君、死にたまふ事なかれ【本編完結】   作:月瓜里

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修学旅行二日目(11/18)

11/18(水) 朝

嫌な夢を見たような気がした。

ベタベタとベタつく汗への気持ち悪さで目が覚める。

時計を見ればまだ5時で、起きるにはいささか早い時間だ。

昨日の影時間に発作を起こしたせいか、少し身体がだるい。

寝たのに疲れているという意味のわからない状況に陥っている。枕がいつもと違うからダメなのか。

本音を言えばこのままシャワーを浴びたい。熱くて目がさっぱり覚めるような。

そんな自分のこのじめっとした粘つくような不快感とは真逆のほぼ徹夜なはずなのに江戸川先生の疲れを感じさせないいつもと同じ顔がお出迎えする。

 

「おや、三上くん。随分と早起きですねぇ」

「江戸川先生…おはようございます」

「はい。おはようございます。そうそう、昨日の夜、正確には3時間ほど前ですか。魘されてましたよ。起こそうか悩んだのですがね…」

 

顎をさすった江戸川先生はいつもの特徴的な笑い方をせず真剣そのものだった。本当にギリギリまで悩んでいたようだ。

それは申し訳無いことをしたと思うと同時に発作は影時間内に治まったのだと分かってほっとする。

 

「心配かけたみたいですみません」

「いえいえ、いいんですよ。ええ。私としても何事も無くて良かったと言えるので。せっかくの修学旅行だというのに病院送りになる生徒を見るのは忍びないのでね…ヒヒッ」

 

何事もないのが1番だと言外にそう言ってきた江戸川先生はいつもの特徴的な笑い方をようやく出した。

顔はいつも通りだったのにこの笑い声を聞かないと緊張してしまうというのはダメな兆候かもしれない。

 

「先生、シャワー浴びてきますね」

「あまり熱い温度や水のシャワーを浴びてはいけませんよ。三上くんは特に心臓が悪いんですからビックリしてしまっては元も子もありませんからねぇ」

「あー…はい。気をつけます」

 

別に病気があるからといって心臓自体に障害があるわけでもそんなにひ弱でもないと思うのだが、昨日の今日ということもあるので忠告通りに昨日と同じく少しぬるめのシャワーを浴びることにした。

部屋と浴室の気温差に関しては良い旅館だからなのか暖房が浴室にまで備わっており全くと言っていいほどにないのでそこは心配なかった。

 

さっと頭と身体を洗い、気持ちの悪い汗を流してしっかりと水気をとるように身体をバスタオルで拭く。しっかりと拭いておかないとそれが原因で身体を冷ましてしまうしそこは念入りに。

流石いい旅館と褒めるべきなのか、美品のタオルはふかふかふわふわだった。いつも使っているよく分からない1枚200円くらいの安いノーブランド品のバスタオルとは大違いだ。値段も大違いなんだろう。

そしてまじまじと鏡で自分を見れば、うっすらとついていたはずの腹筋の割れ目が完全に消えていてげんなりした。元々筋肉がこう…目に見えてつきにくい体質だったので10月頃にやっとうっすらとつき始めて喜んでいたというのに、この短い休養生活の間にさよならと別れを告げられていてしまっていたらしい。辛い。

 

「はあ…」

 

憎らしげにぺたぺたと僅かに摘めるほどの腹の皮と肉をつつけば柔らかい感触だけが返ってきてげんなりとする。

欲しいのは触り心地抜群の柔肌じゃなくて硬くて素晴らしい筋肉なんだが。そも、自分の腹をさすることの何が楽しいのか。どうせなら女の子の、それも美鶴さんの柔肌に触れた…げほんごほん。

まったく、自分は朝からナニを考えているのか。あーバカバカしい。さっさと着替えてしまおう。

 

降って湧いた欲望を振り払って、ドライヤーで髪を乾かしてまた浴衣に着替え部屋に戻れば江戸川先生は仮眠をとっているようで布団に横になっていた。

幸い、自分以外の生徒がここに来ることは無かったようでいま部屋にいるのは自分と江戸川先生だけだ。

机の上のお茶請けに目がいき、ちょうど喉も乾いていたしテレビでも見ながらお茶でも飲むかと電気ポットに手を伸ばした。

 

電気ポットのロックを外し机の上に並べてある湯のみのひとつを手に取って傍に置き、急須にお茶っ葉を入れて湯を注ぐ。

お茶っ葉の量は完全に目分量だがあまりお茶に好みはないので薄くなければいい程度の考えしかなかった。

付属の紙を読めばどうやらこのお茶っ葉とお茶請けのお菓子は下の売店でも売っているようだ。ここでこうして飲み食いして気に入ったなら買ってくれ、ということだろう。中々に商売上手と言わざるを得ない。

お茶っ葉のパックの裏に書いてある時間きっちりに蒸らし、用意しておいた湯のみに注げば良い香りが鼻腔をくすぐった。

味は…自分の舌がバカなのか市販のものと違いがよくわからなかったが渋みや苦味といったものはよく飲む紙パックのものより少ないように感じる。

それだけしか分からないのが残念だったが所詮は喉を潤すために飲んだものなので気にしないことにした。

 

テレビのリモコンを手に取って、その電源をつける。江戸川先生が寝ているのでその音量は小さめに。

朝早くだったので知らないニュースキャスターの映る無機質でなんの面白みもないニュース番組がやっていた。

内容は、今日の天気だったり最近よく報道される集団自殺未遂と無気力症の増加についてだ。

無気力症については毎回同じなので特に言うこともないが、集団自殺未遂なんてものはこれまで取り沙汰されてこなかった事だ。なぜそのような事が頻発しているのか。

ニュクスが降臨するからその影響とかだろうかとは思うがそうなるとこれまでそんなことが頻発していなかったという点が矛盾点になってしまうし、当たり前だがスッキリするような答えが出なかったので思考を止めてお茶請けである八ツ橋に手を伸ばした。

