ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
何とか更新できてよかった……。
覇王の前で無慈悲に構造は形成されていく。
空間が内側へと折り畳まれ、虚空そのものが悲鳴を上げる。
最初に三万八千の銀河が呑まれ、十万、五十万、そして今や千億を超える銀河が、直径数ミリより更に小さい暗黒の核に畳み込まれている。
その質量は、想像という言葉では到底届かない。
エネルギー換算で一〇⁶⁹ジュールを超える塊。
それは光すら逃がさず、空間の形を変え、宇宙という泡を弛ませた。
マナ・キャンサーの【アセルス・アウストラリス】は既に広がろうとする宇宙の壁を補足している。
拡大/膨張は既に縮小に転じている。
アリストテレスの構造体は時間の流れを反転させながら、静かに――しかし確実に――成長を続けていた。
宇宙の全てが、その点へと“落ちて”いく。
マナ・キャンサーの権能は矛盾なく慈悲なく何物も逃がさない。
覇王の愛した星々が貪食されていく。
恒星は軌道を失い、銀河の腕が引き裂かれ、
星雲の塵は渦を巻くように吸い込まれる。
その速度は光よりも速い。
重力では説明できない。
これは、全宇宙の縮小/反転だ。
ミズガルズを含む天の川の外縁が歪み、観測者たるルファスの眼前で星空がねじれた。
星々は線となり、線は帯となり、帯はやがて一本の糸に収束していく。
そしてその糸が切れた瞬間、夜空が“中央”へと落ちた。
圧縮の権能が働くたびに、空間は悲鳴を上げながら引きずられた。
距離の概念が崩壊し、宇宙において上下も東西も意味を失う。
すべての物質が、あらゆる方角から“中心”を指し示しはじめる。
引力は膨張を凌駕し、宇宙はついに――自らの重みに耐えられなくなった。
それでも、世界の意思は膨張をやめなかった。
マナを基盤とする「ルール」が、残された余白を広げようと抵抗する。
天の女神アロヴィナスの法が、散らばり、離れ、広がろうとする宇宙の夢を維持するために必死に逆流を起こす。
だが、圧縮は慈悲を見せない。
重力ではなく、存在そのものが“収束”を欲していた。
物質とマナに宿った癌化したソレが自発的に号令をかけているのだ。
物質と空間が自分の意思で収束を欲している。
だからもう、止まらない。
残り時間は、589秒。588。587……。
ビッグクランチの胎動は止まらない。
その小さな黒い点が、いずれ宇宙すべてを、掌の裏よりも小さな一点に押し潰すまで。
終焉を前にした覇王は翼を広げ覇気を静かに充満させながら唸る。
「何をしている」
覇王の言葉は静かだった。
しかし煮えたぎる憤怒が練りこまれている。
「お前は、何を、している……!」
ルファスの髪が燃え上る。
覇王として常に意識していた冷静沈着な女帝の仮面には既にヒビが入っている。
黄道十二星座。
ルファス・マファールが愛した星の象徴であり彼女の配下の名の由来ともなったソレ。
複数の銀河にまたがる広大な宇宙に描かれた夢。
何億年も昔より存在しルファスが見上げ、愛した星々の象徴。
だが、久遠の存在である星座にもマナ・キャンサーは感染し枷の壊れた神の癌は己という存在を片っ端から周囲に複製し続けていた。
数億光年にも連なる領域が秒にも満たない時間で飽和する。
星団は汚染され、恒星は感染する。
その上で兵器群の意思を受け取ったそれらは軌道から離れ一点を目指し落ちていく。
【アセルス・アウストラリス】
たった一つの本来ならば誰もが見向きもしないスキルが宇宙を壊している。
カルキノスが持つ【アセルス・アウストラリス】は、本来「すべての魔法攻撃を自分へ引き寄せる」ためのスキルである。
だが今のマナ・キャンサーは、その性質をもっと大きな規模で使っていた。
兵器群にとって、そして
ならば引き寄せる対象は、女神の魔法でありこれはイコールでこの宇宙全てである。
故に宇宙そのものが一つの中心へ向かって収束を始めていた。
