ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
今から楽しみです。
タン、タン、タタン。
ベネトナシュ/アリストテレスは軽やかにステップを踏みダンスを踊っていた。
爪先が石を打つたび、小さな音が乾いて跳ねる。
さっきまで世界を呑み込もうとしていた兵器群の流星が次々と墜ちていく空の下で、その足取りだけがやけに楽しげだった。
本当に、本当に久しぶりに生身の身体が手に入って嬉しくてたまらないのかもしれない。
そういう無邪気さがあった。
借り物のはずなのに、彼女はその肉体をまるで昔から自分のものであったかのようにしなやかに使う。
指先まで神経が通っているのが嬉しくてたまらない、とでも言うように肩を揺らし、腰をひねり、髪を踊らせる。
ベネトナシュはマナ・キャンサーに瞬殺された。
で、あれば自分がこの物事に対処するのは当たり前だと彼女は思っていた。
元より彼女では手に負えない事が起きた場合のバックアップが自分なのだ。
全く。
レベルだけ上げても意味がないと何百年経っても本当の意味で理解できていない吸血姫が愛おしくてたまらない。
この腕も、足も、顔も、全てはアリストテレスが仕上げた作品であり己たちの所有物であるからそこに遠慮はない。
工場で作られたか、職人が手製で仕上げたか。
兵器群とベネトナシュの違いはそれだけだ。
「終わりよければ全て良しというじゃない?」
くるり、と回る。
血と灰にまみれた戦場の上で、まるで舞踏会の中央にいるみたいな声だった。
「でもね。それは裏を返せば終わりがダメなら全部台無しってことなの」
幼いようで妖艶。
無邪気なようで邪悪の塊。
矛盾した要素を混ぜ込んだ顔でベネトナシュは蒼い瞳で笑いかける。
その笑みのまま、片手を軽く振る。
それだけで空気が変わった。
停止したはずの兵器群の中枢は沈黙したままだ。
だが、その代わりに、別の回路が生き物みたいに戦場の上へ這い出してくる。
“一致団結”
名前だけは人類の人間が持つスキルだが、もうこれは名前以外の全てが別物だ。
それは兵器群の専売特許ではなかった。
いや、元をたどれば彼女や彼らアリストテレス卿こそが本家本元である。
人類七種の中で最も平均的で、全ての人類と子をなせる人間種だけが持つ種族スキル。
多くを束、多くを結び、手と手を取り合わせるとても素晴らしい能力。
これをアリストテレスはどこまでも極めていた。
解釈を変え、見方を変え、やり方を変えて、能力そのものを完璧に理解し多方面から解釈する。
接続の理屈さえ掴めば、人と人のあいだに糸を通し、神経を束ね、意志の優先順位を書き換えることはできる。
少なくとも、このアリストテレス/吸血姫はそう考えているらしかったし、実際にそうしていた。
これはもっとしゃれたことを言えば人と人の絆が大きな力を作り出すロマンチックな能力だ。
「ほら、いらっしゃい」
甘く呼ぶ。
その声に逆らう権利など最初から存在しなかったかのように、離れた位置にいたアリオトたちの身体がびくりと震えた。
彼らを支配していたのはアリストテレス兵器群だった。
故にその兵器さえ掌握するアリストテレス卿の声には逆らえない。
主人が鎖を引けば奴隷は引きずり回される。
それだけの話であった。
最初に足を動かされたのはドゥーベだった。
二メートルを超える白熊の獣人。
その大きすぎる体躯が、一瞬だけ奇妙な揺れ方をしたあと、ぎこちなく一歩を踏み出す。
次いでフェグダ。小柄な小人族の身体が、見えない首輪で引かれたように前へ滑る。
アリオトが歯を食いしばり、メラクが目を見開き、メグレズが一歩だけ後ずさろうとして――できない。
できるわけがない。もう回路は繋がっているからだ。
彼らは次々と、アリストテレスの前へ“並べられた”のだ。
さながら奴隷の品評会の様に。
整列、というにはあまりに悲惨だった。
膝に力が入らず、肩は揺れ、足運びは乱れ、誰もがさっきまでの戦闘の傷と疲弊を引きずっている。