ちなみに八ツ橋と言われてイメージできる三角形の生地の中に餡が入っている柔らかい八ツ橋は生八ツ橋で、今手に取った乾いたせんべいみたいな八ツ橋こそが普通の八ツ橋だそうな。これは修学旅行に来て初めて知ったことだ。

個人的には生八ツ橋も良いがこちらの八ツ橋の方が好きかもしれない。甘すぎず、柔らかすぎず。好みの味だ。

もさもさとそれを齧りながら緑茶を飲めば絶妙にマッチしていてなんとも言えない甘みが口の中に広がった。

これがまた堪らないのだ。

こだわりで言えば緑茶と組み合わせるよりシナモンを入れたホットミルクと一緒に食べる方が好きだったりする。

 

この八ツ橋をお土産として買うことは確定事項なので銘柄を確認して脳内にメモしてからくあ、と欠伸をして時計を見れば6時ちょうどだった。

朝食は7時30分かららしいのでまだ時間には余裕がある。

 

(どうしようかな…)

 

散歩に行ってもいいかもしれない。が、突然居なくなったら先生が心配するだろうし、そもそも散歩が認められているのかどうかも分からないのでやっぱり部屋で待機していることにしておく。

廊下の自販機や1階の露天風呂や売店に行くくらいなら許して貰えそうだが、流石に旅館の外に出るのは不味いことくらいは分かる。かといってこれ以上の暇つぶしができるものを持ってこなかったというのは失敗だった。

ちらりと布団を見ればまた眠気が襲ってきたのでもう一度横になることにした。

 

 

 

 

唐突に、謎のデロデロという音で目が覚めた。

ぱちりと目を開けて音の正体を確認すれば、江戸川先生の携帯電話の目覚まし機能だったようで安心する。

その江戸川先生はというとすぐに目が覚めたようで音を止めたあとムクリと起き上がった。

そして洗面所へと緩慢な動きで向かっていったのだった。

対する自分はというと、ちょうど7時になっていたので服を着替えるべく起き上がった。そろそろ浴衣から制服に着替えて、下に降りる準備をした方がいいだろう思ったからだ。

さっさと着替えて管が入っている袋をしっかりと着けて立ち上がれば洗顔と歯磨きを終えたらしい江戸川先生が帰ってきた。

 

「今日は京都各地の名所を巡るようですねぇ。かの有名な清水寺では、病気平癒の願掛けもできるとか。今の三上くんにはピッタリでは? ヒヒヒッ…ここはひとつ、お願いしてみるのはどうでしょう」

 

ニヤニヤと笑いながら江戸川先生はそうオススメしてきた。

それもいいかもしれない。もう既に手遅れかと言われればそうかもしれないが、僅かな間だけでも願掛けしてもいいかもしれない。こちらとしてもこれ以上発作が頻発してもらっても困るのだ。

 

「それと。晴明神社という選択肢もあります。陰陽師としては1番有名な人物、安倍晴明を祀っている神社ですね。そこも無病息災や病気平癒の願掛けが出来ますよ…そうそう、特別講義でもしましょうか」

 

ヒヒ、と指を1本立てた江戸川先生は朝食までの15分ほどでなにか語ってくれるらしい。

 

「晴明神社の御朱印には“桔梗紋”と呼ばれるマークが描かれています。さて、そのマークとはなんでしょうか」

「え…」

 

突然そんなことをノーヒントで言われてもわからない。

生粋の陰陽師マニアとかならサッと答えられたのかもしれないがあいにく自分はそちら方面に興味はない。ついでに

 

「わからないです…」

 

仕方ないので早々に音をあげれば、江戸川先生はメモ帳を取ってボールペンで星のマークを一筆書きした。

 

「正解は“五芒星”でした。答えられなかったので今日1日、三上くんのオーラはビビットピンクと黒のギンガムチェックになります。…五芒星は五線星、星型五角形とも呼ばれるものです。世界中で魔術に関する記号として扱われているんですよ。イヒッ…これを逆さにしたものがデビルスター…サタニズムに見られる悪魔の象徴とも呼べるマークになります。おおエロイムエッサイム、エロイムエッサイム…」

 

うやうやしげに両手を上げながら謎の呪文を唱える江戸川先生は授業中のような妖しさを帯びていた。特別講義なのでおかしくないと言われればおかしくないんだが。

というかオーラを今日1日だけビビットピンクと黒のギンガムチェック柄にするってなんなんだ。いつもの冗談だと思うので困ることは無いだろうけど微妙に気になる。

 

「安倍晴明ですから、ドーマンセーマンの方が三上くんには馴染み深かったでしょうか。一般的に星形というのは至る所で見ることが出来る意匠ですが、これ、魔除けとして使われてもいるんですよ」

「へー…そうなんですね」

 

知らなかった。

というか、興味がなかった。まったく。

こんなことを言ったらこれから参拝する予定の晴明神社で怒られそうな気もするがきっと許してくれるだろう。たぶん。根拠はないけど。

 

「五芒星に纏わる神々といえば、メソポタミア神話のイシュタル、クトゥルフ神話のシュブ=ニグラスなどの地母神がいます。エジプトでは性的な意味合いを持つもの…“ウブ”という名でこれを呼んだとか。地母神も多かれ少なかれ性的だったり母性を意味するものが多いので、性と母性は切っても切れない関係にあるということがよく分かりますね」

「は、はあ…」

「そして性とは“生”そのもの。リビドーとエロスは生きる活力そのものといえるのです。ええ、まあ。三上くん、今のきみに足りないものは恐らくそれですよ」

 

なんだか話が脱線してきている気がする。

そして何故か勝手に願掛けから活力が足りないという説教のようなものに変わっているような。

首を傾げていれば時計を確認した江戸川先生がサッと妖しい雰囲気を霧散させた。

 

「おっと、もうすぐ朝食の時間のようなので特別講義はここで終了ということで。地母神やエロスについてもっと深堀りしても良かったのですがね…いささか時間が足りませんし、またの機会にしましょう…イヒヒヒヒヒヒ…三上くんも遅れないようにして来てくださいね」

