影時間
優希が朝倉医院に行っているのをこれ幸いにと思った湊からの提案で、今日もタルタロスへ向かうために風花が作戦室で“ユノ”を使い周辺の安全を確認していると不意にタルタロス前に複数の気配があることに気がつく。
そしてそれらは見知った気配で、戦闘がたった今終わったのか荒れた気配が徐々に鎮まっていくかのように静かになった。
「これは…ストレガの4人と…この前のニュクス教の…」
「どうした山岸、なにかあったのか?」
様子のおかしい風花へ美鶴がどうしたのかと訊けば風花はその口を開いて感知したことを告げる。
「どうやら、タルタロスの前でストレガの4人が前の…蛇頭黄幡神との戦闘の際に居たあのニュクス教の教主と神父を相手に戦闘をしていたようで…」
そんな風花の言葉に一番に反応したのは順平だった。
食いかかる様に風花に詰め寄ると、焦ったように顔を青くした。
「はあ!? ど、どういうことだよ!? チドリは!? チドリは無事なのかよ!?」
「生きてはいるみたいです。でも一瞬で──『少々気づくのが遅いのではないかね、特別課外活動部の諸君』っ!?」
突如、風花の探知を妨害し、寮の通信機を乗っ取って話しかけてきたのは神取だった。
その声に、全員が身構える。
「おい神取…! だっけ? ああっと、そうだ…チドリに手ぇ出したら許さねーかんな!!!」
順平が珍しく威勢よく噛みつくようにその声に反応すれば、くつくつと喉で笑うような笑い声が響いた。
『善処しよう。だが、先に手を出してきたのは彼らだ。はやく君たちがこなければどうなるかわからんな?』
挑発するような神取の声に全員が眉を寄せた。
「それは、こちらに来いということか?」
明彦が眉を寄せたまま、静かに訊いた。
『来なければこちらから行こうではないか。教主がそうしたように。悪趣味だが
「……!?」
ストレガを殺して直接乗り込む、と言い放った神取の言葉に戦慄が走る。
そして、『教主がそうしたように』という口ぶりから察するにニュクス教の教主がかつて誰も知らない内にこの寮にのっぴきならない理由で来たことがあると断言しているも同然だった。
狭い寮内で戦闘になるのと、タルタロス前の広い空間で戦闘をすることを天秤にかけ、どちらが良いかなどと考えるまでもない。
前回のように巨大な悪魔を召喚されれば、寮やその周りが被害にあってしまう。
それは許されないことであるのだ。
おびき出されているようにも思えるが、どちらにせよ戦闘になるのならストレガのことも考えれば行かないという選択肢はなかった。
「…わかった」
美鶴は観念したように表情をきつくして誘いに乗ることを了承した。
「チドリッ!!!」
息を切らしてタルタロスの前にやってきた特別課外活動部を待っていたのは、地に倒れ伏すストレガとそれに対し興味もなさそうに佇む神取。そして──
「お、にいちゃん…?」
先頭に立つようにして神取の横に立つ教主を見た奏子がそう零した。
わなわなと震える身体で後ずさり、頭を振る。
「奏子…?」
「おい、どうした? どこに三上がいやがるんだ」
「ちょ、奏子ちゃん!? 三上先輩がいるって…私たちにはなにもみえないけど…!? ちょっと風花、なにか分かる?」
「いえ、私には何も…」
奏子以外の人間には、優希がそこにいるようには見えなかった。
ただ、暗い色のローブを着た顔の見えない教主がそこに立っているだけだ。
「なんで!? だって、あそこに、お兄ちゃんが…! 神取って人の横に…!」
