ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
メグレズ。
最もアリストテレスに近い精神をしたエルフ。
探究者という側面をもち、誰よりも知識と知恵を追い求める男はルファスの封印後はリュケイオンに戻っていた。
リュケイオンは兵器群の収奪が比較的及ばなかった都市である。
彼らの大半はルファスの配布した果実を食さなかったということもあり、高レベル存在ほど強く引きずり込まれた彼らの回収を回避することができたのだ。
故にこの国は崩壊せずに済んでおり、そればかりかロードスとアラニアが先導して難民の受け入れなどを強く推し進めている余裕もあった。
光の森より派遣され、この学都の統治を委ねられていたアラニアとその背後で全体の先を読んでいたロードス。
かのエルフ王は、ルファス消失後の世界がどう転ぶかを、おそらくかなり正確に見積もっていたのだろう。
備えは異様なほど周到で、過剰に思えるほど先回りしていた。
そのおかげでリュケイオンには今、難民受け入れを進めるだけの余力すら残されていた。
そしてメグレズは表向きは称えられていた。
暴虐の限りを尽くした覇王を封じた英雄の中の一人として。
しかしその英雄は帰着後は数日間、自室へ引きこもっていた。
メグレズは、寝台にも椅子にも長く身体を預けられなかった。
座れば思い出し、横になれば、もっと鮮明に思い出してしまうからだ。
兵器群と繋がっていた時のあの感覚を。
頭の奥に何枚もの窓が一斉に開き、自分ひとりの脳では到底処理しきれないはずの情報が
まるで最初から自分のものだったかのように流れ込んできた全能感は。麻薬よりも濃厚な多幸感を彼に与えていたのだ。
自分には何でもできると思えた。
いや、違う。
何でも“できてしまう”という確信だ。
その全能感に酔い、自分が何に手を貸しているのかを途中から深く考えなくなっていた事実が彼にずっと突き刺さっている。
最悪だった。
兵器群に操られた。あの魔女に誑かされた。
そう言ってしまえば、それは確かに事実の一部ではある。
だが、メグレズはその言い訳に縋れなかった。
操られていたとしても、自分は喜んでいた。
少なくとも途中からは抗うよりも、その力に使われること選んだ。
世界の知識と構造。
それらを操る技術と理屈。
世界の裏側を覗けるあの感覚に、探究者としての自分はたしかに魅了されていた。
アリストテレス卿に出会い、その力の一端に触れた時から望んでいた夢が叶ったと狂喜乱舞していた。
ルファスを超えられるかもしれない。
ルファスを封じられるかもしれない。
ルファスという存在をようやく理解し、ようやく打ち倒せるかもしれない。
そして僕もアリストテレスになれるかもしれない。
その熱に酔っていたのだ。
だから、表向き彼がどう称えられようと、何ひとつ心に染みなかった。
英雄。
覇王を封じた七英雄の一角。
知略と封印術によって世界を救ったエルフ。
街の者はそう言う。
避難してきた者たちはあからさまに希望を見る目を向ける。
彼が歩けば、頭を下げる者すらいる。
だがルファスを知る者たちは違った。
彼らは何も言わないし、あからさまな非難を口にするわけでもない。
むしろ礼儀正しいくらいだ。それでもその態度と目線は何処か冷たい。
その冷たさをメグレズは正確に感じ取っていた。
当然だった。彼らは知っている。
ルファスという女性の本質がただの穏やかな人であると。
どれだけ覇王と呼ばれようと、畏れられようと。
悪魔と罵られようがリュケイオンの人々にとってのルファスは変わらない。
そんな彼女をよりにもよって裏切って消し去ったメグレズを見る眼が冷気を帯びるのは当たり前だった。
だからこそ、部屋に閉じこもった。
彼は人々の目線から逃げたのだ。
最初の数日は本当に何もできなかった。
書物を開いても文字が頭に入らない。
魔法の術式を書こうとするとあの時の感覚が再燃する。
ソレは一種の薬物中毒のフラッシュバックに似ていた。
少しでも気を抜けば全能感を再び得たくて手が震えてしまう。
鏡を見れば、己の瞳がまだ青色に見えて悲鳴を上げそうになった。
自分の頭の奥にまだ兵器群の残滓が巣食っているのではないかと思えて、視線を逸らしたくなる。
それでも彼は長くは沈まなかった。
後悔に沈んでいる沈黙の時間が、あまりにも苦しかったからだ。
沈黙が耐えきれなかった。
物音のしない静まり返った部屋が恐ろしくてたまらない。
だから恥知らずと自覚しつつも謝罪の為にアウラの下を訪れようとして、もう彼女はこの街にはいないと知り、更に狂いそうになった。
どうしてなどと問うまでもない。
彼はあの時、アウラを確保しようとして動いていたのだ。
カルキノスとアラニアはその動きを読み切っており、メグレズから隠す為にアウラの身柄を別の所に移したのだろう。
そもそも出会ってどうするというのだ?
