11/17(火) 朝
今日から修学旅行だ。
相変わらず美鶴さんとは気まずいままだったが、昨日の放課後の面談はビックリするくらいスムーズにいって寝る時の部屋割り以外は皆と同じ予定で行動してもいいということになった。つまり、市内散策も参加してOKだということだ。
ただし体調が悪くなったらその通りではないし、携帯電話と保険証と薬を必ず所持してすぐ出せる場所に入れておくことときつく言い聞かせられた。
まったくもってその通りだと思う。
そんなに頻繁に発作が出る病気とは言えないものの、いつ出るかは本当にわからないし旅先で倒れたら大騒ぎにも程がある。
とはいえ、これから学校に集合して東京駅まで向かうので京都に着くのは夕方頃。観光もなくホテルに直行して、夕食を食べて明日からの注意事項を確認して寝るだけだ。不安要素はあまりない。
「移動で初日が潰れるってどうなんだ…」と毎回思っているが東京から関西の京都まで新幹線で行くのでそれだけの時間かかってしまうのは仕方ないのかもしれない。
荷物の確認をしながら、ここにモコイさんが居ないことだけが心残りだった。
自分さえ強ければ。もっと、アリスについて警戒していれば、今頃。
なんてありもしない事を夢想して溜め息を吐いた。
寂しいと思ってしまうのはモコイさんといることに慣れてしまったからだ。モコイさんと居た時間より、モコイさんが居なかった時間の方が長いというのにまるで旧友を失ってしまったかのようにずっと未練のようなものを引き摺っている。
それだけモコイさんと居るのが心地よかった、というのは間違いなくある。モコイさんは自分のやることを深く詮索しては来なかった。かといって、一方的に守る守られる相手では無く、あくまで持ちつ持たれつな対等な相手だったのだ。そして、初めて会う存在でもあった。まあ、初めて会う存在といえばライドウくんとゴウトに神条さんやアリス、朝倉先生もそうなんだけども。
とにかく、モコイさんはいくらでも素の自分を出して弱音を吐いたり甘えても構わない相手だったのだ。そしてそれをモコイさん自身も許してくれていた。だからこそ、モコイさんも遠慮はしてこなかったのだ。
たぶん、素の自分とモコイさんはよく似ているんだと思う。素じゃなくても似てるとかは置いといて。
(発作を起こした時の薬よし、歯ブラシよし、タオルよし、パンツよし…しおりは持ってるし筆記用具もあるな)
荷物の確認はバッチリだ。
ふと、ベッドの枕元に目が行けばモコイさんがくれた封魔管が静かに置いてあった。
元々モコイさんが入っていた物だというそれから目が離せなくて、ふと思いつく。
(そうだ、これを持っていけばモコイさんと一緒に居るような気になるのでは)
名案だった。
物に魂が宿るとか何とか言うし、モコイさんが幽霊になって見守ってくれているのなら管を持っていけば一緒に京都を観光できるかもしれない。
我ながらファンタジーな妄想に縋るのもなんだが、縋らなきゃやっていけないという面もある。
こういう時のために、雑貨屋で見かけたオシャレな管を入れるための袋を買っておいたのが良かった。
紫色のつるつるとしたビロード生地で出来ていて肌触りは抜群。紐で口を縛れるものなので、その中にことんと管を入れてベルトに通す。
無くすのが怖いのでさらに別で袋とベルトを繋ぐチェーンも付けてセキュリティも万全だ。これでもう無くしたりしないだろう。完璧だ。
ちなみに、ビロードの別名はベルベットというらしい。つまりベルベットルームのベルベットはビロード生地のベルベットが語源だとするならふかふかつるつるな生地でできた部屋とも言えるのかもしれない。
自分が招かれた場所は全面ガラス張りの殺風景な部屋だけど。というよりかは海の中にある観賞用の水槽といった感じか。
いや、やっぱり水族館に近い気がする。
座らされる椅子もそんなにふかふかじゃないし間違いなくふかふかつるつるの部屋ではないのは確かだ。
