ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
アリストテレスの誘惑がミズガルズを包む。
女神の欺瞞とミズガルズに約束された絶望を囁けば人々は揺れる。
この世界で生きていたとしてもいつか必ず絶望の底に落とされるのが約束されていると知れば誰だってそうなる。
惑星の裏側まで響くような、静かな囁き。
それは祝福のようでいて、まるで葬送の旋律のようでもあった。
【ケバルライ】を通じて流れ込む真理。
アリストテレスは何一つ嘘を言っていない。
アリストテレスの誘惑は、誰の耳にも優しく、残酷なほど穏やかだった。
この世界は、神が最初からそういう風に設計した。
幸福は罠、希望は延命、愛は傲慢。
終わりを迎えるその瞬間まで、人は悲しみのために生きる。
アロヴィナス神の視野は一つの人生という単位にはない。
今世が不幸で何も報われずに死んでも“次”があるじゃないですかと彼女は考えている。
ヴァルハラという魂のリサイクルシステムを作った彼女にとって今というのは余り重視しないものだ。
何万回、何億回と死んでもその果てに一つの満ちた人生があるのならばそれでいいと彼女は思っている。
そしてその言葉が正しいという証拠などそこら中に転がっていた。
かの女神の信徒たるパルテノスを離反させた世界の痛みの数々。
凍えた道端に転がる亡骸。
飢えに倒れた子供を抱え泣く母親。
英雄を讃える像の足元に積み上がる、無名の屍。
ルファスでさえあの日プランと出会えなければ何も残さず森の一部になっていただろう。
この星に生きるということは、何かを失うことと同義だった。
幸福は、より深い苦痛の前兆にすぎない。
だからその言葉は真実であり、優しい嘘よりも危険だった。
悲劇と悲劇と絶望に満ち満ちた女神のおもちゃ箱がミズガルズというのは誰もが薄々察していた事だった。
それをアリストテレスは突き付けた。
───このまま生きていても良いことなど何もない。
───諸君らの幸せは全てはその先に待つ絶望の深さを証明するためにある。
ミズガルズは絶望に満ちた世界。
それは事実だった。
だからこそこの安楽死への誘いはとてつもない甘美さを帯びる。
そして最後にアリストテレス兵器群は創造者から受け継いだ最たる感情を女神へと送り付けた。
『お前は誰も愛してなどいない。誰もお前に感謝などしていない。お前の自慰に付き合うのはうんざりだ』
一瞬だけ女神は全ての動きを止めた。
そして、震えだす。
極点で女神が頭を掻きむしり狂乱し叫んでいる。
誰かと話などしたこともない女だ。
こうやって自分の世界を全否定されなどしたら傷つく。
───違います! 私は貴方たちを愛している!! だって、あの子はあんなにも幸せそうだった!!
───私は皆を愛しているのです!! どうしてそんなことを言うのですか!!
『負けるな』
その声は、怒号でも祈りでもない。
ただ、心の奥底を震わせるような温もりを持っていた。
彼女は願っていた。
命令ではない。
彼女は乞うていたのだ。
『逃げるな……諦めるな。
この世界が絶望で満ちていようと……それでも、生きてくれ』
ルファスの声が、黄金の果実の回路を通じて人々に響いた。
支配の術ではない。命令でもない。
ただの“願い”だった。
ミズガルズが女神に最も愛された絶望の世界であることは、彼女自身が最もよく知っている。
神の裁定も、天の残酷も、誰よりも味わってきた。
彼女でさえ一度……いや、二度屈したこともある。
過去に、彼女は全てを投げ捨てようとした。
心が砕れ、魂が枯れ果て、何もかも壊しておしまいにしようとした。
だがそれでも手を伸ばし続けてくれた人達がいた。
そんな人が作った作品が全てを終わらせようとしている。
こんな残酷な皮肉があっていいものか。
だからこそ、今の彼女の声は震えていた。
それでも、と。何度だって。
「……この世界がどんな地獄であっても、余は諦めぬ」