「貴方の娘を殺したようなものですが、許してください」とでもいうつもりか?
それさえも判らない程にメグレズは混乱していた。
自己満足/贖罪。
そんな綺麗な言葉で呼ぶには感情が濁りすぎている。
これは自分を許すための行動ではないからだ。
むしろ逆だった。
何かしていないと、自分が何をした人なのかを直視してしまって、心の方が壊れそうだったのである。
人類の半数以上の消失、共同体の崩壊、兵器群の停止による各国の治安悪化。
その全てが彼の責任だからだ。
ルファスという絶対的な存在の損失による秩序の崩壊は既に拡散し続けている。
全ては覇王がやったことだと各地で既に情報操作が始まっているが、聡いものは気づいている。
この惨状は七英雄が齎したのだと。
兵器群の暴走の原因であった魔女メリディアナはもう居ない。
どれだけ彼女に暴言を吐こうとあのエルフの3割も生きてない老婆にとっては幼子が駄々をこねているようにしか思われないだろうが。
それでも動くしかなかった。
まず始めたのは、兵器群の余波の調査だった。
自分たちが直接関与した範囲。間接的に手を貸した範囲。
兵器群と接続していた時、自分がどこまで情報へ触れ、何を構築し、何を残したのか。
思い出せる限りを紙へ書き出し、それをさらに精査する。
記憶の欠落があるならその欠落の輪郭をまず知る。
わからないなら、わからないこと自体を記録する。
それは、探究というより検死に近かった。
自分自身の、そして自分が関わってしまった災厄の調査だった。
とんでもないマッチポンプだがやるしかない。
不自然な流通された品々に回収対象としてマークされていた高位存在の一覧。
そして、自分が酔っていた時期に、他に何か大きな過ちを犯していないかの確認。
自分で自分の罪状を読み上げる拷問染みた仕事であった。
最後にプルートについて。
兵器群とほぼ一体化したあの工房は防衛機構が停止した後はどうなったのだろうか。
いますぐに行くべきだと判っていてもメグレズは怖くてあの冥界に近づく勇気をもてなかった。
殆どの作業は地味で、苦く、そしてひどく実務的だ。
世界を救った英雄がするには、あまりにも地味な仕事。
だがいまのメグレズにとっては、その地味さだけが救いだった。
派手な偉業ではなく、積み上がる汚泥を手で掻き分けるような仕事。
それなら少しは、自分がまだ現実にいると実感できた。
アラニアともいずれ話さなければならないと思っていた。
いや、思っていた、では弱い。
本当は、すぐにでも話したかった。
彼は後見人であり、師のような存在だ。
メグレズが知識を追うことを、ただの傲慢で終わらせず、学問として成立させる道を示した男でもある。
幼いころからミズガルズ中を共に歩き回り彼に多くを教えてくれた人だ。
一度は袂を分かった。
兵器群へ傾いた時点で、もう以前と同じではいられなくなっていた。
それでも最後には、何かを言わなければならないと思っていた。
言い訳でも謝罪でもなく、ただ、自分がどこまで堕ちていたのかを知ってもらわなければならないと。
だが、アラニアは忙しすぎた。
難民受け入れ。学都の治安維持。
配給と住居の再編。ロードス王との調整。
常に彼は何処かに飛び回り、リュケイオンに戻ってきたかと思えば会議に現場の指揮に、人員の整理など延々と働いている。
まるで当時のプラン・アリストテレスの現身だ。
壊れた世界の中でなおリュケイオンを“保つ”ためのあらゆる後始末。
総督であり、領主であり、いまこの都市を支える責任者である以上、当然だった。
メグレズ一人の心情整理など、優先順位で言えば最後尾にも届かない。
それは理屈では理解している。
理解しているのに、胸のどこかでは別の声がした。
――見捨てられたのかもしれない。
馬鹿げた被害妄想だと、自分でわかっている。
今さらそんな幼稚な感情を抱く資格はない。
だが人は、理性だけではできていない。
一度は師と袂を分かち、兵器群へ傾き、結果として世界を壊しかけた。