なんとなくそこまで考えてマーガレットに呆れた顔をされている様を想像して、その思考をうちきった。
中身の確認を終えた旅行カバンを持って立ち上がる。
ポケットに発作が出た時の薬を入れておいたし、保険証などは財布に纏めて入れてある。携帯電話の充電も問題ない。それに充電器を持っていくので旅館に着けば充電し放題だ。
そのまま一階に降りれば自分が一番最後だったようでラウンジには人気が無かった。
いるのはコロマルと荒垣くんだけのようだ。
しまった。
天田くんにお土産を何がいいのか訊くのを忘れていた。朝聞けばいいと油断していたのがダメだった。
(ご当地フェザーマンストラップとかでいいかな…)
それ以外ならお菓子とか困らない消耗品にしよう、と考えながらコロマルを撫でる。
「それじゃあコロマル、行ってくるね」
「わん!」
荒垣くんへの挨拶は朝食の時に済ませているので行ってきます程度で良いだろうし、ちゃんとメモも取ってある。買えなかったら奏子のドキドキワクワクサプライズプレゼント(と言う名のおそらくバナナ生八つ橋詰め合わせ)と真田くんのバナナプロテインのみが荒垣くんの土産になると思われる。
「荒垣くん、行ってくるよ」
「おう、気をつけろよ」
「わかってる」
ダイニングに声を飛ばせばすぐに返事が返ってきたのでそのまま荷物を持ち上げて寮を出る。
朝倉先生やタカヤ達にも何かお土産を買って帰ろうか、なんて考えながら道を歩き出した。
昼
新幹線車内
「……」
「……」
気まずい。すごく気まずい。
いや、新幹線の席は自由だったのだが、何となくで座ったら同じ班のメンバーで固まってしまった、的な。
二人掛けの椅子が向き合い、自分の横に朔間くん。そして向かいには美鶴さんと高梨さんという組み合わせになってしまっている。
高梨さんはこの気まずい空気の中、マイペースに保温水筒から緑茶をとぽとぽとコップに注いで飲んでいるし、朔間くんは俺と美鶴さんのこの微妙な空気をなんとかしようとずっとおろおろして何か言おうとしては黙るを繰り返している。
何から話しだせばいいのかわからず、相席になってからもう30分ほど黙り込んでいる自分と美鶴さんの間の空気だけがやけに重い。
それを見かねたのか、ついに耐え切れなくなったのか、それとも興味本位か、高梨さんが口を開いた。
「三上くん。貴方、この私の横にいる美鶴さんをフッたらしいわね」
「!!?!?!?」
すぱん、とまるで世間話をするような気軽さで大胆にも切り込んできた高梨さんはいつも通り読めない表情をしている。
そんな高梨さんの言葉は静かで、新幹線の走る音とこの騒がしい車内の音にかき消され自分たちにしか聞こえてない事だけが幸いだった。
「なぜそれを、と言いたげな顔をしているわね。世間一般の有象無象が考えるように横の彼女が喋った、というわけじゃないわ。でも、“壁に耳あり障子に目あり”。気をつけた方が良いわよ」
つん、とまるで優しさの欠片もない彼女の言葉は厳しい。
彼女も彼女で一体どうやって調べているのかと思えるほどの情報収集能力を持っていた。それが、生家が拝み屋だとかヤクザだとか言われる理由になっているのを恐らく彼女は知っている。知っていて、くすくすと笑いながらそれすらも利用するのだ。
だからと言ってここまでとは思っていなかったのは確かだけれども。舐めていた、というより自分がその標的になる事はないだろうと思っていたのだ。
高梨さんはその艶やかでまっすぐ伸びた黒髪を後ろへとやると少し間を置いてから口を開いた。
「そうね。私から忠告するとすれば、そういうことはやめたほうがいいわよ。という事だけね。される側の気持ちも考えて頂戴な」
高梨さんの黒い黒曜石のような目が自分を射抜く。そんな事言われてもただ受け入れるだけだなんてことは出来ないしそんな中途半端な気持ちで告白を受け入れて付き合うなんて無責任では無いのだろうか。
ただ、なんとなく彼女は美鶴さんをフッた事に対し忠告している訳ではない気がした。
