「惜しかったね、もう少しで一着だったじゃん!!」
控室で私を待ち構えていた彼女はキラキラした目で私を見つめている。耳はちょこちょこ動き、尻尾は右往左往している。全身で喜を現すのが、この娘はどうしてこんなにうまいのだろう。あざとさと可愛さが良い具合に両立している気がした。本人にそのような気があるのかは分からないけれど。
「少し、足りなかった」もう少し距離があれば、多分一着だった。そう思う。
彼女は私の言葉を聞いて苦虫を嚙み潰したような顔になった。可愛い。
「もしかして、距離の事言ってる? てか、絶対に距離の事言ってるよね」耳と尻尾が垂れ下がり、彼女の気持ちを如実に表している。彼女は長い距離が得意ではないから、中長距離の話にはやけに敏感なのだ。
カサノマイ。1200~1600の範囲内で彼女に勝つのは至難の業と同期に噂されている。彼女はその雰囲気とは裏腹に、恐れを生み出す存在だ。
「でも、ヨイチちゃん? だっけか? 凄いよね、地方から来たんでしょ? 今はあたし達と同じで中央組かもしれないけど、やっぱり皐月賞を勝つなんて凄いよね」
彼女はしきりに頷いてうんうん言っている。
「でも、もしも短距離路線に来るつもりだったら」彼女の動きがピタリと止まる。
「一着は絶対譲ってあげないもんね」レースで見るあのぎらついた眼で、そう宣言した。
やはり、マイは可愛い。
トレーナーが居ない。居ない、居ない、居ない。必死に観客席を探した。血眼になって必死に探した。インタビューなんてどうでも良かった。
皐月賞で一冠を授かっても、許されたり、私の傍に彼が戻って来てくれるなんて奇跡が起きないことは分かってる。探しても居ない事なんて分かっているつもり。所詮はつもりでしかない。
だから、探してしまうの。
レースが終わった後、私は控室で北郷トレーナーと二人きりだった。北郷トレーナーが悲しそうな、やるせない顔で私を見つめている。私の体からポタリと、汗が滑り落ちて床に染みを作る。しばらく、部屋に沈黙が訪れた。先に、ため息で沈黙を破ったのはトレーナーだった。
「これ、タオルよ。次はダービーがあるんだからこんな事で体を壊してたらバカみたいだわ」
私はその言葉を聞いても、俯いて、ただただ突っ立ていた。むしろその言葉が私を縛りつけていく。もっと怒られると思っていた。だって、打ち合わせの時の北郷さんは凄く嬉しそうにレース展開を話してくれて、レースが始まる前の北郷さんは私を笑顔で見送ってくれたから。
『あなたなら、必ず最初にゴール出来る。楽しんできなさい』
ぼんやりしていると突然、頭をガシガシとタオルで拭かれた。私はそのまま、北郷さんに身を任せる。最初は少し強めだったけど、そのうち私を労わる様な優しい手つきに変わっていく。優しさが怖かった。そんな価値が私にあるのかな。そのうち私は泣き始め、嗚咽が止まらなくなった。
抱きしめられる。
「理由なんて聞かないよ。皆、色々なことがあって走っている。走り続けている。あんた達と接してる時、思い通りに行くことなんて数える位しかないよ」さらに強く、ギュッと抱かれた。
「あたし達はあんた達に道を見せるかもしれない。でも、お前は好きな道を選んで走るんだ。それで良いんだ。お前の我と私の我をぶつけ合って良いものが出来上がれば良いんだ」
「走りな、ミズノヨイチ。あんたの道をあたしに見せておくれよ」
涙で滲んでぼやけた北郷さんは、私を見て笑っているように見えた。
「このあたし、オサナイボーイがダービーを制すんだ」
闘志だけではどうにもならない。才能も、運も、奇跡も必要だ。
だが、勝つ。あたしは勝って見せる!!
「そもそもお前、未勝利だから出れないぞ」一緒にテレビの前で皐月賞を見ていたトレーナーが興ざめするようなことを言っている。
「うるせぇ、そんなのは走ってるあたしが一番分かってるよ」ソファーで膝を抱えながら言い返してやった。全然言い返せてないけど。
「そういや、何で行かないとか言ったんだ? 間近で生の雰囲気味わったほうが絶対いい経験になるぞ。ただでさえお前は変に雰囲気に呑まれることあるんだから」
「こんなとこで膝抱えてるよりよっぽどマシだと思うけどな」
隣でコーヒーを飲みながらトレーナーがボソッと言った。
「分かってるよ。何か怖いんだから仕方ないだろ。後、苦いからもっと牛乳入れて」
トレーナーがなんか悪態をついてたが気にしない。キッチンの方に行ったのを確認した後、私はそこら辺にあったクッションを捕まえて、そいつに深いため息をついた。
何か上手くいかない。それが何なのか分からないから全く上手くいかない。皐月には出れないし、ダービーなんて夢のまた夢。このまま行くとただの一度も勝てないまま終わりそうな気がした。今のところ、ここを直せとか、そういう指示がトレーナーからあったことがない。基本的なトレーニングをただただ続けていた。改善策がないってことはつまり、今が完全なベストの状態だとする。
「もうダメって事じゃんかよ」
声に出して聞くとなおさら嫌になった。テレビでは、レースのリプレイが流れている。テレビを消した。なんて器量の狭い奴なんだろう、他の奴が努力して勝ったんだから受け止めてやれたらいいのに。もう、調子が狂いっぱなしであたしらしくない。今日勝った奴、祝福してやるよ。でも最後に勝つのはあたしなんだ。
「次の未勝利戦は絶対勝つからな」
「勝ったら奢ってやるよ」コーヒーを啜る音がした。
盗み聞き、良くない。
何故か続きました。