兵器群の支配から抜けたばかりの意識はまだ現実を飲み込みきれていない。
そこへ再び、自分の意志ではない動きだけが強制される。
呆然。恐怖。理解。
そして、理解してしまったがゆえの絶望。
特にメグレズは早かった。
彼だけは頭の回転が違う。
目の前の女が何者で、いま何をしたのか、その輪郭を誰よりも早く掴んでしまう。
彼ほどアリストテレスをメリディアナ亡き今知るものはいないのだから。
ベネトナシュとプラン・アリストテレス卿の話も勿論知っている。
故にあのアリストテレス卿が何らかの仕込みを残していたことも察してしまった。
目の前のこれが何であるかも。
「……っぁ!」
青ざめた顔で口を開き、何かを言おうとする。
その瞬間、アリストテレスは唇の前に人差し指を立てた。
「しー」
その一音だけで、空気が凍る。
命令でも脅しでもない。
本当に、子どもに内緒話を促す時みたいな可愛い仕草だった。
だから余計に、恐ろしい。
つまり彼女はメグレズ達を本当にその程度にしか思っていないということだから。
赤子の手を捻るという言葉があるが、実際もしもここで面倒くさいことを喚けば彼らは黙らされるだろう。
メグレズの喉がひくりと震えた。
言葉は出ない。
出そうとしているのに、出してはいけないと身体が先に判らされたようだった。
まるで親に叱られた子供の様に彼は何も言えなかった。
蒼い瞳だけがずっとエルフを見ていた。
「賢い子は好き。お話がとっても早く済むもの」
彼女はそう言って、にっこり笑った。
そして次の瞬間には、説明すら放棄した。
言葉で順に説くのは面倒だったのだろう。
彼女は彼らの額に触れもしない。ただ視線を向ける。
蒼い瞳が一人ずつを舐めるように見た、その瞬間。
情報が流し込まれた。
台本を役者に手渡すようだった。
何をすべきか。
なぜそうしなければならないか。
このあと誰とどう戦い、どんな結末へ持っていくべきか。
必要な手順だけが、刃物のように脳へ差し込まれる。
ルファスと戦え。
彼女に勝て。
問題ない。あの子はこれから負けるふりをしてくれるから。
それは“説明”ではなかった。
理解させるというより、結論だけを脳に書き込んでいく処理だ。
余白も反論もなく、要るのは理解と実際の遂行だけ。
彼女は全てではないにせよある程度ルファスの思考を読んでいた。
ルファスはずっと女神だけを見ている。
彼女が諦めるわけがないことを。
しかし今の状態ではもう無理だ。
で、あれば盤面を整えるために一度全てをリセットしたがっていることも。
証拠ならある。
レベル4200の彼女は終ぞ本気でアリオトたちを殺そうとはしなかった。
あれだけ盾にされていたというのに、バラバラにはしなかった。
ルファスは、ずっと、彼らには手加減をしていた。
それが最大の証拠だ。
きっと彼女はこの後も彼らを殺せないとアリストテレスは読んでいた。
昔からそうだった。
ルファスは余りに身内に甘すぎる、ともすれば欠点と言えるほどに。
そこがまた可愛いと彼女は評価していた。
アリオトの顔色が変わる。
メラクの喉から、掠れた息が漏れる。
フェグダは目を見開いたまま、信じられないものを見る顔をした。
ドゥーベは唇を震わせ、今にも泣き出しそうな表情で首を横に振る。
「……む、りだ」
最初に言葉を絞り出したのはアリオトだった。
機能を失ったマリオネットに弱弱しく縋り付いた彼にはもはや先までの剣鬼としての名残はない。
今の彼は勇者でもなく剣鬼でもない。
ましてや剣士ともいえない。
コレはアリオトだった残骸だ。
彼は、破滅していた。
アリストテレスという埒外のモノと契約を結び、全てを貪られた空蝉だった。
寄生虫に中身を全てほじくられ食いつくされたがらんどうの存在だ。
マリオネットが齎した全能性と無限の剣筋と感覚の拡張は正しく超濃度の薬物の様だった。
未来を見据える眼。どんな剣技でも可能とされた究極の拡張。
