君、死にたまふ事なかれ【本編完結】   作:月瓜里

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教えられること。そうでないこと。(11/7~11/9)

11/7(土)放課後

ひとりで発声の練習をしようと口を動かしていたが中々うまくいかない。

湊と奏子が居ないと思考はともかく身体が思うように集中して動いてくれないのだ。もう少し誰もいなくても動いてくれたっていいのかもしれないが、これはこれで致し方ないのかもしれない。

未だ自分が何かの実験をされていてとんでもないストレスを受けて記憶をなくした幼少期がある、という事しかわかっていない。それも記憶としてよみがえったのではなくそういう情報があったと知っただけだ。

湊と奏子に関しても、何が好きだとか自分となにをしたのかとか何から2人を救わなければいけないのか、とか何もわからない。ただ、目を離すとどこか遠い場所に行ってしまいそうで、すごく不安になる。

いまでさえ、実を言うと落ち着かないのだ。落ち着かないのに身体は動いてくれないし、練習は上手くいかない。しかしそれ以外の感情があまり浮かばないのには困りものだ。未だに顔も姿も声も分からない養父母らしき人がなにかしてくれているみたいなのだが感謝の言葉すら伝えることが出来ていない。

文字も絵も、湊と奏子に指し示してもらわないと理解が出来ないのだ。読めているはずなのに、脳が理解をしていないのか、そこの所は医者では無いのでよく分からないがそんな気がする。

妹と弟に頼りっぱなしというのは本当に()()()()()と──……

 

ああ、そうだ、なんとなく自分はこんな感じでダメで情けない兄だったような気がする。なにか大事なことを隠していて、それでよく、湊と奏子に呆れられたり叱られていた。

なんのために隠していたんだったか。そこを思い出せれば記憶も芋づる式に出てきたりしないだろうか。

 

「っ……ぅ…」

 

頭が痛い。

痛い、が気持ち悪くは無い。

……どうして自分は気持ち悪さが同時に来ると思ったのだろうか。

もしかしたら、これも何度かあったことなのだろうか。記憶を失う前の自分も、何かを思い出そうとして頭痛と吐き気を覚えていた?

つまり、必要があって幼少の頃の記憶を求めていたという事なのだろうか。ということは、あの夢魔(しにがみ)と実験に関することが湊と奏子を脅かすモノのヒントなのでは。

 

「……」

 

かといって記憶を思い出すきっかけも情報も何もない。声も出せないし湊と奏子以外を認識できないのでそれ以外の人間から情報を引き出すこともできない。

正直、詰んでいる。

そもそも、自分がこうして記憶をまた飛ばしているというのは明らかに何かがあった証拠ではないのか。

一度死んだと言われたがあくまでも持病の発作によって仮死状態に陥っただけらしいと聞いている。そしてあのふたりの様子からして、それ以外にも何かあったに違いない。

 

──ふたりに訊けば、教えてくれるのだろうか。

学校が終わり次第見舞いに来てくれるという話らしいのでその時に訊いてみよう。それではぐらかされたら、それはその時だ。食い下がるか諦めるかはその時考えよう。

それよりも今は友だち…らしい桐条先輩なる人について思い出した方が良いような。なんとなく、そんな気がする。

 

 

 

 

「たのもー! お兄ちゃん、元気~?」

「奏子、いくらここが他のとこと離れてる特別な部屋でも病院は静かにしなきゃ」

「湊さんの言うとおりであります。病院は静かにすべきだと私も教えてもらいました」

「はーい…」

 

病室のドアを開けて湊と奏子と──奏子と同じ制服を着た金髪の女の子が入ってきた。

湊と奏子以外で初めてちゃんとはっきり顔と声と言葉がわかる。

 

「あ、お兄ちゃん驚いた顔してる…? どうしたんだろう」

「さあ…」

 

今の自分は驚いた顔をしているのだろうか。そこのところも自分でもよくわからないがそう言われているのならそうだろう。つまり、これが『驚く』という感情なのだろうか。

……よく、わからない。

そもそも、感情というものは言語化できるものではないのではなかろうか。

 

「! アイギスの方を、見てる…?」

「わたし、ですか? ですが優希さんはいま、湊さんと奏子さん以外を認識できない筈では? 美鶴さんでさえ認識できなかったというのにどういうことなのでしょうか」

 