間違いなく、狼狽える奏子が震える指で指したのは教主だった。
奏子には教主が優希の姿に見えるらしい。これでは戦えないと判断した湊はそっと奏子を己の後ろ──荒垣の横へと押した。
「アイギス」
「はい」
奏子をよろしく、と言うまでもなくアイギスは湊の言いたいことが分かったようでさっと奏子を守る様に立つ。
「奏子ちゃんは精神を攻撃されている可能性もあります。皆さん、くれぐれも油断しないでください」
注意を促す風花に奏子と駆け寄ってチドリを抱き上げている順平以外の全員が頷く。
精神攻撃で親しいものの幻覚を見せつけてくるとなれば戦いにくいことこの上ない。
「ふむ。きみには“そう”視えるのだね。有里奏子。実に興味深い」
「ど、どういうこと…!?」
神取は笑みを浮かべ奏子を見つめた。
何も見えない真っ黒なその瞳から逃れるように奏子は武器を構える。
「きみは片割れよりも“察する”力が強いのだろうな。だからこそ、影響されやすいともいえる。覚えていなくとも、機敏に感じ取る」
他の者に対するものより幾分柔らかめな声で奏子にそう告げた神取はくい、とサングラスを上げなおす。
「なに、簡単なことだ。有里奏子。きみはほんの少しその“目”を塞ぐと良い」
奏子には神取の言っていることがわからない。何故、突然優し気な声になったのか。アドバイスのようなものをし始めたのか。
混乱する奏子を守る様に美鶴が一歩前へと出た。
「神取鷹久。私はこの名をどこで聞いたのかずっと疑問に覚えていた。だが調べはすぐについた。──お前は1996年の“セベク・スキャンダル”で亡くなったセベク支社の社長の神取鷹久本人で間違いないな?」
「これはこれは、ご名答。桐条の御令嬢は聡明でいらっしゃる。流石はあの南条の血筋といったところか」
パチパチと拍手をしながら神取は嗤う。
だが、美鶴以外の全員が目の前の相手が死人だということに慄き、どういうことだと戸惑う。
「おい美鶴、どういうことだ。目の前の神取が既に死んでいるだと? じゃあ、目の前にいるこいつはなんなんだ!?」
「…それは私にもわからない。だが、彼自身がそう認めたという事は、死んでいるということとやつが神取自身であるということに間違いではないんだろう」
調べはついた。違和感の正体もわかった。しかし美鶴はどうして死人が生き返ったのか、わかるはずがなかったのだ。
「さて、お喋りはここまでにしよう。タイムリミットは刻一刻と迫っている。私にもしなければいけないことがあるのでね」
神取が刀を構える。
それと同時に順平以外の全員が戦闘態勢を取った。
「チドリ! オレだ、順平だ! 大丈夫か!?」
「う…順平…?」
一方順平は傷ついたチドリを抱き上げ、道具袋から拝借していた宝玉を割る。
癒しの光がチドリを包みその傷を癒す。
その横で倒れ伏していたジンが睨みつけるように、しかしへろへろと力なく顔を上げた。
「ぐ……ぅ……ワシらにはんなんもしてくれへんのかいな…ケチくさい、のぉ…」
「あっ、わりぃ…!」
順平は忘れてた訳では無い。無かったが、そう言われると慌てて謝ってしまう。
宝玉だけでは足りそうにないと思った順平は宝玉輪を取り出してそれを砕こうとした。だが、
「──来い。“イザ・ベル”」
突如黙っていた教主が声を発した。
ぞわり、と赤黒い光と共に闇がもちあがる。
そこから枝分かれし、樹木のような形を作っていく。
黒い泥のような影が剥がれ、姿を現したのは何本も枝分かれした紫色の薔薇に人間のパーツが散りばめられた巨大な女の化け物だった。
