ラスボスからは逃げられない! 作:宇宙きのこ(ミズガルズ産)
ベネトナシュ 状態異常 “乗っ取り”
ミズガルズ歴3000年。
ルファスの帰還より暫しの時間が経ち、彼女が半数ほどの星を集めなおした時より話は始まる。
彼女の前には倒れ伏した吸血姫ベネトナシュがいる。
レベル2300との彼女の戦いはルファスをして激戦だったとしか言いようがない。
フルパワーではないによせレベル3000までの力を解放したルファスとベネトナシュは激戦を繰り広げ、勝敗はついていた。
かつて交わした再戦の約束を果たされ、満足した顔で彼女は眠る様に倒れている。
ベネトナシュは全てから解放された顔をしている。
アリストテレス、ルファス、七英雄、今までのしがらみ。
覇王だとか吸血姫とか四強とか、そんな小難しい理屈を全て捨て去った全身全霊の戦い。
どんな肩書も因縁も、今この瞬間だけはすべて遠いものとなっていた。
ただ全身全霊を尽くして戦い切った者だけが持つ静かな終わりが、そこにはあった。
もう動かない。もう何も言わない。
ようやく、あらゆるしがらみから解放されたような顔をして、ベネトナシュは眠るように倒れている。
まるで遊び疲れた子供の様だった。
彼女はもう動かない。
安らかに物言わぬ存在となっていた。
ルファスは、しばしその姿を見下ろしていた。
胸中にあるのは勝利の実感ではない。
達成感とも違う。
苦い。
その一言で済ませるにはあまりに複雑で、何かを失ったような気がする。
もしくは何かをようやく終わらせたような、そんな名づけようのない感情だった。
ただ決して嫌ではない。久しくなく感じた充足だった。
それでも彼女は立ち止まってはいられない。
仲間たちと合流しなければならない。
まだこの脚本は終わっていない。
彼女の戦いはまだまだ続いているのだ。
ルファスはゆっくりと踵を返した。
その時だった。
ごふっ、と。
背後で生々しい音がした。
ルファスの足が止まる。
振り返るまでもなく、それが誰のものかは分かっていた。
だが、それでも振り返らずにはいられなかった。
仰向けに倒れていたベネトナシュの口元から黒ずんだ血が溢れている。
喉が上下し、肩が小さく痙攣する。
指先が、ぴく、ぴくと不規則に跳ねた。
まるで誕生直前のゾンビの様な動作だ。
実際、蘇生という意味では同じか。
早すぎる。
ルファスは無言のまま彼女を見つめる。
確かに【アムリタ】は流し込んであった。
しかし、それで必ず戻る保証はなかった。
エリクサーと同じだ。
アレは元々その肉体に残っている生命力を増幅し、再生や蘇生を促す類の霊薬にすぎない。
あれほど満ち足りた顔をしていたベネトナシュに、なお立ち上がるだけの生命への執着が残っているのか。
そこは最後まで賭けでしかなかった。
もしも完全に彼女が心から終わりを受け入れたとしたら0には何をかけても0になるだけだ。
だから一瞬だけ、ルファスは思っていた。
あるいは、それでもいいかもしれないと。
ベネトナシュという女は常に誰かに翻弄され続けてきた。
人類共同体を回すための歯車にされ、あの大戦の時では出来の悪い複製……クローンを無数に作られてその尊厳は徹底的に蹂躙されていたのだ。
確かに彼女は傲慢で強ければ何をしてもいいと考える暴君染みた考えさえもっていた。
しかしだからといって限度というものがある。
ようやく何もかもを終えたその先で彼女が終わりを選ぶのならばそれは彼女の選択でありルファスは何も言えない。
もう十分に彼女は戦ったのだから。
しかし。
「ごふっ」
再び同じ音が鳴る。
だが、その僅かな思いは粉々に砕け散っていた。
アリストテレスに慈悲はない。
ベネトナシュの身体がわざとらしいほどゆっくりと動く。
胸が上下し、肩が震え、咳き込むように何度か血を吐く。
