ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
───マナ・キャンサーへの評価。
吸血姫とマナ・キャンサーの戦いは当初期待されていたような激戦ではなかった。
余りに隔絶した力量の差があればこうなるという見本だ。
蟻と恐竜の間に戦闘が成立するか? という話である。
いや蟻と恐竜という比喩すら甘い。
蟻は少なくとも、恐竜と同じ「地面」を歩いている。
だが、この二者は違った。
ベネトナシュは確かに速かった。誰よりも、それこそルファスに届くほどに。
ミズガルズの法則を踏み越え世界の処理速度を裏切るまでに到達した吸血姫だ。
だが、それでも。
それでもなお、彼女は最初から届いていなかった。
そもそもの話ロットが違うのだ。
彼女は260年前の旧型。
当時のプラン・アリストテレス卿が仕上げた作品だ。
対してマナ・キャンサーは最新型だ。
その基盤が話にならないほどに違う。
考えてみてほしい。
今から260年前の技術を。
それは今とどれほど違う? 比較できる次元にあるか?
つまりそれだけの差があるという話だ。
ベネトナシュは、胸の奥に走った違和感を最初は痛みとして認識できなかった。
肋骨が軋む感覚。
内側から、何かが押し広げてくる圧。
次いで温度が失われる。
死んだとき生命からは急速に熱が消えていく。
ベネトナシュが味わうのは正しくソレだ。
「か……は」
視線を落とし、彼女はようやく自分の胸元を見た。
そこから生えている。
白く、しなやかで、神性すら感じさせるその腕が。
ベネトナシュは茫然とした顔で己の胸元を見つめていた。
そこから肋骨を砕き内側から生えていたのは細い女の腕──マナ・キャンサーの腕だ。
まるで内側から孵ったように女神の細腕は吸血姫の中から出現し、鼓動を続ける心臓を鷲掴みにしていた。
声にならない息が漏れる。
痛みは遅れてやってきた。
此処に冷酷な一つの事実がある。
ベネトナシュはマナ・キャンサーには絶対に届かないという無情な事実が。
どれだけ彼女が素早く動こうと。
どれだけ彼女の再生力が異常であろうと。
どれだけ彼女が警戒し、油断をしなかったとしてもだ。
全部無駄だ。
マナ・キャンサーには、最初から勝てない。
それは相性の問題ではない。
戦術の失敗でも判断ミスですらない。
彼女に落ち度は存在しないのだ。
相手が悪い。それに尽きる。
稼働を開始し、ある程度の成長を得たマナ・キャンサーの前ではレベル2000程度など何の意味もない。
彼女がこのまま3000になろうと、ルファスと同じ4200になろうと何も変化はしない。
何処まで行ってもただのイレギュラー止まりだ。
ただレベルとステータスを上げただけでは意味がない。
足りないのだ。
神を脅かすには彼女は。
────。
【チェンジリング】というスキルがある。
カルキノスが24時間に一度だけ発動可能な特別な能力、切り札の一つだ。
効果は単純で自分と味方の位置をそっくり入れ替えるというもの。
だが問題はその「味方」の定義にあった。
オブジェクトはただ存在するだけで周囲に汚染されたマナを転写し続けている。
微粒子よりも小さいソレをベネトナシュはほんの一欠けら、分子一つ分程度は吸引してしまっていた。
そして彼女にとって不幸な事に吸血姫の構造を完全に兵器群は理解している上に、彼女の体はマナに非常になじむ。
レベルアップには遠く及ばないまでも彼女の体は無意識に周囲の空間にあるマナを取り込んでいるのだ。
さながら生物が酸素を無意識に吸引するように。
そしてマナ・キャンサーの特性の一つである高レベル存在───つまり高濃度のマナを宿した存在への特攻がこれ以上ない程に刺さるのがベネトナシュだ。