剣士として至高の高みに一度は座らされた彼は、その席から叩き落された。
もう何もなく、何も見えない。
彼を導いていた兵器群との接続は消え去り、身体に不滅の如き活力と生命力を与えたナノ・ゴーレムは最低限しか動いていない。
高みがどこにあったかは覚えている。
しかしもうそこには届かない。
ただの記憶に成り果てていた。
どうあってもアリオトという男の限界はそこだった。
兵器群のパーツとして動いていた彼は再び一人の人間に戻されてしまい途方に暮れていた。
気づけば便利な剣を使っていた彼は剣が動くための付属品になっていたのだから。
「無理だ……」
それは言い訳ではない本音だった。
つい先ほどまで自分たちは兵器群の人形にされ、世界を壊す側に立たされていた。
そして正気へ戻ったと思えば目の前に残っているのは死体と残骸と取り返しのつかなさだけ。
そこからさらに、“今からルファスと決着をつけろ”と言われても、身体より先に魂が拒絶する。
メラクも首を振った。
ドゥーベは露骨に怯え、フェグダは何かを言いかけて言葉を失う。
だが、アリストテレスは利く耳を持たない。
聞いていないのではない。
聞いた上で、必要がないと判断している。
これは取り立てだった。
兵器群は狂っていた。
しかしそれを全てわかった上で彼らはアリストテレス兵器群と取引を結び、その技術と力を借り受けていた。
で、あれば支払いが必要だ。
「でも、勝ちたかったのでしょう?」
あまりにも穏やかな声で、彼女は言った。
「ずっと。ずうっと。あの子に届きたかったのでしょう?」
その一言が刃になった。
アリオトの顔が引きつる。
メラクの目が揺れる。
フェグダは歯を噛みしめ、ドゥーベは小さく身を竦めた。
メグレズとミザールは何も言えなかった。
勝ちたかった。
届きたかった。
認められたかった。
追いつきたかった。
見下されるのが我慢ならなかった。
最初のルファスには終始余裕があった。
「強くなったなあ」という上から目線で見下している態度が我慢ならなかった。
自分たちはこれだけ全てをかけて挑んでいるのに、兵器群しか眼中にない態度が不快で不快でたまらなかった。
傲慢で自分では仲間だといいながらその実本当の目的のために利用し見下してくるふざけた女だと思っていた。
殺してやりたかった、俺たちは弱くない、お前にとってただの障害物なんかじゃないと理解させたかったのだ。
その感情を誰より自分たちが知っている。
だからこそ、今それをこんな場所で、こんな形で踏みつけられるのが何より耐え難い。
アリストテレスは笑う。
責めているつもりも、煽っているつもりもないのだろう。
彼女は人の心の柔らかい場所を見つけると、そこを指で押したくなるだけだ。
まぁ、少しだけ女神に似ているという自覚はあった。
「勝てるわ。今度はちゃんと」
“ちゃんと”
その言葉に含まれる侮辱を、ミザールは思わず息を呑んで聞いていた。
今までの戦いでは足りなかったとでも言うような、見下しきった響き。
そして彼女は、視線をメグレズへ向ける。
じっと。
蒼い眼が逃げ場なくエルフを捉える。
「貴方には特別に、いいことを教えてあげる」
「隠さないで。知ってるわ。頭の中を見たもの」
その瞬間、メグレズの顔から血の気が引いた。
本能が理解したのだ。
この女が“いいこと”と言う時、それは自分たちにとって少しも良いことではない、と。
アリストテレスの思考に漬かっていた彼ならば判ってしまうのだ。
「【エクスゲート】を応用する封印術。
兵器群が貴方たちに与えていた保険……完成させていたのでしょう?」
何も殴って倒すだけが戦闘ではない。
メグレズはかつて兵器群と接続しあらゆるルファスを害して無力化する術を作り上げていた。
狂ったように、昔から知っている少女を消す為に。
アウラを捕縛しルファスを従える手は失敗したが、それならばと彼はもう一つの手を編み上げていた。
兵器群/アリストテレスからの宿題を彼は完璧に解いていた。
