君、死にたまふ事なかれ【本編完結】   作:月瓜里

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接続(11/9)

11/9(月)夕方

もう一度すべての検査を終え、少し性急のように思える退院の目処がたった優希を養母であるヒロコが駐車場まで手を引いて歩くが、ヒロコの事を未だ認識していないようで無表情に手を引かれるまま歩いている。

その足取りは先日に比べてしっかりとはしているが視線は相も変わらず顔に合うことは無い。その表情を見ることもしなければ、話す事もしない。

養母であるヒロコは本当にこんな状態の息子を学生寮に返してもいいのだろうかと疑問に思うが病院にいても弟妹以外の人間を認識することもできないのなら、体力が回復してもひたすらベッドの上で過ごすよりは良いのではないかという感情も湧いてくる。

自分たち夫婦も、いつまでも港区にいるわけにはいかないのだ。夫であるハジメも有休をとってはいるがそれもずっとというわけにはいかない。

そして湊と奏子ともうひとりの女の子しか認識できていないというのが本当なら、その3人にいつまでも病院に通い続けて貰うわけにも休んでもらうわけにもいかないのだ。彼らには彼らの学業なりなんなりがある。自分の事で弟と妹や他人を煩わせるのはかつての優希が一番嫌っていたことではなかったか、と思い出してヒロコはわずかに眉を顰めた。

 

夫であるハジメが病院の前まで持ってきた車に乗り、寮までの道を行く。

車内に会話は無い。暗いわけでないが明るいわけでもなかった。

不意に、何を思い付いたのか後部座席にヒロコと共に座っているぼんやりとした優希が横を向いてヒロコの頬に触れた。まるでそれは形を確かめるように酷く優しい手つきだ。

 

「優希? どうかしたの…?」

「……」

 

その行動を止めることなくヒロコは問うてみるが、答えが返って来ることは無い。恐らくこの言葉も理解していないのだろう。

そして手が離れ、しばらく迷うように彷徨った後にヒロコの頭に乗せられた。

 

「……、…!」

 

僅かに目を細めた優希の手が髪に触れ、撫でるように動かされる。

奏子や湊と勘違いしているわけではなさそうな息子の行動をヒロコは更に不思議がった。

 

「……」

 

はくはくと、優希は口を動かして何かを喋ろうとして声が出ずにまた考え込む。その頬を、優希がしたようにヒロコは包んだ。

 

「無理しなくていいのよ、ゆっくり。ゆっくりでいいの。私たちはいつまでも待っているから」

 

その言葉が聞こえたのか、僅かに優希の目が見開かれた。そして視線がばっちり合ったような気がしてヒロコも目を丸くする。

ゆっくりと、優希の口がはっきり一言一句、言葉を伝えるように開かれる。

 

「か」、「あ」、「さ」、「ん」、と。

今度はヒロコが目を見開く番だった。認識できない筈じゃなかったのか、と驚いていると優希がメモ帳を取り出してそれに文字を書き始めた。

 

[さわったらなんとなくわかった]

 

エスパーのようなそれに、ヒロコは再び目をぱちくりとさせる。そして、口を開いた。

 

「私の言葉も、分かる?」

 

小さく、こくりと頷いた優希は今度こそしっかりとヒロコと視線を合わせている。

まさか、顔と頭を触ることによって認識できるようになるとは誰も思わなかっただろう。

入院中、ヒロコたちも優希も触れていたところはだいたい手だ。顔や頭に触れることが無ければ顔や頭があるか認識しているかすらあやふやだったのだ。

つまり、これなら回復が早まるのではないだろうか、とヒロコが思うも、誰構わず顔を触る訳にもいかない。

 

「寮についたらハジメさん──お父さんの事も触ってみてくれないかしら? もしかしたら、わかるかもしれないわ」

 

とにかくまずは夫の顔に触れさせてみよう、とヒロコは思ったのだった。

そしてその言葉にしっかり頷いたのをバックミラー越しに確認したハジメが少しうれし気な顔をしていたのをヒロコは見逃さなかった。

 

そして寮の駐車場に車を停め、入院の際に使っていたボストンを持って優希が車から降りる。

ヒロコもその後に続くように降りれば車のカギを閉めたハジメも降りてきた。

そして並んで寮の玄関前まで歩くと優希が唐突に荷物を地面に置いて手を出したりひっこめたりしていた。その様子にハジメが頭を下げれば、ヒロコが優希の手を取ってハジメの頬に添えさせる。

