ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
いきなりだがルファスにはマナそのものに干渉する特殊な能力が二つある。
【ヴィンデミ・アトリックス】
パルテノスが保持する能力だ。
アリストテレスからも高く評価されたシンプル故に万能な力。
効能は単純にマナそのものの除去。
有効ではあるが、癌化したマナは自律思考のような補完構造を持つため増殖による補填が早すぎる。
それに何よりマナ・キャンサーは受肉しており、マナとしての側面を消しても今度は物質としての癌細胞が残る。
物質と概念。
この二つを消さなくてはマナ・キャンサーは倒せない。
そして普通に破壊するために攻撃を叩き込めば猛烈なカウンターが返ってくるという一見すれば無敵の防御能力をもっている。
【フィロ・ソフィア】
マナ変質の正常化。
前の細胞にもそうだったように効果あり。
しかし“変異”そのものがアイデンティティとなったこの存在には根本的な治癒が成立しない。
根底にあるコードが書き換えられ固定されているとするのならば、癌化した状態が正常状態と認識している可能性もある。
即ち、マナによる変異を回帰させても更にもう一度逆転するかもしれない。
そうなると堂々巡りであり、試すとしても時間の無駄だ。
時間は着々と進んでいく。
また何億もの銀河が落下してきて構造体の中で潰れた。
もはや天の川は崩壊していた。
光さえ巻き込まれたせいで宙にあった色とりどりな星雲は消えうせ、蒼だけが残っている。
ではどうするか?
もちろんルファスは世界を終わらせるつもりなどない。
一つではだめならば───混ぜればいい。
二つの長所をかけ合わせて新しい癌への特攻能力を編み上げるのだ。
無茶苦茶な話ではあるが、それをしなければ世界は終わる。
故に彼女はやった。
ルファスは【フィロ・ソフィア】と【ヴィンデミ・アトリックス】の二つを融合させた新たな力を宿した剣を癌に叩きつけてその構造そのものに斬撃を与える。
大事なのは処理の順番だった。ただ同時に発動させても効果は薄い。
故に優先順位をつける。
まず第一に【フィロ・ソフィア】がマナを正常な状態に戻す。
続いて発動した【ヴィンデミ・アトリックス】がそれらが癌に戻る前に除去する。
右腕、肘から先が消えうせたマナ・キャンサーは欠損した部位を不思議そうに見るだけだった。
やはりカウンターが発火しない。
破壊ではなく除去というのが大事である。
ダメージを与えるのではなく消し去る故にカウンターは発動しない。
言葉遊びにしか思えないが、それを押し通せばそういうことになるのがこの世界だ。
シュウウという煙と共に瞬間的に腕が再構築される。
真新しいソレの指を開閉しながらマナ・キャンサーは瞳孔の4割ほどをルファスに向けている。
(ポルクスに感謝しなくてはな)
(あの者の判断は正しかった)
ソドムで一度だけ片鱗と戦ったことで情報を得られて本当に良かったと彼女は思っていた。
いきなりコレとぶつかっていたらどうしようもなかった。
そして何より遥か昔、プランの為に医術を学んでいたおかげで今こうして対処出来ている。
結果としてわかったことがある。
こいつは複雑な手順を踏まないと倒せないということが。
マナ・キャンサーに対して単純な力押しは効果が薄い。
必要なのは膨大な専門的な知識だ。
これでようやく無敵と思えたマナ・キャンサーに対する有効打が完成となる。
しかし、あまりに火力が足りていない。
この存在の総体を削り切るには余りに時間がない。
ルファスの力をもってしてもそれが現実だ。
更に構造体が圧縮されていく。
