君、死にたまふ事なかれ【本編完結】   作:月瓜里

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I'll Face Myself.(?/?)

桜の木の下には死体が埋まっている。

そんな与太話は有名だろう。

扉からでてきた湊は内心、それにしても酷すぎると目の前の光景に何度目か分からない吐き気をこらえた。

 

目の前に広がるのはあの穏やかな桜並木ではなく、一面に敷きつめられた死体の山だった。

桜は消え失せ、血が滝のように脇を流れ、空間自体に崩壊が始まっているのかヒビ割れができている。

穏やかさの欠けらも無いその黒と真紅の光景は湊の精神をぐらぐらと揺さぶってきた。

 

これが、兄の精神状態の表れなのだとすれば。

深層心理なのだとしたら。

 

ナギサが地獄と表現したのも頷ける有様だった。

 

青い顔で死体の山を見ないように突き当たりの大扉を注視している一行に追いつくと、子供は奏子にではなくアイギスにしがみつくように抱きついて顔をうずめ、必死にこの光景を見ないようにしているようで、それを囲っている面々も刺激しないようにか青い顔をしつつ無言を貫いている。

救いなのは、地面を踏んだ感触が肉のそれではなく、平面で無機質なものだったことくらいか。

 

「……待ってたよ。鍵は、持ってるよね」

 

複雑な表情の顔のナギサが出会った当初の明るさの欠けらも無い声色で聞いてくる。到底、この異様な景色の解説を頼めるような空気ではない。

 

「この先に、ユーキくんが1番大事にしていて、1番見られたくないものがあるの。…今ならまだ、引き返せる。引き返す気は無い?」

 

湊は引き返す気は更々なかった。

何があっても兄を連れて帰らなければここまで来た意味が無いからだ。そして、疑問に思ったことを問い詰めなければいけない。

だが、そんな湊の行動こそ、ナギサが最も憂いている事だった。

そんなことも梅雨知らず、湊が首を横に振ればナギサがため息を吐いた。

 

「…うん、わかってた。奏子ちゃんに聞いても同じだったし」

 

呆れたようなその声はどこか悲しげな音も含んでいて、湊は眉を顰める。

 

「──ごめんね」

 

その謝罪は一体だれに対してなのか。

湊は訊かなかった。

ただ、その謝り方が兄のものと似ていて、まるで兄に謝られているようだと感じたのは気のせいで済ませていいのかわからない。

 

「鍵、持ってる人は出して。それだけでいいから」

 

ナギサの言葉に美鶴、奏子、湊の3人が懐から持っていた鍵を出す。

するとそれは一瞬で砂となって崩れ落ちた。と同時に大扉にかかっていた錠前ががちゃんと音を立てて落ちていく。

 

「…ひっ」

 

あとひとつ、という所で小さく悲鳴を上げたのは、最後の鍵であるアイギスに抱かれた子供だった。

 

「やだ、やだやだやだやだやだやだ! むこうにこわいのがいる!」

「優希さん…っ!?」

 

目を見開き、怯えた顔をしてガタガタと震え始めた子供は扉から目を背け尋常ではない怯え方をしていた。そんな子供をアイギスは強く抱き締める。

 

「ぼく、 きえるの、やだ! しんじゃうのもやだ! いたいのやだ! あけないで! みないで! でてこないで! こっちこないで!」

「大丈夫です。優希さんのことは、わたしが守りますから…!」

 

正に半狂乱、といった様子の子供は扉の向こうに何かがいることを察知したらしい。

アイギスに抱きしめられ、慰められるも火がついたように泣き始めた子供はなおも身体の震えが止まらない。

しかしそのパニックの中で吐き出される叫びは普段の優希からは聞くことがない言葉ばかりだった。

 

嫌だ。

消えたくない。

死にたくない。

痛いのが嫌だ。

 

湊はこれまでそんな言葉を兄の口から聞いた事があっただろうか、と思い返した。

 

結果は、聞いた事がない、ということだけだった。

優希はいつも笑って隠してはぐらかしていた。死んだ後も。

困ったように笑って、そして死んでいく。

受けた痛みも苦しみも全て悟らせずに。病死にしろ事故死にしろ他殺にしろ、気がついたら死んでいる。

優希はそんな存在だった。

だからこそ湊は兄がどこかへ行ってしまわないように見ていようと思ったし死因をなるべく取り除こうとした。

どうして兄は命を軽く放り投げてしまうのかと憤ったこともある。

だが、そうじゃないとしたら?

 

シャドウは本人の見たくない面だという。

なら、優希のシャドウが幼い子供の姿をしていて年相応に素直で甘えたがりで嫌なものは嫌だとはっきり拒絶し、死にたくないと泣いて叫んで生にしがみつこうとしているのは。

 

優希自身が誰かに甘える自分も、辛いと弱音を吐く自分も、生きようと生にしがみつく自分も見たくない面だと認識しているからなのか。

本当は、泣き叫んで嫌だ辛い苦しいと訴えたいのかもしれない。

だがそんな面すら兄は目的の為に切り捨てた。だから、こうして幼子がシャドウとして存在している。

 

そんな答えに辿り着き、湊はなんとも言えない気持ちになった。適切な表現がわからず、ただただ胸が締め付けられるような感覚がする。

 