 

そういってつっかけのような靴を履いてぺたぺたと足音を立てて出ていった江戸川先生の後に続く。

電気はつけっぱなしでもいいとの事だったが気になったので一応消しておいた。

 

 

 

 

 

 

 

朝食を済まし、いよいよ歴史の名所めぐりに出発となった。

観光バスの乗務員さんの話を聞き流しつつ、バズの座席からぼーっと外を眺める。

 

「えと…名所巡り、楽しみだね。三上くんはどこが気になってる?」

「晴明神社かな。朝、江戸川先生に教えて貰ったんだ」

「へえー…」

 

隣の席にいる朔間くんとの会話が続かない。これは仕方のない事だろう。

朔間くんも自分もこれといって話す話題がないのだ。これまでクラスメイトとして特に仲が良かったというわけでもなく、最近少しずつ話すようになっただけなので自分は朔間くんの趣味すら知らない。そして朔間くんも自分も話す気がないのに無理やり話題を創り出すタイプではないのはこの短期間の付き合いでわかったことだった。

ついでに言えばまだ美鶴さんに謝ることが出来ていない。朝食の時も探してみたがタイミングが悪かったのか会えず、バスに乗車する際も岳羽や山岸、奏子と楽しそうに談笑していて邪魔できずに情けなく逃げてしまったというわけだ。

本当に自分が何をしたいのかよくわからない。夕方の自由行動までにはなんとか心を決めておかなければ、と気合いを入れる。

観光を邪魔するのではなく、空き時間になんとか美鶴さんに会えればいいのだが。

 

 

 

 

 

 

 

夕方

鴨川“三条大橋”付近

 

金閣寺や清水寺などバスで巡る京都の歴史的名所の観光を終え、昼食を食べた後に旅館近くを流れる鴨川の近くで解散となった。3時間ほどぶらぶらと自由行動というわけだ。

昼食を公園で食べたのだが、配られた弁当を隣に座っていた朔間くんがトンビに襲われておかずをほぼすべて奪われるというアクシデントが発生し、半分に分けて食べることになったので少し腹が空いている。

朔間くんや高梨さんと別れ、ひとり川の上で水浴びをするサギを眺めてあれは食べられるんだろうかなどと考えて、更に腹が減ってきてしまったので少し考えを切り替えることにした。

ずばり、どうやって美鶴さんに謝るか、ということだ。謝る言葉は決めたが、あまり直接的にズバッと言ってしまうと更に傷つけかねない。

どこまでオブラートに包むか。どんな言葉を発するか。それが問題だった。

そんなことを考えていれば、近くで足音がして思わず座ったまま振り向く。

 

「三上…」

「美鶴さん……」

 

そこにいたのは美鶴さんだった。

こんな川べりに何しに来たのかわからないが、タイミングを伺っていたというのにいざ顔を合わせると気まずくなる。

 

「…邪魔したな。すまない」

「待って!」

 

そう言って立ち上がり、踵を返そうとした美鶴さんの手を思わず掴んでしまう。しまった。まだ話す言葉を何も決めていない。

ええい、ままよ。こうなったら当たって砕けてしまえ。

 

「美鶴さん、これまで避けててごめん」

 

勢いよく頭を下げれば美鶴さんはぱちくりと目を瞬かせる。

 

「俺から断った癖に、勝手に気まずくなって…美鶴さんを避けてたのは最低だ。今更謝ったって遅いかもしれないけど、その、なんていうか、あの時も色々言葉が足りなくて、美鶴さんを傷つけた。だから、もし美鶴さんさえ良ければ、少し俺に時間をくれないか」

「今更、君の言葉を聞いてなんになる」

 

美鶴さんから返ってきたのは否定の言葉だった。

その言葉に目を見開けば、その言葉を発した美鶴さん自身も「やってしまった」と言いたげに青い顔ではくはくと口を開け閉めしていた。けれど、それはきっとこれまでの美鶴さんの本心だろう。そういう気持ちになっても仕方ない事だと思う。

 

「…ぁ…ちが、三上、す、すまない、ちがうんだ」

「…ええと、うん。ごめん…都合よすぎだよね。一方的に俺が美鶴さんを避けてたし、何様なんだよって話だよな…」

 

美鶴さんの手を離す。あまり強い力で握っていたわけではないが、何かの拍子で跡がついてしまっては美鶴さんを傷つけることになるし、父親である武治さんに叱られるどころか接触禁止令でも出されてしまいそうだ。

 

「……あ…」

 

手を離して、寂しそうにする美鶴さんから視線を外し座り込む。あくまでも、離れやすい雰囲気づくりが大事なのだ。

 

「これはあくまでも俺の独り言だから。すぐ立ち去ってもいいし、聞かなかったことにしてもいい」

 

『独り言』だということを強調する。

独り言なのだから、自分が恥ずかしい事をべらべらと喋っていてもそれは美鶴さんのせいでもなんでもない。

 

「…俺さ、美鶴さんから『好きだ』って言ってもらえてうれしかったよ。すごく。舞い上がっちゃいそうだった」

 

後ろにいるであろう美鶴さんの気配はそこから動いていないようだ。ただ。後ろは見えていないので美鶴さんが今どんな表情をしているのか、全く分からない。

だから戦々恐々だ。自分の勘が鈍って誰もいないのにこんなこっぱずかしい『独り言』を延々喋らなくてはいけないのだから。

 

「それで、なんで断ったかっていうとさ、理由は色々ある。俺はこんなだし、近いうちに死んじゃうかもしれないってのもそうだし、きっと、美鶴さんの望むようなことはなにひとつしてあげられない。けど、一番は俺といることで美鶴さんが不幸になっちゃうんじゃないかなって思ったからなんだ」

 