そんな弟子にわざわざ時間を割いてやる価値などないと、そう思われていても不思議ではない。
不思議ではないどころか、むしろ当然かもしれない。
その考えは、夜になると強くなった。
書架の影が長く伸びる頃、机の上に積まれた調査記録を見つめながらメグレズは何度も同じ想像へ沈みそうになった。
自分はもう、誰かに救われる側へ戻れない。
戻ってはいけない。
ならばせめて、何かの役に立っているように見せ続けなければならない。
メグレズは知っている。
探究者という人種は、穴を見つけたら覗き込まずにいられない。
それがどれほど深い奈落に通じていようと。
そして今、彼の前にある穴は、自分自身が掘ったものだ。
ならば、最後まで覗くしかない。兵器群の残滓はどこまで残っているのか。
自分の所業の他にも知るべきことはたくさんある。
ルファスを封じたあの戦いのあと、誰が何を持ち帰ったのか。
十二星天はどう動いているのか。ベネトナシュはこれからどうするつもりか。
アリストテレスは本当に消えたのか。そして、あの戦いにおいてルファスは何を目的にしていたのか。
「ルファス。君は……」
彼は覚えている。
アリオトがルファスに対して「お前にはお前の考えがあるんだな」と問えば彼女は否定していなかったことを。
彼女は昔から嘘をつくのは得意ではなかった。
ルファスは明らかに何かを目的として突き進んでいたことを彼はあの時に聞いていた。
それを探し当てないといけない。
かつては友であり幼いころから共に有った女性のことを何も知らない自分を彼は恥じた。
そして数日が過ぎた。
エルフにとっては一瞬、メグレズにとっては久遠とも思える程の長さだ。
兵器群の残滓を洗い出すための記録は、もはや机の上だけでは収まらなくなっていた。
巻物。報告書。ようやく絞り出せたプルートへの遠征計画。
仲間であり最初に兵器群の檻から逃げ出したミザールはどうしているだろうか? 彼に聞きたいことのリスト一覧も用意した。
整理しきれない紙束が書架の根元や床へまで広がり、部屋そのものが一つの臨時調査室に変わりつつある。
メグレズは、その中心にいた。
いや、中心に“残っていた”と言うべきかもしれない。
エルフという種の肉体に対する一種の負荷テストを彼は行っていた。
眠っていないわけではない。食べていないわけでもない。
だが、それらはどれも生きるための最低限でしかなく、彼の意識はずっと別のところへ張りついたままだった。
銀色の髪はぼさぼさに変わり果て、活力と探究欲に満ち溢れていた瞳はもはや淀みだしている。
目の下には濃い影が落ちている。
指先は乾き、髪は乱れ、いつの間にか机に突っ伏していた形跡が何度も残っていた。
あと一歩踏み越えれば全てが崩れる。そんなところまで来ている自覚はあった。
窓の外では、リュケイオンは回っていた。
難民受け入れ。区画整理。配給の再編。治安維持。
都市は傷つきながらも、生き残るために歯を食いしばっていた。
もはやリュケイオンの人々はメグレズのことなど眼中にもないようだ。
英雄として接し敬意は見せつつ遠くから冷たく眺めるだけ。
彼らは今、忙しいのだ。
その事実が逆に彼を机へ縫いつける。
自分だけが膝を抱えて沈んでいることは、もう許されない。
泣こうと叫ぼうと後悔に沈もうとミズガルズは変わり続ける、置いていかれたらお終いだ。
自分を追い詰めて追い詰めて、何度も意識が飛びそうになる。
幾度もそんなことを繰り返し、都合11回目の気絶を体験しようとしたとき、扉が叩かれた。
軽い音ではない。
遠慮はあるが、躊躇はない。
用件がある者の、きっぱりした打ち方だった。
メグレズの意識が急浮上する。アラニアかと思った。
あるいは急ぎの報告か。
だが胸の奥で別の嫌な予感がざらつく。
もしかしたら、自分の命を狙う誰かからの刺客やもしれぬとさえ思った。
「……どうぞ」
声が、掠れた。
自分でも少し驚くほど疲れた声音だった。
扉が開く。
最初に見えたのは、長い金髪だった。
何度も見たことのある、懐かしい髪。
幼いころから「どうして切らないのだろう」と思うほどの長さのソレ。