既に宇宙の3割は飲み込みつつあり、世界の寿命は当初の半分──300秒を切った。
まだ7割あるじゃないかと思うだろうが収奪と圧縮は無限に加速し続ける故に、計算は早まることはあれど遅くなることはない。
そしてどれだけこの女神を模した怪物を攻撃しようと決して収奪を止める様子は見せない。
(あと5分……)
ルファスのマナを可視化できる瞳には構造体はおぞましい存在に映っている。
宇宙を飲み込み形成されつつある超巨大かつ超高密度のポリープ。
アレが完成し炸裂を許せばソレは即ち女神の終わりにして全宇宙の終焉だ。
落ち着けと彼女は自分に言い聞かせる。
比喩でも何でもなく今彼女の背には全生命体の未来が乗っている。
その重さは覇王をして圧を覚える程だ。
ルファスの脳裏にプランの姿が過ぎる。
あの時、彼の体内を蝕んでいた癌細胞。
結局、ルファスは彼を治すことは出来なかった。
ルファスはプランが己の作った薬品を飲んだところを見ていないのだ。
彼女は自分の作った薬が本当の意味で彼を完治させたことを知らない。
マナ・キャンサーが無言で佇む。
こてん、こてんと首を左右に倒し演算しているようだった。
次に何をするかは決まっている、後はどう実行するかだけだ。
神の癌。
皮肉なことにコレの構造はプラン自信が癌を患った──ルファスが刻んだ──おかげで完成度を跳ね上げさせた。
つまり因果を辿ればルファスはコレの創造主の一人でもあった。
故に彼女がこれを治さなくてはいけない。
彼女が思考を巡らせる間にも、マナ・キャンサーの波動は広がっていた。
全人類の存在に通じる一致団結の回路。
そして今、ミズガルズにおいてはアロヴィナス神は狂乱し全人類に対して無尽蔵に天力を送り込んでいる。
つまり極点に繋がる回路をマナ・キャンサーは補足した。
メリディアが女神の干渉に気づいた時点でこの迎撃案は立案されており、それが形となる。
女神がミズガルズへ降り注がせた天力の流れが、癌の手で掌握/反転する。
天力は本来、存在を補強する。
保守し、維持し、繋ぎ止める――女神の権能の半分だ。
だが、それが癌化したマナと結びつき回路の中身は行き先を変えた。
「保守」は歪んだ「増殖」に。
「維持」は歯止めのない「侵蝕」に。
「団結」は理解という名前の「捕食」に。
取り込み分解し保管した人類。
そしていま正に一致団結で捕捉し接続した人々。
全ての命にアロヴィナスが送り込んでいる加護をキャンサーは飲み込み始めた。
天力はいまあるものを補強し活性化させる力だ。
ソレが癌に結び付いた結果をご覧あれ。
[走査] ミズガルズ住民反応を検出
[分類] 全接続対象を資源として再定義
[追跡] 全資源に天力受給ラインを確認
[解析] 供給源:女神アロヴィナス
[経路図] RESOURCE-001 ~ RESOURCE-ALL
[経路図] 各資源は受動的に天力を受領中
[経路図] 全回線は概念上の共有経路を経由
[侵入] 未承認アクセス開始
[奪取] 天力受給回線を書換
[再定義] 祝福回線→資源抽出回線
[開通] 逆流経路を形成
[迂回] ミズガルズ側の制御を無視
[同期] 全資源を中枢癌工程へ接続
[抽出] 天力逆流を開始
[抽出] 資源回線は吸上げ導管として機能
[損失] 女神側供給圧が低下
[増加] 癌側貯留量が上昇
[保持] 資源群は生体導管として維持
[資源情報] 個体識別:不要
[資源情報] 記憶/自我/尊厳:処理対象外
[資源情報] 利用価値:回線安定性/流量/総収量
[結果] 天力回線奪取完了
[結果] 全資源接続完了
[結果] 女神アロヴィナスの天力流を継続吸上げ中