「キャハハハハハハハハ!!!!!」
それが甲高い声で高笑いする。
一言で表すなら、下品を体現したかのようなその気持ちの悪い見た目のペルソナのようなものに倒れ伏したもの以外の者たちが身構えた。
「また、違うペルソナです、か…!」
タカヤが忌々しそうにそれを睨みつける。
「“また違う”ってどういう事だよ!? アイツも湊や奏子っちみてーなペルソナ使いなのかよ!?」
「……」
タカヤの言葉に驚いた順平が聞き返すも、タカヤは何も答えない。
仲良くは無いため仕方の無いことかもしれないがこんな状況になってもタカヤが何も答えないことも異常だったが、じりじりと発される威圧感に順平はだらりと汗を流した。
「……さっきは…燃える檻のようなペルソナだったわ。私のメーディアの守りでさえ貫いてくる強力な炎を使ってきたの。順平…あの黒いモヤを相手にしちゃダメ…!」
代わりに、チドリが答える。
守りを貫く。それは耐性を無視した攻撃をしてくるという説明に他ならなかった。
怯えたように教主を黒い靄と表現し、目を逸らそうとするチドリに一体何が見えてるのかと聞きたくなる気持ちと恐怖を抑えて順平は立ち上がる。
「でも、アイツらの相手しねーとチドリを守れねーだろ! だから、オレたちに任せとけって!」
自分を奮い立たせながらも目の前の教主と名乗る人物がこれまで戦ってきたシャドウやタカヤ達のような他のペルソナ使いとは違うことを順平はなんとなく察した。
まるで、自分たちとは違うルールを適用しているような相手にどう立ち向かえばいいのか。必勝法などある訳ないが、きっとどこかにあるはずなのだ、と順平はありもしない希望を見出そうとしていた。
一方、湊は教主が自分や奏子と同じ『ワイルド』なのかもしれないと言われたことにより謎の引っかかりのようなものを覚えていた。
メサイアが呼応するように共鳴しているのは、相手がワイルドだからなのだろうか。
(…本当に?)
湊にはあの教主が『ワイルド』だとは到底思えなかった。
それどころかあれは本当にペルソナ使いなのかという疑問すら浮かんでくるのだ。あんな禍々しいものが本当にペルソナなのか。
あんな、シャドウそのもののような気配を放っている存在がペルソナ使いなのか。
「──怖いか?」
「!!?」
少し。ほんの少し目を離した隙に湊の眼前に教主は迫ってきた。ローブのフードの下から覗く口は緩い弧を描いている。
周りの皆を見ればイザ・ベルと交戦しているようだった。
「恐れているのだろう? 否定したいのだろう? 救いがほしいのだろう? その何もかもが無駄だというのに」
「お、まえ…は、っ!」
その口調に何となく湊はカダスで会ったニャルラトホテプを思い出した。
心を見透かし、なおかつ嘲るような口調と笑みに苛立つ。しかし、この言動のおかげで湊の中で教主は完全に敵だという認識がようやっとできた。
こいつは倒さなければいけない。ニュクスとは“違う”。そんな認識が。
「──ハ、」
愚かだと言うかのように苛立つ湊を教主が鼻で笑う。そして強烈な蹴りを放った。
湊はそれを剣で受け止めるが、ビリビリと腕が痺れるほどの衝撃に顔を顰める。なんて馬鹿力なんだ、と内心で悪態を吐きながら。
「どうした? …ああ、あの月にでも思いを馳せていたか? あれこそがお前達を苦しめている原因そのものだというのに」
「黙れ…!」
「黙れ? それしか言えないのか? 随分とおめでたい頭だな?」
(……?)
