君、死にたまふ事なかれ【本編完結】   作:月瓜里

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The Call from Beyond.(彼方からの呼び声)(?/?)

「おいおい、“幾月さん”、だろう? まったく、仕方のない子たちだ。まあ“幾月”という名前と姿もそろそろ飽きてきたからやめてもいいのだけれど」

 

ふう、と幾月は溜息を吐いた。

幾月のあの日と寸分たがわぬうすら笑いを浮かべたその姿は瞳だけが黄金に輝いている。

 

「飽きた…? 貴様は幾月では無いのか!?」

「いいや、違うさ。そもそも、幾月修司という人間自体は10年以上前に死んでるしそもそも私は人間じゃあない。幾月修司という人格を持った私の“化身”だ」

「そんな…じゃあ…私たちが接してきたのは……」

 

誰なのか、という風花の問いに『幾月の姿をした誰か』は笑みを深める。

 

「そうだね、きみ達とずーーーーーーっと接してきたのは自覚のない私という事になるね。ああ、本当に滑稽だ。ちょっと吹き込んでみたら面白いほどにすべて上手くいったんだからさ!」

 

10年以上前に幾月という人間は死んでいて、特別課外活動部と共に過ごしていたのは幾月の名を騙る誰かだった。

化身、と言う事は人間ではないだろう。ならばなんなのか。

その言葉の意味と目の前の存在に皆に動揺が走る中、ナギサだけがそれを睨み付けて噛みつかんばかりに声を低くしてその名前を呼ぶ。

 

「──“ニャルラトホテプ”…アンタ、なにしに来たの。わざわざ化身のものまねまでして。ダサいよ?」

 

その言葉に幾月の姿を騙る“ニャルラトホテプ”は深く笑みを浮かべるとすぐさまその姿を霧散させ、聖エルミン学園の制服を着た優希の姿になる。

金の瞳を鈍く輝かせ今度は嘲笑うように笑みを浮かべるその顔は、確かに優希の物だが全く違うもののように見えた。

 

「フン、早速種明かしとは芸が無いな? もうやつらで少し遊んでいたかったのだが。何をしに、というのは貴様が一番わかっていることだろうが」

 

そして発された声は低く優希とは全く違う“だれか”の物だった。

全てを見下し、嘲るその存在に全員がピリピリとした威圧感のようなものを感じたのだ。

 

鈍い金色の眼が、唐突に湊の方を向く。

 

「時に、有里湊。貴様は三上優希──……アレのまるで未来を見ているような言動に違和感を感じたり、疑問に思ったことはあるだろう? それを知りたいと思わんのか? 私なら、それを教えてやれるぞ?」

「え…?」

 

それは甘言であり図星だった。

 

まるで湊の心の内を覗き込んだかのように不安を言い当てたニャルラトホテプに湊の瞳が揺れる。

実際、兄の行動に対しての違和感と不安は湊自身が知らないうちに日に日に膨らんでいたのだ。

その違和感と不安が、“疑念”にまで成長したのはいつのことだったのか。湊はわからない。

しかしニャルラトホテプという存在は湊が何度も繰り返していることを分かっていてそんな甘言を発した。

 

「知りたいと言えば私はいくらでも見せてやれる。一言。そう、たった一言だ。“知りたい”、とそう望むが良い」

 

いつの間にか湊の目の前まで来ていたニャルラトホテプが湊の頬にそっと手を添え見つめてくる。

 

「──“ほら、湊。今なら教えてあげられる。いまなら、なんでも聞いてもいいんだ”」

 

()()、湊に甘言を吐く。

 

思考が鈍くなる。

 

なにも、考えられなくなる。

 

金色の眼に湊は吸い込まれ、頷きそうになり──

 

「ちぇすとぉーっ!」

「……チッ!」

 

かけて、優希──ではなくニャルラトホテプが弾かれたように身体を湊から離したことによって寸前でとどまった。

靄がかかったかのように鈍った思考が一瞬でクリアになる。

 

「旧き神よ、邪魔をするのか? 何もかもがもう手遅れだというのに?」

「当たり前でしょ! ユーキくんだけじゃなく、湊くんにまで手を出そうだなんて許しませんからね!」

 

割り込んできたのはナギサだった。その手にはどこから出したのかバス停が握られている。

恐らく、ニャルラトホテプに向かって横からそれを突き出したのだろう。

 

「そう断言するのは何故だ? 出来損ないのアレだけが他人の秘密を一方的に知っているというのは公平ではないだろう? だから私はやつらに見せてやろうというのだ! 憐れな操り人形がなぜやつら特別課外活動の秘密を知っているのかをな!」

 

高らかに告げるニャルラトホテプは人の心を解っている。解っていて、ナギサと同じく解らないのだ。だから湊を誘惑し、今なお、特別課外活動部自体を揺さぶろうとしているのだ。

 

「アンタのことが大っ嫌いだから! フィレモンもだけど、そういうのほんとやめたらどうなの!?」

「フハハ! 嫌い、か。私の失態を見たくて邪魔ばかりしていた貴様にしては随分と人間らしいことを言う! だがな、 “周防達哉”もあの人形も私の玩具だ! 所有物をどうしようが私の勝手だろう! フィレモンも私と同じく、やめろと言われてやめるわけがないだろうな」

 

嘲る様に高らかに笑うニャルラトホテプは湊たちに全く分からない話をしている。

否、ここに来てから湊たちは常に置いてけぼりだったのだ。誰も説明してはくれない。

これまで幾月という“大人”に影時間やシャドウ、ペルソナについて説明を受けていた特別課外活動部が、ここに来て誰からも説明を受けられないという事態になっているのはなるべくしてなっているのか。

彼らはいま、自分で推察するということを無意識に放棄している。そしてニャルラトホテプはそれをもわかっていてわざわざ無視してナギサと彼らがわからないような会話をしているのだ。

いま、わかるのは優希が自分たちの秘密や、未来を知っているとニャルラトホテプが語ったことだけ。

 

「なぜアレの味方を気取っているのかは知らんが貴様は所詮人から忘れ去れらた遺物! 自ら信仰を捨て、かつての力を失い無力な分霊(貴様)には黙って“道案内”でもしてもらおうではないか!」

「……っ、」

 

ナギサはニャルラトホテプの言葉が図星だったのか押し黙る。

どう答えようがどう思おうが、このネガティブマインドの化身には筒抜けなのだ。何かを喋ってこれ以上おちょくられても癪だとナギサは判断した。

喋るだけ労力の無駄だと。

 

「どうやら、図星のようだな? アレが明かしにくいことを代わりに明かしてやる。それが愚かにも()()()()()()()()()()()()()()人形に対する私からのせめてもの親心というものだ。クックックッ…」

 

嫌がらせの間違いじゃないの、とナギサは言いたくなったがどうせそれを言ったところでニャルラトホテプが気色の悪い笑みを浮かべ喜んで否定することは目に見えているので閉口した。

そんな様子のナギサに満足したのかニャルラトホテプの姿が空に溶けるように消える。代わりに黒い扉が現れ、声が遅れてその場に響いた。

 

「私の言葉の意味。そしてアレに対する疑問の答えを知りたければ扉の先へと進むがいい。貴様らの望むものがそこにあるだろう」

 

そして、ナギサ以外の面々は誘われるようにその扉の向こうへと何の躊躇もなく足を踏み入れた。

 

「待って!」

 

そこしか道が無かったとはいえ、なんの躊躇も思慮もなく踏み入れてしまったのだ。

 

──それが引き金になるとも知らずに。

 

――――――

望まれた。

 

願われた。

 

たすけて、と声がした。

 

今を大切にしたい、と意志が囁いた。

 

悔いを残したくない、と慟哭が鳴いた。

 

やりなおしたい、と後悔の念が響いた。

 

仲間を傷つけたくない、と心の軋む音が聞こえた。

 

だからこそ、自分は

 

――――――

 

 

 

 

