1月31日(日)
夜
作戦室にストレガの4人と朝倉先生、朔間くんに綾時くん、そして皆が集まっていた。
まだ、影時間になっていない為、朝倉先生は象徴化していないが、影時間になれば
つまり、これが最後の話し合いになる、というわけだ。
「よし…こうして号令をかけるのも、おそらく最後だ。みんな…準備は良いか」
「…あ、あの、いいですか!?」
美鶴さんがそう呼びかける。
それに頷こうとしたら、岳羽が遮った。
「影時間を消すことになったら、やっぱり私たちの大事な思い出も消えちゃうことになるのかも…」
「今更なんです? 怖気づいたとでも?」
そんな岳羽の発言に、タカヤが冷静に返す。
ストレガは影時間を主軸に活動してきた。だからこそ、影時間に関する記憶が消えるとなれば、人生の殆どに関する記憶を失うことと同義だ。
人一倍、恐怖を覚えても仕方ないというのに、4人は至って冷静だ。
「そういうわけじゃ…私、そうなっても、みんなの事、忘れない! そのことが私たちの思い出から何を奪おうとしても…ゼッタイ忘れない! そう言いたかっただけ!」
「フン、そうですか。では、ご勝手に」
タカヤはあくまでも興味が無い、と言いたげに視線を岳羽から外す。
記憶が消えることに関しては、タカヤからはこれ以上何も言うことが無い様子だった。
覚悟を決めているのか、それとも。
「ハハ、なんだよ、ゆかりッチ。…ったりめーだろ! オレはチドリのこともぜってー忘れねー!」
「私だって、忘れません!」
「僕だって!」
「わたしもです」
「ウチもや!」
伊織につられて、口々にそう宣言する。
誰だって、思い出せるとわかっていても一時的に消えてしまうのは怖いものだ。
「心配するな。君の方が忘れても、私が教えてやるさ」
「…ああ、大丈夫だ」
「アキと桐条がこう言ってんだ。心配すんな」
美鶴さんに真田くん、荒垣くんが不安がる岳羽を元気づける。
その言葉に、岳羽はほっと胸をなでおろしたようだった。
「よかった…」
「あ、でもそういや約束…場所を決めてなかったよな」
「確かに…思い出してもどこで会うかは決めてませんでしたね」
伊織の言葉に天田くんが頷く。
確かに、3月5日にみんなで集まってパーティーを開く約束はした。
だが、記憶を思い出した時に集合する場所は決めていなかった。
「寮とかじゃ、当たり前すぎて忘れちゃうか…何もなければ、戻って来るわけだし…」
山岸が、うーんと悩むように言う。
確かに場所選びは大事だろう。その場所がどこに決まるか、大体知っている自分は口出ししないでおくが。
「卒業式の日が、奏子ちゃんたちの勝負の日、なんだよね? じゃあいっそのこと、街を見渡せる学校の屋上にしない?」
「なるほど、いいですねゆかりさん!」
「確かに、それなら再び平穏の戻ったこの街がよく見えるな」
美鶴さんが頷く。
無事、高等部の屋上で集まることが決まったようでよかった。
変な場所にならなくて良かったという安堵が胸を満たす。
「…今のみんなの気持ち……何があっても、決して振り返らず、前だけ見て進もうという気持ち…記憶と一緒に無くしてしまわないために、そこでまた必ず会おう」
「ワン!」
「はは…待ちきれないか?」
全員で頷く。
コロマルだけは吠えて返事をしたが。
「よし…では、そろそろ行こう」
「そうだね。…行こう、みんな」
美鶴さんの言葉に返事をするように、皆に呼びかける。
「わかった」
湊。
「大丈夫!」
奏子。
「…うん」
岳羽。
「…一緒に」
山岸。
「…わたし、やります」
アイギス。
「ウチだって、やるで! シャビも気合十分や!」
ラビリス。
「絶対に、負けられません」
メティス。
「いっちょ、やったりましょう!」
伊織。
「…楽勝だ。な、美鶴、シンジ」
真田くん。
「ああ」
美鶴さん。
「そうだな」
荒垣くん。
「がんばりましょう!」
天田くん。
「ワン!」
コロマル。
特別課外活動部全員の返事を聞いた。
ストレガの方を見れば、しっかりと頷き返してくれる。
「オマエら! ぜってー負けんじゃねーぞ! 動けるようになったらオレらも戦いに行くからな!」