まるで舞台の上で「まだ生きていますよ」と観客に分かりやすく見せつけるための出来の悪い芝居みたいだった。
ルファスの目から、わずかな期待の色さえ消える。
やがて、ベネトナシュは上体を起こした。
ぎこちない。だが動けないわけではない。
関節の稼働は問題なく、一応は生物として破綻した動きはしていない。
それなのに、決定的に“生きている者”の動きではなかった。
皮一枚隔てた向こうに、冷たい空洞でも詰まっているかのような薄ら寒い違和感が全身から滲み出ている。
床に落ちた人形を無理やり上から糸で引っ張り操演しているような動きだ。
そしてゆっくりと顔を上げた彼女の瞳が蒼く光った。
煌々と輝く蒼色だった。
コレは吸血姫のもの/紅ではない。
ベネトナシュが持つはずの瞳ではない。
彼女の瞳はルファスと同じ深紅で、もっと情熱的に輝いていた。
これはもっと人工的で、もっと乾いていて、もっと気味が悪い。
生命が宿っているのではなく、そこに“そう見える光”だけが置かれているような眼だった。
ベネトナシュの口元が、ふわりと微笑みの形を取る。
ルファスはソレを見て昆虫を何故か連想した。
「あら、戻ったのね。嬉しいわ!」
その声は確かにベネトナシュのものだった。
音域も、響きも舌の回し方も間違いなく彼女のものだった。
少なくとも耳に届く表面だけならそう聞こえる。
だがそこにある感情は、どうしようもなく張りぼてだった。
親しげで、明るくて、いかにも自然な再会を喜ぶような言葉なのに内側がまるで空だ。
冷えきった人形が、覚えた台詞だけをなぞっているような薄寒さがあった。
これが何であるかはルファスはもう知っていた。
あの者がベネトナシュに何の保険も備え付けていない筈がない。
回さなくてもよい気遣いを怪物染みた出力で表現するのが彼だったのだから、これもきっとそうだ。
ルファスは無表情のまま、その女を見た。
表情は動かない。
だが視線だけが凍えている。
今ここに居るものを一目見た瞬間に、もう理解してしまっていた。
これはベネトナシュではない。
戦いの果てにようやく解放されたはずの吸血姫を、またしても踏みにじって立ち上がってきた“何か”だと。
そして実のところルファスはその正体を知っていた。
喉の奥から、ほとんど無意識に言葉が漏れる。
また、この名前を呟くことになるとはと。
「……アリストテレス」
それは問いではなかった。
確認というよりは、あえて近しいモノを言うならば反射だった。
長い因縁の果てに、魂の奥底へ焼きついた異物の名を勝手に身体が吐き出してしまっただけだ。
ベネトナシュの形をした何かは、にこりと笑う。
その笑みもまた綺麗に整っている。
まるで人形の如く美しく、だからこそ気味が悪かった。
じろじろとベネトナシュはルファスに視線を走らせ上から下まで凝視する。
まるで久しくあってなかった親戚の成長を確認するかの様に。
ずっと昔からルファスを知っているように。
「名前を呼ばれるなんて久しぶり。あの小さな女の子がこんなに大きくなったのね」
わずかに首を傾げる仕草。指先で唇の端をなぞる癖。
どれもこれもベネトナシュの記憶を参照して再現したかのように精密で、それゆえに余計に不快だった。
何故ならばあえてベネトナシュがしない仕草をして自分は違うとアピールしているのだから。
ルファスの目は一切揺れない。
ただその奥にあるものだけが、ゆっくりと冷えきっていく。
激怒ですらない。そんなものはもう超えている。
嫌悪と呼ぶには純度が高すぎる、もっと深い拒絶だった。
まだ残っている事が不快で仕方ない。
あれだけ戦って、あれだけ世界を乱しておきながらいまだに根絶できていない。
共同体は消えて帝国は滅び、プルートは崩壊した。
魔女の願いはとん挫しアリストテレスの掲げた計画は失敗で終った。
なのに肝心の者はまだこうして世界に残り続けている。
ある種女神よりも質が悪く竜王より厄介な怪物はいまだ健在なのだ。
