君、死にたまふ事なかれ【本編完結】   作:月瓜里

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「おい、飯だぞ。起きろ」

 

ぱちり。

そんな声で目が覚めた。いつの間にかベッドの脇に立ってこちらを見つめているニット帽の彼は、なんて名前だったか。

 

「……」

「寝ぼけてんのか?」

「なまえ…」

 

思い出せれば楽なのだが、記憶はうんともすんともいわないし戻ってきてもくれない。なにか夢をみていた気がするがそれも思い出せない。大事なことを言われたような、言われていないような。いまはどうでもいいか。

 

「あ? 名前だあ? 俺のか? ……荒垣真次郎、だ。記憶をなくす前のてめえからは“荒垣くん”っつー柔っちい呼び方されてたけどな」

 

覚えた。

たぶんもう忘れないだろう。忘れないことを祈るしかない。

ベッドから抜け出して立ち上がり、ぶるりと身震いした。何だか寒いなと思ったら部屋の窓が開いていたようだ。自分は換気の為にと部屋の窓を開けて寝たんだろうか。

…覚えていない。

 

「いくぞ、全員帰ってきて今はお前待ちだ」

 

踵を返して部屋を出た“あらがきくん”に、頷いて後ろを歩く。

下まで下りれば、そこのダイニングに夕方に顔を触った小学生の男子と、湊と奏子、それにアイギス。あとの5人いるように見える人たちが座ったり立ったりしていた。あの白い犬が近づいてきたので抱き上げる。ふわふわでおちつく。

 

「お兄ちゃん、退院おめでとう! ……って言うべきなのかなこれ?」

「さあ…」

 

そういえば、顔が判らないなら触ればいいと判明したのでとにかく一番近くの人から触って認識を何とかしないといけないのではないのだろうか。

このままではまともに話すらできない。とにかく、手始めに誰かに近寄って顔を触らせてもらうべきだ。

 

「三上…その、体調の方は大丈夫なのか? 何か変なところは…無い、か?」

 

白い犬を下ろして、恐らく話しかけてきたであろう人物に近寄る。突然触るのは夕方の件からもわかったがやはり驚かせてしまうので、言葉に出して触る意思を伝えてみようと思う。

 

「顔を」

「?」

「顔を、触らせて欲しい」

「わ、私のか!?」

「……?」

 

戸惑うような雰囲気が感じられる。それと同時に、湊と奏子が驚くように息を呑んだような気がした。

 

「お、お兄ちゃん! 喋れるようになったの!? いつ!?」

「夕方。この子に。くすぐったかったから」

「ワン!」

「でかしたぞ~~~! コロマル! 明日はおやつちょっと豪華なのにしようね!」

 

コロマルと呼ばれた白い犬を指させば、胸を張る様にして吠えた。それは「どうだ、えらいだろう」と言いたげで可愛かった。

おかしい、自分は猫派だったはず──

そこまで考えて、思考が止まる。なるほど、自分は猫派だったのか。なんというかどうでもいい情報ばかり判明するのはどうにかして欲しい。

それはそれとして、先ほど顔を触らせてほしいとは言ったので触っても驚かれることは無いだろう。たぶん。

 

「えっ、いまか? いまなのか!? もう少し、心の準備というものをだな…!? っ…!」

 

手を伸ばせば、驚いたような雰囲気がする。申し訳ないがすぐ終わるので我慢してほしい。

頬のあるあたりだと思う場所を触れば、やわらかい感触が手に触れる。感触からして女性なのだろうか。頭に手を移して髪を撫でる。さらさらとしていて長い。

 

不意に、そのぼやけた色のない輪郭がブレた。

まるでゲームのキャラがポンと湧いてくるように、ぼやけた輪郭と入れ替わる様にして赤い巻き髪の女の子が現れる。いや、女の子というよりかはお嬢様っぽいが同い年くらいなら女の子だろう。

続いて他の4人の顔も触っていく。致し方のない事だし弁明は後でするので許してほしい。

 