朝倉先生はいつも通りだ。
影時間を認知できないというハンデがあるにも関わらず、こうやって伝手を使って補助しようとしてくれている。
約束を、必死に守ろうとしてくれている。
「朝倉先生も、どうか、死なないで」
「ったりめーだろ! 誰が死ぬか!」
真剣な表情でそう言えば、ぎゃん、と大きな声の返事が返ってくる。
この調子なら死んでも死なないだろうなと安堵させるものだ。
朝倉先生は、ズルい。そうやって、俺達に安心感だけを与えて去っていくのだから。
この人になら、この人たちになら、任せられる。そんな、安堵を。
「負けないで。兄さ…望月くんは僕がちゃんと守るから…」
「力になれなくてごめんよ。けど、応援してるから」
朔間くんと綾時くんからもそう言われ、全員との会話が済む。
思い残すことはもうない。
「では…そろそろ行こうか」
「うん」
皆、装備を手に取り、タルタロスへと向かうのだった。
影時間
タルタロス 255F 憂鬱の庭アダマ
シャドウを蹴散らしながら、上へと進む。
出来るだけ消耗は避けたいところだが、ニュクス──シュブ=ニグラスが降臨するというこの日だけは、シャドウたちも上へ上へと進んできているのか強弱問わずこちらへ襲い掛かって来る。
それらを倒しながら進んでいると不意に通信が入る。
『皆さん、気を付けて! なにかが近づいて…これは…死神タイプ!?』
「は!?」
「なんやて!?」
まだこのフロアに入ってから、数分と経っていない。死神が出てくる段階ではないはずだ。
だというのに、山岸はそれを検知した。どういうことなのだろうか。
ぞわり。
不意に、身体が怖気だつ。
殺気を感じ、そちらを向けば、死神が。
「───────────────ッ!!!!」
しかも、見たことのないタイプの──否、それは見たことがある存在だった。
手に持った双刀を大きく振りかぶるそれは、幼い頃にタルタロスから落ちる原因となった
「させへん!」
ジンが、
眼前で爆発したそれは目くらましとなり、詰められていた距離を離すことができた。
「ありがとう、ジン」
「ええって。それより、前向いとき!」
煙が晴れる。
そこにはまだぴんぴんしている刈り取るものの姿が。
こいつだけは、倒さなくてはならないという意志のようなものが湧き上がってくる。
どうせ、逃がしてはくれないのだ。
「やるぞ!」
「うん」
「わかった!」
この人数だ。苦戦することはあれど、負けることはないだろう。
『皆さん、完全勝利です! お疲れさまでした!』
その後は、一方的な蹂躙に近かった。
何故かとてつもなくやる気のあるタカヤを筆頭に、奏子と湊が刈り取る者を圧倒した。
余り消耗はしないで欲しいとは言ったものの、特に大技を使うこともなく、
だが、強くなったと言うべきか。無力だったあの頃とは違うというのがよくわかった。
「……」
湊が他の刈り取る者を倒した時と同じように血に濡れたボタンを拾い、ポケットに入れる。
仇とも呼べる存在に特に何を思ったわけではないが勲章として貰っておいても怒られないだろう。
『先の階層を探ります…』
山岸がそう言って、しばらく無言の時間が続く。
探知を先の方まで伸ばしているのだろう。
『……! 262階に、強い反応がふたつあります。でも、これは…』
山岸が言い淀む。
『シャドウのような、そうでないような…恐らく、ニュクス教の神父かと』
「あれは私たちの獲物です」
そう告げた山岸にタカヤがそうかぶせた。
神取さんに対し、たった4人で挑むつもりなのか。さすがにそれは看過できない。
口を開こうとすれば、タカヤが「しー」と指を口に当てた。
「貴方がたには、上へと行ってもらわねばならない。それに、言ったでしょう。私たちの獲物だと」
「でも…」
「でももだってもない。こんなところで消耗してもらっても、困るのです。ああ、それとも、ナギサ。貴方は信用ならないとでも? まさか、私たちが負けるとでも思っているのですか?」
怒っている。
タカヤが、明確に怒っているのを見るのは初めてかもしれない。
それに、信じていないわけではない。不安なだけだ。だが、その不安すらもきっとタカヤは許してくれないだろう。