トン、トンとベネトナシュは靴先で地面を蹴り衣服を整えていく。
激戦の後だというのもあり彼女の装いはボロボロで折角の再開に相応しくないかもしれないと考えているようだった。
手早く錬成を使って装備と衣服を整え、飛び散った血しぶきを拭った後に少女は満足したようにうなずいた。
「ね。今まで何をしていたの?」
「あの青い子、貴女のお友達なのよね。
今度私に紹介してくれないかしら」
にこにこと。
あまりにも柔らかく。あまりにも自然に。
まるで本当に久方ぶりの再会を喜び、会話の糸口を探しているだけのような調子で、ベネトナシュの形をしたアリストテレスはそう言った。
その名を出された瞬間、ルファスの眼差しがさらに冷えた。
ディーナ。
今この場にはいない少女。
ルファスの傍らにあり、参謀として動き、幾つもの局面でその知恵を差し出してきた存在。
彼女の共犯者。
だからこそ、その名をこの異物の口から出されること自体が、たまらなく不快だった。
ルファスにとってそれは、もはや感情というより本能的な拒絶だった。
だが、目の前の“それ”はそんなことなど露ほども理解していない。
あるいは理解していたとしても、理解の仕方が根本からずれている。
だからこんなにも無邪気に、こんなにも軽々しく、他者の大切な領域へ土足で踏み込めるのだ。
少なくともこのアリストテレスは本気でルファスに友愛を示しているようだが、それでも不快感は拭えない。
悪意はないのは間違いないのに、悪人よりもおぞましく感じてしまう.
余りにルファスが何も言わないせいかベネトナシュは頭を傾げてどうしたものかと可憐に眉をしかめた。
彼女からすれば幼少時から知っていた幼い子が大きくなって帰ってきたのだから、この機会に仲良くしたい程度の話なのだ。
だがルファスは答えない。
沈黙したまま、ただその女を見ている。
その視線には怒りすら乏しかった。
怒りというのは、まだ相手を同じ舞台に置いている時に生じる感情だ。
だが今のルファスにとって目の前のものは既にそこにすらいない。
不快。
嫌悪。
拒絶。
そうした言葉をいくつ重ねても足りぬほどに、深く、冷たく、存在そのものを否定したいと願う思いだけが静かに燃えている。
一方で、ベネトナシュの姿を借りたアリストテレスはその沈黙を正面から受け止めてもなお、困ったように小首を傾げるだけだった。
その仕草がまた腹立たしい。愛らしく見えるよう計算された角度が白々しい。
繊細に整えられた指の添え方と唇の端の柔らかな持ち上がり方。
どれもこれも、ベネトナシュの皮を借りているからこそ可憐で優美な動作として成立する。
そして同時に、ベネトナシュなら決してしない種類の“わざとらしさ”が混ざっている。
完全な模倣にしないのは、これが自分自身の振る舞いだと示したいからなのだろう。
“私はこれではない”とわざわざ匂わせながら、しかしその身体を使い続ける。
その性根の悪さではなく、悪意の薄さこそがルファスには何よりおぞましかった。
こいつは心から自分の所業を何とも思っていない。
アリストテレスはいつもそうだ。
「どうしたものかしら」
少女は、いや異物は、ほとほと困ったように眉を寄せる。
本当に困っているらしい。
怒らせたいわけでも、傷つけたいわけでもない。
本気で親しみを向け、本気で友好的であろうとしている。
だからこそあらゆる悪人よりも質が悪い。
ルファスは、ようやく口を開いた。
「その身体は其方のモノではない」
低く、短くい妥協のない言葉。
彼女は判りやすい怒鳴りや威圧は絶対に見せない女だった。
だがその一言に込められた拒絶は明白だった。
心からルファスはこの存在を嫌悪している。
アリストテレスは瞬きを一つして、それから小さく苦笑した。
その表情は、やはりどこか空虚だ。
