に広がりつつある。
――“ぎゃははははは!! ざぁこ!! ざぁぁぁぁあこ!!”
竜王ラードゥン。
勇者の位階を持つミズガルズの作り上げたバグ。
最強と恐れられた竜族の中にあってなお壊れ果てた領域の力を振るう外れ値。
しかしてその内面は純粋にして絶対の悪性を孕んだ幼子の如く。
子供が虫の手足を千切る様にミズガルズの全ての生命を弄び踏みにじることに全てを捧げていた正真正銘の外道。
ケタケタと常に口から出るのは意味を持たぬ狂笑だ。
いついかなる時でも己が絶対の上位存在であり、この世の全ては自分が踏みにじるために存在するのだと疑わない嘲笑でもあった。
じくじくと屈辱が疼く。
しかし魔王はそれを振り払い翼を大きく震わせて更に加速を得る。
記憶がざわめくたびに、翼は更に速度を増す。
もう二度と屈辱は繰り返さない。
覇王と共にある今の自分は、過去の骸に怯える存在ではない。
アリストテレスもラードゥンも死んだ。
もう居ないのだ。
その最後がどうであったかはアイゴケロスには判らないが、大方禄でも無いことをしたのだろう。
アイゴケロスは残像を振り切った。
亡霊どもに背を向け、ただ前だけを見据えた。
眼前に映るのは神を気取るユグドラシル級。
千手を超える腕を蠢かせる木像が猛烈な勢いで迫る。
後光の如く束ねられていた手が輝きを放ちながら稼働を開始。
一斉に襲いかかる拳は十万。
それはまるで戦場全域を覆う豪雨のような暴力。
大地を穿ち、空を砕き、光すら潰して押し寄せる。
普通ならば抗うことさえ不可能。
だが。
アイゴケロスは二本の腕を構えただけだった。
もしもこんな時、彼の敬愛する覇王ルファス・マファールならばどうする?
撤退する?
それとも旋回して隙を探す?
もしくは回避に専念する?
否。
彼が信仰するルファスはそのようなことはしない。
故に彼はルファスがするであろう行為をした。
この身をもって偉大なる主の栄光を知らしめるために。
真っ向からねじ伏せる。
それがルファスの在り方だ。
「……」
一瞬、時間が止まった。
神を騙る十万の拳と、魔王の二つの腕。
天秤にすらかける価値もないはずの比率。
しかし、次の瞬間に崩れたのは木像の側だった。
黒き腕が閃く。
木人の拳が粉砕される。
次々と、次々と。
歓喜するように魔王は吠えた。
「見るがいい!!! これが力だ!!!」
巨拳は砕かれ、折れて弾け飛んでいく。
余りの高速の行為故に音はない。
ただ衝撃が戦場を震わせる。
十万を超える衝撃が、たった二つの腕で押し返されていく。
誰もが目を疑い、息を呑み、呆然と立ち尽くす。
特に十二星天の同士は茫然とソレを見ていた。
獅子王だけがギリと歯を噛みしめる。
魔王は吸血姫にも届く速度で肉薄していた。
木像の胸板に迫り、拳を振り上げる。
その姿は――覇王の模倣。
ルファス・マファールが幾度もそうしてきたように彼もそうする。
アイゴケロスは迷わなかった。
信仰と怨嗟を一つに込め、拳を振りぬいた。
轟。
大気が焼け、虚空が悲鳴を上げる。
ユグドラシル級の巨体は、その拳で打ち上げられた。
山脈さえ超える巨木の巨像が、まるで紙切れのように宙へ舞い上がっていく。
魔王は見上げた。
かつての敗北を乗り越えた自らの新たな力を確かめるように。
その眼光には、過去を振り払った者だけが宿す研ぎ澄まされた光があった。
宙に舞う木像。
ユグドラシル級の巨体が、アイゴケロスの拳で空高く打ち上げられていく。
冗談みたいな光景だが、ミズガルズではよくあることだ。
その姿を見上げる魔王の口元が、ゆるやかに裂ける。
彼は笑っていた。
凶悪に、醜悪に、満足げに。
「アリストテレスぅゥ……!!」
歓喜で顔はふるふると震え、口元には「ニィィィ」と壮絶な笑みが張り付いた。
黒炎が噴き出した。
両肩から、口腔から、爪の隙間から。