昨日から思うが認識の仕方はもう少し何とかならないのだろうか。これでは自分の認識が彼らと違う場所にあるような、彼らとは違うものを見ている気がしてならないのだ。

どこか少しずれている。それを、こうして触れることによって合わせている。個人的にはそんな感じがする。

それにこの寮内にはいないが病院と車に乗っている間の道路に、自分でも認識できる変な生き物がいたのだ。

人と思われるぼやけた輪郭の合間を縫って、それらはいる。化け物みたいな姿だったり、妖精みたいな姿だったり、双頭の犬だったり、よくわからない鬼みたいな姿だったり、人魂みたいな姿だったり。

彼らははっきりと見える。それぞれ何かを喋っている。ヒトに介入しようとしている。けれど他の人間には認識できていない。もしかして幻覚かとも思っているが、どうもそういうわけでもなさそうだ。

だって、幻覚が行きかう車をわざわざ器用に避けたりするのだろうか。もしそうだとしたら自分の想像力に驚くほかない。

それとも、昔から自分にはアレが見えていて、実際に存在しているアレが湊と奏子を脅かすのだろうか。部屋にあったナイフもそういうやつら対策に使っていたとか。ありえなくはないが人間が戦って勝てる相手なのだろうか。

邪推に過ぎないが当たらずとも遠からず、といったような感覚がする。感覚がするだけで記憶は全く蘇らないのが残念だ。

 

全員分触り終え(ひとりは室内だというのにキャップ帽を被っていた。あらがきくんといい、この寮は室内で帽子をかぶるのが流行っているのだろうか)、食事をしながら話が聞けるようになった旨を伝えれば、改めて自己紹介された。やはりというかなんというか、皆複雑な表情をしている。記憶を失う前の自分と今の自分はかなり違うものなのだろう。

 

「三上、これで我々の事は全員分理解できただろうか。まったく、突然顔を触りたい…などというから驚いたぞ」

「………」

「……本当に、記憶が無いんだな」

 

自己紹介できりじょうみつる、と名乗ったあのお嬢様の言葉に頷く。

きりじょうが一番複雑そうな顔をしている。他の人間も自分に対し距離があったり複雑そうな顔をしているが、彼女が一番なんというか距離があるのだ。怯えているというべきか。

踏み込んではいけない雰囲気のようなものを感じるが、それと同時に彼女もこちらに踏み込みたくないような雰囲気を感じた。

過去の自分が彼女になにかしてしまったのだろうか。

 

「きみには説明しなければならないことがいくつかある。……思い出してくれれば一番手っ取り早いのだが、そういうわけにもいかないだろう?」

「桐条先輩! いまの三上先輩にはまだ早いんじゃ…! 退院したばっかりなんですよ!?」

「……、…だが、影時間は今日も来るだろう。彼が戦えるのか戦えないのか。見極めておかねば寮に置いていくことも連れていくこともできない」

 

たけばゆかり、と名乗った少女がきりじょうに食いかかったがすぐに言い返されて黙る。

戦う、と言われたが湊と奏子を含めたここにいる全員が何かと戦っているのだろうか。まさか、自分が見えているアレと?

 

「三上、今日は深夜0時まで起きてここで待機していてくれないか?」

 

頷いて、あいかわらずよくわからない晩御飯を食べ──ようとして目をやれば今度はちゃんとそれがなにか分かる。一体どうしたのだろうか。先ほどまでよくわからないものが机に並んでいただけだと思ったのに。

つやつやとした炊きたての白米に、マイタケなどきのこの入ったサラダ。そして人参と玉ねぎ、これまたきのこの入ったコンソメスープ。自分が箸でつまんでいたしっとりもさもさとしたものは白身魚のムニエルだったらしい。今度こそ口に含めば、ちゃんとしっとりとした食感と共に魚特有の匂いと香草の香りが広がる。