天を仰ぎ、じくじく痛む掌を握り締める。
彼女の中の人の部分が、なおも世界を掴もうと藻掻いていた。
「神が絶望を定めたなら、余はそれを打ち砕く。
死が救いだと言うなら、余が“生きる”という願いを絶やさない」
その為の世界をルファスは作ってきたつもりだった。
街道で野たれ死ぬ者を消し去り、飢える子供を駆逐する国を彼女は作ってきていた。
「だから……そちらに逃げるな」
絶望は真実だ。
それを否定することは誰にもできない。
けれど真実が正しいとは限らない。
マナ・キャンサーの光輪が人々の意識を包み込む。
その一方で、ルファスの声を聞き届けた人々は瞼を開いた。
世界は少しずつ良い方向に進み始めていると知っていた人々だった。
本来ならばそれを維持し支えるのが兵器群の役目だった筈だという言葉が一つ、兵器群の思考にノイズとして刺さった。
誰かの名前を思い出した者。
もう一度、笑顔を見たいと願った者。
愛する人の手を離さなかった者。
それらの意思が、マナ・キャンサーの同調波をわずかに乱した。
甘い旋律の中に、ノイズが混ざる。
【一致団結】は本来、全ての意志が同じ方向を向くことで出力を上げていく。
だがそこに異質な意志が紛れ込めば、構造そのものが歪む。
ルファスは眼を細めた。
空に満ちるミズガルズから収奪された光の海。
それが今や、二つの色に分かれようとしている。
蒼白く、安息を象徴する帰還の光。
そして、深紅に燃え、痛みを伴いながらもなお進もうとする生の光。
ギギギギギギギという金属が強引に引き伸びるような音と共にアリストテレスの構造が軋む。
アリストテレス兵器群はミズガルズ人類を保護し管理するためにある。
その至上命題の達成が困難になりつつあるせいでエラーが生じているのかもしれない。
ぐるんと幾つかの瞳孔がルファスに向けられる。
無機質で感情の宿らないそれらは一瞬だけ不気味に光った。
状況は余りよろしくない。
効率が落ちている。
一致団結に奇妙なノイズが混じったせいで収容速度は明らかに劣化。
これは解決しなくてはならない案件だ。
故にきっと彼女はこう思ったことだろう。
“アレ……邪魔だな”
種火の完成まで残り400秒。
収奪され構造体に練りこまれた銀河の個数は既に5000億を超えていた。
それらは積み重なるたびに重力の如く更に引力を増して女神の宙を一転に向けて引きずり込み続ける。
世界が折りたたまれていく中、ルファスとマナ・キャンサーの衝突は規模を増し続行される。
もはやレベルが1000とか2000とか、そういったつまらない要素など何の意味もない規模の力が平然と行使される。
ルファスに向けて掌を翳し、癌は再びぎゅっと拳を作った。
【テグミン】
防御力を上昇させるスキルが歪曲された解釈で用いられ空間圧縮としてルファスに襲い掛かる。
不可視かつ防御不可能な瞬間圧縮をルファスは翼を広げ、光速など置き去りにした加速で飛翔を得て回避する。
彼女の軌道をなぞるように四角い空間の箱がいくつも発生し、それは内側へと惜し潰れて消えていく。
マナ・キャンサーは頭を傾げる。うむ、中々にすばっしこい。
すばしっこいのならば、当たるまで発動し続けるだけだ。
何、時間がかかればかかる程こちらは有利になっていくのだから。
【テグミン】
カルキノスの友や仲間を守るための力が最も彼が守りたいと思うルファスを殺す為に発動する。
空間が更に立方に切り分けられ、ルファスを圧縮せんと内側に潰れる。
両翼が大きく羽ばたき、無尽蔵の浮力をルファスに与えた。
更に更に、光を置き去りにするほどの速度を得た彼女は難なくそれらを回避する。
【ドロップニル】によって学習した一時的な“軸”移動。
それをモノにした彼女はアタリハンテイが発生する一瞬だけ別の軸に飛翔し【テグミン】の効果から逃げている。
ソレに対してマナ・キャンサーの対応はシンプルだった。
即ち当たるまで放つ。
無数に連打し、一発でも命中すれば空間に閉じ込められ動きが止まる。
そうなれば後は滅多打ちだ。