視線を下に下げる。もはやこれは癖のようなものだった。
そこにあったのは白いローブ。背丈より大きな木製の杖。ぺたぺたとしたサンダルの音。
十歳ほどの少年にしか見えない子供の様でいて老人の様な雰囲気のエルフ。
ロードス王。
光の森の盟主。
七千三百年近くを生きるハイエルフ。
全てのエルフを、生まれた時から知っている“父”のような存在でありもちろんメグレズにとってもそうだ。
その無感情な瞳が、部屋の奥に座るメグレズを静かに見上げていた。
そして、その隣にもう一人いた。
青白いプラチナのような長髪。
琥珀色の瞳。
少女めいた線の細い顔立ち。
アリエス。
ルファスの重臣中の重臣たる十二星天、その中の一角である牡羊座。
本来の姿は百メートルを超える超巨大な虹色羊だ。
手乗りサイズの子羊だった頃からルファスやプランと共に在った事実上の家族。
彼は腕を組み、むすっとした顔で立っている。
不機嫌なのを隠そうともしない。むしろ隠すつもりがない。
その顔を見た瞬間、メグレズの背筋を冷たいものが走った。
ついに来たか、と思った。
殺されるのだ、と。
不思議と、それ自体にはあまり驚かなかった。
遅かったくらいだとも思った。
彼は本当に最初からルファスの傍らにいた者。
幼い頃から彼女と共にあった家族だ。
そういう存在が、自分を許せるはずがない。
リュケイオンの中だろうと何だろうと、ここで喉を裂かれてもおかしくはないと頭のどこかでずっと理解していた。
だが、アリエスは襲いかかってこなかった。
代わりに、部屋の中を一瞥して、紙束の山と憔悴したメグレズの顔を交互に見て、それからあまり感情の乗っていない声で言った。
「ずいぶん、ひどい顔だね」
子どもっぽい口調だった。
だが言い方には棘がある。断じて労わりではない。
メグレズは、かろうじて言葉を返す。
「君に、そう言われる筋合いは――」
「あるよ」
ぴしゃりと遮られた。
アリエスは眉を寄せたまま、組んでいた腕を解かない。
その琥珀の瞳には、明らかな殺意がまだ沈んでいる。
「火」属性の彼は内心で燃え盛る憎悪や憤怒の業火を何とか抑え込んでいるのだ。
今ここで噛みつかないだけで、それが消えたわけではない。
ただ彼は自分が十二星天であると自分に言い聞かせて抑えている。
僕は十二星天のアリエス。欲望と怒りのままに暴れる魔物じゃない。
「本当は今すぐにお前を殺したいんだ」
あまりにもあっさりとした告白だった。
事実の確認みたいに軽い。
「でも、ここで暴れるのはやめておく」
「この街は僕たちのリュケイオンだし。ロードスにもアラニアにも、ずっと世話になってるから。お前の為じゃない」
リュケイオンはルファスにとってそうであるようにアリエスにとっても生まれ育った故郷だ。
美味しい野菜をくれたこの街の人たちを彼は好きだし愛している。
何世代たってものんびりした所を変わらない人々はプランの時代からずっとアリエスやルファス、カルキノスたちを隣人として扱ってきていた。
いわばこの街もアリエスからすれば仲間であり群れの同胞なのだ。
更に言えばアリエスはロードスとアラニアに恩がある。
この街をずっと維持し発展させ守ってくれていたのは彼らであり、今回の件でもアウラを逃がす手助けをしてくれた。
ルファスにとっても、アリエスにとっても大事な恩人だ。
「安心した? それは良かった」
言いながら、アリエスはほんの少しだけ視線を逸らした。
我慢しているのだと、そうわかる仕草だった。
湧き上がる衝動で裂きたい。
だが、それをやればこの愛する地を汚すことになる。
故郷を穢れた裏切者の血で汚したくはないのだ。
更には恩人や隣人、群れの仲間に迷惑がかかる。
だからそうしないだけ。
彼は十二星天である、故に自分は欲望と一時の衝動で暴れる魔物ではないと自戒もしていた。
アリエスは続ける。
「で、僕はこれからしばらく、この国を拠点に動くつもりなんだ」
話題が突然変わった。
あまりに自然に変わったので、メグレズは一瞬ついていけなかった。