数億人分の加護をマナ・キャンサーは吸収しようとしていた。
天から降るはずの恩寵が、癌へと吸い込まれていく。
マナ・キャンサーの体表が、静かに輝きを増していく。
無音の鼓動が、世界全体で共鳴する。
全人類に降り注いでいた天力を全て奪い取った癌は無限に活性化を続ける。
無限に女神から力を吸い取り続け、それを用いて更に自分を作り替える。
一度だけ瞼を閉じて開けば無数にあった瞳孔は人間と同じく一つに統合され、蒼く無機質な一対の眼だけが残っていた。
髪色は更に透き通った蒼を映し出し、その先端は微かな黄金を帯びる。
その姿たるや正しく女神。
ディーナに似通っていた姿は彼女を通り越し本体そのものになりかわりつつある。
しかしまだ未完成である。
幾ら女神から力を奪い取り続けようと所詮は単一宇宙の単一惑星の、全生命体分の天力。
あくまでもガワが似ているだけで、まだまだ先は長い。
しかしその基軸は整った。
神を引きずり落とす準備は完成した。
女は視線を虚空の先に向けた。
意思がある動きというよりは何かにそう命じられたように。
“一致団結”
“送信開始”
一つに統合された瞳孔の中、蒼の虹彩の奥に濁りが滲む。
その姿は、もはや女神アロヴィナスの幻影そのもの。
癌は天力を無尽蔵に彼女から吸い上げながら、静かに地へ降り立つ。
星々の残骸がその足跡の波紋で軌道を外れる。
だが、彼女の歩みはあくまで静かだった。
音を立てぬまま、天が軋む。
空気が──否、時空そのものが圧縮されていく。
彼女は拳を握る。
その握りの所作に、美学すらあった。
回収した全ての人類の記憶を軸に瞬く間に新しい格闘術を練り上げて創造する。
ルファスという厄介な存在を制圧するのに必要なのは【テグミン】や銀河系を投げるような圧倒的なスケールの破壊ではないと学習したのだ。
結果、アリストテレス兵器群はルファスに対してこう対応することにした。
即ち出力を上げて物理で殴るのである。
そしてルファスが放つ己に痛打を与えうる術──【フィロ・ソフィア】についての情報を検索していく。
あの術は確か創造主が編み上げた術だった。
その効果は……検索中。検索中。
醜悪な女神の模造が進む。
マナ・キャンサーはもはや【テグミン】を始めとした空間操作の応用を用いない。
彼女はまるで戦士の様に構えた。
歴戦の格闘家の如き呼吸法で軸を整える。
柔術拳法の勁で重心を落とす。
最後に合理的な計算の基に編みだされた格闘の合理をもって最短距離を描く。
マナ・キャンサーは格闘術を齧ったモノであればだれでも夢想したことはある仮説を実現させている。
即ち、全ての才ある格闘家を統合し、その技術を集結させたら本当に最強の戦士がうまれるだろうか、だ。
瞳は何処までも無機質で何の熱も宿っていない。
ただジッとガラス玉の様な蒼く濁った瞳だけがルファスを見据えている。
ルファスは神剣を構えなおす。
向き合う蒼と紅。
紅の瞳に宿るのは恐怖ではない。
倒すべき存在への鋭い視線だけだ。
女神の癌と覇王。
両者の間を埋める空間は、まるで息を呑むほど静止していた。
──瞬間。
拳と剣が交差した。
音はなかった。
衝撃波が出るよりも先に、宇宙の常数が一瞬だけフリーズした。
ミズガルズを運営する法則にエラーが走り、全ての活動が跳んだ。
恒星の核融合が秒にも満たない時間だけ止まり、銀河団の回収が遅れる。
宇宙の曲率が波打ち、収縮が微かに静止したがすぐにソレは再開された。
剣が首を狙い迫る。
手の甲でソレは弾き落とされ、胴を捻りながら放たれた回し蹴りがルファスの腹部を薙ごうと迫るが、彼女はそれを身を逸らして交わした。
