4月21日(土) 放課後
朝倉医院
「単刀直入に言うがな。お前の血の成分が制御剤に含まれていた悪魔の血と同じになってたぞ」
「えっ、えぇ…そう、なんですか…?」
「ああ」
いつも通りの声色でそう告げた朝倉先生は検査結果の紙をとんとんと人差し指で突いた。
書いてある数値などはよくわからないし実感もないが、自分の血が悪魔の血と同等の成分になっているという事だけは分かった。
心当たりがないわけではない。制御剤を乱用し、シャドウを喰らい、まともでいられるはずがないのでそんな結果が出てしまうのは妥当だろう。
ただ、それで不便があるか? と言われると無いのだ。なんら、変わったところはいまのところ見当たらない。
健康や丈夫になったわけでも、気性が荒くなったといったこともない。
そんなことより。
「あの、先生。後ろの人は…?」
先ほどから部屋の端でにこにこと微笑みながら立っている金髪の女性が気になって仕方ない。
あんな人はこの病院にいただろうか。
「あ? どこからどう見ても看護師に決まってんだろ。オレが全部ひとりでやってる訳じゃねえからな。オマエが今まで見た事なかったのはタイミングが悪かったからだよ」
「はぁい、ヨロシクネ。それはそれとして、フミヤちゃあん、そういう淡白な紹介は無いんじゃないの?」
「あーもう、オレが悪かったからオマエはあんまししゃべんなって…」
すり、と朝倉先生に近づいた看護師の女性がその肩を撫でればうざったそうに朝倉先生は顔を顰めた。
猫撫で声の様に甘い声とその魅惑的な容姿は看護師というより、コスプレとかホステスとか別の物に見えてしまうのは何故だろうか。
とにかく、朝倉先生の知り合いなのはわかったので良しとする。あまりお近づきになりたくないが。
「で、どこまで話したんだったか。えーっと、そうそう、血の成分についてなんだが、異常とかはねーか?」
「いまのところは…無いと思います」
ペルソナが使えないのも血の影響があるのかもしれないが根本は恐らく別の要因だ。だから、変異した血のせいで何か不便だとか不都合だとか異常があるということは無い。
「そうか…なら戻っていいぞ。タカヤ達が来てっから、今日はあの部屋で寝泊まりすりゃあいい。晩飯の時間になったらまた出前取るから今のうちに決めとけよ。あと、外出するならオレに一声かけてからな」
「はーい。…ありがとうございました」
いつも通りぺこりと頭を下げ、診察室から出た。
今日明日はここに泊まることになっているが特に検査といった用事はなく、単にタカヤの要望らしいので友だちの家に泊まる感覚に近いかもしれない。
「……リャナンシー。どうだ、なにか分かったか?」
優希が部屋から去った後、くるくるとペンを回しながら朝倉は看護師の女──鬼女・リャナンシーに問いかけた。
彼女は悪魔であり、朝倉の使役する“仲魔”のひとりだ。
リャナンシーとはアイルランドに伝わる美しい女の姿をした妖精であり、愛を囁き見初めた男にとり憑いて、絵画や詩の霊的な才能を与える代わりに生気を吸い取るという。
そんな伝承を持つ悪魔のリャナンシーは普段、朝倉の持つ小型コンピューターであるCOMPにデータ化されて格納されており、サマナーの治療で人手が足りない際に呼び出されることが多い。
悪魔と関わりのないタカヤ達や荒垣にリャナンシーや他の悪魔を見せれば下手にそちらとの繋がりができていらないトラブルに巻き込まれかねないため、朝倉は彼らの前で彼女や他の悪魔を呼び出すことは一切していなかった。だからこそ、優希は彼女の存在を今初めて知ったのだ。
シャドウという化け物と対峙しているのだから、これ以上余計なものを背負わせたくないという朝倉の身勝手な配慮でもある。
その気遣いが蛇頭黄幡神との戦いで無駄になっているとは知らずに。
朝倉に問われたリャナンシーは少し言い難そうに視線を逸らし、小さく唸った。
言っていいのか、駄目なのか。決めかねているようだったが、やがて決心するとやっとといった様子で口を開いた。