気のせいと流すことだってできる。だが、彼女の忠告の真意が別にあると勘ぐることは気のせいでは無いような気もするのだ。かといって彼女の真意を確認することもどうすることもできないのも確かで。
そんな怪訝そうな表情が表に出てしまっていたのか高梨さんは白々しく笑みを深める。
「あら、そんな顔をされるのは心外ね。心配しなくても私はよそ様に手出しするつもりはないわ。怒った山羊に蹴られたくないもの。だから、忠告だけ」
そう言って、言いたいことだけを言った高梨さんはス、とその目を細めた。ううん、やっぱり自分が美鶴さんの告白を断ったことに対する忠告なような気がしてきた。
「ところで美鶴さん? 私、交流を何度かしているあの八十稲羽高校というところの制服が可愛いと思っているのだけれど。黒いセヱラアに黄色い三角タイ、とても良いと思わない?」
「…はあ。高梨、制服を自由にするという案は却下したはずだ。それに私個人にはそのような権限はないぞ」
「あら。わかってるわよ? ただ私はいいと思うんじゃないかしらと言っただけだもの。そう、とても興味があるだけよ。制服にも、その土地にも」
困ったように今日初めてちゃんとした返事を発した美鶴さんにふふふと笑い返した高梨さんはまるで蛇の様だった。獲物を見つけたときのような、恍惚とした笑みだ。
横の朔間くんを見れば、青い顔でぶるぶると震えている。そうなっても仕方ないくらい、うっそりとした笑みを高梨さんは浮かべていたので仕方ないと思う。
「まったく、きみのいう事はたまに冗談なのか本音なのかわからなくなる」
「ふふ、でも少し気は紛れたでしょ。折角の修学旅行なんだし、しみったれた空気なんてものは誰だって嫌でないかしら? 貴方の事をフッた酷い三上くんのことは一旦頭から放り出して私と自由散策でどこに行くか考えましょう? きっと楽しいわ」
「ひ、酷い…? いや…」
手厳しい。というか恐らく高梨さんは自分に対して怒っている。もしくは当てつけか。
やけに口数が多く饒舌なのも修学旅行への興奮だけではないだろう。いつもは「そうね」「興味ないわ」「ごめんなさい」程度しかしゃべらないし最低限の言葉ほどしか聞いたことがない。
「ほら…パンフレットを用意してきたのよ。本当は“彼”と行きたかったのだけれど…残念だわ」
「ああ、きみの許嫁の…他の高校に通っているんだったな」
「ええそうよ。……とても素敵な人なの」
それが挑発的な笑みを浮かべてこちらに勝ち誇ったような顔をするものだから間違いなく当てつけだ。そして自分はそうされても仕方のない事をしたのだ。
もっと、穏便な断り方だってあったはずだが、そうしなかった。だから美鶴さんを傷つけてしまったしこうなってしまった。ただそれだけのことだ。
「ぼ、僕…この班でやっていけるか不安になってきた…」
頭を抱えて青い顔でそう呟いた巻き込まれる形となってしまった朔間くんに内心で謝りながらどこでどう美鶴さんに切り出そうか考え込むことにした。
あの時の断り方が自分勝手すぎたのはわかっている。けれど、それでこうも支障をきたしてしまうというのも考えものだった。
気まずいままでいるのは心苦しいが致し方ないことだとは思う。けれど、関係を修復するのもまた正しいことなのだと思う。
問題は、どちらを選んでも美鶴さんを悲しませることになってしまうということだ。
今辛いか。ずっと辛いか。その二択を迫ってしまう。
いや、次の満月の日になれば全て解決する。それなら──もういっそ、このまま。気まずいままでいたらいいのでは無いのだろうか。
ちらりと美鶴さんを見れば楽しそうに高梨さんと歓談している。
やっぱり自分は要らない。居ない方がいい。
結局、自分は何がしたかったのだろう。美鶴さんの友達になって、傷つけて、フッて。
力になりたかったのは確かだ。けれど何故力になりたいと思ったのだったか。
──頑張ってたから?
そうだけど違う気がする。
──クラスメイトだから?
それは違う。
──女性だから?
それも違う。
──千鶴さんに似ているから?