ふらふらと、道を歩く。

どうして自分がここにいるのかわからない。ただ、何となくどこか懐かしい気がして少しだけ安心する。

一面霧に包まれているのに、足は勝手に進んでいく。まるで行くべき場所が分かっているとでもいうかのように。

 

先ほどまで酷く身体が怠くてしんどかったはずなのに、今はなぜかそんなしんどさもどこへやら。遠くへ吹き飛んでいってしまっている。

むしろ調子がいいと言っても過言ではないかもしれない。

ナギサと名乗った少女(自分と同じ名前の存在)はどこかへいってしまうし、早く帰って寝たいのに、正しく五里霧中といった様子で一向に出口へ着かない。

そもそも、この場所に出口はあるのか。

これが夢でないとしたら今頃寮では大騒ぎになっているのか。それとも、自分の事なんて無かったことになっているのか。

 

………。

 

流石にそれは無いか。無いと思いたい。

 

憂鬱な思考を振り払ったはいいものの、なぜ自分がこんなとこにいるのかさっぱりわからない。

たしかタルタロスへ行くと言った湊たちを見送って、それから。

それからは、記憶が無いので何も思い出せない。

 

うむむ、と頭を抱えて唸っていればざわりと唐突に鳥肌が立ち、“その場から離れろ”と言わんばかりに危険信号が頭を支配した。

急に自由に動くようになった体で慌てて飛び退けば、粘性の黒い泥のようなぬめぬめとした液体を滴らせた触手が先ほどまで立っていた場所を薙ぎ払った。

 

「ペル──」

 

言いかけて、武器もなければペルソナも召喚できない事を思い出して舌打ちしてから走り出す。

あの触手は10月の満月の日に見た良くわからないシャドウの物によく似ている。となると、ここには似たような奴が沢山いるのか。自分は無事に生きて帰れるのか。とにかく逃げないと。

思考が一瞬で頭の中を駆け巡る。

この体調の良さと身体の軽さはまるで持病がなく体調不良に殆どなる事の無かった以前の『周』に戻ったようで。

 

確かにペルソナが召喚できないという点ではある意味身体の状態が巻き戻されたと言ってもいい。それも、10周目くらいまでの自分の状態に。

となると交戦は絶対に避けなければいけない。身体能力的にもペルソナを持っていなければシャドウに対する攻撃を受けたときのダメージが半端じゃないのだ。

恐らく、ペルソナに目覚めることによってシャドウや悪魔に対する耐性? のようなものが出来るんだろうが生憎今は持ってないので一発でも喰らえばアウトだろう。

こんなところで死んでられるか! と叫びたい気持ちを抑え、走る。

 

どれくらい走ったかはわからないが辺りが鬱蒼とした木に囲まれた暗い森に変わったところでこちらを追って来ていた気配がなくなった。が、

 

「るーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 

霧の向こう、遠くから不安定な音程の男とも女ともつかない声が聞こえる。

妙に間延びしたそれはぞわぞわと背筋を這いあがるような恐怖心と共に脳内をじわじわと侵蝕してきた。

そして、その声が止んだと思ったらすぐ後ろから

 

「るーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

「ひっ…」

 

声が、聞こえた。

かと思えばぐい、と身体を引き寄せられ拘束される。すぐ近くに声の主が居るはずなのに深過ぎる霧のせいで何も見えない。

 

「ふぐっ!?」

 

不意に口になにか黒いぬるりとした物を突っ込まれぐいぐいと喉奥に押し込まれた。

 

「んぐ…っ、おえっ…ふ…あ、あぐ…あ…あ……あ……」

 

苦しい。

気持ち悪い。

くらくらする。

息ができない。

吐きそうだ。

 

なんでこんな目に遭わないといけないのかと思うも抵抗しようにも酸欠で体にうまく力が入らない。

このまま死んでしまうのか。それとも蹂躙されて死ぬよりも恐ろしい目に遭うのか。ぞっとしたが抵抗する手段がないからどうにもできない。舌を噛み切って自殺、なんてことも考えたがそもそも舌を噛み切った程度では死ねないし噛み切るためにはこの口に入っている異物を何とかしないといけないのでそれも無理。

最悪だ、なんてだんだん暗くなってくる視界とどこか遠い思考で考えながらしばらく耐えていれば『なにか』は満足したのか、興味を失ったのかどちらかわからないが自分を解放してべちゃりと乱暴に地面に落とした。と、同時に咳き込んで息を吸い、その衝動のままにせりあがってきていたものを息と一緒に地面に吐き出す。

 

「げほっ、げほげほっ、げほ…うっ…おえええ……はあ、はあ、はあ、はあ……うぅ…」

 

意味が分からない。いったい見えない『なにか』は何がしたかったのか。殺すわけでもなく、拘束して喉奥と口の中になにかを突っ込んできた以外は何も危害を加えられなかった。

殺されてやりなおしになるよりかは何倍もマシなのだが、単純に不快で気持ち悪く苦しかっただけだ。

それがまた、奇妙な違和感を発していて気になるようなならないようなそんな気分にさせられる。

まだここが何なのかよくわかっていないのに本当に嫌になってきた。せめてモコイ()()が居ればこんなに心細くなかっただろうに。

 

「……?」

 

ふと、自分の思考回路が11月以前の物に戻っていることに気がついた。というより、あのもやのかかった堅物じみた思考回路がどこかへとすっぽ抜けてしまったというべきか。

さっき変なものを口に突っ込まれたショックのせいかなにか分からないが、すっかり全快な自分が戻ってきていた。

ありがたい事だとは思うが今度は自分の問題を直視しなければいけなくなって自嘲気味の乾いた笑いが零れる。

 

「──は、はは…結局、全部自分のせいじゃんか…」

 

10年前の事故が起こったのも。実の両親が死んだのも。あの場所で唯一の味方だった千鶴さんが死んだのも。タカヤ達が辛い思いをしたのも。大型シャドウが現れ、世界が終わってしまうのも。

 

湊と奏子が命を懸けてニュクスを封印せざるを得ない状況になったことも。

 

全部自分のせいだった。

なにが『湊と奏子を救う』、だ。原因がそんなことほざいているのは本当に何様のつもりなのか。

自分さえいなければ事故は起こらなかった。デスも産まれなかった。『ストレガの子供たち(桐条の実験体)』なんていなかった。

今まで忘れてのうのうと生きてきた自分が誰かを救おうだなんておこがましいにもほどがある。

全部自覚したせいで狂ってしまいそうなほどの自責の念が急に押し寄せてくるも、ここで狂ってしまえばそもそも意味がないため僅かに残った理性が押しとどめる。

正直、どうやって湊達に顔向けすればいいのかわからなくなってきた。

今すぐ()()()()()()()()。この存在を消え去れるものなら消え去ってしまいたい。

 

無かったことにしたい。

 

ぽたり、ぽたり、と雫が頬を伝って落ちる。ごしごしと乱暴にそれを拭いながら、立ち上がって歩く。

みっともなく泣く資格が自分にあるとは思えない。なんで自分が泣くのか。泣きたいのは自分のせいで被害を被ったみんなの方だろう、と思った。

悲劇のヒロインごっこがしたい訳じゃない。ここで歯を食いしばって頑張って、頑張って頑張って頑張って、湊と奏子を救う事が唯一自分にできることなのに、それすら放棄しようだなんて狡いにも程があるだろう。というかそれを無くしてしまったらそれこそ存在意義がない。

もしそうなったら自分なんて無価値で、いる意味の無い居なくてもいい存在じゃないか。

むしろ居ない方がいい存在に違いない。

 

──やっぱり自分は要らない存在なんだ。

この世の異物。それがきっと自分だ。

 

ああ、ほんとうに気持ち悪い。

 

この気持ち悪さを誰かに相談しようにも、それすらも贅沢だと言うのか唯一の相談相手だったモルフェは自分の中からいなくなってどこかへいってしまったのか出てきてはくれないようでただただひとり行く先もわからないまま歩くしかない。帰り道を探すしかない。

 

「──のい………ら…にー…い…いえ…しゅ……す」

「?」

 