「──悪魔じゃないかどうかはわからないけれど、あの子、魂がふたつあるわよ」
「はあ!?」
リャナンシーの言葉に朝倉は目を見開いた。ふたつの魂がひとつの身体に入っているなど普通ではない。
どういう事だと朝倉が迫れば、リャナンシーはまた表現しづらそうに口を開いた。
「ごめんなさい。ワタシの表現が悪かったわ。…別々にひとつずつあるんじゃなくて、欠けたふたつの魂を歪に継ぎ接ぎにしてひとつにしたようなものに見えたの。だから、ふたつなんだけれど、ひとつ。繋ぎ方がとても綺麗だからよく見ないと歪なひとつに見えると思うわ。欠けていて、よく分からない魂、といった感じに」
そこら辺の悪魔からしたら凄く魅力的に見えるでしょうね、とリャナンシーは続ける。
ふたつの魂があるだけでも異常だというのに、よりにもよってそれらを繋げ合わせひとつにしているのだと語った彼女に朝倉は頭を抱える。
そのふたつの魂の出処はどこからなのか。なぜふたつの魂を掛け合わせたのか。朝倉はそれをそうした存在の意図が全くもって理解が出来なかった。しかし、気になったことはそこでは無い。
「おいおいおいおい、まさか、その片方が悪魔の魂って言うんじゃねーだろーな!?」
「それも…わからないわ。ワタシたちにわかるのは魂の大まかな形と惹かれるか惹かれないかだけだもの。普通のニンゲンが果実の良い匂いにつられたとしてもその中身が空洞なのか詰まっているのかどうかわからないのと同じ。専門家じゃないとわからないわ。それこそ、死神だったり冥府の川にいる
「……そう、か」
朝倉はリャナンシーの言葉にぐうの音も出なかった。 確かに、ただの悪魔というだけでぽんぽんと魂の形や特質が分かってしまっては彼らも人間に擬態しずらいしすぐバレてしまって使いづらいだろう。となると、人間に憑依するメリットも無くなる。
しかし悪魔でさえ並の者では魂の大まかな形や個数しか分からないのなら誤魔化してしまえと思う悪魔もいるだろう。そして、実行に移せる程の力を持ったものが実際にそれを行うことも。
「ワタシが見てる分では少なくとも彼は悪魔じゃないように見えるわ。悪魔だとしても、あれだけのニンゲンらしさがあって今まで目立つような形で他の悪魔やヒトを襲っていないのなら、相当高位の悪魔かニンゲンのどちらかよ。フミヤちゃんもワタシ達がニンゲンの世界に出てくる為には
「あ、ああ…」
そうだった、と朝倉は思い出した。
悪魔が異界化していない人間界に姿を現そうと思うとそれらが必ず必要になってくる。
人と遜色のない気配に擬態できる技術を持つ悪魔ほど、高位と言っても過言ではないのでその必要量も多くなる。
ネコマタや人に化けるのが得意な悪魔もいるがあれらはあくまでも一時的であり他の悪魔は騙せない。並の悪魔では見破れないほどに擬態できる存在こそ稀有でありながらも高位であると言えるのだ。
モコイやガキ、ピクシー、リャナンシーといったよくいる低級の悪魔ならマグネタイトやマガツヒを人の食事などで代用できる場合もある。もしくは、召喚主から微量のそれらを供給されることによって。だが、悪魔が人の擬態をしていて、人の模倣をしつつ人間界に常に居続けるというのは至難の業に近い。
悪魔の巣に足を踏み入れることがない時の朝倉は生体エナジー協会という施設で金と交換で
「高位の神や悪魔じゃない限りずーっと精巧にヒトの姿を保っていようと思ったら、どこかで必ずヒトか他の悪魔を殺さなきゃいけなくなるわ。だって、ヒトのマガツヒや
だから、もし悪魔だとしても人を無闇矢鱈と襲うような悪魔ではないとリャナンシーは判断したらしい。
それはそれで何故高位の悪魔がただの人の真似事をしているのだという話になってくるのだが。
「いずれにせよ、荒唐無稽ね。でも、あの子は悪い子じゃなさそうだし信じてあげましょ」
つまり、リャナンシーの見立てでは優希の場合はふたつの魂をひとつにされているだけで本人が悪魔だということや悪魔が憑依している可能性は薄いらしい。