マトモに食べ物の味を感じたのはこれが初めてかもしれない。

ただ、誰もしゃべらない。何人かが居心地悪そうにしているところを見るに、食事中だからというわけでもなさそうだ。

自分は本当にここにいていいんだろうか。ここにいるべきではないのではないか。

そう考えると、先ほどまで感じていた食事の味もしなくなる。

ああ、面倒なことを考えなければよかったと思うももう遅い。吐き気がしてきた。

 

「……ごちそうさま」

 

これ以上食べる気になれない。勿体ないが席を立つ。

 

「優希…?」

「三上センパイ、大丈夫スか? やっぱ、病み上がりだからしんどいっスか?」

「……」

 

自己紹介の時に、いおりじゅんぺーと意気揚々と名乗っていたキャップ帽を被った少年に心配されるが答える気力が無い、が答えなくてはならないので手短にする。

 

「休む。約束の時間には出てくる」

 

後ろを振り返れない。

前にもこうして、体調が悪くなって皆が食事をしているのに部屋に帰ったことがあるような。自分は病気がちだったらしいので恐らくそういう事もあったんだろう。けれど、妙にそれだけではないような、ぞわぞわずるような、そんな気持ちになる。

部屋に入って布団に潜り込む。これにも何だか既視感を感じるが寝ることは人間にとって毎日行うことなので既視感が無くてどうする、と無理やり納得させて目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、急にしんどそうになったけど…大丈夫かな…」

「センパイ、病み上がりだもんな。それにこの空気じゃ…」

 

順平が周りを見れば、気まずそうに顔を逸らすゆかりと美鶴。

荒垣は依然黙ったままだったがその横に座っていた明彦が口を口を開いた。

 

「…あの様子で三上が以前のようにまともに戦えると思うか? 俺は無理だと思うが。美鶴、お前の意見はもっともだが焦りすぎじゃないのか?」

「……」

 

美鶴は答えない。ただ、何かを思い悩むように下を向いている。そんな美鶴の助け舟になったのは風花だった。

 

「でも、ペルソナを召喚できるかくらいは確かめた方がいいんじゃないかと思うんです。私には、いまの三上先輩は何も見えなくて…わからないので」

「わからない?」

 

訝し気に明彦が聞き返す。

 

「はい。今の三上先輩はなんというか…何も見えないんです。ペルソナの反応すらあるかないかわからないんです。えっと…無いと言われればないんですけど、隠されているとしたらそれはない事にはなりませんし…」

「とにかくわからない、といったところか。成程な」

 

風花の答えに納得がいった明彦は満足そうに頷く。わからないからこそ、召喚器を使いペルソナを召喚できるか試さないといけない、というのが風花の意見らしい。それで召喚できれば戦い方を教えて戦闘メンバーに戻ればいいし、出来なければ待機させるだけだ。

とにかく、影時間にならなければ何もわからない。

 

「ね、奏子ちゃんと有里くんはこれでいいワケ? 今ならまだ、あんなになった先輩のこと──巻き込まずに済むんだよ」

「……ゆかりちゃん…」

「いいわけない。けど…身を守る術がなければどの道シャドウに襲われて終わりだ」

 

気遣うようなゆかりの言葉に、奏子は複雑そうに下を向き、湊は同意したが別の懸念が邪魔をした。

ふたりだってゆかりの言うようにこれ以上何も知らないいまの兄を巻き込まずに済むなら戦力が大幅に低下しようとそれを補う気でいる。だが、そうはいかない。一度死んだあの日も、それ以降も、影時間の兄は象徴化せずに病院で眠り続けていた。そして影時間に安全地帯は無い。

それが何を意味するのか、わからないほど愚かではない。

影時間内に象徴化せずにシャドウに襲われた場合、無事ではいられない。戦わせて過酷な運命に巻き込むか、それとも知らせずに放っておいて影時間に出歩かれイレギュラーシャドウに襲われて死ぬか。どちらかなのだ。

 

「影時間への適性を失ってないのなら優希さんは知っていた方が良いと思われます。入院中の優希さん自身も知りたがっていましたし、ちょうどいいのでは」

 