「だったら友だちになるなって話なんだけどさ」と続ければ、少し虚しくなった。

最初から関係を持たなければ、喪って傷つくことなどない。だから、俺の選んだ手はとことん悪手なのだ。

誰とも関係を持たず、目的以外に無関心でいればよかった。ただそれだけの簡単なことだったんだ。

 

「勝手に幸せ・不幸せを決めつけるなって言われちゃいそうだけど、俺は美鶴さんに不幸になってほしくない。遅かれ早かれ来てしまう“別れ”で美鶴さんが辛い思いをしてほしくない。特別な関係になってしまったら、“別れ”はきっと耐えがたいものになってしまうから」

 

自分は何を言おうとしていたんだったか。

もう話がめちゃくちゃで、とにかく浮かんだことを口走っているだけになっているが、なんだかこれでいい気がしてきた。もう美鶴さんに許嫁がいるとかどうでもいい。

最初から、本音を包み隠さず言えばよかったんだ。

 

「あとは、美鶴さんを千鶴さんと重ねてみてるんじゃないか、とか。ちゃんと『今』の美鶴さんを見れているのか、とか。たくさん。沢山あるんだ」

「…そういうものを、抜きにした…三上の気持ちはどうなんだ…?」

 

独り言にここで初めて返事が返ってきた。まだ美鶴さんはいてくれていたらしい。

それがよかったのかはわからない。けれど、不安要素なりなんなりを抜きにした今の俺の気持ちはなんだと言われればそれは一言で表せる簡単なものだ。

 

「好きだよ。俺も、美鶴さんの事が好きだ」

 

ただ、その好意は綺麗なものではないけど。

小石を拾ってぽいと川に投げる。水切りをしようってわけではなく、言ったことが少し恥ずかしくてそんな恥ずかしさをごまかしたかっただけだ。

美鶴さんの顔もまっすぐ見れないのに、こんな形で「好きだ」と伝えてしまうことになるとは思わなかった。そもそも、言うつもりもなかったのだ。

当初の予定では特別な関係にはなれないがこれまで通り友だち付き合いしましょうね的なアレコレを言って何とかごまかす予定だったのだ。それが、何の因果かこうして好きだと口走ってしまっている。

ああ、どうしよう。

 

「そうか…」

 

足音がした。

カツリとハイヒールの特徴的なその音が数回して、影が差す。

「あ」と声を出す間もなく、背中に重みと柔らかい感触が乗った。

これは、まさか、もしかしなくても、いま、自分は

 

「…ふふ」

 

笑い声。それと、身体に回される手。

 

「私もだ。何度でも言おう。…好きだ。君のことが」

 

周りの音が何も入ってこない。

川の音も、夕日に反射して輝く水面も。美鶴さんの声と触れた感触以外、全部が遠くなる。そっと俺を抱きしめている美鶴さんの腕を放し、向き合う形になれば美鶴さんの顔は真っ赤に染まっていた。きっと、自分も同じように真っ赤になっているのだろう。

 

「お、俺だって男だよ…? な、なにするか、わかんないよ。ひ、酷い事とか…しちゃうかもじゃん。それでも、いい?」

「するのか? 私としては…そ、そうだな、君の違った面が見られるのならウェルカムと言いたいところだが…程度にもよるだろうな」

「や…そんなこと言われたら…しない、し。たぶん。だって、閉じ込めて誰の目にも触れさせたくないだなんておかしいだろ…」

 

ふたりでしどろもどろになりながらついに醜い欲望を吐き出せば、美鶴さんはまた恥ずかし気にはにかむ。

 

「君がそんな気持ちを私に対して持っていたのは意外だな…だが、短時間なら、いい…と思う」

 

ぽぽぽ、と美鶴さんの顔がより赤くなる。

「いや、自分が思っている閉じ込める云々は恒久的なんだ」と言えずにこちらもへにゃりと表情を緩めてしまう。だらしない表情筋だ、と思いながらもうだうだと悩んでいたのがバカらしくなってきた。なんかもう、小難しい事は後で考えたい。

自然と美鶴さんと手が触れ合い、そして絡み合った。

 

「私たちの関係は私に許嫁がいる以上しばらくは表沙汰にはできないだろうが、私からお父様に掛け合ってなんとかしてみるよ。勿論、お叱りを受けるのは承知だ。しかしもし許されなかったら、その時は…」

「それ、俺も一緒に行くよ。もし美鶴さんのご両親に叱られるなら俺と美鶴さんの2人じゃないと。だって両想い、なんだろ?」

「それもそうだな」

 

ふたりで笑い合う。

できれば、12月になってしまう前に。

そんなことを考えていれば唐突に美鶴さんが真剣な表情になった。きゅ、と顔を引き締め、こちらをまっすぐ見つめてくる。そして、緊張するのか大きく息を吸った。

 

「…私はこの前、三上に生きてほしいと言ったな」

「うん」

「よくよく考えてみたんだが、ただ“生きていてほしい”などと言うのではなく、君が生きれる道を探すべきだったんだ。死ぬ原因があるなら、それからきみを守れる力が欲しいと思った」

 

美鶴さんの表情が憂い気になる。

こんなタイミングでこんなことを思うのは酷いが、美鶴さんの決意は無駄に等しい。絶対の死(ニュクス)にただの人間ひとりが抗えるものではない。

湊と奏子が得た“宇宙のアルカナ()”だって、奇跡が起こって手に入れられたものだ。

だから、ちょっと力を得た程度では難しい。それこそ、魂や己の存在自体を賭ける程度でないと。

どちらにせよ少なからず人であることをやめる必要があるのだ。

 

「君はもう知っているのかもしれないが、以前私は戦う理由を“罪滅ぼし”だと言っただろう。その、あれは嘘だ。本当は、お父様を守りたかっただけなんだ。お父様は、桐条の責任のすべてをたった一人で抱え込んでいた。あの事故以降、死に場所を探しているような顔をしていて…それが今のきみの顔とよく似ているんだ」