朝倉の『優希が悪魔を抑えている』という意見も、尚也の『悪魔なのではないか』という意見もハズレの可能性が出てきたというわけだ。
そうなると、また別の疑問が出てくる。
どうして血液の成分が制御剤に含まれている未知の悪魔のものと同じものになったかということだ。
そもそも、朝倉とそれを調べたヴィクトルという専門家の答えが間違っていたというのか。
「あーーー…わっかんねぇ!」
ギシギシと音を鳴らす事務椅子の背もたれに大きく身体を倒し、朝倉は背を伸ばして降参した。
ひとまず脅威ではないとリャナンシーが判断したのだ。それを信じるしかない、と朝倉は諦めた。
「でも、すごく美味しそうよね。良い匂いがしていたわ。…鼻が曲がりそうな腐ったような匂いも幽かにするけれど、大半は甘く、熟れて爛れた果実の様に甘美…」
「食うなよ」
うっそりと舌なめずりをしたリャナンシーに朝倉は釘を刺す。
理性的な彼女でさえ、ここまで惑わすとはなんなのか。よく今まで悪魔に襲われてこなかったな、と朝倉は感心した。
しかしそれに頷いたリャナンシーが小さく口を開いて放った言葉に朝倉は怪訝な顔をすることになる。
「わかってるわ。それに…なんだか怖いもの」
「あ? 怖い?」
「ええ。魅力的だけれど見えないからこそ怖くて近寄りがたいの。だから、分からないって言ったのよ」
それだけを言うとリャナンシーはこれ以上話したくないのかCOMPに戻っていってしまった。
それは矛盾してないか、と朝倉が指摘する間もなく、だ。一体何が見えないというのか。見えないのが恐ろしいというものを、朝倉にさえ伝えてくれなかったということは何かあるのではないか。
そんな気持ちが浮かぶが、その思考の途中ではた、と朝倉は思い出したことがあった。
がばり、と背もたれから起き上がる。
「そういや…アイツ……神取に目ェつけられてなかったか…!?」
すっかりその事を忘れていた。
あの男は、麻希には「害をなそうなどとは思っていない」と言っていたらしいが信用出来るはずもない。
そして、あの男も尚也の言った例えに当てはまる
ならば神取は悪魔に近しい者、もしくは優希の異常と何らかの関係性があるのではないかと朝倉はみた。
しかし、手がかりがないのであくまで『異常に関係があるかもしれない』というだけだ。
そして神取の性格を考えても穏便に話を聞くなどということは出来ないだろう。十中八九意味深な言葉ではぐらかされるか戦いになるか、だ。
八方塞がりになってしまった思考を一旦とめ、朝倉は小さくため息を吐いたのだった。
夜
ビルの一室に十数人ほどの人が集まっている。
部屋の中は暗く、冬だというのにじっとりとした重苦しい空気が漂っていた。
ロウソクの僅かな灯りの中、集まった人々は何か呪文のようなものを詠唱している。
「いあーる むなーる うが なぐる となろろ よらならーく しらーりー!」
「いむろくなるのいくろむ! のいくろむ らじゃにー! いえ いえ にゅくす!」
彼らはニュクス教の信者であった。
今は、教主から教えられた有難い呪文を唱えている
そうやって、教えられたのだ。
「となるろ よらなるか! 母よ! 月の母よ! 我が生け贄を受取り給え! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな! にゃる・しゅたん! にゃる・がしゃんな!」
そう唱え、彼らは各々で手首をナイフで切り裂いた。そして、その血を大きな黒ずんだ杯の中に溜まった水に垂らした。
彼らは気がつかない。
11月22日(日) 朝
『またもや都内で集団自殺未遂事件が起こりましたねー、これで何回目でしたっけ?』
『10は軽く超えてますよね。全国でも無気力症候群と併せて突発的に増えてますしこの件、ゲストの…さんはどう思いますか?』
テレビを流しながらもぐもぐと目玉焼きを乗せたトーストを咀嚼する。