兄は誰も信じていなかった。

弱音を吐く自分すら排斥するくらいなのだ。兄妹である湊と奏子の事すら──否、育ての親である養父母ですら心の底から信用してはいなかったのだろう。

全部独りで抱え込み、困ったような笑顔の裏で壮絶な死への恐怖や生への未練を煮詰めて切り捨てていっていたのだとすれば、ああも歪んでしまうのは仕方の無いことなのかもしれない。

 

どうして兄──優希がそんな歪みを持つほどに煮詰まってしまったのか。

ニュクスの封印という優希の目的を知ったせいで、湊は歪んだ原因が上手く噛み合っていなかった。

 

「この先の扉って、何がいるんだよ…こんなに怯えるなんて尋常じゃねーだろ!」

「……この先にいるのは…たぶん、パンの大神…だと思う」

 

思わず、といった様子で叫んだ順平にナギサが答えたが、歯切れは悪い。

ナギサもこんなに優希のシャドウである幼子が敏感に扉の向こうの気配を感じ取り、怯えるのは想定外だったのだ。

それに、“パンの大神”は基本的に『核』である子供と優希には無害だ。ただ眠り、ただ夢うつつで歌いながら彷徨うだけ。だからこそ『核』だった子供はこれまで存在することが出来ていた。だが、もしその『例外』が起こっていたとするなら。“パンの大神”が目を覚まし、そこら中の悪魔を殺戮しているとモコイから聞いていたナギサはそれが暴れているせいで子供が脅えているのではないかとアタリをつけた。

そしてその説明をしようとナギサが口を開きかけたその瞬間。

 

ガァンッ!

 

「!!」

 

それは大扉の内側からなにかが扉を壊すような勢いでぶつかった音だった。

鈍く、大きな衝撃は音と合わさり扉と錠前をガチャガチャと揺らし、内側にいるなにかが扉をこじ開けようとしているのが分かる。

その様子にナギサは疑問符を浮かべた。おかしい。ナギサの知るパンの大神はこんなにアグレッシブでも目の前にいない得物を狙うような存在ではなかったはずだ、と。

パンの大神は目を覚まして暴れているとしても獲物の気配を感知しない限りは休眠状態とほぼほぼ同じく歌いながら彷徨うだけだ。

そしてその感知範囲はあまり大きくない。ましてや、扉の向こうの存在を感知できるほどパンの大神は感覚が鋭くない。だからこそ、パンの大神という存在自体は厄介だがセーフルームに逃げ込めば何とかなるという対処法が確立されており、対処がしやすいのだ。

戦闘になった場合はパンの大神の不死性と持つ特性からペルソナ使い程度の異能を持つ人間が手に負える相手ではないが。

それこそ同等レベルの悪魔か神相手。もしくは()()()を成せるほどの者を連れてくるくらいでもしないといけない。連れてきたとしても、精神的に耐性がない半端な者だと取り込まれるか発狂して死ぬかのどちらか。

 

もしかして、扉の向こうにいるのはパンの大神ではないのかもしれないのではないか、とナギサは思い始めていた。

 

ガァン!

 

また、扉が揺れる。

 

「これは不味いんじゃないのか」

「もし、パンの大神だとしたら、」

 

ナギサはさっと後ろを見る。

サトミタダシ薬局があったセーフルームの扉は四つ目の扉から出てきたときには消えていた。

まるで、タイムアップだと言わんばかりのタイミングにナギサは逃げ場がない事を悟る。

 

「……あたしが、囮になるからその隙にみんなはこの扉の向こうに行って。すれ違うくらいは何とかできると思うから」

「それは…そんなの、できるわけないでしょ!?」

 

ナギサの言葉にゆかりが噛みつくように言い返す。だが、ナギサは首を横に振った。

 

「できるできないじゃなくて、あたしがしないといけないの。あたしにしか、できないことだから。もし、あたしがいなくなったらみんなはまっすぐ帰るって約束して」

 

ナギサの身体がわずかに震えているのを湊は見逃さなかった。

兄と似たような見た目をしていても恐怖に身を震わせる様を見て人格は全く別なのだとまた感じ、兄の異様さが際立つようで武器を構えなおして目を逸らす。

 

ガァンッ!

 

僅かに、扉が衝撃で開いた。その隙間から、鞭のようにしなった黒い触手がアイギス目掛け飛んでくる。

 

「アイギス!」

「迎撃します!」

 

幼い子供を抱えたまま、アイギスは飛び退きながら片手で銃弾をばらまく。が迫る触手は本数を徐々に増やしていく。

どうしても撃ち漏らしが出て迎撃しきれずに触手が掠り、ボディを傷つける。

 

「くっ!」

 

触手が出てきているのは扉の隙間からだ。なら、もう一度扉を閉めれば、と考えるがそうもいかない。

舌打ちして、明彦が召喚器を構えてその引金を引く。

 

「“カエサル”!」

 

明彦の召喚した“カエサル”が手に持った剣で触手を纏めて両断するも、触手の勢いは止まらない。それどころか、扉に黒く、細い手がかかり大扉が僅かに動き人がひとり分通れるような隙間が開く。

 

「るるーーるーーーーるるるるーーーーーるるーーーーーるーーーーー」

 

音程がめちゃくちゃなハミングが唐突に聞こえ、ぞわりと総毛立った。

聴いているだけで耳が腐り落ちてしまいそうな、脳を掻き毟られるような感覚を覚える歌声は非常に冒涜的でもあった。

 

「るーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……、」

「この、声…あいつの…でも──」

 