ベネトナシュはほんの一瞬、ほんの一欠けらを吸い込んでしまっていた。
それだけで十分だった。
癌は、そこに“存在した”ということなり入れ替わりは発動する。
それは心臓の近く、生命活動の中心だ。
血を啜る吸血鬼たちにとって最もマナが濃縮される場所。
あとは入れ替えるだけだった。
【チェンジリング】が発動した。
世界は何も変わらなかった。
光も、衝撃も、前兆もない。
ただ黙々と位置が入れ替わるという処理が動く。
次の瞬間、終わった。
ベネトナシュの心胸腔内には、マナ・キャンサーの“右腕”が生えてきた。
吸血姫は内側から心臓を貫かれる羽目になった。
ベネトナシュは何が起きたか判らない。
彼女の主観からすれば眼前に現れた気に入らないマスクと気に入らない翼を生やした不愉快を煮込んだような女に苛立ち
それに飛び掛かろうとした瞬間にこのようなことになったのだから。
水袋が潰れるような音と共に心臓が容易く握りつぶされ、ベネトナシュの視界は暗転した。
怒りに任せて喚き散らし、地面を蹴り、拳で何度も大地を叩いたあとの話だ。
そこまでしてミザールは、ようやく呼吸を取り戻した。
荒い息が喉を焼き、肺が痛む。
だがそれ以上に、胸の奥が痛かった。
「……畜生」
低く、掠れた声で呟く。
これは誰かに向けた言葉ではない。
自分と己の弱さと言い訳に対してだ。
リーブラに対してはなった言葉を彼は決して許さない。
怒りはあった。
恐怖も、後悔も、憎悪も、全部あった。
だがそれらが一巡したあと、最後に残ったのは――冷え切った現実だった。
止めなくてはならない。あのおぞましい兵器を。
アレを仕上げたのは己だ、俺はやってはいけないことをしてしまった。
ミザールは冷静に思い出す。
アリストテレス兵器群が宇宙を収束させ、極点全域を攻撃すると説明していたことを。
あの時の自分はそれを歓喜と共に聞き入っていた。
───世界の全てが俺の作品の前に跪く!
吐き気がした。
どんな強い酒を飲んでも胸やけなどしなかったドワーフの胃液が逆流する余りのおぞましさ。
他人の作品を自分のモノだと叫ぶ恥知らず、そしてそのために宇宙を破壊しようとする愚行。
恥知らず。
正にソレに尽きる。
ミザールはエリクサーを煽るように飲み干し、強制的に身体を立て直した。
骨の軋みが消え、筋肉に力が戻る。
だが、心の奥に沈殿した重さだけは何一つ軽くならない。
彼は歩き出す。
最初はあまりにもゆっくりと、……さながら処刑場の階段を上るような心持だった。
戦場の隅を縫うように、瓦礫と焦土の影を選びながら進んでいく。
あの豪快なドワーフがまるで盗人の様だった。
兵器群との接続はすでに切れている。
あの冷たい“声”は、もう聞こえない。
脳裏に流れ込んでいた演算結果も、肯定も賞賛も今はない。
だがそれは自由を意味しなかった。
酔いが覚めたともいう。
逃げられない現実だけが目の前にある。
酔って全てから目を逸らし恥をさらす時間は終わったのだ。
その後にやってくる静寂は己がやったことをはっきりと突きつけてくる。
マナ・キャンサー。
彼が「仕上げただけ」のつもりで触れたものだ。
自分の才能がようやく正当に評価されたと錯覚させた存在であり、今や世界を終わらせようとしている怪物。
それが世界を喰っている。
そういう風に作ったものが、求められた役割を果たしているだけともいう。
マナ・キャンサーはミズガルズを収奪し、宇宙を汚染する種火を生み、覇王を排除しようと暴れている。
女神の宇宙を解体し、なおも無限に増え続けている。
あぁ、タスクが多すぎる。
演算も、行動も、明らかに分散している。
その全てにきっと優先順位がありミザールや十二星天への対応はきっと低い。
(……気づかれてねぇのか?)