もう少し出会いが違えば彼は正当なるアリストテレス卿の側近になれていたかもしれない。
消すというのは何も彼女の生命を停止させることではない。
【エクスゲート】を知り尽くした兵器群の知識を応用しメグレズは一つの封印術を編み上げていた。
あえて不安定な【エクスゲート】に放り込み、世界と世界の狭間に時間を停止させた状態で固定する。
メグレズをして会心の出来である絶対的な亜空間封印。
概要を読み取っていたアリストテレスは微笑んで太鼓判を押す。
「その術で封じるの。貴方ならできるわ」
言葉はやわらかい。
教え諭す家庭教師のように、ひとつひとつ噛み砕いてくれる。
だが、教えている中身は地獄そのものだった。
ルファスを、異次元に封じる。
その発想にアリストテレスは花丸をつけた。
いい目の付け所だ、と。
勝つための術ではない。
これは排除のための技術だ。
消せないなら隔て、殺せないからら別の世界に閉じこめてしまう。
ただ戦うのではなく無力化するという方向に舵を切ったこのエルフをアリストテレスは煽りでもなんでもなく気に入っていた。
その上でこうも感情がコロコロと顔に出るのもとても面白い。
本当にもう500年くらい早く産まれてくれたらアリストテレスの補佐役として使ってやったのに。
ただしこの術にはまだ見てはいないが欠点もあると見抜いている。
エクスゲートの応用である故にエクスゲートを理解したものであれば解除も可能だろう。
ルファスがもしも鍵を持っているならば、それを用いての解除だってありえる。
メグレズは青い顔で首を振った。
「ダメだ……」
掠れた声。
幼子が悪夢から逃げる時みたいな、みっともないほど率直な拒絶だった。
ほんの少し前、10分前まで彼らを満たしてくれていたアリストテレスはもういない。
「無理だ……そんなの、出来ない……!」
彼は理解している。自分は兵器群の威光を笠に着ていたにすぎないと。
実際、できるかできないかで言えば……判らないのだ。
ついさっきまでなら恐ろしいまでの全能感に突き動かされて何でも出来た。
しかし今はもう無理だ。
彼らは皆、梯子を外されていた。
アリストテレスは、優雅に首を傾げた。
「だーめ」
声音だけ聞けば、菓子をねだる子どもをたしなめる姉のようだった。
拒絶の余地を与えない、柔らかな断定。
「逃げちゃだぁめ」
彼女はふわりと微笑む。
その笑顔に、怒りも憎しみもない。
ただ当たり前のことを言っているだけだという顔。
「私も役割のためにここにいるもの」
その一言で、彼らは地獄へ蹴り落とされた。
役割。
その言葉が出た途端、すべてが個人の感情より上に置かれる。
嫌だ。できない。やりたくない。
もう戦えない。どうしてこんなことになった。
そんなものは全部、“役割”の前では処理対象外だと宣言されたのだ。
誰もすぐには動けなかった。
動けるはずがなかった。
つい先ほどまで兵器群の管理下にあり、過剰な高揚と全能感に酔わされていた。
特に彼は思考の輪郭そのものを書き換えられていたのだ。
正気へ戻ったからといって、すぐに“自分”へ戻れるわけではない。
むしろ逆だった。
いや……思考は戻っていた。
だが現実を受け入れられるかというと別の話だ。
戻ったからこそ、見えてしまう。
それを飲み込めるかどうかという話だった。
自分が何をしたのか。
何を見捨てたのか。
どれだけ都合よく甘言に乗せられ、何を正しいと信じ込まされ、何を手伝ったのか。
ミズガルズの現状が、彼らの胸へ鉛のように沈んでいく。
壊れかけた世界。消えた人々。
回収された民。戻らない魂。
そして何より、自分たちの手がそこに加わっていたという事実。
許されるはずがない。
後悔という言葉では、あまりにも軽い。
あれは過ちなどではない。
世界を滅ぼす手伝いだった。
アリオトは長く俯いていた。
肩が落ち、背には先ほどまでの熱がもうない。
兵器群の補助演算によって研ぎ澄まされていた剣気も、剥がれ落ちた膜のように静まっている。
ほんの十数分前まで、彼は“剣鬼”だった。
