君、死にたまふ事なかれ【本編完結】   作:月瓜里

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データサルベージ(11/6)

死んだはずの優希がうめき声をあげて、咳き込んだ。そして引き攣った呼吸を繰り返した後に、目を開けた。

その時、全員の息が止まったかと思うほどに音がしなくなる。

 

「お、にいちゃ…」

「……」

 

のろのろと虚ろな目で奏子と湊をぼんやりと見た優希は、何かを喋ろうと口をはくはくと動かしていた。しかしそこから声が出ることは無く、僅かに首を傾げるだけだった。

養母であるヒロコがナースコールを押せば、何事かと看護師が飛んできた。そして、飛んできたときと同じ速度で出ていってすぐに医師とともに帰ってくる。色々確認などを済ませ取り外した機器を持ち込んで優希の身体につなげていく。

当の本人はいまだに覚醒しきっていないのか、ぼんやりしてなされるがままだ。

医師が質問をしていくが奏子と湊の時とは違い、口を開くこともせずに視線すら合わない。まるでそこに人間の顔があると認識していないように。

 

「三上、良かった…本当に良かった…」

「……」

「無理はしなくていい。ゆっくりでいい」

「……、…」

 

医師たちが出ていったあと、美鶴が手を握り、養父であるハジメが眠そうな兄に無理はしなくていいとやさしく告げるが反応は芳しくない。

奇跡が起きた、ととればいいのか。湊にはわからなかった。兄は息を吹き返した。だが、この様子だと自分たちを認識することすらしていないのではないかという不安が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

11/5(木)深夜

自室のピンクのベッドに座り、ノートパソコンに風花から貰ったDVDを入れ再生を始めたゆかりはその画面を食い入るように見つめる。

 

『この記録が…心ある人の目に触れることを…願います』

 

人の悲鳴とパニックになっているような音。炎と瓦礫に塗れたそこにゆかりの父である岳羽詠一郎が映っていた。

 

「これって、あの時の…!」

『ご当主は忌まわしい思想に魅入られ、変わってしまった。私は知らなかった。知らなかったんだ! 私の娘と同じくらいの年の子供ひとりに…かき集めたものを…全部詰め込むだなんて正気の沙汰ではない! …この実験は…行われるべきじゃなかった! だから私は、強引に実験を中止した。しかし、そのせいで“器”たる幼子は死に、その内から飛散したシャドウが後世に悪影響を及ぼすのは間違いないだろう。

…でも、こうしなければ…世界のすべてがいま破滅したかもしれない。“器”にされた彼も…僕にこの実験の真の危険性を教えてくれた千鶴さんにも…結果的にその命を奪うこととなって申し訳ないと思っている。私は本当に愚かな研究者だ。だが…』

「!」

『頼む、よく聞いて欲しい…くれぐれも警告しておく…散ったシャドウに触れてはいけない!』

「えっ、これ…」

 

ゆかりは父の言葉に目を見開いた。屋久島で見たときのビデオと言っていることが微妙に違ったのだ。

 

『この研究…私は止めることが出来なかった…悪魔に魅入られたご当主の耳に、私ごときの言葉は届かなかった…あれらは器から離れれば互いを喰い合いひとつになろうとする…そしてそうなれば、もうすべてが終わりだ! 彼が…器たる彼は…最後までそれを食い止めようと耐えていてくれた。だが…それももうダメだった。だから私は…いや、これを見る誰かには関係のない事か…

……もう一度言う…散ったシャドウに触れてはならない! ましてや、彼のような“器”を作ったりしてはならない! 彼のような犠牲者がでるのは彼ひとりで終わりにしなければならない…! 二度と…未来ある子供を犠牲にするなど…そんなことは絶対に許されてはならないはずだ!』

「これ…ホントの記録…幾月が、イジル前のホントの……父さん、実験を止めようとしてたんだ…」

 

幾月の話によれば都合の悪いところに手を加えたという事だったがこれは屋久島で見たものとある意味真逆の内容ともいえる。屋久島の時は成功に目がくらみ、当主のいう事をきいてしまったという内容だったが、これは途中からちゃんと止める様にと進言していたようにも聞こえる。

 

『僕はもう…助からないでしょう…』

 

『最後に…ひとつだけ…いや、ふたつ…ひとつめは…これを見たどなたかが、娘に…ゆかりに会うことがあったら、伝えてほしい…帰るって約束したのに、こんなことになって、済まない…でも父さんは、おまえと一緒に過ごせて…この世の誰より幸せだった。…愛しているよ、ゆかり。どうか、元気でいてほしい…』