…違う、と思う。
千鶴さんと美鶴さんは別人だ。それに、好意のベクトルが違う。千鶴さんは母さんを重ねて見ていた節がある。それと良くしてもらっていたのに結果的に自分のせいで命を失うことになってしまった罪悪感。
けれど美鶴さんは千鶴さんとの記憶が無くても良く思っていたし惹かれていた。無意識に面影を追っていたのならともかく、最初の周も繰り返す前も、近寄り難いと思っていた人だ。だから有り得ない。
千鶴さんに対しては美鶴さんに向けるようなあの気持ちの悪い独占欲など湧いてこないからそこも論外だろう。そも、千鶴さんは故人だからと言われたらそこまでかもしれないが。
つまるところ、自分は何回も何回も繰り返して美鶴さんと接するうちに自然と好きになってしまっていた可能性が……高い、と思う。だから力になりたいと思ったのかもしれない。
『今』の美鶴さんを見ていた訳じゃなく、全ての周の桐条美鶴という存在を見て好きになったということなのだろうか。なら、次の周があったとして、俺が好きなのは『今』の美鶴さんじゃないから次の美鶴さんも好きになるのだと?
……どうだろうか。なんだか、そうは思えない。
奏子とは他人のような関係で、先輩後輩の仲だった周があった。
その時に、好意を寄せられ告白されてどうしてもということで恋人の真似事をしたことがある。
奏子の事は有里呼び。俺もただの三上先輩と呼ばれていた。
家族に関しても双子の弟(恐らく湊だろう)がいた、ということしか聞いていない。
もちろん、性行為などはしていないし付き合うと決めた時に申し訳ないけどと謝って自分には奏子への気持ちは親愛しかないこと。性行為はできないこと。恋人ではなく恋人の真似事になってしまうがそれでもいいかと正直幻滅されても仕方ない取り決めをした。それでも、その周の奏子は頷いた。
はっきり言って断るなら断るで適当に想い人をでっち上げるなりまともな理由を言うなりなんなりして断れば良かったんだろう。けれど、自分には出来なくてズルズルと引きずってしまった。
そんな自分の判断がダメだったのかバチが当たったのか最後は12月入ってすぐ、綾時くんから諸々の説明を受けた後にニュクス教の終末思想に煽られた信者だったかよくわからないラリった男──とにかくヤケを起こした通り魔にぶっ刺されてお陀仏というわけだ。
ルール違反をした覚えはないし奏子と恋人の真似事をしだしたのがダメだったのだとしてもタイムラグがありすぎるのでそれが直接的な原因ではなさそうだった。
結局あの時の奏子はどちらの選択をしたのか。自分は知らない。
ただ、死ぬ前に犯人が取り押さえられた事と奏子の無事だけは確認したのでばっちり。ナイフは腹にぶっ刺さったままだったし抜けないように押さえてた手はズタズタの血まみれになったけど、一番最初に刺されそうになった奏子を庇って腹部を穴だらけにされた自分以外に被害者が出なかったので無問題だ。
もうクソ痛いし血が抜けて寒くなってくるし力は入らなくなってくるのに己の腹に聖剣が如く刺さってるナイフを離したら犯人が絶対他の人刺すだろうから意地でも死ねないしである意味修羅場っちゃ修羅場だったかもしれない。
痛すぎて「めっちゃ痛てぇ~~~~~!」と叫ぶこともなく、かっこいい世辞の句も読まずに死んだけど。こう、コロッと。
そして、そんな『その周』の奏子の存在を引きずっているか? と言われると別にそうでも無い。
奏子は奏子だ。可愛い妹である。
(……待てよ)
「奏子は妹だ」という認識は引きずっているのでは無いのだろうか。だから贔屓目に見てしまうし、可愛いと思ってしまう。湊と奏子が弟妹という認知はどう足掻いても変わらないので周回する内にできた認識かどうかはまた別なんだろうけども。
どのみち、自分は美鶴さんに関してなにかしらの固定概念を引きずっていることになる。
それが何か分かれば美鶴さんに向けている感情の正体が分かりそうなものである。
笑っている顔が可愛い、とか。
楽しそうにしている姿を見るのがうれしい、とか。
初めて食べるものを食べたときの驚いた顔が可愛いとか。
考えれば考えるほど、美鶴さんのことしか浮かんでこない。なんなんだ。こんなに自分は美鶴さんのことを見ていたのか。歪んだ感情とはまた別のベクトルで気持ち悪くないか?
