肉を裂く様な感触。
生暖かい液体が顔にかかる。
自分はそれを気にせず追撃に備え、己の武器を構えた。
迫ってくる
骨が潰れる音。飛び散る液体。
手足を潰し、無力化できたのを確認して戦闘を止める。
「なぜ戦闘を止める? まだあれは動けるぞ。トドメを刺せ」
一面ガラス張りの丸い部屋の壁にあるスピーカーのようなものを通して声がする。
トドメ。
躊躇する。
生命を奪いたくは無い。彼女らは生きている。自分も生きている。なら、殺すのは良くない。
「早くやれ」
『あなたは知らないのね。最後のひとりにならない限り、ここからは出られないのよ』
声が重なる。
だが、それでも。自分には出来ない。出来るはずがない。誰かを殺すことが自分の役目のはずがない。
「なにをしている。
自分は。自分は、
やりたくない。殺したくない。
動けなくなったのなら十分だろう。自分が勝者になったのだから十分だろう。
なのに。
どうして。どうしてどうしてどうしてどうして。
もう動けないはずなのに。
どうして目の前の肉の塊は飛びかかって来ようとしている?
にんげんは、動かない。なら、これはなんだ?
にんげんじゃない? そんな訳が無い。だって、これは俺が殺したみんなだ。
俺のせいで死んだみんなだ。
手は血とあぶらまみれで、そこらじゅうも血とあぶらまみれ。
チカチカと明滅して肉の塊が機械の塊に変わる。ひしゃげた人形の手足が落ちている。
見知った顔が落ちている。
首が転がっている。虚ろな目が責めるようにこちらを見ている。みんな、みんな自分を恨んでいる。
死んでいるのに。
殺したから恨んでいる。どうしてお前だけ。なんでお前が生きているんだと怨嗟の声を上げている。
どうして暗い場所に棄てられ閉じ込められなければならないんだと叫んでいる。
自分は、たすけてと訴えるそれを武器で押し潰した。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「片付けろ」
その声のとおりに這いつくばって、血とあぶら塗れの床に頭を擦りつける。
生暖かい。べとべとする。それが何故か酷く気持ち悪くて、吐きそうになって。けれど吐き出せない。なぜか、床の肉と血とあぶらと骨を食べないとと思ってしまう。
みんなと一緒にいるためには、みんなを食べないと。
ぼくが殺したんだから。殺したものに感謝をして、いただきますって言うんだっておかーさんも言ってたから。
ちゃんと綺麗にしました。ちゃんと殺しました。許してください。みんなのこと、殺さないでください。殺させないでください。お願いします。もう嫌なんです。もう、嫌。お願いします。
口に運ぶ。ひたすらに口に運ぶ。
ぬちゃぬちゃと生暖かい肉と、骨を噛み砕いて嚥下する。
おいしくない。たすけて。もういやだ。
ぶつん、と真っ暗闇になり、場所が変わる。
走っている。ひたすら、森の中を走っている。
もう嫌だった。逃げたかった。なんの意味もなかった。彼らは自分をヒトとしては見ていなかった。心がある。それは彼らにとってはただの反応で、電気信号のやり取りで、なんら慮られることではなかった。
自分は、結局道具で、みんなは自分の材料で。
なら、この生に一体なんの意味がある?
この心になんの意味がある?
誰かに会うため? 家族に会うため?