タカヤに朝倉医院に泊まれと言われたが特にタカヤが何か言って来ることも無く。いつも通りたわいない話をして昨日は終わった。
この前のように暗い雰囲気になることも無く、わざとその話題を避けているような気配を僅かに感じたが、自分からすればありがたいことこの上なかった。
タカヤは少し険しい顔でテレビの画面を見つめ、ジンは食事をしながらノートパソコンのキーを叩いていた。
チドリは自分と同じくもぐもぐと無言でイチゴジャムを塗ったトーストを食べている。
朝倉先生はまだ寝ている。いつものことだ。
いつも通りといえばいつも通りな、それでいて少し珍しい光景とも言える。
特に、いつもテレビを気にしないタカヤがあんなに険しい顔で真剣にテレビを見ているなんて珍しい。
ただ、集団自殺未遂の件は自分も気になっていたことだ。
無気力症候群と違い、シャドウのせいではないと言えそうだが、ここに来て今までなかったこんな事が起こるというのは奇妙で気味が悪い。
人為的なものなのか、それとも、たまたま連続しているだけなのか。
本筋に関係なさそうとはいえ、こんな変なことが起こっていれば何か別の事件が起こっていると考えても不思議ではない。
このことが、みんなの行動に響きませんようにと願うしかない。
いつぞやのニュクス教に感化された通り魔みたいなことになられるのがいちばん困るのだ。
敵は、人知の及ばないモノだけでは無い。同じヒトだってありえる。
そして、今のところ特別課外活動やストレガは影時間にしか安定してペルソナを使えない。
ペルソナしか武器がないということでは無いが、日常で武器もなく、暴れている人間に対処しろというのも難しいだろう。
そんな時に襲われでもしたら。
自衛できないわけじゃない。けれど、突然ペルソナ使いでもなんでもないただの人間に襲われるとなれば何人が躊躇い無く無力化の為に咄嗟に動けるのだろうか。
そこまで考えて最悪だ、と思いながらコーンスープを啜る。
そんなこと、あると仮定する方が邪だ。
そもそもなにがあればただの人間が表面上はただの高校生である特別課外活動部を狙って襲おうというのか。
タカヤ達ストレガも、朝倉先生の庇護下にいるうちは狙って襲われるようなことは無いし、路地裏で「ヤバいやつら」と言われてはいるが依頼の殺人などは影時間にしか行っていないためバレていないはずだ。
つまるところ、この心配はほぼほぼ杞憂なのだ。
警戒すべきは通り魔くらいだが、催涙スプレーなどの防犯グッズを持たせておけば事足りる話だった。
「はあーーー…」
「なんや、いきなり辛気臭いため息はきよってからに。どないしたんや」
「どないもこないも無いです。俺の馬鹿さ加減にため息が出ただけ…」
「ふーん…ま、大したことないならええわ」
ジンの返答はあっさりしていた。
パソコンでなにかしている途中だったということもあるのかもしれないが、こちらの返答がバカバカしすぎたこともあるかもしれない。というか、馬鹿なのは否定してくれないのか…とちょっと凹んだ。
馬鹿だって言ったのは自分からだが、こうもあっさりと流されるとそこそこ辛いものがある。かといって、どう反応して欲しいというビジョンはないので無い物ねだりである。
「ナギサ、昼は用事ある?」
「や、無いけど…どうかした?」
「なら、買い物に行ってきて。そろそろ消しゴムが切れそうなの」
チドリはそう言ってまたトーストを食べに戻る。
どうやら拒否権は無いらしい。伊織と行けばいいじゃんと言おうとしたがそんなことをすれば彼女の得物である手斧が飛んでくること間違いなしなので黙って首を縦に振っておく。
「あ、せや。ほならあのヤブ医者が昨日渡してきた買い物リストもナギサに渡しとくか。ちょこちょこ
「えっ」
突然の追加オーダーに思わず声をあげれば、ジンは気にせずにメモをこちらに渡してきた。
最近、なんだか皆の押しが強い気がするのは気の所為だろうか。
「どうせここにおる間はヒマなんやし、ええやろ? ワシもちょっと手ぇ離せれへんし頼むわ」
「えー…」