まるで体内を焼き切るように、漆黒の炎が溢れ出す。
デネブ・アルゲティ。
癒しを拒み、回復を阻害する呪詛の炎。
その本質は焼却ではない。
ただ相手の存在を否定するための絶対的な呪いだ。
更に突き詰めていけば天力に対する根源的な攻撃でもある。
魔王の拒絶が形になったようなソレはマナ・キャンサーとは違った方向性で今の世の構築要素を否定している。
炎は形を変えた。
液体のように滴り地に落ちる前に蠢く。
分裂し、節足を生やし、翅を伸ばす。
アリエスが仲間たちから多くを学ぶように彼もまたアリエスから学んでいた。
虹色羊の放つ【メサルティム】は様々な形状に変化することが有名だ。
時には剣の様に固定され、時には液状となり、時には鞭にもなる。
ただ炎として扱うよりもはるかに多彩な技と応用をアリエスは見せていた。
ソレを見てアイゴケロスは純粋に「素晴らしい」と評価し模倣することにしたのだ。
彼がアイゴケロスの分身をまねしたように彼もまた同士の長所を己に取り入れていた。
そして彼は魔王である。
マナへの理解と魔力の操作は十二星天の中でも抜き出ている術者だ。
そんな彼がこの発想に至るのは当たり前の帰結なのかもしれない。
マナに疑似的な生命を与える。
そう、アリストテレスが兵器群でやったように。
ルファスが狼の形状をした新たな生命を作ったように。
魔王は魔王のやり方でその次元に己の力を届かせた。
偉大なるルファスは雄々しく美しい白狼。
で、あれば魔王にはこれこそが相応しい。
キチキチキチ……。
それは虫だった。
いや、正確には虫の群れだった。
黒い炎が地に落ちる前に形を変え、ぞろぞろと這い出していく。
燃えているはずなのに、熱をまるで感じさせない。
むしろ光も熱も拒むような、影そのものが虫の形を取ったような異様な群れだった。
数息のうちに、その数は数百、数千、さらに万へと膨れ上がる。
あっという間に空が黒く埋まり、無数の翅が震える音が戦場全体に広がった。
耳障りな羽音だった。
甲高く、不快で、本能の奥をじかに引っかくような音。
理屈ではなく生理が拒絶する。
見ていた者たちは、友軍であるゾディアックの面々でさえ思わず顔をしかめた。
吐き気を堪えるように口元を押さえる者もいれば、無意識に一歩後ずさる者もいる。
勇者や英雄であろうと、虫への嫌悪は人の本能に根差しているのだ。
イナゴの群れは空を埋め尽くしたまま、打ち上げられた木像へ一斉に殺到した。
バリバリ、ガリガリ、ズシャリ。
巨木の腕が食い破られる。
節が砕け、樹皮のような装甲が剥がれ落ちる。
こじ開けられた裂け目から、黒い群れはさらに奥へ、奥へと潜り込んでいった。
木像は呻き声ひとつ上げない。
ただ腕を振り下ろし、群れを払い落とそうとする。
しかし、その拳は空を切るばかりだった。
群れは炎であり、呪いであり、そして小さな虫でもある。
集られれば殴っても、焼いても、払い落としても止まらない。
隙間を見つけては潜り込み、内側から抉り、削り、食い荒らしていく。
それはまるで、現実の木が害虫に食われて中から枯れていく光景を、そのまま巨大化させたようだった。
黒炎のイナゴたちは、ただひたすらに「生命」を拒絶していた。
その呪いはアリストテレスの加護さえ蝕み、ユグドラシル級の巨体を確実に侵していく。
そんな群れの中心にあっても、アイゴケロスは静かなままだった。
限界を超えた力を手にしてなお、暴走する気配はない。
高まった力を見せびらかすように無駄に振り回しもしない。
何故なら、ルファスが「やめろ」と命じているからだ。
だが、それがどれほど危うい均衡かは誰の目にも明らかだった。
黒い蝗の群れは、主がひとこと命じるだけで戦場全体に広がりかねない。
国も、都市も、人も、一瞬で食い潰せるだけの力をこの群れは秘めている。