顔を覗かせたのは、アルビノの少年の顔だった。

髪を結んでいない優希そっくりな顔で真っ白な髪と血の様に紅い目を持ち山羊のような巻き角を生やした目を離せないような魔性の物を感じる存在、と言えばいいのか。

湊の脳が警鐘を鳴らすものの、目が縫い留められたように『それ』から離せない。

『それ』は、アイギスの腕に抱かれている子供──優希のシャドウに紅い目をぎょろりと向けうっそりとした笑顔を浮かべた。

 

「あは、み…つけ…たぁ…!」

「ひっ…!」

 

小さく悲鳴をあげた子供は更に強くアイギスにしがみつく。

直感的にそれが“よくないもの”だと判断したアイギスは目つきをより、きつくした。

 

「あの顔…やっぱりユーキくんを少し“食べ”てる…! だから、ユーキくんのシャドウも狙って…まさか、“手遅れ”って…ニャルラトホテプの狙いは…きゃあっ!?」

 

“パンの大神”の顔を見て何かに気がついたナギサを邪魔するようにパンの大神が触手を当たるすれすれで放つ。

まるで、「邪魔をするな」と言わんばかりにナギサを冷たい視線で一瞥したパンの大神はアイギスへと1歩踏み出した。

 

「させるわけ、ないでしょ!」

「ゆかりっチの言う通りだぜ! それになんかヒョロいしなんとかなるだろ!」

 

それを見た面々が立ちふさがる様に前へ出る。

 

「バカっ! 直視したり戦おうとするなって言ったよね!? そいつは、見た目なんか関係なくて…死なないの!!! 死なないけど、きみ達を殺すことなんか息をするよりも容易いの! だから戻って!」

「なら、どうしろっていうの!? このままだと、あの子が…お兄ちゃんのシャドウが…!」

 

ナギサが叫べば、薙刀をパンの大神に向けた奏子がヤケに近い叫びを返した。

ナギサとて彼らが下がったところでどうにもならないことはわかっていた。だが、パンの大神と直接相対することの方が危険だとナギサは伝えたかっただけなのだ。

逃げ場のない状態で詰んでいる。アレを攻撃すればどうなるか、奏子たちは知らない。

 

ナギサは息を吸う。

パンの大神の目的が、ナギサの推測通りなら。アイギスに抱かれている子供ではなく()()()()()()()()()はずだ。

ならば。

 

1歩、前へ出た。

 

()()()()()、お願い。あたしが…戻るから、みんなや渚くんは見逃して」

「どう…してぇ…? あはは、あはははは、おまえぇ、だけぇ…じゃ…足りなぁい……足りないのぉ…」

「……っ!」

 

ナギサでは足りない。

その言葉にナギサはパンの大神が既に正気では無いことを悟る。ナギサが分離(わか)れた時からからこれは正気では無かったが、その狂気はナギサが知るものからさらに酷くなっていた。

悪魔を殺していたのも純粋に邪魔だったからという訳ではなく、力を喰らい底なし沼のように吸収してきたからだったのか、と。

しかしそれでもパンの大神の空腹は満たされなかった。

 

満たされないようにされてしまった。

 

恐らく、微睡みの中で彷徨い歩いていた時にうっかり優希という『本物』の血液なり体液なりなんなりを吸収してしまった。

そのせいで本来同一の存在であるパンの大神──旧神 ノーデンス──の分霊である筈のナギサですらも『満足』出来なくなってしまったのだ。

そして、変異している。パンの大神は次の段階へと足を踏み入れてしまっていた。

 

「おれ? われ? われわれ? ぼく? わたし? あたし? あはっ、あはははは…っ! だめだよぉ…? だめなのぉ…! くらくて、ふかくて、満ち、落ちる…からぁ…!」

 

多くの悪魔を喰らい、自我が混ざりきったパンの大神は狂気的に嗤うだけだった。

 

「くらくて、ふかい…」

 

小さく、アイギスの腕に抱かれた子供が言葉を反芻する。

そして何かに気づいたように小さく声をあげると、その顔から怯えが無くなった。

 

「もしかして、そこに…“いる”の…?」

 

ニィ、とパンの大神は答えるように嗤った。

唐突に、黒い触手が目にも止まらない速度で振るわれる。誰も反応できなかったそれは、子供の首筋だけをすぱんと斬り裂いた。

 

「ぁ……ぇ…?」

 

どうして、と言いたげなその口は言葉を発することなく、ひゅう、と息が漏れた。

傷口から血は流れず、ただただ黒い靄が噴出するだけ。

がくり、と頭が垂れ見開かれたその目の瞳孔が広がり、光が一瞬にして失われる。

音を立てて最後の錠前が落ち、完全に大扉が開かれた。

 

「あ、ああ、ああああ────ッ!!!」

 

腕中の死にかけの子供を見て、叫んだのはアイギスだった。

ざりざりと、記憶領域が警鐘を鳴らす。

思い出すな。必要ない。消されたはずの記憶だと。

 

それでも、止まらない。濁流の様に記憶がフラッシュバックした。

炎。瓦礫。満月。血。子供。

 

『ごめんなさい…わたしは、あなたを…まもれなかった…』

 

ひゅうひゅうと、息も絶え絶えな死に体の子供。血塗れの子供を「もう助からない」と判断したアイギスはそれでもと飛び去る。

 

『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…ッ!』

 

アイギスは、かつて桐条千鶴から小さな“お願い”をされていた。

 