 

「………!」

「…どうだ?」

 

しばらく確かめるように顔を触った後、頭へと手を乗せると、今度こそハジメと優希の視線がはっきりと交わった。

頷いた優希にハジメが微笑む。顔を触ってそれがだれか分かったというのなら、これは確かに有効だという事が分かった。

ハジメの大きな手が、お返しとばかりに優希の頭に乗ればわずかに見開いた目が見つめ返してくる。

 

「そろそろ入ろう」

「そうね」

 

ハジメに促され、その言葉が判るようになった優希が荷物を持ち上げ寮内に入る。

ドアを開ければラウンジのテレビの横から白い犬が「わん!」と吠えながら嬉しそうにブンブンと尻尾を振って優希に近寄って来る。優希はそれを屈んで迎えると、触ろうとして──やめた。その手と視線はうろうろと彷徨っている。

そんな優希をわかっているのかいないのか、白い犬──コロマルが勢いよく飛びかかった。

 

「ワンッ!」

「!?」

 

押し倒されてころりと床に転がると、そのままコロマルにべろべろと顔を舐めまわされる。

目を白黒させてコロマルを受け止めた優希は、おずおずとコロマルに触れてその毛並みを撫でた。

 

「……ぁ…ふわ、ふわ…」

 

無表情が、緩んだ。

そしてそのまま顔を舐めることをやめたコロマルの毛並みにうずめて息を深く吸う。コロマルはそんな優希の首筋を舐める。その行動に、緩んだ顔のまま優希は身体を震わせ口を開いた。

 

「ぷ、あは…あは…あははははっ! えへへ…くすぐったい…!」

「!」

 

大きな声を出して笑った優希にハジメとヒロコは目を見開く。

笑った。声も出た。

恐るべしアニマルセラピー。カウンセラーが言っていた様々なことに触れさせるというのは間違いではなかったようだ。即効性が効きすぎる気がしないでもないが効果は抜群だ。

べろべろと舐めまわされながらくすぐったそうに身をよじる優希の息が引き攣って来る。そこでぴたりとコロマルは舐めるのを止め、ぐりぐりと首筋に頭を擦りつけるようにしだした。

 

「えへっ…えへへ…っ、あはは…っ」

「わん!」

 

無表情がもうでろっでろに溶けてなすがままにされている優希は起き上がれそうにない。

白い犬と動けない少年の、寿司を逆さまにしたようなものの出来上がりだ。些か優希(ネタ)コロマル(シャリ)に対して大きすぎる気がしないでもないが。

 

「笑い声が聞こえたと思えば…三上…てめえ、退院してき──……ッス」

 

キッチンの方からエプロンを付けたまま出てきた荒垣が、コロマルに押し倒されている優希を見てからヒロコとハジメを視界に入れて軽く頭を下げた。

 

「優希の母親の三上ヒロコです。ええと…同じ寮の方かしら? 責任者の方とか大人の人とかいらっしゃらないのかしら」

「あいつらの……? ああ、引き取られた先の…まあ…息子さんとは良く…良く? ……腐れ縁…ですかね。責任者は……あー…いないっスね、たぶん」

 

珍しく敬語を使う荒垣の事をいつもの優希が見ていれば、「似合わなさすぎ!」と抱腹絶倒ものだっただろうがそんなことは無く。蕩けるような笑顔から無表情に戻った優希がコロマルを抱きかかえながらぼんやりと荒垣の足元を見ている。

荒垣は荒垣で、優希の養父母の来訪という珍事に「奏子()さんとお付き合いさせてもらっています」と言うところが頭からすっぽ抜けて珍しくテンパりながらの対応になっている。

1人で入院先から帰らせるなど言語道断レベルなのだが、湊と奏子からも、「明日退院する」としか聞いておらず、まああいつならふらっと帰ってきそうだなという悪い信用でまさか養父母が来るなどとは荒垣は思ってもみなかったのだ。そして、状況がかなり奇妙なことになっているという事も。

 

「そうなの? ……じゃあ、貴方に説明したほうがいいわよね…ハジメさんはどう思う?」

「時間は差し迫っている、かといって説明しないわけにもいかない。つまり、手短に、だ」

 

そう告げるハジメを見て荒垣はこの親にして優希(コイツ)有りか、と感じた。ふとした雰囲気が似通っている。育ての親というのは伊達じゃないらしい。

 