アリストテレスの計画はルファスが愛したものを一つずつ塗りつぶしていく。
黄道の光が、ひとつ、またひとつと滲んで消えた。
獅子のたてがみはほどけ、乙女の髪は散り、蠍の尾は途中で途切れる。
見慣れた星々が音もなく夜空から失われていく。
星図に描かれていた線は消え名前も剥がれ落ちた。
誰もが見上げてきた“あの形”が、輪郭ごと崩されていく。
天の川そのものも波打っていた。
無数の恒星が一瞬だけ赤く染まり、次の瞬間には黒い泡のように弾ける。
黄道光は反転し、夜空に黒い帯が走った。
それは影ではない。
ただ、そこにあったはずのものが、観測できなくなっただけだ。
喪失、損失、抹消だ。
汚染は星座を構成する領域そのものに広がっていく。
魚の尾が裂け、射手の弓が折れ、双子の肩がずれる。
星座という“形”そのものが壊されていた。
やがて乙女座の中心――M87に、巨大な虚の孔が穿たれる。
乙女座銀河団が収束を始めたのだ。
銀河が銀河を呑み込み、ひとつの黒点へ凝縮していく。
その時点で、落下はもう始まっていた。
続いて牡牛の角が沈み、天秤が砕け、蟹の殻が剥がれる。
黄道十二星座を成り立たせていた領域が、次々と本来の軌道を捨てていく。
恒星は歪み、銀河は縮み、星団は粒子の列へ変わる。
あらゆる座標が、たった一点――ミズガルズ上空を目指して収束していた。
夜空がそれを描かれた星座ごと地平へ落ちてくる。
星の海が、重力ではなく物質とマナに宿る“意志”に引かれて流れ落ちていた。
マナ・キャンサーの収束命令は、すでに女神の「宇宙を広げ続ける意思」を上回っていたのである。
落下する星団の群れが空を灼く。
蒼白い光の尾が何十億も重なり合い、ひとつの巨大な火の渦へ変わっていく。
だがそれは、天を燃やす炎ではなかった。
天はこれから焼かれる。女神を乗せたまま、全ての世界が。
ミズガルズ上空では、その収束が始まってからわずかな秒数で、すでに二〇〇〇億の銀河が飲み込まれていた。
しかも、それはなお加速している。
地上から見上げる人々には、ただ夜空が逆流しているようにしか見えなかった。
星々が巻き込まれ、素材として加工されていく。
その中で十二の星座は互いを喰い合い、融け合い、やがて他の名もなき星の様に一つの構造へ収納されていくのだった。
彼女の愛した十二星座はもはや無い。
しかし、彼女はまだ存命であり、宇宙を丸ごと変えようとする悪意を前に吠えていた。
神話でも語られない闘争をルファスとマナ・キャンサーは行っていた。
地上で十二星天が鎬を削り合い、ベネトナシュが己の現身たちを砕こうと吠え、衛星軌道上ではアイゴケロスが二機の怪物を相手に全霊を尽くしている。
そして覇王は──星系を縦横無尽に駆け巡り女神を模した終末装置を相手に全ての力を解放していた。
レベル4200にして【ジ・アークエネミー】によって世界の根底さえ屈するであろうその権能を完全に使いこなし猛攻撃を仕掛けようとしていた。
今、この瞬間こそがルファス・マファールの真価を問われる時である。
幾度も口にした守るという言葉。
多くを失い、手のひらから零れ落とした彼女はこの瞬間、正しく世界の守護者であった。
彼女が失敗すれば全て死ぬ。
十二星天。
ゾディアックの民、いや全人類。
全宇宙に、極点にある全ての宙。
……母も死ぬ。
マナ・キャンサーの勝利条件は容易い。
600秒待つだけでいい。
それだけで宇宙はこの女神を再現した怪物の腹に収まり爆散する。
故にこの怪物は複数の瞳孔を蠢かせながら覇王から距離を取る。
エル級の様にパッと現れては消える座標移動を繰り返しミズガルズ星系の果て、銀河の向こうへと消えていく。
もちろん彼女の移動に合わせて「種火」たる全宇宙の圧縮構造体も移動していった。
数光年を瞬く間に移動し宙の向こうへと怪物は消えた。
戦う価値さえルファスには見出していない行動だ。