これじゃ、まるで自分が──
いや、やめておこう。
そもそもそんなことを考えるんじゃなく、普通に「避けててごめん」「恋人とか特別な関係になるのは無理だけどこれからも友だちとしていたい」と伝えればいいだけの話だ。
そう決めて、目をつぶった。
「──み……くん」
ふ、と名前を呼ばれているような気がして目を開いた。
眼前にはいつも通りの静かな表情を浮かべた高梨さん。そして自分のことを呼んでいたのは横に座っていた朔間くんだ。
「ああよかった。ぐっすり寝てたみたいだったから起きなかったらどうしようかと…もうすぐ京都に着くから起きて降りる準備した方が良いかなって思って」
「ありがとう」
「どういたしまして」
礼を言って向かいの席を見ればそこに美鶴さんの姿は無く。手洗いにいっているのか別の席に移動したかは分からないが今はいないようだった。
「まるで死体の様に熟睡していたわね。そんなにこの旅行が楽しみで昨日眠れなかったのかしら?」
「高梨さん…そういうの、病み上がりの三上くんにはきつい冗談だよ…」
「それもそうね」
つまらなさそうに高梨さんは言うが、朔間くんのいうようにこれまでの自分の状況を思い出すとにシャレにならない冗談だ。よくこの短期間で動けるようになるまで復活できたなと思える程度には。
「探しているところ残念だけど、彼女は貴方が寝ている間に2年の子のところに行ったわよ」
キョロキョロと周りを見ていたのを美鶴さんを探しているのと勘違いしたのか、高梨さんがそう耳打ちしてくる。
恐らく岳羽か、山岸と奏子達のところだろう。その方が良い。共通の話題も多いだろうし、自分なんかといるよりよっぽど。
電光掲示板が『次は京都』と映しだしたのを見て小さく息を吐いた。
夜
京都駅から数時間ほどバスに揺られて今夜のお宿である“東山三条・後醍醐”という旅館に来た。もうすっかり夜になってしまっている。
風情のある“いかにも”な旅館で、普通なら泊まることはおろかお目にかかる事の無いような豪華な内装の旅館だ。ここは月光館学園が私立だったことに感謝すべきだろう。
そんなことを考えて気を紛らわそうとしたがやっぱりだめで。
バス移動で酔ったのか少し気持ち悪い。思わず胸のあたりを抑えれば、心配したように朔間くんが顔を覗き込んでくる。
「大丈夫…?」
「ああ、うん。大丈夫だよ。ちょっと酔っただけみたいだから」
そう返事をしてみたが朔間くんの顔は心配したような表情から戻らない。
それもそうか、とひとりで流していれば前によく見知った顔がいるのが見えた。
特別課外活動部の2年生組と綾時くんだ。今ではもう、綾時くんがいるのが当たり前で見慣れてしまっているのが慣れって怖いなと思うところだ。
「これが噂に聞く露天風呂と言うやつですか」
「いや、これはただのお庭でしょ…入口から丸見えだし…」
「なるほどなー…、!」
きゃいきゃいとはしゃぐ生徒やいつものメンバーを前に朔間くんと歩いていれば、庭の豪華な池を見ていたアイギスがこちらに気づいてずんずんと近づいてきた。そして、自分と朔間くんを交互に見てその間に割り込んできた。
「あなたは、だめであります」
「えっ?」
まさかここでその台詞を聞くとは思わなかったので、目を丸くする。
どうして自分と朔間くんなのか。
「優希さんに近づかないでください」
「そんなこといわれても…僕は三上くんと同じ班だし…と言うかきみって三上くんの寮の…」
「アイギスであります。早急に、優希さんから離れてください」
「ええ…そんな、僕が危険物みたいな言い方あんまりだよ…」
キッ、とアイギスに睨み付けられおどおどとしながらも理由を話す朔間くんだったが、理解を得られることはできなかったようでアイギスに言い返されて困っているようだった。
「ほら、お喋りは後よ。進まないと、後ろがつかえちゃうでしょ」
「すみません」
そんな中、鳥海先生がアイギスと一緒にいる自分たちに向けて声をかけてきた。ナイスタイミングだ。まさに、渡りに船といったところか。
アイギスと朔間くんの押し問答が無限に続かなくて良かったと思っていたところだ。