「……そ、れは…」

「もちろん、君のことが好きだというのは嘘偽りない気持ちだ! 私だって、三上が言ってくれたことと同じで君をお父様と重ねてみていたかもしれない、と不安だったんだ! だが、告白を断られてから常に君のことが頭の中から離れなくて、わからなくて…」

 

美鶴さんが武治さんのことが好きなのは知っていた。俗にいう、ファザコンというやつだ。

だが、武治さんと自分を重ねていたかもしれないというのは初耳だった。

そんなに自分は死に場所を探しているような顔をしているのだろうか。思わずむにむにと触ってみるもわからない。

 

「だが、もう決めたよ。私はお父様だけでなく、きみも守りたい。君を守れるだけの力が欲しい」

「そういうの、普通は俺とか男の方が言うもんだけどね…」

 

カッコよく告白されて、もはやこちらは形無しである。

はは、と笑い返したその瞬間、ぱきんとガラスの割れるような音が響いた。

 

「「!?」」

 

空に“ペンテシレア”の姿が浮かび、その姿が鎖鞭を持った正しく『女帝』と言わんばかりの姿に変わる。

 

“アルテミシア”。

ギリシャ神話の月の女神アルテミスに由来する女性人名を持つハリカルナッソスの女王だ。夫の死後女王になったという意外とシャレにならない経歴を持つペルソナでもある。

正直、まだ両想いになってすぐだが美鶴さんをこのアルテミシアと同じ道を辿らせたくない気持ちが湧いてきた。

ほんの、すこしだけ。けれど湊と奏子、ついでに世界を救うためには自分の考えている方法しかいまのところないわけで。

だから、何も言わずに黙っておこう。

 

「仲直りしたみたいで結構ですけどー、もう戻らないと夜の点呼に間に合いませんよー」

 

後ろから飛んできた声に自分も美鶴さんも反射的にバッとつないでいた手を離して何事も無かった風を装う。

後ろを振り向けば岳羽がそこにいた。

 

「三上先輩、江戸川先生が探してましたよ。なんでも、温泉に入る前に聞いておきたいことがあるとかなんとか…」

「わかった。すぐ行く。それじゃあ美鶴さん、またあとで」

 

温泉に入る前に、ということは軽い問診だろう。

昨日もそれはあったので特別なことではないし、待たせるのも悪いので美鶴さんに向かって手を振れば、またはにかんで手を振り返してくれる。

 

「ああ。また」

 

そうしてぱたぱたと小走りで、かつ顔のにやけを抑えながら旅館へと向かった。

 

 

 

 

足早に立ち去った優希の後ろ姿を見ながら、ゆかりは美鶴へと歩み寄る。

先ほど見た2人はどう見てもこの数日とは比べ物にならないくらいに親し気で、仲直りした以上の何かがあったに違いないとゆかりは推測した。

 

「で、どうだったんですか? 仲直りどころか仲が進展しちゃったんじゃないですか?」

「ああ。ふふ、聞いてくれるか?」

「もうすぐ点呼なのでまたあとで、なんて」

 

嬉し気な美鶴の顔にゆかりまで嬉しくなり、軽い冗談を言う。

だが、ゆかりがここに来たのはもうひとつ、しなければならないことがあったからだ。

幾月の裏切りがあって以降、ゆかりと美鶴は親しくなった。それまで険悪、とまではいわないが双方気まずいものがあったのは確かで。それが幾月によって解消されたとなると悪い事だけではなかったようにも思える。されたことはそれぞれ肉親を殺されているので最悪にも等しいが。だが、もしそれがなかったとしたら。ゆかりはここまで美鶴と親しくなれただろうかと思案した。

そして、きっと自分の性格から考えるにそうはなれなかったかもしれない、と考え至ったのだ。

きっと、いつまでも意固地になって色眼鏡をかけたまま美鶴を見てしまっていただろう、と。ゆかりから見た美鶴はこれまで完璧人間、というイメージだったが、一歩近寄ってみるだけで全く完璧でも何でもない可愛い人だというのがよくわかった。そして、邪気がないという事も。

綺麗すぎてそれはそれでまた嫉妬してしまいそうではあるが、そこはもう、ゆかりにとっては美鶴の愛嬌だと思うことにしてしまった。

 

「私…前に、この辺に住んでたことがあるんです。父さんが死んでから、母さん…いつも知らない男と一緒にいたんです。それが嫌で、いっつもこの辺の川べりに1人で来てました」

 

これはまだ仲良くなったとはいえ、美鶴にも話したことない事だった。

正直なところ、ゆかりは母親のことまで話すつもりは無かった。ここに来なければ、思い出そうとすら思えなかったのだ。

 

「だから私…せめて父さんを信じてないと、普通でいられなかった…」

 

美鶴の顔がさっと陰る。ニュクスという最終的な立ち向かうべき存在が明らかになったとはいえ、桐条の罪は帳消しにはならないのだ。

 

「君の父は…そそのかされただけだ」

「…お父さん、危ない研究に加わってたけど、最後は、食い止めようってしてくれた。シャドウを放っておくと危ないぞって。身体を張って、食い止めようって。幾月のことも警告してくれて…でも、それも全部幾月にパーにされちゃいましたけど。けど、私、だからこそ戦うことにしたんです。私、影時間をなくすために戦いたい。お父さんの遺志を…継ぎたいから。たとえ相手が勝てない相手でも、立ち向かっていこうって思ったんです」

「岳羽…」

「だから先輩。その、私と一緒に戦ってくれませんか。これまで私、先輩に沢山ひどいこと言ったりしましたけど、全部チャラでなんていいませんよ!? だけどちゃんと、引け目なしでもっと仲良くなりたくて! あ、三上先輩とのことはもちろん応援してますよ! あの三上先輩相手だとメンドクサ…いろいろと大変でしょうけど頑張ってくださいね!」

「ぷっ…」

 