そして同時にもしもついてこれるのならば、そこでやり合っても良いという挑発でもある。
この後に行う儀式は少しばかり精密な動作が要求される。
その前にルファスをこの場から引きはがしておきたいという思惑もあった。
……時間稼ぎ。
この場で最も厄介な戦術を癌は取った。
しかし覇王は動じない。もちろんこの程度は想定の範囲内である。
理不尽を味わい、それに決して屈してたまるものかと誓った。
世界を変えてみせると願った。
そして今、彼女の前には世界を終わらせようとする理不尽がある。
覇王ルファス・マファールがその力を振るう。
「逃がすものか」
【錬成・片眼の英雄】
膨大な魔力や星間ガス、落ちてきた銀河から零れたデブリ、そしてルファスの“力”を素材に生み出されたのは巨大な老人であった。
威厳ある長い髭。
つばの帽子を目深にかぶり決して素顔は見せない。
ミズガルズに伝わるとある神話の主神の姿を模した戦神の如き威容であった。
彼は宙よりも深い色のローブを羽織り、瞳は片方が眼帯で覆われ、残った鋭い眼光がマナ・キャンサーを見つめていた。
八本の足の馬──スレイプニル──に跨った、龍よりも尚巨大なそれはルファスを肩に乗せ、光速を鼻で笑う速度で駆ける。
目指すは逃走を続けるマナ・キャンサー。
何処まで逃げようと絶対に逃がさない。
子供の時から彼女は常に彼を追いかけ続けてきた。
故にルファスは誰かを追いかけるのは得意だった。
二羽のカラスが先導し、馬は駆ける。
星海が裂けた。
その裂け目を、八脚の蹄が蹴り抜けていく。
星の光を追い越し、重力井戸を弾き飛ばし、虚空の揺らぎすら踏み台にして。
スレイプニルはひたすらに駆けた。
彼の肩には覇王ルファス・マファール。
その衣の裾が黒炎を曳き、後方の銀河をまるごと焦がしていく。
彼女の魔力が地平線の果てまで溢れ、天球の内側を照らした。
前方、虚空に「敵」が群れていた。
黒い天体。
それは星ではなく、無数に雑多に生成された魔神族たち。
女神の魔法を複製して造られた、おぞましき人類の敵。
いや、今や存在する全ての存在の敵だ。
コレは増え続け、あらゆるリソースを食いつくしていくのだから。
【クリエイト・エネミー】
マナ・キャンサーは既にこの世界を支配する法にさえ浸食を行っている証拠。
ディーナの権限を持つコレはもちろん神の代行者として魔神族という魔法を乗っ取って使いこなせた。
数千万。
そのすべてが掌をかざし、光の奔流を放った。
それは雷でも炎でもない。純粋なエネルギーの投射。
一つひとつが恒星質量級の弾丸として、ルファスの前方を埋め尽くす。
「来るがいい」
彼女が呟いた瞬間、スレイプニルの鬣が蒼に燃え上がる。
呼応するように彼女の金糸の穂先が朱色を放った。
体内のマナが無限に活性化し片眼の英雄とルファスは同調する。
かつてプランは“一致団結”を用いてゴーレムを己の手足の様に扱っていた。
アレから発想を得たルファスはゴーレムと深く己を同化させ、手足の様に振るう事を可能にしていた。
彼女に再び降り注ぐのはこの世界のルール。
即ち「光速を超える事なかれ」だ。
その基準を超えている彼女を修正しようとルールが彼女に制限をかけようとする。
女神が定めたソレ。
レベル1000であろうと超えられないこの世をこの世として成り立たせるためのルール。
だが。彼女はソレに従うつもりなどない。
自分がどのように在るかを決めるのは自分だけだ。
だからその身は壁を超えた。
英雄/ルファスは光速の定義を置き換えた。
疾走の軌跡が星の外縁に痕を残し、空間そのものをねじり上げる。
次の瞬間、弾幕が降り注いだ。
赤黒い光の奔流が無数の柱となって星間を貫く。
空間を押し潰すほどの密度で光が収束する。
だがスレイプニルの足取りは止まらない。
八脚が光を踏み砕き、一歩ごとに次元層を跨いでいく。
何よりも、誰よりも素早く追いかける。
「遅い!」
ルファスの瞳に映る弾幕が静止した。