理解しようとしているのではなく、まぁそういうものかと考慮さえしていないのだ。
「そう。大人になったのね」
その言い回しにルファスの眉が微かに動く。
拒絶を拒絶として受け取らず、関係の距離感の問題に矮小化する、その倫理のずれが不快だった。
そしてアリストテレスは、懐かしむように目を細めた。
「でも、昔の貴女は本当に可愛かったのよ」
空気が冷えた。
「幼い頃の貴女。あの頃はまだ小さくて、ずいぶん無茶もして……当代の中から何度か見ていたけれど、とても楽しかったわ」
穏やかに過去を勝手に懐かしむ。柔らかい声音で今の彼女を無視して語る。
ここだけ聞けば、年長者が幼子の思い出を慈しむような、ごくありふれた回想に聞こえるかもしれないが……。
だが中身は何もかもが違う。
当代の中から見ていて、楽しかった。
それはつまり、ルファスの人生の一部をまるで観察対象か娯楽のように見ていたということだ。
幼い頃の未熟さも、苦しみも、足掻きも、何もかもを“楽しかった”の一言で片付けている。
高みからずっと見下ろすような言い草に苛つくのも無理はない。
だからルファスは一切取り合わなかった。
「さっさとベネトナシュに身体を返せ」
短く、鋭く、切り捨てる。
会話の余地すら認めぬ声だった。
アリストテレスはそれに対して、今度は少しだけ本当に困ったように笑った。
まるで無茶を言う子供を前にした大人のような顔だ。
この子はまたこんなことを言ってるとでもいいたげな。
その顔が、ルファスの中の何かを逆撫でし続ける。
「難しいお願いをするのね」
そう言って、彼女は自分の腕を持ち上げた。
細くてきれいな指と純白の肌。血を拭われ、整えられた衣服。
ほんの少し前まで、この身体の持ち主が全身全霊でルファスと戦っていたことさえ、今は夢のように思えるほどに整えられた吸血姫の身体。
女の永遠に少女で居たいという願いをかなえるためにあるような、美しい吸血姫ベネトナシュの肉体。
彼女はコレを気に入っていた。
正当なるアリストテレス卿の一つとしての受け皿として文句はないと。
己の腕を眺め、アリストテレスはごく自然な口調で言った。
「“これ”は私たちの所有物なの」
その一言に悪意はない。
所有物であるとあまりにも当然のように断言した。
あまりにも悪びれもなくアリストテレスはこういう存在であると変わらず証明し続ける。
雑談の延長で飲み物の銘柄でも語るみたいな軽さで、彼女はベネトナシュをそう呼んだ。
「私はこれが壊れそうになった時のための保険としてここにいるのよ」
「当代からのお願いだったもの。かわいい子孫のお手伝い」
くすりと笑う。
愉快そうですらあった。
「それに、中々気に入っているの、この身体。気づけば450年以上も着ちゃった」
ベネトナシュの顎へ、自分で触れる。
髪を払い、肩を軽く回す。
まるでお気に入りの服の着心地でも確かめるように。
改めてこの衣服はいいなと評するように続けた。
「とっても健気で可愛いのよ。形も綺麗」
「もちろん色々と癖はあるけれど、そのあたりは慣れればどうにでもなるわ」
ルファスは黙っていた。
何も言わないとうよりは言葉が出ないというべきか。
どうせアリストテレスには何を言っても無駄だと経験から知っている。
宇宙を滅ぼそうとするような奴らに何を言っても通じるわけがない。
■■■ならばともかく、これは違う歴代の存在、誰かだというのもその考えを助長した。
目の前の存在は、ベネトナシュを踏みにじっている自覚がない。
死者の尊厳を侵しているという認識もない。
彼女の尊厳やら何やらを奪った、汚した、利用している、そういう発想にすら立っていない。
ただ“使えるものを使っている”だけだ。
冒険者が便利なポーションや剣を手に入れたから使うようなもの。
必要なら保険を配備し、気に入ったならしばらく使う。
その程度の、あまりにも空虚で、だからこそ悪魔的な合理で動いている。