回避軌道を描いた軌跡の裏で、立方の空間が一斉に潰滅。
無音のまま世界が削ぎ落とされた。
質量保存の法則など無視し、宙から確かに空間の容量が減った。
マナ・キャンサーが動いた。
本腰を入れたというべきか。
しなやかな女の指がぎゅっと握りこまれた。
【テグミン】発動の速度───圧縮空間の生成速度が上がる。
目には映らない四角の檻が、閃光よりも速く幾重にも重なっていく。
もはや攻撃ではない。これはルファスというイレギュラーへの処理行動だ。
ルファスの視界が瞬時に暗転する。
見渡す限りの宙が、“面”として閉じていく。
また微かに見えていた星々の光さえ潰えていった。
幾何学の檻が押し寄せる。
時間さえ潰れていく。
それでも彼女の表情に焦りはなかった。
彼女は薄く笑う。
頭の中に浮かんだこれの打開策、それを実行したらどうなるかが楽しみなのだ。
覇王を前に同じ手を何度も使うのは悪手でしかない。
そして彼女は必要とあらばこういうことだって行う女だ。
「確か“クレイモア級”といったか?」
「アレの発想には本当に驚かされたものだ」
ルファスの両翼が、夜の空を引き裂くように開いた後に閉じる。
万歳するように翼を頭の上で頂点を結ばせる。
翼という天翼族だけが持つ象徴的な部位の中を天力と魔力が流れていく。
右翼は魔力を。
左翼は天力を。
二つの力は両翼の頂点で合流した。
【エクスゲート】
余りに小さく目視さえ不可能なほどにコレは小さい。
ナノ単位にも満たない小さな噴出口が、羽端の一瞬の閃光とともに開く。
アリストテレス兵器群が開発し運用する【クレイモア級自滅攻撃ゴーレム】がこの技術のオリジナルだ。
あれは単分子程度の切っ先にエクスゲートを展開し、相手の防御を無力化し刃を突き刺す兵器だった。
一度目の兵器群との衝突においてアレにはルファスも手傷を負わされたことがある。
優れた概念や技術はたとえ敵が開発していたとしても取り入れる。
ルファスがやったことはソレだけの話だ。
明滅する「穴」……極小のエクスゲート。
見た目には───訂正。
目視できないほどの黒点だが、そこは女神の縫い目が薄く剥がれた場所であり、速度も時間も形を狂わせる回廊だった。
圧縮の壁が迫る。
四角い箱群が内側へと押し潰れ、周囲の世界を切り落としていく。
その瞬間、ルファスは翼を折りたたみ、一本の槍のように重ね合わせた。
先端の【エクスゲート】が壁面に穿たれる。
穿たれた“穴”は、まるで針で薄紙を突いたように空間の連続性を引き裂き、そこへ彼女は拳を叩き込む。
完全に何の瑕疵のない壁にほんの微かな亀裂を差し込めば、そこから傷は連鎖的に広がりやがて正方形の力場は砕けてしまう。
懲りずに癌は何度も何度も【テグミン】を放ち続ける。
しかしルファスもまた同じように対処するだけだ。
───コツは掴んだ。
翼の先端が震える。
片翼に天力、片翼に魔力。
その二つが一点で交わり、極小の“黒”がまたひとつ生まれる。
拳を叩き込む。
破砕音はない。
ただ、世界が一瞬だけ遅延した。
存在の連続性に針の穴が穿たれ、そこから空間の破片が反転する。
空間の破片がガラス細工の様に崩壊を誘発する。
テグミンによって押し潰されるはずだった“面”が、逆に内側から爆ぜる。
攻撃を逆に砕き返すごとにルファスは加速を増し、次の穴を穿つ。
光速を置き去りにした加速は彼女の身体をほとんど摩擦のない流体のように変え、拳が通過した軌跡だけが余韻の様に空間を歪めている。
ルファスは舞うように拳を振るった。
翼の軌跡が連続する“穴”を描く。
拳がそこに突き入れられるたび、世界は砕け、音もなく塵となる。
撃ち抜き、穿ち、抉り、また穿つ。
圧縮空間の連鎖は止まらない。
しかし、砕ける速度も止まらなかった。
天と地の中間で、二つの力がぶつかり合う。
時間にして2秒にも満たない攻防だったが、マナ・キャンサーは攻撃を停止する。
このまま続けて時間の経過を待つのもいいが、出来ればここでこのイレギュラーは消しておきたい。