「ひとつ。今の優希は湊と奏子以外の事を認識できていない。ふたつ。記憶喪失になっている、らしい。みっつ。数日程は学校を休んで療養に努める。……これくらいか」

「ハジメさん、それじゃ手短過ぎないかしら?」

「むう」

 

妻に指摘され、ハジメの眉が困ったように顰められる。

この男、本当に必要最低限しか言わない。それを補うように妻であるヒロコが口を開いた。

 

「ごめんなさいね…ハジメさんはこういうこと得意じゃなくて…」

「いや、何となくわかったんで後は任せてください。それだけわかりゃ十分です」

 

謝るヒロコに対し荒垣は首を横に振った。そんな荒垣を見て、ハジメが「ほらな」と言いたげな顔をするがヒロコに「調子に乗っちゃダメよ」と窘められて意気消沈している。

 

「それじゃあ…私たちは帰るけれど、優希や奏子ちゃん、湊くんのことをよろしくお願いします」

「っす」

 

頭を下げて出ていった夫妻に同じく頭を下げていた荒垣は、2人が見えなくなると後ろを振り向いた。

相変わらずコロマルに乗られたまま床に転がった優希が無表情でぼんやりしている。いや、半分寝かけているのか瞼が下がりかけていた。荒垣は腰を下ろして声をかける。

 

「そんなトコで寝てっとカゼひくぞ。せめて部屋に帰りやがれ」

「……」

 

反応が無い。

なるほどな、あの養父が言っていたのはこういうことなのか、と荒垣は合点がいった。だが、コロマルの事はきちんと抱きしめているしどうしたものかと悩んでいれば、むくりと優希が起き上がってコロマルを床に置いて立ち上がった。

 

「…………!」

 

そして両手をあげ、アリクイの威嚇のようなポーズを無表情のままでとる。

否、手がゆらゆらと荒垣の頭の上の高さあたりを彷徨っている。一体何をしようというのか。

 

「……ふわふわ」

「ふわふわ、だァ?」

「わん!」

 

やっと吐き出された言葉は「ふわふわ」。

全くもって意味が解らない。

コロマルが優希の足のまわりでじゃれる。それをしっかりと見た優希はコロマルの頭を撫でた。

 

「…うん、ふわふわ。……ふわふわ?」

 

そして荒垣の頭頂部辺りをぼんやりと見て無表情のまま首を傾げてそう呟いた。

 

「つーかお前、どうしたんだ。もうちったあマトモに喋れねえのか?」

「……」

 

答えない。

代わりに、ぐっと距離を詰めた優希が無表情のままに何を決心したのかそっと荒垣の頭に触れようとした。瞬間、

 

「ただいま帰りました。あれ、三上さん、帰ってきてたんですね! …なにしてるんですか?」

 

天田が玄関を開けて帰って来る。

その声と気配にぴたりと手を止めてひっこめた優希はコロマルを抱きかかえて荒垣から距離をとった。

 

「? どうかしたんですか? なんだか三上さん、変じゃないですか?」

「俺が聞きてえくらいだ。が、どうやらコイツ、俺らの事を認識できてないらしい」

「えっ!?」

「ついでに記憶喪失、だとよ」

 

驚きの声を上げた天田に、荒垣がそう説明すればぎょっとした顔のまま優希の顔を見つめる。

 

「……そりゃそうですよね。あんなの、無事でいられ──ふえっ!?」

 

暗い顔でそう言いかけた天田の言葉は最後まで発されることは無く。むんず、と僅かに顔より下を見ている視点の合わない優希の手が天田の頬を挟んだ。そしてそのままさわさわと撫で始める。

 

「み、みかみさっ……も、もう! なにするんですか!?」

 

くすぐったいと身をよじればぴたりと手を止めて首を傾げた優希に、天田はぷりぷりと怒り始めた。それもそうである。突然頬を手で挟まれて撫でられたら誰だって驚くだろう。ただ、如何せん相手が悪かった。今度は天田の頭に手をやると、その柔らかい髪を撫で始める。無表情を緩めて僅かに微笑んだ優希に、天田は何も言えなくなる。

 

「荒垣さん、ほんとに三上さんどうしちゃったんですかっ!」

「さあな…まあ、暴れられるよかマシだろ」

 

困ったように荒垣に助けを求めるが、荒垣は素知らぬ顔だ。優希より身長の高い自分は被害にあわないと思っているのだろう。しかしそうは問屋が卸さない。

 