そう考えた瞬間、ミザールは自分で自分を殴りたくなった。
楽観的すぎる。
あれの恐ろしさをずっと近くで見ていたではないか。
魔女はどんな小さな異変も見逃すはずがない。
いや、そうだ。
もう魔女はいないのだなとそこでようやくミザールは思い出した。
あれだけ不敵に振る舞ったメリディアナはこの戦いの最初に死んだではないか、と。
その上で考える。
気づかれていないのではない。
恐らく“後回しにされている”だけだ。
今頃ドワーフ一人くらい何とでもなる、むしろどうでもいいと無視されている。
もしくは本体が気づいていたとしても、まだ末端まで指示が下りてきていないのかもしれない。
もしも必要ならいつでも消される。
脅威と判断された瞬間にミザールの真上にエル級が飛んできてもおかしくはない。
エル級の戦闘力は見ての通り、今でもたった1機で十二星天を苦戦させ続けている。
仮定の話だが、ミザールがアレに目をつけられたら終わりだ。
どうやっても勝てはしない。
視線を巡らせる。
少なくともメラクやメグレズ、フェグダやドゥーベはまだ気づいていない。
知っていたとしたらもっと警戒されているか、最悪無言で殺されている。
彼らは蒼い瞳を輝かせて空を見上げて成り行きを見守っている。
微動だにせず人形のように。
(俺もあんな面してたってのか)
あんなただ張り付けたような笑顔で、自分のモノではない力と知恵におぼれた顔を。
きっとあいつらは兵器群に命令されれば俺のことも躊躇なく殺しに来るんだろうなとミザールは思った。
だって自分が同じ立場であったらそうするだろうと彼は判っているから。
しかし今はまだそうなってはいない。
幸いにも。
否。
……まだこちらに命令を寄越す余裕がないだけだ。
いまは計画も大詰めだ。
ミザール一人の為にリソースを割いて思考を更新する余裕がないのかもしれない。
だから彼は演技を始めた。
我ながら馬鹿らしいと思いつつも少なくともこの場にいる面々に露呈はさせたくない。
まだ傷が癒え切ってないかのように足取りを少し引きずる。
疲労によって肩を落とし、視線を定まらせない。
ブツブツと何かを呟き続け、打倒ルファスを考案し続ける狂的な姿。
未練と狂気が混じった、おぞましきミザールをなぞる。
宇宙を滅ぼす罪人にはこれでも生ぬるい罰だ。
メグレズの視線が一瞬だけ彼を見て、また空に戻る。
アリストテレスの傑作がルファスを追い詰める様を彼は歓喜と共に見ていた。
エルフは自分が何をしたのかわかりつつ、それでもとアリストテレスの齎す結末を見ることに躍起になっていた。
メラクもきっと見ているが彼は直ぐに頭を抱えて呻きだす。
白い翼が痙攣しているのを見るにとんでもないストレスを感じているらしい。
ルファスに顔面を鷲掴みにされて岩盤に叩きつけられたのがそんなに怖かったのだろうか?
……怖いに決まっている。
しかしきっと彼女は手加減したのだろう。
で、なければ覇王はそのままメラクの頭蓋骨を腐った果実の様に容易く粉砕していだろうから。
もう、ここに長居する理由はない。
彼は深く息を吸い吐いた。
肺に入り込んだ空気が、ひどく冷たい。
蒼い空が広がっている。
どこまでも、どこまでも。
あの空の向こうで、
“それ”が動いている。
マナ・キャンサー。
自分が触れ、手を入れ、理解したつもりになった存在。
理解したからこそ、あれがどれほど異常かが分かる。
その根底にあるアリストテレスという存在の異常なまでの世界への嫌悪も彼は知っている。
アリストテレス卿は全く、一かけらも、微粒子一つ程度にもこの世界に価値を見出していない。
それをわかりつつも、その無駄のない、自分には及びつかない設計に魅了されて仕上げてしまった。
その結果がどうなるかなど判り切っていたのに。
「俺の責任だ」
呟きは、祈りでも決意でもなかった。
ただの事実確認だ。
やらなければならない。
やれるかどうかではない。
今度は、少しだけ速く歩いていく。
もう誰も彼を見ていない。
戦場の端を抜ける。
瓦礫を跨ぎ、崩れた地面を避け、視線を低く保つ。
表向きは――援軍だ。
ベネトナシュが戦っているであろう場所へ向かう。