アイギスが空気を読まずに横槍という名の正論を入れる。

これはどうあがいても巻き込まないという方向には持っていけない。まるで、見えない強制力でも働いているようだ、と湊は苦虫を噛み潰した。

 

 

 

 

 

 

 

影時間

薄暗いラウンジに集まった特別課外活動部の面々は、召喚器をもって無表情に立つ優希を見つめていた。これからペルソナが召喚できるかどうかを確かめるのだ。

 

「では、三上。その銃を引き金を引いてみてくれ。その引き金を引けば、先ほど説明したシャドウという存在を倒すための力──ペルソナが現れるはずだ」

 

こくり、と美鶴の言葉に頷いた優希は召喚器をこめかみに当てて何のためらいもなく引き金を引いた。

 

カチリ。

 

「……?」

 

なにも、起こらない。

いちど召喚器を降ろして、カチャカチャと振ってからもう一度こめかみに当てて優希は引き金を引いた。

 

カチリ。

なにも起こらない。

 

「……壊れてる」

 

2回目に引いた引き金も、ペルソナを呼び出すことは無く。召喚器が壊れていると思った優希は湊の方へと歩く。

 

「湊。少しの間だけ、交換してほしい」

「ん」

 

召喚器を交換してもらい、再び試そうとこめかみに当てる優希を見て、美鶴がぼそりと呟いた。

 

「召喚器が壊れる…? いや、これは滅多に壊れない代物だが……まさか、な…」

 

薄々、優希以外の全員は嫌な予想の方が的中しそうだという予感がしていた。

皆が神妙な面持ちで見守る中、優希が交換してもらった召喚器の引き金を引く。

 

カチリ。

 

「……どう」

「どうって…何も…風花、なにか分かる?」

「ううん…私の方にも何の反応もないかな…」

 

ゆかりの言葉に“ユノ”の中でペルソナの反応を探っていた風花が首を横に振る。

結局、召喚器を交換してもペルソナが現れることが無かった。うんともすんとも言わないし何も起こらない。あの時砕けたペルソナはやはり“パンタソス”だけではなく、残りの2体もだという事が証明されてしまった。

つまり、優希は戦えない。それはすなわち、自衛できないということにもなる。

だというのに誰かの安堵混じりに息を吐き出す音がした。

そんな空気の中で手本を見せるために、交換した召喚器のまま湊がこめかみに当て引き金を引けば青い光と力の奔流と共に“タナトス”が現れる。

 

「これがペルソナ。さっき優希が壊れたって言ってたこれで、ペルソナが使える人は呼び出せる」

「なら、壊れてたわけじゃなく、自分が、使えない…?」

「そうなる」

「……」

 

湊が素直にそう告げれば、タナトスを見つめていた優希は目を逸らして下に俯いてしまった。その顔は無表情から僅かに悲し気なものに変わっている。ペルソナが使えない=戦力外だ、と自覚してしまったのだろう。

 

「…無理を言って済まなかった。ペルソナはだれしも召喚できるものでもない。そう落ち込まないでくれ」

「かつての自分は…出来ていたんだろう。なのに、いまの自分は」

 

なんなのだ、と言いたげに美鶴の言葉に悲しそうな顔から一変、悔しげな表情をする。

美鶴としても、他の面々にしても、いまの優希が過去にペルソナを召喚していたことを自覚しているとは思わなかった。そしてそれがまさか本人の口から飛び出すなどとは。

 

「桐条先輩の言う通りだよ、お兄ちゃん! もしかしたら、体調がもっと良くなって記憶も戻ればペルソナが使えるようになるかもしれないし!」

「そうですよ、きっと…きっと、大丈夫なはずです!」

「…………」

 

更に俯いてしまった優希に、奏子と天田の励ましは届かなかった。

俯いて何かを考えているようだったが退院してすぐでこれ以上無茶をさせるわけにもいかない、と美鶴が口を開く。

 

「疲れただろう? 今日のところはもう寝るといい。……本当に、すまない」

 