「…うん、ふわふわだ」

 

天田の頭を思う存分撫でまくった優希は荒垣の顔のある辺りを何となく見つめ──荒垣が「あっ」と思う間もなく手を伸ばしてニット帽に触れた。

 

「……」

 

さわさわと、ニット帽を触る優希の顔が曇っていく。無表情の顔にあるその眉が訝しむように顰められた。そして発された一言に天田が噴き出す。

 

「ごわごわ…?」

「ぷっ!」

 

「ふわふわ」と来て荒垣のニット帽は「ごわごわ」だったらしい。触り心地が気に入らなかったのか、すぐに真顔に戻って手を離される。そして間髪入れずに荒垣の頬に手を触れて天田の時と同じように撫で始めた。天田の時は気がつかなかったが、荒垣はその触り方がただ撫でるだけにしては少し変わっているような、何かを確かめるような動きをしているような気がしたのだ。

合わないはずの視線が、不意にかち合う。荒垣の顔から手を離した優希はそのまままっすぐと荒垣を見た。

それは先ほどまでのぼんやりとした視線ではなく、しっかりと荒垣の目を見たものだった。

はっきりと荒垣を認識しているようなその視線に先ほどと違う印象を抱いて、荒垣は問いかける。

 

「三上、俺の言う事が判るんなら『はい』っつってみろ」

「……? …はい」

 

少し間が空いたが抑揚のない返事が返って来る。

無視されていなければ言葉に返事もした。そのことが、荒垣の中で先ほどの行動がまるで目の見えない人間が物の形を確かめるように触るものと似ているのではないかという印象を確信に変えた。優希は、顔を触ることでその人間の『形』を確かめていたのだと。

 

「まさか目が見えない訳じゃ…なさそうだな」

「?」

 

しっかりと荒垣を見ているし天田の事も見ていたので目が悪いというわけではなさそうだ。荒垣から離れ、屈んでコロマルのにおいをすんすんと嗅いでいた優希は相変わらずその顔に表情は浮かんでいなかったが声をかけられてなんとなく不思議そうに振り向いた。

 

「おい、一旦部屋に帰るぞ」

 

詳しいことは本人に後で聞くとして、とりあえず立ち上がらせて荷物を持たせて先を歩く。

階段をちゃんとついてきているのか確認しながら上がれば見るものすべてが珍しいのかキョロキョロとしている。

荒垣とて、あの異常な様子だった優希がなにもないまま無事に帰って来るとは思っていなかった。だからといって、こうなってしまうというのは予想外だった。ずっと意識不明になってしまうのではないかという不安ばかりあったのだ。しかしふたを開けてみれば一度死んだというのに身体の方はピンピンしていそうだ。顔色は相変わらず血の気が無い感じだが前はあったふらつきもない。

 

「ここがお前の部屋だ。鍵は持ってるか?」

 

聞けばこくりと頷きごそごそと襟から胸元に手を入れ首紐に引っ付いた寮の鍵を取り出した。前は変なひとつ目の、ヒトデの様なキャラのストラップがついていたはずだ。

その様子に(小学生か!)とツッコみたかったが今の優希の状態を考えると小学生どころか幼稚園児レベルかもしれない、と荒垣は思った。幼稚園児みたいに動き回りはしないが些か目を離せない危うい感じだと感じたのだ。

 

鍵穴に鍵を入れた優希は四苦八苦しながらもなんとか鍵をあけ、30秒ほどでがちゃり、と音が鳴って部屋のドアが開いた。

中は倒れる前と何ら変わりないものだった。乱雑にモノが置いてあるというわけでもなく、荒れているわけでもなく。ノートパソコンにゲーム機。小さい本棚。

殺風景でもなんでもない、ごく普通の部屋だ。この部屋の中なら目を離したとしても危ないことは無いだろう。

 

「流石に俺はてめえの部屋の中身までは知らねえから聞くんじゃねえぞ。場所がわかんねえ時は自分で探せよ」

「……」

「あとは──…3階は女子の部屋だからな。基本立ち入り禁止だ。入ったらどやされちまうぞ」

 

こくり、とまた頷いた優希に「晩飯が出来たら呼ぶからな」と声をかけて荒垣は部屋を出た。

 

