ニャルラトホテプが去った後、特別課外活動部の面々は黙りこくり、沈黙だけが支配していた。
「おい」
気まずい所ではない空気の中、荒垣が口を開いた。
「あの三上の姿をした野郎の言ったことってぇのは本当か? 三上や、お前が時間を巻き戻したっつーのはよ」
「……たぶ、ん。僕の場合は…勝手に巻き戻ってるんだって、さっきまで思ってた。少なくとも、前回以外は…なにも…思ってなくて、わから、なくて…」
荒垣は湊の言葉に顔を顰めた。
「くそったれ、妙に世話を焼いてくるなと思えば
「『前回』っつーことは…これまで何回もあったんだな? その巻き戻しとやらが」
「う、ん…僕が覚えてるだけで…10回。あいつが言ったことが本当なら、優希は…数え切れないほど繰り返してる…って…」
湊は小さく頷いて途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
それはなんの弁明にもなっていないだろう。だが、言えることは言っておかないといけないと感じたのだ。
しかしそんな湊の言葉を聞いて口を震わせながらも開いたのはゆかりだった。
「っ、なによ…それ…じゃあ有里くんも、三上先輩も、こうなるって知ってたわけ!? 知ってて、全部黙ってたってこと!?」
そうじゃない、と湊は言えなかった。
湊は意図的に黙っていた訳では無い。なぜなら、これは何ら関係の無い事だったからだ。知っていても、知らなくても、どうにもならないことがあるのだと湊は10回の繰り返しの中でわかっていた。が、兄の突飛な行動によって大幅にズレてきているのもまた事実だ。こんなもの、未来予知にしても不完全すぎる。
だから喋る必要が無かったのだ。こんなもの、喋ったところで怪訝な顔をされるか頭が狂ってるのかと言われるのがオチだ。
だが、ゆかりの怒りの矛先は湊ではなく優希へと向いた。
「それに、三上先輩は…大型シャドウを倒すのだって止められたはずだし幾月のことだって警告できた…! それに私のお父さんや美鶴先輩の叔母さんだって救えたはずだよね…!? だって、記憶があったんでしょ!? あったんなら、やり直しなんて出来たんなら…! 10年前にあった事故を防ぐことだって…なのに…なんで…!」
してくれなかったの、とゆかりは不満を叫んだ。
恐らくはここにいる同学年で親しい湊より、先輩でここにはいない優希の方が責めやすかったのだろう。そんな甘えのようなものを含んだゆかりの言葉に息を飲んだのは美鶴だった。
事故を防げた。それは、本当なのだろうか。そんな思いが鎌首をもたげる。
「どうせ、先輩のこれまで全部演技だったんじゃないの!? 私たち、仲間だとすら思われてなかったって……優しくしてたのも、全部私達を騙すためで…! 本当は全部知ってるのに手のひらで私達が振り回される姿を見て内心で笑ってたんでしょ!?」
その思考の飛躍は冷静に考えればそれがおかしいとわかることが、今のゆかりには判断出来ないでいた。ただ、やり直せる資格を持っていたにも関わらず、どうして父を救ってくれなかったのかという嫉妬や狡さ、羨ましさといった感情が湧き出てきて、それらが疑心暗鬼の燃料となりどうしても止まらない。
だからカダスで見た事のショックから余裕が無くなっているゆかりは気がつかない。その責任をすべて優希のせいにしようとしていることに。それが、あの天文台で幾月がしたことと同じ事だということに。
湊は1番初めの部屋で見た認知上の優希が語っていた「きっと恨むだろう」という言葉はこういう事だったのか、と頭の端で納得した。
「ちょ、ゆかりっチ…!」
「ゆかりちゃん、それは…!」
言い過ぎ、と順平と風花が窘めようとするも遅かった。
荒垣がズカズカと迫るとゆかりを見下ろす。
「岳羽。てめぇ…いい加減にしやがれ…!」
「なんなんですか! 荒垣先輩は三上先輩と仲がいいから庇おうって言うんですか!? そうですよね、荒垣先輩と三上先輩は天田くんのお母さんを事故とはいえ殺してしまったんですよね? そりゃあ、庇いたくもなりますよね」