こうなればもう、観念するほかない。
「わかった。任せていい?」
「愚問ですね。さあ、行きましょう」
目を見つめ返せば、頷き返される。
そしてそのまま言葉を交わすことなく、上へと進むのだった。
262階についた自分たちを待っていたのは、やはり神取さんだった。
否、神取さんと、幾月のフリをしているニャルラトホテプというべきか。
「待っていたぞ、諸君」
「やあやあ、遅かったじゃないか。早くしないとシュブ=ニグラスの本体が降りてきてしまうよ?」
二人ともがフランクにそれぞれこちらへ声をかけて来る。
が、こちらは警戒を解くことはしない。
「ああ、それとも。三上くんの寿命が尽きるのが先かな?」
わざとらしく、こちらを見る幾月から庇うように奏子と湊が前に出る。
「お兄ちゃんは絶対に死なせない。だからそこ、どいて」
きつい表情で幾月を睨みつけた奏子が語気も強く言い返す。
そんな奏子に対し、幾月はさも気にしてませんよと言わんばかりにやれやれと肩をすくめた。
「言われて素直に退くとでも? …と言いたいところだけれど私は優しいからね。先に行くといい」
けれど、と幾月が付け加える。
「ストレガの面々はどうやら私たちと戦いたいようだ。その願いを“父”として叶えてあげなくちゃね」
「誰が父よ」
幾月の言葉に、チドリがそうボヤく。
父らしいことを何もしていない幾月が、“ストレガの子供たち”の父を名乗るなど言語道断だ。
たとえそれが、
タカヤの方を見れば、任せろと言わんばかりに頷き返してくれる。
はっきり言ってこの戦いは分が悪いものになるだろう。けれど、誰も欠けることなく勝ってくれるだろうという期待があった。
正直な話をすれば、自分も幾月──ニャルラトホテプに一発入れたかったが、そんなことをしてもあいつは喜ぶだけだろうし、こちらが消耗するだけだ。
やめておこう、と衝動を抑える。
タカヤ達にどんな秘策があるのかわからないが、負けないだろうと信じて上へと進んでいくのだった。
そしてついに──頂上にたどり着いた。
何本もの柱が立ち並ぶ円形のそこには、何もいない。
「ここが…頂上か」
感慨深く、美鶴さんがそう呟く。
皆も周りを見渡し、その景色に呆然とするばかりだ。
自分や奏子、湊はこの景色を何度も見ているため、呆然とすることはない。
ただ、決意を固めるだけだ。正真正銘、これからが最終決戦なのだから。
そんな中、不意に岳羽が上を見上げ、声を上げる。
「ちょっと見て、空がっ!」
言われて、天高くそびえる巨大な月を見つめる。
黒い闇が集まり、人型を形作る。それは、自分たちと同じ、等身大の人間のサイズだ。
決して、ニュクス・アバターのような巨大な影ではない。
「あそこから何か来ます!」
「“シュブ=ニグラス”か!?」
「ペルソナを出さなくても、強く感じる…こ、こんな反応、初めて…」
影を見つめながら、怯えるように山岸が言う。
ただの人型。ちっぽけな、何ら自分たちと代わりのないそれが、天からふわりと降りて来る。
「ごきげんよう、矮小なる人間の皆さん」
そして、ドレスのような黒衣を纏った妖艶な美女がにこやかに嗤う。
黒き豊穣の女神。
狂気産む黒の山羊。
“千匹の仔を孕みし森の黒山羊”。
「わたくしはあなたがた人間が“シュブ=ニグラス”と呼ぶ
──外なる神
シュブ=ニグラス
「わたくしは愛を以ってこの世に生きとし生けるものを滅ぼします。悉く、滅ぼします。そこに抵抗は無意味です」
それは、宣戦布告だった。
それを聞いて、一番にいきり立ったのは真田くんだった。
「なんだと…!? だが、決めたことに後悔は無い。無意味だろうが何だろうが、必ず倒してやる!」
「無駄な足掻きを。貴方達は理解できているのですか? 人にとって最も恐ろしいもの…最も目を背けたいと感じるもの…このわたくしが、一体何になったのか」
ふう、と溜息を吐くように、シュブ=ニグラスは息を吐いた。
「分かってるさ、そんなの」
「ああ。…誰でも知ってる」
「そうだな。そいつは、身近にある」
「全ての命に約束されてるものだ…」