十二星天の大半に言えることだが、彼らはルファスの味方ではあっても人類の仲間とは限らない。
魔王はその典型だった。
今は木像/ルファスの敵だけを喰っている。
だが、その危険さは一目で分かる。
ルファスが警戒しているのも当然と思えるほどに邪悪で、制御を失えば取り返しがつかない力だった。
やがて木像の表面が大きく剥がれ、内部に秘められていたアロヴィタイトの光がちらりと覗く。
その瞬間、群れはそこへ一斉に殺到した。
ガリッ。
ガガガ……ッ。
神の奇跡を物質化したアロヴィタイト。
奇跡そのものといえる結晶にただの呪いでしかないはずの黒炎のイナゴが食らいついている。
本来ならあり得ない光景だった。
とはいえ、そう簡単にはいかない。
アロヴィタイトもまた、ただ喰われるだけではなかった。
眩い光を放ち、群れを弾き飛ばす。
触れた黒炎を焼き払い、燃え残りごと消し去っていく。
群れの数割が一瞬で灰になった。
だが、それでも止まらない。
残った群れはすぐに穴を埋め、再び噛みつく。
削られれば補い、消されれば増え、途切れることなく木像へまとわりついていく。
抑え込めてはいる。
だが、完全には止められない。
アロヴィタイトの光は少しずつ濁り木像の内部で動いていた機能が目に見えて軋み始めた。
外装の奥で何かが崩れ、制御が乱れ、構造全体が悲鳴を上げているのが分かる。
パキ、パキと音を立てて、ユグドラシル級の巨体が崩れ始める。
とはいえ、まだ止まらない。まだこの怪物は倒れない。
それでも確実に損傷は溜まっていた。
「女神を排し、頂点に君臨するは我が主のみ。
古きアリストテレス……貴様らは消え失せよ」
魔王は静かにそう言った。
落ち着いた声音だったが、その奥には粘つくような凶悪さがある。
笑ってはいない。
だが、血に濡れた笑みに近いものを確かに感じさせた。
今のアイゴケロスが抑えられているのは、ただルファスが「やめろ」と命じているからにすぎない。
もしその命が解かれたなら――この黒炎の群れは戦場だけでは終わらないだろう。
国も、都市も、人も、文明も、全てを喰い潰しながら広がっていくに違いない。
世界を食い尽くす蝗害。
それはもはや黙示録そのものだった。
その想像に、誰もが息を呑んだ。
友軍でさえこの力が自分たちへ向く光景を一瞬は思い描いてしまう。
それほどまでに、目の前の魔王は危険だった。
だがアイゴケロス自身は、ただ静かに拳を構え続けている。
まだ終わっていない。まだ本番ですらない。
覇王ルファス・マファールはその程度ではない。
ユグドラシル級を打ち上げ、呪いの群れを喰らわせる。
それだけで終わるつもりはない。
魔王はその先を見せるつもりだった。
深く拳を引く。重心を沈める。
全身の力をひとつの動作へまとめていく。
「終わりだ」
黒い翼が月光を吸い込み低く震えた。
それに応じるように群れはさらに膨れ上がり戦場を埋め尽くす羽音がいっそう強くなる。
ブブブブブブ、と鼓膜を削るような不快な音が辺り一面を満たした。
アロヴィタイトを貪っていた無数のイナゴたちが、そこで一斉に動きを変える。
木像を喰い続けるのではない。
全てが同じ方向を向き、主のもとへ引き返し始めた。
つまるところ、これは“帰還”だった。
神の奇跡を食い、膨大な力を宿した虫たちが、今度は主へ還っていく。
黒い炎の流れが空中で渦を巻き戦場そのものが巨大な螺旋に変わっていく。
「───群れが戻っていく?」
パルテノスが目を細めた。
彼女もまた、女神の力の流れを観測できる。
だからこそ見逃さない。
いままさに神性の光が、魔王と混ざり合おうとしている瞬間を。
群れは空間そのものをわずかにねじ曲げながら、アイゴケロスのもとへ吸い込まれていく。
一匹、また一匹。
やがて千、万に及ぶ黒炎が一点へ収束していった。