「偽名とかがいるんだよね。
ダビテ。今度からそう名乗るから、そういう感じの隠れ蓑もいくつか用意しておいて」
「……は?」
「聞こえたでしょ。その長い耳は飾り?」
アリエスは不機嫌なまま言う。
言葉の内容だけ聞けば、使い走りへ投げる雑務の指示だった。
「表向きの身分に滞在理由。
出入りしても不自然じゃない場所とか色々と用意してよ。そういうの得意でしょ」
「こんな所にバカみたいに引きこもっているよりずっと大事な仕事だよ。
少なくともソレをやってる間は僕はお前を殺さないんだから」
それは確かに、その通りだった。
英雄として彼は色々と顔が利く。
アリエスは十二星天として色々と目立ってはいたが、姿を変える術や道具などいくらでもある。
彼自身が自分の羊毛を用いればその程度のアイテムなど簡単に作れるだろう。
だがとメグレズは言葉を失う。
自分を殺しに来たのではなかったのか。
そう思ったこと自体、たぶん顔へ出ていたのだろう。
アリエスは露骨に嫌そうな顔をした。
「何その顔。別に許したわけじゃないよ。そんな日は絶対に来ないから」
ちゃんと嫌いだよ、とでも言いたげな調子だった。
「でも今はいいや。
……本当にやることがいっぱいあるんだ。だから、せめてお前も少しは役に立ってよ」
使い道があるから残す。
全くアリエスは隠し立てしていない。
七英雄とかいう括りも今のこのルファスを犠牲に成り立つ世界も、兵器群に何もかも委ねて操り人形に成り果てたメグレズらも全てに怒っている。
怒っている。
怒ったうえで、順番を守っているだけだ。
メグレズが返答できずにいると、そこでロードス王が杖の石突きを、こと、と床へ鳴らした。
「余は別件で来たぞ。息子よ」
古風で、どこか枯れた声。
老人のようでもあり、幼子のようでもある、不思議な響きだった。
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わる。
アリエスの不機嫌さも。メグレズの身構えも。
それらすべてを横へ置いて、別の本題が立ち上がる。
ロードス王は、長い髪を床へ引きずりながら、ぺたぺたと部屋の中へ入ってくる。
巨大な杖をついたその姿はやはり小さな子どもにしか見えない。
無感情な瞳が、机の上に積まれた記録を見、乱れた室内を見、最後にメグレズの顔へ戻る。
その視線は冷たくも優しくもない。
ただ、何時も通りの透徹した瞳だ。
時代の移り変わりを幾度も見てきたエルフにとっても今回は……いや、今回はかなり危なかったが既に乗り越えた轍でしかない。
「酷い有様だ」
責める口調ではなかった。だが慰めてもいない。
本当にいつも通りだ。
兵器群がどうとか、ルファスがどうとか、世界がどうとか、そういったメグレズが期待していたわかりやすい糾弾などするはずもなし。
彼の瞳がメグレズを見上げた。
「兵器群が停止したと同時に奴らが封じていた魔神王が解き放たれた」
淡々と告げる。
アリエスが顔を顰め、メグレズは瞳を震わせた。
魔神王オルム。全ての魔神族の王であり創造主とされる存在。人類の敵。
かつてのソドムの戦いで兵器群とルファスに敗れ去り研究体としてどこぞの施設に封じられながら解析されていた存在だ。
その戦闘能力はベネトナシュを除けばミズガルズでも最強と言えるほどだろう。
それが逃げ出した。
兵器群が止まったと同時に彼を抑えていた鎖も消えたのだろう。
言葉は短かった。
だが、その一言が部屋の温度を目に見えぬまま引き下げた。
メグレズの喉が、しゃっくり上げるようにひくりと動く。
魔神王オルム。
全ての魔神族の王にして創造主。
あまりに強大で、あまりに厄介で、歴史上何度も現れた人類の敵。
兵器群とルファスがいたからこそ押し込められていた怪物が今はもう檻の外にいる。
兵器群はいない。ルファスもいない。
どちらも彼らが消し去った。
ベネトナシュは……彼女はきっとミョルニルが関わらなければ戦うことはないだろう。
で、あれば自分はかの魔女の様に1から兵器群の様な機構を育てられるか?