残念だがミザールには宇宙に行く能力はない。
だからまずは吸血姫の様子を見て、必要であれば助力か、もしくは利用する。
兵器群と繋がっていた時に感じた最後の記録。
ベネトナシュがルファスに味方して参戦したという報。
そして無限に増殖したマナ・キャンサー・オブジェクトの内の一体がベネトナシュに接近していくというログ。
恐らくだが兵器群は限界突破を果たしているベネトナシュにそこそこの脅威を感じている。
だから乱数を生み出される前に処理するという魂胆だろう。
そんな中、ベネトナシュとマナ・キャンサーの戦いに横やりを入れて、マナ・キャンサーの欠片を入手して解析する。
即興で癌を、いや、兵器群そのものを無力化するためのナニカをしようとミザールは企んでいた。
そんな事出来るわけがないなど百も承知だ。
しかし責任は取らなくてはいけない。
逃げることは許されない。
胸の奥で、自嘲が滲む。
ほんの少し前まで、自分はその“世界の敵”の完成を誇っていた。
世界をひっくり返す力。
女神さえ殺せる可能性。
そんな甘美な言葉に、どれだけ簡単に溺れたか。
「俺が作ったんじゃねぇ……」
結局のところ彼は惨めな盗作者だ。
芸術家として最も許されない、唾棄される存在。
ドワーフらしくいうならば“パクリ野郎”だ。
そんな恥知らずは囲まれて槌で全方位から殴り殺されても文句は言えない。
彼らにとって作品を創るというのはそれほどまでに神聖な行いだった。
分かっている。
分かっているのだ、そんなことは。
それでもルファスに届く何かを残したかった。
設計したのはアリストテレス。
構造を決めたのも、方向性を与えたのも全てアリストテレス。
しかし完成はしていなかった。
筆者が死んで置いて行かれた物語の様に、文字列は断絶していた。
しかしその先がどうなっているかはミザールにもある程度は判ったから付け加えた。
そう、自分はただもともとあった未完成の設計図に書き足しただけだ。
ここをこうすればもっと効率が上がる。
これも付け加えておくべきか。このままでは余りに無駄がなさ過ぎてつまらねぇ。
そういう囁きのままに形にしただけだ。
だがその一つ一つの訂正がどれだけルファスを手こずらせているか。
どれほど多くの銀河を押しつぶす結果になったか。
思考を止めない。
兵器群との接続が切れたミザールの頭はたった一人分の脳髄程度で必死に考えていた。
マナ・キャンサーは増える。
倒せば、より洗練されて戻ってくる。
強くすればするほど、適応が早まる。
力で押せば生物が適応するようにその加害を学び、策を使えばそのアイデアを模倣するだろう。
そして何より躊躇したりして一瞬でも止まればその隙にどんどん踏み込んでくる。
全く何て完成された兵器なんだとミザールはこれの設計者を呪いたくなった。
「クソっ!!!」
確実にルファスを殺せると太鼓判を押したのは他ならぬミザールだ。
故にその隙の無さに彼は再び叫びながら走った。
何てつまらない構造だと喚きそうになる。
そして、彼は見た。
心臓を抉り出され、目の前で見せつけるように粉砕されてふらつく吸血姫を。
吸血鬼という種は不死身だが弱点もある。
心臓と頭部。
この二つが破壊されればさすがの吸血鬼という種であろうと死ぬ。
そして今、ベネトナシュはあっけなく心臓を破壊されていた。
ルファスに次ぐ力を持つベネトナシュは死んだ。
そしてミザールでは絶対にマナ・キャンサーは倒せない。
終わった。
もう終わりだ。
ミザールはそんな簡単な事実を理解してしまい、膝から崩れ落ちた。
「ぁ……ぁぁぁ……」
呻く様な意味のない音が喉から漏れる。
女神の様に美しいソレは一度だけ黒い翼をはためかせてミザールを透き通りすぎた蒼い瞳で一瞥する。
カツ、カツと足音を立て近づいてくる。
一歩踏み占めるたびに周囲の景色に薄暗い砂嵐が走り、大地や空気は癌を転写されて穢れる。
物質に転写するというよりは、「そういう風」に形を整えられた女神の力に癌は転移しているのだ。
ミザールは近づいてくる怪物を見ることしか出来ない。
握りこぶしを作り、じっと見る事しか。
逃げようと抵抗しようと変わらない。
彼は自分が死ぬのだと理解していた。