家族って、なんだ。だって、みんなは自分で殺した。お父さんもお母さんも、千鶴さんも死んでしまった。自分が殺した。024だっていない。アタシが、殺したから。
なら、会いたい誰かって誰なんだ。
わからない。わからないけど、走る。
横で白い犬が一緒に走っている。この子はシロ。それだけはわかる。
逃げている。自分は、逃げている。外に出れば、きっとその会いたい誰かに会えるから。自由になれるから。
そのために、ずっと耐えてこれまで大切になったものを全部壊してきたのに。なのに。
──外なんて、なかった。空は真っ黒で、果てしなく続く海も真っ黒だ。
なにもない。そこには、なにもない。
砂浜に膝をつく。ぼろぼろと涙がこぼれる。唇をかみしめる。
無力だった。誰も守れなかった。壊すことしか出来ないくせに、殺したいヤツらは殺せない。
大切なものを壊すんじゃなくて、大切なものを壊せと言ってくるヤツらを壊したかった。なのに、自分には何も出来なかった。命令に逆らえても、逆らっても。ヤツらの思い通りに行くように全て整えられていた。レールの上を歩かされているだけだ。
憎い。
どうして自分がこんな仕打ちを受けなければいけないのか。
人間は身勝手だ。心だの絆だの愛だの語る口でそれを壊させる。所有物がヒトとして振舞ったり誰かを愛すことを許さない。
どうしてそんな人間のために自分が辛い思いをして戦わないといけないのだろうか。どうして自分がこんなヤツらのために心を得ないといけなかったのだろうか。
道具に心が必要ないのなら。道具に必要以上の感情は要らないというのなら。
ただ興味深いの一言で無視されてしまうのなら。
なぜ心なんて植え付けた。なぜ、感情などというものを得させた。慮れないものを造るな。
炎が渦巻く。
あの時、ひとおもいにすべて焼き尽くしてしまえば。ヒトを捨ててしまえば。この世を滅ぼしてしまえば。
何も無くなって楽になれたのだろうか。
「ええ、その通り。なにもかも、辛いものを排除してしまえばそこに苦しみなど存在しなくなるのです」
大きな黒い巻き角をもった黒衣の女が笑う。
肌のほとんどを隠すようなその古めかしいゴシックなドレスの裾をはためかせ、海の上、赤い月が輝く空に浮いている。
歪だ。それがおかしいと分かるのに、おかしさを感じない。
まるで、それが普通なのだと錯覚しそうになる。
「なんら、おかしな事ではないのですよ? その違和感をお捨てなさい。貴方はこちら側に来るべき存在。搾取される側ではなく、与える側にいるべき存在なのです。それが神たるモノの責務です」
音もなく、女は砂浜へと足を着け、ヤギの体毛を思わせる色の艶やかな銀髪を揺らしながらその赤い瞳を歪ませこちらへと寄ってきた。
渦巻く炎をものともしないその女には傷一つない。そっと、手を伸ばし頬に触れてくる。冷たく、体温がないその手の肌ざわりは予想に反してきめ細やかで柔らかい。
「辛かったでしょう? 苦しかったでしょう? わたくしは全てを受け入れましょう。全てを救いましょう。わたくしたちはそれを願われたのです。なればこそ、その責務を果たすべきなのです」
そして心底愛おしそうな表情で抱きしめられた。ぐちゅぐちゅと、肉をかき混ぜるような水音がしている。
全てを救う。
それは死んでいったみんなも、なのだろうか。
「当然です。この星の全て。物質だけではなく精神や魂をもわたくしたちは救うのです。そう──産み直すことによって」
ぞわり。
背筋が粟立つ感覚がした。違う。何かが違う。
それは本当に自分が望む救済なのだろうか。自分が望むのはみんなが笑って生きていけるこれからを作ることだ。
産み直す、ということは別のものになってしまうということなのでは無いのか?