魔王は、その簒奪した力を何のためらいもなく受け取る。
まるで当然の献上品でも受け取るかのように。
黒の中で、蒼白い閃光が走る。
女神の力が彼の体内を駆け巡っている証だった。
蒼白い光の線が全身へ浮かび上がる。
皮膚が、角が、翼が脈動する。
そのたびに世界の方が悲鳴を上げた。
アリストテレスの作品。
その言い方を許すなら、彼もまたその系譜に連なる存在だ。
ならばその最新の作品とも言えるアロヴィタイトを取り込めることは不思議ではないのかもしれない。
「まさか……女神様の力を……」
パルテノスが呟いたが、それはもはや何の意味もない。
自分はともすればとんでもない存在に新しい力を与えてしまったのかもしれないと彼女は思った。
光と闇がぶつかり合う。奇跡と呪いがせめぎ合う。
だが、その拮抗は長く続かなかった。
やがて両者は反発ではなく、奇妙な融合へと移っていく。
「世界を作る力」と「存在を阻害する呪い」
相反するはずのそれらが互いに干渉し新しい何かが生まれようとしていた。
レベル限界を二つも超えたソレの行動にミズガルズを運営する法則が軋む。
世界が重くなったというべきか、処理が狂っていく。
周囲の異変はすぐに表れた。
時間の流れがわずかに歪む。
周辺の景色に砂嵐が走り、奇妙な光の線がザザザと流れ出した。
女神が世界へ刻んだ“ルール”そのものが、魔王の存在によって狂わされ始めていた。
同胞たる邪神が出来るのなら彼にそれが出来ない道理はない。
そして何より、彼らの主たるルファス自身が、女神のルールを無視して立っている。
ならば、彼もまた従う理由などない。
「見せてやろう……我が新たなる力を」
その声は静かだった。
だが同時に、それは幕引きの宣言でもあった。
黒い翼が光を吸い込み、低く震える。
羽ばたきは黒炎の残滓を周囲へ撒き散らした。
それらは流星の尾のように長く伸び、戦場に黒い雪のように降り注ぐ。
そして魔王は拳を強く握り込んだ。
拳の中心へ、蒼い光と黒炎が収束していく。
その異常な集中に気づいたのだろう。
ユグドラシル級は、再生しつつあった十万の腕を一斉に掲げた。
巨木の巨体が、まるで祈るような形で防御姿勢を取る。
だが遅い。
魔王の拳は再び放たれた。
ルファスの在り方をなぞるように。
ただ真っ向から、圧倒的な力でねじ伏せるために。
そこに技巧はない。策も小細工もない。
あるのは純粋な暴力だけ。
だが、それこそが地下世界ヘルヘイムにおける最も正しい掟だった。
弱肉強食。
その一点を極限まで研ぎ澄ました一撃である。
拳が叩き込まれた瞬間、世界が一拍遅れてから震えた。
そして爆ぜる。
ユグドラシル級の胸部が破砕された。
アロヴィタイトの光が、血のように噴き出す。
蒼と黒が入り混じり巨大な花火のように炸裂した。
巨木の神像は粉々となり無数の破片がミズガルズに飛び散った。
アイゴケロスが残心を終えて構えを解けば、背後でユグドラシル級の残骸が光の粒となって消えていく。
砕けたアロヴィタイトの破片が青く瞬き、それを見届けるように魔王は小さく笑った。
「まずは一つ」
その声もまた静かだった。
黒い翼が光を散らす。
焼け焦げた空を背にして、アイゴケロスは拳を下ろしたまま立っている。
ユグドラシル級。
アリストテレス兵器群の巨像。
大地を覆っていたはずのあの巨大な質量はもういない。
つまりポルクスのアルゴナウタイを障害する天敵が消えたということだ。
微かな間の後にハッと己を取り戻した彼女が英霊の召喚を開始すれば瞬く間に空に英霊たちが現れだす。
今まではユグドラシル級の存在のせいで何処か控えめで計算されていたソレが遠慮なく解禁されたのだ。
瞬く間に数の面で十二星天が盛り返していく。
数だけを見れば無限の軍団を持つゾディアックの方が優勢だろう。