ふと、急に誰かに呼ばれたような気がしてきょろきょろと周りを見回す。

どこからが聞こえてくる自分の事を切に求めているようなその悲痛な声に酷く心をかき乱される。

 

行かなくては。

求められているのなら、行かなくては、と頭が急にそれだけしか考えられなくなる。

歩みを進める。勝手に足が動く。誘われるように。呼ばれるように。

ざぶざぶと、足元を満たす水に近い黒い泥をかき分けしばらく歩き続ければ、ようやく足が止まる。

気がつけば、霧は全て晴れて真っ暗な闇と光る満月。そして静寂だけが支配していた。

おもむろに真っ暗なそこで仰向けに寝転がれば、生ぬるい温かさに意識がぼやけてくる。

 

しばらくぼんやりとしていれば、可愛い子山羊が寄って来た。なぜかそれが酷く愛おしく見えて撫でようとしたが手足に力が入らなくてやめる。

するとそれはこちらが見えていないのか、そのままフラフラとどこかへ去って行ってしまう。

 

「オカアサン、オカアサン、オカアサン…ドコ…ドコ…触れたい……会いたい…来て…来て…ひとつに…」

 

遠くからどこかで聞いたような声が聞こえる。

赤子のような泣き声がする。

子供が母親を探しているような気がする。

声を出さないと、と思うも思考回路がうまく回らない。異常であるはずなのにその異常を異常と認識できない。

 

眠ってしまえ、と誰かが囁く。

 

眠らないと、と誰かが囁く。

 

ここで眠ってしまえばすべてが解決する(消えることができる)のだと、誰かが囁く。

 

帰らないといけないのになぜかここでずっと眠っていることが正しい事のように思えてきて、ゆっくりと目を閉じた。

 

――――――

 

救いたいと思った。

 

救いたかった。

 

…救えなかった。

 

──巣食われた。

 

――――――

 

扉をくぐった先で湊たちが見たものは一本の道だった。

その両端に何個ものデザインの違う扉が立っていて、突き当りには大きな南京錠が両脇の扉の数だけついた大きな扉が聳え立っている。

道は何の変哲もない、むしろ穏やかさすら感じる春のあたたかな木漏れ日の入って来る桜並木だった。

そこにナギサが叫んで止めるほどの物があるとは思えず、その穏やかな景色で幾分か立ち直った奏子と湊は首を傾げた。

 

「……ねえ、帰ろう? この先のものなんて、見たってなんにもならないよ…」

 

震えて、泣きそうな声のナギサが帰ることを執拗に勧めてくる。

出会った時とは大違いな余裕のないその態度に、先ほど出てきたニャルラトホテプという存在が彼女にとってどれだけ苦手な存在だったかをありありと見せつけられているようで。

そしてそのニャルラトホテプという存在は尊大かつ油断ならない者だというのはわかったが悪いものなのかどうかすらわからない、ときた。

ナギサ自身は敵意を露わにしていたし、湊もかの存在に言いようのない不安のようなものを感じていたが疑問を解決できると言われればその提案に乗らないわけにもいかず。

と、いうよりもこの扉の先に向かうしかめぼしい道が無かったというべきか。

何も言って来ない面々に諦めたのかナギサはため息を吐いた。

 

「…………安全地帯のセーフルームはこの扉だから」

 

しばらく沈黙した後に、ナギサは入ってきた扉を開けて中を見せる。

セーフルーム、という割には薬局のような内装が一同を出迎え、開けたドアから軽快な店内BGMが漏れてくる。

 

「いらっしゃい!」

『ヒットポイント回復するなら傷薬か宝玉で~』

「……やっぱりナシで!」

 

バタン、と速攻でドアを閉めたナギサは張り付けたような笑みをしてどこからか取り出したガムテープで扉を封印しようとした。

 

「えっ、いまの、『サトミタダシ』…? えっえっなんでここに?」

「ユーキくんの認知…と、アイツの気まぐれかな…売ってるものは真面目なんだろうけど流れてる曲がね……美鶴ちゃんまでサトミタダシの歌に洗脳されちゃうのはさすがにあたしやだよ…あ、傷ついちゃってどうしても回復アイテムが欲しいとかなら開放するけど…」

 

惚けたように呟く奏子に答えたナギサはナギサでなにかこだわりがあるらしく折角のセーフルームを封印してしまった。

 

「まだここは森じゃないし“パンの大神”に襲われる心配もないからガムテで封印しといても大丈夫かな…この道もまだ…うん、大丈夫そうだし。ヤバかったら即剥がすからね」

 

それきり沈黙して湊と奏子に選択を委ねたナギサはゆっくりと目を閉じた。

仕方なく湊と奏子は扉のノブが回るかをひとつひとつ確認する。

結局、右側の1番近い扉しか回らず、進める道が決まりきっているようなその強制的なものに徒労感を感じた。

 

「なんつーか? ゲームのお約束って感じだよな。となると、全部の扉に入って鍵をゲットすればあの奥の扉が開くとかじゃね?」

「それ、ありそうですね」

 

順平が奏子の後ろから顔を出し、奥の扉を見た順平がそう言い出しそれに同意するように天田も頷いた。

ナギサは依然黙ったままだったが特に止めることも邪魔もしてこないのでドアに入ってもいいだろう、と湊は判断してドアノブに手をかける。

 

「じゃあ、開けるよ」

「ああ。何が来てもOKだ。心構えはできているはずだからな」

 

明彦の言葉が終わるか終わらないかでドアノブが回り、ドアが開かれる。瞬間、景色が塗り替わった。

どこかの暗い一室の隅で仮面をかぶった優希がぐったりと角に凭れている。

その真っ白な仮面には、なにも描かれてはいない。

 

『要らない。自分はみんなの輪には要らない。世界には要らない。ただ湊と奏子が笑って生きていられるならそれでいい』

 

優希の声が響く。

 

『俺はクズだ。最低限の事すらしてやれなかった』

 

自嘲するようなそれは、後悔が滲んでいた。

 

『受け入れたくないと否定して、自分可愛さに逃げた卑怯者だ…だから…』

 

それきり声は聞こえなくなって目の前で壁に凭れている仮面をつけた優希が縮こまる様に膝を抱える。

湊が一歩踏み出して、その優希に近づこうとした瞬間仮面をつけた顔が湊たちを睨み付ける様に上がった。

 

「…誰だ」

 

発された声は気力がなく、今までにないくらい拒絶の色が強い。そのことに一瞬湊はたじろぐ。

だが、そんな湊達の目的をすぐに察したのか、元々知っていたのか分からないが優希は誰の言葉も聞かずに相変わらず気力の無い声で納得したような言葉を吐く。

 

「ああ、あの扉を開けたいんだ。……鍵はあっちの部屋だから。勝手に持って行ってくれよ」

 

指をさしながら投げやりに答えた優希にまるで全てをあきらめているような印象を感じた。

 

「お兄ちゃん、どうしてそんな投げやりなの?」

「…どうでもいいから」

 

返ってきた返事に奏子が口を震わせる。湊の口癖と同じそれを兄の口から聞くことは珍しい。

 

「どうでも、いい…?」

「生きるのも、死ぬのも、痛いのもつらいのも怖いけどもうどうでもいいんだ。何も感じない。ただただ怠い。けど、頑張って動かなきゃ、湊と奏子を救わなきゃ。やったことの責任を取らないと、俺に生きてる価値なんてないから」

 

それは一種の強迫観念だった。

認知上の優希だと言えどもそれは優希の本心のひとつであることに間違いは無く。その無気力さにメッキが剥がれた優希はこうも壊れていたのかと全員が自覚した。

 

「おい、まだそんなこと思ってやがったのか!? あんだけてめぇの弟や妹が…こいつらがてめぇを想ってるのをまだわかっちゃいなかったっていうのかよ!!」

 

だが、その言葉に激昂したのは荒垣だった。

仮面をかぶった優希の胸倉を掴み上げ、壁に押し付ける。

 