頼まれたものは仕方ない。「一応俺病み上がりなんだけど…」という言葉を呑み込む。
抗議の声をあげたところで誰かがいずれは買いに行かないといけないしそういう用事だけ渋るのもどうかとおもう。
それに暇なのは確かだ。気晴らしに外に出るのもいいかもしれない。
そして、ゆっくり街を見て回る。そうしよう、と決めた。
「気をつけてくださいね。倒れたり、知らない大人について行ったり、誘拐されたり、迷子などにならないよう」
「しないしならないからね!?」
「そうでしょうか…」
「そうだって!」
ふむ、と思案げに目を伏せたタカヤは俺の事を小さな子供かなにかだと思っているのだろうか。
というか、つい最近も似たようなことを思わなかっただろうか。
なんなのか。みんなには自分が何に見えているというのか。身長だって174cmもあるし決して小さいという訳では無いはずだ。
髪か!? やはり髪なのだろうか。いやいや、そんなはずは無い。
ざっくり短く切ってみてもいいが、中途半端に長いままだと湊と瓜二つになってしまうので勘弁したい。見分ける方法が身長くらいしかないのは困るしその身長もかなり違うという訳でもない。
後ろから見ておさげというわかりやすい違いがあるのがちょうどいいと思っているのだ。
髪さえ括っていればひと目で違いがわかるから。
ということで脳内でこねくり回されていた散髪案は却下になった。
ちょっと外出した時に行こうかなと思っていたが下手に散髪してちょっとだけ整えてもらうつもりが湊そっくりの髪型になったら困る。こういうときは触らない方が身のためなのだ。
「……まあ、いいでしょう」
なにがだよ、と訊かなかった自分を褒めて欲しい。
一体タカヤはこちらの何を見て納得したのか。これがわからない。
夕方
画材屋に寄ってチドリの指定した消しゴムをまとめて買い、朝倉先生からのメモに書かれていたものを全て買って帰ってきた。
お金は朝倉先生から事前に渡されていたジンからそのまま流すように渡されていたので問題なく、そのお釣りを朝倉先生に返せばいいという事だったので先生の自室にノックをして入る。返事が無いのはいつもなので気にしない。
「先生、買ってきた物とおつり…」
声をかけたが朝倉先生は疲れているのかデスクの前の椅子の上でぐっすりと眠っていた。
仕方がないので荷物を置いて、レシートとお釣りをデスクの上に置くことにした。
そこでふと、デスクの上に置いてある古めかしい本に目が行く。色あせ、一見茶色いしわしわの紙束に見えるそれから目が離せなくなった。
どくどくと、心臓が音を立てる。
喉がからからと渇く。
くらくらと目眩がする。
手が勝手に動いて、それを手に取った。
ぱらぱらと解読がほとんどできない書物の中を滑る目で読む。
内容は、理解出来ない。理解できない筈なのに、知っている気がした。
ずきずきと、頭が痛む。足が勝手に後ずさる。
「う、ぇ…」
血の気が引くような感覚と吐き気がする。手に持っていた本をばさりと床に落としてしまうも、拾う余裕がない。
そんなことよりもまだなにか、大事なことを忘れている気がした。
とても、大事なことを。
『このまま時が過ぎることを納得できない…大事なものを失った今を認めたくない…だから、望み通り時は進まなくなって、思い出の場所から出られなくなった…』
『つまり僕たちは…命と引き換えに“救われた”んですよ』
『納得できなくても、腹をくくって──』
『彼が居なくならない選択肢があるなら…避けて通れない』
『もしかして、奇跡を起こしたっていうその人…ただ居なくなったんじゃなくて…死んだの?』
『彼は…もうこの世にいない』
揺れる。
揺れる。
震える。
聞いていた。観ていた。外から。
彼らの会話を。思いを。心を。願いを。未練を。だから、出られなくした。
チャンスを与えた。だが、それではダメだった。願いは正しい形で果たされなかった。結局救われはしなかった。
だから、変えた。
…出られなくした? 一体どこから? 誰を?