天田の復讐に至る経緯とその母親に関する事故の詳細は全員に共有されていた。
その上で、天田が吹っ切れたのならそれでいいと全員判断していたのだ。あくまでも、あれは贖罪をすべきことなのだろうが事故に違いないのだ、と。
だがゆかりはここでそれを蒸し返した。
「天田くんも、なにか覚えてないの? 先輩の変だったトコ…!」
キッ、と表情をきつくしたゆかりが天田へと振り向く。
突然話を振られた天田はしばらく考え込むようにしていたが意を決したように口を開く。
「……確かに、三上さんは変でした」
「ほら、天田くんだってそう言って──」
「もしこれまでの記憶をすべて持っていたとしたのなら、あの日、僕が荒垣さんや三上さんを呼び出した時の狼狽えようが説明がつかないんですよ」
「え…?」
ゆかりが天田が出した言葉に目を見開く。まさか、優希の擁護をするとは思ってもみなかった、と言いたげな表情だ。
「途中の僕を窘めるような言動には…今思えば繰り返しをしていたから分かっていたんだろうなって思えるようなものはありましたけど、母さんを殺した事に関しては三上さんはあの時が初耳だった。そうとしか思えないような反応だった。それに、あの人は僕の事をシャドウから庇って安心したように笑ったし、目を覚ました後に1番に僕のことを心配して謝罪してくれたんです。だから僕は、『記憶が無い』ってハッキリと言った三上さんを信じたい」
笑みを浮かべながらもキッパリと言い切った天田の意志は固かった。
「だって、あそこまで僕から殺意を向けられていて荒垣さんが認めたのに、1人逃げるために信じてもらえるかどうか分からない嘘をつくメリットも1人で逃げるメリットも、ないじゃないですか。逃げたところで針のむしろですよ? そんなの、ペルソナの使用禁止を言い渡されただけでしょげてた三上さんが耐えられると思います?」
思い出されるのはついこの前のムーンライトブリッジでの最後の大型シャドウ戦だった。
ストレガとの戦闘の際にヒュプノスを暴走させないように湊と奏子からペルソナの使用自体を禁止されていたのだ。その時ブツブツと情けない文句をたれながしていたのを全員が覚えていた。
「それもっ…! 演技だったって可能性は考えないの!? あの幾月みたいに…!」
食い下がるようにゆかりが幾月の名前を出されれば、皆は複雑そうな顔になる。
たしかに言いたいことは分かった。幾月のように、完璧に裏と表の顔を使い分けていたというのならありえない話ではない。
(三上は…全部知っていて…その上で、私の隣で友と称し笑っていたのか…? 加害者側である私の隣で…? まさか、三上の目的は…)
復讐、だったのだろうか。
美鶴の心を弄び、そして捨てる。
それが桐条鴻悦の孫である美鶴への、復讐だったのか。
一瞬そう考えるが、そもそも優希は友人になってもなお、遠慮があったし捨てるならさっさと恋人にでもなってしまって婚約者から美鶴を奪い取り散々弄んだ後に手酷く捨てた方が美鶴の心を傷つけやすい。だと言うのにそれもせず。ひたすらもだもだと遠慮したり挙句体調の安定しない自分が迷惑になるんじゃないかなどと言ったり。
それに全部知っていたのならペルソナが出せなくなるほどに心を壊すことも、1度死に足を踏み入れてしまうほどに衰弱する必要も無かったはずだ。
幾月や湊と奏子の話によれば過去に関することに記憶障害を伴う酷い拒絶反応があり、ストレガの事も殆ど覚えていなかったことから口裏合わせをした可能性もなくはないが確かに記憶喪失でもあると言われていた。
ペルソナの暴走に関しても、8月の大型シャドウ戦でもタカヤに挑発されてペルソナを暴走させる必要は無かったはずだ。そもそも暴走などは狙ってできるものでは無いことを7月と9月にまざまざと見せつけられている。
そして臓腑を溶かし寿命を縮める制御剤などという劇物を自ら飲む必要も無い。