四人の言葉を聞き、シュブ=ニグラスは冷たい視線を向ける。
それは、呆れと落胆に近いものだった。
「ならお分かりでしょう。抗うなどと、本当は無駄なことだと。恐ろしい思いなどせず、苦痛など感じず、安寧に身を任せ、微睡みの中で果てた方が幸せでしょうに」
「ああ、怖えーよ…決まってんだろ。でもな…言ったってしょうがねえ! オレは、オレ達は…生きなきゃなんねえんだよ!!」
「…もう逃げるのはイヤ! 生きるっていうのは、命の終わりから目を逸らさない事…」
大きく、岳羽は息を吸う。何かを覚悟するように。
「たとえあんたの前でも、ゼッタイ後ろは振り向かないっ!!」
そう宣言するように叫んだ。
だが、それを聞いてもなお、シュブ=ニグラスの顔色は変わることが無い。
「…わたしは、皆さんと生きたい。これからも。わたしは、自分自身でそう決めたから!!」
「ウチだって、この身に代えてでも勝ってみせる。みんなで、ウチら誰も欠けることなく、生き続けるんや!」
「わたしも…姉さんたちとこの先を生きていきたい。だから、貴方にその力は振るわせない! 返してください! "
「…そうですか」
静かに、凪いだ声でシュブ=ニグラスは皆の想いを受け止めた。
その顔には、呆れと落胆が浮かんだままだ。
「自ら苦しい道を歩むというのですね。"母"としてわたくしは止めません」
ならば、とシュブ=ニグラスは続けた。
「──せめて、苦痛を感じぬ間に殺してさしあげましょう」
「待って…下からなにかが…巨大な反応が這い上がってきます!」
山岸がそう言った瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。
自分は、この気配を知っている。とてもよく。
「さあ、おいでなさい。愛しい我が子、“エレボス”」
「────────────ッ!」
淵に、巨大な黒い手がかかる。そうして覗き込んできたのは、双頭の
子山羊というには大きすぎる代物が、這い上がり、産声を上げるように雄叫びを上げた。
何故、普遍的無意識領域ではなく、ここに。と言いたいが影時間も一種の普遍的無意識領域だ。顕現することはいくらでも可能だろう。
シュブ=ニグラスが手なずけているとするならば。
シュブ=ニグラスはエレボスの頭上に腰かけ、嗤う。
「さあ、始めましょう。わたくしに敵わないと知りながらも抗う姿を見せなさい」
「来ます…!」
山岸のその声に、全員が戦闘態勢に入る。
自分もロンギヌスを手に、身構えた。
「抵抗が無意味だということ、その身をもって知りなさい」
闇に包まれる。
その一瞬で、抵抗する間もなく特別課外活動部の面々の意識が落ちる。
順平は、父親とキャッチボールに出かけていた。
口下手な父と、ふたりで。
「順平、いくぞ」
「おっし、バッチコイだぜ!」
返事をする。
父との関係は、
父親が喋らない分、順平はお喋りになった。
はて、本当にそうだっただろうか。キャッチボールをしながら、順平は不意に違和感を感じる。だが、その違和感はすぐに霧散した。
何かを忘れている気がする。けれど、それが何か思い出せない。そして、どうでもよくなってくる。
大事なのは、今の父とのコミュニケーションだ。そうやって、ボールを受け止める。
キャッチボールを済ませ、家に帰り、シャワーを浴びる。
そして母親の用意した食事を家族三人で食べる。そこに恐れるものは何もない。
「んでよ、オレ様大活躍って感じで! 部活でもリーダー任されちゃったり?」
「そうか、すごいぞ」
「へへっ」
家族団らん。幸せなひととき。
そこに、青い蝶が一羽飛んできた。
「ぐ!?」
それを視界に入れた瞬間、不意に、頭に痛みを感じる。
「順平、大丈夫?」
「大丈夫か!?」
珍しく慌てる両親に大丈夫だと返事をしそうになり──順平は気が付く。
どうして、こんな場所にいるのだろうか。と。
「違う…オレは……そうだ…」
気が付いてしまう。
自分は、父との関係は良好などでは無かったということに。両親も、こんなに仲良かったわけではないということに。
「ごめん…オレ、行かなきゃ。オレを待ってる奴らが居るんだ」
「待って、順平!」