自分でもよくわからない。ただ、彼女の名前はアイギスというらしい。青い目に金髪という装いは帰国子女だからなのだろうか。それとも、留学生か。

 

「ね、お兄ちゃん。アイギスのこと、わかるの?」

 

わかる、というのが視えているもしくは認識できているという意味なら自分は彼女の事が()()()()()

頷けば、奏子と湊、そしてアイギスと呼ばれた女の子が目を見開いた。しかしすぐに表情を入ってきた時のものに戻す…どころかアイギスは少し落ち込んだような顔になってしまった。湊と奏子以外で顔がちゃんと認識できる人が初めてだったのでこちらとしても(恐らく)驚いて見つめたのはダメだったのだろうか。

 

「優希さん、あの日は申し訳ありませんでした。たとえ幾月に操られていたとしてもわたしは…湊さんと奏子さん、そして優希さんを守ることが大切なのに」

 

突然謝られたが意味が解らない。あの日、というのはなんなのか。

養母(だと言われた顔の見えない誰か)に買って来てもらったスケッチブックに三色ボールペンのどれかよくわからない色で文字をゆっくりと書いてそれを見せる。

 

[自分にはわからない。幾月という人は誰なのか。あなたが誰なのか]

「っ…」

 

彼女が目を見開いた。違う、そんな顔をさせたかったわけじゃない。

ページを裏返して文字を書き直す。

 

[あなたの顔と声がちゃんと認識できているだけであってあなたに関する記憶は無い。なのでわからない]

「記憶が、ない…」

 

さらに落ち込ませてしまったようだ。暗い顔で下を向いたアイギスが黙り込んでしまう。

 

「優希、もしかして…僕らのことも…覚えてないとか…」

 

言葉を最後まで聞かずに頷く。正直に言えば覚えていない。

“自分は2人の兄である”という情報しかないのだ。思い出そうという努力はしている。が、そんな簡単にうまくいくはずもなく。ショックを受けたような顔をさせてしまうのは申し訳ないが下手に嘘をついて隠すわけにもいかないだろう。

再びボールペンを手に取ってベッドについている机の上で文字をガリガリのろのろと書く。3人は丁寧にも待っててくれているようだ。

 

[自分が2人の兄だという事実以外何も覚えていない。思い出そうとはしているが上手くいっていない。なのでとにかく説明と情報が欲しい]

「……」

「……」

 

湊と奏子が無言で顔を見合わせる。

恐らく、こちらが記憶喪失だということに戸惑っているのだろう。仕方ない。それはそうと、アイギスまで黙ってしまうというのは余程言い難いことなんだろうか。

 

[こちらのことは気にしなくていい。何を言われても今は特に何も感じないのでそういう事があったのだと受け止めるだけ]

 

時間はかかったがそうスケッチブックに書いてみせれば、さらに複雑そうな顔になった。何故なのだろうか。こちらとしては遠慮しなくていい、という意味で書いたつもりが却って彼らを困らせている。

 

なぜそんな顔をしているのか、訊いた方がいいのだろうか。

自分には、わからないから。

理由がわからなければ対処のしようがないから。

 

「どうする、湊? お兄ちゃんはああ書いてるけど…」

「どうするって…何も感じない、の範囲によるでしょ…」

 

ひそひそと話し合いをしているようだがちゃんと聞こえている。困らせてしまうことになって少なからず悪いな、という思いが湧くがそれが顔と口を動かすほどのものにはならない。

 

「あの、何も感じない、というのは“悲しい”も“嬉しい”も、何もかもですか?」

 

アイギスの言葉に頷く。

かつての自分にされたあの所業を見ても何も思わなかったのだ。心を動かされなかったのだ。

もしかしたら自分の体験だったせいかもしれないが、そんなに悪いことなのだろうか。

わからないことだらけで、なにひとつ答えが出ない。

 

[自分にはわからない。幾月という人は誰なのか。あなたが誰なのか]

「っ…」

 

兄の見舞いに来た奏子と湊は、優希に謝ったアイギスに向けられたその言葉(もじ)にアイギス自身が目を見開いたのをはっきりと見た。否、それだけではない。アイギスが悲しそうな顔になったのを見た優希は無表情な顔を動かすことなく再びスケッチブックに向かい、ページを裏返すと新しい文字を書き始めた。そして書き終わるとそれを見せる。

 

[あなたの顔と声がちゃんと認識できているだけであってあなたに関する記憶は無い。なのでわからない]