恐らく、何を言ってもアイギスは自分と一緒にいる限り朔間くんの“一緒にいる理由”を認めはしないだろう。綾時くんに対してそうだったように。
ただそうなるとなぜ朔間くんに対してアイギスがそんな反応をするのかわからないのだ。朔間くんは綾時くんとは違う。アイギスが危険視するほどの物はないと思うのに。
「はい、じゃあ女子から先に部屋にあがってちょうだい。それと、三上くんは江戸川先生と同じ部屋だから。体調が悪くなった子とかも来るかもしれなけど、よろしく頼むわよ」
「わかりました。それじゃあ俺はお先で」
「えっあっうん…またね…」
半泣きになっている朔間くんと僅かに不満げな顔をしているアイギスを置いて、荷物を持って上に上がる。途中、ずきりと胸が痛んで思わず足を止めてしまったがその一瞬だけで発作ではなかったようでふうと安堵の息を吐いた。大丈夫大丈夫、きっとこれは運動不足由来だ。そうに違いない。
そうしてヒイヒイハアハアと情けなく息を切らしながら階段を登り切り、自販機に目が行く。
毎回毎回、ここのイチジクジュースを飲むのが楽しみなのだ。『充実イチジク』と言う名前だった気がする。他にもドリアン・オレだったりトマトジュースがあったりするが飲み比べした結果イチジクジュースが一番お気にいりになってしまった。
モコイさんにも飲ませてあげられれば良かったが、もしモコイさんが生きていてもジュースによってはゲロゲロになってしまう可能性もあったしそもそも江戸川先生と相部屋なので人目を盗んでモコイさんに飲ませるというのが難しいということもあるのでお留守番になっていた可能性は大いにある。
自販機に120円を入れ、ボタンを押してガコンと音を立てて落ちてきたソレをポケットにしまう。
(……?)
ちりちりと、京都に足を踏み入れてから──正確には駅を出てバスに乗って移動している最中からなにか変な視線のようなものを感じていた。
かといって視線のようなものだけであるし、何も危害は加えられていないので気のせいだと思い込もうとしていたのだ。が、時間が経つにつれてその視線のような気配のようななにかは強くなっているような気がして、警戒を深める。
そうして周りを見回しても何も変わったことは無かったのでそのまま割り振られた部屋に向かって荷物を置いて浴衣に着替えた。
そしてウッキウキにテンションを上げて念願の温泉に行こうとすれば合流した江戸川先生から「ヒヒ、ダメですよ…今日は様子見として室内に備え付けの浴室で入ってくださいね…イヒヒヒヒ…」と言われて落ち込んだのは秘密だ。
温泉に入るのが最大の楽しみと言っても過言ではないのに、こんなところに来て倒れた事や持病が邪魔をするとは思わなかった。
先生曰く、高温のお湯に浸かるのはやはり体力を使ってしまうので倒れてしまわないように少しぬるめの温度の出る備え付けの浴室で体を慣らしてそれで大丈夫そうならまた明日、ということらしい。
ただよかったのはこの備え付けの浴室にも温泉がひいてあって、お湯だけならしっかりと外の露天風呂と同じ物だという事だ。水で割られているので源泉かけ流しとは言えないがそれは露天風呂もそうなので黙っておく。
風呂に入り、多少くらくらと視界が揺れていたが逆上せの範囲内だったので敷かれている布団に横になる。江戸川先生はこのまま明け方頃まで起きているらしい。先生って大変だ。
明日になったら、折を見て美鶴さんと話をしよう。そして、謝ろう。
そんなことを決めて目を閉じればすぐに眠気が襲ってきたので自分はそれに抗うことなく眠りに落ちた。
影時間
「う…」
胸に走った鋭い痛みで目が覚めた。
息が苦しい。ぜえぜえと情けなく脂汗を垂らして枕元に置いてある薬をなんとか手に取り、ひとつ口の中に放り込んだ。江戸川先生は例に漏れず象徴化していて棺のオブジェと化しているために助けは求められない。
この痛さと苦しさは何度か体験したことがあるような気がしたので恐らくいつもの発作だろう。長距離の移動で体力を使ったせいか幾分か悪化している気がしないでもないが。
治まれ、治まれ、と痛みと苦しさに歯を食いしばって願いながら布団の中で身体を縮こませれば意識の方が耐えられなかったのかぶつんとなにかが切れるような音と共にブラックアウトした。