「お父…さん…」

『ふたつ目は──…“幾月修司”という男に…気をつけてくれ……やつにだけは…この記録が渡ることがあってはならない…! やつこそ、ご当主と共に悪魔に魅入られ……“器”である有里渚くんと、彼を庇った桐条千鶴さんを弄んだ外道だ…! だからこそ──』

 

言葉は最後まで聞こえることは無く、瓦礫の崩れるような轟音と、何かが爆発するような爆音にかき消された。

 

「お父さん!? お父さんッ!!」

 

10年前の記録だというのにゆかりは叫んだ。ノイズが走り、記録していたカメラが焼けたのか、映像はそこで終わってしまう。

 

「うう…ううっ…」

 

唇を噛みしめ、下を向いて涙をこぼす。しばらく涙をこぼし続けたゆかりは顔を上げた。

 

「でも、無駄じゃなかった…信じてたこと、無駄じゃなかった…」

 

父は最後まで実験を止めようとしていたし、その結果を悔いていた。だからこそ、再三この記録で2度としてはならないと言い含めていた。悲劇的なのはこの記録が一番渡ってはいけない者の手に渡ってしまったことだ。

幾月についても警告していたというのによりによってその幾月の手にこの映像が渡ってしまい、改ざん捏造され、事実が歪められた。そして結果的に“滅び”は来てしまうこととなった。だがそれでも、自分たちががんばればなんとかなるかもしれないと滅びを呼ぶ者自身から言われている。ゆかりは、“理不尽に立ち向かう決意”を新たにした。

 

「私は、元気だからさ…随分かかっちゃったけど…メッセージ、ちゃんと受け取ったよ」

 

そしてそれが、新たな力を呼び覚ます。

脳裏で“イオ”の姿が光に包まれ、牛の角と翼をもつエジプトの豊穣の女神・“イシス”に覚醒した。

 

「私、なんとか足掻いてみるよ。それでいいよね、父さん…」

 

天を仰いでひとり呟いたゆかりは、そこではた、とあることに気がつく。

 

「さっきの父さんの言葉……三上先輩を死なせたって言ってたけど、三上先輩は生きてる…よね…どういうことなんだろう…」

 

首を傾げたゆかりは後に優希が死んだと美鶴から聞かされるなどと思いもよらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

11/6(金) 昼休み

 

「三上先輩、亡くなったって聞いて気が気じゃなかったけど息を吹き返したんだよね。…ホント、良かった」

「ビックリだよなー…影時間合わせたら2時間死んでたことになるんだぜ!? ……まあ、今日も奏子っちと湊は付き添いで休みみてーだけど…」

 

空席になっているそこを見つめながらゆかりと順平が話す。

5日の影時間が終わって少しした後、「優希が死んだ」と伝えられた特別課外活動部の面々はショックを受け、美鶴は寮から飛びだし病院へ向かったが他の面々は暗い面持ちをして美鶴の帰りをラウンジで待つばかりだった。

そうして1時間ほどして、美鶴からの電話で「息を吹き返した」と聞いたときは皆安堵し、脱力したものだ。正直、何の奇跡が起きて蘇生を果たしたのかはわからないが生き返ってよかったと喜んだものだ。が、かと言って完全に元気になったというわけでもなく。

 

「まだしばらくは入院だって言われてたよね。修学旅行、先輩いけるのかな…」

「どーなんだろな。ま、いけなかったらいけなかったでオレたちが土産買って来ればいいっしょ」

 

 

 

 

 

 

 

放課後

 

辰巳記念病院の病室。そこのベッドの上でぼんやりと文字と絵の書かれた紙を眺めているのは優希だ。

そしてそのベッドの脇にいるのはカウンセラーである園村麻希だった。

夕方になるまでの検査で脳や体になんの異常もないとわかった優希のこの状態は精神から来るものなのではないかと診断され、一度カウンセリングをしていた麻希がカウンセラーとして呼ばれたというわけだ。

だが、その途中経過でさえも芳しくない。指示や問いかけなどの言葉を優希が聞き取れていないどころか、麻希を麻希だと認識していないのだ。忘れているのではなく、認識できていない。両親や友達だったらしい人間の事も認識が出来ていないようだという報告書を手に、麻希は悩んだ。