勇者であることすら置き去りにして、ただ勝利のため、ルファスへ届くためだけに研ぎ澄まされた刃。
人を超えた高揚の中で、自分は今なら何でもできると信じ切っていた。
信じ切って、酔って、踏み越えた。
だが今は違う。
高みから突き落とされたような虚脱の中で、彼はもう一度、自分の輪郭を拾い集めていた。
勇者。
ただの男。
敗者。
加担者。
裏切者。
そのどれもが本当で、そのどれもが苦かった。
「……」
最初に鳴ったのは、言葉ではなく靴底の音だった。
アリオトが、一歩だけ前へ出る。
膝は重い。
身体のあちこちが痛む。
精神の方はもっと痛い。
それでも彼は立った。
立つ。
そんな幼子でも出来る行為が、今の彼にとっては罰に近かった。
うずくまってしまえば楽だ。
ここで崩れ落ちて「もう戦えない、もう無理だ」と心から口にしてしまえば、その瞬間だけは少しだけ自分を許せるかもしれない。
だがそれはできなかった。
彼は偽りで、本来の意味ではないとはいえ勇者だったから。
(ここで逃げたら、この名に泥を塗ることになっちまう)
彼の脳裏にあったのは【勇者】というクラスだった。
自分は勇者だ、しかし彼は本当の意味でその重みを知らなかった。
ルファスからこうすれば勇者になれるかもしれないと言われて、最初は半信半疑でクラスを揃えた。
そして彼はその座を得た。
ウォーリアー三種に、ソードマスターの【クラス】を取る。
それが役目ではなく単なるクラスとして【勇者】の称号を得る方法だ。
勿論彼は喜んだ。
勇者たちの武勇伝は彼も幼いころから多くを聞かされていたし、強さを求める男としてその手の話題を漁ったこともあった。
そして今、自分がその名前を得た事に無邪気に舞い上がるのも当たり前だった。
『勇者』という言葉の意味も知らずに彼は喜んでいた。
しかし今の彼は本当の意味でこの称号の重さを知った。
勇気を奮わせることの大変さを知った。
ただ勝つことではない、負けを認める事でもない。
彼は今、自分が失敗し罪を犯したことと向き合うために勇気を絞っていた。
楽な方へ楽な方へ。
ルファスにアリストテレスに。ふわりふわりと。
ただ強大な力を持つ者の近くに流されて酔いしれていた自分と向き合うことは怖い。
アリオトは、ゆっくりと顔を上げた。
目の奥にはまだ濁りがある。
恐怖も、悔恨も、吐き気も消えていない。
けれど、その底にひとつだけ、以前から持っていた芯が戻り始めていた。
「……責任を、取る」
絞り出すような声だった。
英雄らしい響きなどどこにもない。喉の奥で擦れ、地面に落ちるような声。
それでも、はっきりしていた。
崩壊しかけた世界、文明は既に何歩も後退している。
ここからの復興はそれこそ数百年以上かかるだろう。
「俺たちは……コレをやったんだ」
誰に向けた言葉でもない。
自分たち自身に突きつける確認だった。
「利用されたとか騙されたとか……そんなのは後だ。
俺たちはあれを止めるどころか、手を貸していた」
「俺たちが……世界を壊しかけた」
メラクが目を閉じる。ミザールは肩を落とした。
ドゥーベは小さく肩を震わせ、フェグダは歯を食いしばって俯いた。
誰も反論などできるはずがない。
言い訳は、どれだけ積んでも自分たちの足元を軽くしてはくれない。
アリオトは続けた。
「だから、最後までやるしかない」
その言葉は、自分を奮い立たせるためのものでもあった。
口に出さなければ、きっともう立っていられないから。
「勇者を、
“なる”ではなかった。
“演る”だった。
その言い方に、ミザールは僅かに目を動かす。
アリオトは、自分をわかっている。
一度剣鬼に成り果て、兵器群に酔い、世界を壊す側へ回った。
そんな男が今さら“本物の勇者”を名乗るのは、あまりにも虫が良すぎる。
これから先の人生、一生かつては届いた域にもう二度と及ばないという喪失感を味わって彼は生きていくことになる。
そして、甘言に乗ってルファスを裏切り世界全てを砕いた咎が追いかけてくることも承知の上だった。
