「苦しいの?」
ポートアイランドのそこに建てられた研究所は、
そしてその簡素なベッドの上でペルソナの暴走に苦しんでいたタカヤにそう声をかけたのはタカヤよりも幼い少年だった。
「だいじょうぶだよ」
そう言って近づいてくる少年はタカヤの手を取り笑う。
この時のタカヤはまだぺルソナをうまく御しきることもできず、他の子供に比べれば少ないものの制御を外れて暴走させることがたまにあった。
そんな
ペルソナ能力に自然覚醒をした
「怖くなんかないんだ。きっときみは、怖いから自分を傷つけちゃうんだね」
その灰色の目はタカヤではなく、タカヤを傷つけるタカヤ自身のペルソナ──当時それにヒュプノスと言う大層な名は無かった──に向けられていた。
「ねえ、この子に名前はあるの?」
「……あ、るわけ…ない…でしょう…」
「そっか」
そこで初めて少年の目にタカヤが写る。
ペルソナの名を、と聞かれたがそんなもの、ついている子供の方が少ない。
「はじめにね、名前を教えてくれるんだ。けど、きっとここにいるみんなはその声をまだ聞けないんだね」
きゅ、と握られる手に力が籠められる。
僅かに、タカヤのペルソナが大人しくなった気がした。
「ぼくには代わりにその苦しいのを食べることしかできないから、ちょっとの間しかだめだけど」
微笑んだ、少年の目が金色混じりになった気がした。瞬間、凄まじい勢いで苦しみやペルソナの暴走が収まっていく。まるで、吸い取られるように抜けていくそれにタカヤは思わず手を引っ込めた。
「な…にを…」
「しんぱいしなくても大丈夫。苦しいって思ったことや怖いってものを食べただけだから」
タカヤには少年のいう事が何となく「苦痛を取り除いた」という意味だと分かった。だとしても、ペルソナも薬も使わずにそんなことをするこの少年は何なのか、という疑問と「そんなことをして何の利があるのだ」という疑念が浮かんだ。
タカヤは、幼いながらにここにいる大人が打算ずくめなのを知っていた。だからこそ、最古参で大人たちの『お気に入り』だと言われているこの少年に対し、大人の犬なのではないかという疑念が浮かんだのだ。
「ばいばい、また会う時までにぼくが生きてたら、きみとそのこの名前教えてね」
なんてことを言うのか。確かにここは子供の減りが激しい。
けれど今まで生き残っているというこの少年の別れの言葉がタカヤには「こちらが生きていたらの間違いじゃないのか」と思うような内容で、少し眉をひそめた。
その意味は、すぐにタカヤの知るところとなる。
今日も今日とて、栄養管理だけがされたあまりおいしくない食事が運ばれ、タカヤはそれを黙々と食べていた。食べられればなんでもいいというのが当時のタカヤの考えだった。
タルタロスの攻略はあまりうまく行っていないようで、大人たちはしびれを切らしているようだったのと、苛ついているのか最近は無茶な特攻を指示される場合が多い。
何度か遠目からあの少年を見かけたが、あの時とは違い常に血の滲んだ包帯だらけで見ていて痛々しいことこの上なかった。一番怪我をしているのは彼なのではないのだろうか、という有様にタカヤは目を離せなかった。周りは単に彼が弱いからああなっているのだと勝手に想像し、言っていたが。
定期的な健康診断がある。
健康診断とは名ばかりの簡易的なものだ。メンタルチェックも行われない雑な形式的なそれは当時のタカヤからすればよくわからないもので。
白衣の大人に連れられ、タカヤを含む同室の子供たちは廊下を歩く。ふと、開きっ放しのドアの隙間からガラス越しの部屋の中にあの少年がいるのが目に見えた。思わず足を止める。
あの部屋は、タカヤ達の誰もが入れないのだ。
だから、よくそこに連れ込まれる少年が大人たちからあそこで特別扱いを受けているんじゃないかというような孤児の声もあった。だが、タカヤが見たのはそんな甘いものではなかった。
──地獄だった。