「記憶が、ない…」

 

アイギスが明らかに落ち込む。

湊はアイギスがこうしてこれまでの12月以降のような感情の発露を行うような行動が増えているような違和感を感じていた。感情の発露自体は喜ばしいことだ。というより、アイギスには元から感情があるのだ。なのでどちらかといえば人間性の獲得といえばいいのか。

それが『前回』以前より早い気がするのだ。未だアイギスの精神を構成するものの殆どがこれまでのアイギスのままだが、明らかに表情豊かになりつつある。

そしてそれが無表情になりアイギスよりロボットらしくなった兄との対比のようにどうも思えてならない。

まるで、兄が人間性を失って無機物にでもなってしまったとでもいうのか。そんなことはない。

兄の身体は柔らかく脆い肉のままだ。機械ではない。

そうやって思考していた湊だったが、ふ、とあることに気がつく。文字であろうともこうして一応会話のできる兄が今までこちらに何の会話の切り出しも行わなかったことに。

兄の性格が元のままで自分たちの兄という事を自覚して記憶もあるなら「自分はどこまで覚えているのか不安だから確認してほしい」くらいのことは言わ(書か)ないだろうか。

それ以外の話題すらも出さず、首を横に振るか頷くことしかしなかったというのは、まさか。嫌な予想が浮かぶ。

 

「優希、もしかして…僕らのことも…覚えてないとか…」

 

最後まで言葉を聞くことなく、優希が頷いた。

そのことに今度は湊と奏子が青ざめる番だった。

 

[自分が2人の兄だという事実以外何も覚えていない。思い出そうとはしているが上手くいっていない。なのでとにかく説明と情報が欲しい]

「……」

「……」

 

湊と奏子は書かれた文字に青ざめたまま顔を見合わせることしかできなかった。

誘拐されて惨い実験の被害に遭い、三上家で再会した時でさえふたりの事は忘れなかったと言っていて確かに忘れていなかった兄がここに来て何もかもを忘れてしまっている。

その事実に、あの男(幾月)が兄にしたことがどれだけあの時の兄にとってどれだけ大きなダメージを与えたのか、改めて思い知らされた気分だった。

本当に全て吹き飛んでしまっている。まさか、目を覚ました時に自分の名前すらもわからなかったのではというさらに嫌な予想が浮かんだがこれを聞いてしまえば耐え切れそうになかったので湊は出かかった言葉を呑み込んで考える。

本当に、全て教えていいのだろうか。

本当に、あの衝撃的な事実を伝えてもいいのだろうか。

本当に、これからの戦いにこんな兄を巻き込んでいいのだろうか。

何もかもを忘れているというのなら兄にはこのまま自分たちの帰りを待ってもらうだけは駄目なのだろうか。

そうすれば、自分は死んでも兄は死なない。死ぬことが無い。

ぐるぐると、なんとか優希を巻き込まない方向へもっていかなければと思考していた湊のそれが、兄が再び提示したスケッチブックの文字にかき消される。

 

[こちらのことは気にしなくていい。何を言われても今は特に何も感じない。そういう事があったのだと受け止めるだけ]

 

こうなってしまった兄はなぜか妙に聡かった。

まるで、今まではわざと知らないフリや人の話を聞かないふりをしていたのではないかと思うくらい、情けなくも優しいいつもの兄ではなかった。

そもそも困ったように笑って眉を下げることも無ければ、半ば口癖のようになった「大丈夫」も「ごめんね」も発することが無いのだ。

直接的に、遠慮も何もなく必要なことに向かって突き進んでいるような、そんな印象を抱いた。そして無表情であるのにどこか焦っているように見えるのも気のせいではないのだろう。

あれだけ表情豊かだった兄が、こんな風になってしまったことに痛む心と悲しむ心は湊にはあった。これは、事故直後の無表情になったと言われた自分よりも酷い。そう自分を棚に上げながら湊はそう思った。

 

「どうする、湊? お兄ちゃんはああ書いてるけど…」

「どうするって…何も感じない、の範囲によるでしょ…」

 

顔を見合わせて相談し合う。

はっきり言って『何も感じない』の範囲がどれほどなのか、湊にはわからないため教えることに抵抗があった。

 

「あの、何も感じない、というのは“悲しい”も“嬉しい”も、何もかもですか?」

 