ジジジジとマナ・キャンサーの女神と同じ細足が辿った軌道の空間が癌化して汚染されていくのをルファスは見送った。
拳が剣を砕く寸前で止まる。
剣が拳を裂く寸前で止まる。
余りに凄まじい覇気を纏っていたそれらは接触を拒むように反発を生んでいたのだ。
一瞬の間の後に二人は同時に動き出した。
一拍。
音もなく、再び二人の姿が消えた。
気づけばルファスの前髪が舞い上がり、マナ・キャンサーの右拳がそのすぐ下をかすめていた。
腕の動きには一切の無駄がない。
ただ真っすぐに、敵の中心線を狙う。
わずかな体重移動で放たれた拳は、あらゆる格闘技の理論を通り越し、完成された芸術のようだった。
一つ一つの動作のつなぎ目がない、全てが連続し、躊躇いも何もない。
女神の武闘はまるで踊るようだった。
ルファスは刃を振り下ろす。
リーヴスラシルの切っ先が拳に触れる瞬間。
マナ・キャンサーは腰を沈め、体軸をわずかに外へ逃がして回避。
刃は空を裂き、女神の髪の数本だけを断つ。
身体の軸をずらした反動を利用して、拳が胸骨を狙ってくる。
掌底。
滑らかに沈み込むような軌跡。
狙いは一点、心臓。
ルファスはそれを肘で受けた。
骨と骨が触れ合うわずかな瞬間、
両者の筋繊維がぶつかり合うように波打つ。
触れた個所から何かが流れ込んでくるのをルファスは感知し呟く。
見れば肘の先、掌底と触れた個所の肌が濁っていた。
痛みはないが、火傷し炭化したような部位は不気味だ。
ルファスはそれが何であるか知っている。
生物的に言えばコレは皮膚がんだ。
今の女神は接触感染する癌であるのだ。
「疫病如きが」
低く吐かれた声は、興味と分析が混じっていた。
ルファスは女神の攻撃を交わしつつも受け止めながら、次の一撃を読んでいる。
どうやらこの存在は余に自分を転写しようとしているらしい。
望むところだった。
お前について余は誰よりも知っているのだぞと内心で呟き、体内を操作する。
マナと細胞を活性化させ、問答無用で入ってきたソレを駆逐していく。
癌というのは実のところ特別な存在ではない。
誰しも一日に幾つも生まれては消え去っているのだ。
シュゥゥゥと肌についていた黒いシミが消え去り白く戻っていく。
マナ・キャンサーの軸が僅かに沈む。
腰から肩への連動──スキルが発動する。
【螺旋勁】
拳ではなく、全身を捻り込んだ回転打。
彼女の拳が放たれた瞬間、空間が巻き込まれ、二人の間にわずかな“渦”が生まれる。
ルファスは刃を逆手に持ち替え渦の中心へ滑り込むように踏み込んだ。
金属音ではなく、骨のような鈍音が響いた。
剣と拳が弾け、火花が散る。
マナ・キャンサーの拳は硬質ではない。
柔らかく、だがしなやかに反発し、衝撃を拡散しながら殺す。
「……!」
ルファスは剣を捻る。
マナ・キャンサーは腰を回し、掌で刃を逸らす。
滑るような動作。
本当に踊っているかのようだ。
一瞬、二人の動きが鏡写しになった。
ルファスの刃が上段から振り下ろされる。
マナ・キャンサーの拳が下段から突き上げる。
その交錯点で、両者の目が合った。
再びの紅と蒼。
視線だけで読み合う。
一手先などではない。
千手、万手先まで見切り合う。
呼吸一つ、脈一拍。
それすらも武器になる。
マナ・キャンサーが空間を固定したソレ、足場を踏み込む。
裸足が宙を抉り、足裏の筋肉が蠢く。
その踏み込みに合わせて、腰が捻れる。
ルファスは刃を斜めに流し、蹴りを受け流す。
火花。
衝撃。
髪が揺れ、皮膚に亀裂が走る。
再び衝突。
拳が剣を弾き、剣が拳を裂く。
互いの速度が同時に上昇する。
二人の間にもう呼吸はない。
宇宙空間である故に当然ではあるが、二人は息一つ漏らさない。