その言葉に返事は無く。

感情の読み取れない顔に戻った優希は湊に召喚器を返すと2階への階段を上り出す。

その後ろ姿を見送りながら、美鶴がぼそりと言葉を吐き出した。

 

「私には…彼を傷つけることしかできないのか」

 

今にも泣きそうなその顔で、ぎゅ、と二の腕を掴んで自らを抱きしめるようにした美鶴の声は震えて小さかった。

 

「美鶴、それは違う! 今回の事は全員で決めた事だ。それにこれが実戦で無くてよかったと思うべきだ。もしあのままタルタロスに行って三上がペルソナを召喚できないと土壇場でわかっても誰も庇えず大けがを負っていた可能性すらある」

「……だが…」

「アキの言う通りだぜ。まァ、あいつをこっからの戦いに巻き込まなくて済んだっつーことで良かったじゃねえか。今のあいつはとてもじゃねえがペルソナを使えたとしても戦えるようには見えねえ」

 

明彦の言葉を肯定した荒垣が渋る美鶴に畳みかける。

 

「それに、影時間への適性を持っていても桐条先輩のお父さんや幾月さ…あの人は大丈夫でしたよね。なら、三上先輩にも寮で待機してもらうというのも有りだと思います」

「あ、そっか。三上さんを無理にタルタロスに連れていく方が危ない、か…」

「たぶん、移動中に襲われるよりここにいた方がまだいいと思う。一応ここには対シャドウ用の防衛機能がある、んですよね?」

 

風花の問いに、おずおずといった様子で美鶴が頷いた。

 

「……ああ。よく知っていたな山岸。シャドウの侵入を感知した際に各部屋の窓と扉にロックがかかりシャッターが下りるシステムだ。4月の時は動作不良で使えなかったが今はメンテナンスも済んでちゃんと動作するようになっている」

「すみません、頼まれてハッキングした時にデータベースに載ってたの、見ちゃって…」

「へぇ~、そんなモンあったんスね!」

 

初耳なその機能に感心するように順平が感嘆の声を出した。

だが美鶴の表情は優れない。

 

「戦えない無力さは私にもよくわかる…我々にとっては彼をこれ以上巻き込まずに済むという安堵があるが…彼にとっては…どうなんだろうな。前のように1人で無茶をしなければいいが」

「あっ、そっか…お兄ちゃんペルソナ使えなくてもシャドウ倒しに行きそうだもんね…むしろ前のお兄ちゃんなら間違いなくペルソナ使えなくなっても行ってた。なんかそんな感じする」

 

複雑な表情でうーん、と唸った奏子は心配そうだ。先程の思いつめたような優希の様子に思うところがあるのだろう。

 

「かといってタルタロスの頂上まで登れと言われている今、見張るために誰か人員を割く訳にもいかないだろう。やはり、寮でひとり待機してもらう他無いんじゃないか?」

「あと3ヶ月はあるし、ちょっとくらい余裕を見ても…」

「いいや、何があるか分からないんだ。強行軍は無しにしても限度がある。毎日誰かを置いていけばそれこそ戦力に偏りが出る」

「うーん、どうだろ」

 

明彦の言葉に奏子と湊が悩む。そこへ、荒垣が口を挟んだ。

 

「無茶すんのを悩んでるみてーだが、あの様子じゃ1人で外には出ねぇだろ。基本、うわの空だぞ今のあいつ。あとは言い含めりゃ勝手な行動しねえよ」

「クゥーン…」

 

同意するように悲しげに鼻を鳴らしたのはコロマルだ。夕方にじゃれたついた時の異常な様子をしっかり覚えていたのだろう。

 

「うわの空、か…」

 

湊は病院での優希を思い出す。確かに誰もいない状態だとひたすら眠っているか下を向いて沈黙しているだけだった。なら、動かないよう言いつけておけば今の素直な兄なら無茶はしないというのだろうか。