魔神族が復活したさい、兵器群の様に奴らを全世界規模で永遠に押さえつける機構を作れるだろうか?
そんなこと不可能に決まっている。
英雄と呼ばれるエルフは人間が出来たことを自分には無理だと認めた。
その事実を頭の中で並べた瞬間、ひどく単純で、ひどく救いのない結論が先に立った。
どうしようもない。
あまりにも明白で、あまりにも情けないその一言が、先に胸へ落ちる。
世界は壊れた。共同体の齎していた秩序は崩れた。
自分たちはその一端を確かに担った。
その上、今度は魔神王が戻るかもしれない。
メグレズは、無意識にこめかみへ手を当てていた。
もしオルムが動くなら、それはもはや局地の問題では済まない。
今の人類に、あれを止める札がどれだけ残っている。
ベネトナシュに自分たちもいる。
十二星天も健在だが、それでも。
無理だろう。
幾らいるとはいってもそれだけだ。
十二星天はルファスにしか従わないだろうし、ベネトナシュはまず動かないだろう。
最近ではアリオトが交渉に行って、叩き返されたとも聞く。
そしてアリストテレスと兵器群はもう居ない。
兵器群とルファスが抜け落ちた穴は、あまりにも大きい。
「……そんなの」
声が掠れる。言葉の先が続かない。
今すぐではない。だが必ずその未来はやってくる。
ロードス王の口調には、曖昧な脅しではなく、先読みの確信があった。
魔神族は再編される。
彼らは必ず帰ってくる。
既にあれらを停止させ、再起動を妨害していた兵器群はいないのだから。
メグレズの指先が、目に見えて震え始める。
頭の奥で、いくつもの最悪の図が勝手に組み上がっていく。
人類共同体が崩れた今、各国は弱っている。
難民は流れ、補給線は細り、統治機構はひび割れ、どこも再建の途中だ。
そんなところへ魔神族が再稼働する。
しかも相手は四強/魔神王のオルムだ。
兵器群の研究体にまで落とされてなお、生きて出てくるあの怪物だ。
「……私たちだけじゃ」
“どうにもならない”
その言葉を言い切る前に、ごつんと鈍い衝撃が頭頂へ落ちた。
「痛ッ!」
メグレズが思わず椅子ごと後ろへずれかける。
頭を押さえて顔を上げれば、アリエスが変わらずむすっとした顔で、ちいさな拳を握ったまま立っていた。
「次またそんな態度したら、ロードスの杖でぶん殴るから」
頭を果物の様に割ってやると本気の眼で言う。
実際、レベル1000の彼ならそれくらい容易いだろう。
腑抜けたエルフ程度の頭蓋など何の障害にもならない。
「“どうにもならない”とか、今はそういう話はいいから。
お前は黙って僕たちの言う事だけ聞いてろ」
メグレズは一瞬、呆気に取られた。
だがアリエスはそれを待たない。
「間違いなくルファス様は戻ってくるよ。
諦めるもんか。あの方だって約束してるんだから」
あまりに即断だった。
予測でも、願望でもない。
確定事項のように言う。
「確かに何年先かはわからないよ。
十年かもしれないし、百年かもしれない。もっと先かもしれない」
「だけど絶対に帰ってくる。あの方はそういう人なんだ」
天翼族基準の時間感覚を得てしまったせいでルファスもまたかなりマイペースなところがある事をアリエスは知っている。
仮に数百年後に戻ってくるとして、僕たちは待っているからいいけど、人間であるパルテノスは無理じゃないか、と少しだけアリエスは突っ込みたくなった。
まさかいくら何でも、そこを忘れるわけないよね? と内心で押さえておく。
根拠などはなかった。
だが同時に疑いもない。
ルファスの本質と秘めた思いを知る者だけが持てる種類の確信。
理屈ではなく積み重ねた絆の総体として知っている結論だ。
メグレズは、その響きに何も言い返せない。
本当ならば彼もまた、それを知る側だったというのに。
アリエスは腕を組み直し、そのまま部屋の中を見回した。