なら事故前後、
そして焼却場に居た認知上の優希が言った「自分は美鶴に対して無力だ」という悔いるような言葉と、つい先日蛇頭黄幡神から美鶴を守った三位一体のペルソナの姿が美鶴のなかで納得としてすとんと落ちてきた。
優希の中に、全ての記憶がある訳では無いし美鶴に対して復讐をするというのはありえない。美鶴の結論はそれだった。
(私は…なんてことを…)
美鶴は一瞬でも
そんな美鶴の横に立っていた明彦が気になることがあったのか、湊へと視線を向けた。
「…有里、この1年に起こった出来事はお前の知る通りなのか?」
小さく首を横に振る。
「だいたいは…一緒だけど、優希が…今までにないことばっかりしたり、されたりしてる…から…めちゃくちゃに変わってる。それにもう、全然知らないことばかりで…」
「なるほどな。わかりやすい相違点はあるか?」
湊は躊躇うように押し黙る。
人の生死や怪我に関わることを言っていいのだろうか、と悩む自分がいたのだ。
「どうした、そんなに言い難いことか」
怪訝そうな明彦が、ナギサを問いつめた時の湊自身のように湊を問いただす。
ただ、ナギサとは違い湊は荒垣の生死や桐条武治の生存、コロマルの早期加入など思いっきり言い難いことがあった。
だが、言わなくては伝わらない。湊は息を吸った。
「…6月に優希が腕を怪我したこと、荒垣先輩が10月の大型シャドウ戦の時に死ななかったこと、と…幾月にタルタロスで生贄にされそうになった時に桐条先輩の父親が死んでないこと。それと、屋久島でシャドウに襲撃されたのとコロマルが大きな怪我もなく部に加入したこと…優希がペルソナを暴走させたこと。僕の知らないペルソナを使っていたこと。……優希が幾月にムチャクチャされて死にかけたこと。ざっと、大きな相違点は…そんな感じ…だと思う」
「そんなにか!? かなりあるんだな…」
まず1番に湊から伝えられた相違点の共通点に気がついたのは奏子だった。
小さく、息を吐いて声を震わせた。
「それ、ぜんぶ…お兄ちゃんが…怪我、したときの…」
湊は頷いた。
「そして優希のケガや奇行が増えたのは今年に入ってから。僕が繰り返してるって気づくのは4月の転寮の日。あの電車の中で意識が…いや、記憶が戻るんだ。だから、もしかすると優希も…」
たとえ記憶があっても今年の4月以降の事しかなんとかできないかもしれない。
湊はそう伝えたかった。それに、10年前から記憶があって手を伸ばすことが出来るなら港区へ行かないという手もあったのだ。湊と奏子も説得して、優希自身もなにがあっても港区へ、ポートアイランドへは近寄らない。そうすれば、永遠にデスもニュクスも目覚めることは無いのだから。
「なるほどな…少なくとも、有里弟が体験している繰り返し…俗に言う『ループ』は4月から、というわけか」
明彦がどこか納得したような顔で頷いた。
優希の性格を信じるならば、出来るのなら彼は10年前のことをなかった事にするだろう、となんとなく美鶴は思った。
そうすれば、実の両親と懐いていた桐条千鶴は死ぬ事が無かったのだから。だからそれが成されていないということはこの繰り返しにはなにか条件があるのだ、と。美鶴はそこまで推察した。
そして、何故皆は自分の意見に同意してくれないのだと言いたげなゆかりに声をかける。
「岳羽。やり直せるならやり直してみたいと羨む気持ちはわかる。狡いと思ってしまって疑う気持ちもな。だが、知識として知っているだけなのと実際に行動に移す難しさはきみにも分かるんじゃないか?」
「そ、れは…! わかります、けど…」
美鶴でさえ例え未来の記憶を持っていたとしても祖父の凶行を止められる気はしなかった。
だから、復讐されることを予想はしても、優希がわざと救わなかったという事は考えられなかったのだ。
それでもまだ、ゆかりは納得がいっていないようだったので美鶴は更に言葉をつづける。
「ましてや、誘拐され親兄弟から無理やり引き離された10にも満たない子供が…