散々に過去の時代で見せつけられた悪癖そのものは今もあり続ける。
ルファスにとって、アロヴィナスは世界を弄ぶ神だ。
ラードゥンはただの魔物だった。
だがアリストテレスは、そのどちらとも違う。
もっと人の形に近く、もっと会話が成立するように見えて、違うのだ。
その癖に人を利用することに長けているのだからなお質が悪すぎる。
風が吹いた。
戦いの残滓を巻き上げるような、乾いた風。
その中でベネトナシュの姿をしたアリストテレスは、まだどこか楽しそうにルファスを見ている。
昔を懐かしむように。
もっと会話を続けたいとでも言うように。
ルファスはゆっくりと息を吐いた。
怒りはとうに通り越している。
今あるのは、ただ確かな認識の変化だ。
ルファスはそもそもベネトナシュを殺すつもりはなかった。
彼女と全力で戦い、打ちのめした後に【アムリタ】を与えて蘇生するつもりだった。
この不安定な世の中、人類の敵ではない存在そのものが抑止力の彼女を失わないために。
だが……終わらせるべきかもしれない。
ベネトナシュを復活させるということは、これを野放しにするということだ。
永遠にベネトナシュはアリストテレスの人形として生きることになる。
それは余りにもおぞましい。
そしてアリストテレスの方もまた、彼女の視線の意味くらいは感じ取っているようだった。
だからこそ笑う。
拒絶されてなお、嫌われてなお、どこか嬉しそうに。
「そんなに怖い顔をしなくてもいいじゃない」
「せっかくこうして、またお話しできるのに。お母さんの事とか気にならない?」
限界だった。
ルファスはリーヴ/スラシルを振るいベネトナシュの頭部を刎ねた。
笑顔を張り付けたままクルクルと吸血姫の頭が飛んでいく。
切断面は余りに高速で断頭されたせいで溶接され血は一滴も滴らない。
どしゃっと音を立てて再びベネトナシュは倒れた。
吸血鬼としての種族としての死が訪れたせいで身体は灰とも錆ともつかないナニカに変化しサラサラと崩れていく。
余りに呆気ないベネトナシュの死だった。
吸血姫は死んだ。
今、ルファスが、殺した。
衝動的な行動と言われても否定できなかった。
最高の余韻に泥を塗りたくられた気分だったからだ。
誇り高い吸血姫の在り方を何処までもコケにする者らへの嫌悪がルファスを満たしていた故の行動である。
だが。
一体コレはなんだ?
どうしてベネトナシュがまだ立っている?
ルファスは、確かに首を落とした。
首を刎ねたその感触が、まだ手には残っている。
リーヴ/スラシルの刃が吸血姫の首を断ち、骨も、肉も、皮膚も、寸分違わず切り裂いたあの手応え。
あまりに高速の断頭ゆえに切断面は熱で溶着し、血の一滴すら零れなかったことも見た。
首が飛び、身体が崩れ、吸血鬼としての終わりが訪れたことも確かにこの目で見届けた。
それなのに。
「……」
ルファスの視界の端。
ほんの少しだけ外れた位置に、ベネトナシュは平然と立っていた。
先ほどと同じ姿で。同じ蒼い瞳で。
同じ薄ら寒い笑みを口元に貼り付けたまま。
一瞬、世界の方がずれたのかと思う。
散々あれらがそうしたようにミズガルズがまた奇妙な挙動を起こしたのかもしれないと。
だが違う。
そうではないと、ルファスはほとんど即座に理解した。
自分がやったことだ、間違いない。
己が斬ったものへと視線を落とす。
そこに転がっていたのは首ではなかった。
灰となって崩れていく吸血姫の残骸でもない。
ただの岩だ。
何処にでもある、血も温度もない無機質な石塊。
それが斬られた衝撃で二つに割れ足元で無様に転がっているだけだった。
本来ならあり得ない。
人の首と岩とでは、手応えが違う。
肉を断つ感覚と鉱物を断ち割る感覚では、剣を握る者の掌へ返ってくる情報の密度からしてまるで違う。
ただの駆け出しの剣士でさえ間違う訳がない。