おずおずとそう訊いたアイギスに躊躇いなく即座に頷いた兄を見て、湊は思わず表情を歪めた。

『“悲しい”も“嬉しい”も、何もかも感じない』。

それはどう考えても兄の心が壊れている証拠に違いない。なぜもっと早くそのことに気がつけなかったのか。言われてみれば、違和感はいくつかあったのだ。

まずは食事。以前の兄なら僅かでも頬を緩ませていたその行為を、ひたすら黙々と無表情で作業を行うようにしていたのがおかしい。

そして、上手く具を箸で掴めていなかった事にも違和感がある。ペンを持つ手は別に震えていなければ緩いというわけでもない。箸も綺麗に持てていた。だというのに出された病院食のおかずや汁物の中の具をうまくつかめていないようだったのだ。そこにそれがあるというのがよくわかっていないようなそんな感じだった。味についても奏子が聞いた「おいしい?」という言葉に頷いただけだ。今のようにスケッチブックに文字を書くことはしていない。

その次に、湊や奏子の言葉やいつものやりとりに笑うことも困ったような顔もすることなくただただ観察するように無表情に見つめていただけというのも違和感といえば違和感だっただろう。

 

昨日、兄の傍からあまり離れてはいなかったがそれがわからなかったのは、あくまでも体調が悪いせいだと思っていたからだ。まだ体調が悪く、夢見心地でうつらうつらしているのだと。だから誰も認識できていなかったのだと。言葉も喋れない分、ただただ純粋にそう思った返事の為に頷いているだけだと。

だが、得られた情報から考えると兄は深夜はともかく昨日ちゃんと朝起きてからはある意味で素面または正気の状態で何も感じていないので言われたことに適当に頷いているだけだったというわけだ。

 

正気なのに、他の人間の事が認識できていなかった。何も感じていなかった。感情の動きが無かった。

湊は頭が痛くなってきた。恐らく、隣にいる奏子も同じ答えにたどり着いて内心で頭を抱えているに違いない。

だから園村麻希(あのカウンセラー)は白旗をあげて「元気になり次第退院させて、療養しつついろんなことに触れさせてあげてください」と自分たちや養父母に言ったのか。

 

「…優希、今の自分の状態で答えられる範囲でいいからまずは僕らの質問に答えてくれないかな。それからじゃないと何も教えられない」

 

そう湊が言えば、小さくこくりと頷いた兄はスケッチブックとペンを持って質問されるのを待った。

 

──結果、分かったのは

・今の自分は優希という名前であること。前の名前?はアリサトナギサ(漢字はわからなかった)ということ。

・何らかの実験を受けて記憶を失った幼少期があったという情報だけは持っている(思い出した?らしい)

・上記の記憶を思い出し?ても何の感情も浮かばなかった。他のものごとに対してもあまり何も感じない。感情とは何か。

・声を出す方法を忘れた。どうやってだせばいいのか。

・食事に関しては匂いも味もしないし見た目もほとんどわかっていない。食べなければいけない雰囲気を感じたので食べただけ。

・いまのところ湊と奏子、アイギス以外の人間が声も顔も姿もすべてぼやけて一緒に見える。匂いも同じ。

・なので認識できていない人に話しかけられてもその内容がわからないので答えようがない。

・勉強に関することや、一般知識はある。が、自分が義務教育中なのかフリーターなのか高校生なのか大学生なのか、社会人なのか、立場が全く分からない。

・ただ、2人の兄だという情報と2人を救わなくてはならないという情報しか持っていない。何から救うのかは不明。なるべく早く知りたいので早く思い出したい。

・影時間? ペルソナ? わからない。教えてほしい。

という事だった。

あまりの有様に湊は再び頭を抱えた。ここが病院ではなく裏路地あたりなら思わず叫びたくなってしまう情報たちの羅列だった。

 

これは全てを教える教えないのラインですらない。

 

日常生活に問題は無いと言われていたがコミュニケーションに必要な能力が壊滅している。そして最後からふたつ目の『2人を救わなくてはならない』という情報。これが今の兄を突き動かし、焦らせている原因らしい。さらに深く訊けば、2人がいないときは身体の動きが酷く重くなり、どこか遠くに行ってしまいそうだと感じて不安になるのだという。

完全に感情を失っているわけではなさそうだが激情や喜びといった発揮するのにパワーがいる感情はあまり感じないらしい。

紙に書かれている受け答えだけで、狂っているようには見えないのにその内容はとんでもないことのカミングアウトという事実。

そのことに、本当に全て教えたとして兄がすぐに記憶を取り戻せるとは思えなかった。

 