散らばった記録。疲弊したメグレズ。山積みの後始末。
どれも気に食わなそうな顔をしながら、それでも言葉だけは先へ進めていく。
「だからその時のために、先にやることがあるってさっきも言ったよね?」
琥珀色の瞳が、まっすぐメグレズを射抜く。
「ルファス様のアイテムとか武器とか資産とかを狙う馬鹿が大勢いるんだ。
そういうのを僕らは許す気はないよ」
「だからまとめて管理する施設を作るつもり」
主が帰ってきた時「ごめんなさい、何もありません」なんて言ったらルファスはきっと凄い顔をするとアリエスは確信している。
激怒はしないだろうが、かなり凹むだろう。
何よりあの中に幾つかある酒の席で間違えて作ってしまった過ちの品などがうっかり拡散などしたら寝込むかもしれない。
“良いかアリエス? これは絶対に人目に晒すな。絶対にだ”
“特にカルキノスには絶対に知らせない様に”
普段は余り見せない切羽詰まった顔でアリエスに言い聞かせた話である。
お題は酒を飲んだ勢いで作ってしまった装飾が無茶苦茶に施された『聖魔剣』とかいう武器だ。
振るうたびにシャキーンという音が鳴る剣を前にルファスは壮絶な顔でアリエスに厳命したことがある。
あれが人目に晒されたりなどしたらルファスは頭を抱えてうずくまるかもしれない。
彼が警告していた酒に気を付けろという注意が数百年後にルファスに突き刺さった瞬間だった。
「ゾディアックの難民だってそうさ。
今はもう散り散りになってるから、僕が皆を誘導しないと」
ゾディアックはアリエスにとってはルファスの群れの仲間だ。
ほぼ全てが兵器群に収奪されたとはいえ生き残りもいる。
だからそんな彼/彼女たちを助ける必要もある。
そして彼は指を折りながら必要なことを並べていく。
「こっちはアイテムの回収に身分の偽装に受け入れ先の分配。
後は十二星天の皆との連携とか。
それからそれから、兵器群の残骸の調査とかぜーんぶやんないといけないんだよ」
そこまで言ってから、アリエスはわずかに眉をひそめた。
「頭抱えてる暇があるなら役に立ってよ」
冷たい言い方だった。慰めなど一片もない。
だがその中身は、ひどく現実的で、だからこそメグレズには逃げ道がなかった。
いつの間にか誰よりも弱かった虹色羊はここまで成長していたのだ。
「それでもまだうだうだ言うなら……もう殺すしかないじゃないか」
軽くもなく、冗談でもない声音。
アリエスは本気でそう思っているのだとわかる。
役に立てない。立つつもりもない。頭だけ抱えて何もしない殻潰し。
そういう道を選ぶなら、本当に殺すしかなくなる。
ロードスには悪いけど、と彼は小さく続けた。
その程度の冷酷さがいまのアリエスにはある。
そしてたぶん、それを言う権利もある。
メグレズはぐっと唇を噛んだ。
反論も怒ることもできない。
アリエスの中にある怒りの重さを、彼は少なくとも想像できてしまう。
ルファスの家族だった者。
幼い頃から彼女と共にいた子羊。
その彼が、わざわざここで手を出さず、しかもその先のための話をしている。
ならば、自分が頭を抱えているだけなのは、確かに醜悪だった。
痛む頭頂へ指を当てたまま、メグレズは深く息を吸う。
喉の奥がひりついた。
それでも、そこでようやく視界の焦点が少しだけ戻る。
「……わかった」
かすれた声。
だが、先ほどまでの弱音とは違う。
「できることをやろう
身元の偽装も、施設も、管理台帳も……私が何とかしてみせる」
アリエスは鼻で笑うでもなく、褒めるでもなく、ただ「最初からそうすればいいのに」という顔をした。
ロードス王は、そのやり取りを静かに見ていた。
無感情な瞳が二人の間を往復し、それから杖の石突きを軽く床へ打ちつける。
ことん。
小さな音。
だが、それで話の流れがまた変わる。