『もし、この子になにかがあったら。その時は、この子の事を守ってあげてね、アイギス』

『それは、命令という事でしょうか』

『違うわ。これはお願い。アイギスの意志でするかしないか決めてくれたらいいの』

 

命令でも何でもないそれを、当時のアイギスはわけもわからずに聞いていた。

 

『命令と何が違うのでしょうか。わたしにはわかりかねます』

『そうね、今はわからないかもしれないわね』

 

でも、それでもいいの。と、笑った千鶴の顔はひどく穏やかで。

アイギスが幼い優希の写真と映像を見てから感じていた“大事”だという感情はそこから来ていたのだとはっきり理解した。

アイギスは、この幼い子供を守らなければならなかったのだ。それがただのお願い事であったとしても。

だが、アイギスは一度ならず二度までも、目の前で子供を失った。

今度は、守れる距離だったにもかかわらず、だ。

 

ゆっくりと、子供の身体を地面に横たえさせる。

 

「──────ッ!!!」

 

上げた顔は怒りと憎悪に染まり、アイギスはその銃口(ゆび)をケタケタと嗤うパンの大神に向けた。

 

「……──許さない」

 

ぽつり、と落とされた言葉は震えていた。

アイギスは機械だというのに。

 

「わたしは、自分の事も…ッ、貴方のことも赦せそうにない…ッ! オル──」

「駄目だッ!」

 

「オルギアモード、発動」と叫んで今にも飛びかからんとしたアイギスを止めたのは湊だった。

後ろから羽交い絞めにするように、その身体をそこに留める。そこから先に行かないように。アイギスを、死なせないために。

 

「離してッ!!! わたしは、わたしはッ! 優希さんを守らなければならなかったのにッ!!! なのにッッッ!!!」

「アイギス!!!」

 

喉があるとするなら、血反吐を吐いていただろう叫びはこれでもかというほどに感情が含まれていた。

 

「本物の優希はまだ、生きてる! 助けられる! だから、堪えて…!」

「…っ、」

 

湊の言葉にアイギスは沈黙し、うなだれた。

殺されたのは本物ではなく優希のシャドウなのだから。言外にそう言った湊は知らない。

シャドウと本体は一蓮托生。同一の存在だという事を。

だがそんなことよりも目の前の存在が“ニュクス”と同等に近い雰囲気を醸し出していることの方が問題だった。

 

同等の存在といえば、ニュクス・アバターだった綾時はファルロスとして湊と奏子の内に10年間という長い期間いたせいで人間性を獲得し、不死性を無くした。だから殺せた。

だが、目の前にいる『あれ』はどうだ?

認知世界というある意味異世界に住み、角の生えた人の姿をしているが気配は明らかに人間ではない。

そもそも人間は触手を持たない。

もしかすればあの人の様な姿は幻覚の可能性だってある。

 

──『あれ』は殺せない。

 

そんな湊の予想は当たっていた。

パンの大神の真の姿は見るに堪えないグロテスクな姿だ。一瞬でもその姿を見た瞬間、発狂か死かの二択を迫られるほどの。

だからこそ、パンの大神を良く知るナギサは警告した。アレを直接見るな・近づくなと。

 

「あ、ははぁ…! だぃ…じょうぶぅ……しななぁい、しなない、よぉ…?」

 

パンの大神がへらへらと笑い混じりにそう告げる。

何が大丈夫なのか。何が死なないのか。誰にもその言葉の意味は解らない。

 

「おなかぁ…なかで…ぜぇんぶぜぇんぶいっしょに…なるぅ……からぁ…! あは、あはは、あはははは!」

 

ふふ、と笑ったパンの大神のその表情が、見覚えのあるものに変わった。

 

「──みんな、みんな俺のお腹の中にしまっちゃえば、死なないよぉ。ずっと、ずぅっと一緒にいれる…!」

 

唐突に、優希そっくりな表情とゾッとするようなはっきりとした声で喋ったパンの大神にナギサは警戒度を跳ね上げた。ナギサの予想を裏切り、パンの大神はなぜか優希になり替わろうとしているらしい。なれるはずがないというのに。

 

「こいつ…ッ! ユーキくんの模倣が上手くなってきてる…! まさかなり替わる、つもり!? ユーキくんじゃないのに!」

「…あはは、あはははははは! ──…我は影、真なる“”!!!

 

ナギサの言葉がなにかのきっかけだったのか、大きく笑いだし叫んだパンの大神の身体からボタボタと黒い泥が落ちてきて瞬く間に勢いを増やし、横たわった子供の骸をも呑み込んでいく。

そんな暴走状態とも呼べるパンの大神へナギサが身体ごとタックルをするかの如く勢いよく突っ込んだ。

 

「行って! いいからッ!」

 

短くそう叫んだナギサの言葉に、固まっていたはずの全員の足が動くようになった。

その必死の叫びに誰もかれも言いたいことがないわけではなかったが異様なパンの大神という存在に怯えてしまっていたのも事実で。対処できるのがナギサしかいないとなれば、任せるほかないと判断してしまったのだ。

ナギサ以外の全員がパンの大神の身体を抑えているナギサを走って通り抜け、扉の先へと身体を滑り込ませる。が、奏子だけは足を止めた。

 

「だめ、だめだよ! ナギサちゃんも行かないと!」

「いいの! 例え力不足だろうとここであたしはこいつを──あたし自身を止めないといけないの! あたしが、()()()()()()()()()姿()()()()()()()で、こいつがこんなことになったのだとしたら。その責任はあたしにある。だから、これは罰なの。今まで自分と向き合って来なかった、あたしへの」