無数にある瞳孔の内の一つしかマナ・キャンサーはルファスに向けない、筈だった。
残りの全ては人類の収穫と構造体の維持と種火の作成、膨張しようとする女神の宙をねじ伏せる事に向けて使われている。
人類の収穫、宇宙の圧縮、構造体の維持、そして女神の宙との拮抗。
これらに比べれば覇王など今の癌にとって些事でしかないというような態度だった。
二つ、三つと幾つかの瞳孔が更にルファスに固定された。
覇王ルファス・マファールの排除が上位タスクにやってきた故の行為だ。
ルファスの超感覚は確実に世界が縮みだしているのを感知していた。
呼吸の一拍ごとに、世界が狭くなっていく。
圧縮され、歪み、凹んだ空間の端が彼女の頬を掠めた。
音も光も重力も、今この宙域では意味をなしていない。
マナ・キャンサーが両腕を大きく広げ、パァンと音を立てて合掌する。
発動されるスキルは変わらず【テグミン】だ。
しかしその規模は今まで行使されていたモノとは比べ物にならない。
マナ・キャンサーの瞳孔群の半分が一斉にルファスを捕捉した。
冷たい光が瞬き、次の命令が発せられる。
【テグミン】――多重同時展開。
圧縮空間の層が三段、六段、九段と重なっていく。
それはもはや局地的な攻撃ではなかった。
構造そのものを折り畳み、ミズガルズの軌道ごと呑み込もうとする天の意思だ。
地平が軋む。
星が圧し潰され、星雲ガスが吸い上げられる。
重力に似通っているが、実際は違う。
空間そのものが縮んでいるのだ。
だが、それがどうした?
ルファスは拳を止めない。
呼吸を合わせるように翼が開き、次々と“穴”を穿つ。
撃ち抜いた空間は亀裂を広げ、癌の檻を粉砕していく。
粉砕。
粉砕。粉砕。
粉砕。粉砕。粉砕。
幾ら壊されようとマナ・キャンサーは淡々と術を無限に重ねていく。
何時までやるか? もちろん時間切れになるか、ルファスが死ぬまでだ。
終わりは来ない。
破壊した分だけ新たな檻が生まれる。
“癌”の圧縮に容赦はない。
彼女は比喩抜きで殺すまでやるつもりだった。
焦燥も恐怖もなく、ただルファスは息を吸い込む。
「同じ手を何度も何度も……貴様の創造主は幾つもの手札を駆使していたというのに」
そう呟いた時。
マナ・キャンサーの全瞳孔が同時に閉じた。
その掌が、ゆっくりと合わさり、互い違いにねじられる。
空間が歪む。
ミズガルズの太陽が一瞬だけ点滅した。
いや、太陽さえ巻き込まれたのだ。
恒星を失ったミズガルズは8分20秒後に光を失うことが確定した。
問題は8分20秒あとに宇宙は存在していないことだが。
ルファスはチラとソレを見て内心で「後で恒星を作らないとな」と思い、恒星の内部構造を頭の片隅から引っ張り出しておくのだった。
生成された【テグミン】の規模は――1AU。
星系そのものを圧縮し、中心の一点に叩き潰す“女神の掌”である。
そこに更に内部の破壊力を上昇させるため、構造体に取り込んでいた銀河を1万程消費し熱量に変換。
銀河一万個分のエネルギーをルファスを中心に圧縮して叩き込むつもりだった。
宇宙が悲鳴を上げる。
空間が折り畳まれ、惑星の軌道が内側に滑り落ちていく。
時間の流れが渦を巻き、世界の終焉が一点に収束する。
その中心に、ただ一人。
ルファス・マファール。
彼女は脅威を前に笑っていた。
両翼を交差させ、頂点に再びエクスゲートを作る。
光と闇の接点が閃き、壁面に小さな“穴”が穿たれた。
そして次の「壁」にぶつかる。
さすがのアリストテレス兵器群。
さすがのマナ・キャンサー。
【エクスゲート】に対する対抗手段として幾層にも【テグミン】を重ねて穴の開いた箇所を補修させているのだ。
かつてルファスも用いた一枚ごとに微妙に力の位相をズラすやり方で【エクスゲート】による開通を阻止している。
ルファスとマナ・キャンサーは戦いながら無限に学習し適応を続けていた。
互いが互いを脅威と認識、敵を抹殺するために進化している。