ふ、と湊は違和感を覚える。目の前の教主の言葉が何か変なのだ。
まるでこちらの心を読んでそれをネガティヴな反対意見として反響しているだけ。そんな印象だ。
「──つまらないことを考えるのはやめたらどうだ」
不意に教主の声のトーンが一段下がる。
不機嫌そうな聞こえるその声は、一瞬だけ湊に全てを聞いた時の優希を想起させた。
「つまらなくない」
「いいや、つまらないさ。何故抗う? なぜ立ち向かおうとする? 何もかもを諦めてしまった方が楽なはずだ」
試されている。揺さぶられている。
滅びを求める宗教の教主であるこの存在にとって、湊が──否、特別課外活動部が立ち向かうのをやめてしまうことは利点しかないのだろう。
「お前こそ、無理やり
「黙れ、黙れ、黙れ! その否定は、
心の内を見透かしているのなら湊がループしていることも知っているだろうと睨み返せば何らかのスイッチを入れてしまったのか、ここに来て初めて怒りの色を滲ませた教主が赤黒い光を纏う。
「──来たれ…! “デヴァ・マーラ”!」
他の者を相手取っていたイザ・ベルが消え、現れたのは黒い体躯の天魔“デヴァ・マーラ”だった。
そのデヴァ・マーラが手に持っていた円盤を天高く放り投げ、弓に矢を番えた。そしてそれを天に向ける。
徐々に天高く放り投げられた円盤に日輪が如く光が集まり、その力の余波で一帯がビリビリと震え、全員の膝をつかせた。
「まずい…!」
そんな声を上げたのは誰だったか。しかし誰も止められる者はおらず限界まで引き絞られた弦がついに放たれた。
【カーマ・シラーストラ】
暴風。力の奔流。圧。熱。
朝倉達に振るわれなかった暴力的にも程があるそれがめちゃくちゃな衝撃となって特別課外活動部とストレガを襲おうとしていた。
ばちりと湊の視界が一瞬弾ける。【カーマ・シラーストラ】の衝撃によるものではない。別の要因だ。周りを見れば自分以外のすべてのものの動きが止まっているようにも思えた。
(あれは…)
そんな異常な光景の中を、青い蝶が飛んでいる。
いつも見る、みなれたその蝶はまるで来ようとしている衝撃を気にしていないようにゆっくりと羽ばたいていた。
その蝶を認識した瞬間にばきん、と鎖が壊れるような澄んだ音が鳴り、止まった時の中で青い光と力の奔流が巻き起こる。
それと同時に湊の中で、己の名を呼べと言わんばかりにあるペルソナが存在を主張した。
いま、そうなっているという事は
なぜか漠然とそう感じた湊は召喚器の引き金を引き、喉奥から声を張り上げる。
「──“メサイア”!!!」
まばゆいばかりの光が一面を覆い尽くし、その光が【カーマ・シラーストラ】の衝撃をデヴァ・マーラごとかき消した。
「なに…? 私たち、無事なの…!?」
「あれは…湊のペルソナ…?」
そのまま光が大きなヒトの形を成してメサイアの
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ!!!
ゲギャギャギャギャギャギャギャギャッ!!!
召喚されかけていたメサイアに呼応するように影から下品な髑髏と獣の笑い声が発される。
形作られようとしていた光が飛び散り、消えてなくなってしまった。
そしてその笑い声は湊達を嘲笑うかのように影の中から盛り上がるようにして姿を現す。
翼と7つの首を持つ赤い獣に跨った赤衣を着る骸骨の女──黙示録に記される大淫婦・マザーハーロット。
「ひっ! あれ…は、京都で見た…やだ…こわい……」
奏子が恐怖に顔を慄かせ、後ずさる。
湊もその存在は知っている。タルタロスに存在する深層モナドで手に入れることが出来るペルソナだ。だが、ここまで大きく異質な気配は知らない。まるで、
『…ぼやけていて名前以外よく、見えない…? “魔人”…マザーハーロット…? え、まさか、あれも悪魔…!?』