ましてやルファス程の戦士が、だ。
ベネトナシュの形をしたアリストテレスは、そんなルファスの沈黙を前にして、どこか楽しげに目を細めた。
「いきなり剣を振るなんてひどいわ」
柔らかく、しかし少しも傷ついていない声音だった。
斬られたはずの者の声ではない。
何事もなかったように、ただ会話の流れを継ぐだけの、滑らかな声。
「せっかくお話ししていたのに。いきなり何てあんまりじゃない」
唇を尖らせちょっとだけ拗ねた調子で身体をふわふわと揺らす。
首を刎ねられたという事さえその程度でしかないと言わんばかりに。
実際、彼女からすれば何処まで行ってもルファスは敵ではない。
ずっと昔に当代が面倒を見ていた可愛い少女。
ソレが大人になり立派に育って目の前にいる。
出力の方法はともかくこのアリストテレスもルファスを気に入っていた。
こっちじゃなくてあっちの保険になりたかったなと思う程度には。
しかし彼女は謙虚なのでソレは仕方ないと割り切った。
彼女が使ったスキルは一つだけ。
いや、彼女が使える数少ないスキルというべきか。
このアリストテレス卿はこれとあとは僅かなスキルしか思うようには扱えない。
【イリュージョン】
本来ならば、実体を持たぬ蜃気楼。
目を惑わし相手の判断を狂わせるための、取るに足らぬ撹乱用の小技。
少なくとも常識の上ではそういう扱いを受ける能力だった。
何せこれはあくまでも幻影なのだ。
幻に切られても痛みはなく、怪我も負うことはない。
どれだけ恐ろしい怪物を作り上げようと、燃え上る炎を再現しようとも実際は存在しないのだから。
ただちょっとだけ彼女はこれが得意だった。
恐らくミズガルズ史上最高であり、空前絶後という程にこのスキルを愛し愛されていた。
視覚だけではない。
聴覚、触覚、臭いも。
空気の密度すらも思うがままなだけだ。
見えないモノを見せてしまう。
故に彼女は幻視なのだ。
理屈にならぬ直感、戦場で生き残るために磨かれた予測。
本能の警戒、その全てまでも完璧に騙し切る。
正しくイリュージョン。最高の手品である。
ルファスは、自分が首を斬ったと思わされていた。
そう信じるのに足るだけの情報を、完全な精度で与えられていたのだ。
ベネトナシュの姿をしたアリストテレスは、そんなまんまと騙されたルファスを見て微笑んだ。
その笑みはあまりに穏やかで、あまりに善意めいていて、それゆえにこそ不快だった。
「でも、元気そうで安心したわ!」
言葉は、まるで本当に成長を喜ぶ年長者のようだ。
そこに侮蔑はなく、悪意も完全に0だ。
だからこそ、ルファスの神経を逆撫でする。
「仲間も増えたみたいで何よりだわ。
あちらの獅子王の方もそろそろ片付きそうよ。
アリエス君が上手くやってくれたみたい」
ルファスは何も答えない。
返せる言葉がないのではない。返す価値を認めていないのだ。
この存在は、あまりにも人に似ていて、あまりにも人ではない。
魔神族に近い。
会話ではなく鳴き声とはよくいったものだ。
沈黙を破るように、ベネトナシュの顔をした異物は、ふと遠くを見る。
視線の先には何もない。
だが彼女は何かを聞いたように、わずかに目を細めた。
「……あら」
その声音が、少しだけ変わった。
楽しげでいながら、今度は本当に何かの気配を感じ取った者の色が混じっている。
「そろそろこの子が起きるかもしれないから、さようなら」
言いながら、彼女は人差し指を唇の前へ立てた。
しぃ――。
子どもをあやすような、秘密を共有するような、あまりにも軽い仕草。
だがそれがこの場では恐ろしく場違いだった。
ベネトナシュの美しい顔と、アリストテレスの空虚な微笑が重なったその仕草は、何処までも悪趣味だった。
次の瞬間、彼女の膝から力が抜ける。
糸が切れたように、ベネトナシュの身体は静かに崩れ落ちた。
今度こそ、本当に眠りへ落ちたかのような倒れ方だった。