それでも魔王は勝利を誇示しない。
その視線は先を見据えている。
まだ敵は数多くいる。
偉大なる主の道を阻む障害を一つ排除した程度で彼は喜ばない。
「……いるな」
呟きは誰にも届かず、風の中へ溶けた。
だがその次の瞬間、戦場の上空が大きくひしゃげる。
音が引き寄せられる。
重力が偏る。視界までもがひとつの点へ吸い込まれていく。
ひっと兵士の誰かが悲鳴を上げた。
彼もまたレベル1000だというのに明らかに怯えている。
それほどまでに先にこれらがやった攻撃は圧倒的だったのだ。
二つの影が天から降りてきた。
先の重力による抱擁攻撃以来、動きを見せていなかったあの二体が――ついに本格的に稼働を始めたのだ。
一体は蒼い神秘の輝きを纏う水晶で作られた直立する恐竜。
エル級文明殲滅用重機動ユニット。
ソドムの戦いにおいて凄まじい戦果を上げ、今度はゾディアックを苦しめ続ける怪物の中の怪物。
女神の力を三次元で再構成し、神を否定するために造られた兵器。
レベル限界突破者を想定したといううたい文句に嘘偽りはなく、これが出てくると戦場の空気は一変する。
レベル1000の、ミズガルズにおいて比類なき強者が揃った軍勢がまるで虫の様に踏み散らされてしまうのだ。
十二星天は幾度かこれと交戦を経験し、撤退させるところまでは持ち込んだことはあれど、今まで完全に勝利したことはなかった。
怨敵の本格的な参戦にスコルピウスが歯噛みし、ポルクスとカストールは凛と睨みつけ、レオンは吠えた。
もう一体は無音で浮かんでいる。
重力の歪みを身に纏い、五つの小型の球がその周囲を回転する。
それらが放つ静寂の圧が、空気を凍らせた。
現状アリストテレス兵器群の最高傑作にして最高戦力。
セト級土龍再現体。
重力と時空を掌握する怪物だ。
セト級を中心に空間が鳴動する。
これは音ではなく、質量のうめきだった。
二つの兵器は互いに干渉しない。
だが、アイゴケロスという異物を彼らは狙っている。
確実に殺意の段取りは組まれていた。
最も基本的な陣形を二機は取った。
即ち頑強かつ瞬間移動が可能なエル級が前衛としてセト級を守護し、大火力を放つセト級が後衛という構図を。
「クハハハハ! 我を遂に見たな!!」
魔王は獰猛に笑った。
その笑みには、必要なら何を犠牲にしても構わないという覚悟が滲んでいた。
今日こそ、この場でこいつらを完全に粉砕する。
二度と建造など出来ないように。
このミズガルズごと、まとめて叩き潰してでも。
同時に、彼はふと宙へ視線を向ける。
深紅に輝く偉大なる主のマナを覆い尽くさんばかりに、蒼、蒼、蒼と増え続ける光。
ミズガルズ近傍へ落ちてきているそれらが何であるかを、アイゴケロスは悟った。
あの時、ヘルヘイムでアリストテレスが語ったことはすべて事実だったのだ。
あいつらは本気で女神を終わらせるつもりでいる。
この宇宙も。
極点に存在するあらゆる宇宙も世界も。
そこに生きる全生命すら巻き添えにしてでも、女神を殺そうとしている。
アイゴケロスはゆっくりと息を吐いた。
憎悪と嫌悪は当然ある。
だが、それらをいったん脇へ置けば口をついて出たのは意外な言葉だった。
「ここまで来れば、もはや敬意を抱かざるを得ん」
「大したものだ……本当に、人であるか疑わしいほどに、貴様らのやり方は悪魔染みておるわ」
いや、悪魔や魔王ですらここまではしない。
正真正銘の魔王であるアイゴケロス自身が、それを保証できる。
「しかし、この世界を支配するのはルファス様だ。貴様らはここで消え失せよ」
その言葉に呼応するように、エル級の装甲が微かに発光した。
表面へ幾何学模様が浮かび上がり、空間にある情報そのものを舐めるように読み取っていく。
存在座標、距離、位相、マナ濃度、干渉可能域。