順平は追いすがる母親を振りほどき、玄関を出た。
ゆかりは、父親である詠一郎と共に、ショッピングに出かけていた。
今日は珍しく忙しい父が、帰ってきてゆかりに構ってくれる日でもあるからだ。
待ちに待ったこの日を、ゆかりは楽しみにしていた。
母親も、穏やかに「いってらっしゃい」とゆかりを見送ってくれた。
「どうだ、ゆかり。学校の方は」
「普通だよ。勉強も特に躓いてるとことかないし」
それに、友達もいるし、と続けようとして、その友達の顔が上手く思い出せない。
「…?」
「それなら良かった…どうしたんだ?」
「ううん、なんでもない」
感じた違和感はすぐに消え去ってしまった。思い出せないのならば、大したことではないのだろうと思う間もなく、その違和感が無くなっていく。
さも、当たり前だったかのように。
そんな、ゆかりの前を青い蝶がひらひらと飛ぶ。それを目にした瞬間、ゆかりはボトリと買い物袋を落とした。
「そうだ…お父さんは……」
さ、と詠一郎をゆかりは見る。その顔は、優しいままだ。どこまでも。
「ゆかり?」
「お父さん、ごめんなさい。でも、私、行かなくちゃ…!」
頭を下げ、名残惜しさも感じながら、走る。蝶の先導する先にある、光に向かって。
乾は、神社の境内にいた。
そこにはコロマルと、母親の姿が。
本来ならおかしいはずの光景はしかし、今の乾には何の違和感も感じないもので。
「乾~そろそろ帰るわよ~」
「はぁい」
母親に言われ、フリスビーを手に、コロマルのリードを持って神社の奥へと向かう。
そして、コロマルを主人である神主に渡して、帰ろうとした。
その時、二人の間をひらひらと青い蝶が飛んで行くのが見えた。
「ワンワン!」
コロマルが吠える。生憎、乾にはコロマルの言葉はわからない。だが、その声で乾は違和感に気が付いた。
どうして、母親が声をかけてきたのか。どうして、コロマルの飼い主であるはずの神主さんがまだいるのか。
ふたりとも、死んだはずでは。
ここは、現実ではない。乾はそう気が付いてしまった。
「行こう、コロマル」
「ワン!」
青い蝶に先導されるがまま、二人は駆けだした。
明彦は、妹の美紀と共にブランコに乗っていた。
明彦はこいではいなかったが、妹の美紀はぶらぶらと足を揺らし、ブランコをこいでいる。
そして、その少し離れたところに、親友である荒垣もいる。
「美紀、学校では友達が出来たか?」
ガラにない事を、聞いてみる。
いつもなら気にしないそんなことを、明彦は聞きたくなったのだ。
「うん。いっぱいできたよ!」
屈託なく笑うその顔は、夕日に照らされよく見えない。
「そうか」
言葉少なに明彦ははにかみ、嬉しくなる。
妹は無事に学校生活を送れている。それだけでなににも代えがたいものだと思ったからだ。
「おい、テメエら。そろそろ帰るぞ」
孤児院の門限が近くなってきたのだろう。荒垣がそう急かす。
ブランコから立ち上がり、美紀へと手を伸ばそうとした明彦の前に、青い蝶が飛んでくる。
「なんだ…?」
「おい、どうし──ぐっ!?」
荒垣が頭を抑える。それと同時に、明彦も違和感に気が付いた。
何故、死んだはずの美紀がいるのか、と。
「そうだ…俺達はこんなことをしている場合じゃない…!」
「ああ…なにがなんだかわかんねえが…胸糞悪いことしやがって…」
荒垣と共に明彦は顔を見合わせる。
ここは現実ではないと気が付いてしまえば話は早い。
「悪い、美紀。俺は…行く」
「え? え? お兄ちゃん?」
困惑するような
美鶴は、全てのしがらみから解放されていた。
使命も何もない、ただの令嬢としての生活。それを、満喫していた。
不思議と、なにかに必死になっていたことは思い出せるが、なにに必死になっていたかを思い出すことができない。
だが、それでもいいと思ってしまった。
平穏な日々。
父と母が居て、なにかに煩わされることのない、充実しているが凪いだ海のような毎日。
そんな生活を続けていた美鶴だったが、不意に蝶が前を飛んだ。
その瞬間、美鶴は例えようのない頭の痛みに襲われる。
(私が本当に望んでいたのはこんなことなのか…?)