名前を聞くのを忘れた、と思ったのは部屋の説明を受けて()が部屋を出ていってからだった。

ここが自分の住んでいる部屋、らしい。部屋の空気を吸い込んでも、嗅ぎ慣れない匂いがするだけだ。何かを思い出すといったこともない。

玄関にいた白い犬にじゃれられて、笑った勢いで声が出せるようになったのはいいが自分自身にあまりしゃべる気が起きないのか喋れるようになったというのにあまり喋りたいと思わなかった。あとひどく疲れる。

それと、輪郭がぼやけて誰が誰かわからない人でも顔を触ってみればそこにどうあるのかわかる様に──いや、それが誰なのか判別できるようになった。声も同じだ。一体どういう原理なのだろうか。

ただ、突然分かるようになるわけではなく、ぼやけていた輪郭が揺らいでそこに突然普通の人間がポンと現れるような感じだ。明らかに普通じゃない、という事は何となく分かる。

 

ボストンを置いて、ベッドに腰掛けてみる。

 

「……っ」

 

頭痛がする。

誰かと、こうやって病院から帰ってきてベッドに腰掛けた事があるような──

 

──まったく、シスターとブラザーのことだけじゃなくボクのことまで忘れちゃうだなんて。チミはほんとにダメダメさんだネ。

 

咄嗟に顔を上げて周りを見回してみるも、だれもいない。

声が聞こえた気がした。かつて誰かがこのベッドの上で寝転んでいたような、既視感というか、そんな感覚を覚えた。自分の覚えていない誰かが、ここにいたのだろうか。そのひとは今、どこにいるのか。

 

視界の端で緑の光が舞っている。蛍かと思ったが季節外れないま、それがこんな室内にいないことくらい自分は知っている。

それを目で追えば、光は机の引き出しで自分を待つように止まっている。引き出しを開けろという事なのだろうか。

立ち上がって引き出しを開ければ中には白いハンカチで丁寧に包まれた何か金属の棒のようなものが出てきた。わざわざ質のよさそうなハンカチで包んであるのだ。よほど大事なものなのだろう。

それを手に取れば見えていたはずの光は消えてしまった。代わりに手に棒の重みが乗る。といっても万年筆程度の重さだ。さほど重いものでもない。けれど、自分にとってはとても大事で重要なもののように感じる。

ガンガンと、頭がちゃんと思い出せと信号を発しているかのように痛む。きっと自分は大事なことを忘れている。そうでなければこんなに不安な気持ちにはならない。()()()()()()には、ならない。

ぽたり、と床に雫が落ちた。

 

「……?」

 

片手で頬を撫でれば、自分は泣いていた。

なるほど、これが『悲しい』。こんなに胸を引き裂かれるような苦しいものが、悲しいというものなのか。

自分はこの謎の代物に関わることでなにか大事な悲しい出来事があったのだろう。それこそ、脳が思い出せと急かすほどには。

 

──ふふふ、ユーキおにいちゃん。ワタシたちのこと、わすれちゃったの? ワタシやおじさんたちのこと、()()()くせに?

 

今度は少女の鈴を転がすような声が聞こえた。

部屋中を見回しても、誰も──

 

「っ……!」

 

暗くなってきた外を映す窓ガラスに、まるで童話の世界に住んでいるような少女が笑みを浮かべて映っている。

 

──ね。繋がりなんて、いらないんでしょう? ……アリスはね、おにいちゃんのことならなんでも知ってるのよ。

 

窓ガラスに映った少女がこちらを見て話しかけてくる。

なんでも。本当なのだろうか。

いまのところ、繋がりは欲しい。手がかりが一つでも得られるならなんでもいい。

まずそこの時点でこの情報は間違っている。

 

──嘘よ。おにいちゃんはすぐに繋がりを手放したくなるの。だって、そうしなければいけないから。どこまでいってもおにいちゃんはひとりぼっち。ずっと一緒にいたあの子にまでどこかへ行かれちゃったものね? でもアリスならずっと一緒にいてあげられるわ!