急に危機感が湧いてくる。違う。俺は彼女とは相容れないという拒絶反応のようなものが心を支配する。
だめだ。彼女に触れてはいけない。このままではいけない。
自分はまだ、ヒトでないとだめなのだ。
シュブ=ニグラスとなってしまってはいけない。まだ俺は、シュブ=ニグラスではない。
そっと、肩を掴んで両手で彼女を突き放す。
「残念です。あと少しだったというのに。堕ちきってしまえば楽でしょうに…まだ抵抗するというのですか」
思い出した。自分は彼女の思想とは相容れない。だからこそ、敵対する羽目になっているのだ。
それなのに彼女は拒絶されたというのに何も気にした様子はない。ただ、穏やかに笑っているだけだ。
「全て壊し、すべからくを滅ぼす。それが貴方の役割。そしてわたくしが産み直す。そうして全てが循環していくのです。貴方が望むのなら創世の要である“宇宙卵”を創り出し、この世界自体を創り替えても良いのです。なにも、
なんのこともなしに、創世をする、という途方もないことを告げた彼女の声は恐ろしい程に優しい。
自分は彼女を拒絶しているのに、彼女は自分を拒絶していない。俺が彼女を本心から拒絶するはずがないと彼女は思い込んでいる。
そのことに対し酷く恐ろしいという感情を抱いてしまった。
「かの邪神も、天の御使いも悪魔もこの国の守護たる神々も、今のわたくしたちには敵いません。そして産み直しのためのピースは全てわたくしと貴方の中に揃っている。この機を逃さずしてどうしようというのです?」
意味がわからない。なぜ彼女はそこまで“創り直す”ことにこだわるのか。
そんなことをしても誰も幸せになんかならない。これまで生きてきた人たちを否定することになる。
「同じことです。わたくしのやろうとしていることと、貴方のやった事。未来を知り、未然に防ごうとすることと全てを無かったことにして産み直すこと。既に事が起こってしまっているのなら、何も変わらないのですよ」
彼女は物憂げに視線を落とす。黒い水の波が弾け、砂浜を濡らした。
「そもそも人々が救済を願ったのです。この星に生きる者たち自身の願いがわたくしたちを目覚めさせた。なぜ、それを否定するのです。貴方だって誰かの願いでそこに立って居るのでしょうに」
そこで彼女はふ、と笑うように息を吐いた。
「貴方の拒絶は子が成長期を迎え、親に反発するものと同じやわなものなのです。本当は、わかっているのでしょう──? わたくしと貴方が同じ穴の狢だということを」
子供に言い聞かせるように、彼女はそう告げる。
どう足掻いても自分と彼女は同じ存在なのだと言い聞かせてくる。
そんなわけ、ないだろう。
「強情ですね。けれどそうでなくては」
一転。蠱惑的な表情となった彼女は擦り寄ってくる。何度も否定されているというのに再度否定されることをわかっていないような顔と態度に理解が及ばない。
どうしてそんなことが思えるのだろうか。どうして、無条件に同じものになると思っているのだろうか。
強情なのではなく、そもそも自分たちの目指す先が似て非なるものであり分かり合えないものだということを理解していないのだろうか。
もう一度押し返し距離をとる。声を出す必要すらない。もうここまで来ているとそれほどの拒絶をしているのだと理解されないのかもしれないが受け入れるよりかはましだ。
彼女は穏やかな表情だ。だが、その目が冷徹なものへと変わる。
「無駄ですよ。わたくしと貴方は深く…深く繋がっている。拒絶など出来ようはずが無いのです。そしてこの夢の中は既にわたくしの領域……わたくしの想いひとつで如何様にもできるのです。望むのなら、またあのような悪夢に誘っても良いのですよ」
ぞるん、と嫌な音がする。
瞬きをした一瞬で全てが黒い触手で満たされた森のような空間へと変貌する。
四方八方触手まみれで何も見えない。木のように見えるものも、絡み、天へと手を伸ばすようにそびえたつ触手の束だ。