特別扱いは特別扱いでも、他の孤児たちが想像しているものとは真逆。
僅かに「暴れるな!」と叫んでいる大人の声が聞こえる。床は血まみれで、診察台の上で大人たちに無理やり押さえつけられている部屋と同じく血まみれの少年の目は苦痛と恐怖で歪んでいた。
そして押さえつけられながらも、そのその腕にメスが突き立てられるのをタカヤは見逃さなかった。
ひゅ、と息を飲んだ。
まさか、いつも怪我をしているのはシャドウのせいじゃなく、ここにいる大人たちのせいだったのか? と。
悲鳴じみた絶叫が聞こえた。
「おい、何を見ている! さっさと歩け!」
そう考えていると乱暴に腕を引かれ、引き摺られるようにタカヤは無理やりその場から離れさせられた。その後、少年がどうなったのか、なにをされていたのかタカヤは随分後になってから知ることになる。
数日後タカヤはまた、少年と顔を合わせる事となった。
今度はタルタロスの探索メンバーという形で。またガーゼと包帯だらけの少年がタカヤを目に入れると嬉しそうに駆け寄って来る。
「あ、この前の…ねえ、なまえおしえて! 約束したもんね!」
「そっちからむりやりでしょう。そういうのは、そちらが先じゃ…ないです…か」
つっけんどんにそう返し、ムスッとしたタカヤに臆することなく少年ははにかむと端にガーゼを貼った口を開いた。
「あっそっか! ぼくはナギサ。ありさと、なぎさっていうの。弟とね、妹がいるんだよ! ふたりともすごくかわいいんだよ! こういうの、なんていうんだっけ、“お口でたべても痛くない”?」
「…“目に入れても痛くない”の間違いじゃ?」
「そうだったかも! すごいね、物知りだね!」
兄妹のことは別に聞いてもいないのに紹介してきた少年──ナギサにタカヤはげんなりした。まるであの部屋の中の光景が夢だと思えるくらいにはケロっとしている。それどころか、能天気の部類に入るかもしれないナギサはこの中でも珍しい。
大体、冷静になって子供らしからぬ思考をもつか無気力になるか荒れるか依存しあうかのどれかだ。タカヤは子供らしからぬ思考を持ってしまったタイプだが。俗に言うアダルトチルドレンというやつだ。
「……タカヤ、です」
名乗られたので渋々、名乗る。
暮らしていた孤児院で礼儀作法は厳しくしつけられていたのもあったし、そこにいた先生が優しくも尊敬できる厳格な存在だったという事もある。なのでこの頃までのタカヤは意外とそういうことを気にするタイプではあった。
「みょーじは? ないの?」
「いいたくありません。あまり仲が良いわけでもないでしょう」
「ふーん。じゃあ今からぼくときみ、友だちね!」
「は?」
名案だ! とでも言いたげにタカヤの手を取ったナギサに、タカヤは思わず嫌な顔をした。
ごり押しが過ぎる。
友だちというのは、言ってなれるものではないことくらいタカヤにはわかっていた。そして目の前の存在がとてつもなくうざくてめんどくさい存在であるということも、何となくわかってきた。おそらく、タカヤが折れるまでこの少年はつきまとうだろう、と。
しかしタカヤは今よりも言葉や感情を操るのはうまくなかった。なので
「いやに決まって…いますが」
真っ向から拒絶した。
拒絶して、さらに面倒くさいことになるのでは、と思い直したタカヤの目の前でナギサが口を開く。
「そっか。じゃあまた、友だちになりたくなったら言ってね」
すん、とハイテンションな笑顔から僅かな微笑みに戻ったナギサは、タカヤの予想に反し驚くほど素直にひき下がった。
あっけないくらいのそれに、タカヤは逆に違和感を感じる。この押しの強さから言って、もっと泣きわめいたりぐずったり我儘を言うのかと思っていたからだ。
「あ、この先、シャドウが2人いるよ。壁の向こう。あるいてる」
「…? わかるのですか?」
タルタロスの中を歩きながら話していたのだが、不意にそう言い放ったナギサにタカヤはチドリや他の子供のようにそういうのが分かるタイプのペルソナ使いなのだろうかと疑問をもった。