 

綺麗な笑みで、アリスが笑う。ずっと一緒。それはそれは魅力的な提案だ。だが、脳内の妄想では意味がない。

 

──あら、アリスのことを妄想だっていうの? そうかもしれないわね! それでもおにいちゃんは求めずにはいられない。ホントは寂しがりやで臆病者だから。繋がりを手放そうとするのにそれに見ていて憐れなくらいすがっているもの。

 

そうなのだろうか。妄想かもしれないと言えばアリスは肯定するが、自分は寂しがりやで臆病者だと嗤う。あれはこちらの足元を見て嘲笑っている。なんとなく、そう思った。

これはたしかになんでも知っているのかもしれない。

 

──愛してほしいんでしょう? 認めてほしいんでしょう? ()()()()()()()()()()()()()()んでしょう? アリスなら、おにいちゃんの全てを叶えてあげられるわ。

 

それが自分の本心だというのか。よくわからないといったところが今の感想だろう。

あまりアリスの言葉に心を動かされないというか。きっと自分がまともな精神を持っていたのならばぐらぐらと揺れていたのだろう。だが、よくわからない。

魅力的な提案だなとは思うがそれに乗るという考えは一切ない。

 

──……()()()()()()()()はダメね。ちっとも靡いてくれなくておもしろくないもの。前のおにいちゃんの方が遊びがいがあってたのしかったのに。

 

彼女はなんてひどいことをいうのだろうか。

このペラペラと喋るアリスという存在がなんなのかわからないが、自分の妄想だとしてもかなり辛辣ではないだろうか。

 

──ねー、だからはやく元のおにいちゃんに戻ってよ。そうじゃないと遊びがいが無いもの。それに、ぼやぼやしてるとおにいちゃんの大切なモノ、ぜんぶなくしちゃうよ? それでもいいの?

 

それはダメだ。

元の自分、がどういうものなのかわからないが自分が戻れなかったせいですべて無くすわけにはいかない。

手の中の棒状の物を握り締めれば、自分を励ますようにほんのりと暖かくなったような気がした。

 

──なら、ちゃんと思い出さなくちゃ。ワタシになにをしたのか。おにいちゃんが何を失ったのか。おにいちゃんが、誰だったのか。はやくしないとママにおにいちゃん自身がたべられちゃうよ。

 

“ママ”?

突然出てきた母親の呼び名に、首を傾げるもそれきり声が聞こえなくなる。まさか、養母(かあ)さんが? と思うもそんな感じには見えないし食人はタブーだ。それとも比喩表現としてのたべ…いや、そんなわけはないと強烈に心の端が主張している。ないな。ない。とにかく無いという事にしておきたい。養母さんは無罪だ。

ならばママというのは別の何かを指している…? クラブとかバーのママだろうか。

 

「……」

 

考えてみたがわからない。オカマのママ…という線はありそうでない。

そもそも冗談の可能性もある。怖がらせようとして、考え付いたのが『ママに食べられる』という表現だったり…しないだろうか。いや、ないな。これもない。

訳がわからないので一旦この話題は置いておこうと思う。自分の強迫観念がこんな妄想を生み出した可能性だってあるのだ。やけにべらべら喋っていたのも、いまはあまりしゃべらない反動かもしれない。本当はべらべらと喋りたいとか。

ただ、自分の妄想であるのに金髪青眼の可憐な少女というのは自分のなりたい理想の姿だったりするのだろうか。それはそれでドン引きものである。部屋を調べて女装のためのカツラとか服とか道具が出てきたらどうしよう。下手に処分して記憶が戻った際に捨てなければよかったと嘆いたりしそうなものではある。が、まだ見つかっていないので早計というものか。

 

アリスという自分の幻覚の言うことが本当なら、自分はアリスに対し過去に何かをした可能性がある。そしてその際に自分は何かを失った。

否、アリスが最初に言っていたでは無いか。──ワタシを殺したくせに、と。

なら、自分は殺人犯なのか?

少女を殺めて、挙句の果てに記憶を失った? だから少女の幻覚を見ている?

 

本当にそうなら、自分は警察に自首すべきなのではないのだろうか。

だから早く思い出せと言っていたのでは無いのだろうか。

 

「…………」

 

考える。

もし本当に自分が殺人犯なら、自分のそばに湊と奏子がいるのはよろしくない。それに犯罪者の兄妹として悪い噂がつきかねない。

記憶を失う前の自分はシリアルキラーかサイコパスか何かだったのだろうか。

そこのキャビネットを漁ってナイフとか出てきたらどうしよう。

 

「……」

 

もし適当に物を探しているときにそうなったらどうしようもないので確かめるだけ確かめてみよう。

キャビネットを開けて、何となく視線を持って行った場所にそれはあった。革でできた鞘にしまわれた大ぶりなそれは銀色の拳銃らしきものと一緒に置いてある。

 

(いや、そんなまさか…)

 