 

泥まみれで悲し気に笑ったナギサに奏子は扉の向こうへと行くしかなかった。

どう言っても何をしてもナギサはパンの大神を封じるためにこの場から動く気はないと分かってしまったからだ。

 

「もしあたしが消えても、みんながあたしの事を思いだせなくても、それでもいい。あたしは本来みんなに出会うことなんてなかったんだから。だから、“またね”」

 

扉が閉まる直前、後ろ髪を引かれ振り返った奏子は見てしまった。

ナギサの大きな三つ編みがふたつ垂れた頭が触手によって斬り飛ばされて胴体から離れ、残った体が後ろに倒れていく瞬間を。

 

扉の先へと息も絶え絶えに逃げ込んだ特別課外活動部の面々はまさにお通夜、といった雰囲気だった。

優希のシャドウとナギサ、2人の犠牲者とも呼べるものを出してしまったのだ。例え2人が人間でなくとも、犠牲は犠牲に違いなかった。

 

「これから、どうすればいいんですかね」

 

貰ったメガネは手元に残っているがナギサという案内人を失い、先行きが不安になったせいでゆかりがそう呟いたのも無理はないだろう。ナギサがどうなったのか、という話はできない。したくもなかった。ただ居なくなった。その事実さえあれば良かった。

 

「あの少女──ナギサはこの先に三上が一番大事にしていて一番見られたくないものがある、と言っていた。何かの手がかりになるかもしれない」

 

美鶴の言葉に何人かが頷くも、風花は複雑そうな顔で頷くことはしなかった。

 

「でも、みられたくないなら、見ない方がいいんじゃないんでしょうか…」

 

秘密は誰にだってあるものだ。だからそれを無理やり見るような真似は良くない。

風花はもう手遅れかもしれなかったがそう言いたかったのだ。

 

「綺麗事を言ってなんになる。三上が死ぬよりかはマシだろう。それに、犠牲を無駄にする訳にもいかない」

「犠牲って…! でも、無事じゃないよね…あんなの」

 

明彦が自分に言い聞かせるようにそう言った。

それは少なからず全員が思っている事だった。有事だから仕方ない。人命がかかっているから仕方ない、と言い訳を述べながら。

他人の秘密を知ることに罪悪感が無いわけではなかった。しかし好奇心が無いわけでもなかったのだ。

何を隠しているのか。気にならないと言えば嘘になる。

 

「…奏子」

 

湊は奏子に「大丈夫?」と訊けなかった。ただ、静かに涙を零す奏子に名前を呼ぶことしか出来ない。そんなにナギサとの別れが辛かったのか、と思った湊は奏子がナギサの最期を見てしまったことを知らない。

ちらりと視線を無言の奏子から離し、アイギスへと向ける。

アイギスも優希のシャドウを守れなかったどころかナギサを置いていくことになってしまって放心しているのか、虚ろな目で地面を見つめている。

精神的にボロボロになっていることはひとめでわかった。せっかく休憩を挟んだと言うのに、湊と奏子、そしてアイギスの精神状態は最悪に近い。

湊は最悪を予想してしまったために。奏子はナギサの最期を見てしまったがために。アイギスは優希のシャドウを守れなかったために。

これ以上なにが来るのか。正直な話、湊は怖かった。

 

 

 

 

 

 

 

扉の先であるこの場所は、どこかの斎場の入口のようだった。

ザアザアと激しい雨の音が聞こえることから、扉が閉まっていて外に出られるか分からないが外は雨なのだろう。

先程のパンの大神の気配を感じさせない静かで寂し気な雰囲気だけが救いだった。

ただ、この静けさもいつ豹変するかわからない。安心できるのは今だけかもしれない。

湊は斎場の空いている扉に足を進める。

無言だったが進み始めた湊の後を追うように全員が緩慢な歩みでついてきた。

現場リーダーの片割れである(じぶん)が動きはじめたのだから、ついてこないといけないとでも感じたのだろうか、とどこかぼんやりとした纏まらない思考で考えた。

 

開いている扉の部屋は、誰かの葬式が準備されている部屋の様だった。

白い菊をメインに色とりどりの花が飾られ、遺体の入っているらしい棺が安置されている。

祭壇の中央に置かれているはずの写真の額縁には何も入っていない。ただ、空白がそこを満たしている。

斎場という場所でだいたい予想していたが随分悪趣味だ、と眉を顰めたのは恐らく湊だけではない。

そして棺の前に光の弾のようなものが静かに浮いている。

引き寄せられるようにそれに歩み寄って触れれば、光が弾け湊の手に一枚の紙が収まった。

 

そこに書いてある字を見て湊は大きく目を見開く。

 

有里湊 逝去のお知らせ

 

ぐるぐると、吐き気が腹の中で巡る。喉まで達して来そうだった。

 

「…ンだ、こりゃあ…どうなってやがる」

 

横から湊の手の中にある紙を覗き込んだ荒垣が顔を顰める。

湊はこれが、優希が一番大事で一番見てほしくなかったものだと直感した。

こうして何重にも鍵をかけて心の奥底にしまい込んで隠していたもの。それが、この紙切れ1枚なのだと。

 

「なんだよこれ! 湊は死んでねーだろ!? なんで、センパイの隠したがったことが、これなんだよ!? ぜんっぜん、意味わかんねーよ!!!」

「三上先輩の認知の中では有里くんは、死んでる存在ってこと…?」

 