ナギサは、小さく頷くと壁に手を当てた。
「んー…壁の向こうになにがあるか見えるだけ。みるの、目を閉じなくちゃいけないからちょっとつかいづらい…」
不満げに唇を尖らせながらそういうナギサは曲がり角に立って目を閉じている。そして、目を見開いたかと思うと飛びだして大ぶりのナイフを反転してこちらに背を向ける形になったシャドウに突き立てた。
──奇襲。それを慣れた手つきで行ったナギサに、タカヤは経験の違いを悟った。
「こうするの。後ろを向いたらぼくらでも攻撃できるから。…たまに失敗しちゃうけど」
一瞬だった。
ペルソナを出したかどうかすらも分からない速度でシャドウを殲滅したナギサはケロッとした顔でそう告げる。
タカヤに見えたのは青い光と大きな黒く鋭い腕だけだった。
その日の探索はほとんどナギサの後ろについて歩くだけで事足りた。階層が低かったせいもあるのだろう。定期的に周りの音を確認するように階段付近で休息を取り、ゆっくり探索をするナギサはタカヤの知らない何かを知っているようだった。
「あんまりね、階段をのぼらないでいると怖いのがくるんだ。鎖の音、ぼくのヒュプノスと似てるけど、ちがう。前にね、あいつのせいでみんなしんじゃった。…まもれなかった。ぼくが、弱かったから。知らな…かったから。ここで休もうって、みんなに言っちゃったから」
タカヤと他のメンバーに悔いるような声でそう語るナギサの目からはポロポロと涙が零れていた。
死人はよく出る。ペルソナの制御剤が身体に合わずに衰弱したり、ペルソナの暴走だったり、シャドウに殺されたりして。それを悲しむ孤児はもちろんいる。兄弟で参加させられている孤児だっているのだ。
反対にこうなった原因である大人を恨む孤児もいた。
ただ、ナギサはそちらを見ることなくひたすら自分を責め続けていた。誰も知らなくて当然のことなのに、知っていなければいけないという強迫観念があるようにすら見えた。
「おまえ、なんでそんなに必死なん? ほっとけばええやんか、そんなん。…おまえはあの大人どもお気に入りなんやろ。自分さえ良ければ生き残れるはずや」
「よくない!!!!」
不意に、苛つきつつも素直な疑問をぶつけたもうひとりの探索メンバー──ジンにナギサは当たり散らすように叫んだ。
「……お、大声出してごめんなさい。でも、ぼくだけ生き残るなんて、だめだよ。みんなは生きなくちゃだめなんだ。ぼくは、死ななきゃだめだから」
「?」
その答えにジンは訳が分からない、というふうに首を傾げた。タカヤにも、その言葉の意味はよくわからなかった。なぜそう思うのか聞きたくとも聞けない。
「……上がろう。もう少しでたぶん、怖いのがくる」
話を逸らすように腰掛けていた階段から立ち上がって上へと昇っていく。
次の階層に着いた時、誰も口を開こうとはしなかった。
気まずく、喧嘩をした時のような空気が漂っている。かといって、連携を忘れた訳ではなかったのでナギサは先行しつつもタカヤとジンのことをチラチラと気にしながらシャドウを蹴散らしていた。
タカヤとジンは悔しかったがそのお零れを貰う程度しかやることが無い。
「…ありがと。ごめんね」
しばらくそんな感じで探索を続けていたが、帰る時間だと転送装置に向かったナギサが不意に口を開いてそう言った。少しバツが悪そうだったが機嫌が悪いというわけではなさそうだったその声に、ジンが1番に反応した。
「わ、わしかて…要らんこと言うてすまん…」
「えっと……何くんだっけ…田中くん?」
「ちゃうわ! ジンや! 白戸陣! よぉーく覚えときや!」
「わかった! ジンくん! ぼくはありさとなぎさです!」
全くかすりもしていない名前で呼ばれて反射的に叫び返したジンはしまった、と思った。
ジンとしてもこの能天気で変なやつであるナギサとは気が合いそうにないと思っていたのに、つい名前を教えてしまったのだ。