いや、彼女の認識速度が時間の定義を超えたのだ。
魔神族の光が止まり、世界が一瞬だけモノクロに染まる。
その隙間を縫い、スレイプニルは滑り込む。
結果として発生したのは原始的な戦における騎兵による歩兵への蹂躙であった。
馬身に触れた瞬間、魔神族の体が崩れた。
潰れたのではない。存在順序が反転した。
超高濃度のマナ存在に触れた結果、薄い彼らは弾け飛んだ。
余りに存在の位相に次元の差がありすぎると、触れただけでこうなってしまう。
もはやルファスが魔神族を殺すのに必要なのは拳ではない。
ただ近くにいるだけで彼女は魔神族を滅ぼせる。
スレイプニルはその間隙を突き抜ける。
星の光を背に、疾走はさらに速く。
マナ・キャンサー本体の影が視界に入る。
彼女の姿は神聖さと邪悪さが入り混じった意味不明なバグそのものだった。
ディーナ──女神を踏襲した姿であるが瞳孔は複数存在し全ての瞳はルファスを見てもいない。
美しすぎるその顔の半分はバルドルのものであり、見るだけでルファスの精神は苛立った。
眼前に覇王が迫るという状況の中であっても複数の瞳はどれ一つルファスを見ていない。
さながらお前に価値はないと言わんばかりに。
彼女の動作は一つだった。
マナ・キャンサーは指を一つ動かしただけだった。
特徴的なエフェクトなどなく、ただ“密度”のパラメータが狂う。
世界が軋む。
真空がひび割れる音を立てた。
時間の間隔が細り、距離が溶け、上下左右が消える。
【テグミン】
カルキノスが持つ【テグミン】は、本来は単純な防御力上昇スキルだ。
それ自体は珍しくもない、基礎的な強化能力にすぎない。
だがマナ・キャンサーは、その性質を別の方向に拡張して使っている。
防御力が上がるということは、対象がより硬く、より密度の高い状態になるということでもある。
本来なら自分自身の耐久を高めるための能力だが、マナ・キャンサーはそれを空間そのものに適用した。
マナ・キャンサーが指定した座標を中心に、半径数億キロの範囲が一気に圧縮されていく。
星雲、塵、魔神族の死骸、漂うマナ粒子、その全てが同じ一点へ向かって押し込まれる。
これはブラックホールに似ているが、性質はもっと悪質だった。
セト級の重力制御のように物質を引き寄せるのではなく、時空そのものを圧縮している。
そのため暗黒天体のような分かりやすい核すら生まれない。
空間全体が、そのまま潰れていくのだ。
まるで全方位から無慈悲にプレスするように。
巻き込まれればどうなるかは明白だった。
逃げ場ごと押し潰される。
どれだけ身を固めようと意味はない。
これは一点から飛んでくる攻撃ではなく、周囲一帯の“密度”そのものを変える圧縮だからだ。
再び極点そのものが軋んだ。
座にいる女神でさえ、何が起きているのかすぐには理解できず、ただ口を押さえて困惑するしかなかった。
ルファスはその圧縮を前にして、瞳を細める。
(──絶対に出来る)
その一度きりの確信と共に、スレイプニルの八本の脚が輝き始めた。
次にどこへ足を置くか。
次の瞬間、どこに自分たちの存在を移すか。
ルファスはそれを探していた。
空間圧縮の波が迫る。四方八方ではない。
上下左右でもない。あらゆる座標が中心へ向かって潰れていく。
その中心にいるのは、ルファスと片眼の英雄だった。
スレイプニルは一度、虚空へ脚を伸ばした。
だが進めない。
足を置く先に、ルファスたちが入り込める余白がない。
移動先そのものが圧縮で埋まっているのだ。
──ここでもない。
空間がさらに狭まる。
どれだけ速く走れても、走る先の座標そのものが潰れてしまえば意味がない。
ここでルファスは、自分に言い聞かせるように考えを切り替えた。
逃げるんじゃない。
彼女は思い出していた。
あの時戦った再現体たちが、自分の攻撃を無効化していた理不尽な現象を。
その時は打ち破るために分析した。
だが今は逆に、その知見を自分が使う番だった。