重力も、音も、空気も消え失い。
あるのはただ、体の擦れる振動だけ。
蹴り、受け、捻り、流し。
一瞬ごとに構えが変わる。
マナ・キャンサーは一瞬ごとにあたらしい流派を無数に作り、組み合わせ、添削していた。
剛拳。
柔拳。
流拳。
次々と新しい拳技が創造され、それはルファスを相手に試運転された。
一つ一つがミズガルズに大きな影響を与えるであろう技術の数々。
だが覇王はその全てを真っ向から受け止め上回る。
拳の連撃をルファスが剣で受け流し、そのまま反転して背後を取ろうとする。
マナ・キャンサーはそれを読んでいた。
右足を軸に半身をひねり、肘で剣を受け止める。
衝撃で互いに滑り、距離が開いた。
ルファスの頬から一筋の光が血の様に流れる。
マナ・キャンサーの拳からは、焦げた煙が立つ。
互いに初めての傷。
それがどれほどの意味を持つか、二人は理解していた。
無言で視線が交わる。
次の瞬間、
二人は同時に踏み込んだ。
紅と蒼の残光が交錯し、二つの影が絡み合う。
拳が、剣が、連撃を描く。
回転、跳躍、打撃、投げ、切り上げ、斬り払い。
人の目では捉えられない格闘。
格闘戦においては全くと言っていい程に両者は互角だった。
ルファスの吐息が熱を帯び、マナ・キャンサーの瞳がわずかに揺らいだ。
お互いの身体が“互いの動き”を覚え始めている。
ルファスにとっても、癌にとっても相手は己を殺しえる敵。
つまるところ対等だった。
理解が戦いを進化させ、進化が理解を深化させる。
その瞬間、世界は再び止まった。
両者の拳と剣が同時に心臓を狙う。
だが、止まった。
どちらも止めた。
凶器が互いの心臓に触れる位置に迫りながらその先には進めない。
ルファスの心臓を守る様に展開されていたのは【ヘリオスフィア】という天法。
マナを拒絶する天力による結界だ。
惑星を覆えるほどの天力を練りこみ、それを何百にも念入りに重ねて回転させたソレは癌化したとはいえマナである女神の貫手を受け止めていた。
見る見るに暗黒色に染まっていくソレは直ぐに使い物にならなくなるが、それでも致命を避けることは出来た。
マナ・キャンサーの心臓を守るのは【テグミン】によって圧縮された空間壁。
防御に攻撃に妨害、スキル一つをここまでコレは使いこなす。
僅かに空間断層に神剣がジリジリと刀身をめり込ませていく。
恐ろしい話だ、これは銀河を複数個消費した断崖だというのに。
マナ・キャンサーが、手首を返す。
パァンと心臓に迫り停止した剣を叩き返した。
返しとして放たれた拳がルファスの頬を掠める。
掠めただけで、吹き飛んで行った拳圧に当たった星一つが潰れた。
反射的に、ルファスの背の羽根が展開される。
翼の先端が刃となり、拳の軌道をわずかに逸らす。
その瞬間、拳が触れた空間が腐蝕した。
触れた、というだけで「接触感染」が走る。
ルファスの頬に黒い筋が走り、すぐに蒸発する。
彼女の体内では抗体マナが即座に反応し、侵入を焼き払った。
以前よりも感染を除去する速度が遅くなっている。
生物が侵入者を学習し抗体を生成するようにマナ・キャンサーもまたルファスの構造を理解し、それに適合しつつあった。
プラン・アリストテレスの子でもあるこの終末装置の中にはルファスのデータもたっぷりと入っている。
彼女がまだ幼子だったころから積み上げられた研究データ。
覇王となってからのデータ。
それらすべてをアリストテレス兵器群は保持しているのだ。
マナ・キャンサーは止まらない。
彼女は舞うように拳を打つ。
掌打、肘打、踵打、背肘、流れるような転身。
柔術の流れはルファスをしてみたことがない程に流麗だった。
