あゝ弟よ、君を泣く
それは高校を卒業してすぐの、ある雨の日だった。
「
「──は、」
「調べた結果、兄である貴方が直近の親族だと。親族代表で出ていただけますね?」
式場への地図はこちらです。と、有無を言わさず紙を押し付けてきた知らない男から突然告げられた、聞き覚えのある名前。
「いえ、自分に弟どころか兄弟などいませんが」と、返そうとした脳裏を焦がすなにか。
咄嗟に、言葉を紡ぎかけた口を噤む。
おとうと。弟。
苗字は自分と違う、『
その違和感に気が着いた瞬間、考えがまとまるより早く、身体は土砂降りの雨の中を走っていた。
ありさと、みなと。
わからない。弟だと言われたが自分は一人っ子のはずだ。
それでも、言い様のない違和感が身体をつき動かした。
死んだ弟だと言われた人物の名前を反芻しながら走る。走る。
躓いて転んだ。
すぐに起き上がる。
走る。
息を切らせて式場へとたどり着く。
まだ葬式は始まっておらず、人は疎らだ。
受付や通路に数日前まで通っていた高校で見た事のある人間がちらほらいたが気に止められるはずなど無かった。
「あ……あぁ………あああ……」
引き止める人間を振り払い、びしょびしょのまま、亡霊のように棺へ飛びついた。
そして中で眠るよく似た顔を見て、全て思い出した。
「み、なと…」
──弟だ。
そう認識した瞬間、床にくずおれる。涙なのか滴る水滴なのか分からないものが床を濡らした。
どうして今まで忘れていたのだろう。
自分と彼は年子の兄弟だった。
幼少の、幼い弟の寝顔や笑顔がフラッシュバックする。
──どうして。
どうして、『自分の記憶は穴が空いて』いる?
どうして、兄弟が別々に暮らしていた?
どうして、自分だけが三上家に養子に迎えられた?
どうして、弟がこんなに若くで死んだ?
わからない。答えなど持っているはずもない。
ふらふらと立ち上がり式場を出る。
今度は、誰かに気遣うような声をかけられた気がするが頭に何も入ってこない。
何も分からない。
雨の中、傘もささずによろめきながら歩く。あのままあそこに居たら弟の死を受け入れなければならない気がしたからだ。
とはいえ自分は弟を弟だと今まで認識せずにのうのうと暮らし、死んでから思い出した薄情者であり、最低限の親族としての役目さえ放り投げて逃げ出した人間のクズだが。
そう自嘲しながらも、記憶と同じくぽっかりと穴の空いた心は涙を勝手に目から溢れさせる。
「──君の弟が死んだ理由を、君の記憶が無い理由を知りたいかい」
ここに来て初めて頭が認識できる言葉をかけられ、顔を上げた。
大雨になりすぐ先も見えなくなった道路の真ん中にいる自分の目の前に男が1人立っていた。
傘で顔は見えないが季節外れな血のように赤いマフラーが揺れて見えた。
ぼんやりと、大雨にマフラーとは酷く不釣り合いだなと感じた。
「……知りたい」
「その上で君の弟をもし救えるとしたら?」
男は甘言を吐く。
まるで悪魔の誘いのようだ。
救えるはずなどない。弟は既に死んでいる。
結果を覆すことも、時を巻き戻すことも出来やしない。
それこそ、『神や悪魔でないかぎり』出来やしないのだ。
「できるとも。君に、その覚悟があれば」
男はまるでこちらの思考を読み取るかのように告げた。
「ほん、とう…に…? 俺に…救えるのか……?」
縋るように、吐き出した声は震えていた。
本当に、そんな事ができるのだろうか。
「言っただろう、君にその覚悟があるなら、と。道のりは長く険しく単純じゃない。複雑怪奇だ。私にだってどうなるか分からない。
けれど、けれども、君には選ぶ権利がある。願う資格がある。もしこの手を取れば君は孤独で長く苦しい戦いに身を投じることになる。何度も失敗するだろう。死ぬ以上の苦しみを味わうかもしれない。それでも尚、君は弟を、家族を救いたいかい?」
無茶苦茶なことを言う割に、声は酷く優しい。
言外に、「もし嫌ならこの選択はしなくてもいい」という感情を感じ取れる。
「……おれ、は……」
「もちろん、このまま彼の死を受け入れて1人のなんでもないただの人間として過ごすことも出来る。何も知らずに、ただ穏やかに、これまで通り」
本来なら、ここで「やっぱりいいです」と立ち去るべきなのだろう。
与太話だと、鼻で笑って一蹴すべきなのだ。
しかし、首を横に振ることはついぞ出来なかった。
知りたい。救いたい。
そのふたつの感情が心を、身体を突き動かす。
「俺は、何があったのか知りたいし弟を救いたい。だから、あなたの言葉に乗る」
そう告げた瞬間、男が少し悲しげな顔をしたような気がした。しかしすぐに傘から見える口は柔らかく弧を描いた。
「──わかった。
私は君に、きょうだいを救うまで永遠に繰り返す呪いをかける。生半可な死程度では決して途中でやめることも出来ない
男が手を伸ばす。
とん、と軽い力で身体を後ろへと押された。
とても軽い力だったのに、身体は地面へと後ろ向きに吸い込まれていく。
後頭部が地面へとぶつかる瞬間、ぶつりと意識が途切れた。
「君の旅路の終わりが、せめて報われるものであらんことを」