「ほーん…じゃあナギサか…」
嬉しそうにはにかむナギサに、うってかわって弟のようなイメージを抱いたジンは知らなかった。身体が小さいだけでジンと同じ歳だということを。
そうして何度かタルタロスでの探索を繰り返すうちに、ナギサとの仲を図らずとも深めることになったタカヤは、ある日大事な話をすることとなる。
探索中、ふとタカヤのペルソナを見て思い出したナギサが口を開いたのだ。
「その子の名前、まだないの?」
「名前など、不必要です」
「大事だよ。ペルソナってみんなの中にある神さまの名前と姿のいめーじ?をかりてるんだって、ぴかぴか光るちょうちょさんが言ってたんだ。だから、名前をつけてあげないとうまくかたちにならなくて、ふあんてーになるかもって。イズミくんのペルソナは『名無し』って名前だからいいけど、タカヤも名前つけてあげなくちゃダメだよ」
何故かタカヤだけは初めから呼び捨てだった。ジンは最近呼び捨てになったが、タカヤに関しては名前を教えたあの日からずっと『タカヤ』と呼ばれていた。それに不満がある訳では無いがなにか納得がいかなかったのもまた事実。
「あ、そうだ!」
なにか名案が思い浮かんだかのように得意げな顔になるナギサ。が、反対にタカヤはげんなりとした。
短い付き合いだがナギサがこういう顔をする時は大抵突飛な行動をとる時だ。
「ね、ぼくのペルソナとお揃いにしない? “ヒュプノス”っていうんだけどね、ずっと一緒にいるぼくの友だちなんだ。死ぬ前に怖かったり痛くないように眠らせてくれる優しい神さまなんだよって教えてもらったんだ。だから同じ名前にすればタカヤのペルソナもタカヤに優しくなれないかな?」
とんでもない理由だ。
タカヤとしては今までナギサのペルソナの全身をハッキリと見た事がある訳では無いが明らかに優しいとは程遠い存在だということだけはわかっている。敵を一撃で葬り去るという点ではたしかに優しいのかもしれないが、子供がイメージする優しさとは違うものだ。
けれど、名前が無いと困るというのは薄々タカヤも感じていた。
それにタカヤはナギサの事を疎んでは居なかった。たまにこうしてうるさくなるが、悪い人間でなければ裏表も無い、少し歪な自分たちと同じただの子供だったからだ。
聡明なのか愚かなのかわからなくなる時があるが気をつかってくれていることに変わりはない。彼は彼なりにタカヤを思いやり、心配しているのだと言われれば、悪い気はしなかった。
「……いいでしょう」
「ほんと!? じゃあ、あの子の名前は今日からヒュプノスだね! お揃いだね!」
わーい! と跳ねるように喜ぶその笑顔は3ヶ月たった時点のここでは珍しくなってしまったものだ。
1番酷い扱いを受けているはずの子供が、いちばん無邪気に笑う。その歪さを、タカヤはしっかりと理解していた。
既に壊れているのだ。この少年は。
タカヤはそれを見て見ぬフリをしていた。
いや、タカヤだけではない。ジンも、イズミも、他の子供も、ナギサの置かれている状況と精神状態の異常さには薄々気がつき始めていた。最初の頃はやっかみも込めて『お気に入り』だなんだと言われていたが今では意味が違ってきている。
「それでね、マイちゃんがね…グリンピース残すのはダメって言ってきたんだよ! ぼく、グリンピースだけはだめなのに! でもマイちゃんはぼくよりおねーさんだからおこるとこわいんだ…」
「はあ、そうですか」
ナギサは時間があれば他の子どもの部屋やタカヤの部屋を回っていた。ペルソナが暴走している子供が居ればタカヤにしてやったように手を握り、居なければタカヤの隣でこのようにとりとめのない他の孤児たちとの話をするのだ。大体が食事中の話だったり探索の話だったりする。
例外があるとすれば、死人が出た日だけだ。その日だけは、ナギサはいつもの明るさが嘘のように喋らなくなる。
「“ナギサ”、時間だ。来なさい」