だから彼は、演じると言った。
最後の最後まで。
覇王ルファス・マファールを打破する勇者という役目を、血と泥にまみれたまま、演じきる。
それが責任の取り方だとそう決めた。
「……アリオト、何を」
メラクの声は掠れていた。
止めようとしたのか、支えようとしたのか、自分でもわかっていない声だった。
だがアリオトは首を振る。
「俺たちでルファスを倒す」
アリオト、彼はルファスに勝ちたかった。
自分の剣で彼女に届き、ルファスに認められたかった。
その感情は先ほどアリストテレスに抉られた通り紛れもなく本物だ。
けれど今は違う。
今の彼を立たせているのは、勝ちたいという熱ではない。
このまま逃げてはいけないというある種の贖罪感情だった。
コレは勇者のものというより、罪人のものに近い。
自分のしでかしたことを理解し、その上でなお逃げずに前へ出るしかないと諦めた顔。
もう逃げ場などないのだ。
メグレズは、その横顔を見ていた。
彼は青い顔のまま、まだ指先が震えている。
アリストテレスに覗き込まれ、封印術を言い当てられた時の悪寒がまだ背骨の裏に残っていた。
「……」
変わらずに吐き気がした。
いまさら遅い。
遅いことくらい、自分が一番わかっている。
兵器群の管理下から外れた途端、剥き出しになったのは自責だった。
全能感も、熱狂も、甘い陶酔ももうない。
あるのは、自分たちは取り返しのつかないことをした、という事実だけだった。
メラクもまた、アリオトを見つめていた。
目を閉じたままではいられなかった。
閉じれば、自分のしたことが消えるわけでも、軽くなるわけでもないと知っているからだ。
そしてベネトナシュはもう何も言わない。
蒼い瞳で一切の表情を消してみているだけだった。
アリストテレスは、もう十分だと思ったらしい。
言葉にはしない。
けれど、空気の温度が変わる。
軽やかに笑っていた少女の顔はもう何も映していない。
楽しげな仕草も、愛らしい口調もなく、ただ「早く」とだけ場の全員に理解させる圧が差し込まれる。
もう時間がない。
もうすぐあの子が来る。
いつまでも膝をついて、後悔を舐めている暇はないことを判っている?
そう言われたわけでもないのに、アリオトたちは同時にそれを悟った。
ここまで分かりやすく場面を整えてまだ出来ないというのならば、ルファスよりも先に自分がお前たちを殺すと彼女は言っていた。
アリオトが、深く息を吐く。
肺の底に沈んでいた迷いを、いったん外へ追い出すみたいに。
「やるぞ」
勇者を演る。
その言葉を口にした時点でもう引き返せない。
彼自身が誰よりそれをわかっている。
だからこそいま必要なのは長い決意表明ではなく、足を動かすことだった。
アリオトは剣を握り直した。
一度は剣鬼にまで成り果てた手。
兵器群の高揚に酔い、覇王に届く錯覚を抱き、世界を壊す側に立った手。
彼は銀色の剣───マリオネットを捨てた。
代わりにメグレズが錬成で銀色の剣を作り、メラクが念入りに加護で守護する。
改めて握ったただの剣は全く手に合わず、重く、全く自分の剣技を使えそうにもなかった。
違う。
剣がダメなのではなく劣化したのはアリオトだった。
余りに便利な道具に慣れてしまい、前まで使っていたモノが使えなくなっただけだ。
あの熱はもうない。
届いた感覚はただの記憶に成り果てた。
代わりに残ったのは、ただ一本の剣の重さだけだ。
それでも、今はこれを握るしかない。
勝ちたいからではない。
届きたいからでもない。
そう願った自分がいたことは事実だが、今それに酔う資格はもうない。
ただ、このまま地面に額を擦りつけて終わることだけはできなかった。
「ドゥーベ、お前は前に出てルファスに全力でぶちかましてくれ」
「フェグダは遊撃だ。走り回ってドゥーベを援護するんだ」
「メラク、上から頼む。天法を切らすな」
「ミザール、フェグダと組んで補佐してくれ」
声が、少しずつ戻ってくる。