ルファスの剣がそれを受けるたび、キィンという金属染みた鳴き声が響いた。
拳が喉元をかすめる。
その衝撃で皮膚の下の組織が微細に裂け、
そこへ“それ”が侵入した。
黒い線が、毛細血管の中を駆け上がっていく。
静脈が黒く染まり、次の瞬間には白い光が走った。
抗体/マナが作動したのだ。
光は血流を遡り、黒を焼き尽くす。
しかし焼き切る速度が……前よりも遅い。
「悪くはない」
ルファスは笑い、剣を振るいながら軽く吐息を漏らす。
その呼吸一つにさえ、観察があった。
体内で何が起きているか、彼女には分かっていた。
マナ・キャンサーは拳を通して自分のマナ構造を転写している。
触れた箇所のリンパや血管などの回路を感染源に書き換え、それを通じて細胞ごと再構築し拡散させるのがこいつの手だ。
つまり、物理的な打撃ではなく情報的な侵入。
拳とは刃であり、同時に疫病の針だった。
ずっとルファスは細胞レベルでの同化攻撃を受けていた。
ルファスの視界の端で、マナ・キャンサーの拳が再び光を纏う。
構成されているのは、さきほどルファスの頬から採取した情報。
つまり、覇王に適合した癌細胞の種。
拳が放たれるたび、感染率が上がっていく。
ほんの微かにルファスの体内に残留した癌は本体と一致団結で情報を共有され、瞬時にアップデートされる。
ルファスの免疫を微かに超えたソレは駆逐されずに残り、彼女の体内で周囲に自分を転写し始めた。
肺から始まり、それらは血流/リンパ/マナの流れに乗り身体の方々に散っていく。
身体が微かに怠い。
節々が痛む。
戦いで負う怪我とは違う痛み、骨が腐り、血液が汚れていく苦痛。
彼女は純粋にこう思った。
(痛い)
鈍痛。
骨折や肉の切断とはまた違った沈み込んでくるような痛み。
癌に侵されたせいで先よりも身体は怠く、翼さえ思う様に動かせない。
外傷とは違う、内側からの細胞が腐敗していく痛みは筆舌に尽くしがたいものがあった。
だが同時にルファスの心は何処かで喜んでいた。
───今、私は
───プランがどんな痛みを抱えていたか、自分がどんな傷をつけてしまったか、それを知ることが出来ている。
こんなに辛かったのか。
こんなに身体は重くなり、息をすることさえ億劫になるほどだったのか。
空虚な書面からでは決して読み取れない病の本質をルファスは味わいながら歓喜していた。
彼女は笑った。
外から見れば、ただ微かに口角を吊り上げただけの笑み。
その実態は、歓喜と自己嫌悪と決意の混ざった、どうしようもなく歪な感情の噴出だった。
「ハァァ……」
熱い息を漏らす。
まるでため息の様だった。
肺が焼けるように重い。
骨の髄が軋む。
臓器ひとつひとつが、自分のものではなくなっていくような違和感。
細胞分裂のたびに、正常と異常の境界が曖昧になっていく。
マナ・キャンサーの侵蝕は、静かに、正確に、優しく進行した。
痛みはある。
だがそれは、斬撃や砲撃のような“暴力”ではない。
長く長く続く、耐えることだけを強要する苦しみだ。
(本当に)
(これは“病”だな)
彼女は実感した。
肉体が腐る速度と、抗体マナが駆逐に追いつかないもどかしさ。
自分の中で、どちらが勝つかわからない綱引きが延々と続くこの感覚。
これこそが、自分が知らなかったもの。
他人にこんな痛みを押し付けてしまった過去の苦痛。
ルファスは、身体から力が抜けていくのを感じながら、意図的に抗体の反応速度を落とした。
侵蝕をあえて許す。
肺胞の端に、小さな腫瘍が芽吹く。
肝細胞が一部、異常な増殖パターンへ切り替わる。
骨髄で、黒いノイズをまとった細胞が生まれ始める。
だが、そのすぐ傍らで。