唯一優希のことを人扱いしていたのは叔母の桐条千鶴だけだったという。あとの人間はただの
それが、どれだけ苦しいことなのか。美鶴は察することはできても実際に理解はできなかった。だが、慮ることはできる。
「……っ! そんなこと…っ! ただ、私は……!」
そう美鶴が問いかければ、顔をサッと青くしたゆかりはようやく自分の言動の不味さに気がついたらしく、バツが悪そうに顔を下げた。
美鶴も内心で自分を棚に上げ、こんなことをいうのは卑怯だと思っていたがどうにも表面的な言葉だけでは冷静さを失っているゆかりを説得するには難しいだろうと感じていた。
「…すまない、きみにそんなつもりがないことはわかっている。岳羽は…岳羽の父上を救って欲しかった…いや、やれるものなら自分の手で救いたかったんだろう? だから、突然三上が繰り返しという到底信じられない権利を得てしまったことを知って羨んでしまった」
恐らく、湊や優希には言うに言えない事情があったのだろう。そんなものがなくともループしているなどという荒唐無稽な話を信じる者はこの中に何人いただろうか。
タルタロスやペルソナ・大型シャドウという物証や、それを成し得るだろう権力と財力がある桐条家の事情より、ループしているという物証がないただの高校生である湊や優希の話を信じる方が難しかっただろう。
美鶴とて、このカダスでの有り得ないような体験が無ければこうもすんなり信じられなかったはずだと感じた。
「だが、本人の口からはまだ確認できていない。本当かどうかもまだ分からない。繰り返しという現象自体があるのはにわかには信じ難いが有里の口ぶりから確定している。しかし三上が繰り返しているという証拠は先に見た光景とあの紙。そしてニャルラトホテプという奴の言葉でしかない」
「でもっ、三上先輩が居なかったら美鶴先輩のお父さんが死んでたかもしれないって確証はないんですよ!? 彼の言葉を信じないわけじゃないですけど、三上先輩がいたからどうこうってことなんて……そんなの、結果論じゃないですか…!」
意固地になったゆかりはしかし、それでも引かなかった。恐らくは振り上げたこぶしが下せない人間がいるのと同じく、出した意見の引っ込みどころを無くしてしまったのだろう。
ゆかりの性格を考えれば、こうして意固地になってしまうのも予想できる話ではあったが。
だから美鶴は努めて穏やかな声でゆかりに言い聞かせるように畳みかけた。
「そうだ。結果論だ。それに逆を言えば岳羽の言う、三上が私たちを『悪意を持って騙している』という事に関しても、有里の言う三上が『ループしている』という事に関しても証拠もない。だから、三上を連れ戻し、話を聞く。それで有里の言動と整合性がとれたなら、信じようじゃないか。岳羽も、連れて帰ること自体に異論はないだろう?」
「ないです。ないですよ!」
うまく美鶴に丸め込まれている感がある気がしたが、ゆかりは熱の冷めてきたヤケな頭で頷いた。
「なら、先へ進むしかないだろう」
そう言って、まるで決定事項のことのように美鶴は黒い扉に歩を進めた。
しかしそれに誰も言うことは無いようで、斎場で湊についていったのと同じくぞろぞろとその後ろを追った。
ゆかりが優希を連れて帰ることに異論がないとはいったが空気は最悪に近い。空気が悪いのはこのカダスに入ってからずっとそうなのだが、比較的それを無視してハイテンションだったナギサが居なくなったことによりそれは輪をかけてひどくなったような気がした。
だがそれを指摘する者はだれもいない。してしまえば、またもだもだと時間を消費するだけの言い争いに発展しそうだったからだ。
美鶴は有無を言わさずに黒い扉を開けた。
現場リーダーは湊と奏子だったがふたりは暗い顔をして黙り込んでいるため、そんな役を背負わせるのはさすがに酷だと感じたからだった。
景色が塗り替わり、暗い森の中になる。