ルファスと癌は互いに相手をこの世界に有ってはいけないモノと認識している。
マナに誰よりも愛された覇王とマナを汚す病魔の食い合いだ。
紅い瞳が細まった。
翼がほどかれ【エクスゲート】を解除。
バサリと大きく一回だけ羽ばたく。
───ルファスの手にはいつの間にか二振りの剣が握られていた。
世界が滅びても残り続けると伝えられるのがこの剣だった。
脚色された話だと誰もが笑うだろうが、ルファスはそうは思わなかった。
誰が作ったかも不明なただいつの間にかそこにあったとされるこの剣には謎が多い。
ルファスは所有者であり使い手でもあるが、その実この剣のことは殆ど知らない。
ただ……言い伝えは事実なのだろうなという確信はあった。
彼女は剣に語り掛ける。
覇王は確かに剣に宿る意思に問いかけた。
「世界が終ろうとしているのが見えるか?」
マナ・キャンサーによる宇宙の圧縮は更にけた違いに速度が上昇している。
残り数分で本当にアレはこの宇宙を終わらせ、人類を標本の様に保存し、それだけを人類と定義し女神の極点を壊しにかかるだろう。
存在する全ての世界と極点という御座を飲み尽くし、やがては女神さえも吸いつくすのがアレだ。
その果てに何がある?
何もない。何も。
プラン・アリストテレスには良い世界というものが判らなかった。
そんな彼の虚無を後継してしまったあの存在は未来を作れないし、作り方も知らない。
「其方は世が終ろうとも存在していられると聞く」
「だが……誰もいない世界にただ一つ残されるのはごめん被る筈だ」
全ての世界の終わり。
そんな中、世界が終わっても存在できるとされる剣は果たして残れるのだろうか。
そして仮に存在できたとしても、後に待つのは無限の虚空でしかない。
──使い手のいない剣に何の意味がある?
──切る相手のいない剣に何の価値がある?
──そんな世界を、其方は願うか?
ルファスの質問に答えるように二振りの姉妹剣【リーヴ/スラシル】がほどけ合う。
まるで元々そうであったかのように一本の長剣へと新生したのだ。
マナ・キャンサーによる世界の終焉を決して認めないという意思の表れだった。
ルファスは剣を両手でしっかりと握りしめた。
初歩の初歩。
まだ彼女が幼いころ、プランから一番最初に教わった剣の正しい握り方。
攻撃と防御。
どちらにも即座に移れる中段の構えと呼ばれる姿勢。
どれだけの力やスキル、女神の力などを手に入れようと最後にモノを言うのはこういった基礎だと彼女は知っている。
「行くぞ」
ただの振り下ろし。
だが、それは“斬撃”などではなかった。
天力と魔力を切断する一対の剣が合わさり、それは【エクスゲート】の亜種を形成し線を世界に走らせる。
剣が振り下ろされた瞬間、世界の構築が一度白紙に戻された。
空間の座標、時間の連続性、マナの流れ――そのすべてが“再計算”を始める。
重力も、熱も、観測も存在しない“白”の無の中。
次の瞬間、音もなく、宇宙が裂けた。
世界の構造を紐解くエクスゲートが切断に用いられた結果だ。
多重展開されていた【テグミン】の檻が、その全層にわたって座標単位で分離した。
空間と空間の「間」にわずかなズレが生じ、宇宙は二つの異なる“座標”として同時に存在し始める。
ピキキとマナ・キャンサーの身体に線が走り、ズレていく。
左の肩口から腹部にかけて斜めに癌は斜めに切り崩されていた。
瞳孔が傷口を見て収縮と拡大を繰り返す。
斬られた、という事実を誰も観測できなかった。
マナ・キャンサーの瞳孔群が数億の瞬きを繰り返す。
それぞれが情報を送信し、報復/カウンター命令を出す――しかし。
損傷が、ない。
細胞は“自分が斬られた”という出来事を観測できていない。
アクベンスなどによるカウンターは癌細胞が己が傷つけられたと判断して初めて発生する。
しかし損傷を認識できないのが今だ。
よってアクベンスをはじめとした自動反撃アルゴリズムは発火しなかった。
……これは不具合ではなかった。