別種の細胞が動き出した。
異常な分裂周期を持つ、それでいてルファスの“意思”に従う細胞群。
マナ・キャンサー由来のパターンを解析し、その“ズレ”だけを標的にする微細な捕食者。
マナと物質、その境界に牙を立てるためだけに設計された、彼女専用のキラー細胞。
(……よし)
体内の至るところで、実験が行われている。
筋肉、血管、神経、魔力回路。
感染した場所ごとに、ルファスはわずかに異なる免疫パターンを組み込み試していた。
成功したものだけが残り、失敗したものは自壊する。
マナ・キャンサーが“学習”で進化するように、ルファスもまた“治療”で進化していく。
同じ土俵だ。
病と、それを許さない意志の競争。
マナ・キャンサーの拳が再び迫る。
ルファスはそれを受け、流し、わざと浅く被弾する。
肩口。
脇腹。
太腿。
黒い筋が、何本も刻まれた。
抗体の光がそれを追うがやはり少し遅い。
「……ぐっ」
呻きが喉奥でこぼれる。
それは演技ではない。
紛れもなく本物の苦痛だ。
だが、目は笑っていた。
マナ・キャンサーは、その表情を見て首を傾げる。
次の最適解を探す動き。
拳の軌道に、毒のような正確さが付与されていく。
感染は加速する。
ルファスの内部は、もはや戦場だった。
しかし――それは彼女にとって待ち望んだ段階だった。
(もっと
(余の中で、お前を理解し尽くす)
彼女は踏み込む。
足裏が虚空を捉え、剣が弧を描く。
リーヴスラシルの刃先に、極小の光点がいくつも灯った。
【フィロ・ソフィア】と【ヴィンデミ・アトリックス】は幾度も行使され、その熟練度は着実に上がっていく。
最初は意識して行っていた正常化からの除去というプロセスは今や全自動でこなせるほどに最適化されていた。
剣に存在を浄化されながらもマナ・キャンサーの掌底が、再び心臓を狙う。
だがルファスは胸を開くように半歩踏み込み、その腕ごと己の間合いに引きずり込んだ。
覇王は剣を捨て去り、両腕でマナ・キャンサーの腕をつかむ。
肋骨が砕ける。
心臓には至らないまでも深々と癌の手はルファスの胸に抉りこんでいた。
途端に始まる癌化。
焼けるような痛みが内臓を這い、神経の一本一本を汚染していく。
呼吸を奪うその感覚の中でルファスは何度か咳き込む。
それでも微塵も弱った姿を見せず静かに言葉を紡ぐ。
「余の命が欲しいのだろう? 掴ませてやろう」
片唇を吊り上げ、血に濡れた笑みが浮かぶ。
恐ろしい程にその顔は妖艶であった。
「ただし……凶暴だぞ?」
冗談のような言葉に、マナ・キャンサーの瞳孔がわずかに収縮する。
ルファスの肉体の中で、異変が起きていた。
本音を言えばもう少し時間が欲しかったのも事実。
しかしあえて彼女はここで勝負を決めにかかった。
胸部の汚染された黒い細胞が崩れ落ち、再生していく。
今度は、一方的ではない。
ルファスの中で完成しつつある“血清”が、逆流を始めマナ・キャンサーの肉体に亀裂が入った。
侵入経路は掴んだ。
新しい戦場で戦いが始まる。
決着は近い。
だがこれから先はただの戦闘ではない。
拳でも剣でもない世界の命運を賭けた臨床試験。
一つの治療行為が、宇宙の行く末を決める。
マナ・キャンサーの顔の更に向こうを見ながらルファスは無意識に呟いた。
全力で握りしめた腕と胸部に突き刺さった癌に対する純粋な感想であり、いままで余り意識していなかった宇宙への想いだった。
「寒いな……」
血が泡立つ。しかし熱量は抜けていく。
だがその声は、どこか安らかだった。
まるで、遠いヴァナヘイムの夜風を思い出すように。
静かに穏やかに。
覇王の瞳がわずかに細められ、遠い過去を見つめた。