「うん。わかんないんだ。……わかってたら、俺はもっとちゃんとした人間になれてたのかな」

 

その問いに誰も答えることは出来なかった。素直に分からない、と言われてどう答えればいいのか分からない者ばかりだった。

中途半端な慰めの言葉すら言えない。

下手な言葉をかけることすら出来ない。そもそも、本心をさらけ出された場合の対応に慣れていない者ばかりがこの場に立っていた。

すなわち、真の意味で仲が良い訳では無いために理解が足らない事を意味していた。

あくまで優希は仲間という点を除いて先輩または同級生。良くて友達程度だ。そして仲間とは言っても特別課外活動部は同じ寮に住んでいるだけであって全員の仲がとても良いという訳では無いし複雑な事情もありギスギスすることだってある。優希自身も手を出すところは出しているが殆どは成り行きに任せ、静観することが多かった為に全員と仲が良い訳でもなかった。

特にゆかりと風花の2人に関してはほぼほぼ『ただの親切な先輩』もしくは『湊と奏子(クラスメイト)の兄』程度な認識に近かったのだ。

どこまで行っても義務という責任の上に成り立つ活動ありきの関係。それはもしかすると仲間という関係ですら無いのかもしれない。

 

優希が無意識に壁を作っていたせいか。それとも特別課外活動部自体に問題があるのか。

どちらにせよ、ここに来て自分で考えるということと共に特別課外活動部の面々は改めて自分たちの関係の見直しまでさせられそうになっているのだ。

 

「きっと全部知ってしまったらみんな軽蔑する。いや、違うな。俺の事、恨むだろうな。狡いって。卑怯者だって」

 

優希の口からうわ言に近い自嘲の言葉が漏れる。

 

「“お前なんか死んでしまえ”って思うだろ。絶対」

「そんなこと…!」

 

咄嗟にゆかりが否定の言葉を吐こうとして言葉に詰まる。幾月からカミングアウトされた優希の過去を知ってしまった手前、そんなことない、とは言いきれなかったのだ。

 

「だって、俺は、俺は……」

 

どぽん、と優希の姿が黒い泥になって溶け落ちた。そして、そこから影がムクムクと起き上がる。

 

「離れてガッキー!」

 

ナギサの鋭い声が飛び、咄嗟に荒垣が退けば泥が形を成し色づいてゆく。

現れたのはシャドウとはまた違う異形。灰色がかった血の気の無い白い肌がてらてらと輝き、目の無いずんぐりむっくりとしたその姿はまるでつるりとしたヒキガエルのようだ。

鼻があるべき場所にはピンク色の触手がだらりと垂れ下がっている。

 

醜悪。その一言に尽きる容姿だった。

 

「あくまで認知上のユーキくんだから、対応しきれる感情の臨界点を超えて化けの皮が剥がれちゃって悪魔になったっぽい! 俗にいう、刺激しすぎってやつ~!?」

「わ、悪ぃ」

「いーのいーの! 最後は多分勝手にヒートアップしちゃったみたいだし元からこうなるように仕組まれてたんだと思う、よ!」

 

ふわり、とナギサの眼前に青いカードが舞い降りる。それを握りつぶしたナギサを青い光と力の奔流が覆った。

 

「GOGO! “ナイトゴーント”! “ムーンビースト”なんかやっつけちゃえ!」

 

多少デフォルメされているであろうマスコット風味な真っ黒なのっぺらぼうな顔をした悪魔のような風貌のペルソナを召喚したナギサは白い化け物──“ムーンビースト”にそれをけしかけた。

 

【百烈突き】

 

目にもとまらぬ速さで“ナイトゴーント”がその手に持った三又の槍でムーンビーストを穴だらけにして悲鳴を上げさせる間もなく消失させる。

 

「いえーい大勝利! ムーンビースト1体程度ならナギサちゃんでも楽勝なのです! ぶいぶい!」

 

自信満々に振り返り「褒めて」と言わんばかりにひとりで大はしゃぎするナギサはまるで積年の恨みを持つ相手を倒したようだった。実際は雑魚も良いところの敵なのだが、それを湊らは知らない。

湊はそんなナギサを無視して認知上の優希が指差した扉を開ける。相手をするだけ振り回されてしまうだけだ、とナギサがニャルラトホテプに抱いた感情と近いものを湊が抱いているのは何の因果か。

 

「ペルソナ使いだったの!?」

「ちょっと違うけど、そんなカンジ! なのでちゃんとナギサちゃんも戦えるんですよ、はい!」

 

驚くゆかりに笑顔で答えたナギサの声をバックに、湊が部屋の真ん中に置いてある机の上にあった鍵を手に取るとほんのりと暖かく、何となく落ち着く気分にさせられる。

 

「まずはこれでひとつ、でありますね」

 

アイギスが横から覗き込んでそう言うが、湊は頭の中でぐるぐると先程の仮面を被った優希の言葉の意味を考えていた。

 

あの優希は拒絶しつつも酷く何かに怯えているようにも見えたのだ。

どうでもいいと達観しつつも隠している何かを知られ、幻滅されることを死ぬ事よりも恐れている。

それは湊と奏子に対してか。それとも特別課外活動部のメンバー全員にか、湊は分からなかった。

だが、隠していることなら湊にもある。

何故かこの1年を繰り返していることだ。

それは誰にも言っていない。双子の姉である奏子にも、ひとつ上の兄である優希にも。誰にも。到底信じてもらえるわけが無いし言う必要も無いか、と思っていたのだ。

なので唯一知っているのはファルロスもとい綾時ぐらいなものだった。

 

もし、ニャルラトホテプの言っていた「数え切れないほどやり直している」という言葉が湊の想像通りのものだとするなら。兄の言っていた「湊と奏子を救わないといけない」という言葉とあわせて考えると最悪の予想がよぎる。

もしかしたら、兄は──優希は。湊と奏子がニュクスを封印して死ぬ事を知っているのでは無いか、ということだ。

だが、それをどこで知ったのか。何故、そんなことがわかるのか。

 

湊はこの先の扉も見て答え合わせをする事でしかそれらを知る方法が無いのだと確信してしまった。

それが本人の意思を無視した乱暴なものなのだと、その結果どんな影響をもたらしてしまうのかも分からずに。

 

「ところで、悪魔ってなんなんですか?」

「え? 悪魔のこと知らないの? 昨日戦ってたでしょ? みんなは」

 

ふと、ナギサが先ほどのムーンビーストを“悪魔”と呼んでいたことに疑問を持った風花がナギサへと悪魔とはなにかと訊けば、ナギサが不思議そうに首を傾げる。

昨日の、と言われて思い浮かべるのは倉橋翁が変化した蛇頭黄幡神のことだ。あれは自ら悪魔だと名乗っていたが、シャドウの他にもそういう“化け物”がいるとは思っていなかったのだ。

 

「あ、みんなはシャドウの事も悪魔の事もよくわかんない化け物だと思って倒してるんだっけ? ゲームの敵みたいに」

「……違うとでも言うのか?」

「うん、違うよ」

 

美鶴の疑問に即答したナギサは元の道に戻るドアを開きながら説明を始める。

 

「悪魔は人々の間で伝わる神仏とかそのまま悪魔とか、妖怪とか広義の括りがマグネタイトやマガツヒって物質を媒介にこの世に姿を現したものなの。例えば…さっきの受付にいたモコイも悪魔になるかな」

 

周りの景色が桜並木に変わる。と同時に出てきた扉が砂となって消えた。

 

「で、シャドウなんだけどシャドウは人間自身が持つ負の側面そのもの。直視したくないもうひとりの自分って言ってもいいかな。得体の知れない敵じゃなくて、みんなの中に必ずある自意識の影みたいなものなの。ほら、みんなも自分の嫌なとこってあるでしょ? 一応、シャドウも広義の意味では悪魔とも言えるかもね」

 

シャドウが得体の知れない化け物ではなく、人間の負の側面だと言われた特別課外活動部の面々はナギサの言葉をにわかには信じられなかった。

 