先ほどまでそこにあったはずの気色悪い作為だけがふっと消え失せ、後に残ったのは、ただ戦いを終えた吸血姫の身体だけだ。
そして、どこからともなく現れた配下たちが、その身体へ近づいてくる。
彼らはルファスに敬意を表すように頭を垂れてから吸血姫の身体を抱えて連れていく。
きっとあの配下たちの中ではベネトナシュは死んだものとして扱われているのだろう。
彼らは何も知らないのだ。
己たちが敬愛する吸血姫の中に何がいるか。
ルファスは、その光景を険しい目で見ていた。
止めるべきか。追うべきか。
今この場で全てを焼き払うべきか。
お前たちがいま連れて行っているソレの中には怪物がいると糾弾するべきか。
幾つもの選択肢が頭を過る。
だが、そのどれもが即断に値するほど明確ではない。
相手はベネトナシュの身体を持ち、他にもどんな手を隠し持っているか分かったモノじゃない。
今はとても……色々と危うい時期だ。下手な事は出来ない。
オフューカスがまだ役目を果たし続けている今、自分が愚かな事をするのは許されない。
乾いた風が、去りゆく一団の裾を揺らした。
その背を見送りながら、ルファスは無言のまま剣を握る手へ力を込める。
最高の余韻は、もう跡形もなく踏み荒らされた。
残されたのは、終わったはずの因縁がもっと醜い形でまだ続いているという現実だけだった。
ルファスの中に残るのは、強烈な不快感と、冷たい決意だけだった。
「……!」
軽いめまいを覚えたルファスは顔を顰めながらミョルニルから離れていく。
足早に、逃げるように。
アリストテレスという名前を押し流す。
この名前を「彼」が知ることは許されないからだ。
絶対に、思い出してはいけないのだ。
余。
私。
俺。
「俺」
そして「彼」に彼女は戻る。
アルフヘイムの奥。
妖精姫ポルクスは己を打ち負かした勇者であるオルムの息子たるテラと彼の最愛の存在であるルーナの二名とテーブルをはさんで向かい合っていた。
彼の目的はただ一つ。
魔神族である愛する者であるルーナをその宿命から解放する。
女神の魔法であり、敗北を約束された人類の敵にして人形という役割からの解放を彼は望んでいた。
どうすればいいかなど判らない。
だが動かなくては永遠に何も変わらない。
故にテラとルーナは魔神族に最も近しい存在であり、父オルムと長い付き合いであるポルクスの下を訪れていた。
ポルクスはしばらく黙って話を聞いていた。
細い指先が、そっとカップの縁に触れる。
視線は二人に向いているのに、心はもっと遠い場所を見ているようだった。
口を開くことを、彼女はためらっていた。
語ってしまえば、それは過去を掘り返すことになる。
思い出したくもないものを、自分の口で再びこの世界へ引きずり出すことになる。
自分の愛する英霊たちを貪り資源へと変えて赤子に変えていた化け物の事を思い出すのは苦痛でしかない。
だが対するテラは、逃げていなかった。
その目は真っ直ぐで、覚悟だけは最初から決まっている。
アルゴナウタイを踏破したのも、ただ一人の為。
その真心に彼女は答えたいと思った。
この名を出すのは苦痛ではあったが、言うしかない。
この青年は本気で、愛する者の運命を変えようとしている。
故にその思いにこたえるようにポルクスはゆっくりと言い聞かせるように語りだす。
ゆっくりと息を吐く。
そしてようやく、彼女は口を開いた。
「……可能性が、全くないとは言えないわ」
静かな声だった。
けれど、言葉の一つ一つは重かった。
テラの表情が引き締まる。
ルーナもまた、小さく身を固くする。
ポルクスはそんな二人を見たあと、少しだけ目を伏せた。
「ただし、これは希望というより……過去にそこまで到達していた者たちがいた、という話」
言いながら、彼女の顔にははっきりとした苦味が浮かんでいた。
嫌悪と軽蔑。