一度、違和感に気が付いてしまえばもう早い。
望んでいた平穏。だが、そこに誰かが足りない。そして、やらなければいけないことも。
美鶴は立ち上がる。
「申し訳ありません、お父様。私は、行かねばなりません」
「…待て美鶴! どういう…」
言葉を最後まで聞くことはなく、美鶴は蝶を追う。
現実に何が待っていようとも、偽りの安寧に浸るわけにはいかないからだ。
気がつけば、湊は奏子と共に食卓についていた。
それは寮のダイニングでも、三上家のものでもなく有里家のものだった。
普通ならば、敵の罠だということを警戒するだろう。だが、湊の意識はなぜか、それを当たり前だと思ってしまった。
それから、湊と奏子は卓上の料理を見つめていた。まるで、小さな子供のように。
心なしか、視線も低くなったような気がした。おかしいことのはずなのに、けれどおかしいと思えない。
だんだんと、思考が鈍っていく。当たり前だと思ってしまう。
その時、ダイニングの扉が開いた。
「湊。奏子」
「…母さん」
不意に、現れた人物は湊と奏子、そして優希の実の母である有里琴音だった。
朗らかな笑みを浮かべ、席につく。その横に、父親である有里朔也も並んで座った。
何の変哲もない、明るい家族の食卓。なくしたはずのもの。
その空気に、湊と奏子は飲まれようとしていた。
だが、そこに、青い蝶がふわふわと飛んでくる。
気がつけば、湊と奏子は両親をその手で殺していた。
「どう、して…」
「ごめんなさい、おかあさん、おとうさん…でも、きっとこれは現実じゃない」
「うん。だって、優希──兄さんが居ない。父さんと母さんは兄さんが居ないことを無視するような人間じゃない」
ひとつの確信があった。
景色が白んでいく。そして、意識が浮上した。
「皆さん、良かった…目が覚めて…!」
全員、風花の声で意識がはっきりとする。
倒れ伏したままだったが、身体に傷はない。
「皆さんが急に倒れた後、三上先輩とアイギスたちが必死に守ってくれていたんです…でも…!」
見れば、片膝をつく優希と傷付いたアイギスたちが。
優希はアイギスたち三姉妹を守るようにエレボスとの間に立ちふさがっている。
「愚かな。あのまま安寧に身を任せていればよかったものを」
酷く冷めた声色で、シュブ=ニグラスはそう告げた。
湊達が夢から覚めたことを指しているのだろう。そして、あのまま醒めなければそのまま殺されていたということも。
ニタリ。シュブ=ニグラスは嗤う。
エレボスは健在だ。そして、シュブ=ニグラスも。
対してこちらは起き上がれない面々に、傷付いたアイギスたち。状況は劣勢だった。
「どうしても、折れなかったのです。まずは、その心からへし折って差し上げましょう」
シュブ=ニグラスが見たのは、湊だった。
そのドレスの裾から、巨大な触手のような口を現す。
あまりのおぞましさに、だれも動けない。すぐにでもそれは、湊の眼前まで迫ってきていた。
大口を開けて。
「やめろおおおおおおおおお!!!」
目を見開いた優希が、手を伸ばしながら叫ぶ。
そうして、ぐ、と一歩踏み出し、ぐるりと大口へと向き直る。湊を庇うように両手を広げ──
──その姿が、湊の目の前で呑まれた。
血ひとつ残さず、丸々。
一瞬で、消え去ったのだ。先程までいた兄が。
自分が動けなかったせいで。幻を、見ていたせいで。
「くそ、くそぉっ!!!!」
「そんな…!」
シュブ=ニグラスは追撃を仕掛けてこない。
ニタニタと気味悪く嗤っているだけだ。
優希という“要”を失った特別課外活動部は大した事無いとでも思っているのか。