これだけでは何もわからない。解説をしてくれていたであろうナギサはもういない。

もう限界に近かった。勘弁してくれ。もうやめてくれと叫べるものなら叫びたかった。

そんな特別課外活動部の願いを聞き届けたのか景色が塗り替わる。

 

 

 

 

どこかのアパートの一室。

個性がない最低限の生活ができればいいと言いたげな簡素な私物の殆どない部屋で、私服の優希が雨の降る外を窓から眺めてぼんやりしている様子が再現される。

カレンダーは、3月。2010年の3月だった。終わった日には赤いペンでバツがつけてあり、ちょうどこの日は3月7日だという事が判った。

 

ブーッ、と掠れて経年劣化してるであろう呼び鈴の音が鳴り、優希が立ち上がる。

その小さい部屋の玄関までぱたぱたと小走りで向かうと、何の躊躇もなくドアを開けた。

が、覚えがなく知らない人間だったようで僅かに優希の眉が怪訝そうに顰められる。

 

『どちらさま、でしょうか』

 

声は警戒と疑念が滲んでいる堅いものだ。

だが、突然訪れた男はそれを意に介さず、さも残念そうに口を開いた。

 

三上優希(みかみゆうき)さん、突然ですが…貴方の弟さんが亡くなられました』

『──は…?』

『調べた結果、兄である貴方が直近の親族だと。親族代表で出ていただけますね? …式場への地図はこちらです』

 

男に有無を言わさず紙を押し付けられた優希の顔は、心底意味が分からないと言いたげだった。だが、しばらく考え込むように黙ったあとに、はっとしたような表情を浮かべ、男を突き飛ばすように押しのけ着の身着のまま外へと駆けだした。

 

『っ、待ってくださ──』

 

男の声は最後まで聞かれることは無かった。

勢いを強めた土砂降りの雨の中、優希は走った。通行人から不思議そうな顔で見られても、ずぶ濡れになっても関係なしに走った。

躓いて転び、履いていたズボンに血がにじんでも、それに気づくことなく優希は走る。

 

走る。

 

走る。

 

息を切らせて優希が斎場へと飛び込むように入れば、人がまばらなそこをぐるりと見回す。

その視界の先で、美鶴や明彦、風花やゆかり。そして順平といった特別課外活動部の面々の姿が映しだされた。

皆、一様に暗い顔をしている。

だが優希はそんな面々など知らぬと言わんばかりに無言でずるずるとゾンビのように歩きながら開いている扉の部屋に入る。

奇しくもそこは、湊たちが入ってきた斎場と全く同じ場所だった。

 

のろのろと優希が顔を上げれば、白黒の湊の写真が優希を迎えた。

 

『あ……あぁ………あああ……』

 

呻く優希の表情は絶望に彩られている。

そしてそのまま棺へ倒れ込むように飛びつき、目を見開いてから小さく名前を零した。

 

『み、なと…』

 

ずるりと飛びついた棺から床にくずおれ、震える体を掻き抱くこともせずに糸の切れた人形の様に数十秒、優希は沈黙して動かなくなった。

唐突に、ふらふらと立ち上がり斎場の出口へと歩みを進めれば半透明な明彦が優希へと声をかける。

 

『三上。お前も、有里の知り合いなのか? アイツが死んだことは信じられないだろうがあまり気を落として変なことをするんじゃないぞ…っておい待て!』

 

明彦の言葉を聞かず、優希は無言で外に出た。恐らくは声をかけられたことすら気づいていなかったのかもしれない。

その顔からは表情が抜けおちているにもかかわらず、涙だけがぽろぽろと零れていた。

しばらく土砂降りの雨の中を歩く痛々しい優希の姿を見せられたものの、ぱたりと足がとまる。

目の前に、傘を差した男がひとり。立っていた。

春だというのに季節外れの血のように赤いマフラーが明るい。どことなく、湊はそのマフラーに既視感があった。()()、そのマフラーを見た事があったような。そんな気が。

 

『──君の弟が死んだ理由を、君の記憶が無い理由を知りたいかい』

 

男が問いかければ、優希が緩慢な動きで顔を上げた。

 

『……知りたい』

『その上で君の弟をもし救えるとしたら?』

 

その言葉に、優希が目を見開いた。

それは甘言だった。やりなおせるはずなどないのに、目の前の男は優希に弟の生存を餌に取引を持ち掛けたのだ。

 

『そんな、こと…神様や悪魔なんかじゃない、かぎり…できるはずが……』

『できるとも。()()、その覚悟があれば』

 

首を横に振り、戸惑った優希の無意識の呟きを男が聞き逃すはずがなく。

 

『ほん、とう…に…? 俺に…救えるのか……?』

 

確かめる様に。縋る様に吐き出された声は震えていた。

まるで地獄の中で一本の蜘蛛の糸を垂らされたが如く。優希はそれを手に掴もうとしていた。

 

『言っただろう、君にその覚悟があるなら、と。道のりは長く険しく単純じゃない。複雑怪奇だ。私にだってどうなるか分からない。

けれど、けれども、君には選ぶ権利がある。もしこの手を取れば君は孤独で長く苦しい戦いに身を投じることになる。何度も失敗するだろう。死ぬ以上の苦しみを味わうかもしれない。それでも尚、君は弟を、家族を救いたいかい?』

 

狡いな、と湊は感じた。優希(あに)の事だ。こんな問いをされればこの男の取引に乗るしかないだろう。だが、そんな湊の予想に反して優希は渋る様に顔を下げた。

 