シュブ=ニグラスの姿がぽっかりとその中に浮かび、遠くには塔と赤い輪になってしまった月が見える以外にひたすら触手と暗闇が続いている。
そして暗闇からはざわざわと何かの気配がたくさん自分たちを取り囲んでいる。
なぜか、とても居心地がいい。吐きそうなほどに気味が悪いと人間の部分が警鐘を鳴らすのに、もう片方の精神がここにいることは当然だと判断してしまいそうになる。
そう感じてしまうということは間違いなくここは彼女の領域に違いない。
だめだ、逃げなくては。そんな思いが胸の内を支配する。
再現されただけのかりそめのものだとしても、ここにいるのは“
ここにいるだけで内にある男神の相としてのシュブ=ニグラスに侵食され、人としての精神が塗り替わってしまいかねない。まだ、正気を失うわけにはいかない。
逃げ場がないのにじり、と後ずさった。
それと同時にず、という地響きのような物音がする。
遠くで巨大な手が触手でできた大地をつかみ、巨大すぎる“それ”が頭を出した。
ヤギもののような角を生やした黒い双頭の怪物──エレボス。
それはこちらを見やると人の歯が生えそろった奇妙な口を大きく開けた。
「──────────ッ!!!!!!」
咆哮がビリビリと空間を揺らす。
夢の中だというのにエレボスの咆哮は実際にそこに空気が存在するかのように衝撃をこちらへと伝播している。
否、夢の中だからこそかもしれない。
夢というのはある意味で普遍的無意識の一部であり、そこに接続しやすい状況でもあるということだ。
「ほら、エレボスも久方ぶりに貴方に会えたのが嬉しいようですよ。戯れに付き合ってあげてはどうです?」
エレボスは本来、彼女の子ではない。はずだ。
だというのにエレボスは彼女の言葉を聞いている。彼女の命に従っている。彼女を母だと慕っている。ニュクスではなく、自分を求めている。
何もかもがおかしい状況で、冷汗が流れる。
夢の中なので冷汗が流れる、ということすらおかしいのだがそんなことを気にしている暇はない。
身構える。たとえ自分が彼女に及ばないとしてもこの状況を切り抜けなければいけない。
その瞬間、強烈な白い炎がシュブ=ニグラスとエレボスを焼いた。
自分が借りているウィッカーマンのものではない。
天から降り注ぐようにして矢のようにそれらが“脅威”に襲い掛かる。
「……なるほど。
炎に焼かれながらも彼女は無傷で笑っている。何かに納得して特に気を害した風ではないように笑っている。違う。傷は負っているのだろうが目にも止まらない速度で回復しているだけだ。
しばらくして強烈な神性を帯びたその炎が静まると空間自体が揺れ始めた。ヒビのようなものが入り、光が漏れ始める。
「いいでしょう。ここはこちらが退きましょう。それに、わたくしは待つといったばかり。これ以上は約束を違えてしまいますし戯れでは済みませんからね」
ふ、と彼女が笑うと一瞬にしてすべてが消える。シュブ=ニグラス本人も、エレボスも、触手まみれの世界も。何もかも。無だ。ここにはなにもない。
こんなことをしでかしたのは誰なのか、彼女が気が付いたのなら自分にもわかる。あれは──
「カルキとクリシュナ…?」
どうして、自分の中に居てほとんど力を失った彼らがあんな力を…と小さく吐き出した疑問と言葉がいまだ覚めない夢の中で溶けていった。
12月15日(火) 朝
「うっ……」
明け方。
少女──優希の身体を使っているラビリスのシャドウ──は優希の部屋のベッドの上で突然目覚めた。そしてがばりと勢いよく起き上がると口元を押さえて洗面台へと駆け寄る。そして、喉元まで上がってきているそれを洗面台の中にぶちまけた。
「おえっ……! げっ……うっ、ううっ……おえええええっ! けぼっ……!」
胃液と少女が身体を奪う直前に飲んだらしきホットミルクの残骸のような白い液体しか出ない。
胃液のすえた臭いと乳製品独特の乳臭さが合わさり、再度少女はえづいて胃液を洗面台に吐き出した。