あれは、いい事なのだろうかと湊は眉を顰める。待機させておくのには都合がいい。だが、あんな兄の様子は明らかにおかしいのだ。

おかしいのに、それを利用する。戦いに巻き込まないようにするには、最低でもあと3ヶ月はそのままでいてもらわないといけない。

そんなこと、許されていいのだろうか。

それに湊自身と奏子がニュクスを封印すれば間違いなく死ぬ。そして時間が巻きもどるのだ。

元気な兄が帰ってくるといえば聞こえはいいが、同じ道を辿ればそれまでだ。また同じことの繰り返し。そうなったとしても、今のままでも、本当に兄が救われたことになるのか。

 

そしてもし時が巻き戻らなかったら?

兄は壊れたままだ。その上、湊か奏子のどちらか、もしくは両方を喪うことになる。そうなれば、今度こそ完全に兄が壊れてしまいそうな気がした。時が巻き戻ろうとも2度と帰ってこないような、そんな気が。

難しい問題だった。いま、自分たちがやるべきなのは兄を戦いから遠ざけることではなく、兄の回復に努めることでは無いのだろうか。かといって、タルタロスの攻略を放置することなどできない。

 

「ちょっと、優希のとこに行ってくる。寮で待機は決定事項?」

「あ、ああ…」

「ん。じゃあそれ伝えてくるから。もう解散でいいよね?」

「そうなるな…だが、」

 

たじろぐ美鶴の言葉を最後まで聞かずに、階段をずんずんと上がった湊は優希の部屋のドアをノックした。

 

「起きてる?」

 

返事はない。

寝ているのかと思ったが一応部屋を覗くか、とドアノブを回せばするりと回ってドアが開いた。

影時間なので電気はついていないが、件の人物はベッドに腰かけて下を向いている。どうやらまだ寝ていないようだ。

 

「…優希」

「……」

 

声をかけるが反応は無い。否、のろのろと視線を僅かに上げてすぐに下に引っ込んだのだ。湊は返事をする気力もないらしい兄の横に腰掛ける。

 

「僕達はタルタロスってとこに行って戦ってくるけど、優希は寮で待ってて。みんなと相談してそう決めたんだ」

「……そう、か…けほっ…」

「うん。ごめん。でも戦えないから、連れてけない。みんな、優希に危ない目にあって欲しくないんだ」

 

吐き出された言葉は酷く掠れて震えていた。

ショックを受けている、という訳ではなく咳も出ていたので単に喋り慣れてないだけだろう。

そう判断した湊はさらに続けようとして、優希の言葉に固まった。

 

「…お荷物。役立たず」

 

小さく、無意識だったのだろう吐き出されたその言葉は優希自身の今の優希の評価だった。

 

「ちがう!!!」

 

思わず叫んで否定すれば、そこで初めて目があった。暗くなんの感情も浮かんでいない瞳は湊を吸い込んでしまいそうで、思わず目を逸らしてしまった。逸らした気まずさのまま、言葉を続ける。

 

「優希はさ、もし僕や奏子の目が見えなくなったり勉強出来なくなったり、戦えなくなったら役立たずだと思う?」

「思わない」

「でしょ、それと一緒。それに、優希はいまの優希にできることをやるんだ」

「いまの、自分にできること…?」

 

感情の色のない瞳がぱちくりと瞬いた。

あっさりと考えを改めた兄に、素直さは記憶を失う前の何倍なんだろうとどうでもいい考え事をしながら湊は続けた。

 

「今の優希に出来ることはしっかり休んで体力を回復させること。あとは…個人的にだけど僕らが帰ってきたときに“おかえり”って言ってくれるとすごく嬉しい。優希が待っててくれるなら、明日も頑張ろうって思える」

 

最後のは本当に個人的な意見だった。奏子に聞いても同じことを言うだろうし、湊の場合はアイギスやコロマルでも頑張れる。もちろん、双子の姉である奏子がおかえりと出迎えてくれるのも捨て難い。だが、どうせ兄が寮で待機してくれるのならタルタロス探索で疲れた時にそういう言葉を兄の口から聞くのもいいだろうと思ったのだ。影時間終わりの出迎えなど、今までにない新鮮なものになるだろう。