身体が両断されているというのに、細胞はダメージを受けていない。
細胞と細胞の間にある細胞間隙に彼女は剣線を走らせたのだった。
故に切断されているというのにダメージはないという意味不明な挙動が起きている。
ルファスは【観察眼】を発動させ、どうなるかを観測していた。
まず切断された断面の奥では、無数の微光が蠢いていた。
それは、マナであり、血であり、情報だった。
だが、マナ・キャンサーのそれは普通の流体ではない。
生きている。
アリストテレスの生命への理解とマナへの知見、そしてあらゆる技術を注ぎ込まれたコレの本質にして恐ろしい点はそれに尽きた。
生きているのだ、死なずに、永遠に。
ひとつひとつの癌細胞/癌化マナは、自己完結した宇宙のように振る舞っていた。
核は意思を持ち、細胞膜は言語を発し、隣の細胞へと自己の“正義”を伝染させていく。
彼らは互いを「他」と認識しない。
すべてが同じ“自分”である故に一致団結なのだ。
それゆえに、詳細ないちいちの命令は不要。
マナの流れに乗って一つの細胞が思考を持てば、他のすべてがそれを超感覚で同期して感じ取る。
神経伝達でも、通信でもない。
それは全能的な共鳴――個が群となり、群が再び個へと還る生命の根源的な同化能力だ。
断面から伸びる微細な糸の糸が、空間を這う。
触れた空間そのものが波紋を描き、幾何学的な模様を刻んでいく。
その動きはまるで血管新生のようだった。
必要な栄養であるマナや物質を得るために、癌は自らを再び転写する。
彼女を構築した壊れたマナは、空間そのものを“栄養”と認識する。
結果、周囲の時空間が溶け出し、新しい養分となって癌へと流れ込む。
また少し、女神の世界が癌の栄養となって利用された。
時間そのものが、癌の代謝として利用されている。
一秒ごとに、無数の細胞が増殖し、崩壊し、自己コピーを行う。
その総数は指数関数的、いや、階乗的に膨れ上がっていく。
直ぐに身体は癒着され、神の癌の復元は終わる。
観測できぬ速度で、マナ細胞たちは蠢き、増殖し、分裂する。
それはまるで、星雲の形成のようでもあり、海月が潮に乗るようでもあった。
美しい。しかしこれを許せば世界は終わる。
ルファスの観察眼が、その全容を解析していく。
マナ・キャンサーは生命であり、病理であり、理の外側の自然現象。
これがどんな原理で動き、どんな方法で増え、どんなやり方で女神を殺すか察していく。
しかしそこでルファスは終わらない。
彼女はプラン・アリストテレスの弟子だ。
彼から受け継いだ考え方というものがあった。
前提として畏れは必要だ。
ただし亡霊だの、呪いだの。
ただやみくもに怖がってコトの本質を理解しようとせず
それらが巻き起こす災禍を震えて受け入れるなど、ルファスの生き方ではない。
故に彼女は“癌”を徹底的に解体/解析/理解をした。
ルファスの肉体はどこまでも応えてくれる。
必須であった医学の知識は既に有り、彼女の知見を支えてくれる。
「……なるほど」
女の唇が、ゆっくりと動いた。
やる事は決まった。
彼女は二つの力を用いた。
【フィロ・ソフィア】
変質したマナを“正しい”状態に戻す治癒の理。
【ヴィンデミ・アトリックス】
正常化されたマナを、完全に除去する破壊の理。
ルファスはその両方を重ね合わせ、
治療/戦闘へと歩を進める。
二つのスキルが微妙に調整されながら混ざり合う。
【スキルエクスコアレス】を用いてルファスは始めることにした。
今まで培ってきた経験を組み立て上げ、最後に脳裏に浮かんだのは光の森でのとある光景。
出来るか? と自問自答する。
コレは下手をすれば彼女は死ぬ。
勿論彼女は断言した。
“やるのだ”
空間に輝く紅い光輪。
その中で、彼女の声が穏やかに響いた。
「病よ。お前を滅ぼすのではない」
「――“治す”のだ」
世界を蝕む病、その根底にあるプランの諦観を彼女は否定する。
その宣言を聞いたマナ・キャンサーの瞳孔が更に複数、彼女に割り当てられた。