景色が塗り替わるのにももう慣れた。ここはそういうところなのだろうとそれだけは全員が納得していた。
無言で歩き始める。
歩きながら、たしかにニャルラトホテプから言われた通り自分たちが育んできた──と言っていいものかわからないがとにかく作り上げてきたものは──紛い物の絆かもしれないな、と何と無しに美鶴は思った。
もし、仲がもっと良ければ。もっと踏み込めていたのなら。
カダスの入り口でも、ここでも、ぐだぐだと迷わずにすんなりと「助けに行こう」の一言で満場一致で決まっていたのかもしれない。だが、少なくとも
そこまで考えて、美鶴は「それは言い訳か」とため息を吐いた。たとえ能力ありきで集められたとしてもそれぞれの仲を深めることはいくらでもできたはずだ。
そしてその機会はいくらでもあった。それを怠った──否、深めなかったのは自分達だ。
ただ、言い訳じみているかもしれないが仲良しこよしではなくとも『特別課外活動部なりの絆』は出来ているようには思えた。たとえそれがぶつかり合うようなものでも、薄情なモノでも、それなりのものが。
ざわざわと、ここを歩いている自分たち以外の気配がそこらじゅうにある気がするが、姿が見えず物音しかしないとなれば湊であっても警戒だけしておくしかなかった。
「見えないけど…なにかいるのは確かです。でも……あっちも私たちに興味がない…? それとも、いるところが一枚隔てた場所なのかな…? えっと…とにかく、危なくはない…と思います」
と不思議そうに風花が探知した結果を述べるのでもう湊たちにはそれ以外できることがなかったのだ。
ニャルラトホテプが持ちかけてきた“ゲーム”だったが、しばらく歩いても何の妨害もない。あの様子を見るになにか妨害のひとつでもしてきそうなものだったが、これだけなにもないとむしろ警戒心が強まるというもので。
「また、私だけ何も知らなかった…」
そんな中、ぽつりと奏子が小さな呟きを落とした。
兄妹の中で、奏子だけ蚊帳の外のような。そんな感覚がしたのだ。
湊も優希も、どちらもがどちらにも何も話していなかっただけだが、それでも奏子には『ループ』とやらもわからなければ“タナトス”のような強いペルソナを持っている訳でもない為に仲間外れにされているような気分だった。
実際の話、今となってはタナトスと同等レベルに強力なペルソナが作れるようになってきていることを奏子は分かっていない。実感がないと言えばいいのか。
それも仕方ない話だった。5、6月ごろに猛威を振るったタナトスのイメージがそのままずっとついてきているのだから。
その後は何もなく歩き続けた一行を待っていたのは一面の闇だった。
先ほどまで感じていた何かの気配もなりを潜め、月の光と静寂だけがそこを満たしている。
ざぱん、と何か液体のようなものを湊の足が蹴った。
足元が真っ暗だったからか気づくことが出来なかったが、波打ち際のような場所らしい。
そして、その水面の真ん中に立っているのは──
「──優希…!」
そうやって背を向け、満月を眺める様に佇んでいる優希に湊が声をかければ酷く緩慢な動きでこちらへと振り向こうとした。
瞬間、黒い雲が月を覆い隠す。
優希の瞳が一瞬、赤く瞬いた。
金属を溶かした時の色のようなその鮮烈などろりとした金と赤の混じった瞳に湊はゾッとする。
そして優希の姿にノイズが走り、見たことも無い黒衣をまとっているようにも見えた。
だれだ、あれは。
しかしそれはすぐに雲が過ぎ去り現れた月光によって幻と消える。
ぱちくりと、僅かに驚いたように瞬きをした優希の瞳はいつもと同じ灰色だった。そして服も失踪する前に着ていたものと同じ普段着だ。
「……みんな、どうして」
小さな呟きだったろうそれは、酷く掠れていた。
後ろにいたアイギスが、ピタリと躊躇うように足を止めた。
「三上、帰ろう」
美鶴が、率先してざばざばと水に近い泥をかき分け優希へと迫る。
そして手を差し出せば、ぼんやりとそれを見つめられる。大方、夢だとでも思っているのだろう。