「待て…なら何故シャドウが人を襲ったり襲われた人間が無気力症候群なんかになるんだ」

「何故って、さあ? 悪魔が人を襲う理由ならわかるけど…シャドウが人を襲う理由はわかんない。けど、無気力症候群に関しては結局生きてくには正も負もどっちも必要だから、精神の負の側面であるシャドウが抜けちゃったから精神のバランスを崩しちゃって起こるのかも」

 

明彦の疑問に答えたナギサはしかし、自分の出した答えに納得がいかないようで唇に指を触れさせながら悩むように視線を落とした。

 

「んー…でも、なんか負の側面が無くなっただけでああなるとは思えないんだよね…負の感情っていうある意味『精神の穢れ』と言うべきものを取られた人間はむしろ気持ち悪いくらいのポジティブにしかならないはずなの」

 

そのままナギサは言葉を続ける。

 

「だってそうでしょ? 負の感情が無くなったんだから。残るのは正の、ポジティブな感情だけなはず。なのに、無気力になってる。やっぱり変だよ」

「確かに…」

 

そこだけは特別課外活動部の面々にも納得ができた。ふつう、負の側面を取り除いたら残るのは正だけになる。逆もまた然り、だ。

 

「人間が生きる上で必要な夢見る力や希望を奪い取られたっていうのなら、やる気とか燃え尽きちゃって無気力になってもおかしくは無いんだけど、根本からなにか違う気もするし……あー! わかんない! あたしはこういうこと考える側じゃないの! どうせ全部アイツのせい! はい、決まり!」

 

無気力症候群について考察しようとしたナギサは結局判断材料が足りないのか、それとも詳しいことは何も分からないのか思考を放棄して頭を掻き毟って叫んでニャルラトホテプに責任転嫁した。

いささか暴論に思えるそれは、実際元を辿ればそのパターンが多いのでニャルラトホテプの被害者に聞けば全員首を縦に振りかねないものだ。

 

「ああそうそう、ペルソナもシャドウと同じ存在だよ。自分の見たくない嫌なとこを制御して力に変えてるの。でも、みんなのやり方はたぶん…ちょっと特殊かな。召喚器を使って『今なんとかしないと死んじゃうぞー! ほら死ぬぞー!』って生命の危険信号を出して無理やりペルソナを引き摺りだしてるみたいな? 結構ヤバいと思うんだよねそれ」

 

じと、と奏子の腰のホルスターに刺さっている召喚器を()めつけたナギサは「まあ、あたしの所感だからどーでもいっか」と背伸びをすると話を無理やり断ち切った。

 

「どうでも良くなんかないだろ! どこがヤバいのかちゃんと教えてよ!」

「えー…」

 

噛みついてきた天田に至極めんどくさい、と言いたげにナギサは目を逸らして不満気な声を出した。

話を聞いていた他のメンバーも自分たちの召喚方法が『ヤバい』と言われて不安にならないわけではなかったのでそこでわざとらしく話を断ち切ったナギサから詳しく話を聞きたいのは天田と同感だった。

 

「なにか話すことで不都合なことでもある?」

 

渋るナギサに湊が追い討ちをかけた。

湊としても不都合があるならその不都合の理由まで聞きたかったからだ。しかし、

 

「や…ない…けど……」

「無いならなんで話してくれないの?」

「う…そ、それは…」

 

不都合がある訳でも無いのに渋るナギサの目は左右に泳いでいた。が、小さくため息を吐くと観念したのか話し始めた。

 

「…アイちゃんとコロマルを除く、きみたちの召喚方法って言ってしまえばこう…擬似的な自殺じゃん? それってすなわち死に触れる行為って言うか、死に触れたがる行為な訳なの。それで──」

 

ナギサの説明の途中で、ぐらぐらと地面が僅かに揺れる。

 

「地震…!?」

「ホントだ。揺れてる。…えと、結論から言っちゃえば死に触れようとする行為自体が問題だよって話。さっきのあたしがしたシャドウについての説明とあわせると間違いなく、良いイメージは無いよね」

 

地震について流しつつ、そんな召喚方法になったのは召喚器(それ)を作った人達が、命の危機に瀕した時にペルソナに覚醒するパターンを見たせいかもしれない、と続けてナギサは予測を話す。

そんなナギサの予測を聞いて、考え込んでいた風花が口を開いた。

 

「シャドウは負の感情や負の側面…つまり、私たちがペルソナを召喚する際の死に触れようとする行為に伴っている感情が、シャドウを産むかもしれないってこと…ですか?」

「そんな感じ。風花ちゃんやっぱりちょっと鋭いね」

 

短く風花を褒めたナギサの表情は笑っていたが消して明るいとは言えない物だ。複雑そうな感情を孕んだその表情は優希がよくする困ったような笑顔に似ていた。

 

「いや、でもオレら、毎回そんなこと考えて戦ってる訳じゃねぇし、トツゼン言われても…ピンとこねえっつーか、なんつーか、ペルソナ召喚して、戦って、街の人達守ってさ、そーゆーの、悪いことじゃねぇのにさ…シャドウを増やしてたかもしんねーだなんて…」

 

納得出来ない、と言いたげな順平の歯切れは悪い。だが、その言葉は湊1人を除いた特別課外活動全員の気持ちを代弁していた。

シャドウを倒すために使っている力を発動する方法がシャドウを生み出すかもしれないなどと言われたら困惑するのも当然だろう。

 

「大丈夫、その反応が普通だよ! 1回ずつならあくまで微々たるものだし相対的には減ってるんだから気にしなくていいよ。ただ、それが大衆の死に触れたいと思う気持ちと共に積もり積もればどうなるか、って話になってくるわけ。けど気にしてたら戦えなくなっちゃうし今は気にしなくていいよ。ほら、気にしすぎも毒って言うじゃん?」

 

軽い慰めの言葉を吐いたナギサはそれきりまた沈黙する。

その中で湊は1人だけ、ナギサの伝えようとしていたことの真意を解ってしまった。

ナギサが言った“死に触れたいと思う気持ちから生まれたシャドウ”はただのシャドウではない。

 

──“エレボス”。

それがナギサが暗に示したシャドウの名だ。

そしてそれは()()()()()()()()()()姿()()()()()()

厳密にはニュクスやニャルラトホテプと同じ“悪魔”や“神”に近い存在ではあるが、人の死に触れてみたい・知りたいという欲求や悪意が積もり積もって顕現したシャドウともいえる。

なぜ彼女がその存在について知っているのか、という疑問があるがそんなもの今となっては些細なことだった。

問題は、『それが何をするか』。

エレボスは死に触れたい、知りたいという気持ちだ。それは、死を呼ぶことと同義とも言えるのではないのだろうかと湊は考えている。

否、実際そうだった。人のそういう感情が“死の宣告者(デス)”を生み、結果としてニュクスを動かしたのだ。

それを最後の最後に気づいたからこそ、かつての湊と奏子はニュクスを『消す』のではなく封印した。

彼女とその化身(アバター)となった綾時が悪意に晒されないように。望まない死をふりまかないように。

そもそも生と死は表裏一体なのだから消すことが出来ないというのは置いておいて、だ。

言ってしまえば『形を持つまでに肥大した、人の死に触れてみたい・知りたいという欲求や悪意(エレボス)』そのものが今回の元凶といっても過言ではない。

ただ、湊にしてもこの場にいる誰にしても、それをどうにかするという事は出来ない。

世界を動かすことは力のない個人にはできないはずだ。

 

──だからこそ、兄か、湊と奏子(自分たち)かの誰かが封印するために魂を賭け、死なないといけない。

 

「……と、みなと!」

「っ!」

 

奏子に声を掛けられ、湊は顔を跳ね上げた。

エレボスについて深く考え込み過ぎて、奏子が呼んでいるのに気がついていなかったらしい。

 

「もー、何度呼んでもぼーっとしてるから心配したんだよ?」

「ごめん。で、なんだっけ」

「ん、いまからふたつ目の扉に行こうって話になったとこ」

 