もしかしたら模造品かもしれないし、と鞘から抜いてみれば、それはピカピカと綺麗に輝いている。よく手入れされているな、と思って指で少し撫でれば指の先が僅かに切れて血が出た。出た血を止血の為にすぐに口で吸えば、特有の鉄臭い味がする。美味しくは無い。食事の味はわからないくせに自分の血の味はわかるのか。最悪だ。

それはともかくナイフは間違いなく本物だ。どうしてこんな危ないものを自分が。やはり自分はシリアルキラーだった? それとも、キャンプ用のサバイバルナイフだったり…はしないな。キャンプ関連の道具がキャビネットにも他の場所にも一切ない。

これを街中でチラチラ見せつけてナイフぺろぺろとかしてたんだろうか。嫌すぎる。

 

部屋を漁ればあさるほど、かつての自分のイメージがどんどん崩壊していく。これは思い出さない方が良いのでは? という気持ちにもなってくる。

拳銃の方も手に取ってみれば、銃口が塞がれていて模造品だという事がわかる。ナイフに銃。特にナイフは本物なので湊や奏子、あとはニット帽の人に訊くのもはばかられた。

だが、記憶を失う前の自分がとんでもなくヤバイ人間かもしれないというのはなんとなく判明したので最悪の場合は警察に行くことも視野に入れるべきだと思う。

 

──ハア、チミ…勘違いさんもそこまでくるとどーしようもないネ。もしかして、ボクが隣に居た時からそんな感じだったんスか?

 

呆れるような声がした。

その声は最初に聞いたものとおなじものだった。

アリスと名乗った声とは違い、こちらを心配するような声色を感じる。勘違い。隣にいた。

もしかして、自分はシリアルキラーかもしれないという発想は勘違いだとでもいうのか。そして隣にいた、という事はこの声の主は自分の知り合いだった可能性が高い? だとしても、声が聞こえてくるなどという事があるのだろうか。

やはり、自分の妄想なのでは。

 

わからない。わからない事ばかりで本当にどうすればいいのだろうか。

記憶が思い出せるというわけでもなく、疑問ばかりが降り積もっていく。この声だって自分の脳内妄想かもしれないしもしかしたら本当に聞こえている声かもしれない。

結局、自分が住んでいたらしい寮に帰ってきたというのになにひとつ進展していない。ただただ、自分の異常性を浮き彫りにしただけだ。

 

酷く眠い。きっと疲れているのだ。だから、今日は寝てしまおう。

きっとその方が良い。晩御飯の時間になったらニット帽の人が起こしに来てくれるらしいのでそれまでは寝て一旦情報の整理がしたい。

そう思ってベッドに横になる。枕元に金属の棒を──よく見たら管だった──を置いて、目を閉じた。

 

──ごぼごぼと、水音がした。

海面は月を映し、揺らめいている。その宙を、何匹もの青い蝶がふわふわと飛んでいる。

とても幻想的な風景だ。自分の夢の中でこんなファンタジーな風景になるのはやはり心の内のどこかでこういう夢を見たいと望んでいるからだった…?

よくわからない。

 

「──ああ、あなたははじめからここにいたんですね。灯台下暗し、とはこのことです」

 

声がして、振り向けば黒い髪で赤い目をした少女が宙に浮かぶ星々を背景にしてそこにいた。

 

「ずっと見ていました。話しかけていました。けれど、あなたがだれだか私はわからなくて。それで気づくのに遅れてしまいました。でもやっとこれで、声が届いた。……あなたの事が、視えた」

 

その少女は、よくよく見れば球体関節人形のような手足をしている。黒いボディに頭についた蝶のような形のバイザー。そして同じ意匠のスカートのようなパーツが腰についていた。

赤い光がきらめいて、ステンドグラスの様で綺麗だと思った。

 

「私は──本当の彼女とは違うんですけど、“メティス”って呼んでください。あなたに会うのにはこの姿の方が良いと思って…貴方の住む寮の地下から…その、少し…姿だけを模倣して拝借したんです。でも、彼らはともかく()()()()()()()()()()()ので覚えがないですよね…」

 

“メティス”と名乗る誰かに一方的に話しかけられているがよくわからない。

きっと、自分の知らない何かがあって、誰かは彼女を見た事がある?