戦場で指示を飛ばす時の、あの声だ。
完璧ではない。英雄の威風などまだ戻らない。
だが、自分以外の人間を動かす責任だけは、もう一度引き受ける気になっていた。
フェグダは小さな身体をこわばらせたまま、それでも頷いた。
小人族の身体では、真正面からルファスを止められない。そんなことは本人が一番わかっている。
だが、だからといって逃げられる場面でもなかった。
彼はふと思い出した。
自分の家族はどうなったのか、と。
もしも彼らが兵器群に回収されていたとしたら……それは、自分のせいということになる。
「……わかった」
短く返した声は、まだ硬い。
けれど、その硬さは恐怖だけではない。
押し潰されそうな責任を、どうにか噛み締めている音だ。
ドゥーベは白熊の獣人族らしい大柄な身体を揺らしながら、低く唸るように返事をした。
「オイラ、あんまり器用なことは出来ないベア……」
「器用さは要らない。いつも通りお前のパワーを見せてくれ」
アリオトもまた、器用な励ましはしなかった。
できることしか言わない。できないことも言わない。
その淡々とした調子が、かえって今の彼らにはありがたかった。
彼らより一足早く正気に戻っていたミザールは無言でうなずくだけだ。
そしてメグレズは、なおも青ざめていた。
指先の震えも消えていない。
封印術のことを思い出すたび、胃の奥が冷たくなる。
自分が作り、自分が磨き、兵器群の知識で完成に近づけたあの術。
それをルファスへ使えと言われたことの意味を、彼はまだ飲み込みきれていなかった。
だがアリオトの声が飛ぶ。
「メグレズ」
びくり、と肩が跳ねた。
「お前がルファスを仕留めろ」
それは期待ではなかった。
慰めでもない。
役割の確認だった。
メグレズは直ぐに返した。
迷っている暇などないのだとベネトナシュの瞳が急かしてくる。
「……すぐには無理だ。ただでさえ難しいエクスゲートを弄った術だから時間がいるんだ」
ルファスや兵器群があまりに簡易に扱っているだけで【エクスゲート】は本来は高難易度の技術だ。
しかもこれは更に発展させた術、そう簡単には使えない。
口にしてしまえば、頭は少しだけ冷えた。
術者として考え始めれば、恐怖はほんのわずかに後ろへ下がる。
これは彼の悪い癖でもあり、救いでもあった。
「だったらその時間を俺たちが稼ぐ」
アリオトは迷わず即答した。
ここで迷えば全て無駄になる。
メグレズはその言葉に、苦い顔で頷くしかなかった。
「わかった。僕が、やる。でも失敗したら……」
「その時はその時だ。……ルファスの奴が多少は察してくれるかもな」
切り捨てるような物言いだった。
だが冷酷なのではない。
それ以上の優しい言葉を探している余裕がないだけだ。
メラクは、ずっと黙っていた。
天翼族。
純白の翼を持つヴァナヘイムの新国王。
即位したばかりで、いまだ王冠の重さに肩が慣れきっていない男。
兵器群が後ろ盾になっていたがゆえに玉座へ押し上げられ、その実、国を動かすための傀儡程度にしか見られていなかった存在。
メリディアナにひたすら見下されていたことを彼はもちろん気が付いていた。
当然だ、あの魔女は嘲りを隠していなかったのだから。
魔神族に組みして生贄をせっせとソドムに運んでいた事を思えば当たり前の話だと彼は甘んじて受け入れていた。
僕は臆病で自信もない。
いまも胃の奥では逃げたいと叫ぶ何かが暴れている。
だが、メラクは卑怯者ではない。
彼は、自分に決定権がなかったことを知っている。
アリストテレスとルファス、その間に挟まれて、意思決定の機会など一度もなかった。
判断する前に状況が動き、理解する前に命令が降り、立場だけが“王”にされていた。
それでも、その事実は免罪符にならない。
ヴァナヘイムは動いた。
自分の名の下に。
ならば責任もまた、自分の名へ戻ってくる。
メラクはおそるおそる、しかしはっきりと翼を広げた。
純白の羽が、傷んだ戦場の空気の中でかすかに揺れる。