ただ立っているだけで、周囲の“在り方”そのものを把握し直しているのだ。
既に次は何処に跳ぶか考えていると言っていい。
しかも、その機体に満ちているアロヴィタイトの気配は、先ほどのユグドラシル級とは比べものにならない。
超高密度に加工されている。簡単に言えば凄まじく硬い。
ユグドラシル級が巨大であるがゆえの脅威なら、エル級はそれとは別種の悪質さを持っていた。
とにかく壊れないのだ。普通の攻撃では傷一つつかない。
魔神王が全身全霊でラッシュを叩き込みようやく少しだけ軋む程に硬い。
しかしあれは初期段階の話だ。
今のエル級は戦闘経験を重ねた結果さらにしぶとくなっている。
レベル1000級の強者たちが束になってもまともな損傷すら刻めない。
十二星天が幾度も交戦し、撤退に追い込むことはあってもついに完全撃破へ至れなかった理由がそこにある。
あまりにも頑丈でしかも想像を絶するほどに強い。
文明殲滅用という謳い文句に嘘偽りは一つもなかった。
一方セト級は一見すると何もしていないように見える。
だがよく見れば機体の周囲の景色そのものが蜃気楼のように歪んでいた。
すでに待機段階で重力レンズを展開しているのだ。
セト級にはそもそも近づくことさえ許されない。
究極的に完成された重力制御によって光は曲がり空間は撓む。
射線も座標も距離感もセト級の周囲では信用できない。
重力そのものを盾として纏うその防御は十二星天の面々にとってさえ手が出せない領域にあった。
何かを当てる以前に、そもそも届かないのだ。
苦労を重ねてようやく一撃が届いたとしても、次に待っているのはベクトルの操作だ。
どんな攻撃であろうと見当違いの場所に空間ごと捻じ曲げられてしまう。
まさしく難攻不落。
それが兵器群最高傑作の一角たるセト級の恐ろしさである。
しかもこれは防御の話であり、攻撃性能は更に想像を絶するものがある。
三つの影が向き合う。
一方は同士の助力で壁を越えた魔王。
一方は兵器群が作り出したレベル限界を踏み越えた怪物たち。
彼らの起源は一つに行き着く。
アリストテレスという名前に。
兵器群の創造主。神を否定する思想の始点。
ルファスの師。ベネトナシュの設計者。
魔王が憎悪を向ける先。人類共同体を考案した者。
今この場で殺し合おうとしている面々は、辿れば
何とも滑稽だった。
壮大で、惨烈で、世界の命運すら懸かった決戦であるはずなのに、その実態は一人の人間がばら撒いた種の刈り取り合いに過ぎない。
見ようによっては、とんでもない自作自演だろう。
人類共同体も。ルファスも。
兵器群も。ベネトナシュも。魔王でさえも。
それぞれ別々の旗を掲げ、別々の理念で動いているように見えながら、根の方では同じになってしまうのだから。
「我こそ覇道十二星天の一つ、アイゴケロス」
アイゴケロスは低く名乗った。
主から賜ったその名誉ある称号を口にするということは、確勝の覚悟をもって挑むという意味だ。
ゆっくりと拳を握る。
それに反応するように、エル級の機構が点滅した。
ジジジジジと巨体にノイズが走り、その存在座標がぶれ始める。
暖機運転の様に跳ぶ準備をしているのだろうか。
直立する水晶の恐竜という異形の外見はその本質に比べればまだ可愛いものだ。
実際には、神性を三次元で再構成し、神を否定するためだけに造られた極端な兵器。
レベル限界突破者を狩るための存在という触れ込みに一片の誇張もない。
続いてセト級を中心に重力がうねり、世界の軸が再配置される。
周囲を回る重力制御のためのビットが軌道を変え、本体の周囲を縦横無尽に飛び交い始めた。
光が折れ、重力が波打つ。
近づけば押し潰される。遠ざかれば射線を捻じ曲げられる。
待機状態でなおこの圧迫感。最高傑作の名に偽りはない。
だからこそ、今まで誰もまともに攻略できなかった。