つかつかと桜並木を歩いて奏子がふたつめの扉のノブに手をかける。

がちゃり、と開ければ世界が塗り替わった。

 

『なりきらなきゃ。頑張らなきゃ』

 

声が響く暗い部屋の中でパチパチと、炎が燃えている。ベルトコンベアで運ばれてその炎の中に投げ込まれているのは顔のないマネキン達だ。

 

『まいにち、ちゃんと“三上優希()”を演じないと。ちゃんと“いつもの俺”でいないと。“湊と奏子の兄”でいないと、心配、かけるから』

 

そして声が聞こえなくなる。

暗く、その燃えている炎しか光源がないその部屋で炎と向き合うように椅子に座っているのはまたしても優希だった。

恐らく、何らかの仮面を被っているのだろうがその顔は炎と向き合っており見えない。

 

「三上!」

 

認知上の存在だとわかっていても、美鶴は優希を呼んだ。一体マネキンを焼いて何をしているのか。一体、何を考えているのか。対話は、できるのか。

ただただそれを確かめたかったのだ。

 

名を呼ばれた認知上の優希がのろのろと振り向く。

その顔にはやはりと言うべきか仮面を被っており、子供の落書きのような笑顔(スマイル)が描かれていた。

 

「あれ、美鶴さんに…みんなも。なんで? ここには来ないと思ったのに。困ったなあ。えーっと、出迎えの挨拶ってなんだっけちゃんと考えてたんだけどな……『“ウィッカーマンの焼却場”にようこそ!』だっけ?」

 

なんだか違うなあ、とぼやきながら考え込むように顔を下げた優希はひとつめの扉の中にいた認知上の優希のような無気力さや拒絶の感情というものがない。

多少ぼんやりとしている印象を受けるが最近の優希に比べれば忘れっぽいような雰囲気があるだけだ。

 

「その、三上は何をしているんだ…?」

「えっと、なんにもないからおもてなしとかできなくてごめんね。それに”鍵”が欲しいんだよね。って、あれ? 違うの? 俺が何をしているか? 見ての通りだけど…」

 

美鶴の問いにツンツンと火かき棒で炉の中を突いた優希は首を傾げる。

見ての通りで分かっていれば聞いていない、と言いたくなった美鶴を察してか、優希が小さく納得するような声を零す。

 

「…ああ、具体的にってことか。え、これ言って良いやつかな? “本物の俺”に対して怒らないなら言ってもいいけど」

 

どうやらこの認知上の優希は自分が認知上の偽物であることを自覚しているらしい。

それでいて、そのままの優希を演じたままでいるのは先ほど聞こえてきた声と何か関係があるのか。そんなことを考えながら美鶴は口を開く。

 

「…怒らないと約束しよう」

「ほんとに? 処刑もしない?」

「しないと誓おう」

「そっかあ。なら、話すよ!」

 

急に嬉しそうに椅子から立ち上がった優希の声はうきうきと弾んでいるようにも聞こえた。

 

「俺さ、ずっとここで『要らない感情』たちを焼いてるんだ! だからヒマで寂しくて! みんながこの世界に来たって聞いてから力になりたかったんだ!」

 

純粋に「力になりたい」と言った優希は仮面をつけていなければこれ以上ないくらいにキラキラと目が輝いていたことだろう。

美鶴は何となくそんな様子のハイテンションな優希に大型犬が尻尾を振る様を想起して、こめかみを抑えたくなった。

 

「あ、ああ。ありがとう? それで、要らない感情とはなんなんだ? そんなもの、あるわけ──」

「あるよ」

 

ない、と言い切ろうとした美鶴の言葉を先に口を開いたらしい優希が遮った。

 

「…みんなにだってあるだろ? なにかを選択するときに切り捨てる感情が。俺の場合はこうして目に見えているようにみえるだけだよ」

「だが、どうしてそんなことをしている。そんなに多くの感情を捨てなくてはならないほどに、きみは、日々何かを悩んでいるのか? わたしでは、きみの気持ち軽くすることはできなかったのか?」

「それは違うよ! 俺だって美鶴さんに対して無力だ! 許嫁だったり家の事で悩んでいる美鶴さんを見てもなーーーーーーんにもできやしない! 俺なんかより真田くんの方が美鶴さんのことを考えて動いてるんじゃないかな?」

「お、俺か!?」

 

突然話を振られた明彦が驚くも、話が妙に噛み合わない。

まるであえて所感を述べようとはせずに自分の至らなさを語り話をすり替える優希の話し方に、ここで初めて美鶴は荒垣や湊が覚えたものと同じ違和感を持った。

それは些か遅すぎる気づきだったが、それでも手遅れになる前に気づいたのは僥倖だったのかもしれない。

 

「いや、明彦の事はいい。私はきみについて話しているんだ。三上」

 

違和感に気づいたものの以前に「自分の好きなようにする」と誓った手前、感情を乱すことはせずに軌道修正をするためにまっすぐ仮面を見て美鶴がそう話せば、首を傾げながらも優希もそれに追従するように一度口を閉じて息を吸った。

 

「え? あ、そうなんだ。えーっと、なにについて話してたんだっけ?」

「感情を頻繁に切り捨てなければならないほどに何かに悩んでいるのか、それとも私ではきみの気持ちを軽くすることが出来なかったか、という話だ」

 

美鶴が痛くなってきた頭で説明すれば、「そっか!」とわかっているのかわかっていないのか、どちらかわからないようなただただ元気なだけの普段見ている優希らしからぬ返事が返って来る。

ひとつめの部屋に居た認知上の優希もそうだったがどうにも極端に見えて仕方がない。

 

「“本物の俺”は2010年の1月31日に死ぬ予定をしてるんだ! その日までに“本物の俺”が死ななかったら、だけどね。だから、未来につながるような感情は全部いらないんだ。だって、大事にできないし今度こそ成功させなきゃいけないからどのみち死ぬことは絶対なんだからさ! だから、美鶴さん、“本物の俺”に代わって謝っとくよ。色々ごめんね!」

 

死ぬ予定をしている。

その言葉と死の願望に謝罪の言葉など右から左に通り抜け息を飲んだのは、美鶴だけではない。ナギサを除く全員が息を飲んだのだ。

想像以上にズタボロの精神を引き摺っていた証拠なのか、それとも何か別の理由があるのか。

ナギサと湊以外には分からなかったが、精神的に異常である事には間違いなかった。

可哀想に言葉の裏に隠された意味を予測して、息を飲んだあげく青ざめた顔になったのは湊だ。

 

「な、んで…なんでッッッ! 優希が、そんなこと…あんなの、する必要は…! だってあれは、」

「あれれ? なんだ、もしかして()()()()()()()のか。困ったなあ。これ、“本物の俺”が知ったらリセット案件では? ま、でもいっか!」

 

青ざめて思わず叫んだ湊の慟哭を流して認知上の優希はマイペースにがさがさと火かき棒で足元をまさぐると、その先端に鍵をひっかけて美鶴へと手渡す。

 

「はい。詳しい事はよっつめの扉で聞いてきてね。ああでも、みっつめの扉にいる“彼”が素直に鍵を渡してくれるとは思わないな。ある意味あそこに囚われてはいるけど、出ていったヒュプノスを除いた最後の防壁みたいなものだから。“本物の俺”もこうして秘密を知られるのは本意じゃないだろうしその意志に従って全力で排除しにかかるかもね!」

 

戦いになるかもしれない、と脅してくる優希の声は冗談めいていてナギサの言動に近しいものがあった。

 

「でもラッキーなことに “彼”は俺や“本物の俺”と違って命までは奪わないと思うからさ! “本物の俺”はもうほんとのほんとにダメだとわかったら、怖くて怖くて仕方ないのに誰かを殺したり自分が死ぬのを厭わないよ! こう、ぷちっと! ほんと、矛盾してるよな! あはは」

 

空元気のように虚ろに笑った認知上の優希は突然口を噤んで立ち上がり、くい、と手元に垂れ下がっている紐を引いた。

瞬間、床がパカリと開く。

 