「もし魔神王が魔神族を再編し、何処かを攻めるとすれば」
ロードス王の声は、やはり平坦だった。
「まず狙われるのはプルートであろうな」
メグレズが顔を上げる。
アリエスも今度は黙っていない。
琥珀の瞳が、わずかに細くなる。
プルート。
その名だけで兵器群の所業が脳裏に蘇る。
地の底で続く加工。研究/解体/再設計の数々。
あの中にはまだまだマナ・キャンサーに匹敵する世界への悪意が眠っている。
光の届かぬ場所で積み上がっていたアリストテレスの技術の数々は全てが開帳されたわけではない。
手品の種はいまだ尽きてはないのだ。
ソレに彼は魅了され狂わされた。
ロードス王は続けた。
「あそこは兵器群の最重要拠点であった。
お前も知っての通り、魔神族を加工する大規模な施設が……あったというべきか」
“あった”
その言い直しに含まれたものをアリエスとメグレズは理解している。
兵器群が消えた以上、そこに残っているものがどれほど機能しているかはわからない。
だが、完全に無へ帰したとも言い切れない。
まして相手がオルムであるなら、あの場所を放置することはありえない。
魔神王はもはや兵器群を絶対に認めない。恐怖していると言っていいだろう。
何故ならばあれらはルファスという単独の超越種ではなく、技術として神を引きずり下ろすことを画策し、果てにマナ・キャンサーを作り上げたのだ。
絶対に認めるはずがない。
その残滓の一かけらも逃さないだろう。
兵器群の技術や知識を持っているかもしれないドワーフを絶滅に追い込もうとする可能性もある。
メグレズの脳裏に、いくつもの構造図がよみがえる。
生産棟。加工棟。研究区画。転写設備。
そして時間断層。
兵器群が魔神族を“素材”として扱うために積み上げた機構の数々。
魔神王からすれば文字通り不倶戴天の敵だ。
お題を投げかけられたメグレズの頭は直ぐに回った。
「プルート周辺の座標を洗い直す」
自分へ言い聞かせるように、彼は呟く。
「兵器群の施設の配置図などをもう一回地図として出そう。
何処に何があったか全部思い出して見せる」
ミザールには悪いがオルムのプルート破壊は避けられないだろう。
で、あればその後の探索を優位とする地図の作成に彼は手を伸ばした。
「それから、アリエスに必要な偽装と名義もだ。
ルファスの資産を補完する施設についても、候補地を三つ出そう」
言葉にしていくたび、頭の中の霧が少しずつ晴れていく。
彼はやれば出来る頭脳をもっているのだ。
メラクに近い性質だ。
「ぐだぐだと考えを巡らせる前にとりあえず動け。早くやれ」と、もしもアリストテレスが彼を見ればそうアドバイスしただろう。
一つの物事を整理し分割し優先順位をつける。
それはメグレズの得意分野だった。
アリエスは、そこでようやくほんの少しだけ機嫌を戻したように見えた。
戻した、といっても不機嫌さが一割減った程度だが、それでも彼なりの譲歩なのだろう。
ロードス王は、相変わらず感情の見えない顔で、しかし確かにその変化を見ていた。
部屋の外では、リュケイオンのどこかでまた鐘が鳴っている。
難民受け入れの合図か、物資搬入の知らせか、それとも単なる時刻告知か。
いずれにせよ、世界はルファスとアリストテレスの時代が終わったあとも勝手に回り続ける。
ならば、自分もこのままではいけない。
常日頃からエルフの行動の遅さに彼は不満を抱いていたのだから。
メグレズは唇の内側についた血の味を飲み込み、まっすぐ二人を見た。
彼は殺されはしなかった。
少なくとも、まだ先送りにされた。いつかは殺されるかもしれないが。
その代わりにもっと厄介なものを押しつけられた。
役割。
ソレが今の彼の全てである。
それならやるしかない。
そう思えた瞬間、ほんの僅かだけ彼の背筋は伸びていた。
来週は私事がありますので更新はお休みします。