故にアイゴケロスはそこからさらに一歩も退かなかった。
むしろ逆に、獰猛な笑みを深める。
自分こそがその一人目となると彼は決めていた。
その上で冷静な判断もしていた。
このままここでやり合えばどうなるか。
そんなことは考えるまでもない。
セト級の重力制御も、エル級の殲滅力も、どちらも戦場そのものを巻き込む。
ゾディアック軍も、十二星天も、まだ動ける者たちも、まとめて磨り潰されかねない。
ならば答えは一つだ。
引き剥がす。この二体をここから遠ざける。
魔王である自分がこいつらを相手取るのだ。
「来い」
その一言と同時に、魔王の姿が消えた。
いや、見失ったのではない。
余りに速すぎて、誰の眼にも映らなかったのだ。
空気を裂く音すらない。
ただ視界から黒い影が抜け落ち、次の瞬間にはセト級の眼前にいた。
今の彼の速度はベネトナシュに追いすがるものがある。
重力レンズがうねる。押し潰すような圧がアイゴケロスへ殺到する。
普通ならその時点で肉も骨も意味を失い、地面へめり込んで終わっていただろう。
だが魔王は止まらない。
黒き翼が爆ぜるように広がり、右腕が唸りを上げる。
拳に集中したのは、今この瞬間における彼のすべてだ。
簒奪したアロヴィタイト。そして重力というルールを焼くデネブ・アルゲティ。
そして、ルファスの覇道を邪魔するものを打ち砕くという、単純にして揺るがぬ意志。
「ぬぅんッ!!」
拳がセト級へ叩き込まれた。
重力の壁が軋む。
光が捻じれ、空間の層がめくれ上がる。
普通の打撃ならば触れることすら出来ぬはずの防御力場へ、魔王の拳はわずかに食い込んだ。
その、わずかな
セト級の10m程度の体躯が横殴りに吹き飛ぶ。
地が裂けた。
空間がパキンと呆気なくひび割れた。
重力制御のビットが散り、機体の周囲にまとわりついていた蜃気楼めいた歪みが乱れる。
最高傑作たる兵器の防御を完全に破ったわけではない。
だが、押し飛ばした。
それだけで十分すぎるほど異常だった。
セト級はそのまま地平線の彼方へ消し飛んでいく。
何百キロも先の大地を砕き、山脈を巻き込み、視界の端でようやく土煙が立ち上がり、そのまま勢いを殺さず宙に昇っていく。
もちろんあの程度で壊れるわけがない。
エル級ほどではないにせよアレも大概な強度だ。
アイゴケロスは追う。
拳を振り抜いた姿勢のまま、黒い翼を一度震わせて凄まじい速度で宙を翔けた。
ここで仕留め損なう気など、最初からない。
それを見たエル級の機構が一斉に発光する。
巨体の輪郭がぶれ、存在座標が不安定になる。
次の瞬間、水晶の恐竜はその場から掻き消えた。
座標移動。
セト級を守るため、後を追ったのだ。
戦場にほんの一瞬だけ空白が生まれる。
だがそれは、本当に一瞬だった。
予備戦力が送り込まれる。
空間がまた揺らぐ。
何の前触れもなく何もない場所に何かが唐突に出現し影を落とす。
アロヴィタイトの濃い気配。
座標の上書きと、そして現れる影。
「……抜け目がないわねぇ」
スコルピウスがうんざりしたように呟いた。
そこに立っていたのはまたしてもエル級だった。
先ほど消えたものとは別個体。
同じく蒼い神秘の輝きを纏う水晶の恐竜。
兵器群がもう一機をここへ直接投入してきたのだ。
十二星天の前へ彼らを踏みつぶす為に。
そしてその一方で、戦場の彼方、遥か宙の上では世界そのものが蒼く染まり続けていた。
ミズガルズだけではない。
世界中の法則が歪み、軋み、壊れつつある。
宇宙に存在する全銀河は着実に構造体へ変換され、そこから放たれる引力が、女神の座する宙を引きずり込もうと猛っていた。
残り400秒。
400秒後、マナ・キャンサーの引力は女神の「広がれ」という意思を完全に上回り、ビッグ・クランチが発生する。
つまり、あと七分にも満たない時間でこの世界は終わるのだ。