諦めたわけではないが、諦めなければどうなるという訳でもない。
カツ、カツ、カツ。
マナ・キャンサーこと女神の模倣体はそのままミザールの前で立ち止まる。
小柄なドワーフをスラリとした理想的ともいえる女性の姿をした怪物が見下ろす。
敵意や害意などといった悪感情さえない結晶の如き瞳がドワーフを見ている。
彼女は掌をドワーフに翳し、そこに力が収束していく。
極小規模の【ケバルライ】と【錬成】だ。
精神と魂を掌握し【錬成】で肉体を分解する。
そうやってむき出しになった魂を回収し彼らで言う所の“保護”を行う。
殺しはしない。
死ねなくなるだけだ。
永遠の兵器群が守護し保存する記録になるだけ。
それは死ぬより恐ろしい永遠。
だがミザールが消える間際に世界が停止した。
ほんの一瞬前まで、確実に“保護”へ向かって収束していたはずの光が唐突に途切れている。
音もなく、熱もなく、いきなり全てのスキルは停止した。
まるで再生途中の映像が無造作に一時停止されたかのように。
マナ・キャンサーは完全に止まっていた。
羽根は宙で凍りつき蒼い瞳も瞬かない。
あれほど世界を汚染していたノイズすらぴたりと消えている。
ミザールは息をすることすら忘れていた。
(……なにが、起きた)
自分は終わったはずだ。
どうあっても逃げられないし防げない筈だった。
理解できないことは山ほどあったが、自分は終わりだということだけは判っていたはずだ。
「こんにちは」
声がした。
優しく、軽く、弾むような声。
戦場に似つかわしくない、春先の挨拶みたいな声。
ミザールは、ぎこちなく視線を動かした。
そこに立っていたのは――ベネトナシュだった。
心臓を潰され、死んだはずの吸血姫。
事実胸元にはまだ裂けた痕跡が残り、血の色も乾いていない。
固まりつつあれど鮮血は零れ続けている。
それでも、彼女は“普通に”立っていた。
そのまま舞踏会の床を歩くかのように、軽やかに一歩を踏み出す。
ここが戦場であるなどと何ひとつ意識していない歩き方。
彼女は、踊るように近づいてきた。
その顔にあるのは不気味なほどに魅力的な微笑みだけ。
「……っ」
ミザールの喉が鳴り、彼は本能的に恐怖を抱く。
だが、それは敵意や殺気への恐怖ではない。
こちらを何とも思っていない存在に向けられる、本能的な嫌悪だった。
巨大で、いつでも自分を殺せる昆虫にじっと見つめられているようだった。
ベネトナシュは、ミザールの前で立ち止まると、ふわりとスカートの裾をつまみ優雅に一礼した。
ベネトナシュが絶対にしないであろう行為なのは間違いない。
その仕草はあまりにも洗練されすぎていて、まるで舞台挨拶であるかのようだった。
「こんにちは、ドワーフさん」
にこりと笑う。
無垢で愛らしく何の曇りもない笑顔。
「私は■■のアリストテレスというの」
その名前を、まるで自分の愛称でも紹介するような軽さで口にする。
兵器群が冠するものと同じ名前を当然の様に。
アリストテレス。
今、世界を喰っている悪夢の中心にして創造者。
あの兵器群の根にして全ての元凶であるあの“卿”と同じ名。
ルファスよりも彼らよりも魔女よりも先にアロヴィナスを否定し滅ぼすことを決意した一族の忌み名だ。
ミザールの背中を、冷たいものが這い上がったのを誰が責められるか。
「嬉しいわ」
彼女は、くるりとその場で一回転する。
壊れた世界の中で、ただ一人、花のように。
思っていた以上に彼女の精神は頑丈で中々表に出てこれなかったのは実際窮屈だった。
あと少しで掌握できるか? といったところでルファスがやってきてお開きになったこともある。
それもまぁ、仕方ないかと受け入れたものだ。
しかし今は堂々と出てこれる。
だって彼女はその為にここにいるのだから。
ベネトナシュが肉体的/精神的に死にそうになった場合、表に出てきた問題に対処するのが彼女の役割だった。
もしもベネトナシュの精神が完全に死んだのならば彼女が新しい吸血姫/アリストテレス卿となって動いても良いと歴代は認可を出していた。
プランが用意したベネトナシュの保険、それが彼女だった。
本人の許可?
……なぜそんなものを気にする必要がある?