風花のその言葉は正解だった。
そこにいる存在はペルソナではない。魔人と呼ばれる悪魔の中でも高位の存在。
マザーハーロットはその中でも例外を除き最高位に位置する。
終わりを報せる圧倒的な力と存在感を放つそれは、原典にはないある力を擁していた。
──“救世主の否定”。
アンチテーゼとも言えるそれを、条件が揃ってしまったが為に力として持ち得ていたのだ。
だからこそ、湊の持つペルソナの中で最も力のあるメサイアの召喚に呼応し、連動するようにそれを否定して現れた。
湊がメサイアを召喚しなければこの魔人は現れることは無かったのだ。とはいえ、メサイアを召喚しなければデヴァ・マーラの攻撃で全滅していたのも事実である。
メサイアがデヴァ・マーラを否定し、マザーハーロットがメサイアを否定する。
これは繰り返される後出しジャンケンのようなものだ。
「カカカ。妾を目覚めさせたのは…妾と契った死に染まりし者であるか。良きかな。さあ、世界を舞台に死の宴を始めようぞえ…」
くすんだ黄金の杯を傾けながら、マザーハーロットは流暢に喋り出す。
それはこれまで見てきたペルソナとは違うものだと言うのをありありと見せつけてくる。
その様子を見て湊はひとつ、思い出したことがあった。
カダスで聞いたアリスと名乗る少女の言葉だ。
『そうよ。ママ。ミナトおにいちゃんもみたらわかるよ。アリスはユーキおにいちゃんがこのままママに食べられちゃうのは嫌なのよ? だから、教えてあげたの。だって、アリスが欲しいのはユーキおにいちゃんだけなんですもの。あんな怖いモノ、要らないわ』
“ママ”というのはこいつか──と湊はその悪魔を睨み付ける。
この強大な魔人が
「これ、は……」
いつの間にか順平に傷を癒してもらっていたらしいタカヤが立ち上がりマザーハーロットと教主を見つめ、顔を顰める。タカヤからしてもあまり良くないものに見えたのだろう。
「カカ。まずは小手調べと行こうかえ」
教主本人と神取はマザーハーロットの後ろに佇み、先程湊たちと戦い会話していたとは思えないほどに静かにしている。
マザーハーロットがいるのなら、動く必要がないとでも言いたげに。
ゆっくりとマザーハーロットがくすんだ黄金の杯を掲げる。
『これは…! 強力な攻撃が来ます!』
風花が警告するももう遅い。
マザーハーロットの虚ろな眼窩がギラリと光った。
【地母の晩餐】
マザーハーロットを起点として地面が凄まじい勢いでひび割れ、光り、そこから衝撃が噴出する。その攻撃は全員を飲み込まんとし、逃げる隙など与えてくれなかった。
「ぐああ!?」
「きゃあっ!?」
波だ。容赦なく衝撃の波が全てを飲み込む。
これが小手調べというのはどういうことなんだ、ふざけるな、と言いたい気持ちを湊は抑えてなんとか倒れないように踏みとどまった。
『そんな…皆さん、大丈夫ですか!? 返事を、返事をしてください!』
ようやっと土煙が晴れた後に湊は風花のその声に横と後ろを見る。
そこでは湊を除く全員が呻き声を発さずに倒れ伏していた。
先程傷を癒していたはずのストレガ達ですら、再びボロボロになって地に伏している。
一撃。たった一撃で壊滅状態にまで持っていかれたことに湊は冷や汗をかく。
──皆殺しにされる。
蛇頭黄幡神との戦いの時には覚えなかった恐怖が湊の背後から忍び寄ってきた。
要は、今の湊たちとは力の差があり過ぎた。例え今の湊たちが『これまで』よりも実力をつけていたとしても、猫が虫をいたぶるようにして殺されるだろう。
「つまらぬ…人の子の力というのはこの程度かえ? これでは宴の余興にもならぬではないか」
マザーハーロットはどぷんと影に姿を溶かして湊の目の前から消える。
そして、
「…不完全とはいえ、覗き見られるというのはげに不愉快なものよ」