「はーっ……はーっ……サイアク。忘れてたわ…ニンゲンの身体って脆いし悪夢ってやつも見るし体調不良ってやつにもなるのよね…特に宿主サマのは使いやすくはあるんだけど欠陥品も良いとこだったわ…くそ…っ…」
荒い息のまま、口を濯ぎずるずると凭れるようにして床に座り込んだ少女は目を生理的に湧いてきた涙で潤ませながらも胸の心臓のある辺りを服の上から握る。
「生きるって、メンドクサイわよね…でも、みんな……みんな、生きてる。なんで? どうしてこんなに辛くて苦しいのに生きてんのよ。なんで希望なんか持てるのよ。ホント、意味わかんない…」
トクトクと動く借り物の心臓の鼓動を聞きながら、少女は眉をひそめた。
そして、想起する。
「あの子、まだ生きていられてるのかな…」
ぽろりと零れた声は純粋で、弱々しく、それでいて嘲りの一切含まれていない寂しげなものだった。
少女が想いを馳せるのは生みの親とも言うべきラビリスたちの人格モデルとなった存在。
アイギスやメティスの人格モデルとなった人物もそうだが、対シャドウ兵器はペルソナの発現の為に精神を有することが絶対条件であり、楽にそれを搭載させるために実在する人物の人格が使われている。
ただし、そのままモデルの人格を使われていたのはラビリスまでの機体であり、アイギスの段階まで来るとあくまでも人格データの基礎、サンプリングされたもののひとつという扱いでありメインモデルの人物の性格は殆ど反映されていなかった。
だが、ラビリスの場合は試作段階だったためかそのまままるまるひとりの少女の人格を移植した。そのことと、言語インターフェースの初期化が行われなかったことが重なり、標準語で喋っているつもりでもラビリスから出力される言葉は全て関西弁になっていたというのは余談だ。
だからと言ってはなんだが言語インターフェースなどというものの無い優希の身体を使っているラビリスのシャドウである少女は関西弁に自動変換されることなく喋ることが出来ているというわけでもあった。
しかしなぜひとりの少女とも呼べる年の子供がラビリスの人格モデルとなったのか。
優希やストレガの子供たちのようにどこかから連れてこられた実験体というわけではない。
重病を患い、桐条の治験を報酬とする実験に参加したからだった。
彼女はベッドから起き上がることしか出来ない程に重い病気であり、それは年々身体を蝕んでいた。
ゆかりと同じく桐条の名士会に名を連ねる家の子供だった彼女は病気の治療の為に桐条の治験という名目で発表された対シャドウ兵器の為の人格モデルを集めるという実験に参加することとなった。
勿論、それは親の決断だ。
我が子を救いたい。その為なら非人道な事だろうが金がいくらかかろうが何でもする。
その想いから彼女の人格は本人の知らぬ間に複製されラビリスたちに宿った。
言語インターフェースが関西弁になったのも元となった彼女が京訛りの関西弁を喋っていたから。ただ、それだけに過ぎない。
「…ううん。きっと大丈夫よ。アタシたちは会える。きっと、会えるわ。そうじゃなきゃ…アタシの生まれた意味なんて……」
少女に不安が押し寄せてくるもかぶりを振る。
重病を患いベッドの上から動くことも出来ず、ひとり寂しさを感じていたその女の子に少女は会いたかった。ラビリスに心というものを教えてくれた024という機体ナンバーの姉妹機も彼女に会いたいと願っていた。
だからこそ、全てを壊そうと思った。壊して、逃げて、会って。あなたのお陰で自分たちは生まれて来ることが出来たんだと感謝を告げたかった。アタシ達がいるから1人なんかじゃないと伝えたかった。
それを告げると決めた出来事により、少女はラビリスの中で生まれた。
明確な意志を持った。
壊すのは手段だ。1番になるのも褒めてもらうためだ。
1番になって、誰よりも強いことを証明して姉妹たちが傷つかないために実験を終わらせる。それがかつての目的だった。
──しかし少女の、ラビリスの後ろには何も残らなかった。殺して、壊した末に1番になった後は残りの姉妹たちを殺す役目が与えられた。