圧縮されていく空間の中では、“外側”という概念そのものが消えかけている。
見えない壁が周囲にあり、そこへ手を伸ばしても弾かれる。
しかもその侵入不可能な領域は、圧縮に合わせてどんどん狭まっていく。
マナ・キャンサーは最初から、ここでルファスを殺すつもりだった。
時間稼ぎではなく、そろそろ計画の邪魔をする存在を消す段階に入ったのだ。
「っ……」
片眼の英雄の鬣にひびが入る。
圧力に耐えきれず、輪郭がわずかに崩れ始めていた。
それでもスレイプニルは走る。
自由を愛するルファスの意思を強く受け継いだその存在は圧壊する世界という檻から抜け出す道を探し続ける。
一方、マナ・キャンサーはそれを見てもほとんど反応しない。
複数の瞳孔をぐるりと巡らせ、仕事の進捗を確認するだけだ。
一点へ投げ込まれていく無数の銀河。
膨張をやめ、縮小へ転じた宇宙の膜。
そして極点で絶叫を上げている蒼い女神。
彼女は何とかしろ、止めろ、こんなことは認めない、龍を使う、と叫び続けている。
だが龍は動かない。
マナ・キャンサーはすでにミズガルズのシステム領域を汚染しており、龍を動かすためのコードそのものを遮断していた。
仮に龍が動けたとしても、この圧縮を止められる段階はもう過ぎていたかもしれない。
計画は順調だった。
後は、目の前の諦めの悪い子供を潰すだけ。
それで全て終わるはずだった。
そして――マナ・キャンサーは、終わったと判断した。
“ここだ”
排除完了。
マナ・キャンサーはそう判断した。
その瞬間、収束が完遂した。
ルファスと【片眼の英雄】そしてスレイプニルごと圧縮の中心へ呑み込まれる。
八脚の神馬は音もなく押し潰され、砕けた破片すらさらに細かく圧縮されていく。
ルファスの体さえ、その場でまとめて潰れたように見えた。
もう周囲に空間の余白はない。
あらゆる物質も光も、すべてが原子より小さな一点へ向かって押し込まれていた。
マナ・キャンサーは無数の瞳の一つで、その結果を確認する。
反応は薄い。
実験結果を見届ける研究者のように、ただ淡々と観測しているだけだった。
終わった。
そう判断しても不自然ではない。
宇宙規模の圧縮に巻き込まれて生き残るなど、本来ならあり得ないのだから。
怪物でも無理だ。
少なくとも、そう考えるのが自然だった。
だがルファスは普通ではない。
彼女はルファス・マファールだった。
たった一度見ただけでそれを使いこなすなど普通は無理としかいえない。
だが、やると彼女は決めた。
ルファスはいつだってそうやって不可能に挑んできたのだから。
完全に消えるわけではない。
ただ、そこにいる座標をほんの少しだけずらす。
その理不尽をルファスは見て、覚えていた。
ベネトナシュの模倣体を最初に撃破した時、相手がどこに“いた”のか。
どういう座標の外し方をしていたのか。
ならば真似できるはずだ。
今この瞬間だけでも。
でなければ死ぬ、自分だけでもなく何もかも。
【ドロップニル】
消え去ったはずのルファスが再び出現した。
完全に、完璧に、絶対に死んだ筈の存在の発生にマナ・キャンサーは気だるげに目を一つだけ向けた。
何だ、まだ生きていたのかと言わんばかりに。
ルファスたちの輪郭がぶれた。
分身したわけではない。
残像が幾重にも伸びたわけでもない。
ただ、存在が一瞬だけ安定を失い、そこにいるのにそこにいないように見える。
輪郭が揺らぎ、位置が半歩ずれる。
現実からほんの少しだけ外れたのだ。
【テグミン】
邪魔だとマナ・キャンサーはルファスに向けて掌を翳し、拳を握った。
再び空間が圧縮される。
圧縮の波が襲う。四方八方どころではない。
あらゆる座標が中心へ向かって潰れていく。
本来なら逃げ場はない。
だがその瞬間のルファスたちは、圧縮される座標からわずかに外れていた。
ここにいる。
だが、今だけは“触れられない場所”にずれている。
再度の圧縮が通り抜ける。