『……おれ、は……』

『もちろん、このまま彼の死を受け入れて1人の()()()()()()()()()()()()()()過ごすことも出来る。何も知らずに、ただ穏やかに、これまで通り』

 

渋る兄に男はもうひとつの選択肢を出した。

多くの人間が選ぶしかないその選択肢はまっとうで、何ら間違ってはいないもので。

しかしむしろ優希はその問いのせいで覚悟を決めたのか目つきをきつくし、睨み付ける様に男を見つめた。

 

『俺は、何があったのか知りたいし弟を救いたい。だから、あなたの言葉に乗る』

 

その返答に、傘から見える口が柔らかく弧を描く。

 

『──わかった。私は君に、きょうだいを救うまで永遠に繰り返す呪いをかける。生半可な死程度では決して途中でやめることも出来ない呪い(しゅくふく)だ』

 

それは、何の力もないただの暗示(ことば)だった。

優希の目が虚ろに、灰の目がちかちかと金色混じりになる。

 

『永遠に…繰り返す…きょうだいを…救うまで……』

 

ごぼごぼと、足元で黒い泥が粟立った。

ぱちりと瞬きをした優希の目が、元の灰色に戻る。それを見た男は優希へと手を伸ばし、その身体を押した。

優希の身体が泥めがけて傾く。

 

『君の旅路の終わりが、せめて報われるものであらんことを』

 

最後に見えた男の顔は、蝶の羽をあしらった白い仮面を被っていた。

 

 

 

 

真っ暗になって景色がまた変わり、ぐるぐると謎の文字が羅列された魔法陣のようなものが足元で回る神殿へと姿を変える。

 

「さて、“ノーデンス”が消え失せたようだが余興は楽しんでもらえただろうな?」

 

目の前にいたのは金色の眼をした聖エルミン学園の制服を着た優希──ではなくニャルラトホテプだった。その顔は醜悪にも嘲るような笑みで満たされている。

なにも楽しくなんてなかった、と言い返したかったがそんな気力もなく。

 

「有里湊。先ほどまでの全てがアレの隠していたこと。お前の知りたがったものの核心だ。あの人形は“フィレモン”の甘言に乗り、お前達双子を救うために今まで何度もこの1年を繰り返してきた。それこそ、本当の意味で数え切れぬほどにな」

 

ニャルラトホテプが補足をするように先ほどまでのすべての説明をする。相違はあれども大体が湊の予想通りだった。

フィレモン、と告げられた名に湊は覚えがない。だが、蝶の仮面をつけた男がそれなのだろうとなんとなく察した。甘言を吐いたのは傘をさしていたあの赤いマフラーの男しかいなかったからだ。

 

「アレが心底憐れだ。ああ、憐れだとも」

 

ニィ、とパンの大神に似た笑みをニャルラトホテプは浮かべた。

 

「だがその説明をしてやる前に、有里湊。お前の罪をここでおさらいしようではないか」

 

パチンとニャルラトホテプが指を鳴らせばまた景色が塗り替わる。

影時間の夜空。そこに巨大で歪な赤い目のような物体が塔の頂上に迫っていた。

黒い波動を放つそれに特別課外活動部の面々は倒れ伏し、動けないでいた。それは湊と奏子も例外ではなく、優希だけがただひとり立っている。

 

『これで、俺の旅路もようやく終わる。俺のいのちは、やっぱり2人を救うためにあったんだな』

 

穏やかな笑顔を浮かべた優希はこの場に似つかわしくなかった。

世界(ワールド)”のアルカナのカードを手に、優希の足がふわりと浮いた。

吸い込まれるように巨大で歪な赤い目のような物体──ニュクスへと向かう優希へ、湊は手を伸ばした。

 

『…だめ、だ…!』

『お…にい…ちゃん…! ゃ…だ…!』

 

倒れ伏した奏子が絶望したような痛々しい顔をしている。

完全に優希の身体がニュクスへと吸い込まれ、湊はもう駄目だと悟った。

ああ───

 

『また失敗した』

 

景色が切り替わり、金色の卵のような物体を前に片腕を上げた優希が唐突に目を見開く。

先ほどまで魂を焼き焦がすように燃え盛っていた死の炎と上げた片腕から溢れていた奇跡の光が、まるで時が止まったようにぴたりとその動きを止めたのだ。

──金の卵が闇の中から噴出した泥によって真っ黒に染まり、浮かんでいた“世界”のアルカナのカードが砕け散った。

 

『え…?』

 

紅いふたつの目が、泥の中から優希を見つめていた。

 

 

 

 

「アレはようやくお前達を救い望んだ終わりを迎えようとしていたというのに。有里湊! 弟であるお前が! アレが救いたいと望み足掻いていた目的であるお前自身が! 土壇場で時間を巻き戻しそれを阻止した! それがお前の『罰』を受けるべき『罪』だ! 私からすればよくやったと賛辞したいところだが…それを知ればあの人形はどう思うだろうな?」

 

景色が元の神殿のような場所に戻り、ニャルラトホテプが湊を煽る。

他の面々からしてみれば、優希だけではなく湊も時間を巻き戻していたという事実を教えられ頭がパンクしてしまいそうだった。

湊は湊でニャルラトホテプの煽りを受け、兄が数え切れないほど繰り返し心が壊れるまでやり直してきた原因が奏子と自分にあったどころかようやくつかんだ兄が満ち足りて逝ける終わりを阻止してしまったことが『罪』なのだと言われれば、それを認めるわけにはいかなかった。兄にとって生まれ変わることのない永遠の死が『救い』などと認めたくなかったのだ。