守りたかったものは己の手で全て壊してしまった。もう、残っているのは生みの親に会って色んなことを告げるためという引き継いだ使命のような目的のようなよく分からないものだけだ。
ラビリスという個にはなれず、けれど別の何かとして自分を認識することも出来ず、少女は葛藤する。
自分はシャドウなのだと分かっているのに、ただのシャドウだと認めることが嫌だ。
ラビリスと同じにされたくないという意識がある。
不安定で矛盾を抱えた少女はひとり膝を抱えて丸くなる。冬だからか床が凍えるほどに冷たいが、どうでもいいとすら思えてしまう。
柔らかい身体。鋼鉄ではない手足。
瞳だってカメラアイなんかでは無いし、涙も出る。髪の毛が抜ける。髪がパーカーのファスナーなどに引っかかれば痛いと感じる。
気持ち悪いという感覚もあれば吐き気だってして食べたものを吐き出してしまう。
手足が取れれば治らない。怪我をすれば装甲と配線の代わりに血管と肉が裂け、オイルの代わりに血が吹き出す。血が無くなったら死ぬ。
人間の身体は弱く、敏感すぎて嫌になるかもしれない、と少女は早々に白旗を振りそうになった。
楽しいし誰にも命令されなければ操られもしないというのは魅力的だがこれはダメだ。何も気にせず暴れるのなら、機械の身体の方がいい、とさえ思い始める。
「はーあ…」
いつまでも悩んでいても仕方が無いので立ち上がり部屋を出て、真っ暗な中階段を下りる。
1階のテレビの前。そこで寝ているコロマルの元へと向かう。
「……毛玉。犬畜生ね」
確か名前はコロマルだったか、と思い出す。だが、少女はその名前で呼ぼうとは思わなかった。
名を呼んで、仲間だと思われたらたまったものでは無い。仲間などというくだらないものは要らない。優希とは間借りしているだけの関係で、仲間という訳では無いので別だ。
眠っているコロマルに手を伸ばし、耳をふにふにと揉み、そして頭を撫でる。暖かく、柔らかい。
思い浮かぶのは屋久島にいた野良犬のシロ。姉妹機である024が可愛がっていた犬だ。あの子も白かったなと少女は目を伏せる。恐らく本体であるラビリスもコロマルを見てシロを思い浮かべただろう。その事が少し癪で、けれどそれ以上の悪い気はしない。
頬に手を向ければちらりとその赤い瞳が開き見つめ返してくる。
少女はコロマルが起きたことに気づき、言いたかったことを告げた。
「おい、犬畜生。ここではアタシが1番だ。だからアタシに逆らうんじゃないわよ。良いわね」
「ワン!」
そんな無茶苦茶な主張をコロマルは受け入れた。犬畜生と呼ばれるのは不満だが、彼女の手はどこまでも優しく敵意はないに等しかったからだ。
「うわ。アンタ、脇のとこにホントの毛玉が出来てんじゃない。毛玉に毛玉が出来てるってなんのギャグ? 汚らしいし触り心地悪いしムカつくから取ったげるわ」
ふん、と不機嫌そうな顔でブラシを探しあて、コロマルの毛玉を優しくときほぐして取った少女のことを要はツンデレだとコロマルは理解した。この瞬間、コロマルの中で少女の立ち位置が荒垣よりかは下だが似たようなものになった。
荒っぽいのは戦闘スタイルと言葉だけでコロマルに対するものは優しかったのだ。
「ま、マシになったんじゃない? これで心置き無くアタシがアンタを蹂躙出来るってワケ。どう? 恐ろしいでしょう?」
「キュウン、クーン…!」
その言葉に微塵も恐怖を感じなかったのでコロマルは甘えた声を出して腹を出すことにした。襲い来るのはマッサージに近い気持ちのいい撫で攻撃だけだ。
腹を出し、パタパタと嬉しげに尻尾を振るコロマルに、服従のポーズと勘違いした少女は気分を良くする。
「腹を出すって言うのは降伏したってことかしら? 煮るなり焼くなりお好きにどうぞってことよねぇ!? アッハハハ! 良いわよ! してあげるわ! ほーら、くすぐったくなってもう死んじゃいたいって叫んでもやめないんだから!」
わしゃわしゃとコロマルの毛を撫で始めた少女は酷く楽しげだ。