不意に、部屋に白衣の男が入ってきた。
眼鏡をかけたウェーブがかった茶髪の男は『幾月』と書かれたネームカードを首から下げている。この男が来て名前を呼ばれると、決まってナギサの表情がなくなり、目が虚ろになるのだ。
「…はい、せんせい」
今日もだ。今日もまた、表情が抜け落ちて虚ろになる。
いつも行う「ばいばい」という挨拶もなく、ナギサはフラフラと男の元へと歩み寄り、手を引かれていくのだ。
行先は、あの部屋だという事をタカヤとここにいる子供たちの誰もが知っていた。
この頃、特にあの部屋に連れていかれる頻度が上がり、部屋から歩いて帰る姿を殆ど見なくなっていた。代わりにストレッチャーに乗せられ、また別の部屋に運ばれていくのをよく見るようになった。
そして単独でタルタロスに登らされているらしいと残った数少ない子供が話していた。
ナギサのお蔭でやっと連携が取れるようになったというのに、この時期となっては殆どナギサが勝手にどこかへ連れ出されることが多くなりリーダー不在のようなものに陥り連携もできずに傷を負う子供が増えた。
引率できそうだった比較的孤児の中では年長のイズミは戦闘能力に難があるもののしっかりしていた、にもかかわらず数日前に他の子どもとタルタロスに登った際に事故に遭い生死不明になったばかりでどうしようもなかった。
かろうじて、タカヤが20人程度になった子供たちを纏めていたお蔭でなんとかなっている程度。
しかもナギサが居なくなったことによりペルソナの暴走をしても止める人間がおらず、一旦は少なくなったはずの死ぬ子供が増えていっている状態。どうすればいいというのか、タカヤには分からなかった。
「ああ、君たちはしっかりと”ナギサ”を繋ぎ止める楔…モノになってくれればそれでいいんだ。それ以外に失敗作であるきみたちに価値があるとでも?」
ある日、タカヤ達は『幾月』というネームカードをぶら下げたひどく冷たい目をする男にそう言われた。どうしてその話になったのか、タカヤはよく覚えていなかった。
「それに、感謝してほしいくらいだ。彼と、彼のいう事を汲んだ僕のお蔭できみたちは切り刻まれたり苦しくなるような薬を入れられずに済んでいるんだからね」
「ど、どういうことだよ…!?」
困惑したようなひとりの子供──アキラの声に、幾月は嗤った。
「きみたちも薄々気がついているんだろう? 本来、きみたちが受けるはずだったペルソナ能力に関する実験を全部彼ひとりで担っているんだ。僕らとしてはサンプルは複数欲しかったんだけど、彼が全部ひとりで頑張るから他の子供には手を出すな、と言い出したんでね。これは聞いてあげなくちゃと思って。僕個人としても失敗作のきみたちのサンプルより成功例のサンプルの方が欲しいからねぇ」
へらり、とまた嗤いながら言った幾月に、同じ部屋にいた子供の何人かは青ざめる。
特に、ナギサにお姉ちゃん風を吹かせていたマイという少女は震えていた。
タカヤは、この男の言葉に自分たちが人質としてつかわれているとはっきりと理解した。歪でありながら優しさを捨てきることのできない少年を、この地獄へと繋ぎ止めておくための人質のようなものだ。
どうせ、ナギサにはこう言っているのだろう「きみさえ頑張れば他の皆は苦しまなくて済む」と。
大嘘吐きが、とタカヤは燃え滾るような怒りを大人に覚えた。
「なんなんや!」
幾月が去った後に、一番に叫んだのはジンだった。
この部屋がカメラで監視されているのは分かっていた。けれども、叫ばずにはいられなかったのだろう。この数カ月という付き合いの中で、ジンとイズミもそれなりにナギサと交流をしていたらしいので仲間意識や情といったものが湧くのも仕方ない。一番べったりされていたのはタカヤの様だったが。
そんなジンがタカヤや他の子供たちの内心を代弁しているようで、逆に冷静になる。
「ジン、落ち着いてください」
「せやけど…!」