臆病さは声に残っていた。
それでいい、と彼自身は思った。
強がる必要はない。英雄のような声など、最初から持っていない。
「私は、ずっと誰かに決められてきた。
国王になってからも……結局、何一つ自分で選べていなかった」
そこまで言って、わずかに唇を噛む。
悔しさと情けなさが、いまさら胸に刺さる。
「でも、ここで立たなかったら、本当にただの傀儡で終わる」
「それだけは……嫌だ」
アリオトが、目だけで彼を見た。
それで十分だった。
承認でも称賛でもない。ただ「聞いた」という視線。
いまのメラクには、そのくらいがちょうどよかった。
「私は術やスキルで牽制しつつ全員に天法をかけ続ける。
それくらいなら、まだできるはずだ」
自信はない。
だが、責任感だけで前へ出るには十分だった。
「最悪、彼女を挑発するよ……彼女は、僕をきっと嫌っているだろうから」
憎々しいヴァナヘイムの王である自分が挑発すればルファスはきっとこちらを優先的に狙ってくるだろうと恐怖と共に分析する。
アリストテレスは、そんな彼らを眺めていた。
蒼い瞳を細め、少しだけ首を傾げ、にこにこと。
まるで花壇の苗がようやく自力で立ち上がったのを見ているような顔だ。
感動や哀れみではない。
単純に見ていて面白い、という種類の関心。
それでも彼女はもう余計な口を挟まない。
挟まないこと自体が無言で彼らを急かしていた。
気心しれた仲間たちの会議だ、邪魔をしたらむしろ遅くなるだろう。
しかしその目線は常にこう言っていた。
早くチャートを決めろ。
早く武器をもって並べ。
早く舞台へ立て。
時間はあまりないのだから。
そういう無言の圧がひどく冷たく場を撫でている。
彼女にとって、ここから先は結末の整形でしかない。
後の時代に英雄譚の一頁として切り取られる形。
七人が並び、覇王へ立ち向かい、最後に勝利と敗北がきれいに整理される物語。
だが、この場にいる誰もが知っていた。
これは物語などではない。
茶番だ。
必要な敗北と、必要な勝利と、必要な役割だけが残されたひどく醜い調整作業にすぎない。
ここでやり方を間違えるとあの女神がまたしゃしゃり出てくるかもしれないのだ。
だから演じるしかない。
アリオトは剣を構えた。ミザールが槌を肩に担ぐ。
フェグダが矢を番えて低く身を沈める。
ドゥーベが四つん這いになり飛び掛かる準備を始めた。
メラクの白い翼が静かに持ち上がり、メグレズは青い顔のまま指先へ術式の感触を集め始める。
誰も堂々とはしていない。
胸を張ってもいない。
誇り高く並び立つ英雄の図などそこにはない。
しかし数百年先にはきっと堂々としたご立派な英雄様たちと脚色されるのだろう。
これはようやく覚悟を決めた罪人たちの列だった。
そして。
アリストテレスが、ふっと視線を上げる。
その瞬間、全員が悟った。
彼女が来る。
空気ではない何かが戦場の位相を静かに押し広げる。
そう、これは、純粋な圧だ。
修復されていく空と、墜ちていく兵器群の残骸、その向こう側。
ひどく明るい修復された太陽光の筋の中に一つの影が現れる。
最初は輪郭だけ。
次に紅い外套。
そして漆黒の翼。
覇王ルファス・マファールが、姿を現した。
マナ・キャンサーを倒した女が戻ってくる。
修復された太陽はまるで血の様に真っ赤な夕暮れとなり戦場を照らしている。
誰も息を呑まなかった。
呑んでいる余裕がなかった。
アリオトは剣を握る手に力を込める。メグレズの術式が震える。
メラクは白い翼をさらに開き、フェグダとドゥーベがそれぞれの位置を微調整する。
ミザールはゴーレムで巨大な自由自在に動かせる腕を作り出した。
「ここで終りだ! 覇王ルファス・マファール!!」
剣先を向け、アリオトが吠えた。
圧政者を弾劾する勇者の様に。
「愚かな。終わるのは其方たちだ」
ルファスが答える。
まるで同じ台本を読んだ役者の様に暴君として。
そして茶番の幕が上がる。
結果は語るまでもないだろう。彼らは英雄になったのだ。