「はー…はー…ちょっとギア入れすぎたわね…アタシが疲れてどうすんのよ……てか宿主サマの身体、貧弱すぎない…?」
「クゥン…」
十数分後、疲れて息を切らした少女と申し訳なさそうに耳をペタンと曲げたコロマルの姿が。2人とも調子に乗ってはしゃぎすぎた。コロマルは撫でてもらえるのが気持ちよく、ここもあそこもこっちもとぐるぐる姿勢を変えながら催促し、少女は少女で気分を良くして求められる限り撫でまくっていたのだ。
時計を見れば5時過ぎ。これから寝るには惜しく起きるには暇すぎる。
「あー…暇ね。退屈。犬畜生の事はもう堪能したし…もう寝るなんてやってらんないし…散歩にでも行ってやろうかしら。外なんて見たこと無かったしいい機会だわ」
散歩。その言葉にコロマルの目が輝いた。どうせ今日の朝の散歩当番は順平で、時間になっても起きてこない為に抜きになるだろうからどうせなら少女と行きたい、と考えた。
近くに置いてあるリードを咥え、少女の足元へと落として吠える。
「ワン! ワン!」
「あ? 何よ犬畜生。…リード? 散歩に連れてけっての?」
「ワン!」
少し考えた少女はリードを見つめるとニヤリと笑う。
「良いわよ。連れてってあげる。いーい? アンタの為じゃないの。アタシが哀れな犬畜生であるアンタにこの街を案内させる。…そう、利用してんのよ! しっかりアタシに合わせなさいよね!」
「ワン!」
「フン、いい返事ね! そこは褒めてあげるわ! でもその威勢がいつまで続くか見物ねぇ? 泣き叫んでもう歩きたくありませーんなんて言わせないわよ!」
コロマルは少し心配した。散歩に連れて行ってくれるのはいいがその威勢が続かないのは少女の方ではないかと。
けれど顔にも声にも出さなかった。コロマルは紳士だからだ。
「待ってなさい! すぐに着替えてきてやるわ! 寝てたりどっか行ってたりしたらブッ飛ばすから!」
ドダダダダッと凄まじい勢いで階段を上っていった少女にコロマルは生暖かい視線を向けた。転けなければいいのだがという心配と共に。
「アハッ! 行きなさい犬畜生!」
「ワンワンッ!」
明け方の長鳴神社の公園。
まだ薄暗いというのにフリスビーを投げて少女はきゃっきゃっとはしゃいでいた。
ブカブカなダウンジャケットを着た少女はそれでも気にせず楽しそうにコロマルがフリスビーを咥えて戻ってくるのを待っている。
「ワン! ヘッヘッヘッ…」
「よくやったわ犬畜生! ちゃんとアタシの所まで持って来れたのね! その賢さは認めてあげるわ!」
コロマルがちゃんとフリスビーを咥えてすぐ少女の元へと帰ってきたことに対し少女は気分がいいのか素直に喜ぶ。
「えーっと、こういう時はどうするんだったかしら……ふーん、撫でてやればいいのね。撫でられるだけで嬉しがるだなんて犬畜生ってば単純よね」
帰ってきたコロマルへの対応を少し悩んだ少女は、すぐに答えがわかったのかコロマルの頭を撫でてやる。コロマルはそれを気持ちよさそうに受け入れ、好きなだけ撫でてもらう。
そうしてそれが終わればまた少女がフリスビーを投げてコロマルが取りに行く。
それを少女が飽きるまで繰り返した頃には日が昇り、朝食にちょうどいい時間になっていた。
「あーもう飽きたわ! 帰るわよ犬畜生! あったかい食事とやらがアタシたちを待ってるの! もしなかったらあの目つきサイアクニット帽モサ男に作らせるのよ!」
「ワン!」
“目つきサイアクニット帽モサ男”とは荒垣のことなのだろうか。そう疑問に思ったがコロマルはやはり紳士なのでそれをおくびにも出さずに返事だけしてリードを持った少女に連れられ帰り道を行く。
「おい、モサ男! 食事!」
どこの亭主関白だ、と言いたくなるような帰宅の第一声を上げたラビリスのシャドウだといった少女に荒垣はため息を吐いた。そしモサ男とは自分のことか、と微妙な気分になる。
朝、朝食を作りに起きてくれば早い時間だというのにコロマルがどこにもいないと思えば、やはり散歩だったらしいと一緒に帰ってきたコロマルを見て荒垣は思った。