それでも、弟妹である湊と奏子の顔をちゃんと見てその言葉を理解しているようだったので、それ以外の認識能力がガタガタに落ちているのではないかと予測した。

例えば、麻希が「これは何か言える?」と指をさしても無反応だが、湊や奏子が「これは何か言える?」と指をさして聞けば紙にゆっくりとだがその物の名前を書くのだ。

発声もうまくいっていないようで口を何度か動かすようなそぶりを見せるが声を出せないようで本人も少し困っているような雰囲気を感じた。感情の色が無い表情であるのに何故声が出ないのだろう、と不思議そうにするのだ。

トイレに行ったり食事をとったりなどの日常生活能力に問題はないようなので、本当に人間の判別と認識がぐちゃぐちゃだという事だけが問題らしい。

 

「お兄ちゃんごめんね。園村先生が居るし私と湊、小父さんと小母さんのとこに行ってくるから待っててね」

「……、…」

 

奏子の言葉に視線を湊と奏子の方にのろのろとやった後、小さく首を縦に振り、優希はこくりと頷いた。そして部屋を出るまで見つめると、視線を下に向けた。

 

弟妹である湊と奏子、どちらかが部屋から離れようとするとまだ体力が回復しきっていないのに立ち上がり、点滴を外してついていこうとするのも問題といえば問題かもしれない。その度に、「トイレに行くから」「購買に行ってくる」などと行先を告げて待つように弟妹が言うと大人しくベッドに腰掛けたまま待つが、こうして麻希がいるからと2人が同時に居なくなった途端に人形のように下を向いて1点を見つめたまま動かなくなるのは少し怖いな、と麻希は感じてしまった。

 

前回、カウンセリングを受けに来た時の彼はあんなに普通だったというのに、一体何が起こってしまったというのか。

麻希が感じていたあのペルソナの気配ももうしない。その代わり、それよりももっとぞわぞわとする嫌な気配がするのだ。だがそれが何か麻希にはわからない。もしかしたらこの無機質な、表情を浮かべなくなってしまった顔に対する恐怖なのかもしれない、と彼には悪いが麻希は思ってしまった。

なまじ顔が整っているだけに、無機質な表情をされてしまうと精巧な人形のように見えてしまうのだ。僅かに呼吸をしているのでそれでようやく生きているのだとはっきりと理解が出来ているが、これで呼吸が浅ければ生きているなどと到底思えないだろう。

 

「三上くん、私の声が聞こえてないかもしれないけど、もし聞こえていたら首を縦に振って返事してくれるかな?」

「……」

 

やはり、反応は無い。相変わらず顔を下に向けて微動だにしない。

その様子にふと、麻希は前回のカウンセリングの時にあった不意に無表情になった時を思い出した。

あの時の雰囲気と今の雰囲気はよく似ているような気がするのだ。つまり、今の彼は無意識だという事にならないだろうか。

そもそも意識を向けていない・意識を保てていないから、弟と妹以外の世界のなにもかもを認識できていないのではないか、という仮説が組みあがるが如何せん材料が少なすぎる。

これはカウンセリングよりも弟と妹と一緒に行動していた方が少なくとも彼ひとりでなにかするより早く回復しそうだ、と麻希は思った。こういう精神的なものというのは、誰かがきっかけになって回復につながることもある。なら、今一番認識が出来ていて興味をもっているのが弟妹なら、そうするほかないと判断したのだ。

 

園村は湊と奏子、そして養父母が戻り次第カウンセリングを終了し担当医にそのことを告げ、体調がよくなり次第退院して兄妹で生活させた方が良いことを伝えた。元々寮暮らしだったようだし日常生活能力にも問題は無いとすればこのようにあまり人が来ないだろう病院にいるよりも知り合いばかりらしい寮に戻った方が良いと思ったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

出された夕食を食べた気がするが何を食べたのかわからなかったし何も味がしなかった。

 

「……」

 

食べなくてはいけない雰囲気を感じ取ったのでなんとなく口に運んで咀嚼した。ただそれだけだ。

相変わらず、自分が何なのかわからない。声も出ない。どうやらこれまでの記憶だけではなく、声の出し方も忘れたらしい。

自分が『優希』という名前であるのと昨日手を握ってきた誰かが“桐条先輩”という名前だという事だけは分かった。そして後ふたりいる誰かが養父母らしいことも分かった。

けれど自分にはどちらがどちらなのかいまだに判別できない。

そしてまた、今日も誰だかわからない人が来た()()()

相変わらず声も言葉もわからなかったが、奏子曰く、「前にお兄ちゃんがお世話になったカウンセラーの園村先生」だという。お兄ちゃん、というのは自分の事だ。たぶん。

つまり、園村先生という人に世話になったことがあるらしい。わからない。

当然だ、顔も声も、どんな服を着ているのかすらわからないのだから。

 