「やめろ!」
『え…!? きゃああ!』
マザーハーロットは風花を狙った。
湊の叫びも虚しく、風花の背後に姿を現したマザーハーロットの乗る赤い獣の前足が風花をユノごと薙ぎ払う。
大型シャドウの攻撃からでも無傷を誇るユノの守りを難なく引き裂き風花を傷つけた。
力なく倒れる風花に興味をなくしたのか、マザーハーロットは次は僅かに呻くチドリに目をつけた。
「ほう。あれを耐えたのかえ? そして汝はその命の揺らめきを持ってして妾を観測し、妾が何者か看破しようとしておるな?」
「……!」
チドリもアナライズに近いことをしようとしていたらしい。
それを不愉快に思ったのか、それともまだ息があるのが許せなかったのか、マザーハーロットは何も無い眼窩で睨みつけた。
「であればそのゆらめきを止めるまでよ」
ずるり、と獣がチドリへと向かう。
そして風花と同じくその鋭い爪の一撃の元、トドメを刺そうとした剛腕が振り下ろされることなくピタリと止まった。
「…おい、待てよ」
低い声。
マザーハーロットがそちらを見遣ればそこには順平が剣を支えにしてよろよろと立ち上がっているところだった。
そのことにマザーハーロットは驚愕する。
「汝は既に限界なはず。なにゆえ立ち上がり無謀にも妾に立ち向かおうというのじゃ?」
マザーハーロットからしてみれば順平は控えめに言ってもこの集団の中で強いと思える存在ではなかった。
取るに足らない木っ端。簡単に潰せる羽虫以下の存在。だと言うのになぜ、まだ立ち上がれるというのか。
「…チドリを守れねーなんて…このまま黙ってチドリが殺されるとこ、見てるなんて…出来るはずがねーからに決まってんだろ…!」
「成程。男女の愛ゆえにと言うか。その意気、甘く、耳障りの良いものよ」
問いかけ、順平の答えに納得したマザーハーロットはくすんだ黄金の杯をゆらし中身を飲み干した。
「クカカ、妾に向かってそのような言の葉を吐くのだ。なればこそ、その愛をもってして恐怖に耐えきれるかどうか、妾が試してやろうぞ…」
マザーハーロットの眼窩が光る。
【龍の眼光】
ひと睨みされただけで順平は身が竦むような、背筋から上がって来るような恐怖を覚え身体がこわばる。が、それを抑えて順平は剣を構えてマザーハーロットに飛びかかった。
「う、うおお!」
「その汚らしいモノで妾に触れるでない」
「がっ…!」
一蹴。まさしくその言葉が似合うような腕の振り払いだけで順平はサッカーボールのようにバウンドしながら吹き飛ばされた。
「ぐ、う……いっ…てぇ…! はは、クソ痛え…!」
ボタボタと腹から、口から血を流してよろよろと順平は立ち上がった。
そんな順平を見て、湊は順平の傷を回復させなければと召喚器を握ろうとするが立っているのもやっとで手が震え、召喚器を持つことすら出来ない。
「ぐ、りゃああ!」
痛みに呻きながら、順平は再び声を張り上げて剣を構え直しマザーハーロットへと向かった。
「その程度よな。最初から期待なぞしていなかったが…くだらぬなあ」
「いっ、があぁっ! こ、の…!」
もう一度。スキルを使う必要すらないと言いたげにマザーハーロットは順平を剛腕で跳ね飛ばした。
「ちく、しょう…! まだまだぁ!」
何度それが繰り返されただろうか。何度も何度も順平は跳ね飛ばされ、そしてマザーハーロットに立ち向かっていく。
湊はその痛ましい光景をただ見ていることしか出来なかった。
「順平…もういい…もういいから…っ! これ以上はほんとに順平が死んじゃう…っ!」
悲鳴に近いチドリの声を聞いたマザーハーロットがため息のようなものを吐き出す。
マザーハーロットは感嘆を通り越して呆れさえ覚えていた。そろそろ戯れにも飽きてきたところだ。本気で殺しても良いだろう、と。