以前の兄より強情さがなくなって素直になんでも答えてはくれるが、それが尚更違和感を生む。

まるで今までの兄が死んで、この兄に替わってしまったようにすら思えてしまう。中身だけ、別人に挿げ替えられてしまったような、そんな感情だ。

だがそんなことを思ってしまうのはこうして頑張って思い出そうと、元に戻ろうと格闘している兄に失礼なのではないかという感情が鎌首をもたげる。

兄が無理をせず素直になる事は喜ばしい事であるのになぜか湊は喜べない。

 

「ん~…湊、まずは名前とか、教えても大丈夫なことからお兄ちゃんに教えよ? とにかく漢字で名前書けるようになって損はないし!」

 

いち早く復活した奏子がパイプ椅子を引っ張ってベッドの横で組み立て座る。

奏子の強いところはこういう精神ダメージからの復活が早いところだ。湊よりも切り替えが早いというべきか。

 

「わたしも、力不足ですが参加させていただきたく」

 

アイギスも横に並ぶ。その様子に湊は観念してはぁ、と溜息を吐いた。

気になる事はたくさんある。知りたいこともたくさんある。だが、今はまだすぐに答えを出すときではないのだろう。そもそもそれを聞くべき相手が何も覚えていないのだから。

 

一切表情の変わることがない優希と和気あいあいとまではいかないがそれなりに穏やかな勉強会が夕食の時間になるまで開かれることとなった。

 

 

 

 

 

 

 

寂れた教会にまばらに人が集まっている。

そこの壇上に上がったのはサングラスをつけたひとりの神父だった。

 

「死の主たるニュクスは人であろうとも人に非ずとも、貴賤に関係なく遍く全ての存在に救済を与える。そしてそのニュクスの代弁者たる我が教主の言葉を聴き、予言の通りに共に歩めば痛みも苦しむこともなく救済を得られるだろう」

 

演説するその男の横に、暗い色のローブを被り、素肌をほとんど晒していない存在が紫色の座布団の上で正座をして静かに座っている。

男か女かわからないその存在がそこにいるだけだというのに尋常ではない存在感と圧があるのだ。常人とは一線を画したその気配に、神々しさすら感じられその場にいた人間は神父の演説を聞きながら食い入る様に見つめることしかできない。

 

「救済が欲しくば“滅び”を求めよ。これが教主のお言葉である。親兄弟、友人、隣人、恋人、伴侶、子供、親戚、同僚。我々は思いつく限りの人々にこの善き言葉を伝えるべきである。さすればその伝えられた者も救済され、至上の救いを得られるだろう」

 

神父の言葉に、教主と称された人物のローブから辛うじて見える口元が綺麗に弧を描いた。

美しい女神のほほえみとも取れるような、はたまた艶めかしい娼婦の笑みとも取れるようなその無言の妖艶な笑みは一言も声を発していないというのにまるでその場にいた人々の思考を侵蝕するようにその精神を蝕み深く食らいついた。

 

──“滅び”を願わなければいけない。求めないといけない。

 

その刷り込みは、冷やかしで来ていた筈の大してこの演説に興味の無かった、特に日常的に死も滅び(救い)も求めていない普通の人間の心にでさえ、じわじわと毒が徐々に染み込んでいくように染みていった。

あれは毒蛇だ、と感じることが出来たのはいったい何人いたのだろうか。そう感じたとしてもその毒牙から逃れられたのは違和感を感じた人間の中に果たして何人いたというのか。

 

逃げるなら、演説が始まる前に逃げるべきであった。教主と呼ばれる存在と、神父が現れる前に出るべきであった。

否、もし出ようとしても既にこのカルト宗教に依存しきっている終末思想の信者に「良い話だから是非聞いて言ってくれ」「途中で出ていくなんてとんでもない」と囲まれ引き留められ出ることは叶わなかっただろう。

 

この教会に興味本位であっても入った時点で既に“取り込み”は終了していたのだ。

 