言いたいことを詰め込んでいればつい本音が漏れ、慌ててゆかりが誤魔化すように中途半端な応援をすれば美鶴は噴出して笑みを浮かべた。

その実、ファザコンという点ではゆかりも美鶴も似た者同士であるのだ。だからこそ、ゆかりは父親が生きていた美鶴に嫉妬していた面もあった。

それももう過去のことだが。

 

「ふふ、ありがとう。私の方こそよろしく頼むよ。“ゆかり”」

「!」

 

美鶴からの“ゆかり”呼びにゆかりは破顔する。

“ヒュプノス”から提示されたふたつの選択に対し迷いがあった美鶴だが、優希との会話やゆかりからの誘いもあり完全に意見が固まった。

もう迷わない、と美鶴自身も避けられぬ滅びに立ち向かう事を決め、その表情から愁いが消えたのを見てゆかりは頷く。

 

「…じゃあ、帰って露天風呂ってことで。三上先輩との話もそこで聞きますよ」

「風呂?」

 

突然ゆかりに提案されたロケーションが露天風呂、という事に美鶴は首を傾げる。

何故風呂なのか。

 

「まだ見てないんですか? あそこの露天風呂すごいんですよ。これからは、裸の付き合いという事で、恋愛でもなんでも、相談してくださいね!」

「…裸? どうも、恥ずかしいな」

 

基本、寮では美鶴は自室にあるバスルームに入るか、下の共同浴場に入るにしても女性メンバーが少ないために鉢合わせする場面がほとんどない。だから慣れなくて、美鶴にはどうも恥ずかしかったのだ。

しかし恥ずかしいのはゆかりも同じだった。

 

「ちょっ、赤くなんないで下さいっ! こっちだって、ハズかしいんだからっ!」

 

同じく恥ずかしがったゆかりはそれを振り払うようにわざとぷりぷりと怒るようなフリをする。

 

「もう、行きますよ、門限過ぎてるし!」

「わかったわかった」

 

走り去っていくゆかりの後を、困ったように美鶴が追いかけていく。

変わっていく関係性。それが、こうして円満に移り変わっていくのだから秋も捨てたものではないな、などと美鶴は幸せをかみしめていた。

たとえその先に避けられない絶対の滅びが待っていたとしても、今なら勝ててしまいそうな、そんな気が。

 

 

 

 

 

 

 

旅館2階

 

「よう。三上、ヒマか?」

 

夕食を終え、念願の露天風呂にも短時間だが入浴できてホクホク顔で部屋に戻ろうとしたら、ガタガタと茶色い革張りのマッサージチェアの上で揺られている真田くんがこちらを見つけて声をかけてきた。

やることも無いしあとは布団をひき直して適当に時間を潰して寝るだけだと思っていたのでちょうどヒマではある。

なので頷く。

 

「なら、ちょっと付き合え」

「いいけど、何するの?」

「露天風呂、旅館と言えばアレだろう」

「アレ?」

 

コーヒー牛乳とかフルーツ牛乳イッキ飲みだろうか。

こう、腰に手を当ててグイッと。

温泉や露天風呂、銭湯の風物詩だ。定番とも言う。最近はちょこちょこ飲むヨーグルトなどの変わり種がラインナップされてたりして面白い。

自分は風呂上がりに牛乳も良いが、アイスも捨てがたいと思っている。

小さい60円くらいのバニラアイス。なんとかバーという名前のやつだった気がするが、あれを食べるのもまた良いのだ。

モコイさんと一緒に銭湯にでも行って楽しめばよかったな、と名残惜しく思っていれば浴衣に入れた袋がカタカタと僅かに震えたような気がした。

 

「ここだ」

「ここって…」

 

真田くんに連れてこられた場所は売店でもコーヒー牛乳などが入っている自販機の前でもなんでもなく。

旅館の中にある人気の無い遊戯室だった。

ちゃちなクレーンゲームや90年代のゲーセンに置いてあったんだろう古いゲームの箱体が何個も並んでいる。

そしてその奥にある卓球台へと真田くんはずんずんと歩を進めた。

 

「やるぞ」

「やるって、卓球を?」

「それ以外に何がある」

 

聞き返せば真田くんはムッとした顔になった。たしかに、ここに来てラケットとピン球を出せば卓球をする以外何やるんだって話にはなる。

なるけれど、正直体力のなさを実感しているので元気モリモリな真田くんと自分ではまともな戦いになるとは思えない。

でもまあ、運動不足でもあったのでちょうどいいかもしれない。いま、やる気だけはあるのだ。やる気だけは。

 

「それともなにか、怖気付いたか?」

 

勝ち誇ったような笑みを浮かべた真田くんはえらく挑発的だ。

そっちがその気ならそれに乗ってやる、とこちらも挑発的な笑みを浮かべ返してやる。

 

「はあ~~? 怖気付いた訳じゃないし~~~? んにゃろ、それなら受けて立ってやる! 泣いて這いつくばる様を見るのが楽しみだな~~~!」

 

あっはっは! と笑えば目を一瞬ぱちくりと瞬かせた後、真田くんは獰猛な獣のような顔になった。

なんというか、捕食者のアレだ。真田くんの闘争スイッチを自分は押してしまったらしい。やってしまった。

 

「ならば、手加減は要らないな?」

「アッ、その、やっぱ病み上がりなんでお手柔らかに…」

「問答無用ッ! いくぞ!」

 

スパァンッ!