ジンを止めたタカヤだったが、大人を出し抜き無事でいられるような知識がある訳でも無かった。この人数で、誰も死なずにここから脱出できるというわけでもない。そもそもここから出たとしてすぐに見つかって連れ戻されるどころか保護してくれる奇特な大人などいないだろう。だが、
(黙ってこのまま見ている訳にもいかない)
この頃のナギサは憔悴しきっているようだった。皆の前では気丈に振る舞っているが、しんどそうに大きく息をしたり脂汗を浮かばせていたりと精神的にも体力的にも限界が来ているように見えた。ペルソナによる治癒魔法も万能ではないのだ。
そして数日後、満月の日に事件は起きた。
唯一残った探査系能力のペルソナを使えるチドリをバックアップに、ナギサ・タカヤ・ジン・マイという珍しく5人の万全の体制でタルタロスに登れと言われたのだ。
しばらくは順調だった。だが、ある階に差し掛かった瞬間ジャラジャラとおびただしいほどの鎖の音が聞こえてきたのだ。
「ひっ……」
ナギサが怯えるように息を飲んだ。
「ど、どうして…まだ、まだここに来たばかりなのに…! 逃げよう…逃げよう!」
踵を返し、階段を降りかけたナギサは下からも聞こえてくる鎖の音に一歩後ずさった。
チドリもそれを感知したようで、少しだけ顔を顰めた。
「ダメ、下にも…恐ろしいものがいる」
「
ひどく怯えながらもチドリに近くに『それ』が居ないか確かめながら皆は進むことになった。転送装置にさえたどり着けば、大丈夫だと信じて。
ぐるぐると迂回しながら迷路のようなそこを抜ける。転送装置がどこにあるかなど、分からない。けれど見つけなければ全滅は免れない。
そんな異様な緊張感と死の気配に、誰もが喋ることが出来ずにいた。そしてやっとのことで転送装置が見えた、と思った瞬間に床を銃弾が貫いた。
「あ、ああ…!」
じゃらりと、鎖の音を鳴らして現れたのは
「やだ…いやだ…こ、こわい…いやだ…! ごめんなさい、ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…!」
「あと…少しだから、ナギサくん、行かなきゃ、だめだよ! 生きて帰らなきゃ…!」
滅多に見せないナギサのその怯えように、なんとかして引き摺る様に連れていこうとしたマイも召喚器の引金を引けそうにない。そもそも、この場にいる誰もが刈り取る者の姿に怯え竦んでいたのだ。動けるはずがなかった。
「生きて…かえる…そ、そうだ…いか、なきゃ…みんなを、逃がさなきゃ…!」
怯えた瞳のままのナギサはマイの言葉と眼前まで迫る刈り取る者を見て歯を食いしばった。
そして、マイの手を振り払ってナイフを抜いて跳ねるように駆けだした。
「ダメだよ! ナギサくん! 死んじゃうよ!」
「みんなは…みんなは先に逃げて! ……うしろに、さがって!」
その言葉に、タカヤ達はようやく動けるようになる。あと少し走れば転送装置だ。
ならば、ナギサの行為を無駄にするわけにはいかない。だからといってナギサを置いていくこともタカヤ達にはできなかった。
「行けるわけがないでしょう! ナギサ、“きみ”は──」
「“ヒュプノス”、おねがい…みんなを、守って…! あいつを、
タカヤが連れていこうと叫んだその時、青い光と力の奔流が渦巻き、主を守る様にそれは現れた。
漆黒の羽が辺りに舞う。じゃらり、と鎖の音がした。
──タカヤはそこで初めて“ヒュプノス”の姿をはっきりと見た。濡れ羽色の全身にすらりと伸びた手と足。その手には青々とした葉が茂り赤い花の咲く木の枝が握られており、コートの後ろから烏の翼のようなものが生えている。
それは、ひどく静かなペルソナだった。
見た目は凶暴そうではあるのに、動きは全く凶暴ではないのだ。だが、攻撃はそうではない。
【アンティクトン】
“ヒュプノス”はのけ反りながら獣の頭骨の顎を大口開けて魔力を溜め、一気に放出する。