しかし神父も教主と呼ばれた存在も実のところなにも強制はしていない。

『救済が欲しくば求めればいい』。

ただそれだけだ。ただし、それを選ぶか選ばないかは本人が決めること。例え同調圧力であろうがなんだろうが、最後に選択するのは自分なのだ、というスタンスである。

圧力をかけ、洗脳するのは神父でも教主でもない。あくまで、その思想に同意している信者というひとりひとりの人間だ。教主に逃れられない圧があると、神々しさがあると個人で勝手に感じているだけだ。心が強ければそれをなんてことないと突っぱねられるだろう。だが、無気力症候群の患者が増え、事故や事件、自殺が多発しだした最近の世で、そこまで強い心をもっている人間はそもそもこんなところに来ない。

素質があるから、引き寄せられるような心の弱さがあるからこんなところに来てしまうのだ。

 

心のどこかで神仏に縋りたいから、救いを求めるから、こんなカルト宗教の集会に来ようと思ってしまうのだ。

元から、人々の心に『不安の種』は植え付けられていた。それが芽吹くかどうかは本人次第だ。

このカルト宗教──“ニュクス教”はそのきっかけを与えているに過ぎない。

 

ただ、それだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

11/9(月) 午前

黄色いマフラーにチャームポイントの泣き黒子。そしてオールバックにされた黒髪と青い瞳。制服の上着を着ずにブラウスにサスペンダーだけを付けた教室に入ってきたその人物を見た瞬間、湊は珍しくあんぐりと口を開けた。それはもう、あんぐりと。鉄仮面の崩壊も辞さないくらいに。

 

「はい、今日からまたまた、2年F組に新しい仲間が加わります。もう3人目よ? ハットトリックっていうの、コレ?」

 

担任である鳥海の言葉に教室が静かになる。が、湊の思考はそんなことは無く嵐の海のように荒れ狂っていた。なんで、どうしてこいつがいまここにいるんだ、と。

 

「……早く、自己紹介してよ」

 

空気がしんとしたので困ったように言う鳥海の言葉に急かされ、“転校生”が自己紹介を始める。

 

望月綾時(もちづきりょうじ)っていいます。わからないこと、優しく教えてくれると嬉しいな」

 

兄に似た物腰柔らかい口調でそう自己紹介したスケコマシ──ではなく綾時に湊は今度こそ現実で頭を抱えた。きゃいきゃいと行き交う女子の黄色い声なんて聞こえない。聞こえないったら聞こえない。

 

「…よろしくね」

 

ちらりと、綾時が湊の方を見てウインクをしたのをしっかりと確認した湊は、さらに深く頭を抱えた。「アレは確実に“ファルロス”だ」と確信したのととんでもない嵐の予感に胃まで痛くなってくる。こう、キリキリと。

 

「彼は、ご両親のお仕事の事情で、海外生活が長かったの。そういうご家庭なので、日本の習慣に慣れてないところもあるそうです。みんな、校則以外の事でも、親切に教えてあげてね。…さて、貴方の席だけど、そうねぇ…」

 

鳥海は教室を見渡すと丁度左から2番目の列の一番前の席が空いていることに気がつく。面倒なのでそこに誰かが居るというのも考えずにそこでいいか、と決めた。なんとも適当である。

 

「そこ空いてるわね。左から2列目の、一番前」

「!」

 

その席の主に覚えがあるらしいゆかりが鳥海を制止しようと口を開いた。

 

「あの…ですから先生、その席は、単なるサボり…」

「そういうのは、居ないのと同じって言ったでしょ? 世の中は椅子取りゲームなの。みんなも気をつけてね」

 

ゆかりの奮闘虚しくアイギスの時と同じようにサボりのクラスメイトの席が転校生の物となってしまう。そう言えば、今年の兄は病気やケガなどで休みがちだがまさか3年にも転校生が居て席が取られやしてないだろうな…?という謎の不安が襲ってくる。受験シーズンにもなって転校してくる人間は滅多にいないだろうから杞憂か、とすぐに心を落ち着けると、綾時を見る。

 

「湊くん、放課後ちょっといいかな?」

 

なぜかアイギスではなく湊に直接声をかけてきた綾時に(なんでこのタイミングで声をかけるんだ)と内心で憤りつつ頷き返した。

 

「湊さん、お知り合いですか?」

「……まあ、うん」

 

いつもと変わりないアイギスの対応に更に湊はどういうことだと頭にはてなを浮かべる。いつもなら「貴方はダメです」くらい言いそうなものなのに、何の反応もない。

 

「有里くんさ…帰国子女の転校生と知り合いってどういう関係なの?」

「幼なじみ…かな」

「へーそうなんだ。以外」

 