それとも、勝利を確信しての余裕か。どちらにせよ、絶望的な状況となったことに変わりはない。
特別課外活動部の面々に絶望が襲い掛かってきていた。
絶対に死なせないと意気込んでいたキーパーソンたる優希が食われたのだ。
絶望するなという方がおかしいだろう。戦意を喪失しかねないそれに、耐えれた者は何人いたか。
戦況が一瞬で変化し、瓦解したわけでない。むしろ、優希とアイギスたちに守られ、皆は無傷に近いのだ。だが、それでも精神的ダメージは耐えがたいものだろう。
このまま負けてしまうのではないか。これでは、もう終わりなのではないか。
そんな雰囲気が一瞬でも蔓延する。
それでもなお、湊と奏子は諦めてはいなかった。諦めかけはしたが、諦めなかった。
なぜなら、
それは、シュブ=ニグラスの悲鳴で証明された。
「何故!? 何故です!? なぜ、そこから立ち上がれるのです!?」
「いいえ、まだです! シュブ=ニグラスが苦しんで…この反応は…! 三上先輩!? シュブ=ニグラスの内側から三上先輩の強い反応を感じます!」
風花の言葉に、明彦が反応する。
「なら、奴の腹を掻っ捌けば三上を助けられるのかもしれんというわけだな!?」
「やってやろうじゃねえか…!」
まだ、希望は失われていない。
そんな期待と共に、全員が立ち上がる。そして、それぞれの得物を構えるのだった。
身体が鉛のように重い。起き上がれない。闇が全身にまとわりついている。
視界も闇一色に染まっている。
自分は──湊を庇って食われて、それで。
もう、終わってしまった。自分がシュブ=ニグラスに取り込まれてしまったから、終わりだ。
守っても意味はなかったのに、なのに。それでも。
託したかった。でも、諦めるほかない。
「……」
どこからか、声が、聞こえる。
──それで本当にいいと思ってるのか?
「…!」
そんな筈は無い。重い首を横に振る。
──お前はいつまでかの邪神の操り人形で居るつもりだ。この先も生きたいのなら、真に皆が大事だというのなら、お前の人生を生きるべきである。そしてそれを欲するのなら、お前が、お前自身の手で“奪い取れ”。
それが、【契約】だ。
ふつふつと、そんな怒りが湧き上がり、よろよろと立ち上がった。
泥が、逃さまいと身体を引っ張る。それを、引きちぎる様にして。
「与えられたものでも…決められたものでもなく…」
──決意できたか? ならば、貼り付けられたその偽りの仮面を剥がし、
纏わりつく泥のようなどす黒い仮面に手をかける。
「俺は…! 俺は…ッ!」
自分は、俺自身の足で、
「──生きたい!!!!」
──よく言った、契約者よ!
内から聞こえる歓喜の声。それは新たな産声を上げる者を称賛するようだ。
ビリビリと身体が震えるのを感じる。
「あああああ!」
叫び。そして、ブチリとその仮面を力いっぱい引きはがした。
血が飛び散り、力の奔流が辺りをめちゃくちゃにかき回す。
身体を蝕んでいた黒い泥が今度は自分を守るコートのようにその形を変え、裾をはためかせた。
ロンギヌスも蒼い炎を纏わせながらその姿を変え、一本の拳銃に変わる。
そしてその前で、自分は不敵に笑う。
いま、最高に気分がいい。
──我は汝、汝は我…我が名は…
「“ブラフマー”!!!!!!」
──ああ、全てを変え、全てを救おう。強欲な我が契約者よ。
「もちろんだ!俺は、もう一人じゃない。皆との”絆”があって今、ここに立ってる!」
さあ、世紀の大逆転劇を始めよう。
この輪廻に終止符を打ち、自分を含めて誰一人犠牲にしない、ご都合主義のハッピーエンドのように甘いエンディングの為に。