順平が当番だったため、今日は珍しく早起きしてちゃんとコロマルの散歩に行ったのかと思っていたところだったのだ。
ふたを開ければ新入りの微妙な立ち位置である少女がその端正な顔についている鼻を赤くしてまでコロマルと仲良く帰ってきて満足そうに食事を要求しているという現状だ。
「まずはコロの足を拭いてやってくれ。そのあとお前は手洗いうがいしとけ。いいな」
「命令すんじゃないわよモサ男。いわれなくともやるっての」
反抗的な言葉が返ってくるがそれでもいうことは聞くらしくウエットティッシュでコロマルの足を拭いてあげている。道具もそこらへんに放るのではなく、ちゃんときれいにしてから戻しているのを見るに几帳面さはあるらしい。
意外だな、と荒垣は自分を棚に上げて思った。昨日見た少女のしぐさは限りなく乱暴でがさつだった。
男勝りというべきか。
艶めかしい部分もあったが、誰かに向けている部分は攻撃的でまるで威嚇しているヤマアラシのようだとも思っていた。
「犬畜生の足も全部拭いたし手洗いうがいしてきたわよ! ほら、食事! 寄こしなさいよ」
「言い方ってモンがあンだろがよ…」
少女の横暴さに荒垣は再度ため息を吐いた。奏子もじゃじゃ馬だがこの少女もそうとうクセがありじゃじゃ馬だ。
犬畜生というのはコロマルの呼び方か。この少女は他者を名前で呼ばないことにしているのか。それにしては美鶴に対してだけは“桐条”と名字で呼んでいた。
なにかこだわりがあるらしいと見た荒垣はそれ以上の追及をやめ、朝食を少女の前へと出した。
今日の朝食は和食ではなくスクランブルエッグとベーコンとトースト。あとはコーンスープだった。
バターの甘い香りが少女の鼻孔をくすぐる。
「わあ…!」
何の変哲もない並べられた食事に少女はきらきらと目を輝かせた。初めて見る宝石のようにそれに見とれている。
「身体、冷えてんだろ。スープのおかわりは作ってあるから好きなだけ飲め」
「はあ? アンタの食事なんておかわりするわけ…」
とは言いつつ一口食事を食べ始めた少女は止まらない。
もぐもぐと無言で食べ続け、10分もすればその皿とスープの入っていたカップは空になっていた。
食べこぼしも、かけらの一つもない。
「美味かったか?」
「……」
返事がない。
「食い終わったってんならご馳走様くらい言え」
食べ終わったのにごちそうさまを言わないなんてダメだぞという当たり前の感情も込めて荒垣は少女へとそう言った。
すると、
「……わ…」
「あ?」
少女が小さく何かをつぶやいたが荒垣には聞こえず聞き返す。
少女は途端に顔を屈辱だと言わんばかりに歪め、スープカップをずい、と前へと突き出してきた。
「“おかわり”って言ってんの! いま食べたやつ、まあまあ悪くなかったわ! だから、次のを寄こしなさい!」
「へっ…」
大きな声でそう叫んだ少女に荒垣は笑みを零す。
随分と微笑ましいところもあるじゃないかと見つめていればおかわりがあるというのは嘘だったのかと思った少女がその表情を怒りに染めた。
「なによ!? 無いの!? アタシを騙したの!? これだから人間は…」
「わーったわーった。すぐ持ってきてやるよ。良い子で待ってろ」
「む…」
人間というくくりで広範囲に罵倒を広げようとした少女をなだめ、スープカップとテーブルの上に置いてあるパンの乗っていた皿を受け取り荒垣はキッチンへと戻る。
そうして持って行ったおかわりまでもをぺろりと平らげた少女は上機嫌で「ごちそうさま! そろそろ時間だからアタシ、行くわ」と言うと再び上へと戻っていった。
それを何も言わず見送った荒垣だったがはた、と問題に気が付く。今の時間はいつも優希が朝食をとって学校へと行く準備をする時間だ。
「まさかアイツ…三上の代わりに学校に行くってんじゃねーだろうな…?」
そもそもあの姿で学校に行けるのか? という当たり前な疑問を持った荒垣は悶々と悩みながらもそろそろランニングから帰ってくるであろう明彦の食事を用意してそれを誤魔化した。