ルファスも、【片眼の英雄】も、スレイプニルも、ほんの一瞬だけ存在の軸をずらしたことで、その圧壊をまともに受けずに済んだ。
通常のX軸・Y軸・Z軸のどれにも属さない、別の座標面へと跳躍した結果だった。
それは大げさな転移ではなかった。
別の世界へ逃げたわけでもない。
ただ、攻撃判定よりわずかに外れたのだ。
それだけだ。
圧力が過ぎ去る。
潰れる音が遠ざかる。
再び座標が戻った時、周囲の宇宙はごっそり削り落とされていた。
光も塵も残っていない。
マナ・キャンサーを中心に、一帯はただの空白へ変わっている。
その空白の中に、ルファスは存在しており怪物と相対している。
空白を塗りつぶすほどの深紅の輝きを放ちながら。
彼女が腕を掲げれば深く繋がった【片眼の英雄】も同じ動作を取る。
次に発現する力に癌は微かな驚きを見せるように瞳孔を縮小させた。
「意外か? 学習と理解は誰にだって出来る事だ」
ルファスは兵器群を知るために、そして女神を理解するために、アロヴィタイトについて学び続けていた。
彼女は力任せに殴るだけの存在ではない。
理解し、盗み、使えるものへ変えるだけの知性も持っている。
もちろん、完全に使いこなしたわけではない。
今できるのは、あくまで部分的な再現だ。
それでも十分だった。
【片眼の英雄】の掲げた腕へ真紅の光が集まり始める。
それはアロヴィタイトに似ていながら、性質はまったく逆だった。
神の奇跡を物質へ落としたものではない。
ルファス自身の“力”を、そのまま形にしている。
深紅の光が宇宙を染める。
ルファスの掌から流れ込むのは、魔力と呼ぶには純粋すぎる何かだった。
それは【片眼の英雄】の腕先で凝縮され、一つの槍の形を取っていく。
【大神の槍】
それは魔力でも天力でもない。
ルファス・マファールの意思そのものを武器の形にした槍だった。
仕組みとしてはアロヴィタイトに近い。
アロヴィタイトが神の奇跡を三次元へ落とした物質なら、こちらは新たな女神であるルファスが、自分の意思をそのまま武器へ変換したものだ。
この槍の能力は極めて単純だった。
ぐちぐちと無駄な能力を付与する暇などない。
この次元での戦いはシンプルな能力に回帰する。
即ちルファスが「当たれ」と思えば当たる。
「貫け」と思えば貫く。
「滅ぼす」と決めたなら、滅ぼす。
つまり、この槍は過程を必要としない。
結果が先に決まり、そこへ世界の側が合わせられる。
飛ぶから当たるのではない。
当たると決まっているから、飛ぶのだ。
理屈などはない。ルファスが決めたからそうなるのだ。
【片眼の英雄】の片眼が光る。
スレイプニルが脚を振り上げる。
八本の蹄が一点を蹴り込み、その反動で深紅の槍が射出される。
投げた、というより結果を放った、と表現した方が近い。
深紅の閃光が宇宙を貫き、一直線にマナ・キャンサーへ向かった。
【大神の槍】は、放たれたというより命中が先に決まっている武器だ。
逃げようと防御しようと当たると言えば当たる。
何故ならばルファスがそう決めたから。
ルファスが「当たれ」と決めた時点で、結果はほぼ確定している。
だから深紅の槍は、ただ一直線にマナ・キャンサーへ向かって伸びていく。
宇宙を裂き、空間を貫き、途中の過程を無視するように進んだ。
「─────」
ここで初めて、マナ・キャンサーの複数の瞳が一斉に槍を見た。
これまでルファスをまともに脅威として見ていなかった怪物が、ようやく対処を始めたのだ。
右腕が持ち上がる。
同時に、その右半身が崩れるように分解され、周囲の癌化マナへ拡散していく。
ばらばらになった粒子はすぐに周囲のマナと接続し、数万キロ規模の空間を使って新しい構造を作り始めた。
やがて空間そのものが形を取り超巨大な狼の頭部が出現する。
それは【狼の冬】に似ていたが、もっと単純で、もっと明確に“喰う”ことへ特化した形だった。
白く、冷たく、美しい巨大な狼の顎。
名を【狼の顎】