 

「黙れッ!!!」

「認めたくない、か。その反応も想定内だ。なにせ私はお前なのだから。だが実につまらんな? アレはつまらないならつまらないなりに愉快な傀儡としての役割はきちんと果たしているぞ?」

 

ニタニタと嗤うニャルラトホテプは湊がどんな反応をしても想定内だと言っただろう。

人の心を知り尽くしている無意識領域(カダス)の真の支配者は、湊を嘲笑う。

 

「人形の癖に時間を巻き戻し死した弟妹(にんげん)を救いたいなどと言う傲慢なアレの願いこそ、最たる欲望といえるのではないか? なあ?」

 

ニャルラトホテプの手中に1枚のカードが浮かび上がる。

その数字は、(11)。アルカナは“欲望(LUST)”。7つの首を持つ獣を従えた女性が描かれていた。

まさか、と湊は顔を青くする。あのカードは、あの、アルカナは。兄の。

 

「アレと紛い物の絆を結んだらしいが、果たしてそれが本当に絆と呼べるのか? アレはお前達にこうして大事な事を何ひとつ話してこなかったというのにか?」

「どういうことだ…?」

 

わけがわからない、と美鶴が戸惑ったのも無理はないだろう。優希とは美鶴自身や荒垣、そして明彦や順平と言ったそれなりの面々が春先ではありえなかったほどに距離を縮めていた。隔てていた壁を1枚通り抜けられた。そんな気すらあったのだ。だが、そんな確かに絆と呼べるものを紛い物だと断じたニャルラトホテプはその絆を否定するかの如く浮かんだそのカードをぐしゃりと握りつぶす。

それはガラスの割れたような音を立て青い粒子となって砕けた。

 

「フン、ここまで言ってもわからないか。ならば愚かなお前達に教えてやろう! お前達はアレから仲間だと思われてすらなかったのだよ!」

「……っ!」

 

ニャルラトホテプのその言葉は、疑念を確信に変えてしまう。それが本人の口から吐かれたものではない偽りのものだとしても。

 

「お前達にも自覚くらいはあるだろう。まさか、無いとは言わせんぞ?」

「戯言を! そもそも貴様は何者だ! なぜ幾月や三上の姿をしている!?」

 

ニャルラトホテプの言葉を断ち切り、美鶴は噛みつき返す。が、ニャルラトホテプはそれすらも愉快だと言わんばかりに笑みを深める。

 

「何者だ、と問われれば私はお前達自身だ。ノーデンス…ああ、お前達はナギサと呼ぶように言われていたのだったな。アレから聞いていなかったのか?」

「なにを…」

「私の事だよ。まあ、そんな無知で愚かでどうしようもないお前達にも教えてやるとしよう。無知すぎて笑い転げたいくらいだが、ンッンー…そうだな、簡単に教えてやるとするならば、私はお前達が当たり前に持っている負の感情そのものを力の源としている。要は全人類のシャドウというわけだ」

「全人類の…シャドウ…!?」

 

目の前に対峙する存在がとてつもない存在だということを提示され、一向に緊張が走る。

ニャルラトホテプはネガティブマインドの化身。それらを糧に力を増す存在だった。そして、かつて“世界を一つ滅ぼした”人間の影そのものでもあった。

 

「わざわざ私がお前達のその無知で愚かなちっぽけな脳みそでも理解できるように説明してやったのだ。呑み込めなくては困る」

 

明らかに、目の前のニャルラトホテプはパンの大神と同じく優希の認知が作り出した存在ではない。それどころか、優希の事すらも嘲笑っている様に人知の及ばない何かを感じ取った。絡めとるようなその言葉はじわじわと心に侵蝕してくるように歩み寄って来る。

 

「だが、私は優しいからな? 本来ならここでゲームオーバーといきたいところだがお前達にチャンスのひとつでもやろうというものだ」

 

ニヤリ、とニャルラトホテプはまた別の笑みを浮かべた。

チャンスとはいうが目の前の存在が到底チャンスを与えるような存在に見えず、湊が武器を構える。

 

「おいおい、そんなに身構えるなよ。簡単なゲームをするだけだ。お前達が勝つ条件はこの先へ歩みを進め、無事に三上優希(アレ)を現実世界に連れて帰る。それだけでいい。元々の目的ではあったのだから、簡単だろう?」

 

そう言いながらニャルラトホテプは2つの扉を創り出した。

黒い扉と白い扉。その2つを。

 

「もちろん、お前達にはゲームを放棄して帰るという手もあるぞ? 帰りたいと思うのならこの白い扉に入るがいい。そうすれば、棄権扱いにでもしてやろう。クハハッ!」

 

優希の顔をしたニャルラトホテプは高らかに笑うとまるで煙に巻かれるように姿を消した。

 

優希が隠していたものを知ってもなお、湊が優希を連れて帰りたいという想いは変わっていない。だが、他のメンバーはどうだろうか。

時間を巻き戻している、なんて知られてしまったのだ。美鶴や順平やゆかりから何らかの追及があってもおかしくない。

ニャルラトホテプが「話し合え」、とでも言うようにわざわざ姿を消したのも、つまりはそういうことなのだろう。

 

湊は小さく、息を吐いた。

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