奏子と湊以外の物に色も匂いも何もついていない。更にぼやけている。音も声もすべて同じふわふわとした奇妙なものに聞こえる。奏子と湊以外の何も認識できない。片方が離れるとすごく不安になるし、2人が居なくなるとこうして身体の自由が効かなくなって考えることしかできなくなる。

そんな自分が変らしい、というのは2人の反応を見ていれば分かる。

 

こうして頭の中で考えをぐるぐると回していることしかできないが、頭の中で考えるのと実際の体の動きの速さがあまり比例していない気もする。

非常に緩慢にしか身体を動かせないし動かそうと思わないのだ。ひどく、億劫というか。気力がわかないというか。それに、『怠い』や『億劫』や『眠い』以外の何かを感じる事があまりない。わからない。

腹が減る、という衝動があるのは知識として覚えている。けれど、それがなにかわからない。

もしかしたら、記憶を失ったせいでこうなっているのかもしれない。なら、少しずつでも拾っていくしかないのだろう。自分の周りに落ちているのを何となく感じるなら、それを拾うことによって何か思い出せるかもしれない。たとえそれが、思い出したくないモノでも思い出すしかないのだという事はわかる。

あまり感情というものがない今の方が受け止められるはずだ。

 

何を言うのか。

絶望し、慄き、恐れ、嘆き、苦しむからこそ()()()のではないか。それすらできないのなら人形以下だ。

 

……。

いま、自分は何を考えていたんだろうか。

自分は奏子と湊の兄だ。それ以上でも以下でもない。だが、兄だというのに2人の記憶が無ければ意味がない。とりあえず、2人に関係してそうな記憶を手繰り寄せよう。

 

──と思ったが中々うまくいかない。それはそうだ。自分の自由で記憶が思い出せるなら苦労はしない。なんだか、前にもこうして悩んでいたような、悩んでいなかったような。

 

脳裏で、炎が揺らめいた。

そして一瞬にして景色が目を閉じている暗闇から住宅街の道路に変わる。

自分の体も小さく幼稚園児ほどの背丈しかなく、視界に映る景色がやけに大きい。

 

「有里、ナギサくんだね?」

「──おじさん、だあれ? どうしてぼくのなまえ、しってるの?」

 

ボールを持ったまま、見上げる。ウェーブがかった髪の、メガネをかけた冴えない男が逆光の元、そこに立っていた。どうやら、自分の名前は有里ナギサ? というらしい。優希という名前ではなかったのか。それとも、これは別の誰かなのか。

 

「おじさんはね、きみが必要なんだ。だから、こっちへおいで」

「しらないひとについてっちゃだめっておかーさんが言ってたからやだ!」

 

踵を返して公園に戻ろうとした瞬間、首根っこを掴まれ、声を出す間もなく口と鼻を塞がれる。

 

息が出来ない。

 

息が出来ない。

 

息が出来ない。

 

息が出来な──

 

──目を開いた。

気がしただけだった。場面が変わったらしい。どうやらこのまま上映会を続けるようだ。

今度は自分が自分と思しき子供になっているのではなく、それを外からぼんやり見ているような感じがする。

 

「わああああああ!!! やだああああ!!! 痛い痛い痛い!!!」

 

手術台のようなものの上で幼い頃の自分と思しき子供が泣き叫んでいる。だがそれもすぐに止む。薬を打たれ、ぐったりとしてそれからしゃべらなくなった。

自分には、その時の子供の感情も痛みもわからない。まるで他人事の様だな、となんとなく思った。恐らくこれは自分の事だろうに、何も感じない。ただただそうだったという情報しか読み取れない。

 

また場面が変わった。

白い病室のような部屋で点滴をつけたあの子供(ナギサ)がひとりでぶつぶつと何か話している。

 

「だいじょうぶ…だい、じょうぶ…ぼくはおにいちゃんだから…ぼく、ぼくは……ぼくは、ありさとなぎさ…みなとと、かなこの…おにいちゃん……せんせいのいう…せーはい、なんかじゃ…ない…」

 

成程。奏子と湊の兄と言っているのならば、やはり彼は自分というわけだ。

そう理解したのに自分はこの時の記憶がよみがえってこない。あくまでも、そういう事実があると受け止めただけだ。

 

「おうち…かえりたい…ひとりはやだよ……たすけて…おかーさん…おとーさん……くるしいのも、いたいのも、もうやだよ…」

 