優希が発作で苦しんでいるのとほぼ同時刻、奏子はふと、何かを感じて目が覚めた。
「……?」
布団から起き上がり、窓の外を見つめればいつもと同じように緑の空と
「どうかしたでありますか」
「ううん、なんでもないよ。ちょっと気になっただけ」
アイギスがのそのそと布団から這い出て、奏子の横に並んだ。
初の温泉に入った後、アイギスが男子部屋に乱入したりその男子部屋から綾時や順平、そして湊と揉み合いになり下の池まで落下するという事故があったがそこは割愛する。彼らとアイギスが鳥海に叱られたのは言うまでもない。
ふたりで並んで窓際に座り影時間の空を眺める。そこで、奏子は違和感に気がついた。今日の月齢は新月だったはずだ。だというのに、何故月が綺麗に円を描いているのか。
そんな疑問を持ったのと同時に、どろりと月から何かが垂れた。そしてその垂れたもの──黒い泥は下に落ちるのと平行して月を黒く染め上げていく。まるで垂れた墨汁が半紙に染みていくように。
「なに…あれ……」
気味が悪い。
奏子が感じたのはそんな感想だった。新月の日にタルタロスに行ったことは何度もある。だが、こんな現象を見たのは初めてだ。
しばらく食い入る様にその様子を見ていれば、黒い泥は空も地も真っ黒に染め上げ、いつもの影時間とはまた違った様相を見せる。月は月蝕の時の様に食いつぶされ、
空気もいつもの慣れた静かなものではなく、重く、じっとりとした物のようにも感じられる。
「美鶴さん達を起こしてきます」
「で、でも…待って。まだ、ここにいて」
立ち上がろうとしたアイギスを引き留め、じっと中庭を見やればちょうど泥が盛り上がり、形を成そうとしているようだった。
その光景にカダスで見た
そんな奏子の気持ちを知らずに泥はその姿を変えていく。
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!
笑い声。
否、骨と骨を打ち付けたような乾いた音だ。
それが笑い声の様に聞こえるのだ。
奏子かようやっと分かったのは、
一体何本の足があるのか。色づいておらず真っ黒な影色をしたそれがなんなのか奏子には見当もつかなかった。
ただただ、奏子の存在自体を否定するような嫌な感じがするだけで。
「……!」
不意に、どぽんとその姿が沈むように泥に戻る。一体何が現れようとしていたのか、それでも戦いになるような存在でなくて良かったと奏子は胸をなでおろす。
潮がひくように世界を覆っていた泥も徐々に消えはじめ、あっという間にいつも見る影時間の景色に戻ってしまった。
不安と安堵がないまぜになりつつもこれ以上変なことが起こってもらっても困ると奏子は思った。
なんせこの宿に武器を持ってきてはいない。屋久島でのことを踏まえていても何も知らない知り合いが大勢いる中で武器を持っていくことが出来ず、ギリギリ召喚器しかないのだ。そんな中で戦闘になればどうなるか。間違いなくジリ貧だろう。
それに戦闘中に影時間が終わってしまえば何をしているんだと言われかねない。
幾月という誤魔化し役兼後ろ盾がいない今、そんな状況は特別課外活動部にとって一番避けたい事態でもあったのだ。
そう考えると幾月と言う存在は悪と一言で表していい存在だったかと言われるとまた別なのだと言えたかもしれない。
「先ほどの反応は…一体…」
アイギスが考え込むようにして顔を下げる。
ほんの一瞬現れたあの獣のような何かに対し、思うところがあるのだろう。
ただ、本当に一瞬だったのでアイギスも報告すべきか決めかねているようだった。
「寝よっか」
「ですが…」
「気のせい…とかじゃないだろうけど、もう元の景色に戻ってるし、大丈夫だよ、たぶん」
先ほどまで感じていた嫌な気配はもうしない。
まだ影時間だったが寝ても大丈夫だろうと奏子は判断した。アレが何だったのかわからず仕舞いだが、きっと知らなくていいことだってあるのだと、そう自分をごまかして。
優希がもう試練は無いからいいだろうと判断して持ち込まなかったメノラーが、寮の自室でその火を大きく揺らめかせ、燃え上がらせていたことに誰も気がつきはしなかった。