「それじゃあ、団体様ご案内〜!」

 

入り口で聞いたモコイの言葉と同じものを優希の声で聞きながら、全員が落ちていった。

 

──────

欠けていた。

だから補った。

 

酷いのどの渇きと空腹を覚えた。

 

耐えられない。耐えられない。耐えられない。

 

はやく、欠けた部分を取り戻さないと。

 

──ひとつに、ならないと。

 

自分は、呼ばれているのだから。

――――――

 

落下したと思えば衝撃もなく全員が地面に着地していた。

その事に内心胸を撫で下ろす者がいれば、平然としている者もいる。

それぞれがそれぞれの反応をしつつ周りを見回せば先程の暗い部屋とは違う、山奥の日本家屋の前と言った感じだった。

 

「びっ…くりした…さっきの部屋も覚えがなかったけど、ここもお兄ちゃんが知らなさそうなとこ…」

 

あんな暗い工場のような部屋には来た事がない、と言いたげな奏子に湊も頷けばナギサが補足する。

 

「そだねー。さっきの部屋はユーキくん自身の歪んだ認知から作られたものだから知らなくてもとーぜんかな。そしてここはユーキくんの記憶にある場所じゃないし」

「三上さんの記憶じゃない…? それって矛盾してないの?」

 

その補足に天田が疑問を呈す。

ナギサの話によればここは優希の認知と記憶によって作られているはずだ。だと言うのに先程から家族である湊と奏子ですら知らない場所ばかり。どういうことなのかと疑問を覚えるのは仕方の無いことだろう。

しかしナギサは迷いなく門の向こうの玄関を見つめると口を開く。

 

「天文台で見たのと違って、ここは覚えてる覚えてないに関係なくユーキくんの中にあるという点では矛盾はしてないから。でも、さっきの認知上のユーキくんと戦闘にならなくてほんとに良かったね。あの子、自分で自分が悪魔の姿を晒さないようにすごく気を遣ってたみたい」

 

話を切り替え、戦いにならなかったこと自体が自分たちにとって幸運だった、と言いたげなナギサに明彦が眉をひそめた。

 

「なに?」

「あの場所…と言うよりあの子自身にユーキくんの『“三上優希”という“人間”を演じなければならない』っていう強力な認知の枷が嵌ってたと思うの。だからこそ、ひとつめの部屋みたいに感情の臨界点を超えることを許されなかったし悪魔としての姿を晒せなかった」

 

ふう、と息を吐いたナギサの表情がここで初めて物憂えげになる。

 

「…それに、戦闘になってたらあの場所自体があの子のテリトリーだから激戦は避けられなかったかもね。下手すれば吸収や反射とかの強烈な属性耐性も貫通して焼き焦がされてたかも」

 

先程の部屋にいた認知上の優希の悪魔としての姿をまるで知っているかのように語るナギサは憂えげでありながらも心底安心しているようだった。

属性耐性を貫通する、と言われて冷や汗をかいたのは順平だ。

 

「ちょ、ソレってオレっちやコロマルもガッツリダメージ食らうってことかよ!?」

「うん。あの子自身も炎が苦手だけど敵対してたら自分の身を焼き滅ぼしてでもみんなを焼いたんじゃないかな。あの子が演じていたユーキくんを矛盾していると評したように、その顕著さの認知存在であるあの子もかなり誇張されてはいるけどそうなんだよ。きっと」

「な、なんだよ…それ…」

 

愕然とする順平の顔は青ざめていた。

先程の認知上の優希の言葉といい、ナギサの予測といい、まるで優希は自分たちとは違う価値観を持っているように思ってしまったのだ。

要は、異常だと。

その判断は間違っていない。優希は間違いなく異常なのだ。だからこそ、数え切れないほどの繰り返しに耐えることが出来てしまっていた。

壊れていたのは一体どこからなのか。それは誰にもわからなかった。

 

「どのみち、鍵を手に入れられなきゃ…なんにもわかんないんでしょ。…行こう」

 

会話が無くなった一行を引き連れ、1番狼狽えていたはずの湊が先へ進む。

奏子は湊の狼狽えようから薄々、湊が自分の知らない兄の何かに気づいたのだと感じていたが問い詰めることは出来なかった。聞いてしまえば兄を含めた自分たち兄妹という関係が崩れてしまうような気がして怖かったのだ。

 

玄関を開けてぞろぞろと入ればその家屋は本当にただの田舎にあるような屋敷で、何も変わった物があるようには見えなかった。

重苦しかった前2つの扉の場所とは違い、むしろ夏の暑さと青々とした空に清々しさすら覚えるほどだ。

警戒しつつもぎしぎしと音が鳴る階段をあがり、2階の部屋を見るもただただ何の変哲もない生活感の溢れる見覚えのない部屋があるだけだ。ただ、部屋に置いてあるものが妙に古めかしかったり90年代初頭に流行った湊たちに馴染みのないものだったりして首を傾げた。

 

「なんにもないな。おい、本当にここが3つ目の扉の中なのか?」

「それは間違いないよ。…彼がいるのは多分…離れの方かな。ここは他のお弟子さん達が住んでたとこだと思う」

「…知ってるのか?」

 

ナギサは訳知り顔で部屋を軽く見回してまた階段を降りる。

 

「知らないよ。あたしは…モコイさんから教えてもらっただけだから。直接見た訳じゃないし…ここにいると思う彼の事はあんまりよく知らないの」

「ここにいんのは三上じゃねぇのか」

「違います」

 

疑問を口にした荒垣の言葉に答えたのはナギサではなくアイギスだった。

 

「先程までの2人の優希さんはモコイさんと同じような気配も僅かにしていましたがほぼほぼ間違いなく優希さんと呼べる気配でした。ですが、ここにある強い気配は優希さんともう1人、誰か混じっているような反応がするんです。そしてその比率は優希さんの気配の割合の方が小さい」

 

澱みなく、そうつらつらと述べたアイギスは先陣をきるためか1番前に出た。

 

「恐らく離れはこちらかと。2人の人間──と呼んで良いかわかりませんが、その反応があります」

 

迷いなく歩むアイギスは何かに怒っているようなそんな気迫があった。

長い廊下を渡り、ピシャリとアイギスが襖を開けた先は広々とした板張りの修練場のような場所だった。

 

「やだねぇ。最近の若いのは礼儀がなっちゃいない」

 

低い、女の声がした。

咄嗟にアイギスが腕をクロスにして防御の構えを取れば、その鋼鉄の腕が飛来してきたものを弾いた。

キィン、と甲高い音を立てて弾かれた太い針のようなそれはそのまま修練場の床に突き刺さる。アイギスが鋼鉄の乙女では無かったら、もしくは扉を開けたのがアイギスではなければ。大怪我では済まないだろうそれに一同はゾッとした。

明らかに、部屋の中の人物は害意を持って針のようなものを投げつけてきたのだ。

 

「義手…? いや、違うね。アンタ、人間じゃあないのかい」

 

声の主はニタリ、と笑った。

それは顔を隠すように渦巻きのような模様の描かれた紙を貼り付けた三十代前半とも言えそうな見た目の女性だった。だと言うのにその雰囲気は歳を重ねたベテランのそれに近い。

その矛盾している見た目と雰囲気から若さの中にいぶし銀の気配があるのか、いぶし銀の気配の中に若さがあるのか判断がつかないでいた。

 

「悪かったね、と言ってやりたい所だけどアタシの挨拶(こてしらべ)くらいなんとかしてもらわないとうちの倅とはやってけないよ」

 

黒髪のその女性は一纏めにした緩やかなくせ毛を揺らしながら名乗りもせずにまた快活に笑う。それが邪気を奪うようで、一同は警戒しながらも悪い存在では無いのでは、と僅かに思い始めていた。

 

「すまないが、貴女は…」

「ああ、ああ! アタシとしたことが自己紹介をするのを忘れていたよ! これじゃバカ息子のことを言えないねぇ」

 

女性は立ち上がって胸にかかっていたその髪をばさりと後ろへやった。

 