 

「ヒィ!」

 

顔面スレスレを真田くんが打ち出した豪速球が掠め、だらりと冷や汗が流れた。

今のはピン球ではなく銃弾かなにかか。卓球のルールを無視したそれは当たっていたら間違いなく痛いじゃ済まなさそうな感じだった。アザくらいは出来そうだ。

自分の知る卓球はもっとこう、穏やかなものだと思っていたんだが。

こんな命と命のやり取りをするスポーツが卓球だというのか。いやいやそんなわけないだろうとかぶりを振ってコロコロと転がったピン球を拾う。

 

「えーと、いくよ…?」

「ドンと来い。どこからでも受け止めてやる」

 

打ち上げて、ワンバウンドさせて真田くんの方へとサーブしたピン球が向かっていく。

それを難なく打ち返してきた真田くんは余裕綽々のようだ。

 

カコン、と音を立てて自分はそれを打ち返す。

まだ1回打ち返したくらいなら体力は大丈夫そうで安心した。むしろ1回目で息切れするようなら早急にギブアップしているところだった。

 

「美鶴に告白したらしいな?」

 

突然の真田くんの追及に動揺して手がブレるも、何とか打ち返す。

 

カコン

 

「ど、どこでそれを…」

「高梨からだ。こっそり教えてくれたぞ。あとは、美鶴の雰囲気が変わったからな。大なり小なりなにかあったんじゃないかとは思っていた」

「なるほど…」

 

壁に耳あり障子に目あり、とはそういうことらしい。どこから見ていたのか知らないが、情報の伝達が早すぎる。

 

カコン

 

「俺は、美鶴が幸せならそれでいい。だからあいつを泣かせるようなことがあれば…分かっているな?」

 

突然卓球に誘われたかと思ったら説教が始まったのにはびっくりだ。とはいっても、今のところ真田くんは先程のような本気じゃないのかピン球の速度はあまり早くない。

言われたことに関しては、分かっている。

両想いだとわかって、結ばれて。いま、すごく、幸せなんだ。

けれど俺はきっと、美鶴さんを泣かせることになってしまう。置いていってしまうことに変わりはなくて。

大事なことは何も解決してなくて。

 

カコン

 

「……っ、」

 

息が乱れる。

ここで初めて、真田くんから打ち出された球をとりそこね、拾って打ち返す。

ダメだダメだ。暗い思考に浸ったら気落ちしてしまう。自分は引っ張られやすいのだから、ちゃんとしていないと。

 

カコン

 

「…だが、よく分からんそこらの男より、俺はお前で良かったと思ってる。それとまだ礼を言ってなかったな。ありがとう」

「な、なんの…?」

 

カコン

 

「天田とシンジの事だ。お前がいなければ今頃…いや、なんでもない」

 

真田くんは照れたように顔を逸らした。とはいってもちゃっかり球を打ち返してきているので礼を言ってくれても負けるつもりは無いらしい。とことん、真田くんらしいっちゃらしいのでそこは嫌いではない。

しかし天田くんと荒垣くんのことに関しては自分は何もしていない。いや、したことと言えば天田くんを嘲ったことくらいだが、あれはノーカン。

 

カコン

 

「はあ、はあ…」

 

しばらく打ち合いを無言で続けていたがそろそろ体力の限界みたいだ。

直前に露天風呂へ行ったのも不味かったのかもしれない。

 

カコン

 

「なんだ。あんな啖呵を切ったくせに覇気がないぞ覇気が。そんな奴に美鶴は渡せんな」

 

カコン

 

「ひぃ、ふう、はあ…すみません調子乗った俺が馬鹿でした…てか、真田くんは小姑かなにかなの…ふぅふぅ…」

 

カコン

 

「そんなわけないだろう。俺と美鶴は血縁関係にない」

「はあ…いや、そう、じゃなくて、もののっ…例えというか…うぇ、げほげほっ…」

 

カコン。

 

ムスッとした顔になった真田くんに訂正しつつ咳き込みながらへろへろとなんとかピン球を打ち返せば、真田くんは心配そうな顔に変わってその球を打ち返さずにぽんと打ち上げて片手でキャッチした。

 

「大丈夫か?」

「ごめ、ほんと、ちょいギブ…はーっ、はーっ…ごほっ…」

 

心臓の音がこれでもかと早鐘を打っている。ほんの少し、遊んだだけなのにこうなってしまうのは予想外だった。

卓球台に手をかけぶら下がるようにしゃがみ込み、息を整えようとした。

 

「……っ…!」

 

ぐにゃり。

視界が歪んで暗くなる。あっという間に卓球台にかけた手が滑り落ち、身体がくずおれる。

呼吸をしているはずなのに、酸素が足りない。まるで水の外に投げ出された魚のように口をはくはくと動かすも、上手く息が吸えない。

 

「三上ッ! くそ、いま誰か先生を呼んで…」

 

近くに駆け寄って来た真田くんの浴衣の裾を掴んで首を横に振る。

 

「だ、いじょぶ…ほっとけば、なお…るから、」

 

上手く言えてるかどうかはわからない。

ただ、今ここで人を呼んでもらう事だけは何としても避けたかった。

 

「バカを言うな! 放っておいて治るものじゃないだろう!? それこそ…死んでしまったらどうするんだ!?」

「…」

 

首を、横に振る。

発作では無い。単に、きっと酸欠なだけだ。

真田くんの浴衣の裾を掴んだまま呼吸を落ち着かせることを意識して、大きく吸う。

ごろりと姿勢を変え、なんとか息を整えた時には身体は冷えてしまったし、裾を掴んでいた手なんかは真っ白になってしまっていた。カタカタと、僅かに震える。

 

「……ほら、ね。言っただろ、だいじょうぶ、だって」

 

へらりと笑えば真田くんはバツの悪そうな顔になった。

 

「そんな死にそうな顔で言われても説得力ないぞ。ただ、悪かった。そこまでだとは思わなくてだな、無理をさせた」

「いや、俺も…ここまでとは思わなくて。調子乗ったし、実際ちょっと楽しかったし…げほっ…だから真田くんのせいじゃ、ないよ」

 

本当に、見通しが甘いと言わざるを得ない。

もう少しいい勝負が出来ると思ったのに蓋を開けてみればこのザマだ。

露天風呂に入っていたことを加味してもこんなちょっと運動しただけでぶっ倒れるなんて体力不足にも程がある。

 

「コーヒー牛乳奢るから、このことは秘密ってことで」

「鼻血まで出しておいてよく言う。流石にそれは隠せないぞ」

 

