私は、この時ほど胸が高鳴る事は無い。
目の前のスターティングゲートがいつ開くのか、いつ開くのか。怖くて怖くてたまらない。他の娘はまだ入らないのかな? ペース配分は上手くやれるかな? 入賞出来るかな? ベストタイムが出るかな? 勝ったらお母さんやトレーナーが喜ぶかな? もう色んな事がシッチャカメッチャカに暴れまわってる。走ってしまえば後はどうとでもなるの。もうがむしゃらに必死になるしかないし。
『さぁ、最後のウマ娘がゲートに入りました』
もうすぐ始まる。前回のレースは上手くいった。今回だって上手くやれる筈なんだ。怖いのはあの娘位。何度も映像を見たけどあの差しのセンスは恐ろしい。逃げの私には心臓に悪すぎる。でも、私にだって中央の意地がある。負ける訳にはいかない。皐月賞を田舎娘なんかには渡してやるもんか。
内枠の私を見せつける。それだけなんだから。
ゲートが開き、ターフの緑と青空とがいっぺんに目前に広がった。無意識に体が前へと踊り出す。走る喜びが私を包み込んでいく。
絶好のスターティングだった。
「あっ」思わず口に出た。
視界に何かが映り込む。誰も私の前を走る事なんて無かったのに。今日の逃げ馬は私だけだった筈なのに。
あいつだ。あいつが来たんだ。
一番大外だったじゃん? あんたは差し馬だった筈でしょう。無意識に体のギアが上がる。
「奴を前に出すな」本能がそう言っている。ピッチを上げて無理矢理にでも視界から消し去る。負けてたまるもんか。何処にいる? 少し横を向く。
瞬間、あいつの横顔が目前に現れてた。離せてないの? そんな疑問よりもこいつの瞳は私を見据えてなんていなかった。ただ、前だけを見つめていた。その青い瞳が、らんらんと輝いて、今にも誰かを殺しそうに思えた。そんな気迫があった。レースで恐怖を感じたのは、これが初めてだった。
あたしは思わず雄叫びを上げてしまう。いつもは最後の気合の入れ直しで叫ぶ位なのに、今日のそれはいつもと違う。この恐怖に抗う為の、情けない悲鳴の様なものだった。
その後の事はよく覚えていない。がむしゃらに走っただけだ。走ったのかすら記憶にはないけれど。いつの間にか私の前には幾人かの背中が見えていて、私はゴールしていた。
ぼんやりと電光掲示板を見やる。1位の隣にはあいつのゼッケン番号があって、私のゼッケン1番の番号は、5番目に表示されていた。
私の3冠の夢は、私の知らぬ内に脆くも、崩れ去っていた。
「こんなのって、あんまりじゃんか」
ふと、今まで私が打ち負かして来た他の娘も、こんな気持ちになっていたのかな、なんて柄にもないことを思ってしまった。
地方のウマ娘が中央のウマ娘に勝てるわけなどない。誰かがそう言った。誰だ? お前か? それともおまえ? やっぱりあんたか?
あたし? あたしはそんな事は言わないよ。あたしはそんな馬鹿げた冗談を笑い飛ばす為に来たんだから。
スタンディングゲート入りはもうすぐだ。でも、今じゃない。少し屈伸して気持ちと体をほぐす。北郷さんには何時ものように機を見て差せと言われた。お前にはそのセンスがあると。
でも、あたしはそんな命令なんて聞かないんだ。今日は逃げだ。大逃げするんだ。
初めてのレースでトレーナーが指示したのは「とりあえず全力で走ってみろ」だった。だから、あの日のあたしはペースとか関係のない心底バカな走りをした。生まれて初めて走ることに喜びを感じた日。
それから、あたしは色々あって差し専門になった。だから、中央の奴等はあたしを差しの選手だと思ってる。違うんだよ。あたしはトレーナーにコーチしてもらったんだから。トレーナーが正しいんだって、ここで証明してみせるんだ。だから逃げる。大逃げ。後先考えない走り、やっぱり惹かれる。何度も録画した映像を見て、二人で笑った。大逃げはいつだって私達をときめかせる。
「「中央でこれやったら絶対面白い」」
あの人は見てくれない、知ってるよ。私の目が怖いんだ。ちょっとツマンナイ。中央で一緒にみんなを見返そうって言ったのに。
ゲートが開いたら、ゴールまで全力で走る。誰も見てなくても、私は彼と走れる。
陽の光の眩しさに、包まれて、私は……
悪魔に変わる。
瞳を閉じて、瞑想する。走る前のルーティン。心の奥底からあふれる感情に身を任せる。
出荷される。私はゲート入りをそう表現している。そんなことを同室の娘に言ったら「あんまり変な事言わないでよ」って微妙な顔をされた。だから、ゲート入りの時に心で思うだけにしている。ああ、これから私は出荷されるんだって。狭いゲートになんで入らなければならないのか。決まりだからって変なルールを許容するのは好きではない。走るってことはもっと自由であるべきじゃないのだろうかって、皆そう思わないのだろうか。ウイニングライブも少し、意地悪ではないのだろうか。ちょっとストレスで頭を振る。結んだ髪が存在感を現してきた。
彼女は応援に来てくれているのだろうか。
今朝起きて、いつものようにベットから起きようとしたらサイドテーブルにメモと赤いヘアゴムが置いてあった。
今日の試合頑張ってね!!