ただし、体調がもっと良くなってからに限るが。

今はまだ、養生してもらわないとまた体調が悪化して今度こそ死んでしまいました、となっては意味が無い。

 

「おかえり…うれしい…」

「そう。優希がちゃんと留守番をしてくれて、出迎えてくれて、おかえりって言ってくれたら僕も奏子もアイギスも、他のみんなも嬉しくなるよ」

「きりじょうも?」

 

突如、兄の口から出てきた聞きなれない美鶴の呼び方に湊はどきりとした。記憶を失って呼び方が変わっても、やはりなにか感じるものがあるのか、それとも好意でもあるのか、と思っていれば、優希の口から答えが飛びでる。

 

「元気がなかった。たぶん自分のせい、だから…嬉しくなれば元気になるだろうか」

 

まるで小さな子供のような不器用な発想に湊は思わず兄ではなく弟のように思ってしまう。

ある意味、記憶を失ってまっさらになってしまって新しく生まれた人格だと考えればこの優希(あに)は弟と言えるだろう。が、身体は兄だし記憶が戻れば元の兄だ。優希はどう足掻いても兄という存在なのである。だと言うのに幼く見えるのは記憶喪失になって自分たちの兄だという自覚が薄いからか。それともこれが本来の兄の性格だというのか。

湊には判断がつかない。

 

「きっとね。戦えなくても出来ることはたくさんあるし、桐条先輩のことだって励ませるはずだよ」

「そうか。頑張る」

 

そう言えば、くい、と制服の上着の裾を引っ張られる。

 

「けど、わからないから教えて欲しい。湊やみながどういうことをされると嬉しいのか」

「僕は…さっき言ったおかえりって言ってくれること、とか…あとは……」

 

すぐには思い浮かばなかった。

そもそも以前の兄はこうして聞くことも無くなんとなく察して先回りしてくるタイプでもあったのだ。自分に向けられていることは察しが悪いくせに、他人だけの事になると察しが良すぎるくらいなのだ。まるでなんでも知ってます、と言わんばかりに。

故に、距離があった。兄として振る舞わねばという意識からの距離がそこにあった。

前までの兄は、どうあがいても兄としてしか湊と奏子に接してこなかった。だからこそ、年下であり弟妹である湊と奏子に頼るのはダメだという遠慮に近い意識があったように今の湊には思えてならない。

 

「悩んでる、なら、また分かったら教えて欲しい。…待ってる」

 

その言葉とこれまでのやり取りで、湊は少し今の優希の事がわかったような気がした。

バキン、と湊の脳内で音がしてカードが浮かび上がってくる。

 

──Rank UP!

 

Ⅺ “谺イ譛”

三上優希 Rank1→Rank2

 

“谺イ譛”のペルソナを生み出す力が増幅された!

 

(…?)

 

ここに来てやっとコミュランクがアップしたのはいいが、アルカナの数字が変わっているし名前は文字化けしている。

アルカナは“旅人”だったはずだし、数字は“愚者”と同じ0だったはずだ。11ではない。カードの絵柄だって変わってしまっている。どういうことなのだろうか、と湊は首を傾げる。

そもそも旅人のアルカナのペルソナを生み出すことは湊にも奏子にもできない。

どの組み合わせにしてもベルベットルームで生み出すことが出来ないのだ。そのアルカナのペルソナが何かと言うのもわからない。

それもこれも記憶喪失になった影響なのだろうか、と湊はわずかに眉を顰めた。

 

「もう寝ないとダメだろうし、僕も部屋に帰るから」

 

その言葉に無言で頷いた優希の部屋を出て、すぐ向かいの自分の部屋に入って寝巻に着替える。今日は解散なのはもう確かめたし、明日も学校があるのだ。早めに寝てしまおう、と湊はベッドに潜り込んだ。

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