適当に思いついた間柄で答えたが間違いではないだろう。実際10年前からずっと一緒なのだ。ある意味、共に過ごした時間は10年超えているかもしれないが。

そうやって適当にはぐらかしつつ、放課後に向けて湊はげんなりした。一体、どんなことを言われるというのか。()()綾時には確実にこれまでの記憶がある、という謎の確信が湊にはあった。

 

 

 

 

 

 

 

放課後

3-Dの教室で、席を立とうとした美鶴の前にひとりの男子が行く手を阻んだ。

否、阻んだというよりかは用があって訪ねてきたというべきか。綺麗に切りそろえられた黒い髪に、丸い目。3年生だというのに幼い顔つきの、美鶴と同じくらいの背丈の気弱そうなその男子のことを美鶴はとっさに思い出せなかった。クラスメイトであるはずなのに、名前が出てこないのだ。

 

「桐条さん、三上くんが体調を崩して休んでるって聞いて…その…」

 

男子にしては高いその声に、美鶴は頷いた。

 

「ああ。きみは…」

「さ、朔間です! …僕、影が薄いんでよく名前を忘れられてる気が…じゃなくて三上くんの事です」

 

男子──朔間に名前を告げられ、そこで美鶴はようやく目の前の生徒の名前を思い出す。美鶴は生徒会長としてあるまじきことだ、と2度と忘れないように覚えると、話の続きを待つ。

 

「休む前の日、すごく体調が悪そうで…それで心配で…その前も何だか体調が悪そうだったので大丈夫かな、と。聞けば寮暮らしらしいのでもしよければお見舞いに行かせてほしいな~…なんて、アハハ…本音を言うと先生に三上くんへの届物を頼まれたのもあるんです」

 

なんだ、そのことか。と美鶴は苦笑した朔間に納得する。それなら寮を訪ねてもらって構わない。だが、今優希が寮にいないことを伝えなくては、と美鶴は口を開いた。

 

「済まないが、三上が寮に居るのは明日からなんだ。今日の夕方までは病院でな」

「そ…そんなに悪かったんですか…? だって、あの時は…」

 

さっと朔間の顔が青ざめた。

よほどショックだったのだろう。美鶴からみてこの朔間という生徒が優希と仲良くしているところを見た事は無かったが、この気弱そうな外見からして心はとてもやさしいのかもしれない。それか、美鶴が見た事が無いだけで校外で交流があったとか。ならば知る権利はあるだろう、と美鶴は言葉を選んで再び口を開いた。

 

「ああ、一時危篤状態に陥って…」

「え…あ…き、危篤…?」

 

青ざめた顔が青いを通り越して血の気が引いて真っ白になったような気がした。そしてそのまま朔間はへなへなと床に座り込んでしまう。

 

「お、おい、大丈夫か!?」

「あ、はい…アハハ…すみません…僕、ちょっと驚いちゃって…」

「すまない…ショックを与えようと思ったわけではない。こちらの考えが至らなかった」

 

慌てて手を伸ばせばそれに掴まって朔間は立ち上がった。

ぬかった。言葉を選んだつもりでもこの心優しい生徒には強すぎたらしい。更に言葉を選んだ方が良かったのか、それとも「今は体調も回復している」と伝えた方が良いのか。美鶴が考え込む。

 

「すみません、僕…あまりこういう話題に慣れてなくて…」

「こちらこそ、本当にすまなかった。だが安心してくれ。三上はしばらくは学校には復帰しないが体調が整うまでの間だ。じきにまた通うようにはなるだろう」

 

そう確証のない予測を伝えればはにかんで「よかった…」と嬉しそうに呟いた朔間にどことなく、優希に似た雰囲気を感じた。類は友を呼ぶとでもいうのだろうか。

 

「じゃあ…明日の放課後に先生から頼まれた課題とかプリントとか持っていきますね」

「わかった。寮の者にもそう伝えておこう」

 

そう円満に会話を終え、美鶴は生徒会室に行くために鞄を持って今度こそ立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

屋上に呼び出された湊は両手をズボンのポケットにツッコんだままそこで待っていた綾時の背に話しかける。

 

「今回はナンパしまくらないんだな、綾時」

「やだなあ、僕が毎回ナンパばっかりしてると思わないでよ、湊」

「湊くん呼びでも全然かまわないし女子とみたら誰彼構わず連絡先教えているのはいつもじゃん」

「うーん、これは手厳しいね」

 