「でも、」
しかし優希は何かに悩むように後ろを振り返った。そこには爛々と輝く満月がある。
「呼んでるんだ、俺のこと」
「呼んでいる?」
美鶴は眉を顰めた。
「だから、俺、あっちにいかないと。ずっと、ここに居たらいいって思ってたんだけど、そうじゃなくて…」
そのままふらふらと奥へと向かいかけた優希の手を、追いついた奏子が掴んだ。
いきなりのことで優希はそのままつんのめり、がくんと身体のバランスを崩して泥の中に座り込む。
「…いかないで、お兄ちゃん」
そのまま動きを止めた優希に、奏子が縋る。
「そっちに行ったら、帰ってこれなくなっちゃうから…」
「俺は…」
縋る奏子に応える様に小さく言葉を漏らした優希はしかし、顔を上げることはしなかった。
「──おれは、ここで死んだ。それでもいいと思っていた」
声はいつもの優希が発するものとは違い、かたく低い。
静かで、それでいて通りのいい声だった。
「けれど、死んだのに、生きている」
落とされた言葉は虚無で満たされている。
奏子にはなぜか目の前にいる優希が兄ではない誰かのような気がして、しかしそれでも手を離しはしなかった。離してしまえば優希はこのまま向こう側へ行ってしまいそうな予感がしたからだ。
「どうしてか、教えてくれないか」
幽かに、血と白檀の甘い香りがした。
湊たちはそこからどうやって帰ったかわからなかった。
ただあの問いかけの後、答えも聞かずに気を失い前のめりに泥に倒れこんだ優希を湊が引き上げ、荒垣が背負い、一行は足を引き摺るようになんとかしてテレビから出たのだ。
気を失った優希は仕方なく荒垣がベッドの上に寝かせ、それから時計を見ればテレビの中に入った時間から動いていなかった。
要するに、影時間すら終わっていなかったのだ。それどころか、テレビから出てきてからこうして一息つくまでに過ぎた時間を考えるとほぼほぼ時間が経過していないことになる。
「どういうことだ…?」
真田が首を傾げるも、全員がくたくたでもう解散したい気分だった。
どうせ、不思議でありえないことは先ほどたくさん見てきたのだ。テレビの中で時間が経過していないことくらい、どうってことはない。
戦闘はほぼないに等しいくらい少なかったが精神的に疲れすぎた。
気を失っている優希に話を聞けるわけもなく、全員の頭の中をいったん整理するためにも「今日はもう寝よう」ということになりその日は解散となった。
つけていたはずのメガネがなくなっていることに誰も気がつかないまま。
夜の暗い明かりのついていない部屋の中。
アイギスはベッドで眠っている優希を見つめていた。
ゆっくりと両手を伸ばして生白い首筋に触れる。
トクトクと脈が手に触れ、優希が生きている事を教えてくれる。だが、あんなにも願っていたものだと言うのに今のアイギスは何故かそれに対し安堵できなかった。
無意識に首筋に触れた手に軽く力を込める。
ほんの少しだけ力を込めたそれは首を絞めるには十分な力だった。
「う…あ…」
うめき声。
「!」
その声に弾かれたようにアイギスは優希の首筋から手を離した。
自分は今、一体何をしていたのだと混乱が思考回路を埋め尽くす。守るべき相手を、この手で殺そうとしていた。
その事実に、震えた。
また幾月に操られていた時と同じことをアイギスはしかけたのだ。それも、操られていない状態で。
どうして、と混乱するアイギスの思考は間違いなく優希が『守るべき対象』だと示しているのに、感覚が『排除すべきだ』と警告を発していた。
アイギスは自分が恐ろしくなった。人間としてではなく、対シャドウ兵器という、自分が。
これでは、優希を──ただの人間である『守るべき存在』を“敵”として見ているようではないか。
これ以上この部屋にいられない、と判断したアイギスは踵を返して足早に部屋を出た。
しばらくしてむくりと人影が起き上がる。
「……」
そっと己の首筋を撫でたその表情は、まるで何かに耐える様に顰められていた。