瞬間、禍々しい力の衝撃と爆発がフロアを襲った。強烈な爆風に、ころころとチドリが転がったのが見えた。
「後ろに下がれ」というのはこのことも含めてだったのか、とタカヤは自覚した。
煙が晴れ、塵一つ残さず消え去った刈り取る者と肩で息をしながらも立っているナギサの姿にタカヤ達は安堵の溜息を吐く間もなく腰を抜かす。正直、限界だったのだ。しかし、
じゃらり
「!!」
「そうだ、気配は…“ひとつじゃない”…!」
また、鎖の音がする。その事実に、抜かしていた腰を何とか立たせ、彼らは転送装置まで走る。あと少しだというのに、その距離が酷く長いもののように見えた。
「転送装置を、うごかしたわ。これなら、」
チドリの言葉にやっと後ろを向いたタカヤとジン、そしてマイはいるべき存在がそこにいない事に気がつく。
否、その位置は先ほどから全く動いていない。
「アホ! なんであそこで止まっとるんや!? こんなん、間に合わん…!」
ジンが叫びにも似たその声をあげたと同時くらいのタイミングでナギサが追いついてきた2体目の刈り取る者──否、刈り取る者によく似ている別の存在に斬り飛ばされている瞬間を目撃してしまう。そのままの勢いで、爆風により割れた窓からナギサは落ちた。いくらペルソナを得ていたとしても、刈り取る者に斬られ窓から落ちればこの高さだ。死は免れないだろう。
「あああ、ああ──ッ!!!」
叫んだのは、誰だったか。その叫びは届くことなく、転送装置による光で遮られた。
エントランスに戻ってきたタカヤ達を迎えた大人たちはナギサが落ちた事を知るとすぐに捜索を開始した。勿論、タルタロスの中ではなく外を、だ。
死体の欠片ひとつでも重要なサンプルになる、と。
しかしその目論見は外れ、血痕ひとつ見つかることは無かった。数日程捜索されたがこれ以上は無駄だと打ち切られたのだ。
そしてそのすぐ後に『ストレガ計画』は建前上は「効率が悪い」として凍結された。だが、それまでにアキラとマイは探索中の事故で死に、他の子どもたちもこれまでナギサが受けていた実験を無理やり受けさせられ死んでいった。
結局、残ったのはタカヤとジン、そしてチドリだけだった。
何人かはうまく逃げ出したようだがあの調子では長くはなかっただろう。
タカヤとジンは最後に制御剤を盗んで逃げ出してやろうと計画を練っていたがそれに失敗し、見逃される代わりに幾月の命令をなんでもきく、という取引を行った。
そして5月。影時間の駅前に後輩と思わしき同じ高校の人間と佇むその姿を見たとき、タカヤは喜びを隠せなかったと同時に「アレは本当に
タカヤの中の“ヒュプノス”は確かに呼応していたが、あの状況でどうやって生きているのかが謎だった。あれは、ナギサの姿をした別人ではないかと疑ったこともあった。
そんな心配も、記憶喪失だと聞いてその上で懐かしい事を言いだす彼の前には吹き飛んでしまったが。
そしてその中で渦巻く異様な気配も、見て見ぬフリをしてきた。
だがそうもいかなくなった。
『アレ』は大型シャドウを喰らい、大きく、そして別物へと変化しようとしていた。
ただそれが変異するだけならいい。しかし宿主を蝕むとしたら、そうはいかない。
タカヤの目にも最近の彼は特におかしくなってきているようにも見えたからだ。
夏ごろまではたまにしか無かった“ナギサ”ではない誰かの気配が濃くなる時が増えた。言動だって、他の皆が気がつかない程度だが僅かにおかしくなっているときもあった。
もし、ペルソナがナギサを蝕み食いつぶし、乗っ取ろうとするのならたとえ嫌われてでも殴ってでも止めなければいけない。夏の終わり、イズミに対し覚悟を決めたジンのように。
「それが、友だちというものでしょう。…ナギサ」
らしくないとは思いつつも、タカヤは旧友を守る決意をした。今度こそ、失わないためにも。
だからこそ、これから目の前で眠るナギサに言わねばならない。
──『大型シャドウをこれ以上倒すのをやめろ』と。