 

「恐らく、なんですけど、眠りの中の夢を通して私とあなたの距離がすごく近づいたから分かる様になってしまったんではないかな、と。私は本来、人間には知覚できない存在なんです。住んでいる次元が違いますから。たまに、私たちの居る領域に触れられる人間がいるんですが、それだけなんです。私たちの本質まではわからない。それに……いいえ、やっぱりいいです」

 

つまり、彼女はただの人間ではないのだろうか。いや、そもそも球体人形のような関節の彼女が人間かといわれると怪しい。

 

「はい。私は人間ではありません。けれど…今のあなたに私が誰なのか説明するのはとても難しいんです。それでも私があなたの敵ではない事だけは覚えてほしくて」

 

悲し気に彼女は笑う。なら、彼女が敵じゃないということは本当の事なのだろうか。

そもそも、敵というのは何なんだ。なにか、こう…漫画やアニメのようなわかり易い何かがあるとでも?

そんなファンタジーなことに自分は巻き込まれているというのか。

 

「例え、あなたを蝕むことになってもそれは私の意志ではないんです。ただ、私という存在がそういうものなのでどうしようもなくて……あ、この姿のままなら大丈夫ですよ。廃棄された後継機という名のボディに私と彼女の精神を詰め込んで──でも結局今のままだとここで姿を模倣しているだけなので人間界での行動には向いてないんですよね…そもそもここから出られませんし…」

 

やはり人間ではないらしい。色々と事情が複雑そうだが、結局彼女が何なのか全くわからない。

 

「……いまは、わからなくてもいいんです。もうすぐ、望んでいても望まなくてもあなたは自覚してしまうから。私とあの時間の外でも“繋がってしまった”というのはそういうこと。私と、こうして()()()()()()()というのはそういうことになるんです」

 

彼女が近づいてくる。そして片手を伸ばして優しくこちらの頬を撫でた。

 

「…“彼”もひとつの命には違いなかったけれど、そこに魂があるのかと言われれば私にもわからない。けれどあなたはちゃんと魂がある。あなたたちはかつて、ちゃんと生きていた人間で、生まれたばかりの無垢な魂で…それなのに、私の不用意な発言のせいで目をつけられて勝手にひとつにされて、そのせいで歪んでボロボロになって…ごめんなさい…」

 

彼女が自分の何かを知っているのかぽろぽろと涙を流して泣き始めるが、自分には心当たりがなければボロボロになっているという自覚もない。気のせいじゃないのだろうか。自分は一応元気だと思う。退院の許可が出たのだって早かった。それなりに。だから泣かないでほしいと思う。整っている可愛い顔が台無しだ。

 

「そういう事を言ってるんじゃないです! もう、その鈍感さは何回死んでも変わりませんね! “三つ子の魂百まで”のレベルを超えています!」

 

すぐに涙をひっこめた彼女にぷんすこと怒られる。何回死んでもというか自分はまだ死んでない。死にかけただけだ。たぶん。仮死状態は死には入らないとおもう。

 

「いいえ、あなたは何度も死んでます。何度も何度も死んで、その度に時間を10年前まで…いいえ、それよりもっと前まで巻き戻しているんです。そして、そこからありとあらゆる可能性を手繰り寄せていっている。とんでもない試行回数を重ねて、あなたは救おうとしている。もうここまでくると無意識なのかも、しれませんけど」

「???」

「……でも、10年前の事はどうあっても変わらない。あなたは、何度繰り返しても逃れられない。あなたがあなたである限り。あなたが固定しているせいで前提条件は変えられないんです」

 

時間を巻き戻す。

そんなこと、出来るわけがない。今日はなんだかこういう常識ではありえないことが起こる日なのかもしれない。言われているだけで実感は無いが。

 

「あ、信じてませんね? 別にいいですけど…記憶が戻ってしまったらすぐに気がついてしまうでしょうし……」

 

むくれっ面になった彼女が頬から手を離す。

 

「──呼ばれていますよ。もう時間ですね。…晩御飯、美味しく味わってくださいね? なんてったっていまのあなたは一次的にでも私と感覚を共有してるんですから! 私だって人類の生み出した娯楽兼栄養補給の一つである食事を楽しんでみたいものなのです!」

「…ん、善処する」

「はい! 約束ですよ! ……それと、短い間ですが楽しんでくださいね」

 

彼女が紅い瞳で母親のように自分を見つめる。自分は、その目を見た事があったような、ないような。

そんな既視感だけを抱いて、夢の輪郭がぼやける。

 

ごぼごぼと、また水音が聞こえた。

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