そして、思い出すこと自体への疲労。
それら全部が入り混じったような表情だった。
アリストテレス。
その名を口にした瞬間、森の空気が少しだけ冷えた気がした。
テラとルーナは初めて聞く名前に頭を傾げていた。
きっとオルムは息子にその名前を決して伝えない筈だと思っていた故に驚きはない。
ポルクスは続ける。
「正確には、かつてアリストテレス兵器群と言われた者たちよ」
「詳しい、なんて言葉で片づけるのも本当は腹立たしいのだけれど……。
事実として、彼らは魔神族を徹底的に調べ尽くしていたわ」
一拍置いて、彼女は言葉を選び直すように視線を横へ流した。
プルートを破壊した後、オルムはふらりとポルクスの下を訪れたことがある。
その時に聞かされたプルートの話は正しく地獄絵図であった。
ルーナの指先がきゅっと膝の上で握られた。
ポルクスはその様子を見ても言葉を弱めなかった。
「プルートでは魔神族は“資源”として扱われていたの。
ただ捕まえて殺すのではなく、加工して再利用するためのアイテムとして」
「彼らを生きたまま弄って、苦痛も尊厳も何もかも剥ぎ取ったうえで人類の益に変えていたのよ」
あえて彼女は全てを打ち明けた。
魔神族を純粋な資源に加工してそれでアイテムや兵器を作っていた等と余りにグロテスクだが、隠しても意味はない。
そのおぞましさも含めて過去を知るべきだと思ったから。
ポルクスはさらに続ける。ここで止めても意味がない。
中途半端に語る方が、かえって二人を誤らせると分かっていた。
「魔神族を奴隷として使う、なんて段階はとっくに越えていたわ。
彼らは魔神族という“魔法そのもの”に手をかけていたの」
「どうして魔神族は魔神族なのか。何がその存在を成立させているのか。
どこを削れば別のものになるのか。
どこを書き換えれば、人類にとって都合のいい形に作り直せるのかまで全部解き明かしていた」
ルーナが息を呑む。
ポルクスははっきりと言った。
テラの眉がわずかに寄る。ルーナは何も言わない。
だがその指先が、膝の上で静かに力を込めたのが見えた。
ポルクスの語り口は回りくどくなかった。
むしろ、思い出したくないからこそ、余計な飾りを削ぎ落としていた。
「もし彼女を“役割”から外す方法があるとしたら
その入り口に最も近づいていたのは間違いなくあれらよ」
テラは口を開かない。
だが、その瞳の奥で思考が激しく回っているのが分かる。
ポルクスはそこへ、さらに重い現実を置いた。
「だけどプルートはオルムの手で滅び去ってしまった」
テラが顔を上げる。
ようやく見えた希望が途絶えたと聞かされても彼の眼は輝いていた。
そこまでいた存在がいる、それは確かな希望だった。
「……プルートは、もう存在しないのよ。
かつて兵器群が根を張った冥界はオルムによって絶やされたわ」
申し訳なさそうに語りながらもそこには、かすかな安堵があった。
オルムが国を亡ぼすなど珍しくもない事ではあるが、今回に限ってはポルクスも肯定せざるを得なかった。
少なくとも、あの場所を残していてはならなかったと彼女は信じていた。
現実は甘くない。
希望を示すなら、同時に断崖も示さねばならない。
ポルクスはそれを分かっていた。
「プルートの跡地に行っても当時の施設がそのまま残っているとは思わない方がいいわ。
記録も、設備も、研究資源も……多くは失われているはずよ」
そこで彼女はもう一度、テラを見た。
「かつて、そこまで届いていた存在がいた。
その事実があるだけでも、探る価値はあるはずよ」
長い沈黙が落ちる。
風が吹き、木々が揺れる。
テーブルの上のカップが、かすかに触れ合う音を立てた。
ポルクスはそうして静かに言葉を結んだ。
その名前、聞きたくありませんね。
蒼い神様が呟いた。
アリストテレス卿たちはルファスの事を物凄く気に入っており、悪意はありません。