マナ・キャンサーは、あえてこの形を選んだ。
ルファスの神話的な神像に対し、その神を喰う形で迎え撃つつもりだったのだ。
ある世界において叡智の大神は凍り付いた狼に食い殺されたという。
で、あればその通りにしてやろう。
巨大な顎が開く。
その口の奥は真っ黒で、どこへ繋がっているのかも分からない。
底の見えない空洞だった。
そして、その顎が閉じる。
バクン。
深紅の槍は、そのまま喉の奥へ飲み込まれた。
マナ・キャンサーはその場に静止し、処理結果を確認する。
しばらくして再び顎を開いたが、そこに槍はなかった。
【大神の槍】は消えていた。
喉奥の深淵に吸い込まれ、完全に処理されたように見えた。
ガンは頭を傾げた。思ったよりも呆気なかったなと思っているように。
一瞬、静寂が戻る。
だがその静寂には違和感があった。
狼の内部から、かすかな音がする。
マナ・キャンサーがわずかに先とは反対に首を傾げる。
無数の瞳孔が一斉に動き、喉奥を覗き込んだ。
その直後、赤い光が見えた。
狼の喉の奥から、深紅の光がじわじわと漏れ出してくる。
次の瞬間、マナ・キャンサーの右半身が内側から破裂した。
単なる爆発ではない。
深紅の力が内部から広がり、右半身を構成していた細胞、マナ、構造、その全部をまとめて塗り潰して消し飛ばした。
吹き飛んだ破片はすぐに光の粒となり、周囲の宇宙構造さえ巻き込みながら蒸発していく。
つまり【大神の槍】は止められていなかった。
【狼の顎】に飲み込まれたように見えても、内部から結果だけを押し通したのだ。
防いだつもりでも、防ぎ切れていなかった。
右半身を失ってなお、マナ・キャンサーはすぐに体勢を立て直す。
断面から溢れているのは血ではなく、濁った蒼い光だった。
無数の瞳孔が螺旋状に回転し、状況を再計算している。
そこには初めて、はっきりとした困惑があった。
想定外。
そう判断したのが見て取れる。
こんな事もあるのだな、と自分の損耗を幾つもの瞳孔がじっくりと見つめていた。
そして次の処理へ移る。
破損した右半身の細胞が一斉に脈動を始める。
同時に、宇宙全域に散っていた癌化マナが共鳴した。
マナ・キャンサーの細胞一つ一つが光り、全てが同時に一つの意思によって動く。
この怪物は、細胞単位で一致団結し、同時に計算できる。
【
【
二つのスキル名が、空間へ刻まれた。
まず【アルタルス】だ。
戦闘不能になった時に一度だけ発動出来るカウンターというよりは最後っ屁にも近いオリジナルのカルキノスの切り札。
それがアルタルフである。
その効果は次に行われる攻撃のダメージを倍化し
その一撃に限り世界が設けた限界ダメージである99999の壁を突破させるである。
これを破壊された全ての細胞が同時に発動させた。
次に【アクベンス】である。
こちらは受けた損傷を増幅し、相手へ返す必中カウンターである。
そして今回の発動は、普通の規模ではなかった。
損傷した細胞の数だけ、カウンターの式が重なっていく。
受けた損傷を一・五倍にして返す。
その処理を、壊れた細胞の数だけ何重にも倍々に積み重ねる。
問題は、その細胞数が常識外れだという点だった。
マナ・キャンサーの細胞は、銀河の星数に匹敵する規模で存在している。
その膨大な“存在の破片”が一斉に計算へ参加すれば、反撃の規模もまた天文学的なものになる。
左眼がわずかに光る。
それが演算完了の合図だった。
次の瞬間、ルファスの眼前で、汚染された宇宙全体が光り始める。
空間が震え、星々が反転し、世界そのものがカウンターを開始。
莫大な殺意が飽和し宙を満たしていく。
ルファスはマナを通して、この怪物の思考を読み取った。
“その力、大きすぎる”
“修正が必要だ”
カルキノスの誰かを守るための力。本来なら守りのためにあったスキル。
十二星天の誰もが攻撃には使えないと考えていた力。
ルファスだってそうだった。
しかしそのおぞましい使い方を彼女は知ることとなる。