それだけ書かれていた。昨日眠る時にはなかったから同室の娘が置いてくれたのだろう。横目で見れば、彼女はまだ、毛布にくるまって眠っていた。こういう事を常日頃、無意識にやることが出来れば私も愛されるウマ娘になれるのだろうか。メモを裏返して返事を書いた。
頑張ります。
肩を叩かれた。「もう偶数のゲート入りですよ」係の女性に促される。私はゲート入りしてるものだと勘違いして瞑想していたらしい。もしくは無意識に出荷を拒んでいるのか。両脇を眺めると誰もいない。ちょっと遠くに地方から来たという大外の娘がいるだけだった。私はやはり問題児だなと感じた。私は係の人に会釈をして歩みを進める。
この閉塞感が嫌いだ。
ゲートが開いた。いつものようにのんびりと走る。風が心地よい。ぼんやりと前を見れば黒髪の娘と茶髪の娘が先を争い、突き進んでいく。あれについて行ったらだいぶハイペースなレースになってしまうんじゃないだろうか。私は後方から数えたほうが良いくらいの位置で集団に飲まれる。他の娘はちょっとあっけにとられてるけど、自分のペースを保とうと必死だ。ペースを上げる娘もいるけど。ちょっと笑ってる子もいる。『あのペースなら坂で失速する筈』とでも思っているのだろう。坂は誰にでも等しく壁となるのに。
第1コーナーをカケ上がり、第2コーナーの坂を下る。向こう正面の直線は気楽に走る。無理にスピードを緩めたりすると膝に来るから。先頭の方ではまだ、あの娘たちが競い合っているようだ。今日の芝はあんまり良くないかも。ぼんやりしていると第3コーナーだ。
来た。周りの娘の気配が変わる。カチッと、まるでスイッチが入ったかのように。メラメラと燃え上がる闘志が、オーラみたいに見える気がした。こういう所にいると身体が燃えてしまう気がして嫌だ。もっと広いところでのびのびと走りたい。大外へと足を進める。周りの娘がどんどんカケていくのを見ながら内から離れる。
ふと、今朝の事が思い出される。赤いヘアゴムにまとめられた髪が、バサバサ揺れるのを感じる。頑張るって何だろうか。これでいいのか。勝ちに価値を見出さなければならないんじゃないのか。
その瞬間、世界が変わり、スタンドの喧騒が消えた。ああ、またあなたか。よく夢に出てくる生き物。世界の色が全部脱色されたような世界に、私とあなたがいる。四つ足で、クリクリとした目の生き物。その目が私を優しく見つめている。その頭を優しく撫でる。この世界にいると何故か安心する。ターフにいるとあなたに会えるから。優しさの中に、闘志が見える。それでいいのかって言われた気がした。
「分かった、走るよ」
喧騒が巻き戻り、ターフに足が付く。瞬間、ビリビリとした稲妻みたいなものが足の先から、尻尾へ、果ては耳の先にカケ巡る。吐く息が荒くなり、抑えきれない何かが沸き上がる。世界が眩しくなり、青空がどこか霞む。世界がパラパラ漫画のように、遅く感じる。その中で、私だけが平常に動ける。目の前には坂路がある。そんなものは関係ない。それは勝つことへの障害には成りえない。勝つのだ。勝たなければならないのだ。走るというよりは弾んで、まるでジャンプするかのように突き進む。もうゴールするなんてもったいないくらいに、今の私はすこぶる調子が良かった。
結果は2着。中山の直線が少し、物足りなかった。もう少し長ければ1着だったのに。走るのは好きだけれど、ウイニングライブは苦手。
「やっぱり出荷じゃないの」心の隅の私がそう言った。
「 さん、今日の走りは凄かったですね」
青い瞳が
「これもみんな、トレーナーさんのご指導のおかげです」
今にも誰かを殺しそうに、泣き出しそうに
「恩返しの為にも必ず3冠を掴み取ってみせます」
らんらんと
「だから、見ててね? トレーナー」
輝いていた。
※自分なりの重バ場を描き上げようとしていたら怪文章が出来上がってしまいました。ここからトレーナとの思い出が書かれたり、ほかの愛が重い娘が出る筈でしたが、トレーナがあまりにも不憫な目に会ってしまうので短編になりました。供養のためにネットに投げつけてしまいました。お許しください。(何故か続きを書き始めました)
出荷という表現が良くない気がします。