わからない。自分は過去に一体誰になにをしたのか。何を変えたのか。
「っ…!」
苦しくなって胸を押さえる。心臓が生きようと必死に動いていることは当たり前であるはずなのに違和感を感じる。
からっぽで、動いていなかったはずのそこがどうして動いているんだろうと疑問を覚えてしまう。息をしないと、死んでしまうのに息をしていないことが正常だと錯覚しそうになる。
唐突にぐるりと世界が回ってぶつんと何かが切れるような音がした。
がしゃん、と何かが倒れたような音で朝倉は目を覚ました。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。
寝ぼけてペン立てでも落としたかと横を見れば、ぐったりとした優希がそこに倒れていた。
ガラス製の天板があるローテーブルが少しズレているのでそこにどこかぶつけて先程の音が鳴ったのだろう。
一体何の用があって部屋に入ってきたのか。突然体調が悪くなり朝倉を呼びに来たのか、何か別の用があったのか、どちらか分からないが顔色が悪いのでこの様子は普通ではない。
「っ! おい、大丈夫か!?」
肩を叩いて呼びかけてみるも、反応がない。それどころかピクリとも動かないのだ。
首筋に手を当てれば触れるはずのものがない。
「…マジかよ…ッ!」
朝倉の顔は一瞬で焦りに支配された。
手伝わせる人を呼びに行けるような余裕はない。
「ああクソ、カラド──」
心臓と呼吸が止まっているだけで完全に死んでいないのならやりようはある、と朝倉はやけくそ気味に己のペルソナの名を呼ぼうとした。
しかし、それはぱちりと目を開いた優希を見た事によって止まる。
「っ、は、ぁ…っ…ひゅはっ…」
ぜえぜえと息を吐きながら身を震わせ、呼吸を再開した優希の視線はぐらぐらと揺れている。そしてその目の灰色に、ちかちかと金が混じっているようにも見えた。
「ぁ………だ、いじょうぶ、です…おれは、まだ、……だい…じょうぶ、だか、ら…」
朝倉を見てはいるものの、まるで自らに言い聞かせるように答えた優希はしかし、うめき声を上げて胸を抑える。
異常だ。
何も検査をしなくてもそれだけははっきりと見て取れる。
「いかな、きゃ……呼んでる…こえが…する…」
「動くんじゃねえ…!」
おぼつかない足取りと虚ろな目のまま立ち上がろうとした優希を朝倉は引き留める。
このままどこへ行くかもわからない優希を朝倉は放っては置けなかった。
「どこへ行くか分かんねえがな、今のオマエを行かせられるわきゃねーだろ!」
「…ねがいを……かなえ、ないと…」
「“モスマン”!」
それでも優希は止まりそうにない。
それを見て“カラドリウス”から“モスマン”にペルソナを切り替えた朝倉は無理やり【ドルミナー】で優希の意識を落とすことに決めた。
何かに呼ばれているというのは悪魔がらみか。抵抗なく意識を落とした優希を苦虫を噛みつぶしたような顔で見つめながら朝倉はピリピリと神経を逆立てた。
深夜
タカヤ、ジン、チドリ、イズミの4人がなにやらガサゴソと外出しようとしている気配を朝倉は感じていた。
そもそも、夕方頃からなにか話し合っていることは知っていた。だからなにかするのではないかと思っていたのだ。
しかし今でなくたっていいだろう、と朝倉は不機嫌になりながら問い詰める。
「おい、どこ行く気だ。アイツの傍に居てやんねーのか」
倒れ、未だ目を覚まさない優希の傍に誰かついてやらないと不安な状態であることも確かだった。
そのことも踏まえて、朝倉にはこんな時くらい自分以外の誰かが優希の傍に居るものだと思った。
とはいえ体調自体は安定してきているのでわざわざ親や弟妹を呼びつけるのは論外だろうし、今日は休みな荒垣を呼ぶなんて以ての外だ。そして朝倉は実際に連絡することを諦めた。近しい間柄のタカヤ達がいるのだから、大丈夫だろうと。
あれだけ執着しているタカヤ達が優希の傍を離れるはずがないと思ったのだ。朝倉とタカヤ達ストレガが出会ったあの日のように。
しかしそんな意図に反して彼らがしたのは外出の準備──それも物々しい雰囲気でとなると朝倉だって問い詰めたくもなるものだ。そんな、戦いに行くような準備をしてどこに行こうというのかと。
「ええ。今後の憂いを断つ為に。我々は少し確かめなければならないことが出てきたのでね。…ナギサのことは頼みましたよ」
タカヤの返答はいつも通り直接的な言葉を避けたものだった。
なにを、どこで、どう確かめるのか。なにをするつもりなのか。
朝倉が知りたいことをなにひとつ彼らは語らない。だからこそ、
「ぜってーに生きてここまで帰ってこいよ。生きてたら、いくらでも治してやれるからな。……完璧に死んじまったら、どうにも出来ねーんだからな」
「…善処しましょう」
いくらでも、というのは言い過ぎかもしれないな、と朝倉は思ったがそれをおくびにも出さずに見送った。