ぽろぽろと涙をこぼす姿は見ていて痛々しい。けれどそれだけだ。

 

感情が動かない。

 

なにも、感じない。

 

おかしい。自分もこうして人並みの感情があったはずなのだ。だというのに何も感じないままで、本当に弟と妹を救えるのだろうか。思いやれるのだろうか。兄として、やっていけるのだろうか。

……わからない。

 

「……きみたちは、だあれ? どこからきたの…?」

 

ふと、目の前の幼い自分が虚空を見つめて呼びかけ始めた。自分には、何も見えない。なにもいない空間が広がるだけだ。

 

「だめだよ…ここにいたら、ひどいことされちゃう……え? だいじょうぶ? そうなの?」

 

どうやら、目に見えないなにかと会話をしているらしい。

表情が少し明るくなっている。

 

「ふたりとも、ぼくのともだちになってくれるの? ほんとう? うれしいな…! ぼくね、ここにきてから、ともだちいなかったから…えへへ…」

 

目に見えないないかを友だち扱いしだした幼い自分は気でも狂ったのだろうか。

否、今の自分だって他の誰かから見れば十分気狂いだろう。それを言うのは野暮というものだ。

 

また場面が変わる。

ベッドに腰掛けて──はいない幼い自分はリノリウムの床に座りながらクレヨンで画用紙になにか絵を描いているようだった。幼い我ながら、壊滅的に画力がない。いや、幼稚園児くらいの年齢といえばこの程度か。

 

「おいしゃさん、みたいなおじさんは…ぼくのこと、た…たづ…たび…“たじゅーじんかく”じゃないかって言ってた。たぢ…たじゅーじんかくってなにかな? “もるふぇ”はわかる?」

 

何度も噛みながら幼い自分はまた見えない誰かにその日あったことを話しているようだ。

 

多重人格。

解離性同一性障害と呼ばれる神経症ではなかっただろうか、と傾げられない首を傾げた。

たしか、己のキャパシティを超えて虐待されたりトラウマを持ってしまった子供の中に全く別の人格を作り上げ苦しみや痛みの知覚だったり記憶だったりを無かったことにする(別の人格に押し付ける)といった感じの病気だったはずだ。自分の知識があっているかどうかはわからないが。

だが記憶にはないが知識にはある多重人格の要素として、『それぞれの人格は別の人格があると認知できない』という事柄を見た事があるような気がする。ならばこれは多重人格ではなく普通に幻覚を見ているんじゃなかろうか。

どのみち、こうやって逃避してしまうほどに幼い自分が耐え切れないほどの苦痛と苦しみを受けた事には変わりないが。

 

「わかんない? そっか。むつかしいはなしだもんね。あ! でもね、今日ね、ちづるさんにね、かんじをかけてえらいねってほめられたんだよ!」

 

どうやら最低限の勉強はさせてもらっていたらしい。漢字を書けてえらいと言われているのならやはりまだ小学校の入学前だったんだろうか。それとも、入りたてか。まだまだ親が必要な幼さに変わりはない。

 

「ちづるさんのことはね、すき。大人になったらケッコンしよーっていわれたようちえんのマリちゃんよりすき」

 

ようちえんのマリちゃん。

彼女は幼稚園児によくある口約束であり小学生になればすぐに忘れ去られてしまうような甘酸っぱい約束を交わしたのにもかかわらず、幼い自分の中で『ちづるさん』という女性に負けてしまったらしい。同い年の幼稚園児より幼稚園の先生の方が好きになる事はままある、と特に要らない記憶だけ蘇る。

 

「ちづるさん、おかーさんみたい。……ぼく、いつになったら帰れるのかな…いま、なんがつなんにちなんだろ…“もるふぇ”は、わかる? …わかんない、よね…」

 

『ちづるさん』という女性の事を母親代わりとして見ていたのか。

これならベクトルが違う。だが幼稚園児なら母親に向ける『好き』と恋愛としての『好き』の方向性は同じなので結局は同じものだ。たぶん。

少し気になっていた、落ち込んだ自分が先ほどから呼んでいる『もるふぇ』という名前は見えない友達とかそういう物だろう。何だか、その名前だけは少し懐かしく感じる。あと少しで手繰り寄せそうな、そんな感覚がするがまだ何か足りない。

 

 

 

 

場面が変わる。

赤い髪の女性が屈んで虚ろな目の幼い自分の手を取っている。

 