「そこなおなごの言う通りよ。これ以上の苦痛を味わう前に諦め、甘美な死を受け入れた方が楽ぞえ?」
しかし順平は諦めていなかった。
微塵も勝てないとわかっているのに、身体はもう限界だろうに全く諦めようとしなかった。
ボタボタと血の道を作りながら順平は歩みを進める。
その光景は狂気としか言いようがない。だが、それでも。
「げほっ……言っただろ、オレはチドリを守れなきゃ、死んでも死にきれねぇんだよッ!」
順平は吼えるようにマザーハーロットへとその決意を叩きつける。剣が僅かにマザーハーロットの前足に傷をつけた。
その瞬間、順平の中でばきん、とガラスの割れるような音が響く。力の本流と青い光。そして熱。それらが順平を守るように包みこむ。
「センパイが言ってたこと、…やっと覚悟出来たからさ…! “リーダーは体を張ってでも仲間を守らなきゃ”って!オレは…ホントのリーダーじゃねぇけど……チドリやみんなを守る為なら命の炎だって燃やしてみせるっての!」
青い蝶が飛ぶ。
浮かび上がった“ヘルメス”の姿が変わる。兜を被った人の頭をしていたそこが、黄金の鳥の頭のようなものにかわり、くすんだ茶色だった身体はメーディアと同じハッキリとした燃えるような赤で彩られる。
背中から黄金の翼が生え、全体的なシルエットこそ大幅な変化はないものの、明らかに変わったその姿はペルソナが進化した事を知らしめていた。
「だから──いくぜ!“トリスメギストス”!」
新生したヘルメス──否、トリスメギストスが焔を束ねる。
偉大なるヘルメスの名を持つそのペルソナが放つはギリシャ語にして「3度の聖なるもの」の意を持つ最上級の火炎魔法。
マザーハーロットにとって、忌むべきもののひとつ。
「ぶちかませぇ! 【トリスアギオン】!!!」
【プロミネンス】の太陽が如き炎とはまた違う、光に近い輝く炎の柱がマザーハーロットを飲み込む。
そのあまりの眩しさに湊もチドリも目を閉じ、その光から逃れようとした。
だがその光の如き炎の柱はすぐに収まり少し熱いくらいの熱風をぶわりと撒き散らすだけに留める。
「どうよ! オレの新しいペル、ソ…ナ……」
ぐらり、とガッツポーズをした順平が傾く。
ついに本当の限界が来てしまったのだ。精神は新しいペルソナを召喚したことで疲弊し、身体はそもそもズタボロ。耐えきれるはずがなかった。
「順平…っ!」
そんな倒れた順平にチドリが這いずるようにして近づき、守るように覆い被さる。
「──ク、ハハ、ハハハ。げに愉快なものであった。ジュンペイ、と言ったか。妾は汝のその愛ゆえの蛮勇を讃えようぞ!」
笑い声がした。
倒せたとは露にも思っていなかったが、マザーハーロットが先程と全く同じ場所に変わらず佇んでいる。否、少しだけ焦げるような臭いがすることから、マザーハーロットに少なからずダメージを与えられていたようだった。
「褒美に愛する者との安らかなる死を──」
獣が嗤う。
ガチガチと歯を鳴らす。
【邪神の蛮声】
おぞましい声が響き、生命力が吸い取られるような感覚を覚える。
身体に力がはいらなくなり──
「が、はっ……!?」
ごぽり、と湊は口から血を吐いた。
灼熱が通ったかのような痛みにその発生源である腹を見やれば己の血に塗れた白い刃が突き出ていた。
ゆっくりと、スローモーションのような動きですぐ後ろを確認する。
そこには、神取が持っていた日本刀を握った教主が静かに佇んでいた。
注意がマザーハーロットだけに向く時を待っていたのだろう。だからこそ、何も動かずに静観していたに違いない。
(こんな…ところで、おわ、れ…な…い…!)
視界が暗くなり、傾く。
ここで自分たちが死んでしまえばまたやり直し。
これ以上繰り返せば
何とか踏ん張ろうとしたが既に身体に力は入らず。
抵抗虚しくごぽりともう一度血の塊を吐き出し、そこで湊の意識は途切れた。