「アタシは16代目葛葉ライドウ…マァ、今となっちゃ18代目に席を譲ってるから“元”だがね。ややこしいからアザミとでも呼んでくれりゃええよ」

「葛葉…?」

 

知らない名前だ。

否、聞き覚えだけはあった。

蛇頭黄幡神と化した倉橋翁が何度か恨み言のなかで叫んでいた名前だった。

恐らくなんらかの繋がりはあるのだろうが、それがなんなのか特別課外活動部には昨日の今日だったので調べがついておらずわからない。

 

ストレガのジンの言葉遣いに近い関西弁のような独特のイントネーションで自己紹介をしたアザミの横に座る男を見る。

その容姿の中でまず目についたのは般若だ。

般若の面を被ったスーツを着た美丈夫がすらりと背筋を伸ばしてアザミの隣である部屋の真ん中で正座している。

黒髪は短く切り揃えられ、パーツ単位で見ればどこからどう見ても優希と似ても似つかない。強いて言えば、背格好や纏う雰囲気がよく似ているくらいか。

そんな男の頭をアザミはわしわしと豪快に撫でる。

 

「認知上の存在だかなんだか知らないけど、どんだけ高位のカミサマにすげ替わっちまってもアンタはアタシのバカ息子に変わりないからねぇ。アタシの認知の上ではさ。だから早く現実のアタシのとこにも帰りなって言ってんのにこのバカ息子は…」

「認知上の我が贄の師よ。自分は贄の姿と人格を大衆の認知によって望まれ与えられこうして縛られたに過ぎない。贄自身では無いと何度説明すれば良いのだろうか。そもそも贄の身体は溶けきりもう無いのだから帰りようもないのだが」

「あーもー五月蝿いねアンタは! そういう理屈っぽいとこがバカ息子だって言ってんだよ! 髪の毛1本とか骨くらい遺してないのかい!?」

「無いが」

 

目の前で漫才のように言い合いを繰り広げる2人は止まりそうにない。アイギスがじっと男の方を見ていることから、この扉の内部に限り、この空間を構成する『核』は認知上の優希でも優希本人でもなく、目の前の男なのだと湊は確信した。

それが、優希に何の関係があるのかはわからず仕舞いだが。

 

「あの〜、鍵…貰っても…?」

 

そんな2人に割り込んだのはナギサだった。

正直、奥に踏み込むことにあまり気乗りしなかったがこのままぎゃいぎゃいと繰り広げられる漫才をぼーっと見ている訳にも行かない。先程空間が揺れた事から察するに、残された時間はあまり多くないだろう。

カダス自体が崩壊を始めるのもそう遠い未来ではない。

核を失えば空間は崩壊する。それは正常な姿に戻るか、核である優希本人もしくは優希のシャドウが消えるときだ。

原因はなにかわからないが優希かそのシャドウが脅かされていると見て間違いないだろう。

シャドウが本人の中に還らず、消滅した場合も宿主である本人が死ぬことになる。その原理は分かっていないがシャドウと宿主は文字通り一心同体かつシャドウも本人の1部であるとも言えるので切っては切れないものだからなのだろう、とナギサは予測している。

だが、それを特別課外活動部に言うつもりは無かった。

ナギサとしては、矛盾しているが自分や他の悪魔が巻き添えになろうとも優希がここで死ぬ事を望んでいる。

だが特別課外活動部の面々はそれでは納得しない。巻き込まないようにしようとしても帰ろうとはしないだろう。

なら、どうせ優希が死ねば全て忘れるのだしさっさと見るものを見せて納得させて帰らせようとナギサは考え直したのだ。

 

初めはナギサとて迷い込んだものは仕方ないので適当に優希のシャドウを演じ、特別課外活動部に浅い場所で自分を倒してもらって優希を連れ帰ってもらう算段だったのだ。ナギサだってやられたフリをするつもりだった。それが()()()()()()()()()のだから。

だが、あの状態で1人でまともに動けるようすではなかったはずの優希がひとりでにどこかへ消えた時点でナギサは嫌な予感がしていた。だから、あそこでアイギスの「帰るべき」だという言葉を肯定して促した。

 

そして半信半疑だったそれはニャルラトホテプが出てきた時点で確信に変わった。

ニャルラトホテプの言った「手遅れ」だという言葉にナギサが動揺していないはずがなかった。アレは何重にも糸を張り巡らせている。きっとなにかよからぬ事をしたにちがいない。

 

ナギサがすべきだったのは優希が入り込んだ瞬間に、テレビの外へ放り出すことだったのだ。

役割に固執したせいでこうして優希が知られたくないことを暴かれようとしており、最悪な方向へと進みつつあることを内心でナギサは忌々しく思っていた。

 

「…はて」

 

そんなナギサの焦りを知ってか知らぬか、男は首を傾げる。

 

「何処へやったか。覚えがない」

「大事なモンなんだろう? ほら、さも忘れました、って顔してないで思い出しな!」

 

バシバシと力強く男の背をアザミは叩く。

男はボケ老人が如く「ふむ…」と言いながら立ち上がり、横に寝かせていた刀を脇に抱えてスーツの裏をまさぐり管を取り出した。

 

「フェンリル」

 

そう短く呼べば、管から巨大な狼が姿を現し、光る眼光を湛えながらビリビリとした威圧感を放った。

これにはコロマルも食い入るように見入っている。

 

「グルルル…ナンノヨウダ、マルカジリカ!?」

「否、鍵を」

「オレサマ、ソンナモノ、知ラナイ! 食ベテナイ! 持ッテナイ!」

 

そんなフェンリルは耳をぺたんと曲げ、首を横にブンブンと勢いよく振りながら困ったように鳴いた。

切なげに鳴くフェンリルに先程までの威圧感はない。コロマルはなんとなくフェンリルが無茶振りされているのだとわかって神話の大先輩とも呼べる悪魔に同情した。

 

「違う。鍵を探してほし…」

「アンタ、そんな事で倅の悪魔(その子)を使ってんじゃないよ! 失くしたんならアンタの足で探しな! そういうとこはバカ息子とは違うね! うちの倅は大事なものを失くしたり忘れやしなかったよ!」

「ぐっ…我が贄の師は矛盾している…」

 

バシーン! と勢いよく男の背を叩いたアザミは痛みに呻く男を無視して特別課外活動部の方へ向くと男の頭を片腕で押さえて小さく下げさせた。

 

「うちのバカ息子がすまんねぇ! ちょっと時間がかかるだろうからあっちでゆっくりしていきな! 冷えたジュースと麦茶もあるからね。飲んでいくと良いさ」

「…黄泉戸喫(よもつへぐい)にはならないから安心するといい」

 

無理やり頭を下げさせられた男が頭を下げたまま、疲れたような声を出したのは気の所為ではないだろう。

ひとつ前の部屋で会った認知上の優希に脅されたような戦闘にはならず拍子抜けした一同が促されるまま離れから母屋に戻る道すがら、その中で順平が首を傾げる。

 

「よも…なんスかそれ」

「“ヨモツヘグイ”ですね。死者の国の物を食べるとたとえ生者でも死者の国の住人にされ現世に戻れなくなるという言い伝えです。恐らくは古来からある『同じ釜の飯を食う』、という習慣から死者と同じ食事をすると己も死者の仲間とみなされてしまう“認識”から来ているのかと。有名な例はイザナギノミコトとイザナミノミコトの神話です」

 

順平の疑問にアイギスが答えた。

 

「アイギスがそういうの知ってるなんて意外…」

「『後々必要になるはずだから』とメジャーな神話についての解説は一通り。……そういえば、誰から教えて貰ったんでしょうか……?」

 

教えて貰ったはず、と言ったアイギスだったがそれを誰から受けたのか思い出せない。

ちらちらと赤が視界の端で揺らめいたような気がしたが、カメラの異常だろうとアイギスはそれを受け流した。

なにか、それよりも大事なことを誰かに言われたような気もしたがどうしてもアイギスは思い出すことが出来なかった。

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