「いい、ナギサ。あなたはこうしてちゃんと生きてるひとりの人間なの。願いを叶える道具なんかじゃないの」

「う、ん…」

「……何かを願わなくてはいけないのなら、私は貴方に願うわ。お願い、“人間として生きて”」

「にんげん…? いきる…?」

 

幼い自分はぼんやりとしたまま不思議そうな顔をした。

彼女の思いやりが伝わりそうな場面だがこれさえも実感がわかない。本当にこんなことを言われたのだろうか。

もっと、もっとそれよりも前に、誰かに別の事を願われていたような、そんな気がする。

祈りのようなそれを、どこかで、聞いたような。ないような。どうにも思い出せない。

 

…記憶を利用できないのは厄介だが仕方ない。流石においそれと取り出せぬほどにバラバラに砕けて散らばってしまっているのだから。

砕け散って残った上澄みである聖杯としての機能が『前回』の人形と同調し、かろうじて人間性を補った上で出来上がったのがこの不良品。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。まあ、壊れる以前の人格も出来損ない極まりないものだったが。

 

……?

いま、自分は何の考え事をしていたんだろうか。

たまにこうして思考が飛ぶことがあるがやはりトラウマなどが起因しているのだろうか。

自分では知覚できないレベルで精神的にダメージを受けている…のだろう。記憶が全部ふき飛んで他者も何もかもも認識できなくなっているくらいだ。

思考だけが冴えわたっても意味がないというのに。

 

場面が変わる。

炎と瓦礫に囲まれ、血まみれになった幼い自分がひゅうひゅうと息も絶え絶えになって虚ろな目で月を見上げている。

これは死んだだろう。そう思うのにまだ生きている幼い自分に驚く。

そんな幼い自分の目の前に、濡羽色の夢魔(しにがみ)が佇んでいた。

 

『ごめんね…ごめんね…ぼくたちが居たせいで…ちづるさんも…ナギサも…こんなことに…でも、死なせない。絶対にぼくがきみを救うから…だから、もう少しだけ、頑張って』

「………、」

 

何かを話そうとしてそのまま言葉を発せなかった幼い自分を抱え、夢魔は緑の夜空を飛んだ。

こんな状況でも意識を失えていないというのは大変だな、という的外れな感想を抱きつつ、どこまで飛んでいくのかと見れば大きな橋まで来てそれは降り立った。

 

『兄さんとあの子が戦ってる……そっか、ぼくは“違う”からさっきは分からなかったのか…でもここから先に行けばあの子と交戦することになる…死にそうなナギサを抱えてなんて…行けない…なら…』

 

幼い自分を地面に下ろした夢魔は光に包まれる。

 

『飛び散った12のシャドウ…それに兄さん…ぼくはなりそこないだけど…一度喰らってしまえばどうなるかわからない……だから、ナギサは…辛かったことやぼくらの事は忘れて、無縁の生活を──』

 

それは祈りに近い何かだった。光になった夢魔はそのまま幼い自分の中へと吸い込まれていく。

しばらく何も起こることはなかったが、不意にぴくりと幼い自分の手が動いた。

 

「……?」

 

立ち上がって訳もわからない、といった風に橋の上にある道路をフラフラと歩き、すぐに倒れる。怪我が治ったんだろうか。よくわからない。

 

そして場面が変わった。

どうやら、どこかから落ちているらしい。夢魔と一緒に落ちている。

びゅうびゅうと、風が幼い自分を切る様に鳴っている。海が、眼下に見えた。

 

『どうして、どうして、どうして、いつもこうなるの! ああでも、今度こそ──ぼくらのことは忘れて。忘れられなくても、ぼくが、ぼくが封じて見せる。絶対に思い出させなんかしない──!』

 

金切声をあげるようにそう叫び、自分を庇うように夢魔の黒く大きなカラスのような翼が開かれる。

だが、それで飛べるわけもなく。大きな水しぶきが海にあがった。次に見えたのは暗い海。

暗くて冷たくて重い海。

 

混沌の、海。

ずるずると、全身に纏わりつかれる。侵蝕されるような感覚がする。

 

違う。こんなもの、知らない。海はこんな気持ちの悪いものではなかったはずだ。

ああ、気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 

 

 

 

「……ッ!」

 

今度こそ、本当に現実で目が開いた。

息が乱れている。ひどく疲れてもいる。とても眠い。

眠いのなら、寝てしまおう。それがいいと教えてもらった。

 

それを教えてくれた養父(ひと)の事は結局まだ思い出せないけれど。

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