自分の所有物にいちいち「身体を貰っていいか?」等とアリストテレスは尋ねない。
そんなのは時間の無駄だからだ。
「久しぶりの肉体だもの!」
楽しそうに、心から笑っている。
自分と同じ名前の兵器が世界を滅ぼそうとしているのに全く何も感じていない。
この究極ともいえる客観性と無機質さは正しく彼女がアリストテレスの証だ。
「お前……何をしに来たんだ」
ミザールの声は、掠れていた。
ソレに対して彼女は首を傾げる。
その動作に付随して長い銀髪がサラサラと流れた。
「え?」
本当に不思議そうにベネトナシュはふわふわ揺れた。
「うーん……そうねえ……」
深く考える仕草すら、どこか芝居がかっている。
しかし次に口を開いた瞬間、ミザールの理解は完全に置き去りにされた。
「あなたの頭をちょっと借りたいの」
にこにこ、とアリストテレス卿はそれらしく笑っている。
「正確には脳かしら」
あまりにも無邪気な口調。
「安心して。何も酷いことなんてしないわ。一致団結で使うだけよ?」
どこまでも口調は軽く、相談でも提案でもない。
まるで誰でもするような天気の話の延長のようだ。
「出力が足りなくて困ってたの。
ほら、心臓……壊れちゃったでしょう?」
彼女は自分の胸を、指先でつつく。
そこには確かに致命的な欠損がある。
だが彼女は、それを“困った出来事”程度にしか扱っていない。
吸血鬼は心臓を抉られれば死ぬ。
それは明確な弱点だ。
故にアリストテレスはソレに対処するだけ。
今は空気中に漂う微細に砕かれたエル級の破片、アロヴィタイトで代用しているがやはりこれではダメだ。
あくまでも応急処置でしかない。
人形はしっかりと綺麗に整えておかなくては。
まだまだコレには最低でも1000年はミズガルズの面倒を見てもらうつもりなのだから。
「でも大丈夫」
微笑む。
ニコニコと中身のない空洞のような笑顔で。
蒼い瞳だけは爛々としており寒々しい光を放っている。
「あなた、よく色々と考えているでしょう?
いっぱい使われた頭は凄く柔らかくてよく回るのよ」
「それに……あの可愛いゴーレムなんて私、気に入っちゃった」
あの子がお気に入りの星として飾り付けるのも判るわと述べる。
その上でアリストテレスとしてリーブラは悪くない出来だと評した後に続ける。
つぅっと空洞になった胸に人差し指を走らせて微笑んだ。
「あなたの脳を使って錬成するの。
心臓をちゃんと作り直すのよ」
「だって……可愛いお人形さんは正装しなくちゃダメじゃない?」
そんな言葉があまりにも自然にベネトナシュの口から出た。
傷を治すこと。
身体を整えること。
それは彼女にとって、“身だしなみ”だ。
意外と彼女はこの身体を気に入っていた。
意地らしく可愛い吸血姫。
事がうまくいくようだったら欲しいと思うのも当たり前だ。
ミザールは、一歩後ずさった。
まず湧き出すはずの拒絶の言葉が出ない。
恐怖より先に、理解不能という感覚が脳を支配している。
この女は、なんだ? アリストテレスとは何だ?
アリストテレス……いったい俺たちは何を称えていたんだ?
逡巡に回す時間は少なかった。
何故ならば静止したはずのマナ・キャンサーがピクリと震えたからだ。
ミシ、ミシと筋肉が再稼働を始めている。
ベネトナシュは愛おしむ様な目線で作品を見つめながら語る。
こんな結果になってしまったが出来は悪くはない。
当代がもっとしっかりと仕上げていればもっと効率よく女神を葬れただろうに。
「ダメね。当代ほど上手くはいかないみたい」
彼女が行ったことはアリストテレス/創造主としての権限で「動かないで」と命じただけだ。
だが彼女はアリストテレスではあるがプランではない。
故にマナ・キャンサーを完全に縛ることは出来ずに再稼働しようとしている。
そして次に動き出せばもう彼女の命令は聞かないだろう。
だってプランではないのだから。
アリストテレス/ベネトナシュは蒼い目線でミザールを見た。
アリストテレスとしての性なのか彼女はこんな状況でもまるで子供に教えるような口調で語る。
「まずは、この身体をきれいにするの」
「お気に入りのお洋服は、ちゃんと仕立て直さなくちゃね?」
その声音は最後まで柔らかく、優しかった。
蒼い空の向こう、千切れた虚空の果てを見つめながら彼女は微笑み続けて言う。
「ドレスコードはとても大事ね」
「久しぶりに、当代たちとちゃんとお話ししなくちゃいけないみたいだし」