刺々しい湊の声と言葉にくるりと振り返りやれやれと肩を竦めた綾時は本題に入るために口を開いた。

 

「湊が聞きたいのはどうして僕がいまここにいるか、だよね?」

 

その言葉に湊がこくりと頷く。

 

「もちろん、死の宣告者としての記憶を封じて束の間の日常を味わいに──ではないんだよね…はっきり言ってどうして僕がここにいるのか僕にもわからないんだ」

「どうせそんなことだろうと思った。最初から期待してない」

「酷いなあ」

 

しょぼん、と肩を落とした様子の綾時を湊が真顔で受け止める。

そもそも、本来のデスであるはずのファルロスが死の宣告者になれずに湊と奏子から分離したとなればその役目はファルロスもとい綾時のものではないし記憶を消して日常を謳歌する必要もないのだ。

 

「無理やり2人から引き剥がされる感覚はあったんだけど、それが何者によるかはわからないし僕はただの人間みたいになってるし、わからないことだらけだよ」

「それっていつ?」

「……4日の朝かな。気がついたらマンションの一室で目が覚めて、帰国子女って扱いになってた」

 

いつもなら、綾時(ファルロス)自身が死の宣告者として封印を解き、別れを告げるタイミングだ。そこは変わらないのか、と眉を顰めた湊に綾時が困ったように笑う。

 

「いろいろズレてきてる。何が起こるかなんてもう誰にもわからない」

「6月くらいからずっとそうだけどね」

「それはそうだね。ところで、お兄さんの調子はどう?」

 

何の気もなしに湊に訊いたのだろうその問いに湊の顔が曇る。そしてその顔の曇った湊を見て、綾時の顔も曇った。

 

「きみがそんな顔をするってことは…あまり、良くないのかい?」

「…うん。今日まで病院にいる予定」

「病院に? …なにかあった?」

 

湊は綾時に幾月が語ったことも含めてこれまでのことを説明した。するとどんどん綾時の顔が険しくなったかと思えば青ざめる。

 

「……僕以外の死の宣告者が目覚めて…ニュクスの招来を告げたんだね。これまでより早く、そして余裕がない。結論を決めるのが12月2日にだなんて彼は何を焦っているんだろう。僕と同じことをするなら、12月31日ではダメだったのかな…」

 

青ざめた顔のまま、綾時は考え込む。確かに些か早い気がしなくもない。考える時間自体は1か月間とかつての綾時が提示したものと変わりない。だが、この時期に言いだして1月31日にニュクスが来るのなら、決断をするのは12月31日でもいいはずだ。

 

「僕の場合はきみか奏子ちゃんに殺されることによって影時間に関する記憶を消すことが出来たけど…じゃあ、湊の言う、“ヒュプノス”の場合は? 誰がその役目を担うんだろう」

 

もし記憶を消すとして誰が死の宣告者となった“ヒュプノス”を殺して記憶を消すというのか。封印されていたつながりで湊と奏子が選ばれたというのなら、封印されていたわけではないが長い間その身に宿していた人物が該当するだろう。つまり、

 

「優希…?」

「どうだろう…動けそうにない彼を指定するかな…ペルソナも砕け散っちゃったんだろ? あ、でも砕けたところを見たのは複数あるうちの1体だけなのか。もしかすれば他の2体は無事かもしれないね。それに彼自身が僕みたいに力の一端をお兄さんの中に残してるかもしれないし」

「……」

 

確かにそれはそうだ。

ペルソナ能力さえあれば記憶を消すために死の宣告者を殺すことはできる。

 

「…ごめん、僕も10年前以前の事を思い出せればいいけどいまいち分からないみたいだ。それでも、お兄さんの見舞いにくらいは行かせてよ」

「うるさくしなきゃいいよ。というか今日の夜には寮にいるから来るなら明日の放課後にして。優希も他のみんなもたぶん今日はごたごたしてると思うし」

 

皆が今の兄を見てどうなるだろうか、と湊は不安でもあるのだ。

絶対に良い雰囲気にはならない。皆、暗い顔になるか腫れ物を触るように扱うだろう。正直、あの状態の優希は優希自身コミュニケーションを取れずに困っている様子であるし養父母でさえ扱いあぐねているのだ。誰が悪いというわけでもない。

しいて悪者をあげるとするなら幾月くらいのものだ。

 

ああ、本当にままならないと湊は目を伏せた。

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