起き上がるのを手伝ってもらい、身体を起こせばポタリと浴衣に赤い水滴が落ちたので鼻の下を触ればべっとりと血が指についた。気がつかなかった。

それは真田くんも慌てるわけだ。

 

「うわ、クリーニング代とか請求されないかな」

「知らん。そのまま外に行くなよ。頬までべっとりだ」

「ごめん、タオル持ってきてほしい」

 

そう言えば、頷いてタオルを取りに離れていった真田くんの後ろ姿が完全に消えるまで見送り、床を見つめる。

流石にこれはまずい。床にまでベタっとハンコを押したように血がついている。

このままにしておいたらそれはそれで大騒ぎだ。

恐らく露天風呂の熱さで逆上せて、その上こんな運動をしたので興奮して鼻の血管がちょっと切れてしまったんだろう。

 

「う…げぼっ…」

 

喉からなにせりあがってくる感覚がして、そのまま背中を震わせべしゃりと床に吐き出せばそれは嘔吐物は嘔吐物でも食べたものや胃液ではなく血だった。

拭くものが何一つ無いので仕方なしに手で拭う。

 

「はー…はー…ああクソ、」

 

いま追加で床に吐いた血も、興奮して身体が驚いたからなのだと誤魔化そう。

どのみち、タイムリミットが近いだなんて信じたくない。

天国から地獄に落とされた気分だった。

けれど今だけは、見なかったことにしていたい。

見なかったことにして、楽しいことだけを考えていたかった。

 

 

 

 

じゃばじゃばと朱に染まったタオルを洗う。

あの後、真田くんからタオルを貰った自分はゴシゴシと乱雑に頬と鼻と口元を拭って、床を綺麗に拭いてから近場の洗面台でタオルを洗うことにしたのだ。もちろん、誰にも見られないようにササッと移動してここまで来た。気分はステルスゲームの主人公だ。

 

血が落ちにくくなるからお湯で洗えないために水で洗っているものの、指先の感覚がなくなってきたような気がする。ついでにめちゃくちゃ身体がだるい。疲れた。

 

「…本当に誰にも言わなくて大丈夫なんだろうな?」

 

心配だから、と後ろで見守ってくれている真田くんが不意に口を開いた。

出てきたのは不安げな、それでいて気遣うような言葉だった。

 

「んー…大丈夫だよ。さっきはちょっと久々の激しい運動で身体がビックリしちゃっただけだし、ほんとに大事でもなんでもないから」

「……」

 

それに、顔を向けずに答える。

真田くんからの答えは無かったが、気にせず洗濯を続行した。

薄く赤く染まった水が排水口へと流れていくのを見ながら、このくらいでいいかと注意してみないと赤くなっていたと分からなくなったタオルを固く絞って広げる。

あとはこれを旅館の至る所に設置されている適当な洗濯物入れカゴに入れるだけだ。

 

「待っててくれてありがとう。もう洗えたし、さっき奢るって言ったコーヒー牛乳買いに行こうよ。俺、喉乾いちゃった」

「…ああ」

 

露天風呂前の自販機コーナーまで向かえば色とりどりの変わり種な自販機が出迎えてくれる。カップラーメンの自販機に、お菓子の自販機。あとはホットドリンクが紙カップに入れられて出てくる自販機だったり、目的の乳製品専用の自販機もある。

残念ながらパーキングエリアで置いてあるようなハンバーガーやフライドポテトなどのジャンクなスナックを扱っている自販機はさすがになかった。

 

「はい」

 

ガコン、と自販機から落ちてきたビンを取り出して真田くんに渡す。

鼻血は完全に止まったので洗っていた時に鼻に嵌めていたティッシュは既にゴミ箱へとシュートされている。

浴衣の襟に垂れた血も洗ってあるので誤魔化しは完璧だと言わざるを得ないだろう。

真田くんはそれを無言で受け取ると、きゅぽ、と音を立ててビンのキャップを外してそれを飲んだ。

自分も真田くんに続いてフルーツ牛乳の蓋を開けて飲む。

ごくごくとすさまじい勢いで腰に手を当てて普通の牛乳を一気飲みする真田くんは様になっている。

対して、自分は長椅子に座ってちびちびと舐めるようにして飲んでいる。あまり急いで飲んで噎せても心配されるだけだし、冷えてしまった身体がもっと冷めてもいけないので少しずつ。

半分まで飲んで、寒いのなら横の自販機にあるホットココアにすればよかったかなと考える。が、結局鼻血を出したのだからカフェインの含まれる飲み物はやめておいた方がいいかと結論付けてまたフルーツ牛乳を味わう。

 

「こんなところで寝るなよ」

「流石に寝ないよ!?」

 

あっという間に牛乳を飲み干した真田くんがようやく喋ったかと思えば幼児を注意するような言葉で思わずツッコんでしまった。

自分はあれか、腹が満たされたら眠くなる子供だとでも思われているのか。だとしたら心外だ。なんか、荒垣くんにしろ真田くんにしろ、自分のことを年下の子供か何かだと思ってないだろうか。湊でもあるまいし、自分はそんな食べてすぐに椅子で寝るようなタイプでも…ない、はず。

 

……。

 

だと思ったが思い返せばここ2週間ほどはぼーっとしてラウンジのソファーで寝ることも多かったので真田くんの言葉はあながち間違いでもなかった。ぐぬぬ。

呆れたような顔でこちらを見つめてくる真田くんはこちらの言葉を信じていない様子だった。確かに、思い返せば信憑性は無いに等しいと思う。

 

「飲み終わったら部屋に帰れよ」

「分かってるよ。暖かくしてちゃんと寝る」

「そこまでは言ってない。が、まあいい。風邪をひかないようにな」

 

もう少し体力が残っていたら、この暖簾の向こうにある露天風呂にもう一度入ったのになあ、と名残惜しく見つめて残ったフルーツ牛乳を飲み切って空きビンをゴミ箱へと突っ込んで立ち上がった。

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